ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

アンチ日蓮正宗(日蓮正宗系)コミュの「日蓮正宗大石寺の『本門戒壇の大御本尊』なる板本尊は日蓮真筆ではない。後世の偽作だ」PART2

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
「日蓮正宗大石寺の『本門戒壇の大御本尊』なる板本尊は日蓮真筆ではない。後世の偽作だ」PART2は、検証86〜135までをまとめたものであり、
「日蓮正宗大石寺の『本門戒壇の大御本尊』なる板本尊は日蓮真筆ではない。後世の偽作だ」(検証1〜85)
のつづきということになります。

大石寺に格蔵されている「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊は、まさに日蓮正宗の誑惑・欺瞞の根幹を成しているものであり、日蓮正宗の信者たちは、大石寺に参詣して「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の御開扉を受けることを、自分たちの信仰活動の究極と位置づけている。
そして日蓮正宗の信者たちが、大石寺に参詣して「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の御開扉を受ける時に差し出す御開扉冥加料と供養金は、まさに日蓮正宗・大石寺を支える主要財源になっているのである。
つまり、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊が、日蓮正宗という宗教を成り立たせているという言い方ができる。
又、かつては日蓮正宗にいたが、その後に日蓮正宗から破門された創価学会・SGI、顕正会、正信会といった団体も、大石寺には参詣できないものの、しかし今でも日蓮正宗と同様に、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊が彼らの信仰活動・宗教活動の根本の本尊であると位置づけ、しかも創価学会、顕正会、正信会のいずれもが、信者に下附する本尊を「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の「写し」であり、分身散体であると位置づけて、信者から供養金を取っているのである。
したがって、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊は、日蓮正宗・大石寺門流のみならず、破門された創価学会、顕正会、正信会の信仰活動・宗教活動の根本の本尊でありつづけ、それらの団体を成り立たせている中心本尊なのである。

しかも、日蓮正宗が、創価学会、顕正会、正信会に対して行った「破門」も、まさに「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊に参詣して内拝ができるかできないかが重要な分水嶺になっているのであり、まさにここから、日蓮正宗系宗教団体の信者の家族の絆・肉親の絆が引き裂かれ、日蓮正宗系各教団による強引で執拗な折伏・勧誘の渦中で、日蓮正宗と一般世間とのはざまで、日蓮正宗と創価学会・顕正会・正信会の間の戦争のはざまで悩み、泣き、死ぬほど苦むという「日蓮正宗の悲劇」が起こっているのである。
「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊は、世間巷の神社仏閣で見られるニセ御神体やニセ漫荼羅といったものとは、わけがちがうのである。
したがって、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の正体を暴き、世間天下に知らしめて日蓮正宗を追及・批判することは、日蓮正宗批判の根本なのである。
又、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊が後世の偽作であり、日蓮の教義や布教とは何の関係もないものであることを暴いて明らかにし、徹底的に追及していくことをしないで、日蓮正宗系宗教団体に対して実効性のある批判・追及など、有り得ない。
日蓮正宗批判・追及は、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の偽作論からスタートし、偽作論で終了するものといっても過言ではあるまい。

日蓮正宗が成り立っている根幹は、まさに「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊である。日蓮正宗の欺瞞と宗教詐欺の陰謀は、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊と表裏一体になっているのだ。
この先、日蓮正宗が産み出しつづけている悲劇を食い止めるためにも、日蓮正宗大石寺九世法主・日有が行った「本門戒壇の大御本尊」なる名前の板本尊の偽作という悪質な欺瞞と宗教詐欺の陰謀を徹底的に暴いていく必要があるのであるのである。

