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アンチ日蓮正宗(日蓮正宗系)コミュの「日蓮正宗大石寺の『本門戒壇の大御本尊』なる板本尊は日蓮正宗大石寺九世法主・日有の偽作だ」PART3

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「日蓮正宗大石寺の『本門戒壇の大御本尊』なる板本尊は日蓮正宗大石寺九世法主・日有の偽作だ」PART3
は、検証151〜200までをまとめたものであり、
「日蓮正宗大石寺の『本門戒壇の大御本尊』なる板本尊は日蓮正宗大石寺九世法主・日有の偽作だ」PART2
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=25307816&comm_id=406970
のつづきということになります。

「日蓮正宗大石寺の『本門戒壇の大御本尊』なる板本尊は日蓮正宗大石寺九世法主・日有の偽作だ」(検証1〜80)
「日蓮正宗大石寺の『本門戒壇の大御本尊』なる板本尊は日蓮正宗大石寺九世法主・日有の偽作だ」PART2(検証81〜150)
この二つのトピックは、日蓮正宗大石寺奉安堂に格蔵されている「本門戒壇の大御本尊」なる名前の板本尊は、いつ、誰が、どうやって偽作したものなのか、ということを、明らかにするもので、それは、具体的に様々な証拠を元にして、日蓮正宗大石寺9世法主日有が、ドス黒い野望をもとに偽作したニセ本尊であることを明らかにしています。

特にこの「日蓮正宗大石寺の『本門戒壇の大御本尊』なる板本尊は日蓮正宗大石寺九世法主・日有の偽作だ」PART2の検証151〜200は、日有が偽作した「本門戒壇の大御本尊」「日蓮本仏論」「唯授一人の血脈相承」の元のオリジナルについての検証。
「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を、日有が偽作した「動機」「目的」についての検証。
そして「本門戒壇の大御本尊・日有偽作論」についての遮難である。

日有が「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を偽作した動機・目的は

■(1)大石寺を日蓮の正墓がある身延山久遠寺や日興の正墓がある北山本門寺を凌ぐ日蓮一門総ての総本山にするため
■(2) 大石寺が信者から未来永劫にわたって金銭を収奪していくシステムを確立させるため
■(3) 日蓮正宗大石寺を本門「事の戒壇」と定義づけるため

の三つである。

しかし日蓮正宗大石寺9世法主日有は、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊のみならず、「日蓮本仏論」「唯授一人血脈相承」なるものを偽作して、「百六箇抄」「日興跡条条事」「産湯相承事」「御本尊七箇相承」というニセ文書の他、「日蓮の遺骨」「日蓮の墓」というものまで偽作している。
これら「日蓮本仏論」や「唯授一人血脈相承」といったものは、個々に独立しているものではなく、日有が偽作した「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊と密接に絡み、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を正統化せしめ、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を祀る大石寺を正統化せしめるために存在している。
つまり、「本門戒壇の大御本尊」も「日蓮本仏論」も「唯授一人血脈相承」も、日蓮正宗の教義の中ではその中心的地位を占め、あたかも二人三脚のように、他を牽引している。

したがって、日有が「本門戒壇の大御本尊」を偽作した動機を検証して行くに当たって、同時に日有が「日蓮本仏論」「唯授一人血脈相承」を偽作した動機を検証していくと、より一層、日有の野望がよりわかりやすく浮かび上がってくる。

日有が「日蓮本仏論」を偽作した動機は
□1日有が偽作した「本門戒壇の大御本尊」=日蓮=本仏という教義理論を完成させるため
□2大石寺を身延山久遠寺や北山本門寺を凌ぐ日蓮一門総ての総本山にするため
□3 大石寺が信者から未来永劫にわたって金銭を収奪していくシステムを確立させるため
□4 「本仏の後継者」「本仏の代官」としての法主の権威確立のため

日有が「唯授一人血脈相承」を偽作した動機は
□1自らが偽作した「本門戒壇の大御本尊」「日蓮本仏論」を理論的に正統化するため
□2大石寺を身延山久遠寺や北山本門寺を凌ぐ日蓮一門総ての総本山にするため
□3大石寺が信者から未来永劫にわたって金銭を収奪していくシステムを確立させるため
□4 「本仏の後継者」「本仏の代官」としての法主の権威確立のため
□5浄土真宗仏光寺派にあやかって大石寺門流の信者を大幅に増やすため

であるが、これらのうち
この中の「大石寺の総本山化」「金銭収奪システムの確立」については、「本門戒壇の大御本尊」偽作の動機・目的のみならず、「日蓮本仏論」「唯授一人の血脈相承」偽作の動機・目的でもあるということで重複している。
そのため、他の

■(1)日有が偽作した「本門戒壇の大御本尊」=日蓮=本仏という教義理論を完成させるため
■(2) 「本仏の後継者」「本仏の代官」としての法主の権威確立のため
■(3) 自らが偽作した「本門戒壇の大御本尊」「日蓮本仏論」を理論的に正統化するため
■(4) 浄土真宗仏光寺派よろしく、爆発的に信者を増やすため

この四つの動機について、「本門戒壇の大御本尊」偽作に付随して「日蓮本仏論」「唯授一人血脈相承」を偽作した動機として、検証していくことにする。


このトピックに書かれている内容について、質問その他のコメント(絶賛でもOK)をしたい方は、こちらへ。

「日蓮&日蓮正宗の教義的・ドグマ的問題点の分析・検証・批判」
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=9227810&comm_id=406970

質問等をしたい方はこちらへ。

「アンチ日蓮正宗・教学基礎講座」
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=63259676&comm_id=406970

「関連質問&質疑応答」トピック
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=46300303&comm_id=406970

日蓮正宗現役信者ないしは『本門戒壇の大御本尊』日蓮真造論者からの反論・文句は、「アンチ日蓮正宗vs日蓮正宗」コミュニティの中にある下記のトピックに書き込んでください。

「アンチ日蓮正宗vs日蓮正宗」
http://mixi.jp/view_community.pl?id=4011664

「日蓮正宗大石寺の『本門戒壇の大御本尊』なる名前の板本尊の真偽について」
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=41378641&comm_id=4011664


出典&参考文献/
美濃周人「虚構の大教団」「謎の日蓮正宗・謎の創価学会」「日蓮正宗・創価学会50の謎」「日蓮正宗・創価学会・謎の大暗黒史」「家庭内宗教戦争〜お前は誰の女房だ」犀角独歩「大石寺彫刻本尊の鑑別」立正安国会・山中喜八「御本尊集」「御本尊集目録」熊田葦城「日蓮上人」安永弁哲「板本尊偽作論」木下日順「板本尊偽作の研究」窪田哲城「日蓮聖人の本懐」柳沢宏道「石山本尊の研究」高田聖泉「興尊雪冤録」日蓮宗宗務院「日蓮正宗創価学会批判」「日蓮宗宗学全書」鴨宮成介「板本尊の真偽について」日宗全「大石寺誑惑顕本書」
堀日亨「富士宗学全集」「富士宗学要集」「富士日興上人詳伝」「熱原法難史」細井日達「日達上人全集」「悪書板本尊偽作論を粉砕す」日蓮正宗宗務院「創価学会の偽造本尊義を破す」日蓮正宗法華講連合会「大白法」山口範道「日蓮正宗史の基礎的研究」継命新聞社「日興上人」興風談所「日興上人御本尊集」浅井昭衛「学会宗門抗争の根本原因」「なぜ学会員は功徳を失ったのか」正信会「富士の清流を問う」乙骨正生「FORUM21」「日蓮正宗公式HP」「創価学会公式HP」「顕正会公式HP」「正信会公式HP」中公文庫「日本の歴史」扶桑社「新しい歴史教科書」水島公正「『世界宗教への脱皮』の妄見を破す」新人物往来社「日本史/疑惑の宗教事件ー権力と宗教の危険な関係」河合敦「早分かり日本史」ひろさちや「日蓮がわかる本」日蓮正宗宗務院「大日蓮」不破優「地涌からの通信」たまいらぼ「創価学会の悲劇」「大石寺の正体」日蓮正宗大石寺「大石寺案内」「平成新編日蓮大聖人御書」日蓮正宗入門」「日蓮正宗聖典」暁鐘編集室「魔説板本尊偽作論を摧く」日蓮宗新聞社「日蓮宗新聞」中外日報社「中外日報」聖教新聞社「聖教新聞」「大白蓮華」「聖教グラフ」日蓮正宗富士学林「日蓮正宗富士年表」三省堂「新明解古語辞典」河合一「暗黒の富士宗門史」東京学芸大学日本史研究室「日本史年表」学習研究社「日蓮の本」

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コメント(53)

■ 検証164・日蓮正宗大石寺9世法主日有が「本門戒壇の大御本尊」なる名前の板本尊を偽作した動機3(大石寺を「迹門・大乗戒壇」比叡山延暦寺をも凌ぐ「本門・事の戒壇」にするため)2

□皇族・公家・貴族・武家・諸社寺の奏請を天皇・上皇・法皇(治天の君)に取り次いでいた伝奏

さてこの「伝奏」について、もう少し詳しく述べてみたい。
「伝奏」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9D%E5%A5%8F
「伝奏(てんそう)とは、院政期から幕末にかけて公家政権(朝廷)内に置かれた役職。元来は治天の君(上皇)に近侍して奏聞・伝宣を担当したが、後に天皇親政時にも設置されるようになった。」
「伝奏の概要
院政成立期には院近臣や上皇に仕える女房が奏聞(天皇・上皇に報告・上奏を行う)や伝宣(天皇や上皇の勅旨を伝達する)の役目を務めていたが、後白河上皇が院政を行った12世紀後期より、奏聞や伝宣を専門的に行う役職として伝奏が置かれるようになり、後嵯峨上皇が院政を行った13世紀中期に制度として確立した。
この時期の伝奏は2名前後を定員として弁官や職事蔵人を経験した能吏を院宣によって補任する例であった。伝奏は同じく能吏が任命された院の評定衆を兼務する者が多く、訴訟・行政実務を担当する奉行を統括し、奉行からの報告を必要に応じて上皇に報告し、上皇から政務に関する院宣が出されると、伝奏は奉行にその内容を伝え、必要によっては直接相手先に内容を伝える場合もあった。

鎌倉時代末期に伏見天皇や後醍醐天皇が親政を行った際にも形骸化していた既存の太政官組織を用いず、伝奏を補任して院の伝奏と同じようなことを行わせた。この時期に専任の寺社伝奏の設置など伝奏に担当部門を設ける動きが見られる。
南北朝時代に入ると、奉行の職務を伝奏が行うようになり、また足利義満が将軍でありながら院別当などの朝廷内部の要職を兼ねると、鎌倉時代以来の関東申次→武家執奏は廃止され、伝奏が上司である院別当(将軍)と上皇もしくは天皇の間の連絡を務め、時には院別当に代わって奉書を出すようになる。
義満を継いだ足利義持は父の朝廷政策は否定したものの、院別当の地位は保持して伝奏との関係を保った。やがて、その関係は武家(幕府)担当の専任伝奏である武家伝奏へと発展していくことになる。
江戸時代には定員2名の武家伝奏が設置され、幕府の意向を朝廷内部に徹底させる役割を果たした。この他にも宮家や寺社などを担当する伝奏が個々に設置され(例:賀茂伝奏など)、一種の職として世襲される場合もあった。また、即位や改元、災害などに際して臨時の伝奏が置かれる場合もあった。」
参考文献
山本博也「伝奏」(『国史大辞典 9』吉川弘文館、1988年
富田正弘「伝奏」(『日本史大事典 4』(平凡社、1993年)
平井誠二「伝奏」(『日本歴史大事典 2』小学館、2000年

とあります。
伝奏がいたのは、朝廷、室町幕府、江戸幕府だけではない。
例えば、1260年(文応元年)に、日蓮が「立正安国論」を鎌倉幕府前執権・得宗の北条時頼に上奏したときも、宿屋入道光則がこれを伝奏している。日蓮が、直接、北条時頼に提出したわけではないのである。




■ 検証165・日蓮正宗大石寺9世法主日有が「本門戒壇の大御本尊」なる名前の板本尊を偽作した動機3(大石寺を「迹門・大乗戒壇」比叡山延暦寺をも凌ぐ「本門・事の戒壇」にするため)-3

□自らの申状の伝奏を私度僧扱い同然に門前払いにされた大石寺法主・日有の屈辱1

天皇や上皇・法皇といった「治天の君」への奏請は誰でも彼でもできるのではなく、親王・王・法親王といった皇室・皇族、摂政・関白等々に就いている摂家などの公家、征夷大将軍、右大将といった官職に就いている武家、そして朝廷公認の寺院・神社のみなのである。
その朝廷公認の寺院・神社の中の仏教寺院とは、官寺の南都六宗に、伝教大師の天台宗と弘法大師の真言宗を加えた八宗のみである。
もちろん、大石寺門流は朝廷公認ではなく、日蓮正宗大石寺9世法主日有は、申状を天皇に奏請するためには、こういった朝廷公認の南都六宗・八宗に、まず申状を取り次いでもらい、さらにそこから朝廷の官職である伝奏に、天皇に取り次いでもらわなくてはならない。
いわば、二重、三重の伝奏をしてもらわなくてはならないことになる。

日蓮正宗大石寺9世法主日有は、京都天奏・上洛の折りに申状を朝廷・幕府に伝奏してもらうために比叡山延暦寺を訪ねたと思われるが、ここは天皇から勅許された「大乗戒壇」であった。

延暦25年(806年)、日本天台宗の開宗が正式に許可され、弘仁13年(822年)、伝教大師最澄の死後7日目にしてようやく「大乗戒壇」が許可された後、比叡山延暦寺は日本仏教史に残る数々の名僧を輩出した。
円仁(慈覚大師794 - 864)、円珍(智証大師、814 - 891)
良源(慈恵大師、元三大師 912年 - 985年)比叡山中興の祖。
源信(恵心僧都、942年 - 1016年)『往生要集』の著者。
良忍(聖応大師、1072年 - 1132年)融通念仏の唱導者。
法然(1133年 - 1212年)日本の浄土宗の開祖。
栄西(1141年 - 1215年)日本の臨済宗の開祖。
慈円(1155年 - 1225年)歴史書「愚管抄」の作者。天台座主。
道元(1200年 - 1253年)日本の曹洞宗の開祖。
親鸞(1173年 - 1262年)浄土真宗の開祖
又日蓮宗の開祖である日蓮(1222年 - 1282年)も、比叡山延暦寺で修行した僧侶であった。これら名僧の木像が今でも比叡山延暦寺大講堂に祀られている。

その延暦寺は、年々、冨と武力を増大化していっていた。
まず領地として極めて多くの荘園を保持。延暦寺の門前町である近江の国坂本周辺の土倉と呼ばれたこの時代の質屋・金融業者は延暦寺の傘下にある者が多かった。又、街道に公然と関所を設けて通行料をとっていた。比叡山延暦寺の財力というものは、相当なものであった。
そして比叡山延暦寺は、強大な武力、いわゆる僧兵を持っていた。僧兵というのは武士の格好をした僧侶というよりは、僧侶の格好をした武士というべきものだ。学問や祈祷に専念する僧侶は、上級僧侶たちのことであり、下級僧侶は兵隊として働くものや金貸しをする者もいて、いわば比叡山延暦寺は巨大な利権集団というより、「比叡山延暦寺」という名前の「大名」だったと言える。
強大な権力で院政を行った白河法皇ですら「賀茂川の水、双六の賽、山法師。これぞ朕が心にままならぬもの」と言って嘆いたのは、あまりにも有名である。
しかも比叡山延暦寺の権力・権威は年々高められていった。比叡山は京都の鬼門に位置して、京都そして天皇家を災厄や怨霊の跳梁から守るべき鎮護国家の道場であった。







■ 検証166・日蓮正宗大石寺9世法主日有が「本門戒壇の大御本尊」なる名前の板本尊を偽作した動機3(大石寺を「迹門・大乗戒壇」比叡山延暦寺をも凌ぐ「本門・事の戒壇」にするため)4

□自らの申状の伝奏を私度僧扱い同然に門前払いにされた大石寺法主・日有の屈辱2

そもそも天台座主とは、日本の天台宗(延暦寺派)の総本山である比叡山延暦寺の貫主(住職)で、天台宗(延暦寺派)の諸末寺を総監する役職であるが、2世圓澄までは天台宗・比叡山延暦寺内の私称であったが、3世の圓仁からは朝廷・太政官が官符をもって任命する中央政府の公的な役職となり、これが明治4年(1871年)まで続いた。 当然のことながら、日有の時代の比叡山延暦寺・天台座主も、朝廷・太政官が官符をもって任命する公的官職であり、又、天台座主は天皇・朝廷や室町幕府の将軍・中枢と直結していた。
室町時代の比叡山延暦寺は、天皇勅許の大乗戒壇であると同時に、室町幕府も脅威を感じるほどの武力を持つ大名であった。

その天奏の取り次ぎ依頼のための交渉も、天皇や将軍家に発言権を持っている比叡山延暦寺、園城寺(三井寺)、建仁寺といった大寺院と行うことになる。
特に天台座主は、日本の天台宗(延暦寺派)の総本山である比叡山延暦寺の貫主(住職)で、天台宗(延暦寺派)の諸末寺を総監する役職であるにとどまらず、3世の圓仁からは太政官が官符をもって任命する公的な役職となり、明治4年(1871年)まで続いた。
中世になると、摂家門跡、宮門跡の制度が整えられ、とりわけ妙法院・青蓮院・三千院(天台三門跡)から法親王が、天台座主として就任することが多くなり、また、室町時代には足利将軍家からも天台座主が出ている。
天台座主となった後に還俗し、将軍となった例としては、116世天台座主・尊雲法親王(還俗して護良親王)がいたが、何といっても日有が京都天奏のために上洛した年、1432(永享4)年3月当時の室町幕府の征夷大将軍は、足利義教。この人は、153世天台座主・義圓だった人だ。
天奏となれば、比叡山延暦寺に伝奏してもらうのが、最も近道だった。

