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アンチ日蓮正宗(日蓮正宗系)コミュの日蓮正宗大石寺の「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊は日蓮正宗大石寺九世法主・日有の偽作だ(旧版)

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日蓮正宗にとってはもちろんのこと、その日蓮正宗から破門された創価学会、顕正会、正信会などの日蓮正宗の分派団体にとっても、その信仰活動の根本は何かといえば、それは日蓮正宗総本山大石寺の奉安堂に安置・格蔵されている「本門戒壇の大御本尊」なる名前の板本尊である。
その「本門戒壇の大御本尊」なくしては、日蓮正宗はありえないし、創価学会も、顕正会も、正信会もありえない。
日蓮正宗は、この「本門戒壇の大御本尊」は、宗祖日蓮自身によって作られたものだと教え、その本尊の上に無数の仏教教義を組み立てている。それは創価学会、顕正会、正信会も同じだ。
そしてこの「本門戒壇の大御本尊」を中心にして、創価学会は第二次世界大戦以後、延べにして数千万人もの信者を獲得し、今は日蓮正宗、創価学会、顕正会、正信会が角をつき合わせて、信者の争奪戦を繰り広げている。
日蓮正宗問題、創価学会問題の謎の解明と解決のためには、それらの問題の根底にある、この「本門戒壇の大御本尊」の謎と、その陰に潜む、日蓮正宗と創価学会の陰謀を徹底的に解明していく必要がある。

この「本門戒壇の大御本尊」は日蓮正宗や創価学会が言うような日蓮自身が作ったものではない。それは日蓮が生きていた時代よりもかなり下った、室町時代中期から戦国時代にかけての日蓮正宗大石寺九世法主である日有(にちう)が偽作したものである。
まさに「本門戒壇の大御本尊」が突如として世に現れてくるのは、その日蓮正宗大石寺九世法主である日有の時代である。
大石寺のごく近隣にある、同じ富士門流の本山寺院・北山本門寺の六代貫首(住職)である日浄が「未聞未見の本尊なり」と言ったのが、その最初である。
つまり、日浄は大石寺に「本門戒壇の大御本尊」があるということを知って、「そんな本尊は、見たことも聞いたこともない本尊だ」と言ったのだ。
北山本門寺とは、日蓮正宗大石寺から二キロ足らずの距離のところにある、日蓮正宗大石寺の開祖・日興が大石寺を退出したのちに住み、死去した寺院である。
室町時代中期に突如として出現した、日蓮真筆を詐称する「本門戒壇の大御本尊」なる黒漆塗りに金ピカの板本尊をすぐそばで見せつけられた日浄は、黙っておれなかったのであろう。

それにしてもこの「本門戒壇の大御本尊」を盾に取ってきた日蓮正宗大石寺は、数百年来、多くの大罪を積み重ねてきた。
戦後、創価学会という魔物とくっつくことによって日本最大の宗教団体になったという事実…
そして今、その宗教を信じたがために、家庭内騒動や近隣騒動などにとどまらず、さらには地域騒動、事件、犯罪、社会的不祥事の当事者になり、あるいはそれらに巻き込まれるなどの事件を起こしているという事実…
そして日蓮正宗と創価学会の戦争、日蓮正宗と顕正会の戦争、日蓮正宗と正信会の戦争、創価学会と顕正会の戦争、創価学会と正信会の戦争…、こういったはざまで、たくさんの人たちが苦しみ、悲痛な叫び声をあげている。
しかし騙すほうはいつまでも永遠に人々を騙していくつもりでいるのかもしれないが、ウソはどこまでいっても所詮、ウソにすぎない。騙されるほうは、いつかその欺瞞に気づき、目が覚める日がくるだろう。
騙すほうは、その都度、手を変え、品を変え、人をだましていこうとする。こういう図式は変わることがないだろう。
しかし、この悪循環、欺瞞の連鎖をどこかで断ち切っていかねばならないのではないか。インチキな宗教に騙される人をこれ以上、出さないために、インチキな宗教に騙された苦い思いをした人たちの経験を、未来に向かって無駄にしないためにも、日蓮正宗と創価学会の欺瞞の構図を徹底的に暴いていく必要があるだろう。
そしてそのための第一歩として、日蓮正宗の歴代法主の悪辣な黒い陰謀、なかんずく日蓮正宗九世法主・日有が行った「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の偽作という悪質な欺瞞と宗教詐欺の陰謀を徹底的に暴いていく必要があるのである。


出典&参考文献/
美濃周人「虚構の大教団」「謎の日蓮正宗・謎の創価学会」「日蓮正宗・創価学会50の謎」「日蓮正宗・創価学会・謎の大暗黒史」「家庭内宗教戦争〜お前は誰の女房だ」犀角独歩「大石寺彫刻本尊の鑑別」立正安国会・山中喜八「御本尊集」「御本尊集目録」熊田葦城「日蓮上人」安永弁哲「板本尊偽作論」木下日順「板本尊偽作の研究」窪田哲城「日蓮聖人の本懐」柳沢宏道「石山本尊の研究」高田聖泉「興尊雪冤録」日蓮宗宗務院「日蓮正宗創価学会批判」「日蓮宗宗学全書」鴨宮成介「板本尊の真偽について」日宗全「大石寺誑惑顕本書」堀日亨「富士宗学全集」「富士宗学要集」「富士日興上人詳伝」「熱原法難史」細井日達「日達上人全集」「悪書板本尊偽作論を粉砕す」日蓮正宗宗務院「創価学会の偽造本尊義を破す」日蓮正宗法華講連合会「大白法」山口範道「日蓮正宗史の基礎的研究」継命新聞社「日興上人」興風談所「日興上人御本尊集」浅井昭衛「学会宗門抗争の根本原因」「なぜ学会員は功徳を失ったのか」正信会「富士の清流を問う」乙骨正生「FORUM21」「日蓮正宗公式HP」「創価学会公式HP」「顕正会公式HP」「正信会公式HP」中公文庫「日本の歴史」扶桑社「新しい歴史教科書」水島公正「『世界宗教への脱皮』の妄見を破す」新人物往来社「日本史/疑惑の宗教事件ー権力と宗教の危険な関係」河合敦「早分かり日本史」ひろさちや「日蓮がわかる本」日蓮正宗宗務院「大日蓮」不破優「地涌からの通信」たまいらぼ「創価学会の悲劇」「大石寺の正体」日蓮正宗大石寺「大石寺案内」「平成新編日蓮大聖人御書」日蓮正宗入門」「日蓮正宗聖典」暁鐘編集室「魔説板本尊偽作論を摧く」日蓮宗新聞社「日蓮宗新聞」中外日報社「中外日報」聖教新聞社「聖教新聞」「大白蓮華」「聖教グラフ」日蓮正宗富士学林「日蓮正宗富士年表」三省堂「新明解古語辞典」河合一「暗黒の富士宗門史」東京学芸大学日本史研究室「日本史年表」学習研究社「日蓮の本」
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「アンチ日蓮正宗vs日蓮正宗」
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「日蓮正宗大石寺の『本門戒壇の大御本尊』なる名前の板本尊の真偽について」
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コメント(52)

検証13・甲州・湯之奥金山の金で「本門戒壇の大御本尊」を偽作した日有3


日有は楠の木はどうやって入手していたのか


『 日蓮正宗大石寺の「本門戒壇の大御本尊」は日蓮真筆ではない。後世の偽作だ』
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=5482743&comm_id=406970

ここにおいて、日蓮が「本門戒壇の大御本尊」を造れない根拠・証拠として
「昔も今も身延山周辺はおろか、富士、富士宮、富士山周辺の山間部・平野部にいたるまで、自生の楠木は存在していないのである」
「日蓮には、当時最も高価だった漆や金(きん)を、自力で入手できるほどの経済力がなかった」
ということを論じたが、それでは日有は、漆や楠の木は入手できたのであろうか??

結論から言うと、日有は漆や楠の木を入手していた。
もっと言うと、湯之奥金山の金を金山衆から供養し、貢がれていた日有は、強力な経済力だけは有しており、この経済力によって、漆や楠の木を入手していたと結論づけられるのである。

まず楠の木であるが、私たちが調査したところ、楠の木そのものは西日本に広く見られるが、日本本土では本来生していたものかどうかは疑問があり、中国南部などからの史前帰化植物ではないかとも言われる。自然植生の森林では見かけることが少なく、人里近くに多く、神社林ではよく楠の木の大木がある。これらは人工的に植樹された楠の木だという。
日蓮正宗大石寺周辺の身延・富士周辺の神社・仏閣などにおいて楠木が見受けられ、これらは、室町時代以降において人工的に植樹されたものであることがわかった。その謂われについて、森林組合や木材加工の専門家は、鎌倉幕府滅亡の後、建武の中興の時代、後醍醐天皇を奉じて活躍した武将・楠木正成公の徳を慕って関西地方から楠木が植林されたものが最初だと、述べている。

楠の木とは、材や根を水蒸気蒸留し樟脳を得るが、そのため古くからクスノキ葉や煙は防虫剤、鎮痛剤として用いられ、作業の際にクスノキを携帯していたという記録もある。また、その防虫効能から家具や仏像などにも広く使われていた。

日蓮正宗大石寺の「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊は、楠の木で造られているが、防腐効能のある黒漆が表面に塗ってあることを考え合わせれば、日有は末代万年までの長期保存のために、防虫効能のある楠の木を「本門戒壇の大御本尊」偽造にあたっての木材にあえて選んだと考えられる。

また1432(永享4)年3月、日有は、京都の室町幕府へ国家諌暁の申し状を上呈するために、京都へ上京しているが、当時、室町時代の京都では商工業が発達し、中世の同業者組合である「座」が京都にも多数あり、薬、唐物、綿、酒、味噌、素麺、襖、材木、炭、銅、馬などの商品を扱うだけではなく、銅細工、銀細工、刀鍛冶などの手工業の座も存在した。
湯之奥金山の金による、大きな経済力を持っていた日有は、京都の「材木座」などから楠の木を買い入れるなどということは、さほどむずかしいことではなかったであろう。

ちなみに、日有がはじめて1420(応永27)年に造立した板本尊は、日蓮正宗大石寺59世法主・堀日亨の記述によれば、楠の木ではなく「檜板本尊」であると記している。(『富士宗学要集』8巻194ページより)
つまり日有は、日蓮正宗大石寺法主に登座した初期に造った板本尊には、まだ楠の木を使っておらず「檜」(ひのき)を使用していた。ヒノキ(檜、桧)とは、ヒノキ科ヒノキ属の針葉樹で、日本と台湾にのみ分布する。日本では本州中部(福島県)以南から九州まで分布している木材だ。
日有はまだこの時点では、楠の木の存在を知らなかった。それが日有自身が京都に行ってから後に、楠の木を使用した板本尊を造っているのである。
楠の木は、西日本には分布していたが、少なくとも身延・富士・富士宮周辺には自然生育・自生の楠の木は存在していない。

これらのことからしても、日有は、室町幕府に国家諫暁するために京都に行ったことで、京都の「材木座」衆などから楠の木の存在を知り、そこから自らの湯之奥金山の金を背景にした経済力で、楠の木を買いつけたと考えられるのである。



検証14・甲州・湯之奥金山の金で「本門戒壇の大御本尊」を偽作した日有4


日有は黒漆はどうやって入手していたのか


では黒漆はどうだろうか。

「漆を科学する会」によると、日本では岩手県や茨城県,新潟県,栃木県などが主な産地で、このうち,岩手県が全生産量の約70%を占めているという。
平成8年度の林野庁の統計によると岩手県(1850.0kg),茨城県(830.0kg),新潟県(281.0kg),栃木県(86.0kg)などで計3189.6kgとなっている。
福島県喜多方市の「喜多方うるし美術博物館」によると、 福島県喜多方市の漆の生産の歴史は、約500年の昔(1400年代)にまで遡るという。 室町戦国期に大名芦名氏が、漆樹植栽を奨励。さらに1590(天正18)年、蒲生氏郷が近江国(滋賀県)から、漆の生産のために木地師と塗師を招いたという。
永原慶二氏の著書「日本の歴史10・下克上の時代」によると、1408〜1428年ころ成立したとされる「庭訓往来」という書物から1400年代のころの地方の特産品として「奥漆」が記載されており、東北地方の漆をあげている。

こうして見ると、漆の生産が多い地域と、日有の時代以前から、東北・北関東に日蓮正宗寺院が散在している地域が、わりと重なり合うのである。
日有の時代以前からある東北・北関東に散在している日蓮正宗寺院とは、奥州宮野(宮城県栗原市)の妙円寺、下総(茨城県古河市)の冨久成寺、会津黒川(福島県会津若松市)の実成寺、下野平井(栃木県栃木市)の信行寺、下野金井(栃木県下野市)の蓮行寺、などである。
実際に、日有は日蓮正宗大石寺法主の在職中に、奥州方面に巡教に出かけていることが日蓮正宗大石寺の文献に載っている。
これらのことから、日有は、湯之奥金山の金の経済力を背景にして、これらの地方の日蓮正宗寺院や信者を足掛かりにして、漆を入手していたと考えられるのである。

永原慶二氏の著書「日本の歴史10・下克上の時代」によると、室町時代になると、農業生産の向上によって商業や手工業の世界にも、これまでにない活気を呼び起こし、「有徳人」と呼ばれた富裕な金持ち層が出現。
そして貨幣流通による経済発展によって1400年代の京都の町は、驚くほど変貌したという。このころの京都は、古代都市の殻を完全に抜け出して、新しい装いの中世都市に変貌。
中世の同業者組合である、いわゆる「座」も京都にも多数あり、薬、唐物、綿、酒、味噌、素麺、襖、材木、炭、銅、馬などの商品を扱うだけではなく、銅細工、銀細工、刀鍛冶などの手工業の座も存在した。
中世都市・京都のメインは、なんといっても商人・手工業者などの市民であり、有徳人と呼ばれた人たちだった。彼らはやがて町衆とよばれ、自治的な市政の担い手にもなっていった。
京都が中世都市として急速に発展した理由のひとつは、南北朝・室町時代になって幕府が京都に開かれ、将軍の奉公衆が全国各地から上京し、また多数の守護大名たちが軍隊を引き連れて京都に駐留するようになったことがある。
それによってにわかに多くの消費人口を作り出し、それにともなって京都に流れ込む物資も必然的に急増し、京都の手工業生産・商業活動が強く刺激された。

この中で、材木を扱う座や、刀鍛冶などの手工業の座があったことに着目したい。
1432(永享4)年3月、日有は、京都の室町幕府へ国家諌暁の申し状を上呈するために、京都へ上京しており、その他、日有の時代には、今の富士門流・日蓮本宗本山・要法寺の前身である上行院などの日尊門流の僧侶が、日蓮正宗大石寺に上ったりしている。まだこの時代は、日蓮正宗大石寺と日尊門流の寺院が交流があったようなのである。
したがって、日有は、こういった京都の街中の様子も、とうぜん知っていたはずである。
すでに湯之奥金山の金を入手して、大きな経済力を握っていた日有は、その経済力を背景にして、材木座から楠の木を購入し、刀鍛冶などの手工業の座から漆加工・金箔加工の職人を招いて、「本門戒壇の大御本尊」を偽作したとも考えられる。




検証15・甲州・湯之奥金山の金で「本門戒壇の大御本尊」を偽作した日有5


「本門戒壇の大御本尊」を安置する「御宝蔵」を建立した日有


『 日蓮正宗大石寺の「本門戒壇の大御本尊」は日蓮真筆ではない。後世の偽作だ』
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=5482743&comm_id=406970

ここにおいて、日蓮が「本門戒壇の大御本尊」を造れない根拠・証拠として
「丈が人間の身長とほぼ同じくらいで総重量が200キロ前後もあると推定される巨大な板本尊である『本門戒壇の大御本尊』を身延の草庵に安置できたのか?」
ということを論じたが、それでは日有は、それだけの巨大で豪華絢爛な「本門戒壇の大御本尊」をどうやって、大石寺に安置したのだろうか。

結論から言うと、日有はこの「本門戒壇の大御本尊」を安置するために、「大石寺の重宝を保存するため」などと偽って、「御宝蔵」(ごほうぞう)なる建物を建設し、さらにそれに付随する形で、「本門戒壇の大御本尊」を建物の外側から「遥拝」(ようはい)する建物として「客殿」(きゃくでん)を、新たに建設したのである。
「宝蔵」(ほうぞう)とは、辞書によれば「貴重な物品として大切に納めておくこと。 宝物を納めておく蔵。宝庫。」と書いてある。要するに、貴重な宝物を大切に長い間保存していく建物のことだ。
「遥拝」とは、「本門戒壇の大御本尊」が安置されている建物の中に入って、扉を開けて本尊を拝する「内拝」(ないはい)ではなく、建物の外側から、あるいは遠くから「本門戒壇の大御本尊」を脳裏に浮かべて拝するということで、法主が毎日行っている深夜の丑寅勤行では、通称、朝の「五座」の勤行が終了した後、客殿の向かって左側にしつらえてある「遥拝所」と呼ばれる座に登って、読経・唱題する。通常はそれを「遥拝」と呼んでいる。
「本門戒壇の大御本尊」の内拝は、法主が許可する特別な場合だけだから、通常は「客殿」で遥拝するだけ、などという、もったいぶった日蓮正宗の独特の教義だ。

日蓮正宗の正式文献である「大石寺案内」「日蓮正宗富士年表」などの書籍を見ても、明らかに「御宝蔵」も「客殿」も九世法主・日有が創建した建物であると書いてある。
そして1955(昭和30)11月25日に、大石寺に「奉安殿」(ほうあんでん)という建物が落慶する前は、日有の時代から約五百年間、「本門戒壇の大御本尊」がこの「御宝蔵」に安置されていたと書いてある。

「日蓮正宗富士年表」を見ると1465(寛正6)年2月に「日有 大石寺御宝蔵を小校倉造りに改む」と書いてある。校倉造りに「改めた」わけだから、それ以前から、「御宝蔵」は大石寺に存在していたということだ。
しかし「御宝蔵」は日有が創建した堂宇・伽藍なので、日有以前は「御宝蔵」は大石寺に存在していなかった。この「御宝蔵」なる大石寺の堂宇・伽藍は、日有が偽作した「本門戒壇の大御本尊」を安置するために建造したと見るのが妥当だろう。