「日蓮正宗大石寺の『本門戒壇の大御本尊』なる板本尊は日蓮真筆ではない。後世の偽作だ」PART2では
□1 日蓮正宗が「本門戒壇の大御本尊」の日蓮造立を証明する文献だとしている「百六箇抄」「日興跡条条事」「御義口伝」は後世の偽作文書であること
□2日蓮正宗が「本門戒壇の大御本尊」の日蓮造立を証明する文献だとしている「聖人御難事」「阿仏房御書」・「経王殿御返事」「三師御伝土代」「観心本尊抄抜書」「祖師伝付録」が、いずれも「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊とは無関係の文献であること
□3 日蓮正宗が「本門戒壇の大御本尊」の日蓮造立を証明するとしている日向造立板本尊が、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊とは無関係であること
□4日蓮正宗が「本門戒壇の大御本尊」の日蓮造立を証明するとしている「出世の本懐論」なるものが、いかに欺瞞に満ちたウソっぱちなものであるか

この四点について、徹底検証を加えている。
さらにその中の「聖人御難事」の「余は二十七年なり」が「本門戒壇の大御本尊・出世の本懐説」を証拠付けるとする日蓮正宗の説が、完全に誤りである証拠として、以下の点を挙げている。

■日蓮が自らの信者が信仰のために命を落としたことを以て「出世の本懐を遂げる時が来た」とするはずがない。自らの宗派のために、信者に死を要求する指導者というのは、危険極まりない人物であり、またそのような宗教の説く教えは、危険極まりない思想である。
■日蓮を守ろうとして刺客に命を奪われた信者は熱原法難以前にもいた。熱原法難は日蓮が出世の本懐を遂げる時期ではなかった。
■現在の日蓮正宗が唱えている「本門戒壇の大御本尊・出世の本懐説」を歴史上、最初に唱えたのは日蓮正宗大石寺56世法主大石日応である。日応以前の法主は誰一人唱えていない。
「聖人御難事」の「余は二十七年なり」が「本門戒壇の大御本尊・出世の本懐説」を証拠付けるものなら、なぜ日応以前の法主は誰も言っていないのか。
■「余は二十七年なり」が「本門戒壇の大御本尊・出世の本懐」の証拠であるとする説を日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨自身が否定している。
■かつて日蓮正宗大石寺67世法主阿部日顕も、「余は二十七年なり」が「本門戒壇の大御本尊・出世の本懐」の証拠であるとする説を否定していた。
■「聖人御難事」の「余は二十七年なり」が「本門戒壇の大御本尊・出世の本懐説」を証拠付けるとする、現在の日蓮正宗の説は、かつての堀日亨や阿部日顕の説と矛盾する。
■日蓮自身が「阿仏房御書」で自らが図顕する大漫荼羅本尊を門弟に授与することを「出世の本懐」と言明しており、これにより「聖人御難事」の「余は二十七年なり」が「本門戒壇の大御本尊・出世の本懐説」を証拠付けるとする日蓮正宗の説が間違っていることは明白である。
■日興は、日蓮の出世の本懐について「日蓮聖人御出世の本懐南無妙法蓮華経の教主釈尊久遠実成の如来の画像」と言っており、これからしても「聖人御難事」の「余は二十七年なり」が「本門戒壇の大御本尊・出世の本懐説」を唱える日蓮正宗の説が間違っていることは明白。
■日蓮は「今の自界叛逆・西海浸逼の二難を指すなり。此の時地涌千界出現して、本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし。」(観心本尊抄・御書全集p661)
と、蒙古が日本に襲来して日本が敗北した時に上行菩薩(日蓮)が出現して、一閻浮提第一の本尊(本門の本尊)を日本の国に建立するであろう、と予言している。
日蓮が、蒙古襲来が終結していない1279(弘安2)年10月の段階で「一閻浮提第一の本尊」を造立したら、日蓮自身が自ら言明したことと違うことを行う自己矛盾に陥ったことになる。

このトピックに書かれている内容について、質問その他のコメント(絶賛でもOK)をしたい方は、こちらへ。

「日蓮&日蓮正宗の教義的・ドグマ的問題点の分析・検証・批判」
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=9227810&comm_id=406970

質問等をしたい方はこちらへ。

「アンチ日蓮正宗・教学基礎講座」
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=63259676&comm_id=406970

「関連質問&質疑応答」トピック
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=46300303&comm_id=406970