日蓮正宗大石寺9世法主日有は、天皇への申状を伝奏してもらうべく比叡山延暦寺を訪ねることになる。しかし日有は、延暦寺で修行した正規の僧侶である日蓮の遺弟を名乗ったものの、比叡山延暦寺の僧侶からすれば、比叡山延暦寺をはじめ官寺の南都六宗・八宗での修行経験の全くない日有は所詮、駿河国の私度僧にすぎなかった。

普通に考えて、こういった比叡山延暦寺、園城寺(三井寺)は、日有の天奏取り次ぎ依頼を引き受けるはずがない。
それは何といっても、日有は「念仏無間・真言亡国・禅天魔・律国賊」を唱えた日蓮の一門の僧であり、しかも大石寺法主とは言えども、京都の大寺院から見れば、所詮は駿河国の極貧の寺の住職にすぎず、しかも日有と京都の大寺院は、元々の人脈やコネクションがあったわけではないから、取り次がなくてはならない特段の義理もない。
しかもこれらの大寺院が、日有のような僧の天奏を取り次いだとなれば、京都仏教寺院の朝廷・幕府に対する聞こえに悪影響が出ることを恐れ、確実に日有の申状取り次ぎの依頼は門前払いに付されるところである。
まがりなりにも末寺を有する本山大石寺法主であった日有にとっては、比叡山延暦寺の前では僧侶としてすら認めてもらえないなどとは、耐えがたい屈辱だったことだろう。






■ 検証167・日蓮正宗大石寺9世法主日有が「本門戒壇の大御本尊」なる名前の板本尊を偽作した動機3(大石寺を「迹門・大乗戒壇」比叡山延暦寺をも凌ぐ「本門・事の戒壇」にするため)5

□自らの申状の伝奏を私度僧扱い同然に門前払いにされた大石寺法主・日有の屈辱3

比叡山延暦寺で、私度僧同然に門前払いの屈辱を味わった日蓮正宗大石寺9世法主日有は、園城寺、東大寺、唐招提寺、興福寺、法隆寺、薬師寺、高野山金剛峯寺、教王護国寺、鹿苑寺、大徳寺等々の飛鳥、奈良、京都の大寺院を訪れて、申状取り次ぎ・伝奏を依頼するも結果は同じ。ことごとく門前払いである。
しかし一宗本山の法主が、弟子の僧侶や護衛の信者を引き連れて莫大な費用と日数、労力を費やして京都まで来て、天奏失敗では大石寺に帰ることが出来ない。そんなことをしたら大石寺で待っている僧侶・信者や武家・地頭は納得せず、今度は日有が大石寺から擯出されかねない危機が訪れることになる。

それほど絶望的に近いほど不可能に思えた日蓮正宗大石寺9世法主日有の天奏の取り次ぎが最後に実現したのは、ズバリ、日有が握っていた甲州・湯之奥金山から産出されていた「金」の力によるものと考える以外、有りえない。目の前に砂金やら金塊を差し出されれば、さすがの天台座主をはじめとする京都仏教寺院住職らも、朝廷や室町幕府に日有の天奏を取り次いだだろう。それくらい、室町時代の当時、金の力はすさまじいものがあった。つまり日有は「天奏」を湯之奥金山の金の力で「買った」ということである。
しかしいくら金の力で日有が天奏を「買った」と言っても、申状が奏請されたのは、せいぜい室町幕府の将軍・足利義教止まりで、天皇の元には届いていないものと考えられる。

最後の最後は、「天奏」を湯之奥金山の金の力で「買った」日有であったが、比叡山延暦寺をはじめ奈良・京都の仏教大寺院で味わった屈辱を晴らすためには、せめて大石寺門流の本山・大石寺を「戒壇」に定義づける必要がある。
しかし戒壇の建立について「三大秘法抄」では
「戒壇とは、王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて、有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是なり」(御書全集p1595)
と書いてあり、この定義によれば、日蓮が遺命した「事の戒壇」は、日蓮の仏法が広宣流布する日まで待たなくてはならないことになる。
これでは、日有は、広宣流布の日ので、奈良・京都で味わった、耐え難い屈辱を晴らす日は来ないと言うことになってしまう。これでは日有自身が納得がいかなかったことだろう。







■検証168・日蓮正宗大石寺9世法主日有が「本門戒壇の大御本尊」なる名前の板本尊を偽作した動機3(大石寺を「迹門・大乗戒壇」比叡山延暦寺をも凌ぐ「本門・事の戒壇」にするため)6

□大石寺を比叡山延暦寺に超越する「事の戒壇」にしようとした日有の野望

比叡山延暦寺の「大乗戒壇」は、天台宗が広宣流布するしないに関わらず、比叡山延暦寺の総本堂である根本中堂の中央に秘仏の本尊を祀り、秘仏の本尊の前に「前立本尊」を祀り、比叡山延暦寺の戒壇堂では、いつでも僧侶に授戒している。
日本古来からの戒壇である奈良・東大寺、唐招提寺、筑紫・観世音寺、下野・薬師寺の戒壇も、南都六宗の戒壇も自宗の広宣流布とは関係なく戒壇が勅許・建立されたことは同じである。
そこで日有は、日蓮が定めた「戒壇」とは、別個の「事の戒壇」を造り上げ、大石寺を日蓮一門の本門「事の戒壇」にしてしまおうとしたのである。

その日有が造り上げた「事の戒壇」とは、自らが偽作した「本門戒壇の大御本尊」なる名前の板本尊を祀る場所。すなわち大石寺ということになる。つまり「本門戒壇の大御本尊」なる名前の板本尊を偽作して大石寺に祀ることによって、「本門戒壇の大御本尊」なる名前の板本尊を祀る大石寺の堂宇は、日蓮の仏法が広宣流布していない時代でも、いつでもどこでも「事の戒壇」ということになったのである。

日有が「新池抄聞書」をという文書に残した説法の中で

「日有云く、また云く、大石は父の寺、重須は母の寺、父の大石は本尊堂、重須は御影堂、大石は本果妙、重須は本因妙、彼は勅願寺、此は祈願寺、彼は所開、此は能開、彼は所生、此は能生、即本因、本果、本国土妙の三妙合論の事の戒壇なり」(「富士日興上人詳伝・下」p84)

というふうに、「此は能生、即本因、本果、本国土妙の三妙合論の事の戒壇」という教義を述べているが、これは、「本門戒壇の大御本尊」なる名前の板本尊が格蔵されている大石寺こそ「事の戒壇」であることを明示したものである。
「戒壇」でも「事の戒壇」というのは、日蓮正宗が定義づけている教義で、いわば「衆生が事実の上で成仏する戒壇」というような意味で、総ての仏教寺院の総本山、根本の堂宇という意味になる。
この「事の戒壇」に対する言葉が「理の戒壇」で、これは「理屈の上では戒壇であるが、衆生が成仏できない戒壇」という意味で、これは比叡山延暦寺の戒壇がそれに当たると、日蓮正宗は言っている。 つまり大石寺の「事の戒壇」は、比叡山延暦寺の「理の戒壇」「大乗戒壇」よりも優越すると、日蓮正宗は言っているわけである。

それにしても、大石寺の法主、僧侶は、比叡山延暦寺や東大寺などの日本古来からの戒壇の寺院に対して、これほどまでの劣等感を持っているのだろうか。
実は、その劣等感は21世紀の現代にまで尾を引いている。その証拠の一つが、日蓮正宗大石寺が東大寺大仏殿そっくりで、「大仏殿がすっぽりと入る」などと宣伝した奉安堂を2002年に建立したことだ。この奉安堂が、現在の東大寺大仏殿がすっぽりと納まってしまう大きさであり、奈良、鎌倉時代の大仏殿と比較しても2倍以上の大きさとなることは、奉安殿の設計を担当した建築研究所アーキヴィジョン・広谷純弘氏が明かしている。
又、奉安堂の外観は、まさに東大寺大仏殿を模して造られたかのように、そっくりにできている。
これなどは、「日蓮正宗は、東大寺、延暦寺などの期成仏教の戒壇よりも優越なのである」という、奇妙な劣等感の裏返しに他ならない。




■ 検証169・日蓮正宗大石寺9世法主日有が「本門戒壇の大御本尊」なる名前の板本尊を偽作した動機3(大石寺を「迹門・大乗戒壇」比叡山延暦寺をも凌ぐ「本門・事の戒壇」にするため)7

□「本門戒壇の大御本尊を祀る大石寺=事の戒壇」を説く大石寺歴代法主の「御戒壇説法」

「大石寺を本門『事の戒壇』と定義づける」という日蓮正宗大石寺9世法主日有の野心的な動機は、日有を筆頭に大石寺の歴代法主が、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を祀る大石寺の堂宇が「事の戒壇」であると定義づける説法を残していることによって証明されている。

日蓮正宗大石寺26世法主日寛の「寿量品談義」では
「未だ時至らざる故に、直ちに事の戒壇これ無しといえども、すでに本門戒壇の御本尊まします上は、其の住処は即戒壇なり」

日蓮正宗大石寺37世法主日琫の「御宝蔵説法」では
「未だ時至らざれば、直ちに事の戒壇はなけれども、此の戒壇の御本尊ましますことなれば、この処即ち本門戒壇の霊場にして、真の霊山、事の寂光土と云うものなり」

日蓮正宗大石寺43世法主日相の「大弐阿闍梨御講聞書」では
「本門戒壇 在々処々本尊安置之処は理の戒也。富士山戒壇之御本尊御在所は事の戒也」

日蓮正宗大石寺56世法主大石日応の「御宝蔵説法」では
「御遺状の如く、事の広宣流布の時、勅宣・御教書を賜り、本門戒壇建立の勝地は当国富士山なる事疑いなし。又其の戒壇堂に安置し奉る大御本尊、今眼前に当山に在す事なれば、此の所即ち是れ本門事の戒壇、真の霊山、事の寂光土にして、若し此の霊場に一度も詣でん輩は…」

日蓮正宗大石寺60世法主阿部日開の「御宝蔵説法」では
「其の戒壇堂に安置し奉る大御本尊、今眼前に当山に在す事なれば、此の所即ち是れ本門事の戒壇、真の霊山、事の寂光土なり」

日蓮正宗大石寺66世法主細井日達の説法では
「大御本尊のおわします堂がそのまま戒壇堂であります。…戒壇の御本尊は、特別な戒壇堂ではなく、本堂にご安置申し上げるべきであります」(第1回正本堂建設委員会)
「大御本尊は…大聖人の一身の当体でありますから、本門戒壇の大御本尊安置のところは、すなわち、事の戒壇であります」(1970年5月3日の創価学会本部総会法主特別講演)

「御宝蔵説法」とは、奉安殿落慶以前において、大石寺法主が「本門戒壇の大御本尊」の「御開扉」の度に説法したもので、これは今は大石寺の大きな法要(霊宝虫払い大法会・御大会・法主代替法要・日蓮遠忌大法会)での「御開扉」のときに法主が行っている「御戒壇説法」のことである。
このように大石寺の歴代法主が、日有の言う「事の戒壇」の意味が、「本門戒壇の大御本尊」なる名前の板本尊を祀る場所であるという意味のことを、明確に示しているのである。
そして大石寺の「事の戒壇」は、今や「去年の暦の如し」と言われる「理の戒壇」になってしまった比叡山延暦寺の天皇勅許の「大乗戒壇」より優れているということになる。
この「事の戒壇」の教義は、日有が京都天奏のときに比叡山延暦寺で味わった屈辱の裏返しといったところだろう。


日蓮正宗大石寺26世法主日寛の「寿量品談義」

日蓮正宗大石寺43世法主日相の「大弐阿闍梨御講聞書」

日蓮正宗大石寺67世法主阿部日顕の御戒壇説法
■ 検証170・日蓮正宗大石寺9世法主日有が「本門戒壇の大御本尊」なる名前の板本尊を偽作した動機3(大石寺を「迹門・大乗戒壇」比叡山延暦寺をも凌ぐ「本門・事の戒壇」にするため)8

□日有の野望を始動させた1435(永享7)年の比叡山延暦寺根本中堂炎上事件1

それにしても、大石寺を、天皇が勅許した「大乗戒壇」である比叡山延暦寺をも凌ぐ「事の戒壇」にするというのは、いくらなんでも大胆すぎる発想である。
延暦25年(806年)、日本天台宗の開宗が正式に許可され、弘仁13年(822年)、伝教大師最澄の死後7日目にしてようやく「大乗戒壇」が許可された後、比叡山延暦寺は日本仏教史に残る数々の名僧を輩出した。
円仁(慈覚大師794 - 864)、円珍(智証大師、814 - 891)
良源(慈恵大師、元三大師 912年 - 985年)比叡山中興の祖。
源信(恵心僧都、942年 - 1016年)『往生要集』の著者。
良忍(聖応大師、1072年 - 1132年)融通念仏の唱導者。
法然(1133年 - 1212年)日本の浄土宗の開祖。
栄西(1141年 - 1215年)日本の臨済宗の開祖。
慈円(1155年 - 1225年)歴史書「愚管抄」の作者。天台座主。
道元(1200年 - 1253年)日本の曹洞宗の開祖。
親鸞(1173年 - 1262年)浄土真宗の開祖
又日蓮宗の開祖である日蓮(1222年 - 1282年)も、比叡山延暦寺で修行した僧侶であった。これら名僧の木像が今でも比叡山延暦寺大講堂に祀られている。

その延暦寺は、年々、冨と武力を増大化していっていた。まず領地として極めて多くの荘園を保持。又、街道に公然と関所を設けて通行料をとっていた。比叡山延暦寺の財力というものは、相当なものであった。
そして比叡山延暦寺は、強大な武力、いわゆる僧兵を持っていた。いわば比叡山延暦寺は巨大な利権集団というより、「比叡山延暦寺」という名前の「大名」だったと言える。
強大な権力で院政を行った白河法皇ですら「賀茂川の水、双六の賽、山法師。これぞ朕が心にままならぬもの」と言って嘆いたのは、あまりにも有名である。

日有の時代、その強大な権威・権力・財力・武力を持った比叡山延暦寺と、駿河国の草深い貧乏寺の大石寺を比べれば、「月とスッポン」「巨人とアリ」以上の差があることは明白。
いくらなんでも、大石寺が天下の比叡山延暦寺を凌ぐ「事の戒壇」などとは、大石寺一門を率いる法主・日有がいかに声高に叫んだところで、誰も信用してはくれない。しかし、時の運は、日有に味方をしたとしか思えないような事件が起こるのである。
それは1432(永享4)年の日有の京都天奏の旅からわずか3年後の1435(永享7)年2月、室町幕府6代将軍・足利義教が率いる室町幕府軍と比叡山延暦寺衆の間で戦争が起こり、僧侶たちが根本中堂に火を放って集団自決。
ここに伝教大師最澄以来、およそ六百年になんなんとする伝統がある比叡山延暦寺根本中堂が焼き払われて灰塵になってしまうという大事件が起こったのである。






■ 検証171・日蓮正宗大石寺9世法主日有が「本門戒壇の大御本尊」なる名前の板本尊を偽作した動機3(大石寺を「迹門・大乗戒壇」比叡山延暦寺をも凌ぐ「本門・事の戒壇」にするため)9

□日有の野望を始動させた1435(永享7)年の比叡山延暦寺根本中堂炎上事件2

室町時代の比叡山延暦寺は、巨大な権威にともなう財力と武力を持ち、室町幕府の統制に服さない「大名」というか「独立国」に近い集団であった。室町幕府の6代将軍・足利義教は、これを室町幕府の支配下に収めないかぎり、天下を掌握したとは言えず、忸怩たるものがあった。
その足利義教は、かつては第153世天台座主・義円であり、還俗して室町幕府6代将軍になった人物であり、比叡山延暦寺のすべてを知り尽くしていた。

1433(永享5)年、1435(永享7)年、二度にわたって室町幕府軍と比叡山延暦寺衆の間で激しい戦争が勃発。幕府軍は圧倒的な軍事力を背景に延暦寺の領地各地に火を放ち、荘園は次々と制圧。各地で延暦寺「軍」を打ち破っていったのだが、延暦寺の僧兵たちは、ここで最後の切り札を出した。延暦寺の総本堂である根本中堂に立て籠もったのである。
それ以前の例では、どんなに強大な権力者・武家でも、攻めるのはここまで。僧兵たちは、「将軍がいくら強気でも、根本中堂まで攻め込んではこないだろう」と踏んでいた。
大名たちはこれ以上の軍事攻撃に反対し、延暦寺も和議を申請した。しかし足利義教は、軍事攻撃で達成できなければ、謀略で比叡山制圧を達成しようとした。
足利義教は1435(永享7)年、義教は罪を反省して降伏した者には所領を安堵するというお触れを出した。これを信じて何人かの僧侶が出頭したところ、義教は直ちに逮捕して悲田院で斬首した。
いかに天下の将軍とはいえ、僧侶をだまし討ちにかけて仏の慈悲を象徴する建物で斬首したのであるから、比叡山延暦寺衆の憤りは頂点に達した。
足利義教も最後まで引かず、ついに憤激した僧侶たちは自ら根本中堂に火を放って集団焼身自殺をとげたのである。このときに、伝教大師最澄以来、およそ六百年になんなんとする伝統がある比叡山延暦寺根本中堂が焼き払われて灰塵になってしまったのである。

普通、伝教大師最澄以来の延暦寺根本中堂を焼き討ちにしたのは、1571(元亀2)年9月の織田信長による「比叡山延暦寺焼き討ち」だということになっている。しかし足利義教の事件のほうが織田信長の焼き討ちよりも136年も先で、最初に比叡山延暦寺を「焼き討ち」にしたのは、1435(永享7)年に比叡山延暦寺焼き討ちを行った足利義教なのである。
不思議なことに足利義教の比叡山延暦寺焼き討ちを知る人は少ないが、これは記録に残っている明白な事実である。
比叡山延暦寺根本中堂の炎上は、世間にものすごい衝撃を与えた。足利義教は京都市中で比叡山延暦寺に関する噂話を語ることを禁止し、禁令に触れた行商人たちを逮捕して斬首した。
がしかし、後花園天皇の父である伏見宮貞成王は日記に「万人恐怖」と記し、人々は足利義教を「天魔の所業」と非難した。
この比叡山延暦寺根本中堂炎上知らせは、当然、大石寺にももたらされたが、日有としては逆にホッとしたのではないか。この事件を、「日蓮正宗大石寺流に」解釈すると、次のようになる。