逆に言えば、この日有が「御宝蔵」「客殿」を大石寺に創建する以前は、日蓮正宗の正式文献でも、「本門戒壇の大御本尊」をどこに安置していたのか、ということについて特定できていないのである。
日蓮正宗がもっとも重要だと言っている「本門戒壇の大御本尊」が、大石寺に「御宝蔵」が創建される前は、日蓮正宗として、どこにあったかわからないという。まことに人をバカにした話しである。

結論から言うと、日有が偽作する前には、「本門戒壇の大御本尊」という板本尊が存在していなかったからに他ならない。そもそも、そんな本尊が存在していなかったのだから、安置する建物も存在していなかったということだ。
どこにあったか、わからないというのではなく、そもそもそのような「」本門戒壇の大御本尊」なる本尊は、なかったということだ。
つまり日有が「本門戒壇の大御本尊」を偽作したからこそ、日有が大石寺に「御宝蔵」や「客殿」を創建したということに他ならない。「御宝蔵」「客殿」といった堂宇・伽藍が日有によって創建されたこと自体が、「本門戒壇の大御本尊」を日有が偽作した、何よりの証拠と言えるだろう。





検証16・甲州・湯之奥金山の金で「本門戒壇の大御本尊」を偽作した日有6


日有以前には「本門戒壇の大御本尊」の影も形も何の形跡もない


「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊が、日有が大石寺に「御宝蔵」なる建物を創建する以前は、大石寺のどこに安置されていたのか、日蓮正宗の正式文献のどこにも説明がない。
日蓮正宗59世法主堀日亨は、著書「富士日興上人詳伝・下」12ページにおいて、日興が身延を離山した直後のようすについて、次のように記している。

「…日目・日華等の徒および時光・信綱の信士一挙して大御坊の経営成る。正応三年の十月なり。高弟にしてかつ常侍せる日目は、その正東面に蓮蔵坊を、日禅は大坊の南隣りに少輔坊(南之坊)を、日秀・日仙・日華次第に理境坊・上蓮坊(北の坊後に百貫坊)寂日坊を建てて大坊を護り、戒壇本尊その他霊宝厳守・大法弘宣の根本道場として離延山・祖法護持の地盤ここに速やかに成る」
-----日興の弟子である日目、日華などの僧侶や南条時光、新田信綱らの有力信者が一致して大石が原に寺院を建設し、ついに日興の大坊が完成した。正応三年十月のことだ。
日興の高弟で常に日興の傍で給仕して侍っていた日目は、日興の大坊の正面東側に蓮蔵坊を建てた。日禅は大坊の南隣りに少輔坊を建てて、日秀は理境坊を、日仙は上蓮坊を、日華は寂日坊を建てて大坊日興の大坊を護り、「本門戒壇の大御本尊」をはじめとするその他の霊宝を厳守し、日蓮の仏法を広め、身延離山・仏法護持の根本道場としての地盤が、ここにようやく完成をみたのだ------

日蓮正宗59世法主堀日亨は、「本門戒壇の大御本尊」については、他の歴代法主と同様、日蓮造立説であるが、しかし日興一門の大石寺開創によって「本門戒壇の大御本尊」をどこに安置したのかについては、何も述べていない。日蓮正宗の歴史文書について、あれだけの研究・研鑽を重ね、数々の書籍を残した堀日亨ですら、日有以前には「本門戒壇の大御本尊」がどこに安置されていたのかなど、具体的な事柄については、何も言っていないのである。

それだけではない。日興・日目の死去の後、四世法主日道と日目の弟子の日郷一門との間に、蓮蔵坊の所有権についての紛争が約七十年にわたって続いているが、当時の大石寺・保田妙本寺などの文献には、「本門戒壇の大御本尊」のことなど一言も出てこない。というか、「本門戒壇の大御本尊」の影も形も見受けられないのである。何ひとつ、形跡すら全くない。
あれだけの大きな紛争というか、大石寺と保田妙本寺の間で戦争が起こっていながら、それだけ大事な「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊が存在していたとすれば、何かしら文献に残っているはずである。誰かしらが、何らかの形で、文献に書きとどめるはずである。
それがこんなにも、影も形もない、何の形跡もないということは、「本門戒壇の大御本尊」が日有以前には、大石寺に存在していなかったということにほかならないではないか。






検証17・甲州・湯之奥金山の金で「本門戒壇の大御本尊」を偽作した日有7


日蓮正宗66世法主細井日達の説法は全くの詭弁


これでは日蓮正宗大石寺にとっては、都合が悪いと思ったのか、かつて日蓮正宗66世法主・細井日達は、次のような説法をしていた。

「身延の日興上人御在住の時の十間四面の堂には、『日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊』即ち戒壇の大御本尊を安置してあったことは明らかであります。その大御本尊を日興上人が大石寺の本堂に安置され、大聖人生身の御影は御影堂に安置せられましたが、その後、本山の陵夷により本堂御影堂が一堂となり、戒壇の大御本尊は御影とともに安置されてあったようであります。しかしその後、御宝蔵が大きく造立せられてから、大御本尊は御宝蔵にお移し申し、御影堂には日精上人の板本尊が安置せられたと思われます」(昭和47年1月号『大白蓮華』に寄せた指南)

細井日達は、あたかも日興が身延山久遠寺から離山して大石寺を開創したと同時に、大石寺に本堂と御影堂を建てて、本堂に「本門戒壇の大御本尊」を安置し、日蓮の像(御影)を御影堂に安置したかのように言っているが、だいたいからしてそんな事実は全くない。
そんなことを書いてある文献は、堀日亨の書籍・文献はおろか、日蓮正宗大石寺の歴代法主の書物にも全くないもので、これは全く細井日達の空想の文にすぎない。
日興が開創して日有以前の大石寺には、日興が開創した大坊(六壺)と、弟子たちが創建したいくつかの宿坊しかなかった。
日興が開創したのは本堂ではなく大坊(六壺)であり、日蓮正宗の正式文献の「大石寺案内」にも、
「六壺は、二祖日興上人の開創で、総本山発祥の霊域である。はじめ六室に分かれていたのでこの名があると伝えられ、その一壷を持仏堂とした」と記載されている。
しかもその持仏堂に安置されていたのは、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊などではなく、1303(嘉元1)年8月13日に「富士大石寺持仏堂安置本尊也」と脇書きに記した、自ら書写した大漫荼羅本尊である。
また「日蓮正宗富士年表」によると、栃木県の日蓮正宗寺院・信行寺には、1306(徳治1)年4月8日に日興が「白蓮持仏堂安置本尊也」と脇書きに記した、自ら書写した大漫荼羅本尊が格蔵されているという。
以上のことからして、日興は自ら開創した大坊(六壺)には、自らが書写した大漫荼羅本尊を安置していたと考えられるのである。

また日蓮正宗大石寺に御影堂を最初に創建したのは日蓮正宗大石寺12世法主・日鎮であり、現在の御影堂に再建したのは、17世法主・日精であって、日興の時代どころか、九世法主・日有よりもずっと後のことだ。しかも現在の大石寺御影堂に安置されている日蓮の木像(御影)は、1388(元中5)年に大石寺六世法主・日時が、越前法橋快恵という名の仏師に彫刻させたものだ。

したがって、先の細井日達の説法は、何の根拠も証拠もない、ひどいデタラメであり、信者をだます詭弁に他ならない。こんなひどいデタラメを、日蓮正宗の最高位の僧侶であり、最高指導者職である法主が平気で説法しているんだから、本当に驚きだ。
こんなことを言って信者をだましている宗教が、政府から認証された宗教法人としての資格があるのか、まことに疑わしいと言わざるを得ない。







検証18・甲州・湯之奥金山の金で「本門戒壇の大御本尊」を偽作した日有8


日有の時代には日蓮正宗大石寺法華衆信者の「講」が存在していた


『 日蓮正宗大石寺の「本門戒壇の大御本尊」は日蓮真筆ではない。後世の偽作だ』
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=5482743&comm_id=406970

ここにおいて、日蓮正宗59世法主堀日亨が編纂した「富士宗学要集」第8巻の「漫荼羅脇書等」の欄には、日蓮正宗大石寺の「本門戒壇の大御本尊」の脇書に
「右現当二世の為に造立件の如し、本門戒壇の願主弥四郎国重、法華講衆等敬白、 弘安二年十月十二日」
と記されていると書いてあるが、日蓮が生きていた時代には、「法華講」もなければ「法華講衆」もなかった。「法華講」というものは、名前も実体も全く存在せず、この脇書きがあること自体、日蓮の真筆ではなく、後世の偽作である証拠のひとつであると論じた。
それでは、日有の時代には、日蓮正宗大石寺一門の信者の「法華講」や「法華講衆」は存在していたのか、ということになる。

結論から言うと、もちろんあった。
日蓮正宗大石寺法主で、はじめて「法華講衆」という言葉を使ったのは、大石寺の開祖・日興である。これは1323(元亨3)年6月22日、日興が佐渡国の信者衆たちに宛てた手紙の中で「佐渡国法華かうしう」(佐渡国法華講衆)と書いたのが最初である。
日蓮正宗大石寺法主が自ら書写した大漫荼羅本尊の脇書きに「法華講衆」という名前を書き記したのは、日蓮正宗大石寺六世法主・日時なのである。これは1404(応永11)年6月に、日蓮正宗大石寺六世法主・日時が書写した大漫荼羅本尊の脇書きに
「奥州柳目法華講衆等達現当二世の為なり」(堀日亨編纂『富士宗学要集8巻』より)
と書いたのが最初である。
また大石寺六世法主・日時は、1403(応永10)年4月に書写した大漫荼羅本尊を「大石寺檀那小泉講」に対して授与する脇書きを書き残している。(堀日亨編纂『富士宗学要集8巻』より)
ここの「檀那」とは信者のことで、「小泉」とは、今の富士門流本山寺院・小泉久遠寺がある富士宮市小泉のあたりと推測され、すでに大石寺六世法主・日時の時代には、大石寺周辺に信者を束ねる「講中」があったことがわかる。

もともと社寺の「講」というものは、室町時代、新仏教系の浄土真宗、時宗、日蓮法華宗や熊野信仰、伊勢信仰などが民衆のあいだに深く根をおろしたことによって、社寺巡礼、社寺参詣、熊野参詣、伊勢参詣のために、一般民衆が「伊勢講」のような形で講を結んで、旅費の捻出を計画したことによるものだという。(一橋大学教授・永原慶二氏の著書「日本の歴史10・下克上の時代」より)
たとえば伊勢講は、公家の山科教言の1407(応永14)年の日記などにもあらわれており、当時は広い社会層に行われていたようだ。
「講」というものは、この室町時代には、頼母子講という金銭調達のための民衆の共同組織として農村に広く見られ、伊勢講・熊野講などはそのひとつの形態といえるものである。

日蓮正宗大石寺一門においても、もともと佐渡国(新潟県佐渡島)といった地方で「佐渡国法華講」といった「講」ができていっていることからして、その趣旨は、伊勢講や熊野講などと同じものと考えられる。
そして日蓮正宗大石寺一門の信者である法華衆たちの「講」が、すでに大石寺六世法主・日時の時代においては、大石寺の周辺の信者たち・法華衆たちまでもが結んでいたということである。

こういった事実を照らし合わせれば、当然のことながら、日蓮正宗大石寺九世法主・日有の時代においては、「法華講衆」の文言が本尊の脇書きに記載されていても何の不思議もないではないか。






検証19・甲州・湯之奥金山の金で「本門戒壇の大御本尊」を偽作した日有9


日有が書写した本尊の日付には概ね干支が記載されていない


『 日蓮正宗大石寺の「本門戒壇の大御本尊」は日蓮真筆ではない。後世の偽作だ』
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=5482743&comm_id=406970

ここにおいて、日蓮真筆の本尊は、その図顕年月日が記載されている本尊については、その全てに干支が記載されている。ところが大石寺の「本門戒壇の大御本尊」の「弘安二年十月十二日」の日付には、弘安二年の「太歳己卯」の干支が記載されておらず、干支の記載がない「本門戒壇の大御本尊」は、まさに日蓮真筆の本尊ではない証拠である、ということを論証した。
干支の記載がない「本門戒壇の大御本尊」が日有の偽作であるならば、日有が書写した大漫荼羅本尊の書写年月日に干支の記載がないということでなければ、おかしいということになる。

結論から言うと、日蓮正宗大石寺九世法主・日有が書写した大漫荼羅本尊に記されている日付には、概ね、干支が記載されていないのである。
このことは日蓮正宗59世法主・堀日亨が編纂した『富士宗学要集』8巻の「漫荼羅脇書き」を調べればわかることだ。念のため、日有が書写した大漫荼羅本尊の日付を列記してみる。

「永享四年卯月十三日」(富士大石寺長穏日章に授与の本尊)
「永享七年五月十四日」(大石寺住侶弁公日能に授与の本尊)
「文安四年九月二日」(富士大石寺門徒園部刑部阿闍梨日勢に授与の本尊)
「文安四年九月二十二日」
「文安六年八月二十四日」
「享徳四年閏四月二十六日」(富士大石寺門徒・山峯太左衛門に授与の本尊)
「長禄四年七月十八日」(奥州二迫住人・加藤日源に授与の本尊)
「長禄四年八月二十五日」
「寛正二年三月二十二日」(下野国薗部日安に授与の本尊)
「寛正四年閏六月二日」(富士大石寺門徒金井僧侶伊勢阿闍梨日量に授与の本尊)
「文明五年三月二十九日」(大畠九郎兵衛に授与の本尊)
「文明五年十二月十二日」
「文明五年十二月二十九日」
「文明六年甲午正月五日」(甲州下山大村六郎左衛門に授与の本尊)
「文明六年三月二日」
「文明六年五月二十六日」(河口十郎左衛門に授与の本尊)
「文明六年閏五月二十六日」(奥州一迫柳目三位阿闍梨日為母儀妙了日宗に授与の本尊)
「文明六年甲午八月四日」(大石寺門徒奥州柳目住侶上総公日宣に授与の本尊)
「文明六年十一月二十九日」(奥州岡名□□阿闍梨日意に授与の本尊)
「文明七年七月十六日」(小野里八郎三郎に授与の本尊)

まあざっとこんな感じであり、この中でも干支が記載されているものは、「甲午」と書かれた二体だけで、あとは干支の記載がない。
こういったところからも「本門戒壇の大御本尊」は日蓮の筆ではなく、日有が偽作したものであるということが論証されるものである。

検証20・甲州・湯之奥金山の金で「本門戒壇の大御本尊」を偽作した日有10


「新池抄聞書」の文は「本門戒壇の大御本尊」日有偽作の文献的証拠


それでは、日蓮正宗大石寺の「本門戒壇の大御本尊」が日蓮正宗大石寺九世法主・日有によって偽作されたという文献上の証拠(文証)はあるのだろうか??
結論から言うと、もちろんある。
この「新池抄聞書」という文書は、大石寺と同じ富士門流本山寺院である保田妙本寺・小泉久遠寺十一代貫首(住職)日要が、かつて日有から聞いていた説法を、弟子たちに語っていた内容を日果という僧侶が筆録したものである。大石寺九世法主・日有と保田妙本寺・小泉久遠寺十一代貫首・日要は、同じ時代に生きていた僧侶であった。
その「新池抄聞書」を、日蓮正宗59世法主・堀日亨が、自らの著書「富士日興上人詳伝・下」の84ページに「参考史料」として載せているのである。
その文書には、次のように書いてある。

「日有云く、また云く、大石は父の寺、重須は母の寺、父の大石は本尊堂、重須は御影堂、大石は本果妙、重須は本因妙、彼は勅願寺、此は祈願寺、彼は所開、此は能開、彼は所生、此は能生、即本因、本果、本国土妙の三妙合論の事の戒壇なり」(「富士日興上人詳伝・下」84ページ)

-----かつて日有上人がこのように説法していた、と日要上人が語っていた。大石寺は例えて言えば父親のような本山寺院であり、重須の北山本門寺は、例えて言えば母親のような本山寺院である。父親の本山寺院である大石寺には、「本門戒壇の大御本尊」を安置している本尊堂があり、母親の本山寺院である北山本門寺には、日蓮大聖人の木像(御影)を安置している御影堂がある。……此の大石寺は、衆生を成仏に導く根本の寺であり、即ち、「本門戒壇の大御本尊」を安置している本尊堂がある大石寺こそ、本因、本果、本国土妙の三妙合論の事の戒壇なのであり、根本の寺院・道場なのである。-------

わかりにくい古文は、だいたい上記のような意味になる。つまり日有は、「本門戒壇の大御本尊」がある大石寺のほうが、開祖・日興が晩年住み、死去した北山本門寺よりも優越した根本の寺であると語っていたのである。
日蓮正宗では、「『本門戒壇の大御本尊』を安置している大石寺こそが、根本の寺であり、事の戒壇なのである」と信者に教えているが、まさに「本門戒壇の大御本尊」を安置する「事の戒壇」という名前が、ここで具体的に、かつ、歴史上はじめて日蓮正宗大石寺に忽然と登場するのである。
しかもそれが、日蓮正宗九世法主・日有の時代に、である。
堀日亨は、「富士日興上人詳伝」の中で、大石寺を粉飾するこの文書を、「富士宗学要集」には掲載していない、「参考史料、未発表」として掲載した。しかし同時に、この文書は、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊が、日有によって偽造製作されたことを認める内容になっている。
もはや明らかではないか。
「本門戒壇の大御本尊」なる名前の板本尊は、日有が偽作したものだ。日有は、大石寺を粉飾し、大石寺を北山本門寺をはじめとする他の富士門流本山寺院や身延山久遠寺にも優越する本山寺院として、日蓮を宗祖とする門下一同の覇権を握るために、「本門戒壇の大御本尊」を偽作した。「飾るため」などという生易しいものではなく、おびただしい数の人々を騙して信者にするために、である。現在の日蓮正宗はその流れの上にある。そして現在の創価学会や顕正会なども、そのまた流れの上にある。彼らに「遠い過去の話しだから知らない」などとは言わせない。否、言わせてはならないと思う。



検証21・甲州・湯之奥金山の金で「本門戒壇の大御本尊」を偽作した日有11


「本門戒壇の大御本尊」日有偽作を公然と告発した北山本門寺六代住職・日浄


日蓮正宗九世法主・日有が、「本門戒壇の大御本尊」なる名前の板本尊を、日蓮真筆の本懐の本尊であるなどと言って偽作したことを、公然と告発して文献に書きとどめた人物がいる。
それは日蓮正宗総本山大石寺から約二キロほど離れたところにある、大石寺と同じ日興門流・富士門流の本山寺院である、北山本門寺の六代住職・日浄である。
告発という言い方は、必ずしも当たらないかもしれないが、現代風にいうと、そういうようなことだ。
日浄が書き残した、極めて注目すべき文書が、「富士山本門寺文書集日浄記」と呼ばれている文書で、日付は1493(明応2)年になっている。その文書の中には、次のような一節があるのだ。