日蓮正宗現役信者ないしは『本門戒壇の大御本尊』日蓮真造論者からの反論・文句は、「アンチ日蓮正宗vs日蓮正宗」コミュニティの中にある下記のトピックに書き込んでください。

「アンチ日蓮正宗vs日蓮正宗」
http://mixi.jp/view_community.pl?id=4011664

「日蓮正宗大石寺の『本門戒壇の大御本尊』なる名前の板本尊の真偽について」
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=41378641&comm_id=4011664

出典&参考文献/
美濃周人「虚構の大教団」「謎の日蓮正宗・謎の創価学会」「日蓮正宗・創価学会50の謎」「日蓮正宗・創価学会・謎の大暗黒史」「家庭内宗教戦争〜お前は誰の女房だ」犀角独歩「大石寺彫刻本尊の鑑別」立正安国会・山中喜八「御本尊集」「御本尊集目録」熊田葦城「日蓮上人」安永弁哲「板本尊偽作論」木下日順「板本尊偽作の研究」窪田哲城「日蓮聖人の本懐」柳沢宏道「石山本尊の研究」高田聖泉「興尊雪冤録」日蓮宗宗務院「日蓮正宗創価学会批判」「日蓮宗宗学全書」鴨宮成介「板本尊の真偽について」日宗全「大石寺誑惑顕本書」
堀日亨「富士宗学全集」「富士宗学要集」「富士日興上人詳伝」「熱原法難史」細井日達「日達上人全集」「悪書板本尊偽作論を粉砕す」日蓮正宗宗務院「創価学会の偽造本尊義を破す」日蓮正宗法華講連合会「大白法」山口範道「日蓮正宗史の基礎的研究」継命新聞社「日興上人」興風談所「日興上人御本尊集」浅井昭衛「学会宗門抗争の根本原因」「なぜ学会員は功徳を失ったのか」正信会「富士の清流を問う」乙骨正生「FORUM21」「日蓮正宗公式HP」「創価学会公式HP」「顕正会公式HP」「正信会公式HP」中公文庫「日本の歴史」扶桑社「新しい歴史教科書」水島公正「『世界宗教への脱皮』の妄見を破す」新人物往来社「日本史/疑惑の宗教事件ー権力と宗教の危険な関係」河合敦「早分かり日本史」ひろさちや「日蓮がわかる本」日蓮正宗宗務院「大日蓮」不破優「地涌からの通信」たまいらぼ「創価学会の悲劇」「大石寺の正体」日蓮正宗大石寺「大石寺案内」「平成新編日蓮大聖人御書」日蓮正宗入門」「日蓮正宗聖典」暁鐘編集室「魔説板本尊偽作論を摧く」日蓮宗新聞社「日蓮宗新聞」中外日報社「中外日報」聖教新聞社「聖教新聞」「大白蓮華」「聖教グラフ」日蓮正宗富士学林「日蓮正宗富士年表」三省堂「新明解古語辞典」河合一「暗黒の富士宗門史」東京学芸大学日本史研究室「日本史年表」学習研究社「日蓮の本」

取材調査協力/
大野山本遠寺 身延山久遠寺 湯之奥金山博物館 佐渡金山(ゴールデン佐渡)金山展示資料館 土肥金山黄金館 富士山本門寺根源 西山本門寺 多宝富士大日蓮華山要法寺 長栄山(池上)本門寺 身延町役場 身延町教育委員会 身延町森林組合 富士宮市森林組合 心生山大歓寺 奥州平泉中尊寺 中谷山(讃岐)本門寺 大本山(保田)妙本寺 金沢市立安江金箔工芸館 石川県立輪島漆芸美術館 輪島漆器会館 神奈川県立金沢文庫 国立国会図書館 鎌倉国宝館 鶴岡八幡宮 鎌倉彫資料館 鎌倉安国論寺 鎌倉本覚寺 鎌倉龍口寺 鎌倉妙法寺 富士市立博物館 富士川ふるさと工芸館 浮世絵太田記念美術館 富士宮市役所 富士宮市教育委員会 富士市役所 日蓮宗新聞社 東京国立博物館 日本銀行金融研究所貨幣博物館 刀剣博物館 小湊山誕生寺 千光山清澄寺 日光うるし博物館 山喜房仏書林 瓔珞出版事務局 富士宗学研究会 国立歴史民俗博物館 国立東北歴史博物館 要法寺廟所實報寺 京都国立博物館 比叡山延暦寺 長等山園城寺 