「法主をバカにして恥辱を与えた比叡山延暦寺が天罰で炎上した。これで比叡山の『理の戒壇』は終わった。次はいよいよ本門『事の戒壇』の時代なのだ」

日有の京都天奏からわずか3年後の延暦寺根本中堂炎上事件は、日有にとって、大石寺にとっては、偶然に延暦寺を「乗り越えた」事件ということになった。まさに大石寺の「事の戒壇」が、比叡山延暦寺の「理の戒壇」を乗り越えようとする日有の野望が始動することになったわけである。


■ 検証172・日蓮正宗大石寺9世法主日有が「本門戒壇の大御本尊」なる名前の板本尊を偽作した動機3(大石寺を「迹門・大乗戒壇」比叡山延暦寺をも凌ぐ「本門・事の戒壇」にするため)10

さてその比叡山延暦寺だが、元天台座主で還俗して将軍になった室町幕府6代将軍・足利義教と対立。永享7年(1435)、足利義教の武力制圧に反発した延暦寺の僧侶が根本中堂に火を放って、比叡山延暦寺・根本中堂が灰燼に帰すという事件が起こるが、その後、直ちに根本中堂は再建される。
さらに世が戦国時代に入った明応8年(1499)、今度は室町幕府管領・細川政元から攻撃を受けて、根本中堂を焼失する。これは管領・細川政元と対立して将軍職を廃された足利義材が幽閉先を脱出して越中へ逃れ、諸大名の軍事力を動員して京都回復・将軍復職をめざして各地で亡命生活を送る。亡命中の明応7年(1498年)に義尹と改名し、その義尹派の中に比叡山延暦寺がいたからである。この細川政元の攻撃で、比叡山延暦寺・根本中堂は史上二度目の焼失になる。
さらに元亀2年(1571)、織田信長による比叡山延暦寺・全山焼き討ちによって、延暦寺の伽藍・堂塔はことごとく焼失し、多くの僧侶が戦死して壊滅的な打撃を受ける。
織田信長の死後、豊臣秀吉や徳川家康が比叡山延暦寺を庇護し、根本中堂は徳川幕府3代将軍・家光によって再建されている。明治時代以降も、延暦寺の堂宇再建は続けられて、現在に至っている。

一方、日蓮正宗大石寺のほうだが、大石寺9世法主日有による「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊偽作以降、京都の天皇・幕府の将軍に申状を呈する天奏そのものを、やめてしまった。
日有以降、現在の大石寺法主の中で、天奏を行った法主は一人もいない。これは何を意味するものなのか。つまり日有をはじめとする大石寺法主が、日蓮が志した天皇・将軍に申状を上程して広宣流布を目指すという路線を完全に放棄し、日有が偽作した「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を教義の根本に据えて、この本尊の御開扉によって信者から供養金を収奪する路線に、方向転換したと言うことだ。
なぜ大石寺の法主は、こんな路線転換をしたのか。
まず第一に、天奏を行っても、大石寺の信者が増えるわけでもなく、大石寺が潤うわけでもない、ということに気づいたと言うこと。
第二に、大石寺歴代法主の中で、日有が史上はじめて天奏を行ったことで、はじめて京都仏教界の現実、皇室・天皇家、将軍家と南都六宗・八宗の繋がり、現実をまざまざと見せつけられ、天奏とは、莫大な費用と労力を消費するだけのもので、何のメリットもないということに、ようやく気づいたと言うこと。
第三に、そういう無意味な天奏をするよりも、日有が偽作した「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を根本本尊に据えて、大石寺が「事の戒壇なのだ」という自己中心的、独善的教義を流布させて信者を増やした方が、大石寺の懐の中が潤うという現実路線に転換したと言うことだ。
日有は、この現実を思い知るために、比叡山延暦寺から私度僧扱い同然に門前払いされるという屈辱まで味わうという、重い代償まで払った。
この日有の路線転換により、この大石寺の路線が今日までつづいているというわけである。





■ 検証173・日蓮正宗大石寺9世法主日有が「本門戒壇の大御本尊」なる名前の板本尊を偽作した動機3(大石寺を「迹門・大乗戒壇」比叡山延暦寺をも凌ぐ「本門・事の戒壇」にするため)11
□妙顕寺が勅願寺になったことで日蓮宗や大石寺が朝廷公認になったのではない

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(日蓮正宗信者の妄説)
日蓮宗が朝廷から公認されていないので、日有上人が私度僧扱いされ、日有上人の申状が門前払いになったというのは、おかしい。日蓮宗関連では、日像の妙顕寺が1321年(元亨元年)に後醍醐天皇より寺領を受け、1334年(建武元年)4月には、妙顕寺を勅願寺として法華宗号の綸旨を受けている。勅願寺ということは、東大寺や醍醐寺、観世音寺、薬師寺、石山寺等々と同格になったということだ。1358(延文3)年、後光厳天皇より日蓮に大菩薩号、日朗・日像に菩薩号が、そして妙顕寺には四海唱導の称号が、妙顕寺2世貫首・妙実には大覚の称号と大僧正の位が下賜された。よって日蓮宗も朝廷から公認された宗派だったのだ。
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たしかに、妙顕寺が1321年(元亨元年)に後醍醐天皇より寺領を受け、1334年(建武元年)4月には、妙顕寺を勅願寺として法華宗号の綸旨を受けたこと。1358(延文3)年、後光厳天皇より日蓮に大菩薩号、日朗・日像に菩薩号が、そして妙顕寺には四海唱導の称号が、妙顕寺2世貫首・妙実には大覚の称号と大僧正の位が下賜された、ということは史実である。しかしこのことが、日蓮宗全体が朝廷公認になったというわけではないし、もちろん大石寺が朝廷公認になったということではない。
1334年(建武元年)4月に、妙顕寺を勅願寺として法華宗号の綸旨を受けた、というのは、あくまでも妙顕寺だけの話しであって、朝廷から公認されたのは、あくまでも妙顕寺を本山とする日像門流だけである。
1358(延文3)年、後光厳天皇より日蓮に大菩薩号が下賜されたというのも、あくまでもこれは妙顕寺に下賜されたのであり、これを後年に日蓮宗全体で用いているだけのことである。よってこれも日蓮宗全体が朝廷公認になったというわけではない。

それともう一つ、1334年(建武元年)4月に、妙顕寺を勅願寺として法華宗号の綸旨を受けたことについて、当然のことながら既存の南都六宗・八宗は反対していたのであり、その中でも強硬に反対していたのが比叡山延暦寺。
京都においては、日像の開教以来、比叡山宗徒と日蓮宗宗徒が事ある毎に対立し、比叡山宗徒が日蓮宗の寺院の焼き討ちを行っており、妙顕寺も比叡山宗徒から何度も焼き討ちにされている。これが1536(天文5)年に、比叡山宗徒が京都の日蓮宗寺院をことごとく焼き討ちにして、京都の街が灰燼になるという、天文法華の乱が起こるまでになる。

したがってこれらの史実からして、日有が、朝廷への伝奏を司る比叡山延暦寺に申状の取り次ぎ依頼に行っても、比叡山がこれを取り次ぐはずがなく、比叡山延暦寺や官寺で修行経験のない日有を私度僧扱いして、門前払いにしてしまうのは、当然の道理である。





■検証174・日蓮正宗大石寺9世法主日有が「本門戒壇の大御本尊」を偽作した動機と「日蓮本仏論」「唯授一人の血脈相承」を偽作した動機の関連

日蓮正宗大石寺9世法主日有が「本門戒壇の大御本尊」を偽作した動機について
□1大石寺を身延山久遠寺や北山本門寺を凌ぐ日蓮一門総ての総本山にするため
□2大石寺が信者から未来永劫にわたって金銭を収奪していくシステムを確立させるため
□3 大石寺を「迹門・大乗戒壇」比叡山延暦寺をも凌ぐ本門「事の戒壇」と定義づけるため
という三つの点をすでに検証した。

しかし日蓮正宗大石寺9世法主日有は、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊のみならず、「日蓮本仏論」「唯授一人血脈相承」なるものを偽作して、「百六箇抄」「日興跡条条事」「産湯相承事」「御本尊七箇相承」というニセ文書の他、「日蓮の遺骨」「日蓮の墓」というものまで偽作している。
これら「日蓮本仏論」や「唯授一人血脈相承」といったものは、個々に独立しているものではなく、日有が偽作した「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊と密接に絡み、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を正統化せしめ、大石寺を正統化せしめるために存在しているのである。
つまり、「本門戒壇の大御本尊」も「日蓮本仏論」も「唯授一人血脈相承」も、日蓮正宗の教義の中ではその中心的地位を占め、あたかも二人三脚のように、他を牽引している。
したがって、日有が「本門戒壇の大御本尊」を偽作した動機を検証して行くに当たって、同時に日有が「日蓮本仏論」「唯授一人血脈相承」を偽作した動機を検証していくと、より一層、日有の野望がよりわかりやすく浮かび上がってくる。

日有が「日蓮本仏論」を偽作した動機は
□1日有が偽作した「本門戒壇の大御本尊」=日蓮=本仏という教義理論を完成させるため
□2大石寺を身延山久遠寺や北山本門寺を凌ぐ日蓮一門総ての総本山にするため
□3 大石寺が信者から未来永劫にわたって金銭を収奪していくシステムを確立させるため
□4 「本仏の後継者」「本仏の代官」としての法主の権威確立のため

日有が「唯授一人血脈相承」を偽作した動機は
□1自らが偽作した「本門戒壇の大御本尊」「日蓮本仏論」を理論的に正統化するため
□2大石寺を身延山久遠寺や北山本門寺を凌ぐ日蓮一門総ての総本山にするため
□3大石寺が信者から未来永劫にわたって金銭を収奪していくシステムを確立させるため
□4 「本仏の後継者」「本仏の代官」としての法主の権威確立のため
□5浄土真宗仏光寺派にあやかって大石寺門流の信者を大幅に増やすため

であるが、これらのうち
「大石寺を総本山にするため」「信者から未来永劫に金銭収奪するシステム確立のため」
は「本門戒壇の大御本尊」を偽作した動機と重複している。他の
□1日有が偽作した「本門戒壇の大御本尊」=日蓮=本仏という教義理論を完成させるため
□2自らが偽作した「本門戒壇の大御本尊」「日蓮本仏論」を理論的に正統化するため
□3 「本仏の後継者」「本仏の代官」としての法主の権威確立のため
□4浄土真宗仏光寺派にあやかって大石寺門流の信者を大幅に増やすため
この四つの動機について、「本門戒壇の大御本尊」を偽作した動機との関連で検証していくこ
こうすることによって、日有の「本門戒壇の大御本尊」偽作の野望が、よりわかりやすく浮かび上がってくると思われる。





■検証175・日蓮正宗大石寺9世法主日有が「本門戒壇の大御本尊」を正統化せしめるための「日蓮本仏論」を偽作した動機1

□「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊=日蓮=本仏の教義理論完成のため-1

それでは、日蓮正宗大石寺9世法主日有は、いかなる動機を以て、日蓮正宗大石寺門流独特の「日蓮本仏論」や「法主の血脈」なる“特異な教義”を発明・偽作したのだろうか。それも全て自らが偽作した「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊のため、これを正統化する動機と目的から発生しているので゜ある。

■(1)日有が偽作した「本門戒壇の大御本尊」=日蓮=本仏という教義理論を完成させるため

日有が「日蓮本仏論」「法主の血脈」を偽作した第一の動機は、日有自身が「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を偽作して、これを日蓮仏法の「終窮究竟の本尊」「事の戒壇に祀る本尊」としたからである。
日蓮正宗大石寺9世法主・日有が、「本門戒壇の大御本尊」なる名前の板本尊を偽作して日蓮真筆だなどと詐称し、日蓮正宗大石寺門流の中心・根本の本尊(法の本尊と日蓮正宗が呼んでいる)に据えた以上、日蓮を根本の仏(末法の本仏・仏の本尊と日蓮正宗が呼んでいる)に据えないと、日蓮正宗大石寺門流の教義の骨格の辻褄が合わなくなるのである。
結論的に言うと仏教の本仏思想においては、基本的に本仏=本尊ということになる。日蓮正宗系の教団以外の日蓮宗・法華宗等では釈迦牟尼を本仏として、釈迦牟尼の仏像を造立する宗派もあれば、大漫荼羅を本尊としつつも、戒壇建立の暁には、仏像造立すべきとする宗派もある。

日有は、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を偽作して、
「当宗の本尊の事、日蓮聖人に限り奉るべし」(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨が編纂『富士宗学要集』1巻p65)
と、「日蓮を本尊とすべき」とはっきりと明示し、これを「本門戒壇の大御本尊」=日蓮としたのだが、そうすると、必然的に釈迦牟尼本仏論では、「本門戒壇の大御本尊」を終窮究竟の本尊とする日有教学では、根本教義が矛盾してしまう事になる。つまり本仏=本尊で、日有は「本門戒壇の大御本尊」=日蓮として、「日蓮を本尊とすべき」としたわけだから、釈迦牟尼本仏論では矛盾してしまうのである。

日蓮正宗が、教義の中でも最重要教義としている「本門事の戒壇」に祀る「本門戒壇の大御本尊」なる豪華絢爛な板本尊の“造立主”は、『本仏』でなければならないのである。
釈迦牟尼から相承を受けた上行菩薩が末法の世に再誕した僧侶・日蓮という位置づけでは、『本仏』よりも格下の『僧』が根本の『本尊』を説いたことになり、教義が自己矛盾に陥ってしまう。
「当宗の本尊の事、日蓮聖人に限り奉るべし」(日蓮正宗大石寺59世法主・堀日亨編纂『富士宗学要集』1巻p65)
「高祖(日蓮)大聖は我れ等が為に三徳有縁の主師親・唯我一人の御尊位と云へり」(日蓮正宗59世法主・堀日亨が編纂した『富士宗学要集』2巻p159)
「本門の教主釈尊とは日蓮聖人の御事なり」 (『富士宗学要集』2巻p182収録の日教の著書「百五十箇条」より)
「当家には本門の教主釈尊とは名字の位・日蓮聖人にて御座すなり」
(『富士宗学要集』2巻p320収録の日教の著書「類聚翰集私」より)
等という、日有がはっきりと「日蓮=本尊=本仏」とする教学が必要になるということである。



■検証176・日蓮正宗大石寺9世法主日有が「本門戒壇の大御本尊」を正統化せしめるための「日蓮本仏論」を偽作した動機1

□「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊=日蓮=本仏の教義理論完成のため-2

そもそもこの本仏(ほんぶつ)とは、無数の仏(如来)の中で、衆生が成仏するための根本となる仏(如来)のことである。
仏教という宗教では、衆生を仏道に導く仏(能化の仏)がいて、導かれる衆生(所化の衆生)はその仏の仏門に入り、さまざまな修行を積み重ねた後、仏に成る(成仏)ことができるというものであるが、もともと仏教では、過去七仏にみられるように釈迦牟尼が仏教という大宗教を成したのは単に釈迦一代のみの事業ではなく、過去においてすでに成道し成仏した仏陀たちの前世の功徳が累積した結果であるという思想があった。
釈迦牟尼滅後、釈迦牟尼が仏になることができたのは、在世の修行のみならず、釈迦牟尼の過去世における無数の仏の下での長い修行の結果であるという思想が生まれ、、やがて、それらの仏のなかでも、一番の原因となる本仏が想定されるようになったと考えられる。
本仏思想は12世紀頃の天台宗に見られ、日蓮の本仏思想は、中古天台思想の影響を受けているという説を立てている日蓮宗系・日蓮正宗系の学者・研究者がいるが、しかし、現在の天台宗は本仏思想を説いていない。
本仏思想というものは日蓮宗勝劣派と呼ばれる宗派のみが積極的に主張しているものである。

日蓮宗・法華宗下の教義では、法華経の如来寿量品第十六の文中に無量長寿の釈迦牟尼仏が登場するが、この釈迦牟尼仏こそ本仏であるであるという教義・釈迦牟尼本仏論を立て、日蓮本仏論と対立する。この釈迦牟尼本仏としての釈迦牟尼仏は久遠仏ないしは久遠実成本仏とも呼ばれ、仏典に出てくる無量の諸仏はこの釈迦牟尼本仏の迹仏とする。
この本仏は紀元前のインドに生まれて八十年生きたと言う釈迦牟尼とは論者により必ずしも同体ではないが、しかし仏典に出てくる無量の諸仏を産んできた根本の本仏とするものである。
この釈迦牟尼本仏論では、日蓮はあくまでも釈迦牟尼仏の弟子であり、本仏ではないとしている。

しかし、日蓮本仏論では、宗祖・日蓮が生きた時代は末法であり、法華経に説かれる五百塵点劫(ごひゃくじんてんごう)に始まる有始有終の仏・釈迦牟尼の教えは、末法では役に立たず(白法隠没=びゃくほうおおんもつ)、末法の世では釈迦牟尼の代わりに、釈迦牟尼が五百塵点劫の昔に成仏した時の因行(本因妙)である、無始無終の久遠元初の本仏・日蓮の教えによってのみ救われる、とする。
日有は、まず明確に釈迦牟尼本仏論を否定し、釈迦の因行を本尊とすべきであると説いている。

「当宗には断惑証理の在世正宗の機に対する所の釈迦をば本尊には安置せざるなり、其の故は未断惑の機にして六即の中には名字初心に建立する所の宗なる故に、地住已上の機に対する所の釈尊は名字初心の感見には及ばざる故に、釈迦の因行を本尊とするなり、其の故は我れ等が高祖日蓮聖人にて在すなり、… 
本門の釈迦は上行等云云、故に滅後末法の今は釈迦の因行を本尊とすべきなり、其の故は神力結要の付属は受持の一行なり、此の位を申せば名字の初心なる故に釈迦の因行を本尊とすべき時分なり、是れ則本門の修行なり、夫とは下種を本とす、其の種をそだつる智解の迹門の始めを熟益とし、そだて終つて脱する所を終りと云ふなり、脱し終れば種にかへる故に迹に実躰なきなり」(『日有師化儀抄』p109)