「日有、開山の本懐に背き、未聞未見の板本尊これを彫刻す。己義荘厳の偽書を造る。その偽書とは、此の文(「日興跡条条事」のこと)、並びに番帳(「日目譲り状」のこと)を指すなり。もし、日有の誑惑世間に流布せば、興門の道俗共に無間に堕ち、将来悲しむべし」
----日有は、開山・日興上人の本懐の精神に背き、今までに見たことも、聞いたこともない、板本尊を彫刻した。その上に、大石寺一門と自分の身を粉飾し、飾りたてるために、「日興跡条条事」という偽書と、「日目譲り状」という偽書を作製した。もしこの日有の誑惑(たぶらかし)が、一般世間に広まってしまうようなことになってしまったら、日興門流の僧侶や信者は、無間地獄に堕ちてしまい、将来、悲しむべきことになってしまうだろう。------

この日浄が言っている「未聞未見の板本尊」(今までに見たことも、聞いたこともない板本尊)というのは、もちろん、大石寺が「本門戒壇の大御本尊」なる名前で呼んでいる板本尊のことだ。
日有は1419(応永26)年に満17歳で登座してから1482(文明14)年に満80歳で死去するまでの間、法主として、あるいは隠居した前法主として、大石寺一門のトップの座にあった。
片や北山本門寺六代住職・日浄は、1450(宝徳2)年から1493(明応2)年まで、北山本門寺の住職の座にあった人物だ。二人は、ほぼ同じ時代を生きた人物である。
日浄は、まさに死の直前になって、「日有は未聞未見の板本尊や己義荘厳の偽書を造った」と非難する文書を書き残したのだが、これには背景がある。
日有の晩年の1482(文明14)年、大石寺一門の僧俗と、北山本門寺の僧俗・保田妙本寺・小泉久遠寺の僧俗の間で、血脈問題・本山寺院問題で激しい論争が起こった。
つまり大石寺の僧俗は、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を楯にとって、大石寺に血脈があり、大石寺が富士門流の本山であるといい、北山本門寺の僧俗は、開祖・日興が死去するまで35年間住み、死去して、日興の正墓がある北山本門寺こそが富士門流の本山寺院であると言った。
こういう論争の中で、北山本門寺六代住職・日浄が「日有は、開山・日興上人の本懐の精神に背き、今までに見たことも、聞いたこともない、板本尊を彫刻した」と言ったのだ。
明治時代、日蓮正宗大石寺52世法主・鈴木日霑と北山本門寺34代住職・玉野日志が弁舌をたたかわせた「霑志問答」でも、この「富士山本門寺文書集日浄記」の文を玉野日志から追及された鈴木日霑は「重須日浄日専等の諸師大いに之を患ひ此の虚言をなし…」と、「日浄らは日有が偽作したなどというウソを言った」などと何の根拠も証拠なく、これくらいしか言えなかった。
しかし北山本門寺六代住職日浄は、日有と同じ時代を生きた人物で、しかも大石寺から約二キロぐらいしか離れていない北山本門寺の住職が、言った言葉だから、まさに説得力がある。
「富士山本門寺文書集日浄記」の文も、まさに「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を日有が偽作したことを示す文献的証拠のひとつと言える。

検証22・甲州・湯之奥金山の金で「本門戒壇の大御本尊」を偽作した日有12


「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊偽造を衆目から隠蔽しようとした日有


日蓮正宗大石寺九世法主・日有は、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を偽作製造した時に、その偽作製造そのものを隠蔽する必要があった。こんな黒漆塗りに金箔加工を施した豪華絢爛な板本尊は、大石寺開創以来、存在していない本尊である。こういうものを、公然と偽作して、衆目の前に出せば、日蓮正宗大石寺と、法主・日有に対して、近隣の富士門流の寺院をはじめ、身延山久遠寺などの日蓮宗寺院の僧侶や信者たちからも疑惑の目が向けられてしまう。
そこで日有は、日蓮正宗大石寺に格蔵されていた、日蓮が1280(弘安3)年3月に図顕した通称「紫宸殿の本尊」を、黒漆塗りに金箔加工を施した板本尊に模写彫刻して、「『本門戒壇の大御本尊』に万が一のことがあった時の『御身代わりの本尊』を彫刻したのだ」などと言って、「本門戒壇の大御本尊」そのものの偽作製造を隠蔽しようとした。
明治時代、日蓮正宗大石寺52世法主・鈴木日霑と北山本門寺34代住職・玉野日志が弁舌をたたかわせた「霑志問答」で、日有の「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊偽作を玉野日志から追及された日蓮正宗52世法主・鈴木日霑が、北山本門寺への公式回答として、「本門戒壇の大御本尊」の日有偽作を否定した後、こんなことを言っている。

「蓋し日有の彫刻せる本尊とは、宗祖の御真筆・紫宸殿の本尊と称する者之れを模写して彫刻せし事あり。伝え言ふ、其の時乱離の世に乗じ身延の群徒来りて戒壇の本尊及び其の他の諸霊宝を占掠せんとの説あるによって、日有計って真の本尊及び諸霊宝をば駿東郡東井出村井出某氏の窖(あなぐら)に蔵し、---此の家の子孫今に連綿し村内一之旧家で今の家主は弥平治と号す。此の窖今に存し御穴と称し常に香花を供すと云々---日有彫刻の本尊を仮立して且らく戒壇の本尊に擬せしとなり。事鎮静の後、日有自判を加え是れを鳥窪の住僧日伝に授与するの文字あり。是れ則方今天王堂に安置せる板本尊是れなり。惟ふに後世之れを訛伝して、日有、真の戒壇の本尊を彫刻するの説あるか知るべからず」(日蓮正宗59世法主堀日亨編纂『富士宗学要集』第7巻問答部「両山問答」101〜102ページより)

------ただし、日有が彫刻した板本尊というのは別に存在している。それは宗祖日蓮大聖人の御真筆の本尊である「紫宸殿の本尊」と称する本尊を板に模写して彫刻した板本尊がそれである。
日蓮正宗大石寺には、古来からの言い伝えとして、次のような話しがある。
日有の時代、戦乱の世に乗じて身延山久遠寺の群徒が大石寺に押し寄せて「本門戒壇の大御本尊」の他、大石寺の霊宝を強奪しようとしているとの説が流れたので、日有が「本門戒壇の大御本尊」とその他の霊宝を一時的に駿東郡東井出村井出某氏の穴蔵に隠した。---この井出家の子孫は現在まで大石寺の根檀家として連綿していて、大石寺のある上野村では随一の旧家である。今の井出家の当主は弥平治と言い、その時の穴蔵は今でもあり、常日頃から線香とシキミの花を供えている---そして大石寺には日有が彫刻した板本尊を仮に立てて、しばらくの間、「本門戒壇の大御本尊」に擬していたのである。身延の群徒たちの動きが鎮静化した後、この板本尊に日有が自らの判形を加えて、鳥窪の寺の住職日伝に授与したとの日有がその板本尊に書いた文字が残っている。この板本尊とは、今の大石寺の天王堂に安置している板本尊のことである。私が思うに、後世の者がこの話しを誤って伝えて日有が「本門戒壇の大御本尊」を彫刻したとの説が出たのではないか----

鈴木日霑が大石寺の古来からの言い伝えとして、「本門戒壇の大御本尊」偽作を隠蔽するでっち上げ話しを披露しているが、こんな言い訳が日有の時代から伝わっていることを、日蓮正宗52世法主であった鈴木日霑が、公式に認めているのである。
日有の「本門戒壇の大御本尊」偽作の隠蔽工作に使われた、「紫宸殿の本尊」を模写彫刻した板本尊は、今は日蓮正宗大石寺の御宝蔵の中に眠っている。

検証23・甲州・湯之奥金山の金で「本門戒壇の大御本尊」を偽作した日有13


「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊や日蓮正宗総本山大石寺を粉飾・荘厳するための教義を発明し、数々のニセ文書を偽造した日蓮正宗九世法主・日有


日蓮正宗大石寺の「本門戒壇の大御本尊」なる名前の板本尊は、日蓮正宗大石寺第九世法主・日有が偽作したものである。これだけ巨大で、かつ豪華絢爛の、しかも今まで「未聞未見」の板本尊を日蓮正宗大石寺の中核をなす板本尊にすえるには、日有としては、日蓮正宗の教義を整備し、「本門戒壇の大御本尊」を「証明」する文書を整えておく必要があった。
日有は、この板本尊の存在を正統化し、この板本尊を粉飾・装飾し、大石寺を粉飾・荘厳するために、おびただしいばかりの文書「日蓮から相伝した」などと詐称して偽造し、日蓮や日興が生きていた時代には存在していなかった教義を次々と発明した。
日蓮や日興が生きていた時代にはなく、日有が発明した日蓮正宗の教義とは、「本門事の戒壇」「日蓮本仏論」「唯授一人の血脈を相承する法主」といった類の教義である。
日有が偽造した文書とは、現在のところ、判明しているものだけでも「日興跡条条事」「日目譲り状」「御本尊七箇相承」といった「日蓮からの相承」「日興からの相承」を詐称している文書をでっち上げたことが判明している。


日有が発明した「本門戒壇の大御本尊が安置している本尊堂が事の戒壇」の教義


日有が発明した日蓮正宗の教義の代表的なものに「事の戒壇」というものがある。
この「事の戒壇」という教義は、大石寺と同じ富士門流本山寺院である保田妙本寺・小泉久遠寺十一代住職・日要が、日有から聞いていた説法を、弟子たちに語っていた内容を日果という僧侶が筆録した「新池抄聞書」という文書に、日蓮正宗の歴史上始めて出てくるものだ。

「日有云く、また云く、大石は父の寺、重須は母の寺、父の大石は本尊堂…此は能生、即本因、本果、本国土妙の三妙合論の事の戒壇なり」(日蓮正宗59世法主・堀日亨の著書「富士日興上人詳伝・下」84ページに掲載している「新池抄聞書」)
-----かつて日有上人がこのように説法していた、と日要上人が語っていた。大石寺は例えて言えば父親のような本山寺院であり、重須の北山本門寺は母親のような本山寺院である。父の大石寺は「本門戒壇の大御本尊」を安置している本尊堂があり…衆生を成仏に導く根本の寺であり、即ち、「本門戒壇の大御本尊」を安置している本尊堂がある大石寺こそ、本因、本果、本国土妙の三妙合論の事の戒壇なのであり、根本の寺院・道場なのである。-------

日蓮は、「法華取要抄」で本尊・戒壇・題目の三大秘法を挙げ、「報恩抄」や「三大秘法抄」において、その具体的な内容を明かしている。日興は、書き残した遺文において、日蓮の「三大秘法」を日蓮の教義と見ていた節があるが、三大秘法を日興門流・日蓮正宗大石寺一門の根本の教義と定めていたわけではなかった。これは日興以降の歴代法主も同様で、しかも、日蓮正宗大石寺の歴代法主は、九世法主・日有の前までは、誰一人として、三大秘法を意味する用語を使っていないばかりか、三大秘法の教義の説法をしていた形跡すら見当たらないのである。
日蓮正宗大石寺門流では、日有の前までは、三大秘法を掲げてそれを宗旨の根本の教義に位置づける動きはなかった。
それが日有の「本門戒壇の大御本尊」なる名前の板本尊を偽作して日蓮真筆と詐称したことにより、大石寺本尊堂を「事の戒壇」と定義づけることによって、にわかに「三大秘法」を、日蓮正宗大石寺門流の根本の教義とする動きが出てくるのである。

検証24・甲州・湯之奥金山の金で「本門戒壇の大御本尊」を偽作した日有14


「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊や日蓮正宗総本山大石寺を粉飾・荘厳するための教義を発明し、数々のニセ文書を偽造した日蓮正宗九世法主・日有2


日蓮正宗大石寺門流では、開祖・日興から日有の前までは、大石寺の歴代法主が三大秘法を掲げてそれを宗旨の根本の教義に位置づける動きはなかった。
大石寺の歴代法主以外の各本山住職や僧侶に目を向けると、日興が生きていた時代の重須本門寺(北山本門寺)の学頭(住職に次ぐナンバー2の職)だった三位阿闍梨日順が書いた「本因妙口決」(日蓮正宗59世法主・堀日亨が編纂した『富士宗学要集』2巻72ページ収録)や、大石寺六世法主・日持の時代に本山・妙蓮寺五代住職だった日眼の「日眼御談」(日蓮正宗59世法主・堀日亨が編纂した『富士宗学要集』2巻135ページ収録)に、日蓮の「三大秘法抄」からの引用が見られる。が、しかし「本因妙口決」のほうは、内容からして、日順の著書ではなく、後世の者が日順の名前を使って書いた書であるというのが定説である。
「日眼御談」のほうは、成立年代が不明であると同時に、内容がはたして日眼のものかどうか疑う説が有力である。仮に「本因妙口決」や「日眼御談」を日順や日眼の真書と仮定したとしても、二つの書が引用している日蓮の「三大秘法抄」の文である「題目とは二の意有り」は、三大秘法の教義・意味を直接宣揚するものではない。
しかしながら、「本門事の戒壇」になるべき本尊堂(日蓮正宗では本堂または御堂とも言う)に安置するという「本門戒壇の大御本尊」なる名前の偽作板本尊を根本に据えて、本門の本尊・戒壇・題目という「三大秘法」(さんだいひほう)という日蓮正宗の根幹の教義を完成させたのは、日蓮正宗九世法主・日有である。ただし日有が直接一人で行ったわけではなく、文献的に完成させたのは、日有の弟子で、元々は日興門下の富士門流の中でも、玉野大夫阿闍梨日尊の門流に属していたが、後に日有の門下に帰伏した、左京阿闍梨日教という僧侶であった。


左京阿闍梨日教を使って「三大秘法」の教義を完成せしめた日蓮正宗九世法主・日有


日教は、日有の門下に帰伏する以前は、日尊の門流(今の日蓮本宗本山要法寺の系統)の本山格とされた出雲の国(島根県)の馬木大坊(安養寺)の住職を務め、本是院日叶と名乗る有力僧侶だったという。日教は、他宗門が知らない「三大秘法」「三箇の秘法」を「当宗」(大石寺門流)の仏法の「土代」(根幹)にすべきことを盛んに鼓吹・宣揚していった。
「三大秘法」を鼓吹・宣揚する日教の代表的な言説は以下の通りである。

「本門三箇の秘法を土代として諸御書当家の信の法門を成立すべきなり」日蓮正宗59世法主・堀日亨が編纂した『富士宗学要集』2巻250ページ収録の日教の著書『穆作抄』より)
------法華経本門の三大秘法を根幹にして日蓮の御書を読み、大石寺門流の『信』を中心にした信仰を確立していくべきである-----
「三箇の秘法とは日蓮、日目と御相承し、…この三箇の秘法は当家の独歩なり」(同『富士宗学要集』2巻257ページ収録の日教の著書『穆作抄』より)
------本門の本尊、戒壇、題目の三大秘法は、日蓮から日目に御相承され…この三大秘法は、大石寺だけが知っている秘法の教義である-----
「此の三箇の秘法、余流に存知無き」(同『富士宗学要集』2巻313ページ収録の日教の著書『類聚翰集私』より)
-------本門の本尊、戒壇、題目の三大秘法は、大石寺の他の宗門、他の門流は全く知らないものだ-------

このように、日有の弟子の日教は、著書の中で盛んに三大秘法を鼓吹・宣揚していった。

検証25・甲州・湯之奥金山の金で「本門戒壇の大御本尊」を偽作した日有15


「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊や日蓮正宗総本山大石寺を粉飾・荘厳するための教義を発明し、数々のニセ文書を偽造した日蓮正宗九世法主・日有3


元日蓮正宗僧侶で、現在、東洋哲学研究所研究員、学術博士の松岡幹夫氏は、日教が三大秘法をはじめて日蓮正宗大石寺門流の根本の教義として自覚的に規定し鼓吹・宣揚した理由について、自らの著書「日蓮正宗の神話」の中で
「日教が『本門三箇の秘法』を日蓮仏教の根幹と考えた理由としては、まず『三大秘法抄』を読んでいたことが大きいと思われる」(『日蓮正宗の神話』75ページより)
と述べているが、これは全く説得力がない。と言うか、全然誤った見解であると言わざるを得ない。
なぜなら、日蓮の書いた「三大秘法抄」を書き写した写本が大石寺にも格蔵されているが、その最古の写本は、大石寺六世法主・日時が書き写したものだと、大石寺が発刊した「平成新編御書全集」の「日蓮大聖人御書目次」に書いてある。
それが事実ならば、日有の時代よりも前に、日蓮正宗大石寺門流の僧侶が「三大秘法抄」を読む機会はいくらでもあったわけで、日有より以前に「三大秘法」の言辞を使った文献があってもおかしくはない。しかし日有より以前には、「三大秘法」の言辞を使った文献が大石寺門流にはぜんぜんなく、日有と弟子の日教によってはじめて、「三大秘法」が鼓吹・宣揚された理由にはならない。


日蓮正宗大石寺の「三大秘法」は日蓮が説いた「三大秘法」とは別個のもの


もう一つの理由は、日蓮が「三大秘法抄」の中で説いた三大秘法の内容と、日有や日教をはじめ、日蓮正宗大石寺が説いている「三大秘法」の内容が違っていて、特に、三大秘法の中でも、本門の本尊と本門の戒壇に関しては、全然違っていると言って良いものだ。
日蓮は、自らの遺文(御書)の「三大秘法抄」では「本門の本尊」「本門の戒壇」について、次のように書いている。
「寿量品に建立する所の本尊は、五百塵点の当初より以来、此土有縁深厚・本有無作三身の教主釈尊是なり」(大石寺編纂の「平成新編御書全集」1594ページより)
「戒壇とは、王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて、有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是なり。三国並びに一閻浮提の人、懺悔滅罪の戒法のみならず、大梵天王・帝釈等の来下して踏み給ふべき戒壇なり」(大石寺編纂の「平成新編御書全集」1595ページより)
つまり日蓮は、本尊とは釈迦牟尼の仏像であり、戒壇(事の戒壇・事の戒法)とは、天皇から民衆まで総ての人たちが日蓮の仏法を信仰した時に建立すべきと言っている。
これに対して、日蓮正宗が言う本門の本尊とは、日蓮正宗大石寺に格蔵している「本門戒壇の大御本尊」なる黒漆塗りに金箔加工を施した豪華絢爛な板本尊であり、日蓮正宗が言う本門の戒壇(事の戒壇)とは
「大石は父の寺…、父の大石は本尊堂…此は能生、即本因、本果、本国土妙の三妙合論の事の戒壇なり」(日有の説法を筆録した「新池抄聞書」)
-----大石寺は例えて言えば父親のような本山寺院であり、…父の大石寺は「本門戒壇の大御本尊」を安置している本尊堂があり…衆生を成仏に導く根本の寺であり、即ち、「本門戒壇の大御本尊」を安置している本尊堂がある大石寺こそ、本因、本果、本国土妙の三妙合論の事の戒壇なのであり、根本の寺院・道場なのである。-------
とあるように、日有が偽作した「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊が安置されている堂宇・伽藍が「事の戒壇」であるというものである。