コメント(125)

■検証98・「本門戒壇の大御本尊」日蓮造立を証明する文証はない9(三師御伝土代2)

□日興は1279(弘安2)年9月から10月にかけて身延山にいなかった

日蓮正宗大石寺四世法主日道が、日蓮、日興、日目の伝記を書いた「三師御伝土代」の文
「さて熱原の法華宗二人は頸を切られおわんぬ。その時大聖人御感有て日興上人と御本尊に遊ばすのみならず、日興の弟子、日秀、日弁二人、上人号し給ふ」(日蓮正宗大石寺59世法主・堀日亨編纂『富士宗学要集』5巻宗史部・日道著「三師御伝土代」p8)
の正確な現代語訳は
------さて熱原の法華衆の二人は、首を切られてしまった。その時、日蓮大聖人は、何かお感じになるところがあって、日興上人と、上人号をつけて、授与の御本尊にお書きになったのみならず、日興上人の弟子の日秀、日弁の二人にも、上人号をつけられた-----
と、こんな感じになる。

日蓮正宗や創価学会の読み方は、明らかな読み間違えであり、したがって、この「三師御伝土代」の文は、日蓮正宗大石寺の「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊が日蓮によって造立された文献的証拠(文証)ではない。文献的証拠になるはずがない。この「三師御伝土代」は、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊とは、最初から、全く無関係の文書である。

日蓮正宗や創価学会の読み方が間違っていることを証明する証拠は、他にもある。日蓮正宗や創価学会のように「三師御伝土代」の「日興上人と御本尊に遊ばすのみならず」の文を「日蓮大聖人が日興上人と共に、大御本尊を建立された」と読むと、別の矛盾が出るのである。
これはどういうことかと言うと、1279(弘安2)年10月12日に日蓮が日興と共に「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を造立したとするならば、少なくとも日興は身延山の日蓮のもとにいなくてはならない。そうしないと日蓮正宗や創価学会が言うように、「日蓮大聖人が日興上人と共に、大御本尊を建立された」ということが根本的に不可能ということになる。

がしかし、日興は1279(弘安2)年9月から10月にかけて、身延山の日蓮のもとには、いなかった。日興は日蓮のもとに、いなかったのだから、日蓮正宗や創価学会が言うように、日蓮と日興が共に、合作して、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を造立できるはずがない。と言うか、絶対に不可能である。
その証拠は、1279(弘安2)年9月から10月にかけて、日蓮は日興に宛てて書き残した、数通の遺文(手紙・御書)である。

■1279(弘安2)年9月20日 「伯耆殿御書」(平成新編御書全集p1395)
■1279(弘安2)年9月26日 「伯耆殿並諸人御中」(平成新編御書全集p1395)
■1279(弘安2)年10月12日 「伯耆殿御返事」(平成新編御書全集p1399・堀日亨編纂・御書全集p1456)
■1279(弘安2)年10月17日 「聖人等御返事」(平成新編御書全集p1405・堀日亨編纂・御書全集p1455)

この「伯耆殿」と日蓮が呼んでいるのは、日興のことである。日興が日蓮のもとで出家得度した所化名を伯耆房と言ったことから、日蓮は日興のことを長らく「伯耆殿」と呼んでいた。
日興が日蓮のもとにいなかったからこそ、日蓮は日興に宛てて手紙を書いたのだ。実際、日興は、甲斐の国(山梨県)南部から駿河の国(静岡県)富士・熱原方面にいた。特に、日蓮正宗が、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊が造立されたと自称している1279(弘安2)年10月12日 のその日には、日蓮は日興に宛てて「伯耆殿御返事」を書いて、熱原法難の最中、さまざまな具体的な指示を日興に与えているではないか。
したがって、日蓮が日興と共に、日蓮と日興が合作で、1279(弘安2)年10月12日に「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を造立するなどということは、絶対に不可能である。
したがって、日蓮正宗や創価学会の読み方は、明らかな読み間違えである。このことは、歴史的な史実の上からも、明白なことなのである。