詳しい現代語訳は省略するが、「釈迦をば本尊には安置せざるなり」「釈迦の因行を本尊とするなり」「滅後末法の今は釈迦の因行を本尊とすべきなり」の言葉に、日有の釈迦牟尼本仏論否定が明確に顕れている。






■検証177・日蓮正宗大石寺9世法主日有が「本門戒壇の大御本尊」を正統化せしめるための「日蓮本仏論」を偽作した動機1

□「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊=日蓮=本仏の教義理論完成のため3

日蓮正宗大石寺9世法主日有は、釈迦牟尼本仏論を否定したあと、宗祖・日蓮こそが本尊・本仏であると論じる。

「当宗には断惑証理の在世正宗の機に対する所の釈迦をば本尊には安置せざるなり、其の故は未断惑の機にして六即の中には名字初心に建立する所の宗なる故に、地住已上の機に対する所の釈尊は名字初心の感見には及ばざる故に、釈迦の因行を本尊とするなり、其の故は我れ等が高祖日蓮聖人にて在すなり」(『日有師化儀抄』p109)

「当宗の本尊の事、日蓮聖人に限り奉るべし、仍つて今の弘法は流通なり、滅後の宗旨なる故に未断惑の導師を本尊とするなり」(『日有師化儀抄』p46)

日有は「釈迦の因行」=日蓮であるから、日蓮=本尊であるとする。すなわち、釈迦牟尼本仏論を否定して、日蓮=本尊であると説いているわけだから、本仏思想における本仏=本尊という図式からして、本尊=日蓮=本仏ということでないと、辻褄が合わなくなる。
日有の説法の聞書を筆録した「有師談諸聞書」には
「高祖(日蓮)大聖は我れ等が為に三徳有縁の主師親・唯我一人の御尊位と云へり」(日蓮正宗59世法主・堀日亨が編纂した『富士宗学要集』2巻p159)
という日有の説法が残されていて、日蓮の位は、法華経で「唯我一人能為救護」と説いた釈迦牟尼と同じ本仏の位であると日有が言っている、ということになる。

しかし日有は、日蓮=本尊ではあるが、それは日蓮の木像を独立して本尊とするのではなく、日蓮の大漫荼羅を本尊とすべきと説いている。「化儀抄」の中に

「法華宗は何なる名筆たりとも観音妙音等の諸仏諸菩薩を本尊と為すべからず、只十界所図の日蓮聖人の遊ばされたる所の所図の本尊を用ふべきなり」(『日有師化儀抄』p73〜74)

と日有が説いた説法が書き残されている。
「当宗の本尊の事、日蓮聖人に限り奉るべし」と説いた日有が、もう一方では「只十界所図の日蓮聖人の遊ばされたる所の所図の本尊を用ふべきなり」と、日蓮の大漫荼羅を本尊とすべきと説いている。「十界所図の日蓮聖人の遊ばされたる所の所図の本尊」とは、明らかに日蓮の木像(御影)ではなく、大漫荼羅のことであるが、日有は特に「日蓮聖人の遊ばされたる所の所図の本尊」と言っていることから、これは法主が書写した大漫荼羅本尊などではなく、日蓮真筆の大漫荼羅本尊ということになる。
日蓮正宗大石寺において、根本本尊として祀っている本尊とは、日蓮真筆そのものではなく、日有が偽作して日蓮真筆を詐称している「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊に他ならない。
つまりこれらの日有教学を整理すると、「釈迦の因行」=日蓮であるから、日蓮=本尊であり、本仏思想における本仏=本尊という図式からして、本尊=日蓮=本仏を導き出しているが、その本尊とは、「本門戒壇の大御本尊」であり、本仏=本尊=日蓮=「本門戒壇の大御本尊」ということになる。
すなわち、日有の「日蓮本仏論」は、「本門戒壇の大御本尊」を根本本尊に据えるための教義理論を完成させるためのものである、と言うことである。



■検証178・日蓮正宗大石寺9世法主日有が「本門戒壇の大御本尊」を正統化せしめるための「日蓮本仏論」を偽作した動機1(「本門戒壇の大御本尊」=日蓮=本仏の教義理論完成)4

□なぜ日有は「本門戒壇の大御本尊」を等身大に造立したのか

大石寺の「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊は、正面から見ると人間の身長ほどもある、巨大な板本尊のようである。御開扉のとき、お厨子の扉を開ける僧侶の身長と、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の丈はほぼ等しく見える。毎年4月には大石寺で「霊宝御虫払い大法会」が執行され、法主自らこの「本門戒壇の大御本尊」の煤払いをするが、その写真を見ても、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の丈は法主の身長とほぼ等しく見える。
日蓮正宗総本山大石寺48世法主日量の著書『富士大石寺明細誌』には、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の丈について約143センチとなっている。 この143センチという数字は、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の漫荼羅の部分のものだから、台座を含めれば、160〜170センチということになるのだろう。つまり板本尊として日蓮正宗大石寺9世法主日有は「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を人間の身長とほぼ等しい、等身大の巨大な板本尊に造立したということである。

□「本門戒壇の大御本尊」=日蓮と見立てて造立した日蓮正宗大石寺9世法主日有

では なぜ日有は「本門戒壇の大御本尊」を等身大に造立したのか。実は、これが「本門戒壇の大御本尊」=日蓮=本仏という教義・日蓮本仏論と深い関係がある。
仏像や位牌を等身大に造立するということは、古くから仏教界では行われていることであり、等身大に造立する意味は、その人物に見立てて造立するということである。では日蓮正宗大石寺9世法主日有は、誰に見立てて「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を造立したのか、ということになるが、それは言うまでもなく日蓮である。
つまり「本門戒壇の大御本尊」=日蓮ということを表現しているということだ。
日有は、「本門戒壇の大御本尊」を偽作・造立する一方で、「日蓮本仏論」を偽作して、日蓮=本仏=「本門戒壇の大御本尊」の教学理論を完成させようとした。

「当宗には断惑証理の在世正宗の機に対する所の釈迦をば本尊には安置せざるなり、其の故は未断惑の機にして六即の中には名字初心に建立する所の宗なる故に、地住已上の機に対する所の釈尊は名字初心の感見には及ばざる故に、釈迦の因行を本尊とするなり、其の故は我れ等が高祖日蓮聖人にて在すなり」(『日有師化儀抄』p109)

「当宗の本尊の事、日蓮聖人に限り奉るべし、仍つて今の弘法は流通なり、滅後の宗旨なる故に未断惑の導師を本尊とするなり」(『日有師化儀抄』p46)

日有の説法の聞書を筆録した「有師談諸聞書」には
「高祖(日蓮)大聖は我れ等が為に三徳有縁の主師親・唯我一人の御尊位と云へり」(日蓮正宗59世法主・堀日亨が編纂した『富士宗学要集』2巻p159)
という日有の説法が残されていて、日蓮の位は、法華経で「唯我一人能為救護」と説いた釈迦牟尼と同じ本仏の位であると日有が言っている、ということになる。
しかし日有は、日蓮=本尊ではあるが、それは日蓮の木像を独立して本尊とするのではなく、日蓮の大漫荼羅を本尊とすべきと説いている。
「法華宗は何なる名筆たりとも観音妙音等の諸仏諸菩薩を本尊と為すべからず、只十界所図の日蓮聖人の遊ばされたる所の所図の本尊を用ふべきなり」(『日有師化儀抄』p73〜74)

「当宗の本尊の事、日蓮聖人に限り奉るべし」と説いた日有が、「只十界所図の日蓮聖人の遊ばされたる所の所図の本尊を用ふべきなり」と、日蓮の大漫荼羅を本尊とすべきと説いている。
「十界所図の日蓮聖人の遊ばされたる所の所図の本尊」とは、明らかに日蓮の木像(御影)ではなく、大漫荼羅のことであるが、これは日蓮筆の大漫荼羅本尊ということになる。
日蓮正宗大石寺において、根本本尊として祀っている本尊とは、日蓮真筆そのものではなく、日有が偽作して日蓮真筆を詐称している「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊に他ならない。
つまりこれらの日有教学を整理すると、「釈迦の因行」=日蓮であるから、日蓮=本尊であり、本仏思想における本仏=本尊という図式からして、本尊=日蓮=本仏を導き出しているが、その本尊とは、「本門戒壇の大御本尊」であり、本仏=本尊=日蓮=「本門戒壇の大御本尊」ということになる。つまり日有は「本門戒壇の大御本尊」=日蓮と見立てて、「本門戒壇の大御本尊」を等身大に偽作造立したということである。




■検証179・日蓮正宗大石寺9世法主日有が「本門戒壇の大御本尊」を正統化せしめるための「日蓮本仏論」を偽作した動機1(「本門戒壇の大御本尊」=日蓮=本仏の教義理論完成)5

□なぜ日有は「本門戒壇の大御本尊」を等身大に造立したのか2

仏典には釈迦牟尼の身長は常人の数倍と書かれているため、日本では平安時代くらいまでは立像1丈6尺(約4.8m) 坐像9尺(約2.7m)を仏像の身長の基準にして「丈六」と呼んでいた。 これが鎌倉時代に入ると、仏像願主が天皇・公家から武家に移り、コスト削減のため、基準値よりも小さいサイズの仏像を求めるようになった。
こうした中、仏像や位牌を等身大に造立するということは、「丈六」の仏像が造立されていた古くから仏教界では行われていることであり、等身大に造立する意味は、その人物に見立てて造立するということに他ならない。古来からの例を挙げてみると

■北魏で高宗文成帝が等身大の仏像を造らせた
■法隆寺夢殿の秘仏本尊である救世観音像は、古来から聖徳太子の等身大の像として法隆寺に伝承されている。法隆寺夢殿の救世観音像とは、数百年間、秘仏として格蔵されていたが、1884(明治17)年夏に、フェノロサと岡倉天心が、いやがる法隆寺僧を説得して開扉せしめたことで有名な、あの像である。

それから等身大ではないものの
■法隆寺金堂の薬師如来像は、聖徳太子の父・用明天皇のためにこれを造営したとあり、いわば用明天皇の位牌のような感じで、用明天皇に見立てて造立された。
■法隆寺金堂の釈迦如来像は、法隆寺の資材帳によれば王后が聖徳太子のためにこれを造ったとするので、これもまた聖徳太子の位牌のような感じで聖徳太子に見立てて造立された。

仏像を故人に見立てるというのは、位牌が日本に伝来する以前だったからである。位牌が中国から日本に伝来したのは、鎌倉時代。禅僧とともに日本に伝来したものである。
等身大の位牌で有名なのは、松平4代親忠が文明7年(1475)に建立した、松平家、徳川将軍の菩提寺として有名な大樹寺にある徳川14代将軍の位牌である。
■大樹寺の位牌堂には初代将軍・徳川家康から14代将軍・家茂までの位牌が祀られているのだが、全て等身大に造立されている。

■日蓮の漫荼羅本尊の中にも、等身大の漫荼羅本尊がある。それは弘安三年三月に日蓮が図顕した「臨滅度時の本尊」である。この本尊は、日蓮が1282(弘安5)年10月、武州・池上の池上邸で臨終を迎えたとき、枕元の床頭に祀られていた本尊で、鎌倉の日蓮宗寺院・妙本寺に格蔵されている本尊である。

□等身大に造立された仏像・漫荼羅・位牌は古来から中国・日本に存在していた

立正安国会発行の「日蓮御本尊集」によると、この本尊は丈が161センチ。ほぼ等身大なのである。大石寺の「本門戒壇の大御本尊」は板本尊なので、台座から漫荼羅の頂までの丈の合計が等身大ということであるが、「臨滅度時の本尊」は紙に書いた掛け軸式の本尊である。したがって、漫荼羅の丈のみで等身大の本尊ということになる。
「臨滅度時の本尊」は鎌倉の日蓮宗寺院・妙本寺に格蔵されているのであるが、日蓮宗各派の間では、非常に知名度が高い本尊であり、日蓮宗各派の僧侶であれば、誰でもその存在を知っていたというくらい、知名度が高い本尊である。したがって、日有は「臨滅度時の本尊」を実際に拝観したことはなかったとしても、等身大の「臨滅度時の本尊」の存在は知っていたと考えられる。

このように日本では古来から、等身大に造立された仏像・漫荼羅・位牌が存在しており、日蓮一門でも、等身大に図顕された「臨滅度時の本尊」が存在していた。
したがって、日有が「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を日蓮の等身大に造立したことも、これらの延長線上にあると考えられるのである。



■検証180・日蓮正宗大石寺9世法主日有が「本門戒壇の大御本尊」を正統化せしめるための「血脈相承」を偽作した動機2

日蓮正宗大石寺9世法主日有(1402〜1482・法主在職1419〜1467・1472〜1482)が「日蓮本仏論」「法主の血脈」を偽作した二番めの動機は、自らが偽作した「本門戒壇の大御本尊」「日蓮本仏論」を理論的に正統化するためである。

□(2)自らが偽作した「本門戒壇の大御本尊」「日蓮本仏論」を理論的に正統化するため

そもそも日蓮正宗大石寺の「本門戒壇の大御本尊」なる名前の板本尊は、日蓮正宗大石寺第九世法主・日有が偽作したものである。
これだけ巨大で、かつ豪華絢爛の、しかも日有の代まで「未聞未見」の板本尊を日蓮正宗大石寺の中核をなす板本尊にすえるには、日有としては、日蓮正宗の教義を整備し、「本門戒壇の大御本尊」を日蓮から法主のみが相承してきたということを「証明」する文書を整えておく必要があった。
日有は、この板本尊の存在を正統化し、この板本尊を粉飾・装飾し、大石寺を粉飾・荘厳するために、おびただしいばかりの文書「日蓮から相伝した」などと詐称して偽造し、日蓮や日興が生きていた時代には存在していなかった教義を次々と発明した。
日蓮や日興が生きていた時代にはなく、日有が発明した日蓮正宗の教義とは、「本門事の戒壇」「日蓮本仏論」「唯授一人の血脈を相承する法主」といった類の教義である。
日有が偽造した文書とは、現在のところ、判明しているものだけでも「日興跡条条事」「御本尊七箇相承」といった「日蓮からの相承」「日興からの相承」を詐称している文書をでっち上げたことが判明している。

日蓮正宗大石寺九世法主・日有は、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を室町時代中期に偽作したことによって、日蓮の時代から日有在世の時代まで、歴史上、全く存在しなかった「本門戒壇の大御本尊」「日蓮本仏論」といったものの時間的空白を埋める必要があった。
いくらなんでも、今まで全く「未聞未見」の「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を見せられ、前代未聞の「日蓮が本仏だ」という教義を突然、時の法主から聞かされても、「ハイ、そうですか」と、大石寺門流の僧侶や信者は納得しない。宗祖・日蓮が造立した板本尊や、釈迦牟尼ではなく日蓮を本仏とする教義など、彼らにとっても、まさに前代未聞のものだ。
「そんな板本尊も教義も今までになかったものだ」ということになり、下手をすれば、身延離山、日仙・日代問答に匹敵するような内紛が起こり、大石寺門流そのものが分裂しかねない危機に陥ってしまう。
そこで日蓮正宗大石寺九世法主・日有が、日蓮正宗大石寺門流で、最初に大石寺法主の血脈なるもの「唯授一人の血脈相承」を唱えたのである。
つまりこういうことだ。
「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊も「日蓮本仏論」なる教義も、日有より以前の時代において、大石寺門流には存在しておらず、影も形もないものであり、誰もその存在を知らなかったもの。
しかし誰も知らなかったが「日蓮大聖人・日興上人から相承を受けていた法主だけが知っていた」「『本門戒壇の大御本尊』は唯授一人の血脈を相承してきた大石寺の御法主上人だけが、内密に相伝してきた御本尊です」
「広宣流布の暁までは、蔵の中におしまいして、決して公開されぬ御本尊なのです」
「その法主の言っていることを信じろ」
などという、人々を欺瞞する、とんでもない詐欺的な教義なのである。




■検証181・日蓮正宗大石寺9世法主日有が「本門戒壇の大御本尊」を正統化せしめるための「血脈相承」を偽作した動機2

□自らが偽作した「本門戒壇の大御本尊」「日蓮本仏論」を理論的に正統化するため2

日有が唱えた「大石寺法主の血脈」の例証として、次のようなものがある。

「手続(てつぎ)の師匠の所は三世の諸仏、高祖以来、代々上人のもぬけられたる故に、師匠の所を能く能く取り定めて信を取るべし。又、我が弟子も此の如く我に信を取るべし。此の時は、何れも妙法蓮華経の色心にして全く一仏なり、是れを即身成仏と云うなり」(日蓮正宗59世法主・堀日亨が編纂した『富士宗学要集』1巻61ページ収録の「化儀抄」より)
--------「手続(いつぎ)の師匠」とは、自ら弟子をもって薫育している師匠のことで、大石寺法主や末寺の住職のこと。その「手続の師匠」の所には過去・現在・未来の三世の総ての仏や高祖日蓮以来、歴代の大石寺の法主の心がぬけられて師匠の所に来ているのだから、その師匠をよくよく信じて信仰に励むべきである。私(日有)の弟子たちも、このように私(日有)を信じて信仰に励むべきである。-------