検証26・甲州・湯之奥金山の金で「本門戒壇の大御本尊」を偽作した日有16


「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊や日蓮正宗総本山大石寺を粉飾・荘厳するための教義を発明し、数々のニセ文書を偽造した日蓮正宗九世法主・日有4


日蓮正宗では、日蓮が説いた「三大秘法」と日蓮正宗が言う「三大秘法」の違いを埋めるため
日蓮が「三大秘法抄」で本尊と定めた「『教主釈尊』とは末法の本仏・日蓮のこと」と言い、「事の戒壇」の教義については、「日蓮正宗大石寺の歴代法主のみに伝わる唯授一人の秘伝」などと言って、お得意(?)の日蓮本仏論や唯授一人の血脈相承を持ち出してきて、辻褄合わせをしているが、これについては、日蓮と関連づける何の根拠も証拠なく、それどころか日蓮本仏論や唯授一人の血脈相承なるものが日有によって偽作・発明された教義であるので、日蓮正宗だけが一方的に勝手に唱えているだけのものにすぎない。
否、それどころか、「日蓮本仏論」も「唯授一人の血脈相承」ないしは「法主の血脈」なるものは、日蓮正宗大石寺を、日蓮の正墓がある身延山久遠寺や日興の正墓がある北山本門寺を凌いで日蓮門流・富士門流の総本山にするために日有が偽作した「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を正統化するという目的で、日有自らが偽作したものであった。


日蓮正宗大石寺門流で「法主の血脈」なるものをはじめて唱えた九世法主・日有


日蓮正宗大石寺門流で、最初に大石寺法主の血脈なるものを唱えたのは、日蓮正宗大石寺九世法主・日有である。日有は、自らが偽作した「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を以て、日蓮正宗大石寺独自の下種仏法の立場を確立しようとした。と同時に、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊や日蓮正宗総本山大石寺を粉飾・荘厳するため、日蓮、日興から大石寺の歴代法主に相承されてきたとする「法主の血脈」なるものを唱えだしたのである。
つまりこういうことだ。「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊は、日有より以前の時代においては存在しておらず、影も形もないものであり、誰もその存在を知らなかったものだ。しかし誰も知らなかったが「日蓮から相承を受けていた法主だけが知っていた」「その法主の言っていることを信じろ」などという、人々を欺瞞する、とんでもない詐欺的な教義なのである。
日有が唱えた「大石寺法主の血脈」の例証として、次のようなものがある。

「手続(てつぎ)の師匠の所は三世の諸仏、高祖以来、代々上人のもぬけられたる故に、師匠の所を能く能く取り定めて信を取るべし。又、我が弟子も此の如く我に信を取るべし。此の時は、何れも妙法蓮華経の色心にして全く一仏なり、是れを即身成仏と云うなり」(日蓮正宗59世法主・堀日亨が編纂した『富士宗学要集』1巻61ページ収録の「化儀抄」より)
--------「手続(いつぎ)の師匠」とは、自ら弟子をもって薫育している師匠のことで、大石寺法主や末寺の住職のこと。その「手続の師匠」の所には過去・現在・未来の三世の総ての仏や高祖日蓮以来、歴代の大石寺の法主の心がぬけられて師匠の所に来ているのだから、その師匠をよくよく信じて信仰に励むべきである。私(日有)の弟子たちも、このように私(日有)を信じて信仰に励むべきである。-------

日蓮正宗大石寺の法主は、過去・現在・未来の三世の総ての仏や高祖日蓮以来、歴代の大石寺の法主の心がぬけられているのだから、法主である日有を信じて信仰に励めと日有が弟子たちにストレートに命じている。今の法主の血脈の原型のような日有の指南である。

検証27・甲州・湯之奥金山の金で「本門戒壇の大御本尊」を偽作した日有17


「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊や日蓮正宗総本山大石寺を粉飾・荘厳するための教義を発明し、数々のニセ文書を偽造した日蓮正宗九世法主・日有5


日有が唱え出した「唯授一人の法主の血脈」の正体は「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊


日有が発明し、唱えた「唯授一人の法主の血脈」なるものの目的と正体が、日有が偽作した「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊であることを、日有より後の大石寺法主が明かしている。
日蓮正宗大石寺十三世法主・日院は、通用(正式な交流)を持ちかけてきた富士門流の本山寺院・京都要法寺十九世法主・日辰に対して
「師口両相承、三箇の秘法胸に当て四聖涌現の刻を相待つ者なり」(大石寺発行「歴代法主全書」1巻451ページ収録の日院著書『要法寺日辰御報』より)
-------大石寺では、歴代法主が日蓮から相承してきた金師相承、金口相承と『三大秘法』を堅く秘蔵して、広宣流布の暁の地涌の菩薩出現の時を待っているのである-------
と回答し、日蓮正宗大石寺門流以外の他の宗門・他の門流が知らない「三大秘法」と「唯授一人の血脈相承」を掲げる立場を表明している。
日蓮正宗大石寺十四世法主・日主は、著書「日興跡条条事示書」の中で
「大石寺は御本尊を以て遺状と成され候、是れ即ち別附嘱・唯授一人の意なり。大聖より本門戒壇御本尊、興師従り正応の御本尊法体御附嘱…」(大石寺発行「歴代法主全書」1巻459ページ収録の日主著書『日興跡条条事示書』より)
と述べ、大石寺の唯授一人の血脈相承とは、日蓮から相承したと自称している「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊であることを明かしている。日主は現存する公開史料の中では、はじめて「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊のことに直接触れて、その戒壇本尊が大石寺の唯授一人血脈相承の体そのものであると言明している。
日蓮正宗大石寺二十二世法主・日俊は
「此の三大秘法は何者ぞや。本門の本尊とは当寺戒壇の板本尊に非ずや。其の戒壇の本尊の座す地は広布の至らざる迄は、此の地、戒壇に非ずや」(大石寺発行「歴代法主全書」3巻103ページ収録の日俊の著書『初度説法』より)
と述べており、三大秘法とは「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊のことであり、この「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊が安置されている所は、戒壇であるという教義をストレートに明かしている。
日蓮正宗大石寺二十五世法主・日宥も
「(日蓮)大上人は三大秘法を本尊と為す」(大石寺発行「歴代法主全書」3巻404ページ収録の日宥の著書『日蓮の二字沙汰』より)
と述べており、江戸時代初期から17世紀末には、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を中心とした大石寺独自の三大秘法を、大石寺教学の根幹とする立場が定説化しているのがわかる。
日蓮正宗大石寺の独特の三大秘法の教義は、日有が偽作した「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を中心としたもので、もちろん日有が唱えはじめたものだった。しかもそれが日有が同時に「発明」した「唯授一人の法主の血脈」なるものといっしょになり、見事なまでに「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の立場を正統化せしめた。それ以降、江戸時代の日蓮正宗大石寺「中興の祖」二十六世法主・日寛による教義理論の完成を経て、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を中心とした「三大秘法」と「唯授一人の法主の血脈」は大石寺門流内で完全に主流化し、今日まで続いている。


検証28・甲州・湯之奥金山の金で「本門戒壇の大御本尊」を偽作した日有18

「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊や日蓮正宗総本山大石寺を粉飾・荘厳するための教義を発明し、数々のニセ文書を偽造した日蓮正宗九世法主・日有6


「血脈相承」による「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊伝承を鼓吹した左京阿闍梨日教


日有の弟子・左京阿闍梨日教は、日有の偽作した「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を中心とする、日蓮正宗大石寺門流独特の「三大秘法」の教義の重要性を、盛んに鼓吹・宣揚した。
左京阿闍梨日教は、大石寺に格蔵している「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を偽作した法主・日有の『太鼓持ち』を自ら積極的に演じ、日蓮正宗大石寺門流の信仰の肝心は、日蓮、日興、日目から歴代法主に伝わる「血脈相承」であり、その「血脈相承」「金口相承」「金師相承」によって「三大秘法」が大石寺に伝承されてきたと、大石寺門流の中で説いた。
日蓮正宗大石寺門流における「三大秘法」とは、日有が偽作した「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊のことであり、左京阿闍梨日教が説いている「三大秘法」の言葉も、やはり「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を中心に据えた「三大秘法」を意味していることは言うまでもない。
左京阿闍梨日教は著書「穆作抄」「類聚翰集私」では
「三箇秘法とは日蓮日目と御相承し・日興聖人は唯授一人の相承たる間、我が臨終の時・耳にさゝやげと仰せられけるほどに・其の剋に御耳にこそ唱へて聞せ奉り御座す事なり、大聖より御聴聞有る故にこそは日朗の「卿公は御法門聴聞」とて強くも目の耳を引きたまふ日朗の耳引法門とは今の三箇のいはれなり、此の時は日蓮・日目・日興と次第し、御付法は日蓮・日興・日目と次第するなり、此の三箇の秘法は当宗の独歩なり」
「当家の宗旨とは血脈相承肝心なり」「此の門家には日蓮聖人より以来の附法血脈一宗の法頭疑ひなきなり、信の宗旨とは是れが肝要なり」(いずれも『富士宗学要集』2巻「穆作抄」より)
「此の三箇の秘法余流に存知無きも道理なり。池上に於て奥州新田卿公日目に余人を去て唯授一人の御相承、金師・金口の相承是れなり」(『富士宗学要集』2巻313ページ「類聚翰集私」より)
詳しい現代語訳は省略するが、左京阿闍梨日教は、三大秘法を「当宗の独歩」――日蓮正宗大石寺独自の秘法と説くために、「耳引法門」と呼ばれるものまで持ち出している。「耳引法門」とは
―――日蓮は池上邸での入滅に際して、弟子の日目を秘かに呼んで三大秘法を唯授一人相承した。それを聞いて羨んだ日朗は、日目の耳を強く引っ張った―――これが左京阿闍梨日教が説く「耳引法門」の大筋だが、これを左京阿闍梨日教は「穆作抄」「類聚翰集私」といった著書の中で説いている。
この「耳引法門」については、日有の説法の聞書とされる「雑々聞書」の中にも
「日目の耳引法門と云ふ事之有り、本尊の大事也。三箇の秘法也」(『歴代法主全書』1巻413ページより)と、耳引法門と大石寺の三大秘法を関連づける文があるので、大石寺門流の中で耳引法門と大石寺の三大秘法を関連付けを最初に言い出したのは、法主・日有と考えられる。
弟子の左京阿闍梨日教は、「三大秘法」---つまり「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊が日蓮正宗大石寺に伝承されてきたことを、耳引法門なる説話まで持ち出してきて、日目からの代々法主による伝承と位置づけた。
「三大秘法」にしろ「血脈相承」にしろ、日蓮正宗大石寺門流の中で、九世法主・日有と左京阿闍梨日教以前においては、こういうことを説く僧侶など一人もいなかった。
これらはいずれも、日有が偽作した「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の地位を正統化せしめ、日蓮正宗大石寺の立場を、粉飾・荘厳するためのもので、信者や一般大衆を騙し、欺瞞すること甚だしいものがある。

検証29・甲州・湯之奥金山の金で「本門戒壇の大御本尊」を偽作した日有19


「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊や日蓮正宗総本山大石寺を粉飾・荘厳するための教義を発明し、数々のニセ文書を偽造した日蓮正宗九世法主・日有7


「御本尊七箇相承」なる文書を偽作して日蓮からの相承書と詐称した九世法主・日有


日有が偽作したニセ文書の代表的なものに「御本尊七箇相承」なる名前の文書がある。これも日蓮正宗は日蓮からの相承書と詐称しているが、実際は、日有が「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊と日蓮正宗大石寺の立場を粉飾・荘厳し、正統化する為に偽造したニセ文書である。

この「御本尊七箇相承」なる文書を、「富士宗学要集」1巻に編纂・収録した日蓮正宗59世法主・堀日亨は、最後の箇所の「弘安五壬午十月十日 日蓮在御判」「右此の七箇の大事・唯授一人の秘伝なり。聊爾に口外す可からず云々、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無日蓮大聖人」(『富士宗学要集』1巻33ページより)の箇所のみ、「後人の偽加」(後世の者が偽って書き加えた)としているが、この文書全体が日蓮や日興の文書ではなく、日有が偽作したものである。
「弘安五壬午十月十日」に 「日蓮在御判」と日蓮が署名した文書を、日蓮の晩年の病状との史実と照らし合わせてみる必要がある。
 日蓮の晩年の病気について、様々な人たちが詳しい研究をしている。それらによれば日蓮の病状は弘安四年に入ってから、かなり悪化していたのがわかる。
「此の七、八年が間、年年に衰病をこり(起こり)候いつれども、…。既に、一期をわり(終わり)になるべし」(弘安四年五月二十六日『八幡宮造営事』)
「所ろう(労)のあいだ(間)、はんぎょう(判形)をくわえず候事恐れ入り候」(弘安五年九月十九日『波木井殿御報』)                       
 日蓮の遺文(御書)等の内容を総合すると、日蓮は晩年、激しい下痢と食欲不振、さらに老齢からくる体力の衰えに苦しんでいたことがわかる。とくに身延山久遠寺から常陸の国の湯治治療に旅立って池上邸に到着した翌日に書いた『波木井殿御報』には「所労(病気)が重いので、判形(サイン)も書けなくて申し訳ありません」とすらある。つまりこの時点において日蓮は判形(サイン)も書けない病に冒されていた。 この『波木井殿御報』は弟子・日興が代筆したものである。
仮に「御本尊七箇相承」を日蓮の口述を日興が代筆したとしても、日興が日蓮の判形(サイン)を偽造するはずがない。
又、日蓮ないし日興が「御本尊七箇相承」を書いたところを、誰一人目撃していないということも不審なのである。  日興が筆録した「宗祖御遷化記録」によると日蓮の葬儀には、弟子の僧侶や信徒など、主だったメンバーがほとんど参列している。ということは、弘安五年十月十日には、池上邸にはかなりの人たちが集まっていたはずである。日蓮危篤の報は、その何日も前から各地の弟子、信徒に伝えられていたのである。
 当然のことながら、六老僧の日昭や日朗なども、日蓮の枕元にいたであろうし、仮に日興が「御本尊七箇相承」を書いたとしたら、当然それを目撃したはずである。あるいは日蓮が「代々の聖人悉く日蓮」として日興に相承するという遺志を知ったら、以降、日興を日蓮の後継者として扱い、崇拝・尊崇したはずである。ところが、日蓮入滅以降、日昭や日朗のみならず、他の老僧や弟子僧侶、信徒が日興を「日蓮の後継者」として尊崇していたという形跡は全くない。
「御本尊七箇相承」が本物であるという事実や証拠はどこにもないのである。


検証30・甲州・湯之奥金山の金で「本門戒壇の大御本尊」を偽作した日有20


「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊や日蓮正宗総本山大石寺を粉飾・荘厳するための教義を発明し、数々のニセ文書を偽造した日蓮正宗九世法主・日有8


「御本尊七箇相承」なる文書は全文が日蓮や日興の書いた文書ではない


「御本尊七箇相承」なる文書が日蓮や日興が書いた文書ではないという証拠は他にもある。たとえば、「御本尊七箇相承」の文中に
「日蓮と御判と置き給ふ事」「日蓮御判と書かずんば天神地神もよも用ひ給はざらん」「日蓮在御判と嫡々代々と書くべし」と日蓮が大漫荼羅本尊の書式を指南したかのような文があるが、日興・日目から日有以前の大石寺法主が書写した大漫荼羅本尊の「南無妙法蓮華経」の直下に「日蓮在御判」と書かれていない本尊が複数あることが確認されている。
興風談所が出した「日興上人御本尊集」に載っている161体の本尊の中には、正応年間に、大石寺の開祖・日興が書写した大漫荼羅本尊で「南無妙法蓮華経」の直下に「日蓮在御判」ではなく、「日蓮聖人」と書かれている本尊が二体ある。
柳沢宏道氏の著書「石山本尊の研究」によれば、1326(正中3)年4月に大石寺三祖・日目が書写し、弟子の宰相阿闍梨日郷に授与した本尊(富士門流本山寺院で現日蓮宗・小泉久遠寺に格蔵)には、中央の「南無妙法蓮華経」の直下には「日蓮在御判」ではなく「日蓮聖人」と書かれてある。
さらにインターネットの研究サイトによれば、大石寺六世法主・日時が書写した本尊に、「南無妙法蓮華経」の直下に「日蓮聖人在御判」と書かれている本尊が十六体あり、大石寺八世法主・日影が書写した本尊で「南無妙法蓮華経」の直下に「日蓮聖人在御判」と書かれている本尊が一体あるという。
もし日興や日目が「日蓮と御判と置き給ふ事」「日蓮御判と書かずんば天神地神もよも用ひ給はざらん」「日蓮在御判と嫡々代々と書くべし」という「御本尊七箇相承」の文を知っていたら、このような「南無妙法蓮華経」の直下に「日蓮聖人」と書いた本尊を書写するはずがない。
また日時も日影も、同じで「南無妙法蓮華経」の直下に「日蓮聖人在御判」と書いた本尊を書写するはずがない。

「御本尊七箇相承」の「七」の文の
「本尊書写の事、予が顕はし奉るが如くなるべし。若し日蓮御判と書かずんば天神地神もよも用ひ給はざらん。上行無辺行と持国と浄行安立行と毘沙門との間には、若悩乱者頭破七分・有供養者福過十号と之を書く可し。経中の明文等心に任す可きか」(『富士宗学要集』1巻33ページより)
の文は、富士門流の本山寺院・京都要法寺の僧侶が偽作した「百六箇抄」の文と同じ文である。
「百六箇抄」が京都要法寺の僧侶が偽作したニセ文書であるということはすでに
「日蓮正宗大石寺の「本門戒壇の大御本尊」は日蓮真筆ではない。後世の偽作だ」
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=5482743&comm_id=406970
において論じたので、再論はしない。
後世の者が偽造したニセ文書と同じ文が載っているのだから、どっちが先かはともかくとして、「御本尊七箇相承」も、日蓮や日興が書いた文書ではなく、後世の人間が偽造したニセ文書ということである。