■検証99・「本門戒壇の大御本尊」日蓮造立を証明する文証はない9(三師御伝土代3)

□本尊紛失を非難しながら都合が悪くなると本尊紛失を楯に言い逃れようとする身勝手極まりない日蓮正宗の欺瞞

日蓮正宗大石寺四世法主・日道の著書「三師御伝土代」の文について、さまざまな人物から、散々、追及を受けてきた日蓮正宗が、最近、日蓮正宗大石寺に直属の謀略機関紙「慧妙」を使って、次のような反論を掲載している。

「だが、そのような説は、大聖人が『日興上人』と認(したた)められたという御本尊を提示してから言うべきであろう。そんな御本尊が存在したという事実も、記録も、何1つない上、大聖人の御書の中にも『日興上人』と認(したた)められたものはないのである」((『慧妙』平成19年11月1日号)

これは、現存している日蓮真筆の大漫荼羅本尊に「日興上人」と、日蓮自らが脇書きに書した本尊が残っていないことにつけ込んだ詭弁であり、議論そのものを煙にまこうとする欺瞞である。

逆に尋ねるが、日蓮正宗では日蓮真筆の本尊は、すべて一体も漏らさずに、今の時代に現存しているという見解なのか??
1309年(延慶2年)、日興の命により、新六僧の一人で、日興が開創した重須本門寺の学頭(法主・住職に次ぐナンバー2の職)にあった寂仙房日澄が起草した「富士一跡門徒存知事」には、次のように、日蓮正宗側が、日蓮真筆の本尊紛失を非難している文があるではないか。

「五人一同に云く、本尊に於いては釈迦如来を崇め奉るべしとて既に立てたり。随って弟子檀那の中にも造立供養の御書之れ在り云々。而る間、盛んに堂舎を造りて、或いは一体を安置と、或いは普賢文殊を脇士とす。仍って聖人御筆の本尊に於ては、彼の仏像の後面に懸け奉り、又、堂舎の廊に之を捨て置く。……
上の如く一同に此の本尊を忽諸(こっしょ)し奉るの間、或いは漫荼羅なりと云ひて死人を覆ふて葬る輩も有り、或いは又沽却する族も有り。此くの如く軽賎(きょうせん)する間、多分は以て失せおわんぬ」
―――――日昭、日朗、日向、日頂、日持の五老僧の門流の者達は、みんな次のように言っている。日蓮門下の本尊は、釈迦如来の木像を崇め奉るべきであると言って、すでに釈迦牟尼の仏像を自分達の堂舎の中に立てている。日蓮がまだ生きていたころにも、日蓮門下の弟子や信者が釈迦牟尼の仏像を造立し供養したという日蓮の遺文(御書)が残っているではないか、と言っている。それゆえに、盛んに堂舎を造っては、釈迦牟尼の仏像を安置したり、或いは普賢菩薩や文殊菩薩を釈迦牟尼の脇士に立てて拝んでいる。その一方で、日蓮聖人が自ら図顕した大漫荼羅本尊は、彼らが立てた仏像の後に懸けたり、或いは渡り廊下に捨ててしまっている。…
このように五老僧の門流の者たちがみんなで、日蓮聖人が自ら図顕した大漫荼羅本尊を軽んじ、なおざりにしてしまったばかりか、中には「これは漫荼羅だ」と言って、葬儀の時に死人と一緒に棺桶に入れて火葬にしてしまったり、或いは売り払ってしまった者もいる。このように、彼らが漫荼羅本尊を軽んじ、卑しめていたたため、日蓮聖人が自ら図顕した大漫荼羅本尊の大部分は、なくなってしまった。―――――――