日蓮正宗大石寺の法主は、過去・現在・未来の三世の総ての仏や高祖日蓮以来、歴代の大石寺の法主の心がぬけられているのだから、法主である日有を信じて信仰に励めと日有が弟子たちにストレートに命じているのである。
日有は、自らが偽作した「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊、「日蓮本仏論」を以て、日蓮正宗大石寺独自の下種仏法の立場を確立しようとした。と同時に、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊や日蓮正宗総本山大石寺を粉飾・荘厳するため、「未聞未見」の「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊や「日蓮本仏論」を「法主のみが相承してきた」と詐称することによって、大石寺門流の僧俗を「本門戒壇の大御本尊」「日蓮本仏論」「法主」の名のもとに統一したのである。
このために「唯授一人の血脈相承」や「法主絶対思想」が、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊や「日蓮本仏論」を偽作した日有にとって必要だった。したがって、日有が大石寺門流の中において、はじめて、日蓮、日興から大石寺の歴代法主に相承されてきたとする「法主の血脈」なるもの、「唯授一人の血脈相承」を唱えだしたのである。
「唯授一人の血脈相承」が後世の偽作であると決定づけるものは、法主の血脈・唯授一人の血脈相承が説かれている「百六箇抄」「二箇相承」「日興跡条条事」「御本尊七箇相承」「本尊三度相伝」といった文書がことごとく後世の偽作であるということで。理論的には証明されている。以下のトピックを参照せられたい。

「『二箇相承書』は日蓮の真筆ではない。後世の偽作だ」
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=6472591&comm_id=406970
「『日興跡条条事』は日興真筆ではない。後世の大石寺法主・9世日有の偽作だ」
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=37625405&comm_id=406970
「『百六箇抄』(具騰本種正法実義本迹勝劣正伝)なる相伝書は日蓮真筆ではない。後世の石寺法主・9世日有の偽作だ」
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=61970478&comm_id=406970
「『本因妙抄』なる相伝書は日蓮の真筆ではない。後世の偽作である」
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=43421082&comm_id=406970
「『御本尊七箇相承』なる名前の文書は日蓮・日興とは無関係の文書だ。後世の大石寺法主・9世日有の偽作である」
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=37216818&comm_id=406970
「『本尊三度相伝』は日蓮、日興とは無関係の後世の偽作文書である」
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=42463396&comm_id=406970
「『産湯相承事』なる文書は日蓮・日興とは無関係の文書だ。後世の大石寺法主・9世日有の偽作である」
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=5101362&comm_id=406970




■検証182・日蓮正宗大石寺9世法主日有が「本門戒壇の大御本尊」を正統化せしめるための「血脈相承」を偽作した動機3

日蓮正宗大石寺9世法主日有(1402〜1482・法主在職1419〜1467・1472〜1482)が「法主の血脈」を偽作した二番めの動機は、宗祖である日蓮を「本仏」と位置づけることにより、同じく日有が偽作した「唯授一人血脈相承」と合わせて、大石寺法主を「本仏・日蓮の後継者」あるいは「本仏・日蓮の代官」としての「法主の権威」を確立するためである。

□(3) 「本仏の後継者」「本仏の代官」としての大石寺法主の権威確立のため

日有は、「化儀抄」において、現住の大石寺法主は、現在の日蓮、日興、日目であるという教義を繰り返し説いている。

「手続の師匠の所は三世の諸仏、高祖已来、代々上人のもぬけられたる故に、師匠の所を能く能く取り定めて信を取るべし、又我が弟子も此の如く我に信を取るべし、此の時は、何れも妙法蓮華経の色心にして全く一仏なり」(富士学林編纂『化儀抄』p25)
--------「手続(いつぎ)の師匠」とは、自ら弟子をもって薫育している師匠のことで、大石寺法主や末寺の住職のこと。その「手続の師匠」の所には過去・現在・未来の三世の総ての仏や高祖日蓮以来、歴代の大石寺の法主の心がぬけられて師匠の所に来ているのだから、その師匠をよくよく信じて信仰に励むべきである。私(日有)の弟子たちも、このように私(日有)を信じて信仰に励むべきである。-------

上記の第4条の文はその代表的なものであるが、次下の第14条、第24条の文も同じである。
「信者門徒より来る一切の酒をば、当住持始めらるべし、只、月見、二度の花見当計り児の始めらるるなり、其の故は三世の諸仏高祖開山も当住持の所にもぬけられたる所なるが故に、事に仏法の志を高祖開山日目上人の受け給う姿なり」(富士学林編纂『化儀抄』p31)
「弟子檀那の供養をば、先ず其所の住持の御目にかけて、住持の義に依って仏に申し上げ鐘を参らすべきなり、先師先師は過去して残る所は当住持計りなる故なり、住持の見たもう所が諸仏聖者の見たもう所なり。」(富士学林編纂『化儀抄』p38)

これに「日蓮本仏論」を重ね合わせると、大石寺法主は本仏・日蓮の正統な後継者であり、代官であるという、「法主絶対思想」が出来上がるということになる。
日有が現職の大石寺法主であった代に、京都・日尊門流から日有の門下に帰伏した左京阿闍梨日教は、自らの著書で
「釈尊より以来の唯我一人の御附嘱を糸乱れず修行有る聖人を信受し奉る所の信心成就せば師檀共に事の行成立すべし、さてこそ当家なれ」(「穆作抄」/『富士宗学要集』2巻p262)
「此の(大石寺)門家には日蓮聖人より以来の附法血脈一宗の法頭疑ひなきなり」(「穆作抄」/『富士宗学要集』2巻p274)
「此の御本尊は忝くも高祖(日蓮)聖人より以来、付法の貫主のあそばしたまふ授与の御本尊より外に仰も雅意に任せて書く可きや」(「穆作抄」/『富士宗学要集』2巻p283)
「日蓮聖人御入滅有るとき補処を定む。其の次に仏法附嘱として当代の法主の所に本尊の体有るべきなり」(「類聚翰集私」/『富士宗学要集』2巻p309)
というふうに、「法主絶対思想」を繰り返し、宣揚・鼓舞しているとおりである。





■検証183・日蓮正宗大石寺9世法主日有が「本門戒壇の大御本尊」を正統化せしめるための「法主の血脈」を偽作した動機3

□「本仏・日蓮の後継者」「本仏・日蓮の代官」としての大石寺法主の権威確立のため2

宗教は、「信」に基盤をおいた宗教的な権威、神、仏、僧侶、法主、教祖などへの盲従を前提にしている。つまり権威とは、助言以上命令以下であり、人が自発的に同意・服従を促すような能力や関係のことであり、威嚇や武力によって強制的に同意・服従させる能力・関係である権力とは区別される。
ただし、「自発的に」とはいっても、上司や階級が上の者、周囲からの「同意・服従」への圧力がかかっているということが大きく作用していることは事実で、したがって、人の完全に自由意志で結論を下したというわけではない。

他者に対して権威的である、あるいは権威が生じている集団のあり方は様々であり、例えば神秘的、非合理的な宗教団体における教祖と信者の関係でも、合理的研究を追求する研究所内における専門家と研究員の関係でも権威は生じる。
権威は、ある立場・地位のみが権威化され、そのポジションにおかれた個人そのものに権威がともなわない場合もある。いわゆる権威的な職種に携わる人が、その地位を象徴する制服やバッジを身につける限りは権威を行使できても、そうした装置をひとたび外せば権威が失われてしまうということもある。

ところが日蓮正宗における「法主」の地位、ないし法主の地位にあった人物の権威は、「日蓮本仏論」と「唯授一人の血脈相承」なるものがミックスされることによって、日蓮正宗の僧侶、信者を全面的に服従させる「絶対的」な権威となる。
仏教において、仏と衆生、法主と僧侶と信者、能化と所化の区別は絶対のものである。仏門に入った衆生は、仏の教えに基づいて修行し、研鑽を重ねて、自らが成仏する、ということになる。
したがって、仏、ないし仏の教えは、仏門に入っている僧侶や信者にとっては絶対のものである。
大勢の僧侶と信者がいる仏門・教団の実質的な頂点にある法主が、「本仏の正統な後継者」ということになれば、法主の地位は、本仏の地位に等しくなるくらいに権威付けられ、絶対化することは必至である。
その「絶対的」な権威を保持する法主に逆らう僧侶や信者は、「擯斥」(ひんせき)や「信徒除名」という名目で日蓮正宗大石寺門流という「教団」の外に追放され、その後は、大石寺参拝・「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊内拝ができなくなるばかりではない。
僧侶は今まで住んでいた日蓮正宗寺院から追い出されることになり、実質的に失業し、収入源を絶たれてしまう。
したがって、日蓮正宗の法主の権威とは、ただ単に僧侶や信者が自発的に同意・服従を促すような能力や関係にとどまらない。「擯斥」や「除名」といった宗制宗規といったものによる威嚇や集団圧力によって強制的に同意・服従させる能力・関係である権力という側面まで併せ持つということになる。
ファシズム、ナチズムやスターリニズムといったナチドイツ、ソ連、中国、北朝鮮、クメールルージュ等に代表される全体主義体制のように、近代的個人の諸権利が完全に否定されて、強力な政府のもとで自由主義、個人の諸権利を抑圧しつつ「上からの支配」が行われる政治体制を権威主義体制と称することがあるが、日蓮正宗の法主の権威によって作り出されている支配体制は、まさにこれらの権威主義的な政治体制とまことに酷似している。
こういった支配体制を作り出す源泉思想が、まさに日有が偽作した「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊と「日蓮本仏論」「法主の血脈」ということになる。





■検証184・日蓮正宗大石寺9世法主日有が「本門戒壇の大御本尊」を正統化せしめるための「法主の血脈」を偽作した動機3

□「本仏・日蓮の後継者」「本仏・日蓮の代官」としての大石寺法主の権威確立のため3

それではなぜ、日蓮正宗大石寺9世法主日有は、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊、「日蓮本仏論」「唯授一人血脈相承」といったものを偽作して、権威主義的な支配体制を構築しようとしたのだろうか。

それは、1333(元弘3)年の大石寺開祖・日興、三祖日目の死後、1334年の日仙・日代問答にはじまり、つづいて大石寺・日道門流と日郷門流の間で、蓮蔵坊の所有権をめぐって内紛・紛争が起こり、日興門流は、大石寺、北山本門寺、西山本門寺、小泉久遠寺、保田妙本寺、そして京都の日尊門流に四分五裂状態に分裂。
さらに日仙・日代問答によって、日仙は大石寺から四国・讃岐本門寺に行ってしまい、日代のほうは、日仙・日代問答から10年後の1343(興国4)年に、北山本門寺から追放されて、西山本門寺を創建している。
特に蓮蔵坊紛争によって日興・日目門流が大石寺門流と小泉久遠寺、保田妙本寺を本山とする日郷門流に分裂してしまったのは、大石寺にとって大打撃となった。
この蓮蔵坊紛争が最終的に決着したのは1405(応永12)年のことである。実に紛争勃発から七十年という歳月が経過していた。
これにより、1333年から1405年の72年の間に、少なくとも日興門流は、大石寺・北山本門寺、西山本門寺、讃岐本門寺、日郷門流(小泉久遠寺、保田妙本寺)、京都の日尊門流の五つに分裂してしまっていた。
これによって、大石寺の信者も大幅に激減することになり、これはまた当然の如く、大石寺に上がってくる供養金の激減、収入の激減による財政の疲弊・窮乏化を引き起こしていた。
日有が大石寺法主に登座した当時、大石寺は財政の疲弊・窮乏の極限状態にあったのである。

日有が大石寺法主に登座してまもなくのころ、大石寺の北方約45キロほどの地点にある甲斐国毛無山山系にある湯之奥金山が発見・開発され、ここから産出された「金」によって、大石寺の財政・法主の懐は一転して潤うことになる。
それでは、大石寺門流を財政の疲弊・窮乏状態に再び転落させないためには、どうすればいいのか、と大石寺法主として、日有は考えた。
人間、一度たりとも金の利権とか、豪華・栄華な生活を味わってしまうと、昔の貧しかったころには戻りたくないと考えるものだ。日有とて、法主登座以前の極貧状態の生活は、二度と味わいたくなかったことだろう。

大石寺6世法主日時、7世法主日阿、8世法主日影の代に、大石寺の財政が疲弊・窮乏化した最大の原因は、日興門流の五分裂にあったわけだから、この分裂を引き起こさせないために、頂点の「法主の絶対的権威」をつくるということ。
これが「日蓮本仏論」「唯授一人の血脈相承」なるものが偽作された、第二の動機である。

日有が「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊、「日蓮本仏論」「唯授一人血脈相承」を偽作して「法主の絶対的権威」「法主絶対思想」が完成したことによって、日有の代以降、実に約500年にわたって、日蓮正宗大石寺門流から、教団の分裂劇が消えることになる。
それまでこの門流は、身延離山、日仙・日代問答、日代追放による西山本門寺創建、日仙の四国行き、蓮蔵坊紛争によって紛争・内紛つづきだったわけだから、日有の偽作、「法主の絶対的権威」は、功を奏したことになる。
1925〜1926年の日蓮正宗大石寺58世土屋日柱追落とし事件は、単なる法主追放劇であって、教団の分裂劇ではない。
日有以降の日蓮正宗の教団の分裂劇は、1970年代以降に起こった妙信講、正信会、創価学会の「破門」まで、約500年間、姿を消すことになるのである。



■検証185・日蓮正宗大石寺9世法主日有が「本門戒壇の大御本尊」を正統化せしめるための「血脈相承」を偽作した動機4

□浄土真宗仏光寺派にあやかって大石寺門流の信者を大幅に増やすため

日蓮正宗大石寺9世法主日有(1402〜1482・法主在職1419〜1467・1472〜1482)が「法主の血脈」を偽作した四番めの動機は、当時、浄土真宗の中で本願寺派を大きく凌ぐくらいの大きな勢力を持っていた仏光寺派の根本教義である「法脈」を輸入することによって、浄土真宗仏光寺派にあやかり、大石寺門流の信者を大幅に増やすためである。

■(4) 浄土真宗仏光寺派にあやかって大石寺門流の信者を大幅に増やすため

日有が、大石寺を「事の戒壇」にして、日蓮一門、富士門流一門の総本山にし、未来永遠に信者から金銭を収奪するシステムを整備しようとしたのも、大石寺一門を京都の大寺院・比叡山延暦寺や園城寺を超える隆盛寺院にする目的のために他ならない。
日有の時代は、甲州・湯之奥金山が産出する金があったが、大石寺一門の信者数は、日郷門流との七十年戦争によって大きく疲弊し、富士門流の他の本山と比べても乏しかった。
比叡山延暦寺も園城寺も、その他の京都の大寺院も、その経済力の源泉は、金鉱山の金ではなく、莫大な数の信者からの供養であった。
日有としても、当然のことながら、京都の大寺院並に信者の数を増やし、大石寺の経済力をより安定したものにしたいという腹づもりがあったことは、疑いない。
日有は、仏光寺派の根本教義である「法脈」を輸入することによって、浄土真宗仏光寺派にあやかり、大石寺門流の信者を大幅に増やすことを企んだ。

それではなぜ、仏光寺派の根本教義である「法脈」の輸入ということになるのかというと、まさに日有の時代、浄土真宗といえば、それは仏光寺派のことであり、室町時代の中期、浄土真宗の本家本元であるはずの本願寺から、信徒(浄土真宗では門徒という)を奪い取り、我が世の春を謳歌していた。
この浄土真宗仏光寺派の信者拡大にあやかり、「法脈」を模倣した「唯授一人血脈相承」なるものを偽作して、身延山久遠寺や北山本門寺・小泉久遠寺等々から信者を奪い取り、大石寺一門の信者を大幅に増やそうとした。

しかし、日有の「唯授一人血脈相承」なるものを偽作して、身延山久遠寺や他の富士門流本山から信者を奪い取って、大石寺一門の信者を大幅に増やそうという目論見は、見事に失敗に終わった。
仏光寺は、信者が抱える不安に巧みにつけいり、「名帳」なる名前の「極楽往生決定者名簿」を作り上げて、信者の心をつかんだ。信者の不安とは、
「本当に自分は極楽往生が決定しているのか」「自分の信仰には誤りがないのか」という不安。
仏光寺はここに巧みにつけ込んで、親鸞以来の正しい教えを標榜する「法脈」の他に、「名帳」なる名前の「極楽往生決定者名簿」を作り、この名帳に名前が記された者は極楽往生が決定するとした。これが浄土真宗の信者の爆発的人気を呼び、われもわれもと仏光寺派に入信し、名帳に名前が記されることを願ったというわけである。

日有は、仏光寺の「法脈」の模倣はしたが、「名帳」の模倣はしなかった。それが響いたのか?日有の思惑通りに、大石寺門流の信者は増えることがなかった。





■検証186・なぜ日有は『当宗の本尊の事、本門戒壇の本尊に限り奉るべし』と書かなかったのか

「本門戒壇の大御本尊」日有偽作論に対して、犀角独歩氏がブログでこんな問難を書いているという情報が寄せられた。
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(犀角独歩氏の問難)
「大石寺の『本門戒壇の大御本尊』なる名前の板本尊を日有が偽作したというなら、なぜ日有は
化儀抄で「当宗の本尊の事、日蓮聖人に限り奉るべし」(日蓮正宗大石寺59世法主・堀日亨編纂『富士宗学要集』1巻相伝信条部p65/『有師化儀抄』)と書き、
『当宗の本尊の事、本門戒壇の本尊に限り奉るべし』と書かなかったのか」
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まず第一に、『当宗の本尊の事、戒壇本尊に限り奉るべし』という言い方をしてしまうと、別の矛盾が発生してしまうからである。
日蓮正宗の末寺寺院の本堂・客殿の須弥壇、信者宅の仏壇には、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を大石寺法主が書写したとしている本尊だけが祀られているわけではない。
日蓮正宗大石寺の末寺寺院には、日蓮自筆の紫宸殿本尊を模刻した板本尊(信行寺・妙法寺など)、日華授与本尊を模刻した板本尊(妙蓮寺)、日仙授与本尊を模刻した板本尊(讃岐本門寺)などが本堂・客殿に祀られている寺院が現に存在していること。
日蓮正宗の古い信者の中に、日蓮真筆の本尊を格蔵している人(永井藤蔵家など)がいたこと。
日蓮正宗の僧侶、信者の中で、すでに出回っている日蓮の本尊を感得(思いがけなく手に入れること)する人が出たこと。江戸幕府六代将軍家宣正室・天英院は日仙授与本尊を感得している。
(ただし妙蓮寺の日華授与本尊、天英院が感得した日仙授与本尊、永井藤蔵家に格蔵されていた本尊は、日蓮正宗が一方的に日蓮真筆だと自称している本尊であり、立正安国会刊行の「日蓮・御本尊集」には載っていない。公式には真偽未決と言うべき本尊である)
つまり、「当宗の本尊の事、戒壇本尊に限り奉るべし」という言い方をしてしまうと、「紫宸殿本尊」「日華授与本尊」「日仙授与本尊」の模刻板本尊を祀っている寺院、他の日蓮真筆の本尊を格蔵して祀っている寺院・信者の化儀が、頭から否定されてしまうことになる。
したがって「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を偽作した日有が、『当宗の本尊の事、本門戒壇の本尊に限り奉るべし』と書くはずがない。