検証31・甲州・湯之奥金山の金で「本門戒壇の大御本尊」を偽作した日有21


「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊や日蓮正宗総本山大石寺を粉飾・荘厳するための教義を発明し、数々のニセ文書を偽造した日蓮正宗九世法主・日有9


「代々上人即日蓮」の大石寺法主の地位を確立しようとした日蓮正宗九世法主・日有


「御本尊七箇相承」という文書を日有が偽造した目的は、この「御本尊七箇相承」の文中にあるから面白い。「御本尊七箇相承」の中に次のような文がある。
「日蓮在御判と嫡々代々と書くべしと給ふ事如何。師の曰く、深秘なり。代々の聖人悉く日蓮なりと申す意なり」(『富士宗学要集』1巻32ページより)
―――「日蓮在御判」と嫡々代々の法主が本尊に書くというのはどういう意味でしょうか。師匠の日蓮が言うには、これには深い意味があり、みだりに口外すべきではない秘すべき法門である。代々の大石寺法主はことごとく日蓮であるという意味なのである--------
「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を相承して日蓮門下に君臨しようとする大石寺の法主は、日蓮の代官として、日蓮と同等の地位でなければ、辻褄が合わなくなる。まさに日有の「御本尊七箇相承」偽造の目的は「代々法主即日蓮」の座の確立にあったといえよう。

「御本尊七箇相承」を日有が偽作したからこそ、これが歴史上はじめて登場するのが、日有の時代の1458(長禄2)年、筑前阿闍梨日格という僧侶が大石寺に登山した時に、日有の説法を書きとどめた有師談諸聞書(筑前阿闍梨聞書)である。日有が「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を偽作してから約13年後のことだ。その中には、次のように書いてある。
「長禄二年初春の比・筑前阿闍梨日格・登山の時、日有に尋ね申す法門なり秘事なり…一、本尊七箇・十四箇の大事の口決之れ有り」(『富士宗学要集』2巻158〜160ページより)

「御本尊七箇相承」の中に出てくる「代々上人」「嫡々代々」という言葉も、大石寺門流においては日有の時代から使われるようになった言葉である。
日有は、大石寺の行事を執行する際の化儀(儀式の仕様)において、大石寺法主を日蓮の代官に位置づけ、法主即日蓮の化儀を行った。たとえば、日有の説法を弟子の南条日住が筆録した「化儀抄」には次のように書いてある。

「信者門徒より来る一切の酒をば当住持始められるべし…三世の諸仏、高祖(日蓮)、開山(日興)も当住持(現大石寺法主)の所にもぬけられたる所なるが故に、事に仏法の志を高祖、開山、日目上人の受け給ふ姿なり」(『富士宗学要集』1巻62ページより)

これは「化儀抄」14条の文であるが、24条の文もこれとほぼ同じ意味の文である。
つまり三世の諸仏、高祖日蓮、開山日興、三祖日目からの仏法を受け継いでいる現大石寺法主が、「三世諸仏、高祖、開山、三祖の唯一の代表者・代官」として、信者門徒からの供養などの志を受け取るのだ、という意味である。つまり日蓮、日興、日目の代わりに現法主が、化儀の上で、日蓮の振る舞いをする、という日有の思想が読み取れる。
このように日有の「化儀抄」では、現大石寺法主が三世の諸仏、日蓮、日興、日目に代わってさまざまな化儀を執り行うことが所々で説かれている。
この「代々法主即日蓮」の教義は、日有の弟子の左京阿闍梨日教によって、さらに鼓吹・宣揚されて、現在の「法主信仰」が日蓮正宗大石寺門流に作り上げられていった。

検証32・甲州・湯之奥金山の金で「本門戒壇の大御本尊」を偽作した日有22


「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊や日蓮正宗総本山大石寺を粉飾・荘厳するための教義を発明し、数々のニセ文書を偽造した日蓮正宗九世法主・日有10


「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を代々相承する法主信仰を作り上げた左京阿闍梨日教


日蓮正宗九世法主・日有は、宗祖日蓮の信仰を継承すべき現大石寺法主を日蓮になぞらえて、現大石寺法主が三世の諸仏、日蓮、日興、日目に代わってさまざまな化儀を執り行い、大石寺門流としての教団を統率するという化儀を確立していった。
その日有の弟子である大石寺僧侶・左京阿闍梨日教は、この化儀・教義をさらに一段とエスカレートさせ、日蓮正宗大石寺法主を「唯授一人」「唯我一人」「血脈相承」「金口相承」「金師相承」と言った言葉で飾りたて、挙げ句の果てに「唯授一人の血脈を相承している大石寺法主は絶対である」などという「法主信仰」を作り上げた。
日教は、大石寺九世法主・日有の死後、数年の後、日蓮正宗大石寺を離れ、摂津国(大阪府)の堺を経て、日向国(宮崎県)の穆作院内山を訪れた。1484(文明16)年、「穆作抄」(むかさしょう)と名付けられた注釈書を著した。
その後5〜6年足らずの間に日教は「四信五品抄見聞」「五段荒量」「類聚翰集私」「六人立義破立抄私記」と次々と、日蓮正宗の教義に関する書物を執筆。これらの書物は、後々の大石寺法主によって書写されるなどして、大石寺門流内で大きな影響力を残している。

左京阿闍梨日教の文書では、釈迦牟尼—日蓮からの仏法附嘱の系譜を誇示する説が至る所に見られる。たとえば「穆作抄」では
「釈尊より以来の唯我一人の御附嘱を糸乱れず修行有る聖人を信受し奉る所の信心成就せば師檀共に事の行成立すべし、さてこそ当家なれ」(『富士宗学要集』2巻262ページより)
「此の(大石寺)門家には日蓮聖人より以来の附法血脈一宗の法頭疑ひなきなり」(『富士宗学要集』2巻274ページより)
「此の御本尊は忝くも高祖(日蓮)聖人より以来、付法の貫主のあそばしたまふ授与の御本尊より外に仰も雅意に任せて書く可きや」(『富士宗学要集』2巻283ページより)
といった左京阿闍梨日教の記述がある。同様の主旨の記述は、同じく左京阿闍梨日教の著書である「類聚翰集私」でもあり、
「日蓮聖人御入滅有るとき補処を定む。其の次に仏法附嘱として当代の法主の所に本尊の体有るべきなり」(『富士宗学要集』2巻309ページより)
と書かれている。
これらはいずれも、左京阿闍梨日教が日蓮正宗大石寺だけが釈迦牟尼—日蓮、日興、日目以来の仏法を相承・附嘱してきた正統な血脈を有する門流であることを宣言した文であると同時に、「当代(今の代)の法主の所に本尊の体有り」などという、日有が偽作した「御本尊七箇相承」の
「代々の聖人悉く日蓮なりと申す意なり」(『富士宗学要集』1巻32ページより)
と軌を同じくする言葉も見られる。これらは、現在の日蓮正宗が一宗挙げて取り組んでいる「唯授一人の血脈」を相承する日蓮正宗大石寺法主を「日蓮、日興、日目の代官」として、そしてその法主が「本尊の体」を有しているなどという「法主即本尊」「法主即日蓮」の教義の原型とも言える。
日有---左京阿闍梨日教によって、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を相承する大石寺法主を絶対視して信仰する「法主信仰」が出来上がっていった。

検証33・甲州・湯之奥金山の金で「本門戒壇の大御本尊」を偽作した日有23


「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊や日蓮正宗総本山大石寺を粉飾・荘厳するための教義を発明し、数々のニセ文書を偽造した日蓮正宗九世法主・日有11


日蓮正宗九世法主・日有が、「本門戒壇の大御本尊」なる名前の板本尊を偽作して日蓮真筆だなどと詐称し、日蓮正宗大石寺門流の中心・根本の本尊(法の本尊と日蓮正宗が呼んでいる)に据えた以上、日蓮を根本の仏(末法の本仏・仏の本尊と日蓮正宗が呼んでいる)に据えないと、日蓮正宗大石寺門流の教義の骨格の辻褄が合わなくなる。
日蓮の教義の中でも最重要教義としている「本門事の戒壇」に安置する「本門戒壇の大御本尊」なる黒漆塗りに金箔加工を施した豪華絢爛な板本尊の“造立主”は、『仏様』でなければならなかった。釈迦牟尼から相承を受けた上行菩薩が末法の世に再誕した僧侶・日蓮という位置づけでは、『仏』よりも格下の『僧』が『法の本尊』を説いたことになり、教義が自己矛盾に陥ってしまう。それよりも何よりも、日蓮正宗大石寺を富士門流の総本山はおろか、総ての日蓮門流(日蓮宗)の総本山にして覇権を握りたい日有の野望を満足させるものではなかったであろう。
日有は、大石寺門流の中で、最初に「日蓮本仏論」なる教義を説いた人物であった。


日蓮正宗大石寺門流で初めて「日蓮本仏論」なる教義を説いた日蓮正宗九世法主・日有


一般的な宗教学上の学説などでは、日蓮本仏論なるものは、日蓮正宗大石寺26世法主・日寛によって確立されたとの見解がなされているが、日蓮を人本尊(本仏としての本尊)とする教義を富士門流、なかんずく大石寺門流の中で、明確に確立したのは、日蓮正宗大石寺九世法主・日有である。
日有は、弟子の南条日住が筆録した「化儀抄」において、
「当宗の本尊の事、日蓮聖人に限り奉るべし」(日蓮正宗59世法主・堀日亨が編纂した『富士宗学要集』1巻相伝信条部65ページより)
と、はっきりと明示し、その上から、仏教教学的な観点から、日蓮本仏の教義を種々に説き示している。又、日有の説法の聞書を筆録した「有師談諸聞書」には
「高祖(日蓮)大聖は我れ等が為に三徳有縁の主師親・唯我一人の御尊位と云へり」(日蓮正宗59世法主・堀日亨が編纂した『富士宗学要集』2巻159ページより)
という日有の説法が残されていて、日蓮の位は、法華経で「唯我一人能為救護」と説いた釈迦牟尼と同じ仏の位であると日有が言っている。

日有の時代に、京都の日尊門流から日有に帰伏し、日有の教義展開の旗振り役を演じた大石寺の僧侶・左京阿闍梨日教は、日有の日蓮本仏論に付随する形で、自らの著書の中で
「本門の教主釈尊とは日蓮聖人の御事なり」(日蓮正宗59世法主・堀日亨が編纂した『富士宗学要集』2巻182ページ収録の日教の著書「百五十箇条」より)
「当家には本門の教主釈尊とは名字の位・日蓮聖人にて御座すなり」(日蓮正宗59世法主・堀日亨が編纂した『富士宗学要集』2巻320ページ収録の日教の著書「類聚翰集私」より)
等と述べて、日蓮本仏論を鼓舞している。
左京阿闍梨日教は、日有の時代の晩年のころには日蓮正宗大石寺門流に帰伏し、「三大秘法」「日蓮本仏」「法主の血脈」といった日有の教義を、説法の聞書がほとんどの日有とは対称的に、日教は自らの著書などで盛んに宣揚・鼓舞していっている。
日教の著書の背景には、大石寺法主・日有の教義があったことは明らかで、日有は日教を使って、日蓮本仏の信仰の思想化をした始めての人物であると言える。


検証34・甲州・湯之奥金山の金で「本門戒壇の大御本尊」を偽作した日有24


「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊や日蓮正宗総本山大石寺を粉飾・荘厳するための教義を発明し、数々のニセ文書を偽造した日蓮正宗九世法主・日有12


日蓮本仏論や法主信仰を説く妙蓮寺日眼作と伝えられる「五人所破抄見聞」は後世の偽作


日蓮の死去から約百年後の1380(康暦2)年に富士門流の本山寺院・妙蓮寺(現・日蓮正宗本山)の五代住職・日眼が書いたと伝えられる「五人所破抄見聞」という書物に
「威音王仏と釈迦牟尼とは迹仏也、不軽と日蓮とは本仏也。威音王仏と釈迦仏とは三十二相八十種好の無常の仏陀、不軽と上行とは唯名字初信の常住の本仏也」(『富士宗学要集』4巻1ページより)と、日蓮本仏論が説かれており、さらに
「日興も寂を示し玉ひ次第に譲り玉ひて、当時末代の法主の処に帰り集る処の法華経なれば法頭にて在す也」(『富士宗学要集』4巻9ページより)と、法主信仰的な表現の文が見られることから、これを証拠に日蓮正宗側では、「古来から日蓮本仏論はあった」と主張する。
しかし、この「五人所破抄見聞」なる文書は、日眼の著書ではなく、後世の人間が偽造した文書なのである。

まず「五人所破抄見聞」なる文書は、妙蓮寺五代住職・日眼の真筆文書は存在せず、『富士宗学要集』4巻に「五人所破抄見聞」を編纂・収録した日蓮正宗59世法主・堀日亨の意見によると、古来から伝わっている写本と称するものには、通読しがたいほどの錯誤や誤りが多数あり、現行の『富士宗学要集』に収録されている「五人所破抄見聞」は、堀日亨が大胆に編集・編纂したものであるという。
宮崎英修氏の説によると、「五人所破抄見聞」の内容からして、明らかに1470(文明4)年以降でなければ書けない記述があり、日眼の著書説に対して、重大な疑問を投げかけている。
池田令道氏の説によると、「五人所破抄見聞」では、従来からの日蓮正宗を含めた富士門流の所伝と異なる日昭・日朗・日興・日頂・日持の五人の身延離山説を唱えていること、この五人離山説の発祥は、京都要法寺の日尊門流であって、日尊門流出身の大石寺僧侶・左京阿闍梨日教の著書「百五十箇条」にも見られることなどからして、「五人所破抄見聞」は左京阿闍梨日教の「百五十箇条」の成立以降に書かれたものとしている。
さらに決定的な証拠なのは、この「五人所破抄見聞」の末尾の文に次のようにあることだ。
「伝写本云 康暦二庚申年六月四日書畢 本化末弟日眼 在御判」
この「康暦二」と「年」の間に「庚申」という干支を書き入れるような用法は、戦国時代から江戸時代にかけて一般的に定着していく、というのが古文書学説上における定説なのであり、それからすると1380(康暦2)年に、「康暦二庚申年六月四日」といった書き方はされない。したがって、この「五人所破抄見聞」の末文は、妙蓮寺五代住職・日眼の筆ではなく、後世の時代の人の筆ということになる。
このように「五人所破抄見聞」という文書は、妙蓮寺五代住職・日眼の著書などではなく、後世の偽作であるとする説が有力である。現在のところ、誰がこの文書を偽造したのかは判明していないが、大石寺門流で最初に「日蓮本仏論」を唱えたのが、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を偽作した九世法主・日有であることからして、宮崎英修氏や池田令道氏の説のように、日有の時代以降における作であろうと考えられている。

検証35・甲州・湯之奥金山の金で「本門戒壇の大御本尊」を偽作した日有25


「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊や日蓮正宗総本山大石寺を粉飾・荘厳するための教義を発明し、数々のニセ文書を偽造した日蓮正宗九世法主・日有13


日蓮本仏論や法主信仰を説く重須学頭日順作と伝えられる「本因妙口決」は後世の偽作


大石寺の開祖・日興の弟子で、重須談所の二代学頭(住職に次ぐナンバー2の職)の職にあった日順が書いたと伝えられる「本因妙口決」という書物に
「久遠元初自受用報身とは本行菩薩道の本因妙の日蓮大聖人を久遠元初の自受用身と取り定め申すべきなり」(『富士宗学要集』2巻83ページより)と、日蓮本仏論の言説があることから、これを証拠に日蓮正宗側では、「古来から日蓮本仏論はあった」と主張する。
しかし、この「本因妙口決」なる文書も、重須談所二代学頭・日順の著書ではなく、後世の人間、と言うか、少なくとも戦国時代以降の人間の手による偽造された文書であるとする説が有力である。

「本因妙口決」後世偽作説の根拠になっているものは、この「本因妙口決」の中に「日蓮一宗」(『富士宗学要集』2巻80ページより)「日蓮宗」(『富士宗学要集』2巻82ページより)といった言葉があるからである。
日順の他の著書である「日順阿闍梨血脈」「摧邪立正抄」「念真所破抄」では、いずれも「法華宗」と書かれている。
この「日蓮宗」という名称は、1536(天文5)年の天文法華の乱で、京都が灰塵になり、各日蓮教団が、幕府から「法華宗」の名称を使用することを禁じられてから使われるようになったと言われている。少なくとも、14世紀においては、どの日蓮門流においても「日蓮宗」「日蓮一宗」という言葉は使っていなかった。したがって「本因妙口決」を1300年代(14世紀)に生きた日順の著作とすることはとうていできない。
富士門流・日蓮正宗大石寺門流の史料では、「日眼御談」(『富士宗学要集』2巻132ページより)や日蓮正宗九世法主・日有の説法を弟子の南条日住が筆録したという「有師御物語聴聞抄佳跡・上」(『富士宗学要集』1巻194ページより)に「日蓮宗」の言葉が出てきている。
さらに1558(永禄1)年11月、日蓮正宗大石寺十三世法主・日院が、富士門流本山寺院・京都要法寺十九世法主・日辰に送った、日辰からの通用申し出を拒絶する書状『要法寺日辰御報』(『歴代法主全書』1巻450ページより)の中に、日院が「本因妙口決」の一部の記述をそっくりそのまま借用して書いている。
したがって、「本因妙口決」は少なくとも、1558年までには成立していたということになるが、やはり少なくとも、日蓮正宗大石寺門流の中で「日蓮宗」という言葉が使われはじめた、九世法主・日有の時代より以降ということになろう。
日蓮本仏論というものを、日蓮正宗大石寺門流ではじめて公然と説いたのは、九世法主・日有であるから、「五人所破抄見聞」にしても「本因妙口決」にしても、日蓮正宗大石寺門流の者が、日有の時代より前の、古来から日蓮本仏論が唱えられていたことを証したいが為に、偽造したニセ文書である説が今日有力である。


検証36・甲州・湯之奥金山の金で「本門戒壇の大御本尊」を偽作した日有26


「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊や日蓮正宗総本山大石寺を粉飾・荘厳するための教義を発明し、数々のニセ文書を偽造した日蓮正宗九世法主・日有14


富士門流各本山や二十六世日寛の教学にも影響を及ぼした日有の「日蓮本仏論」


日蓮正宗大石寺門流で、日有がはじめて唱え出した「日蓮本仏論」を、弟子の左京阿闍梨日教は、「三大秘法」「唯授一人」「血脈相承」「金師相承」「金口相承」といった教義と同様、自らの著書の中で鼓吹・宣揚していった。左京阿闍梨日教の著書「百五十箇条」では
「本門の教主釈尊とは日蓮聖人の御事なり」(『富士宗学要集』2巻182ページより)と述べており、同じく著書「類聚翰集私」では
「当家には本門の教主釈尊とは、名字の位・日蓮聖人にて御座すなり」(『富士宗学要集』2巻320ページより)と、述べている。
この「日蓮本仏論」は、大石寺門流以外の日興門流・富士門流にも、大きな影響を及ぼしたようで、房州(千葉県)保田の日目の弟子の日郷門徒の系統の富士門流本山寺院・保田妙本寺十一代住職・日要や十四代住職・日我も、「日蓮本仏論」を唱えている。
たとえば保田妙本寺十一代住職・日要は、著書「六人立義草案」で
「未曽有の大漫荼羅は末法の本尊也、其の本尊とは(日蓮)聖人の御事也」(『富士宗学要集』4巻71ページより)と述べて、日蓮本仏論を唱えている。
保田妙本寺十四代住職・日我は、著書「観心本尊抄抜書」の中で
「脱の観心本尊は釈迦、熟の観心本尊は天台、種の観心本尊は日蓮也」(『富士宗学要集』4巻139ページより)と述べており、同じように日蓮本仏論を唱えている。
日要は、大石寺九世法主・日有の説法を筆録した聞書を書き残しており、日蓮正宗大石寺の影響を相当に受けている人物である。日我もその説いている教義の内容は、日蓮正宗大石寺のものと全く同じであり、さらに日我は、前出の著書「観心本尊抄抜書」に、大石寺の「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊は、日蓮が生きていた時代に造立したものだ、などという文まで書いている有様である。日蓮正宗59世法主・堀日亨は、1959(昭和34)年6月号『大白蓮華』32ページの中の「富士宗学要集の解説5」において
「有師(九世法主・日有)の説が寛師(二十六世法主日寛)の説になった。有師と寛師との中間に有師のものが房州(千葉県保田の本山妙本寺)に伝わって房州の日要・日我の説になっている」
と述べて、保田妙本寺住職が唱えた「日蓮本仏論」は、大石寺九世法主・日有の唱え出した「日蓮本仏論」の影響によるものであると、述べていると同時に、日有の教学は、江戸時代中期、今の日蓮正宗の教義・教学の骨格をほぼ完成させた大石寺二十六世法主日寛の教学にも影響を及ぼしたと述べている。
それにしても、日有以前までは極貧と疲弊の極みにあった大石寺が、どうしてここまで他の富士門流の本山寺院の教学まで影響を及ぼす存在にまでなったのか。
やはり日有が偽作した「本門戒壇の大御本尊」なる名前の黒漆塗りに金箔加工を施した豪華絢爛な板本尊を目の前で見せつけられたことが大きいのではないだろうか。鎌倉時代から室町・戦国時代において、このような豪華絢爛な板本尊は他に類例がない。日有の晩年、大石寺と北山本門寺・保田妙本寺・小泉久遠寺の門徒が論争を起こしているが、文献を見る限り、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を持つ大石寺が他の富士門流寺院にまで、教学的に覇権を持っていた様子が窺えるものだ。

検証37・甲州・湯之奥金山の金で「本門戒壇の大御本尊」を偽作した日有27


「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊や日蓮正宗総本山大石寺を粉飾・荘厳するための教義を発明し、数々のニセ文書を偽造した日蓮正宗九世法主・日有15


すでに「百六箇抄」「本因妙抄」を持っていた日蓮正宗大石寺九世法主・日有


日蓮本仏論といえば、京都の日尊門流が源である富士門流本山寺院・京都要法寺に伝わるとされる「百六箇抄」「本因妙抄」が知られている。内容的には、「百六箇抄」も「本因妙抄」も日蓮の真筆などではなく、後世の何者かが偽造した偽書であるが、日蓮正宗九世法主・日有は、この何者かが偽造した「百六箇抄」「本因妙抄」をすでに入手して、これらを基にして大石寺門流内で「日蓮本仏論」を唱えだした可能性が大である。
執行海秀氏は、著書「興門教学の研究」の中で
「日有の教学には『本因妙抄』の思想は既に存しており、それは日有によって初めて石山教学として、形成されている。しかし『本因妙抄』並びに『百六箇抄』の両血脈を直接文献として引用するところがなく、またその書名も挙げていない」
という見解を示している。
大黒喜道氏は興風談所発行「興風」14号の論文「日興門流における本因妙抄思想形成に関する覚書」の中において、大石寺九世法主・日有の言説の中に「百六箇抄」「本因妙抄」の内容と共通するもの表現があるとし、日有の説法を筆録した「化儀抄」116条において引用されている「権実約智約教」「本迹約身約位」「雖脱在現具騰本種」といった法華玄義や法華文句記の釈文が、「百六箇抄」「本因妙抄」において重要視されていることや、「日有雑々聞書」の中の「高祖開山唯我与我」(『富士宗学要集』2巻166ページより)との文が、『本因妙抄』の「唯我(日蓮)と与我(日興)計り」『富士宗学要集』1巻8ページより)と似ていることから、「百六箇抄」「本因妙抄」が日有教学の形成に当たって何らかの影響を及ぼしたのではないかという意見を述べている。

しかしそれよりも何よりも、日有が偽作した『御本尊七箇相承』なる文書に、「百六箇抄」の文がそっくりそのまま引用されているということを指摘しなければならないだろう。
「本尊書写の事、予が顕はし奉るが如くなるべし。若し日蓮御判と書かずんば天神地神もよも用ひ給はざらん。上行無辺行と持国と浄行安立行と毘沙門との間には、若悩乱者頭破七分・有供養者福過十号と之を書く可し。経中の明文等心に任す可きか」(『富士宗学要集』1巻33ページより)
この文は、そっくり同じ文であるが、その外にも「御本尊七箇相承」の「嫡々代々」(『富士宗学要集』1巻32ページより)の「嫡々」という言葉は、「百六箇抄」の「嫡々付法の上人」(『富士宗学要集』1巻21ページより)や「本因妙抄」の「日蓮嫡々座主」(『富士宗学要集』1巻8ページより)に出てくる「嫡々」と同じ言葉である。
「御本尊七箇相承」という文書が、日有によって偽作された文書であるということはすでに論じたが、これによって日有が「百六箇抄」「本因妙抄」を直接披見していたことが明白になる。

日有の事跡を見ていくと、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を正統化せしめ、日蓮正宗大石寺を粉飾・荘厳する為ならば、利用できるものは何でも利用し、ニセ文書だろうがにせ本尊だろうが平気で造立するといった、謀略と欺瞞に満ちあふれた体質が浮き彫りになってくる。
「人を騙すためならなんでもする」--これでは宗教などではなく、一級品の詐欺師であり、宗教犯罪と呼ぶべきものだ。


検証38・甲州・湯之奥金山の金で「本門戒壇の大御本尊」を偽作した日有28


「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊や日蓮正宗総本山大石寺を粉飾・荘厳するための教義を発明し、数々のニセ文書を偽造した日蓮正宗九世法主・日有16


「日興跡条条事」を偽作して日興真筆の相承書と詐称した大石寺九世法主・日有


「本門戒壇の大御本尊」なる名前の黒漆塗りに金箔加工を施した豪華絢爛な板本尊を偽造して、日蓮真筆などと詐称した大石寺九世法主・日有は、このド派手な板本尊を正統化する為の直接の文言を記した文書を偽造・でっち上げ、これを「日興跡条条事」と名付けて、日興真筆の相承書であるなどと詐称した。
それを告発したのは、大石寺から二キロぐらいしか離れていないところにある、日興の正墓がある、富士門流の本山寺院・北山本門寺六代住職・日浄である。
「富士山本門寺文書集日浄記」と呼ばれている文書の中で、日浄は1493(明応2)年、次のような一節を書き残している。

「日有、開山の本懐に背き、未聞未見の板本尊これを彫刻す。己義荘厳の偽書を造る。その偽書とは、此の文(「日興跡条条事」のこと)、並びに番帳(「日目譲り状」のこと)を指すなり。もし、日有の誑惑世間に流布せば、興門の道俗共に無間に堕ち、将来悲しむべし」
----日有は、開山・日興上人の本懐の精神に背き、今までに見たことも、聞いたこともない、板本尊を彫刻した。その上に、大石寺一門と自分の身を粉飾し、飾りたてるために、「日興跡条条事」という偽書と、「日目譲り状」という偽書を作製した。もしこの日有の誑惑(たぶらかし)が、一般世間に広まってしまうようなことになってしまったら、日興門流の僧侶や信者は、無間地獄に堕ちてしまい、将来、悲しむべきことになってしまうだろう。------

日有は、偽造した「日興跡条条事」の中で、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の文証として、次の文を書き残した。
「日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊、日目に之を相伝す。本門寺に懸け奉るべし」
「大石寺は御堂と云ひ墓所と云ひ、日目之を管領し…」(『平成新編御書全集』1883ページより)

この文を受けて、大石寺二十六世法主日寛は、自らの著書「文底秘沈抄」において
「然に三大秘法随一の本門戒壇の本尊は今富士山(大石寺)の下にあり…既に戒壇の本尊を伝う故に御堂と云ふ」(『富士宗学要集』3巻より)
と解説し、大石寺の「御堂」という名前の堂宇があるのは、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊があるからだ、などと言っている。日寛はこの「日興跡条条事」を金科玉条の文書として、現在の日蓮正宗の「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を中心とする教義を完成させている。
しかしこの「日興跡条条事」なる文書の内容たるや、まったくデタラメ。デタラメな内容については
「日蓮正宗大石寺の「本門戒壇の大御本尊」は日蓮真筆ではない。後世の偽作だ」
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=5482743&comm_id=406970
ここにも記載したので再論はしないが、とにかくひどい内容の文書である。しかも日蓮正宗大石寺は、日有が偽作した後も、意図的に文章を削除したり、付け加えたりして、新しい「日興跡条条事」をそれこそ何通も偽作している疑惑すらある。
善良な人々を騙して、自宗に入信させ、莫大な供養金を搾取するために、本尊を偽造し、ニセ文書を次々と偽造してきた大石寺。まさに宗教詐欺そのものである。

検証39・甲州・湯之奥金山の金で「本門戒壇の大御本尊」を偽作した日有29


「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊や日蓮正宗総本山大石寺を粉飾・荘厳するための教義を発明し、数々のニセ文書を偽造した日蓮正宗九世法主・日有17


「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊は「蔵」の中に秘蔵する教義を発明した九世法主日有


日蓮正宗66世法主・細井日達が「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を蔵に秘蔵する教義を、次のように説法している。
「広宣流布を待ってはじめて本門寺を建立、戒壇の大御本尊を安置し奉って『事の戒壇』建立ということになるのでございます。それまでは『戒壇の御本尊』をおしまい申しかたく護る。先師方が客殿の後ろの奥深くに戒壇の御本尊をお護り申すということを仰せられております。わが本山の先師方のこれが心でございまして、客殿の後ろに奥深く『戒壇の御本尊』を蔵し奉る、しまっておく、広宣流布の暁までは、しまっておくということになる。・・・・『戒壇の御本尊』はどこまでも蔵の中にあるのでございます。誰がみても今の奉安殿は外から見ても立派である。しかし『戒壇の御本尊』様のまわりをご覧なさい。石である。石で囲ってあるきりで、蔵ではないか。そこに何を供えてあるか。・・・シキミの花を供えるのが本意であります。奉安殿の中にシキミがありますか。ないじゃあないですか・・・そのシキミは客殿にあります。客殿に、みなさまが(丑寅)勤行において、二回目に唱える奉安殿に向かって遥拝する、あそこにシキミがある。だからこれを以て推していくと、『戒壇の御本尊』はどこまでも蔵の中にしまってある。蔵してあって拝むのは、外から遥拝する。ただ特別に内拝のために(戒壇の御本尊の)そばまで行って拝めるというのである。だから今度はその『戒壇の御本尊』のお出ましを願って、はじめてそこに『本門寺の戒壇』建立ということが出来上がるのでございます。お出ましは先程から申すところの、いわゆる広宣流布の暁である」(日蓮正宗機関誌『大日蓮』163号)
しかしこれからすると、日蓮正宗九世法主・日有が「御宝蔵」を創建する以前には、大石寺には蔵という建造物はなかった。細井日達は、「蔵の中に秘蔵する」という教義が、日蓮・日興以来の伝統教義であるかのように言っているが、そもそも大石寺に蔵を創建したのが九世法主日有であるからして、「蔵に秘蔵する」という教義を発明したのも日有に他ならない。
もっとも「秘蔵」と言っているが、もともと日有は、人目につかずに、まさに秘密裏に「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を偽作するために、最初からこの「御宝蔵」なる土蔵造りの蔵を創建したのかもしれない。どこで偽作したかとなれば、この「御宝蔵」以外に考えられないからだ。
ところで細井日達は、蔵が日有によって創建したのが歴史的な事実であるため、これでは都合が悪いと思ったのか、片方ではこんなことも言っている。
「その大御本尊を日興上人が大石寺の本堂に安置され、大聖人生身の御影は御影堂に安置せられましたが、その後、本山の陵夷により本堂御影堂が一堂となり、戒壇の大御本尊は御影とともに安置されてあったようであります。しかしその後、御宝蔵が大きく造立せられてから、大御本尊は御宝蔵にお移し申し、御影堂には日精上人の板本尊が安置せられたと思われます」(昭和47年1月号『大白蓮華』に寄せた指南)
ウソにウソを塗り固めているようだが、そうすればするほど、矛盾が大きくなり馬脚が現れる。日興が大石寺を創建した時、本堂なる建物はなかった。そんな記録はどこにもない、本堂も「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊も大石寺に存在していなかった。日蓮正宗という宗教は、ないものをあったことにして、どこまでもウソをつき通していこうとする宗教のようなのである。

検証40・甲州・湯之奥金山の金で「本門戒壇の大御本尊」を偽作した日有30


「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊や日蓮正宗総本山大石寺を粉飾・荘厳するための教義を発明し、数々のニセ文書を偽造した日蓮正宗九世法主・日有18


「産湯相承事」なるニセの相承書を偽造した日蓮正宗九世法主日有


日有の事跡を見ていくと、日有が、さまざまな偽造文書を造っていることがわかってくるが、その中のひとつに「産湯相承事」なる文書がある。
この文書は日蓮正宗側の説明によると、日蓮が自らの出生の秘密や名前に日文字を付けることの意味、日蓮本仏論などについて、日興に語った内容を日興が筆録した文書であるとなっているが、こんなことを日蓮が語るはずがない。なぜか。
日興の弟子で新六僧の一人であり、大石寺四世法主の日道が日蓮・日興・日目の伝記である「三師御伝土代」を書いているが、この「産湯相承事」で日蓮自身が語ったとされる出生の秘密について、日道は一言も書いていないのである。日蓮が自らの出生のことについて、このように日蓮が日興に語っていたならば、それを「三師御伝土代」に日道が書かないはずがない。
二番目に、「産湯相承事」において、日蓮は自らの出生の秘密について実父・三国の太夫と実母・妙連禅尼の霊夢を見た物語を述べて、そこから日蓮本仏論などを説いていると書かれているが、これは日蓮自身が著書「撰時抄」で説き示した内容と大きく矛盾するものである。
それは、日蓮は「撰時抄」の中で、かつて慈覚大師が法華経と大日経のどちらが優れた経典かがわからず、ある夜に日輪を弓で射る夢を見て、大日経が優れていると判断したことを批判して、釈迦牟尼、天台大師、伝教大師らの経釈を引き、「夢を本にはすべからず」(『平成新編御書全集』861ページより)と述べて、あくまでも教義は経典や釈文を根本とすべきであり、夢で見た内容を教義の根本にすべきではないと言っているからだ。
その日蓮が今度は「産湯相承事」では一転して
「日蓮が弟子檀那等、悲母の物語と思ふべからず、即ち金言なり。其の故は予が修行は兼ねて母の霊夢にありけり」(『平成新編御書全集』1709ページより)と説いたというのでは、全くの矛盾したことを日蓮が説いたことになる。したがって、日蓮がこんな夢物語を語って教義を説くはずがない。
「産湯相承事」が歴史上はじめて登場するのが、日有の時代の1458(長禄2)年、筑前阿闍梨日格という僧侶が大石寺に登山した時に、日有の説法を書きとどめた有師談諸聞書(筑前阿闍梨聞書)である。日有が「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を偽作してから約13年後のことだ。その中には、次のように書いてある。
「長禄二年初春の比・筑前阿闍梨日格・登山の時、日有に尋ね申す法門なり秘事なり…一、本尊七箇・十四箇の大事の口決之れ有り。然れば日蓮二字の事・日文字を以て大事と決せり」(『富士宗学要集』2巻158〜160ページより)
日有の弟子の左京阿闍梨日教が著書の中で、「産湯相承事」の全文を引用している箇所があるので、この日有の時代までには、成立していた。この「産湯相承事」という名前の、日蓮の出生を語ったニセ文書には、日蓮本仏論が説かれている箇所があるので、やはりこの文書の偽造にも、日有が大きく関係していることは明らかだろう。
日蓮正宗大石寺を粉飾・荘厳するためには、利用できるものは何でも利用し、偽造できるものは何でも偽造してしまう日蓮正宗・日有のドス黒い謀略体質。こういうインチキ宗教は、徹底的に指弾されていかねばならない。