第二に、日有は「有師物語聴聞抄佳跡上」で、自らの本尊観について次のように書いている。
「当宗の御堂は如何様に造りたりとも皆御影堂なり、十界所図の御本尊を掛奉り候へども、高祖日蓮聖人の御判御座せば只御影堂なり」
(日蓮正宗大石寺59世法主・堀日亨編纂「富士宗学要集」1巻p193/『有師物語聴聞抄佳跡上』)
--当宗の御堂は、どのような造りで建てようとも皆これは御影堂なのである。それは、御堂には十界所図の御本尊を掛奉るのであるが、その御本尊には高祖日蓮聖人の御判が御座すわけだから、御堂に日蓮聖人の御判がある十界所図の御本尊を掛奉れば、御影像がなくてもそこは御影堂になるのである---

この「有師物語聴聞抄佳跡上」の文によれば、日有の本尊観は、大漫荼羅本尊に日蓮御影像を摂するというもので、「化儀抄」においても「当宗の本尊の事、日蓮聖人に限り奉るべし」と書いている一方で、「只十界所図の日蓮聖人の遊ばされたる所の所図の本尊を用うべきなり」とも書いていることからして、「日蓮聖人に限り奉るべし」という意味は、他の日蓮自筆の本尊を包含した上で、日有が偽作した「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊に限るという意味である、ということで、充分に会通が成立するものである。





■検証187・なぜ日蓮正宗大石寺9世法主日有は「本門戒壇の大御本尊」に「現当二世の為造立件の如し」と書いたのか

□「本門戒壇の大御本尊」と「板位牌、本位牌、寺位牌」を区別しようとした日有

日蓮正宗大石寺9世法主日有が偽作して以来、大石寺に格蔵されている「本門戒壇の大御本尊」なる名前の板本尊の脇書きには、次のように書いてあるという。

「右現当二世の為造立件の如し、本門戒壇之願主 弥四郎国重、法華講衆等敬白、弘安二年十月十二日」(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂「富士宗学要集」第8巻資料類聚1より)

この奇妙に長々としている脇書きに、「現当二世の為造立件の如し」という文が入っているが、なぜこんな文を日有が書き込んだのだろうか??
それは、この文にこそ、「本門戒壇の大御本尊」なる名前の板本尊と、板位牌、本位牌、寺位牌とを、明確に区別しようとした日有の意図が感じられるのである。

日有の時代、つまり室町時代中期のころの仏教界・仏教各宗の寺院には、鎌倉時代に中国から禅宗とともに伝来した板位牌、本位牌、寺位牌が、流行しつつあった。
日有はこれらの板位牌、本位牌、寺位牌をモデルにして模倣し、「本門戒壇の大御本尊」なる名前の板本尊を造立したと考えられるのだが、見た目にはこれらの板位牌、本位牌、寺位牌といったものの、非常によく似ている。
板位牌、本位牌、寺位牌といったものは、現代の位牌のように小型化したものもあったが、元来は、もっと巨大なものであり、中には人間の身長に等しいほど巨大なものもあった。
そういう板位牌、本位牌、寺位牌といったものを仏壇・厨子の中心に祀って崇めるのである。
しかも大石寺、富士門流の中はおろか、日蓮一門全てを見回しても、黒漆に金箔加工を施した豪華絢爛な板本尊自体が、他に類例を見ないものである。

つまり日有は、「現当二世の為造立件の如し」の文を板本尊に入れることによって、板位牌、本位牌、寺位牌といったものと明確に区別しようとしたと考えられるのである。

つまり位牌というものが造立される目的は、故人が法主や日号を免許された能化などの上位の僧侶ならば「報恩謝徳の為」、一般の僧侶や信者ならば「追善供養証大菩提の為」であり、「乃至衆生平等利益の為」に造立されるものである。
これに対して「本門戒壇の大御本尊」なる名前の板本尊造立の目的は「現当二世の為」。
この「現当二世の為」の文言によって、板位牌、本位牌、寺位牌といったものと「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊が明確に区別されると考えたのではないか。
これにより、日有以降の大石寺法主が書写した本尊の脇書きには、次第に「現当二世の為」の文字が入れられていき、今では大石寺法主が書写した本尊の脇書きの常套句になっている。

尚、日有が偽作した「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の原型が、禅宗と共に鎌倉時代に中国から日本に伝来した本位牌・板位牌・寺位牌であるということについては、「日蓮正宗大石寺の「本門戒壇の大御本尊」は日蓮正宗大石寺9世法主・日有の偽作だ」PART1の検証36・検証37を参照せられたい。
「日蓮正宗大石寺の『本門戒壇の大御本尊』なる板本尊は日蓮正宗大石寺9世法主日有の偽作だ」PART1(検証1〜80)
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=66689819&comm_id=406970




■検証188・なぜ日有は「本門戒壇の大御本尊」に「本門戒壇之願主」と書いたのか1?

□授与書に「本門戒壇の大御本尊」を祀る場所・堂宇を特定する書き方ができない

「本門戒壇の大御本尊」なる名前の板本尊を偽作した日蓮正宗大石寺9世法主日有は、この板本尊を「本門事の戒壇」に祀る「本門戒壇の大御本尊」と定義づけたかった。
つまりこの板本尊が祀られている場所が「本門事の戒壇」となること、が日有教学の最大のポイントということになる。この「事の戒壇」は、「三大秘法抄」に説かれている
「戒壇とは、王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて、有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是なり」(平成新編御書全集p1595)
と定義づけた「本門戒壇」とは別個のものだが、しかし「三大秘法抄」の「本門戒壇に祀る本尊」という、二つの意味合いを持たせる本尊としたということになる。
この日有の「本門事の戒壇」思想は「新池抄聞書」という文書の文

「日有云く、また云く、大石は父の寺、重須は母の寺、父の大石は本尊堂、重須は御影堂、大石は本果妙、重須は本因妙、彼は勅願寺、此は祈願寺、彼は所開、此は能開、彼は所生、此は能生、即本因、本果、本国土妙の三妙合論の事の戒壇なり」(「富士日興上人詳伝・下」p84)

にはっきりと垣間見得る。そのためには、日有としては、この本尊の脇書きの中に「本門戒壇の大御本尊」であることの「証拠」を残しておかねばならない。

通常、日蓮正宗大石寺の法主が書写して寺院に下賜した本尊の脇書きは、左端の上のほうに
「授与之 ××山○○寺安置 願主△△△△」
となっている。これは「之を××山○○寺に安置し願主△△△△に授与する」と読む。
日蓮や日興、日目が書示した本尊の脇書きは「授与之○○」となっており、同様に法主が信者に下賜した本尊の脇書きも「授与之○○」となっている。

ただし「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の脇書きが「授与之○○」とか「授与之 ××山○○寺安置 願主△△△△」になっていたのでは、逆に矛盾が発生してしまう。
日有の本門「事の戒壇」思想は、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を祀る場所がいつでもどこでも「本門事の戒壇」ということだから、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を祀る場所・堂宇は、時代によって変更される可能性がある。
現に「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊は、日有偽作当時から大石寺宝蔵に格蔵されていたが、江戸時代のある時期は御影堂に祀られていたことがあった。
又、昭和から平成の代に入ってから大石寺宝蔵→奉安殿→正本堂→奉安殿→奉安堂と祀られる場所・堂宇が変更になっている。
また日有が偽作した「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊は、弘安二年(1279年)の造立を偽っており、すでに身延山久遠寺⇒大石寺というふうに「祀る場所」の変更を騙っている本尊ということだから、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の脇書きに、祀る場所を特定する書き方があったら、矛盾が発生してしまう。
又、日興の「富士一跡門徒御存事」によると、大石寺の門流は、富士戒壇建立説を唱えているので、なおさら脇書きで、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を祀る場所・堂宇を特定する書き方ができないということになる。





■検証189・なぜ日有は「本門戒壇の大御本尊」に「本門戒壇之願主」と書いたのか2?

□日有の「事の戒壇」思想と符合する「本門戒壇の大御本尊」授与書の「本門戒壇之願主」

同様に、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊に「授与之日興」という脇書きが入っていたら、これも矛盾が発生してしまうことになる。
もし日興に授与するという脇書きになっていたら、日興個人に授与した本尊ということになり、「本門戒壇の大御本尊」としての機能が、日興が死去したと同時に失われてしまうことになる。

通常、日蓮正宗では、個人授与の本尊の場合、法主直筆の名前が入った常住本尊を授与された当人が死去した場合、遺族に「感得願」を出させるか、あるいは一度返納した後に、脇書きに加筆するかして再下賜するかといった方法をとっている。
例えば日蓮正宗法主が信者“知らぬ顔の半兵衛”氏に常住本尊を授与した場合、本尊の左端には「授与之○○寺信徒・知らぬ顔の半兵衛」という脇書きの文字が入る。
その“知らぬ顔の半兵衛”氏が死去した場合、その常住本尊は、大石寺に返納しなくてはならなくなるのだが、しかし“知らぬ顔の半兵衛”氏の跡取り息子で、半兵衛氏から相続した長男・甚兵衛氏が、寺院に「感得願」を出すことによって、父親の“知らぬ顔の半兵衛”氏授与の常住本尊が、甚兵衛氏に「相続」されることになるわけである。

こういう日蓮正宗のシステムからすると、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊に「授与之日興」という脇書きが入っていたら、日興が死去した後、法主が替わるたびに、次の法主に板本尊を相伝する書類を残すか、脇書きを加筆していくかしなければならなくなる。
しかし、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊は、日蓮正宗大石寺9世法主日有が表面を、黒漆に金箔加工の板本尊にしてしまっているので、この板本尊に、脇書きを加筆していくことは実質的に不可能である。

又、大石寺法主が替わるたびに板本尊を相伝する書類というのも、日有より前の法主交代の時までさかのぼって、日有が法主から法主への相伝の文書を偽造しなければならなくなる。

又、「授与之 ○○堂安置」という書き方にしてしまうと、「本門戒壇の大御本尊」なる名前の板本尊よりも、本尊を祀る建物の方が主になってしまい、日有の「本門事の戒壇」思想における建物と板本尊の主客関係が逆転してしまう。日有が一度「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を祀った「本門戒壇」は、その後、建替えや祀る場所の変更など、一切できなくなってしまう。
したがって、この書き方でも矛盾が発生してしまうことになる。

そういったところから「本門戒壇之願主」という書き方に落ち着いたのではないだろうか。
これだと、本尊戒壇の「願主」が存在していて、その願主の願い出によって、「本門戒壇の大御本尊」が造立され、その板本尊が祀られている場所が自動的に「本門事の戒壇」になったという、日有の「事の戒壇」思想と符合することになる。

しかも、これだと「本門戒壇の大御本尊」なる名前の板本尊を祀る場所・堂宇が、何かの事情で変更になっても、大石寺の法主が替わっても、一切、なにも変更する必要がない。
「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊が存在している限り、この板本尊が祀られている場所が「本門事の戒壇」になるということになる。

こういったところから、「授与之 本尊戒壇安置」「授与之日興」「授与之 ○○堂安置」のいずれの書き方でもなく、「本門戒壇之願主」という書き方になったと考えられる。


■検証190・なぜ日有は「本門戒壇の大御本尊」の日付を「弘安二年十月十二日」にしたのか?

□日蓮門下最大の行事・御会式の万灯行列・練り供養の日にした日有

「本門戒壇の大御本尊」なる名前の板本尊の脇書きにまつわる「謎」のひとつに、なぜ日有が日付を「弘安二年十月十二日」にしたのか、という点がある。

日蓮真筆本尊を研究された人ならば知っていることだと思いますが、日蓮の漫荼羅本尊は、「文永」(1271〜1274)「建治」(1275〜1277)「弘安」(1278〜1282)と時代が下っていくにしたがって、その相が整っていくことが確認されている。
たとえば、中央の「南無妙法蓮華経」の真下に「日蓮」と「花押」が書かれるようになるとか、釈迦牟尼から提婆達多まで経典に出てくる十界全てが漫荼羅本尊に書かれるなどのことである。
こういったことは、一見すれば、誰の目にもわかることである。
大石寺にも「文永」(1271〜1274)「建治」(1275〜1277)「弘安」(1278〜1282)それぞれの時期の日蓮真筆の本尊が格蔵されているが、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を偽作するために、模写する元の本尊をどこから選ぶとすれば、当然、「弘安」(1278〜1282)期の本尊を選ぶだろう。
そうなると、「本門戒壇の大御本尊」なる名前の板本尊を偽作した日蓮正宗大石寺9世法主日有としては、日蓮が何か大きな機縁で「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を造立したという物語を捏造するとすれば、「弘安」(1278〜1282)期の大きな事件から捜すしかなくなることになる。
「弘安」(1278〜1282)期の大きな事件といえば、熱原法難と弘安の役しかない。

しかし弘安の役で「本門戒壇の大御本尊」を建立したという「物語」にした場合、日蓮が
「いまにしもみよ。大蒙古国数万艘の兵船をうかべて日本国をせめば、上一人より下万民にいたるまで、一切の仏寺・一切の神寺をばなげすてて、各々声をつるべて南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経と唱え、掌を合はせてたすけ給へ日蓮の御房、日蓮の御房とさけび候はんずるにや。」
と「撰時抄」で予言したことは見事に外れてしまっており、これでは権威付けにならない。そうすると、残るは熱原法難しかなくなってしまうから、自動的に年号は「弘安二年」ということになる。

するとなぜ「十月十二日」なのかということになるが、日蓮正宗大石寺9世法主日有は日蓮の遺文「聖人御難事」の内容とは関係なく、十月十二日にしたと考えられる。もし日有が「聖人御難事」の文の内容を知っていて、この遺文と関連づける形で「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を偽作したとすれば、日付を「聖人御難事」の「十月一日」にしたか、ないしは熱原の農民が逮捕された九月にしただろう。
そうすると日有が「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の日付を「十月十二日」にした理由は、第一に、権威付けである。日蓮の記念日を追っていくと、面白いことがわかる。
「10月10日佐渡流罪」「11月11日小松原法難」「5月12日伊豆流罪」「9月12日龍口法難」「10月13日入滅」。「12日」という日は、伊豆流罪・龍口法難の両方の記念日であり、日蓮命日の前日である。すると「本門戒壇の大御本尊」の日付を「10月12日」にすれば、翌日は日蓮入滅の日ということになる。
第二に、「10月12日」とは日蓮入滅の前日だが、この日は日蓮宗の本山では御会式が行われる日であり、特に身延山久遠寺では万灯行列、池上本門寺では万灯練り供養という派手な行事が行われる日である。日蓮宗に言わせると、これらの行事は日蓮一周忌から行われているというが、日蓮一周忌から行われていたかどうかは別にして、少なくとも身延山久遠寺が西谷から現在の地に移転した室町時代には行われていたと考えられる。
大石寺では、万灯行列や万灯練り供養をパクったようなお練りと称する行列を御会式で行っているが、まさに日蓮門下最大の行事が行われる日にして、権威付けを謀ったのではあるまいか。
日有は、こういう日付の組み合わせを「本門戒壇の大御本尊」なる名前の板本尊の権威付けに利用するために、「10月12日」の日付にしたと考えられるのである。





■検証191・なぜ日有は「本門戒壇の大御本尊」を金文字にしたのか?