検証41・甲州・湯之奥金山の金で「本門戒壇の大御本尊」を偽作した日有31


金による大きな経済力で「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を偽作した九世法主日有


甲州(甲斐の国・山梨県)・湯之奥金山から産出した金を入手していた日蓮正宗九世法主・日有は、その金を足掛かりにして、大きな経済力を持つにいたり、それによって「本門戒壇の大御本尊」なる名前の黒漆塗りに金箔加工を施した豪華絢爛な板本尊を偽作することに成功した。
中世のころ、金を手に入れていた者は、どれだけ莫大な経済力を握ることができたのか。その実例を、奥州(東北)の砂金を入手していた奥州・平泉の藤原氏に見ることができる。
宮城県多賀城市の「東北歴史博物館」は、奥州・藤原氏の持っていた莫大な経済力と栄華ぶりについて、次のように説明している。
「(奥州・藤原氏は)都(京都)と東北地方のとりつぎの役目を担い、米などの収穫物や、金、馬、アザラシの皮などに代表される東北地方や北方の特産物の支配や流通に大きな影響力を持っていた。交流や交易を通じて、さまざまな品物や技術が奥州・藤原氏のもとに運ばれてきた。中国で出版された仏教の経典、中国製の白磁といった高級品や東海地方の常滑(とこなめ)や渥美をはじめとする大量の国内産陶器がある。さらに漆(うるし)や金属を使った工芸など、東北地方では見られなかった高度な技術がもたらされた。」
「奥州・藤原氏の経済力 / 「吾妻鏡」には毛越寺に安置する仏像製作の謝礼として、(藤原)基衡が仏師に金(きん)、鷲(わし)の羽根、アザラシの皮、絹、布、馬などの莫大な謝礼を送り続けたことが記されている」
「(奥州・藤原氏は、平泉の)中尊寺や毛越寺などに都(京都)の流行を採り入れ、多大な財力を注いでいる。中には、工芸技術の枠を集めた中尊寺金色堂や紺色(こんいろ)の用紙に金字と銀字で書き写した一切経(紺紙金泥のお経)など、都にさえ見られないものがあった」(宮城県多賀城市の『東北歴史博物館』の展示より)
奥州・藤原氏においても、金を入手したことによる莫大な経済力を背景にして、漆や金属を使った高度な技術を使った工芸品や、当時は京都にさえなかった「紺紙金泥のお経」までも手にしていたという。つまり、金による経済力があれば、「漆」や「金属を使った工芸」を入手することができたということであり、さらに報酬を支払った上で仏師を雇い入れることもできたということである。。
それならば、甲斐国(山梨県)湯之奥金山の金を入手していた大石寺法主・日有が、金による大きな経済力を背景にして、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を偽造するために必要な、「楠木」「黒漆」といったものを買い入れ、「大工」「薬研彫りの職人」「漆加工の職人」「金箔加工の職人」「仏師」といった職人を雇い入れたとして、当然だろう。
ちなみに紺色(こんいろ)の用紙に金字と銀字で書き写した」法華経である「紺紙金泥の法華経」と呼ばれているものが、江戸時代初期には北山本門寺に格蔵されていて、1617(元和3)年に北山本門寺に参詣した京都要法寺二十四世日陽が、北山本門寺で「紺紙金泥の法華経」を拝観したと「祖師伝」という著書に書き残している。(『富士宗学要集』5巻より)
日蓮正宗大石寺48世法主日量が書いた「富士大石寺明細誌」(『富士宗学要集』5巻319ページ〜)によると、大石寺にはその「紺紙金泥の法華経一部八巻」が所蔵されている他、「紺色の用紙に金字で書き写した漫荼羅」である「紺紙金泥の漫荼羅一体」が所蔵されていると記されている。
こうしてみると、大石寺と北山本門寺の間の熾烈な本山争い・覇権争いの痕跡が見て取れる。
「大石寺が『黒漆塗りに金箔加工の板本尊』なら、こっちには『紺紙金泥の法華経』がある」「それならこっちは『紺紙金泥の漫荼羅』だ」といった具合である。こんな欺瞞的な、私利私欲剥き出しの覇権争いのために騙されて供養金を搾取されつづける信者こそ哀れである。

検証42・甲州・湯之奥金山の金で「本門戒壇の大御本尊」を偽作した日有32


大石寺法主日有に対抗して現在の地に大伽藍・堂宇を新築した身延山久遠寺


日蓮正宗大石寺九世法主日有が「本門戒壇の大御本尊」なる名前の黒漆塗りに金箔加工の豪華絢爛な板本尊を偽作して、これは「日蓮真筆である」「大石寺だけが秘かに相伝してきた」などと詐称して世に登場させしめたことは、周辺の寺院に大きな衝撃を与えたようだ。まさに日有が「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を偽作してから、大石寺・身延山久遠寺・北山本門寺・京都要法寺・小泉久遠寺・保田妙本寺といった本山寺院で、熾烈な覇権争いがはじまるのである。
日有が「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を偽作してから約三十年後の1474(文明6)年、身延山久遠寺十一世法主日朝が、日蓮が生きていた時代から身延山西谷にあった久遠寺の堂宇を、現在の地に移転し、新たに本堂・祖師堂・報恩閣・真骨堂といった大伽藍の他に、周辺の数々の宿坊などの堂宇を建立している。この年は、大石寺法主日有は満72歳。まだ大石寺の現役法主として健在であった。日蓮の真骨を安置する正墓がある身延山久遠寺としても、大石寺法主日有の動きに対して、黙っておれなかったのであろう。
それにしても、現在の地を新たに開墾して、これだけの大伽藍・堂宇を新築するとなれば、それこそ莫大な建設費がかかっているはずである。
参考資料であるが、永原慶二氏の著書「日本の歴史10・下克上の時代」によると、1413(応永20)年の日蓮宗本山寺院・京都妙顕寺の再建に1900貫の建設費がかかり、そのうちの1300貫は、京都の豪商小袖屋・柳屋が寄進したものだったという。(「日本の歴史」413ページより)
1474年の身延山久遠寺の移転新築に当り、どれだけの建設費がかかったのかは定かではない。
ただし、身延山久遠寺は1875(明治8)年1月の大火事で焼失した本堂を1985(昭和60)年5月に再建・落慶しているが、この本堂の再建に百十年の歳月がかかっている。五重塔に至っては、現在再建工事中であるから、これには何と百三十年以上の歳月がかかっていることになる。
しかも本堂の再建にも、五重塔の再建にも、身延山久遠寺は全国の信者から、かなりの供養金を募集して、ようやく着工・建設工事にこぎつけたものだというのである。
したがって、日蓮が生きていた時代から二百年近くも西谷にあったままだった身延山久遠寺の堂宇が、ちょうどこの、大石寺法主日有が「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を偽作してまもなくの時期に、全国の久遠寺信者の供養金によって、身延山久遠寺の伽藍・堂宇が、現在の地に移転新築したなどとは、とても考えにくいのである。
谷口一夫氏の著書「武田軍団を支えた甲州金」によると、湯之奥金山の一つである内山金山の鉱山跡の通称「寺屋敷」テラス(造成地)には、かつて日蓮宗の宝金山永久寺があったという。
この「日蓮宗」という言葉が、直ちに身延山久遠寺を総本山とする「日蓮宗」を指すのかどうかは定かではないが、しかし1989〜1991年の3ケ年にわたる湯之奥金山遺跡学術調査会・同調査団の湯之奥金山の発掘調査によって、湯之奥金山の掘間を所有し、金山を操業していた金山衆は、大半が法華の信者であったことが判明している。
1400年代(15世紀)という時代は、寺檀制度や寺請制度というものが、今のようにまだ制度化されておらず、法華の信者であれば、大石寺にも行けば、北山本門寺にも行き、時には身延山久遠寺にも参詣するといった人たちが多かった時代である。大石寺法主日有に金を供養していた金山衆は、同時に身延山久遠寺にも供養していたとは充分に考えられるのである。
したがって、1474年の身延山久遠寺の移転新築も、湯之奥金山の金を久遠寺法主日朝が手に入れたことによる経済力で完成させたと見るほうが、むしろ自然なのではないだろうか。

検証43・甲州・湯之奥金山の金で「本門戒壇の大御本尊」を偽作した日有33


日有の時代に相次いで造立された黒漆塗りに金箔加工を施した五体の板本尊


日蓮の時代はおろか、日興、日目、日道から日時の時代にいたるまで、黒漆塗りに金箔加工を施した豪華絢爛な板本尊は、日蓮正宗には一体も存在していない。それが突如として、日有の時代に五体も出現してくるのである。そして日有の時代を過ぎるて十二世法主日鎮の時代になると、またしても黒漆塗りに金箔加工を施した板本尊の造立は一旦なくなり、江戸時代の初期、十七世法主日精の時代から、再び復活するのである。
日有の時代に、日蓮正宗総本山大石寺と末寺に、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊と同じく、黒漆塗りに金箔加工を施した豪華絢爛な板本尊が五体も存在していることは、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊が日有によって偽作されたということを証明する傍証となっているといえる。その五体の板本尊とは、以下の通りである。

(1) 応永十九年(1412年)十月十三日造立の日付が入っている、日蓮真筆の「紫宸殿本尊」を模写 彫刻した板本尊・日蓮正宗・平井(栃木県栃木市)信行寺に格蔵
(2) 応永二十七年(1420)年四月十五日の日付が入っている、日蓮真筆の「紫宸殿本尊」を模写彫刻した板本尊・日蓮正宗・黒須野(福島県いわき市)妙法寺に格蔵
(3) 文安二年(1445年)十一月六日の日付と日有の署名花押が入っている、日蓮真筆の「紫宸殿本尊」を模写彫刻した板本尊・日蓮正宗総本山大石寺御宝蔵に格蔵
(4) 日付はないが本尊の表に日有の署名花押が入っている、日蓮真筆の「紫宸殿本尊」を模写彫刻した板本尊・日蓮正宗・磐城(福島県いわき市)蓮浄寺に格蔵
(5) 日付はないが本尊の表の右下に日有の署名花押が入っているが、裏面には「三位日恵奉彫刻之」と書いている、日蓮真筆の「紫宸殿本尊」を模写彫刻した板本尊・日蓮正宗・小金井(栃木県下野市)蓮行寺に格蔵

これらはいずれも、日蓮正宗大石寺に格蔵されている日蓮真筆の「紫宸殿本尊」を模写彫刻した板本尊であるという共通項がある。
(3)の板本尊は、1445年に日有が直接、模写彫刻に関与し、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊偽作を隠蔽するために、東井出村井出家の窖(あなぐら)に隠したなどという伝説まででっち上げた上に「御身代わり本尊」と呼ばせている板本尊である。
この板本尊は、日蓮正宗・根方(静岡県沼津市)本広寺の前身と言われる鳥窪寺院の住職・日伝に授与されたが、現在は日蓮正宗大石寺の「御宝蔵」の中に格蔵されている。
(4)の板本尊は、日付が入っていないものの、日有の署名花押が入っているため、日有が「紫宸殿本尊」を模写したか、あるいは模写から彫刻までを手がけたのか、いずれにせよ、日有の時代に造立された板本尊である。
(5)の板本尊も、(4)の板本尊と同じく、日付が入っていないものの、日有の署名花押が入っているが、しかし板本尊の裏面には、「三位日恵奉彫刻之」と書いてある。又これは、蓮行寺九代住職三河阿闍梨日満が願主になっている。これも日有が用意した「紫宸殿本尊」の模写を板に彫刻・造立させた板本尊と考えられるものだ。


検証44・甲州・湯之奥金山の金で「本門戒壇の大御本尊」を偽作した日有34


日蓮正宗・平井信行寺の応永十九年の板本尊は日有の時代に彫刻造立されたものだ


日蓮正宗・平井(栃木県栃木市)信行寺には、応永十九年(1412年)十月十三日造立の日付が入っている、日蓮真筆の「紫宸殿本尊」を模写彫刻した板本尊が格蔵されている。この板本尊には表の右下に「右願主薗部/日重弟子小輔/阿闍梨日経造立」と書いてあり、左下には「遺弟日影代/応永十九年太歳壬辰/十月十三日」と書かれている。日蓮正宗59世法主・堀日亨が書いた「堀ノート」によると、この本尊について「本堂 楠板 宗祖御真筆 弘安三年庚申三月 宗祖在御判 応永十九年十月十三日」と書いており、楠木の板で出来ているという。
1412年に造立日が書かれているこの板本尊は、日蓮正宗では最古の板本尊と呼ばれており、1412年といえば大石寺法主は八世日影であり、これは日有以前に黒漆塗りに金箔加工の板本尊が造立されていたということになる。
しかし、この板本尊は1412年の日影の時代に造立された本尊とは、とても考えにくいのである。
まず第一に、この板本尊は「楠板」で出来ているということだが、栃木県というところは、身延山以上に自生の楠木がない所であり、楠木の板本尊をそもそも造立することが不可能であること。
第二に、信行寺にいくら有力な信者がいたとしても、「黒漆塗り」や「金箔加工」を施すほどの経済力も技術力もない。
第三に、栃木県下野市周辺には、金を産出する金山は存在せず、信行寺がそもそも「金」を入手することが不可能であること。ここから一番近い金山は、福島県郡山市の高玉金山であるが、ここは1573(天正1)年に会津藩主芦名盛興によって開かれたもので、1400年代には、まだ未発見で、金山そのものが存在していなかった。
第四に、総本山大石寺にすら黒漆塗りに金箔加工の板本尊が存在しないのに、末寺が本山をさし置いて、こんな豪華絢爛な板本尊を造立することはあり得ないこと。
以上のような理由から、日蓮正宗の末寺である信行寺が、独力で黒漆塗りに金箔加工を施した豪華絢爛な板本尊を造立することは不可能であると結論付けざるをえない。
したがって、この板本尊の「応永十九年太歳壬辰/十月十三日」との日付は、信行寺に格蔵されている板本尊そのものの造立日と位置づけることはできない。
それではこの板本尊は、どういう経緯で造立されたのか。
つまりこの信行寺に格蔵されている「紫宸殿本尊」を模写彫刻した板本尊は、最初に模写した当時は、板本尊ではなく、紙でできた掛軸式の本尊だったと考えられるのである。
そして大石寺九世法主日有が「本門戒壇の大御本尊」なる黒漆塗りに金箔加工の板本尊を偽作した後、信行寺の住職が同じように黒漆塗りに金箔加工を施した板本尊に造立しようと試みて、大石寺から楠木・黒漆・金・金箔加工や漆加工の職人などを援助してもらった上で、板本尊に彫刻したと考えられるのである。
こういった経緯でもなければ、日蓮正宗の一末寺である平井信行寺に、中世からの黒漆塗りに金箔加工の板本尊が存在していること自体、説明がつかない。
したがって、この板本尊に書かれている「応永十九年太歳壬辰/十月十三日」という日付は、板本尊そのもの造立日ではなく、最初に「紫宸殿本尊」を模写して造立された紙でできた掛軸式の本尊が造立された日と考えられるのである。

検証45・甲州・湯之奥金山の金で「本門戒壇の大御本尊」を偽作した日有35


妙法寺の応永二十七年の板本尊は「本門戒壇の大御本尊」偽作後に黒漆金箔加工された


日蓮正宗・黒須野(福島県いわき市)妙法寺には、応永二十七年(1420年)四月十五日造立の日付が入っている、日蓮真筆の「紫宸殿本尊」を模写彫刻した板本尊が格蔵されている。1420年といえば、日有が大石寺法主に登座して間もないころということになるが、この板本尊には日有の署名花押がなく、日蓮正宗59世法主堀日亨が編纂した『富士宗学要集』8巻によると、この板本尊は「檜」(ヒノキ)の板本尊で、脇書きには「大檀那大伴氏浄蓮」という名前が書いてあるという。
同じく堀日亨が書いた「堀ノート」には「当寺にては戒壇御本尊と云ひけるとのこと。 裏書不明」とあり、この板本尊は妙法寺にては戒壇の御本尊と称されていたというのである。
この妙法寺の板本尊も、応永二十七年の造立当初から、黒漆塗りに金箔加工を施した板本尊だったとは、とても考えられず、後からこのように加工されたと考えられるのである。
理由はやはり第一に、妙法寺にいくら有力な信者がいたとしても、大石寺の末寺である信行寺には単独では「黒漆塗り」や「金箔加工」を施すほどの経済力も技術力もないと考えられること。
第二に、福島県いわき市周辺には、金を産出する金山は存在せず、妙法寺がそもそも「金」を入手することが不可能であること。ここから一番近い金山は、やはり福島県郡山市の高玉金山であるが、ここは1573(天正1)年に会津藩主芦名盛興によって開かれたもので、1400年代には、まだ未発見で、金山そのものが存在していなかった。
第三に、総本山大石寺にすら黒漆塗りに金箔加工の板本尊が存在しないのに、末寺が本山をさし置いて、こんな豪華絢爛な板本尊を造立することはあり得ないこと。
第四に、この板本尊の脇書きに「大檀那大伴氏浄蓮」と書いてあるというが、もし仮にこの脇書きにある「大檀那大伴氏浄蓮」という信者が願主ないしは授与者になっている本尊だとしたら、造立当初から、大石寺にもない黒漆塗りに金箔加工を施した板本尊だったとは、絶対に考えられない。日蓮正宗において、どんな功績が大なる信者に対してでも、法主が授与する本尊は、だいたいが紙に書かれた掛軸式の常住本尊であるからだ。近年まれに、信者にも法主が板本尊を授与するケースがまれにあるようだが、往古の昔において、信者に板本尊が授与されたという例はない。
第五に、この板本尊は妙法寺では「戒壇の御本尊」と呼ばれていたことからして、信者個人に授与した紙に書かれた掛軸式の常住本尊を、いくら何でも「戒壇の御本尊」と呼ぶわけがない。
日有が偽作した大石寺の「戒壇の御本尊」なる板本尊は、黒漆塗りに金箔加工を施した板本尊であるので、日有の「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の偽作の後に、「戒壇の御本尊」を模倣して、大石寺からの「漆」「金」や「漆加工」「金箔加工」の職人を援助されて、黒漆塗りと金箔加工が施された可能性が高い。
またこの板本尊はヒノキの板で出来ているということだが、ヒノキとは、日本と台湾にのみ分布する木であり、日本では本州中部(福島県)以南から九州まで分布する木である。福島県はヒノキの生息域の北限と考えられているので、妙法寺が単独でもヒノキの木を入手して、板を製造加工することぐらいは可能であった。
したがって、この妙法寺に格蔵されている板本尊は、応永二十七年四月の造立当初は、紙に書かれた掛軸式の常住本尊であったか、仮に板本尊であったとしても、黒漆塗りと金箔加工はなされていない、板の上に墨で「紫宸殿本尊」を模写しただけの本尊だったと考えられるのである。
そして日有が「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を偽作した後に、黒漆塗りに金箔加工の板本尊に加工されたと考えられるのである。

検証46・甲州・湯之奥金山の金で「本門戒壇の大御本尊」を偽作した日有36


大石寺六世法主日時・八世法主日影の時代に「本門戒壇の大御本尊」偽作は不可能


大石寺の板本尊研究家である金原明彦氏は、著書「日蓮と本尊伝承」の中で、栃木県栃木市信行寺に格蔵されている板本尊造立日を以て戒壇本尊造立時期の最下限ではないかと判断し、これを以て大石寺の「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊が偽作された時期について
「戒壇板本尊の造立を日時か日影の時代によるものと推定する」(193ページより)
と述べ、大石寺の「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊が偽作された時期を、日蓮正宗大石寺六世法主日時か、ないしは八世法主日影の時代だったのではないかという説を唱えている。
しかし私としては、この金原明彦氏の説には、重大な疑問符を投げかけざるをえない。

第一に、日蓮正宗・平井(栃木県栃木市)信行寺に格蔵している板本尊には、応永十九年(1412年)十月十三日造立の日付が入っているが、検証44でも述べたように、この板本尊は1412年の日影の時代に造立された本尊とは、とても考えられないこと。
第二に、大石寺法主が日時・日影だった時代は、大石寺が日郷門徒との戦争が終結して間もないころで、大石寺門流は極貧と疲弊の極みにあった時代である。したがって、経済力的に、日時や日影は、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を偽作することは不可能であると考えられる。
もし仮に、日時や日影が、湯之奥金山の金を何らかの形で手に入れて、「本門戒壇の大御本尊」なる名前の黒漆塗りに金箔加工を施した豪華絢爛な板本尊を偽造するくらいの経済力や技術力を持っていたとしたら、日時か日影が、大石寺の「中興の祖」と呼ばれているはずである。
しかしそうではなく、日時も日影も、金や黒漆を入手するなどの大きな経済力を持っていた痕跡も形跡も全くなく、その当時は、大石寺門流は極貧と疲弊の極みにあった時代であった。
第三に、日時や日影は、当時は西日本にしか自生していなかった楠木を入手すること自体が不可能である。日時や日影は、自らは一度も西日本には行っておらず、法主になってからも、一度も巡教・親教にすら行っていない。
第四に、日時は、自らが書写した本尊の日付には、日蓮と同じく干支を書いており、造立の日付に干支が書いていない「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を偽作したとは、考えられない。
第五に、北山本門寺六代住職・日浄は、自らの著書の中で明確に「日有、開山の本懐に背き、未聞未見の板本尊これを彫刻す。己義荘厳の偽書を造る」と述べて、明確に「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊は日有が偽作したと言って指弾している。もし仮に、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を日時か、日影が偽作したものだったとしたら、日浄がこんなことを書き残すはずがない。
第六に、あれだけ巨大な「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を偽作するとなれば、誰かしらの目につくはずである。したがって隠密裏に偽作したとしても、人目から隠せる堂宇が、日時や日影の時代には、大石寺にはなかった。大石寺にある土蔵造りの蔵である「御宝蔵」なる建物は、日有が創建したものである。したがって、日時か日影が「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を偽作していたとすれば、それは古文書なり文献なり、何らかの形で痕跡や形跡が残るはずである。がしかし、そういったものは全く見られない。
第七に、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を偽作して大石寺門流の教義の中心本尊として位置づけると、日蓮の教義との矛盾が随所に出てくるので、それらとの辻褄合わせの、教義的整合が必要になるが、こういうことを実際に行ったのは、九世法主日有なのであり、日時や日影がそれを行った形跡は全く見られない。
……
他にもさまざまな理由があるが、これらのことから、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を偽作した人物は、やはり大石寺九世法主日有であって、六世法主日時や八世法主日影ではないと結論付けざるをえないのである。

検証47・湯之奥金山の金(きん)を手に入れていた日有6


日有が湯之奥金山の金を手に入れていた証拠2


日有の時代の頃まで法華の信者は大石寺にも北山本門寺にも参詣していた


湯之奥金山遺跡学術調査会・調査団のさまざまな学術的総合調査によって、山梨県身延町(旧下部町)の甲斐黄金村・湯之奥金山博物館の展示や湯之奥金山博物館展示図録のみならず、湯之奥金山博物館館長・谷口一夫氏の著書「武田軍団を支えた甲州金」など学術研究者の著書においても、はっきりと湯之奥金山の金山衆は、「墓石からそのほとんどは法華の信者であった」と記載しており、湯之奥金山の拠点である中山金山の金山衆たちの菩提寺は、静岡県富士宮市の北山本門寺であったと特定している。
寺院と信者の関係においては、島原の乱の翌年の1638(寛永15)年、江戸幕府がキリスト教を厳禁するとともに、キリスト教そのものの取り締まりを強化するために、人々がキリシタンかどうかを調べる宗門改めを行い、すべての人々をどこかしらの寺の檀家とし、その人が仏教徒であることを寺が証明する制度(寺請制度)を設けて、寺院と信者の関係を完全に固定化している。
しかしながら、それ以前においては、固定化されておらず、特に日有の時代の頃までは、南無妙法蓮華経を唱える法華の信者であれば、北山本門寺にも参詣すれば、大石寺にも参詣するといった信仰生活をしていた。日興の門流の系統である富士門流の本山寺院である大石寺も北山本門寺も、特に区別して見られていなかったのである。
山梨県文化財保護審議会委員・湯之奥金山博物館運営委員の堀内真氏は、1998(平成10)年1月17日の湯之奥金山博物館第4回公開講座で、金山衆の末裔の家筋、富士市・富士宮市につながる家筋、金山遺跡に残された石造物の調査などの結果から
「中山金山で活動していた金山衆は、元々甲州(甲斐の国・山梨県)の人間ではなく、駿河(静岡県)の人間であった可能性が極めて高い」(『金山史研究』第1集73ページより)
と結論付けている。
このような学術研究の結論からすると、湯之奥金山の発見から開発に当たっては、静岡県富士宮市・富士市側に住む、元来から北山本門寺や大石寺など富士五山と呼ばれる富士門流の本山寺院に参詣していた人たちが、湯之奥金山に入って金鉱を掘り、金山を開発していったということになる。
そうであるならば、湯之奥金山で活動していた金山衆たちが、大石寺法主日有のもとに、自分たちが掘った金を供養するなどということは、極めて自然な行為である。まさに、この湯之奥金山の金山衆たちが日有に供養し差し出した「金」こそが、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊偽作に使われるなどして、その後の大石寺をはじめ富士門流の歴史を大きく変えることになり、ひいては二十世紀に入って、数千万人というおびただしい数の人々の人生を狂わせる結果をもたらした。

一方で、それならばなぜ菩提寺の名前が大石寺にならずに、北山本門寺として特定されることになったのか、という疑問が出てこようが、それは、日興・日目が入滅した直後くらいから、日興の門流の系統である富士門流の「総本山」は、日興の正墓がある北山本門寺と見なされていた、ということが大きいと考えられる。
日有は、湯之奥金山の金を使って「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を偽作して大石寺の中心本尊とし、その大石寺を、日興の正墓がある北山本門寺を凌ぐ富士門流の総本山に、日蓮の正墓がある身延山久遠寺を凌ぐ日蓮宗の総本山にしようと企てた。
しかし大石寺・本門寺周辺から疑惑の声が止まらず、明治になって富士門流の八本山寺院で「日蓮本門宗」を立ち上げた時も、本門宗の総本山は大石寺ではなく、北山本門寺であった。

検証48・湯之奥金山の金(きん)を手に入れていた日有7


日有が湯之奥金山の金を手に入れていた証拠3


大石寺九世法主日有の時代にもあった金山発見にともなうゴールドラッシュ


日本の歴史のみならず、世界の歴史をひもとくと、金山ないし金鉱脈・砂金が発見されると、必ずといっていいほど、ゴールドラッシュという現象が起きる。ゴールドラッシュとは、新しく金が発見された地へ、金脈を探し当てて一攫千金を狙う採掘者が殺到することである。世界各地で起こったゴールドラッシュの中でも特に有名なのが、1848年ごろにアメリカ合衆国のカリフォルニアで起きたゴールドラッシュがある。
カリフォルニアで起こったゴールドラッシュのそもそもの発端は、1848年1月24日に農場主ジョン・サッターの使用人ジェームズ・マーシャルがアメリカン川で砂金を発見したことである。これと前後してカリフォルニアを始めとした西部領土がメキシコからアメリカに割譲されたので、文字通り新天地となったカリフォルニアには金鉱脈目当ての山師や開拓者が殺到することになった。特に1849年にカリフォルニアの人口が急増し、結果、1852年にはカリフォルニアの人口は20万人まで急増し州に昇格、西部の開拓が急進展することになった。当時の記録を見ると、農民、労働者、商人、乞食や牧師までもが、一攫千金を夢見て新大陸を目指したことが記されている。

ひるがえって、甲州・湯之奥金山が発見された当時は、ゴールドラッシュという現象はあったのだろうか。この点について、駒澤大学教授・杉山博氏は著書「日本の歴史11・戦国大名」において
「この時期はまさにわが国最初のゴールドラッシュの時代とでもいうべき時代であった」(『日本の歴史』243ページより)
「こんにち全国いたるところに残されている金銀山の歴史は、戦国のころにはじまったものが意外に多い。この事実から、この時代のゴールドラッシュのすさまじさを推測できるだろう」(『日本の歴史』244ページより)
と述べており、戦国時代の日本においても、ゴールドラッシュはあったと言っている。

室町・戦国時代といえば、室町幕府の統制力はさほど強くはなく、世の中は諸国の大名が入り乱れて戦乱に明け暮れ、庶民の生活も貧しかった時代のことである。今の静岡県富士宮市や富士市周辺に住んでいた農民たちが、一攫千金を狙ってゴールドラッシュのブームに乗って、湯之奥金山に入っていったというのは、極めて自然なことと言える。
実際に、信州大学人文学部教授・歴史学博士の笹本正治氏は1997(平成9)年10月4日の湯之奥金山博物館第一回公開講座において
「中山(金山)の金山衆は武士ではないようです」「湯之奥金山を開発したのは地元の人たち、金山衆であって…主人公はあくまでも一般の民衆であったということです」(『金山史研究』第1集より)
と述べており、地元の庶民が湯之奥金山に入って金を掘っていったと言っている。
それともう一つの可能性として、当時は極貧と疲弊の極みにあった大石寺の僧侶たちが自ら、それこそ一攫千金を狙って湯之奥金山に入って金を掘っていったという可能性も否定できないということである。大石寺から、毛無山山頂付近にある中山金山(湯之奥金山の拠点)までは、直線コースにして約20kmくらいのところにある。しかも大石寺から中山金山に入る毛無山登山道入り口から下部温泉にぬける道もある。決して不可能なことではない。
湯之奥金山発見にともなうゴールドラッシュのブームに乗って、大石寺九世法主日有自らが掘りあてた金を使って「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を偽作して、大石寺を極貧の状態から繁栄せしめていった可能性もあると述べておこう。


検証49・湯之奥金山の金(きん)を手に入れていた日有8


日有が湯之奥金山の金を手に入れていた証拠4


大石寺〜朝霧高原〜中山金山入口〜湯之奥〜下部温泉〜有明寺を結ぶルートの存在


甲斐国(山梨県)内には、大小さまざまな道があり、主なものでも鎌倉街道、甲州街道といった主要な道の他、甲斐の九筋と言われる甲斐国内の地方道がある。その甲斐の九筋の中で、甲斐国(山梨県)と駿河国(静岡県)を結ぶ道が三つある。
○ 若彦路 芦川・大石峠〜河口湖〜吉原 ○中路 左右口峠〜古関〜本栖湖〜吉原
○ 河内路 市川大門〜富士川沿い〜岩淵
さらにその他に、余り知られていない小さな三つの路がある。

○ 安倍道 南部町成島〜峠越え〜駿河安倍郡(静岡市)
○ 身延町大城〜峠越え〜駿河梅ヶ島(静岡市)
○ 下部湯之奥〜毛無山・中山金山入口〜朝霧高原・大石寺(富士宮市)

この中の、下部湯之奥〜毛無山〜朝霧高原・大石寺(富士宮市)のルートの存在が、まさに大石寺九世法主日有が、湯之奥金山の金を中山金山の金山衆から入手していた証拠になる。
このルートは大石寺から朝霧高原を通って毛無山の麓付近を通り、中山金山へ行く登山道入口を通って、湯之奥集落をぬけ、下部温泉に通じる道であるが、日有は1467(応仁1)年、下部温泉の先、このルートの延長線上に、日蓮正宗寺院有明寺を建立している。
大石寺十七世法主日精の著書「富士門家中見聞」(家中抄)によると、日有は法主隠退後も、大石寺で日蓮、日興、日目の御講のある七日、十三日、十五日には、必ず有明寺から大石寺に参詣していたこと、さらに日有は宿病があった故に、下部温泉で湯治をしていたことが書かれてある。(『富士宗学要集』5巻256〜257ページ「富士門家中見聞・日有伝」より)
そうなると、この下部湯之奥〜毛無山〜大石寺のルートで、日有は大石寺と有明寺の往復に、さらに下部温泉での湯治に使っていたと考えられる。そもそもこのルートが大石寺と有明寺を結ぶ最短コースであるからである。
と同時に、このルートは、大石寺と有明寺を往復する途中で、湯之奥金山の拠点である中山金山入口を通るのである。日有は、大石寺と有明寺を往復するたびに、中山金山で金を掘る金山衆と顔を合わせていたことになる。そういう時においても、日有は、中山金山の金山衆から金の供養を受けていたと考えられる。
日蓮正宗において、信者が法主と面会する場合においては、必ず信者は供養を包んで法主に差し出すからである。法主と面会する信者が、何の供養も包まないというのは、日蓮正宗では絶対にあり得ない。
そう考えると、この大石寺と有明寺を結ぶルートは、大石寺法主日有にとっては、ここを通るたびに中山金山の金山衆から金の供養を受けとることができ、さらに下部温泉で宿病の治療のための湯治をすることもできるという、まさに一石三鳥のルートということになる。
そもそも湯之奥金山の麓である下部の地に、日蓮正宗寺院有明寺を日有が建立したこと自体、法華の信者が多かった湯之奥金山の金山衆たちを繋ぎ止めておくことが目的に他ならない。
この大石寺と有明寺を結ぶルートは、日有と大石寺にとっては、まさに重大な収入源を産むドル箱ルートだったに違いない。


検証50・湯之奥金山の金(きん)を手に入れていた日有9


日有が湯之奥金山の金を手に入れていた証拠5


大石寺九世法主日有が大石寺と有明寺の往復に河内路(身延道)を使うはずがない


日蓮正宗大石寺十七世法主日精は、自らの著書「富士門家中見聞」(家中抄)「日有伝」において、
「杉山(有明寺)より大石寺に詣したまふ行程百有余里なり」(『富士宗学要集』5巻256ページより)
------日有は、甲州杉山(山梨県身延町杉山)の有明寺から大石寺に参詣していたが、その道のりは百有余里にものぼった-----
と述べている。
辞書によると、往古の昔の距離の単位である「里」とは
「尺貫法の距離の単位。1里は36町で、3.927キロ。令制では300歩(ぶ)をいい、6町すなわち654メートルにあたる。」(インターネット・ヤフー辞書より)
と書かれている。日精が言う「百有余里」に1里=36町の単位をそのまま当てはめてしまうと、大石寺から有明寺までの距離が392キロなどというとんでもない数字になってしまうが、令制の300歩・6町をあてはめると、大石寺と有明寺の距離が66キロ強ということになる。
実は、大石寺から今のJR身延線や国道52号線が通っている河内路(通称・身延道)を通って有明寺に行くと、だいたい距離にして66キロ強ぐらいになる。したがって、大石寺十七世法主日精は、日有が大石寺と有明寺を往復するたるに歩いた道に、河内路(身延道)を通っていたという説を採っているようである。
しかしこの日精の説は大いに疑問であり、日有が大石寺と有明寺を往復するに当たっては、河内路(身延道)を通っていくはずがないのである。なぜか。
それはまず第一に、この河内路(身延道)を通るコースは、ものすごい遠回りになるからである。これについては、ごく普通の、世間の常識で考えるべきだと思う。
交通の往来に関する常識として、ある所からある所へ行くに当たって、どの道を通っていくかについては、最短コース・もっとも距離が短いコースの道を行くというのは、常識である。これは、自動車などの交通手段が発達した現代においてもそうである。況んや、徒歩や牛馬に引かれての往来が主だった、往古の昔においてをや、である。
それでは大石寺と有明寺を結ぶ最短距離のコースは、というと、検証49で論じたとおり、有明寺(身延町杉山)〜下部温泉〜湯之奥〜中山金山入口・毛無山〜朝霧高原・大石寺(富士宮市)のルートなのであり、このコースをたどっていくと、だいたい距離にして30キロぐらいである。すなわち、河内路(身延道)を通っていくコースの半分位の距離なのである。
第二に、有明寺〜下部湯之奥〜中山金山入口・毛無山〜朝霧高原・大石寺(富士宮市)のルートは、まさに日有の重要な収入源であった湯之奥金山(中山金山)入口と、日有が通っていた下部温泉を通ることができるコースであること。ここを通らないで、わざわざ河内路(身延道)を通って迂回して行ったとしても、日有にとっては、何のメリットも利益もないこと。
第三に、交通手段が発達していなかった往古の昔において、人々が歩ける距離というのは、だいたい40キロぐらいであるというのが、学術研究者の間での通説になっている。それから判断すると、仮に徒歩で大石寺と有明寺を通った場合、有明寺〜下部湯之奥〜毛無山〜朝霧高原・大石寺(富士宮市)のルートで行けば、一日あればたどり着くことができるのであるが、しかしながら、河内路(身延道)のルートで行くと、徒歩で行った場合、一日でたどり着くことができないのである。
したがって、大石寺十七世法主日精の、日有が河内路(身延道)を通っていたという説は誤りであり、日有は大石寺と有明寺の往復に、下部湯之奥〜毛無山〜朝霧高原・大石寺(富士宮市)のルートで通っていたと結論付けざるをえないのである。


□「日蓮正宗大石寺の『本門戒壇の大御本尊』なる板本尊は日蓮正宗大石寺9世法主日有の偽作だ」

こちらのトピックも
■PART1とPART2で、トピックの順番がバラバラになってしまっていること
■「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を日有が偽作した証拠と動機について、もっと深く追究するスレッドを書く必要があること
■日有偽作の立証に絡めて、日精偽作説、日主偽作説の誤りについて、深く掘り下げる必要があること
といったことから、トピックの内容について、加筆・訂正する必要が出てきました。

加筆・訂正にあたっては、現在、100のスレッドを合計200に拡充する予定です。

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