□仏教の権威の象徴であり現世での富や豊かさの象徴・権力の象徴であった金1

日蓮正宗大石寺48世法主日量が書いた「富士大石寺明細誌」には、この「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊が「黒漆金文字」とはっきり書いてある。
つまり、この「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊は表面に黒漆が塗ってあって、文字のところが彫刻で掘り下げてあり、そこに金箔加工がしてある、ということである。したがって「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の表面は、漆で黒光りし、文字が金ピカに輝いて見えるのである。
ということは、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊は1445(文安2)年ころに、日蓮正宗大石寺9世法主日有の命令により、秘かに造立され、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の表面に漆加工と金箔加工が施された。
ではなぜ日有は、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の文字を、わざわざ金箔加工を施して金文字にしたのか、ということである。

それは「金」というものが、現世での富や豊かさの象徴であり、仏教の世界においては、古くから至高の存在として、仏の三十二相の「金色相」の如く、光り輝く浄土の世界として表現されてきた歴史がある。そして同時に「金」は権威・権力の象徴でもあったということである。

日本ではじめて自然金が確認されたのは奈良時代中期のことである。
それ以前の弥生・古墳・飛鳥時代の金製品・金メッキ・金箔製品の金は、海外から輸入されたものである。弥生・古墳時代の金の装飾品は、まさに権力者の富の象徴だった。
日本では滋賀県野洲町の甲山古墳(6世紀前半)から日本最古の金糸が発見されている。
奈良県明日香村のキトラ古墳(7世紀末〜8世紀はじめ)では、天文図の星が金箔で表現されていることが確認されている。
仏教伝来後の飛鳥時代になって、仏の三十二相の中の「金色相」の考えに基づき、仏像・仏具で金が使われはじめた。

ちなみに日本では、戦国時代まで、そのほとんどが東北産の金であった。戦国時代になると戦費調達や家来への報奨のために金山が開発された。甲州・湯之奥金山もまさにそれらの金山の中のひとつであったのであり、戦国時代から江戸時代初期まで、日本の金の生産はひとつのピークを迎える。
仏教は「日本書紀」によれば、552年に百済国から金銅の仏像や経典が日本に伝わり、飛鳥時代から造仏が盛んになった。
当時の仏像・仏具は銅で鋳造され、金メッキが施された。仏像や仏殿での金の使用は、仏の三十二相の「金色相」があり、仏像は金色とされ、西方浄土の世界も金色と記されているためである。
現在も日本を含め仏像・仏具には金色が尊ばれ、金箔が張られている。

743(天平15)年、聖武天皇は奈良・東大寺の大仏造営を決定し、仏像に金箔を飾ろうとしたところ、749年に陸奥国(宮城県)で「金」が発見され、900両の金が天皇に献上された。
天皇は年号を天平感宝と改め、歌人・大伴家持は
「すめろぎの 御代栄えむと東なる みちのくの山に 黄金花咲く」
と詠んだ。





■検証192・なぜ日有は「本門戒壇の大御本尊」を金文字にしたのか2

□仏教の権威の象徴であり現世での富や豊かさの象徴・権力の象徴であった金2

平安時代末の12世紀、平泉・中尊寺金色堂に代表されるように、奥州には藤原氏により約100年にわたって、華やかな黄金文化が栄えた。
1124(天治元)年、奥州の実力者・藤原清衡が平泉に中尊寺金色堂を完成させたのである。光堂とも呼ばれる中尊寺金色堂の内外には金箔が張りめぐらされた。
奥州藤原氏初代・清衡が建立した中尊寺には、寺や塔が40余り、奥州藤原氏二代・基衡が建立した毛越寺にも40に及ぶ寺や塔があった。これらの寺や塔の内部も金箔が張りめぐらされ金色に輝いていたと言われている。
中尊寺に蔵されている、仏教の全てを集大成した6000巻を超える経典である一切経には、初代・藤原清衡による金銀字交書一切経や三代・藤原秀衡の金字一切経がある。
金泥で写経した経典には、奈良の大仏が建立された天平時代の写経、平清盛の平家納経や奥州藤原三代の中尊寺経などがある。
藤原秀衡は、金字一切経のテキストである中国の宋版・一切経を金10万5000両を支払って購入したとされている。
奈良時代の日本における金発見以来、室町・戦国時代まで、日本の金のほとんどが奥州から産出したものであり、藤原清衡の棺の中には、32グラムの金塊が納められていた。

一方、当時の日本の首都・京都では、仏師定朝によって1053(天喜元)年に造られた京都・宇治の平等院・鳳凰堂の阿弥陀如来座像には、座像と光背、さらに光背を固定する吊り金具に金箔が施されている。
また日有の時代、全国に守護大名・戦国大名が勃興しつつあったが、それらの権力者・大名たちも、金や銀を権力の象徴・富の象徴として建築や調度品等々に多用した。
それほどまでに金は、仏教権威の象徴であるばかりでなく、権力と富の象徴だったのである。

日有の時代にすでにあった金を張りめぐらせた代表的な建築物は、京都の鹿苑寺金閣である。
この鹿苑寺金閣の地には、鎌倉時代の1224年(元仁元年)に藤原公経(西園寺公経)が西園寺を建立し、あわせて山荘(「北山第」)を営んでおり、公経の子孫である西園寺家が代々所有していた。西園寺氏は代々朝廷と鎌倉幕府との連絡役である関東申次を務めていたが、幕府滅亡直後に当主・西園寺公宗が後醍醐天皇を西園寺に招待して暗殺しようと企てたという容疑がかけられて処刑されてしまい、西園寺家の膨大な所領と資産は没収されてしまう。このため、西園寺も次第に修理が及ばず荒れていった。
1397年(応永4年)、足利義満が河内国の領地と交換に西園寺を譲り受け、改築と新築によってこれを一新。舎利殿としての金閣もこの時に建立された。
足利義満の北山山荘は当時「北山殿」、または「北山第」と呼ばれた。邸宅とは言え、その規模は御所に匹敵し、政治中枢の全てが集約された。
1394年(応永元年)、義満は征夷大将軍を子の義持に譲っていたが、実権は手放さず、北山殿にあって政務を行っていた。1408(応永15)年の足利義満の死後、足利義持によって北山殿は舎利殿(金閣)を残して解体されるが、足利義満の遺言により禅寺とされ、足利義満の法号「鹿苑院」から鹿苑寺と名付けられた。夢窓疎石を勧請開山(名目上の開山)としている。

それでは、日蓮正宗大石寺9世法主日有が、「本門戒壇の大御本尊」を偽作する前に、実際に自らの目で見た金の仏像・金の建築はどれだろうか。それは京都の鹿苑寺金閣、平等院・鳳凰堂である。日有がそれらを見た年はもちろん、京都天奏の旅に出た1432(永享4)年3月。
日有は、奥州巡教にも出ているので、奥州平泉の中尊寺金色堂も日有が直接見た可能性が高いが、しかしそれは1445(文安2)年の「本門戒壇の大御本尊」偽作のあとである可能性が高い。
日有は、仏教権威の象徴であるばかりでなく、権力と富の象徴だった金を使って、自らが「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を金箔加工を施して金文字にしたと考えられるのである。





■検証193・なぜ日有は「鎌倉殿より十万貫の御寄進」と書いたのか

□「十万貫の御寄進」で日蓮に「本門戒壇の大御本尊」を造立できる経済力があったとした日有

日蓮正宗大石寺9世法主日有が偽作した自称・相伝書「百六箇抄」の中に
「鎌倉殿より十万貫の御寄進有りしを縁と為して諸所を去り遁世の事・甲斐国三牧は日興墾志の故なり」(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂『富士宗学要集』1巻p22)
という文が書いてある。
鎌倉幕府と厳しい対立関係にあった日蓮が、鎌倉殿、つまり鎌倉幕府の将軍、ないしは鎌倉幕府そのものから十万貫の寄進を受けるなどと言うことはあり得ない話である。
この記述が史実に反するものであることは、『富士宗学要集』を編纂した日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨も認めていることで、堀日亨自ら
「十万貫なんという途方もない厚遇ができようはずがない」
「かくのごとき漫筆をたくましゅうするから、塩尻なんどに漫罵せられて宗祖の顔に泥を塗ることになる」
「いわんや十万貫なんど突拍子もないことは、大聖を愚弄するもはなはだしいものであるが、一般はこんな馬鹿げたことが好物らしい」(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨の著書『富士日興上人詳伝』p61〜62)
と述べて、強く否定しているくらいである。

そういう史実に反する記述を、どうして日有は、「相伝書」と自称している「百六箇抄」の中に書いたのか。

それは「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を造立するには、大きな経済力が必要で、それは「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を偽作した日有が一番よく知っていたからである。
しかし身延山の山中で極貧の生活をしていた、鎌倉時代の日蓮には、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を造立できる経済力もなければ、技術力もなかった。「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を偽作した日有は、これを「日蓮が造立した」と詐称しているわけだから、日蓮に「本門戒壇の大御本尊」が造立できる経済力があったことにしなくてはならない。
つまり「身延山の山中で極貧の生活をしていた」鎌倉時代の日蓮と、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を造立できる経済力のギャップを埋め合わせるためのものが、「百六箇抄」の「鎌倉殿より十万貫の御寄進有りしを縁と為して諸所を去り遁世の事・甲斐国三牧は日興墾志の故なり」の文なのである。
つまり、「鎌倉殿より十万貫の御寄進」があったから、日蓮には「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を造立できる経済力があった、というわけである。
十万貫というと、金1両=4000文=4貫文と計算すると、何と金2万5000両にもなる大金である。こんな大金を、いくら何でも、鎌倉幕府が日蓮に寄進するはずがない。
堀日亨も、さすがに否定せざるを得なかったわけだが、その堀日亨が、「鎌倉殿より十万貫の御寄進」の文がいつ頃書かれたかについて、興味深いことを言っている。それは
「この付記は相伝書以後二百年は下るまい」(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨の著書『富士日興上人詳伝』p61)
と言っていることだ。「相伝書以後二百年」というのは、「百六箇抄」が成立した年だと日蓮正宗が詐称している1280(弘安3)年から数えて200年ということ。そうすると1480(文明12)年ということになる。「下るまい」ということは、1480(文明12)年以前ということになるが、日有は1419年から1482年まで足かけ64年、法主ないし隠居法主として大石寺の最高指導者として君臨していた人物。
堀日亨の「この付記は相伝書以後二百年は下るまい」の文は、実質的に日有が書いたものだと認めているに等しいということになる。



■検証194・なぜ日有は「本門戒壇の大御本尊」の願主を信者名にしたのか?

この問題は、日蓮正宗・富士門流教学を研究する日蓮宗系・日蓮正宗系の学者・研究者の間で、けっこう話題に登ったことである。日蓮正宗の公式見解は、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を「日蓮真筆」と詐称して、これを熱原法難と結びつけるものだから、てんで話にならない。
しかし日蓮正宗大石寺9世法主日有が、なぜ「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を偽作したのか、という目的・動機を検証していけは゛、おのずと明らかになることである。

すなわち、その動機のひとつに「大石寺が信者から未来永劫にわたって金銭を収奪していくシステムを確立させるため」ということがある。その「金銭収奪システムの確立」のためには、「本門戒壇の願主」の名前は、僧侶の名前ではなく、信者の名前にしたほうが、都合がいいということである。それは実際に大石寺に登山して「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊に供養金を出すのは、僧侶ではなく、信者だからである。
つまりこういうことである。
日有が造り上げた「事の戒壇」とは、自らが偽作した「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を祀る場所。すなわち大石寺ということである。 つまり「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を偽作して大石寺に祀ることによって、「本門戒壇の大御本尊」なる名前の板本尊を祀る大石寺の堂宇は、日蓮の仏法が広宣流布していようが、広宣流布していまいが、そういうことは全く関係なしに、いつの時代でも、いつでもどこでも「事の戒壇」ということになった。
つまり日蓮の仏法が広宣流布していない時に、すでに大石寺は「事の戒壇」と確定してしまっているので、実際に日蓮仏法が広宣流布した時に建立すると言われている「三大秘法抄」の戒壇の願主が「国主」だとか「天皇」だとかということを、日有は全く関係なくしてしまった。
「本門戒壇の大御本尊」=「事の戒壇」なのだから、本門戒壇の願主=「本門戒壇の大御本尊」の願主ということになる。
「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊は日有が偽作したものだが、「日蓮真筆」を詐称している本尊なので、日有は自分が勝手に好きな人物名を「願主」に仕立て上げることができるわけだ。

では、日有が「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を偽作した動機「大石寺が信者から未来永劫にわたって金銭を収奪していくシステムを確立させるため」を照らし合わせる時、日有が願主名を僧侶ではなく、信者にした目的が自ずと明らかになる。
それは、『本門戒壇の願主』の名前を信者の名前にすることによって、大石寺の信者に供養金を出すことを煽り立てて、煽動することに利用できるからである。
「『本門戒壇の願主』は名もなき農民の一人である。農民が願主になっている。あなたたち信者は、その名もなき農民の『本門戒壇の願主』につづかなくてはならない」と、信者に供養を煽るということだ。実際に日蓮正宗では、こんなことを言って信者に供養金を出させることを煽りに煽っている。
その日蓮正宗が信者に供養を煽っていること自体が、何よりの証拠である。すなわち、今の日蓮正宗が供養を信者に煽っているのも、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を偽作した日有以来の悪しき伝統と言えるのではないか。

もうひとつ言うと、「三大秘法」の中心が題目ではなく、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を「絶対究極の本尊」と位置づけ、僧侶の最高位を、日蓮からの血脈を相承する法主と位置づけている。そういったことから、僧侶は、その本尊と法主に給仕し、本尊と法主を守護することが第一義とされて、本山大石寺や末寺寺院の中に、ずーっと居て、めったに外に出ることがない。
そこで、外で、僧侶に代わって布教するのは、信者ということになり、信者が外から人を寺院に連れてきて、僧侶は寺院で授戒し、法要で信者が集まった席で説法をする。しかし、実際に人を集めてくるのは、信者である。「僧侶は寺の中にずーっと居て、外に出るのは信者」
こういう図式が、日有以来、日蓮正宗系の中で、出来上がっている。
つまり日蓮正宗大石寺の場合、布教・金集めの主体は、僧侶よりも信者ということになり、こういったところからも「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の願主を、信者にしたと言えよう。




■検証195・安永弁哲氏の弥四郎国重・妙海寺本尊裏書模倣説は誤りである

安永弁哲氏は著書「板本尊偽作論」の中で、大石寺の本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の授与書の「本門戒壇之願主 弥四郎国重 法華講衆等敬白」の文について、静岡県沼津市の日蓮宗寺院・妙海寺に格蔵されている日蓮真筆本尊の裏書きに
「山本弥三郎法号日安授与大漫荼羅」「山本弥三郎内法号日専御授与漫荼羅」
とあり、妙海寺の過去帳に山本弥三郎という人物が「弥三郎国安」と載っていること、そして妙海寺には開山以来、八日堂法華講という講中があることから、
「板本尊は日有が妙海寺の『天下泰平国家長久八日堂御祈祷之大漫荼羅』と『弥三郎国安』授与の漫荼羅にヒントを得て、板本尊を模作偽造したものを、岡宮・光長寺開山日法と結びつけて、日法彫刻の板本尊という筋書きをつくったものであろう」(『板本尊偽作論』p161)
という説を唱えている。

まず「弥四郎」とか「弥三郎」とかいう名前は、誰か特定の個人を指す名前ではなく、一家の第三子、第四子、三男、四男であることを現す語として、中世・鎌倉時代から室町時代・近世の日本で広く用いられた名前である。例を挙げると
北条小四郎義時→小四郎 北条時政の第四子 三浦兵六義村→兵六 三浦義澄の第六子
北条太郎泰時→太郎 北条義時の第一子  北条五郎時房→五郎 北条時政の第五子
三浦兵九郎胤義→兵九郎 三浦義澄の第九子 源九郎義経→源義朝の九男
「○○郎△□」という名前自体、武家、農民をはじめ、広い階層において、日本国内で広く使われた名前であり、どこにでもあった名前である。
妙海寺の弥三郎国安が、大石寺の「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の授与書にある弥四郎国重と名前が似ているのはちがいないが、しかしながらこれと同様の名前が、この時代に世間にあふれていたということになると、必ずしも妙海寺の弥三郎国安をまねたとは言えず、このように結論を下すことは拙速であろう。

「法華講」という名前も同様であり、日有以前においては妙海寺の八日堂法華講以外に、大漫荼羅授与書や古文書に、佐渡国法華講衆、奥州柳目一迫法華講衆、奥州柳目法華講衆という名前が出てきている。しかも佐渡国法華講衆には日興が授与した遺文に出てくる名前であり、奥州柳目一迫法華講衆は大石寺5世法主日行が授与した本尊の授与書に、奥州柳目法華講衆とは大石寺6世日時が授与した本尊の授与書に出てくる名前なのであり、大石寺法主と直接関係があったと考えられる。
又、日蓮宗の見解によれば、今の日蓮宗本山で富士門流八本山のひとつ、小泉久遠寺近郊に小泉法華講衆を名乗る信者がいた、という。
したがってこれらを差し置いて、沼津・妙海寺の佐渡国法華講衆を日有が模倣したとするには無理がある。したがって安永弁哲氏が唱える、弥四郎国重・妙海寺本尊裏書模倣説は誤りであると結論づけざるを得ない。

安永弁哲氏の「板本尊偽作論」は、1956(昭和31)年の発刊当時、日蓮正宗や創価学会に大きな衝撃を与えた一書であり、今も絶大な影響力がある名書である。これによって多くの日蓮正宗や創価学会の信者をカルトの迷妄から覚醒させた功績は誠に大きいものがあったと言えよう。
しかし発刊から50年以上が経過し、その間に、日蓮宗学や富士宗学をはじめ、さまざまな分野の研究が深化し、色あせてきている部分が出てきていることも事実である。
しかし安永弁哲氏という人は、まじめに真実・真理を探究した人であり、それを率直に世に訴えた人である。
よってさまざまな分野の研究が深化し、安永弁哲氏の著書に色あせてきている部分が出て来ているとしても、研究のより一層の深化により大石寺の「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊が日有の偽作であることが、さまざまな物的証拠によりますます明瞭になっていることを、ことのほか喜ばれていることと信じるものです。


■検証196・松本修明(松本勝弥)氏の「本門戒壇の大御本尊」日有偽作説は大幅な検証不足である

1970(昭和45)年に、「本門戒壇の大御本尊」偽作説を唱えて、日蓮正宗と創価学会を相手に「正本堂御供養金返還訴訟」を起こした元創価学会員で元民音職員の松本勝弥氏が、著書「訴訟された創価学会」の中で、「本門戒壇の大御本尊」日有偽作説を唱えている。
松本勝弥氏とは、その後出家して僧侶になり、今は西山本門寺系の寺院・富士山蓮華寺住職になっている松本修明氏である。
松本修明(松本勝弥)氏は著書「訴訟された創価学会」の中で次のように書いている。

「大石寺の隣村にある北山本門寺と小泉久遠寺は大石寺にとって目の上のたんこぶ的存在であった。そこで日有師は、争っても勝ち目のない小泉久遠寺は別として、かつての日興上人有縁の地たる重須北山本門寺に一矢を放ち、大石寺の起死回生のチャンスを狙っていた。文明年間中頃、時来たりとみた日有師は『大石寺こそが大聖人の仏法の根本道場であり、重須は単なる大石寺の隠居所にすぎない』と主張しはじめたのである。
これを聞いた重須北山本門寺の僧俗は、激しく怒り、『大石寺なにするものぞ』と時の北山第六世日浄師を中心に、妙本寺の日安師と語らい、対抗法論を展開した。(宝冊・大石寺誑惑顕本書)
…これに対して、日有師は待ち構えていたように『大石寺には宗祖御建立の弘安二年の板本尊がある』と主張したのである。まさにこの時の日有師の言葉によって、板本尊なるものが初めてこの世に出現することになったのである。宗祖滅後190年ころのことである。この珍説板本尊に対し、重須の日浄師は『未聞未見の板本尊日有が彫刻す』と世に明らかにした。
こうして板本尊日有製造説は、同門の僧俗によって世に広まったのである」
(松本修明(松本勝弥)氏の著書「訴訟された創価学会」p243〜244)

この本を読んで、松本修明氏が言わんとすることはわかるんですが、松本修明氏は、こういう論説を展開していく上において、何の具体的な文献も証拠も引用しておらず、自らの考えだけで、論を展開している。
松本修明氏がこの本を書いた1970(昭和45)年と言えば、正本堂落慶を二年後に控え、創価学会の総折伏が750万世帯を超えたとして、まさに創価学会の全盛時代であり、日蓮正宗・創価学会の信者は日蓮正宗・創価学会に誰一人疑問を持っていない、まさに「板本尊無謬」「創価学会無謬」の時代であった。
そういう時代において、創価学会幹部で民音職員だった松本修明(松本勝弥)氏「本門戒壇の大御本尊」偽作説を唱え、日蓮正宗と創価学会を相手に「正本堂御供養金返還訴訟」を起こしたということ自体が、日蓮正宗・創価学会にとって、日蓮正宗・創価学会の信者にとって、大変な衝撃であった。そういう社会的な影響力の大きさという部分は評価されるべきだと考えますが、しかし松本修明(松本勝弥)氏の著書「訴訟された創価学会」の中身を深く検証していくと、何の具体的な文献も証拠も引用しておらず、自らの考えだけで、論を展開しているというのは、世間一般に対しての具体性・説得力に欠けると言わざるを得ない。これでは「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊が日有によって偽作されたということを証明したことにはならない。
よって松本修明(松本勝弥)氏の日有偽作説は大幅な検証不足であると言わざるを得ない。


■松本修明(まつもと・しゅうみょう・1938〜)

法華宗興門流(西山本門寺)の僧侶

1957年(昭和32年)12月、日蓮正宗・創価学会に入信。
創価学会民音職員。創価学会青年部参謀理事をつとめる。
1971年(昭和46年)9月、妻が創価学会を脱会。
1972年(昭和47年)11月11日、「正本堂御供養金返還訴訟」を東京地方裁判所に起こす。
同年11月25日、夫婦で日蓮正宗から信徒除名になる。
著書「訴訟された創価学会」を俗名・松本勝弥名で執筆。
大日蓮宗管長・上行寺住職・工藤日吼氏の許にて出家・得度。
大日蓮宗が日蓮宗に転派したために、西山本門寺50世貫首・森本日正氏に師事と称している。
しかし大日蓮宗が日蓮宗に合同を決議したのは1988年(昭和63年)、実際に大日蓮宗が解散して日蓮宗に復帰したのは1989年(平成元年)のこと。
しかしそれ以前に西山本門寺・森本日正貫首より授職潅頂を授与されていることから、「大日蓮宗が日蓮宗に転派したために、西山本門寺50世貫首・森本日正氏に師事」という略歴には、疑義がある。
1987年(昭和62年)9月12日、森本日正貫首より授職潅頂を授与される。
1992年(平成4年) 7月13日、西山本門寺から「東京布教所」安置の本尊が、授与される。
1993年(平成5年) 4月18日、森本日正貫首より沙門結要玄義智識相承の本尊を授与される。
現在、宗教法人富士山蓮華寺無心庵・代表役員、富士山蓮華寺住職、蓮華寺東京別院主管




■検証197・日蓮正宗大石寺9世法主日有以前の大石寺には根本本尊は何一つなかった

そもそも大石寺の起源とは、日興が持仏堂を建立し、日目が蓮蔵坊を建立、本六僧・新六僧の他、弟子の僧侶たちが次々と塔中坊を建ててできあがった寺である。よって当初は、本堂も客殿もなく、御影堂もなく、土蔵造りも勅使門も五重塔もなかった。
日興が建立した持仏堂とは、今の六壺・大坊のはじまりであるが、持仏堂とは日興が個人的に所持する仏を祀る堂宇であって、本堂や客殿のことではない。持仏堂とは、僧侶個人が所持する本尊を祀る仏間という意味である。

日蓮正宗の信者に言わせると、
「大石寺9世法主日有上人以前の大石寺法主上人も本尊書写を行っている。だから『本門戒壇の大御本尊』は大石寺に存在した」
などという、日蓮正宗流の洗脳に凝り固まった妄説を吐いたり、あるいは最近は、他宗の仏教寺院の例まで引き合いに出してきて「根本本尊がないというのは、おかしい」などという笑止千万な妄説を述べる者まで出てきている有様である。

そもそも本尊書写というのは、何も大石寺法主のみが行ってきたわけではなく、北山本門寺、西山本門寺、小泉久遠寺、保田妙本寺、京都要法寺の貫首から、日蓮宗の身延山久遠寺法主、大本山の池上本門寺をはじめとする各本山貫首から日興の弟子である日華や日仙までもが本尊書写を行っている。
本尊を書写して信者に下附するというのは、日蓮門下の本山貫首から末寺住職に至るまで広く行われてきていることであり、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊のあるなしとは全く関係ないことである。ましてや他宗の仏教寺院の例まで出すとは笑止千万である。

そもそも日蓮の宗旨というのは、南無妙法蓮華経の題目を唱えて成仏するというもので、三大秘法の中心は題目であって、本尊ではない。
本門の本尊は広宣流布の本門寺建立の時に造立されるのであり、それまで紙本や絹本に図顕した大漫荼羅を僧侶や信者に授与するというのが主旨である。よって三大秘法の中心は題目である。
その日蓮の教義である「三大秘法」とは別個に、日蓮正宗大石寺9世法主日有が、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を偽作して、戒壇中心、なかんずく「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊中心の日有独自の「三大秘法」を発明し、大石寺の教義を改変してしまったのである。

したがって日有以前の大石寺においては、根本本尊は全く存在していなかった。存在していなかったからこそ、大石寺は信者もいなくなり、参詣者もなく、経済的にどんどん疲弊していったのである。
歴史上はじめて大石寺に根本本尊を祀ったのは日有。その日有が祀った本尊とは、自らが偽作したく「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊である。
そして歴史上はじめて大石寺にできた、信者が集まって礼拝することができる堂宇とは、日有が創建した客殿なのであり、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を格蔵していた宝蔵である。
その客殿に日有は日興書写の「お座替わり本尊」を祀り、客殿で日有は丑寅勤行をはじめ、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の「遙拝」をはじめたわけである。





■検証198・大石寺9世法主日有が偽作した「本門戒壇の大御本尊」は今日に現存している

□日蓮正宗とは大石寺9世法主・日有が実質的な開祖の「日有宗」だ1

さて日蓮正宗大石寺9世法主日有が偽作した「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊と大石寺は、その後、どうなったのか。
「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊は1955(昭和30)年の奉安殿落慶まで大石寺宝蔵の中に格蔵されつづけるのだが、「本門戒壇の大御本尊」日有偽作の経済力の源泉になった湯之奥金山には、16世紀に入って、甲斐国の領主・武田氏やその家臣・穴山氏の勢力が及んできて、その支配下に入る。
1569(永禄12)年6月、大石寺13世法主・日院の代に甲斐国の戦国大名・武田信玄軍が大石寺に侵攻して、大石寺は湯之奥の金の利権を武田氏に取り上げられてしまう。
これで経済的に窮した大石寺は、1587(天正15)年、同じ富士門流の京都・要法寺と通用を行い、15世日昌以降、9代の法主が要法寺出身の法主になる。

その要法寺出身である大石寺17世法主日精は、大石寺が徳川幕府公認の宗派になることを狙って、1632(寛永9)年11月、大檀那・敬台院日詔の寄進により御影堂を落慶し、「本門戒壇堂」と書いた棟札を掲げた。
この御影堂に日精は、1679(延宝7)年までの47年間、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を祀ったとされているが、実際にここに祀られたのは、日有が偽作した「本門戒壇の大御本尊」そのものの本体ではなく、本体そっくりに模写したレプリカ本尊である可能性が高い。
大石寺17世法主日精のパフォーマンスが功を奏してか、大石寺は徳川幕府から66石の所領を安堵(公認・保証)され、公儀の年賀に乗輿を免許されるなど、幕府公認の宗派として認められることになる。さらに「宗門改」により、寺院に供養を差し出す檀家が安定的に保証されたこともあって、これにより大石寺の財政・経済力は安定することになる。

江戸時代になって、宗門改による寺檀制度により、檀家・信者が安定的に保証されたこと、戦乱が終わって天下太平の世になり、交通の便が改善したこと等により、大石寺への参詣者が増え、土蔵造りの大石寺宝蔵の暗がりの中で、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の御開扉を受ける信者がポツポツと増えた。
いつしか大石寺門流の信者の最重要な行事は、大石寺への登山参詣、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の御開扉を受けることだと謳われるようになる。そして御会式や御虫払いなどの大きな法要では、宝蔵に信者が入りきれないため、御影堂で「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の御開扉が行われるようになる。
江戸時代から明治・大正・昭和初期にかけて、御会式や御虫払いなどの大きな法要で、御影堂で御開扉が行われているが、この時に御影堂で御開扉されたのは、「本門戒壇の大御本尊」そのものの本体ではなく、本体そっくりに模写したレプリカ本尊である可能性が高い。
いずれにしろ、大石寺への参詣者が増えたことによって、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の存在も知られていくようになり、江戸時代末期の「勝地論」では、「本門戒壇の大御本尊」偽作説が登場し、明治時代初期の大石寺52世日霑と北山本門寺34代玉野日志の「霑志問答」では、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の真偽について激しいやりとりが行われた。

明治になって大石寺を含む富士門流八本山は、日蓮宗興門派として独立したが、「本門戒壇の大御本尊」、法主の血脈、管長の選出等々を巡って大石寺は他の七本山と対立。1900(明治33)年に、大石寺門流は日蓮宗富士派として独立。1912(明治45)年に日蓮正宗と改名する。
明治維新の廃仏毀釈等々で打撃はあったものの、明治以降も寺領が認められて、小作農から年貢米を徴収するなど、経済的には安定していた。これが第二次世界大戦後の農地改革で、農地が自作農に分配され、大石寺の収入が激減。
「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊が、創価学会の強引・執拗な折伏・入信勧誘による信者激増によって、その本領、本来の威力を発揮するのは、第二次世界大戦後のことである。


■検証199・日有が偽作した「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊が日蓮正宗の教義・金集めの根本

□日蓮正宗とは大石寺9世法主・日有が実質的な開祖の「日有宗」だ2

日蓮正宗大石寺9世法主日有が偽作した「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊は約500年以上にわたって大石寺宝蔵の暗がりの中に格蔵され、ここで御開扉が行われていた。
それが1955(昭和30)年の奉安殿落慶によって大石寺宝蔵から奉安殿に遷座され、次いで1972(昭和49)年10月の正本堂落慶によって奉安殿から正本堂に遷座した。
これがその26年後の1998(平成10)年の正本堂解体によって再び正本堂から奉安殿に遷座になり、2002(平成14)年の奉安堂落慶によって、奉安殿から奉安堂に遷座になり、今は大石寺奉安堂に祀られている。

日蓮正宗大石寺も創価学会も顕正会も・・・この本尊を楯にとって自分達を正当化し、そればかりか毎年のように、数千億円ともいわれる大金を信者から集めているのである。
日蓮正宗と創価学会の『宗創和合時代』に行われていた創価学会団体登山会では、戸田城聖の時代から毎年数百万人の創価学会員が登山して、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の御開扉を受け、その御開扉供養金が大石寺に流れ込み、これが日蓮正宗の財政を根幹から支える主要財源になった。
1955(昭和30)年の奉安殿建設、1958(昭和33)年の大講堂建設、1964(昭和39)年の大客殿建設でも、日蓮正宗・創価学会は、今の貨幣価値に換算すると数百億円に匹敵する金集めを行っている。さらに『宗創和合時代』は、昭和40(1965)年の正本堂供養で360億円を集めたことはあまりにも有名で、さらに創価学会や法華講の団体登山会・個人登山が毎日のようにおこなわれており、昭和40年代前半は年間300万人、500万人、800万人が登山していた。
昭和47(1972)年の正本堂落慶のときは1000万人登山が行われている。一人1000円の御開扉供養だけでなんと100億円の大金が大石寺に転がり込んでいた。昭和47年当時の100億円は、総務省の消費者物価指数の統計から計算すると315億円、昭和47年当時の360億円は、今の1132億円に相当する金額である。
昭和五十二年路線以降でも、年間で約200万人の登山者がいたので、供養金が2000円に値上がりになって一人2000円の御開扉供養で40億円の収入が大石寺に転がり込んできていた。
日蓮正宗は、平成3(1991)年の宗創戦争以降も、平成6(1994)年の広布坊供養で6億円、平成10(1998)年の客殿供養で41億円、平成14(2002)年の奉安堂供養で168億円以上の特別供養金を集め、さらに2009年の「日蓮・立正安国論750年」では50万総登山を行い、一人2000円の御開扉供養を取っているので、これだけで10億円。これらと別途に特別供養金として90億円にものぼる金集めを行っている。

さらに創価学会が毎年行っている財務や広布基金、特別財務と称するカネ集め。毎年恒例の財務は一度に1500億円を越えるカネを集めていると言われている。 顕正会でも広布御供養と称するカネ集めを毎年12月に行っていて、こちらも莫大な額を集めている。 つまり日蓮正宗、創価学会、顕正会、正信会の金集めの根本は、この「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊なのである。
さらに日蓮正宗では、「本門戒壇の大御本尊」こそが日蓮の出世の本懐であり、この「本門戒壇の大御本尊」に信伏随従しない一切の他宗派・他宗教を「邪教」「邪宗」「無間地獄行き」と非難・攻撃する。「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を盾にとって、自分たちこそ唯一正当な宗教団体であると主張し、他宗を徹底的に「邪教」と攻撃・排斥するという、独善的思想、独善的罰論の根幹に、日有が偽作した「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊がいるのである。
日蓮正宗という宗派は、大石寺9世法主・日有が実質的な開祖である「日有宗」と言うべき宗派なのである。



■検証200・日蓮正宗は数百年の永きにわたって、善良な人々の心を弄び、騙し、国民を欺瞞してきた重大な責任をとれ

日蓮正宗・創価学会・SGI・顕正会・正信会…に、関わりを持った、あるいは日蓮正宗や創価学会などの内紛・抗争に巻き込まれたことで、家族の絆・肉親の絆が引き裂かれたり、悩んだり、苦しんだりした人の数は多い。
日蓮正宗系各教団による強引で執拗な折伏・勧誘の渦中で、日蓮正宗と一般世間とのはざまで、日蓮正宗と創価学会・顕正会・正信会の間の戦争のはざまで悩み、泣き、死ぬほど苦しんでいる人たちの悲痛な叫び声、怨嗟の声が数えきれないほどたくさんある。
総じて日蓮正宗がらみの宗教被害は、過去の日本の歴史において(特に第二次世界大戦後においては)、最大のものだ。

全国600の法華講のうち599の講中に布教能力が全くないとしても、残るたった1つの講中にカルト布教するエネルギーがあることが問題なのである。創価学会はまさにその「たった1つ」の講中から勃興したのであり、その創価学会に触発されて、妙信講(今の顕正会)法道院・本行寺・妙観講(今の法華講連合会の中心勢力)が勃興してきたのである。
カルト教団というものは、ガン細胞と同じように増殖するものなのです。
さらに言うと、日蓮正宗・創価学会から発生した公明党が現在、政治権力に食い込み、公明党の政治が否応なしに私たちの生活の中に入り込んできていることを見逃してはならない。

しかし今、日蓮正宗も創価学会・SGIも顕正会もその他の分派も…何の弁解もなく、何の釈明もなく、何の謝罪もなく、かつてと同じく強引で執拗な折伏を展開している。日蓮正宗・大石寺は、直系の信徒団体・法華講や妙観講などを「第二、第三の創価学会」「第二、第三の顕正会」化せしめて強引な折伏・勧誘を展開させ、日本中・世界中に再び数千万信徒をつくろうとしている。
さらに問題なのは、日蓮正宗系の各教団(日蓮正宗法華講・妙観講・創価学会・SGI・顕正会・正信会…)は、日蓮正宗の内紛・分裂によって各々が勢力を弱めるどころか、逆にそれぞれが勢力を拡大してきているということだ。こんなことがあってはならない。
日蓮正宗・創価学会・顕正会・正信会など日蓮正宗系宗教団体が繰り広げている強引・執拗な折伏・入信勧誘は、過去に積み上げてきた「日蓮正宗の悲劇」の拡大再生産でしかなく、国民の信教の自由・不信教の自由といった、基本的人権や権利の重大な侵害に他ならない。日蓮正宗は数百年の永きにわたって、善良な人々の心を弄び、騙し、国民を欺瞞してきた重大な責任をとれ。

□過去・数十年間、数百年間に行ってきた日蓮正宗および日蓮正宗系の折伏・入信勧誘が引き起こしてきた、全ての「日蓮正宗の悲劇」の数々、ニセ板本尊の御開扉等で信者から多額の供養を収奪したこと等について、日蓮正宗は、全信者、すべての元信者、全国民に懺悔・謝罪せよ。

□日有が偽作した「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を「日蓮真筆」「大聖人の出世の本懐」などと詐称し信者を欺瞞して金銭を収奪し続ける「御開扉」「供養」「特別供養」を直ちに全面中止・全面廃止せよ

□「本門戒壇の大御本尊」なるニセ板本尊の御開扉や特別供養等で信者から収奪した数千億円にものぼる多額の金銭・財産を、全て元の持ち主に、供養を出した当人に全面返還せよ。

□現在、日蓮正宗が行っている、創価学会の強引・執拗な折伏・入信勧誘と全く「目くそ鼻くそ」「五十歩百歩」の折伏・入信勧誘を直ちに全面中止・全面廃止せよ。

□日蓮正宗は過去の全ての誤り、欺瞞、不当な金銭収奪等の全責任を取り、全ての指導機関、全ての指導機能、全ての指導者の権限・地位を全面解体・全面閉鎖せよ。

日蓮正宗および日蓮正宗系団体からさまざまな被害を受けられた全ての方、ありとあらゆる損害を被られた全ての方に申し上げたい。
今こそ、日蓮正宗および日蓮正宗系団体への批判活動、抗議行動に立ち上がるべき時であると。



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