このように、日蓮が図顕した大漫荼羅本尊の多くが、日蓮死後における弟子達の門流の者たちの軽賎行為によって、紛失してしまっていることが、日蓮正宗側の史料に載っているのである。
ある時は紛失を非難しながら、都合が悪くなると、紛失した事実を楯にとって言い逃れようとする身勝手極まりない日蓮正宗の態度。
日蓮正宗大石寺四世法主・日道の著書「三師御伝土代」の文は、「御本尊に」と原文のままに素直に読むべきであることが明白である。





■検証100・「本門戒壇の大御本尊」日蓮造立を証明する文証はない9(三師御伝土代4)

□「御本尊に遊ばす」を「日興上人と御本尊を遊ばす」とねじ曲げる細井日達

---------------------------------------------------------
(日蓮正宗大石寺66世法主細井日達の妄説)
日蓮門下における最も古い歴史である日道上人の御伝草案によれば、大聖人は熱原の法難に御感あって日興上人と共に御本尊を建立し給いしことを記しておられる。而してこの法難の出来事が弘安二年の十月であることは御書によって証明せられるところである。
(細井日達の著書「悪書『板本尊偽作論』を粉砕す」p16〜17)
----------------------------------------------------------

細井日達が「日道上人の御伝草案によれば、大聖人は熱原の法難に御感あって日興上人と共に御本尊を建立し給いしことを記しておられる」と書いているが、これは全くのウソ。
日蓮正宗大石寺4世法主日道は、「三師御伝土代」において、そんなことは記していない。
日蓮正宗大石寺四世法主・日道が書いた「三師御伝土代」の先の文を正確に現代語に訳すと、こんな感じになる。

「さて熱原の法華宗二人は頸を切られおわんぬ。その時大聖人御感有て日興上人と御本尊に遊ばすのみならず、日興の弟子、日秀、日弁二人、上人号し給ふ」(日蓮正宗59世法主・堀日亨編纂『富士宗学要集』5巻宗史部・日道著「三師御伝土代」p8)
------さて熱原の法華衆の二人は、首を切られてしまった。その時、日蓮大聖人は、何かお感じになるところがあって、日興上人と、上人号をつけて、授与の御本尊にお書きになったのみならず、日興上人の弟子の日秀、日弁の二人にも、上人号をつけられた-----

つまり細井日達は、「三師御伝土代」の文「その時大聖人御感有て日興上人と御本尊に遊ばすのみならず」を「日興上人と共に、大御本尊を建立された」と読む。
問題の箇所は「日興上人と御本尊に遊ばす」という箇所で、これを細井日達は「日興上人と御本尊を遊ばす」と、文をねじ曲げて読んでいるわけである。

しかし「三師御伝土代」の原文は、私も確認してみたが、読みくだしの古文で書かれていて、あくまでも「御本尊に」となっており、「御本尊を」とは書かれていない。
さらに「遊ばす」との語の意味だが、古語辞典によると「いろいろな動作を尊敬して言う場合の代用語。〜なさる」とある。
これらのことを総合的に考えると、日蓮正宗や創価学会の読み方は、明らかな読み間違えであり、原文のまま「御本尊に」と読むべきである。
当然のことながら、「三師御伝土代」の文は、大石寺の「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊とは何の関係もない文書である。
まあ、これらは読み間違えでもなく、細井日達は意図的に「御本尊を」とこじつけて読み、「三師御伝土代」の文をあたかも「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊が存在していたかのように詐称して、何も知らない信者を欺瞞しているのかもしれないが。






■検証101・「本門戒壇の大御本尊」日蓮造立を証明する文証はない10(聖人御難事1)

大石寺に鎮座している「本門戒壇の大御本尊」なる名前の板本尊は、日蓮や日興、日目の時代には、影も形もないものであるので、この「本門戒壇の大御本尊」を日蓮が造立したことを証明する文証(文献に残っている証拠)はどこを捜しても全く存在していない。当然のことである。
そこで日蓮正宗では、「聖人御難事」の一節を引っ張りだしてきて、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の文証に仕立て上げようとしている。しかしながら「聖人御難事」の引用はこじつけと欺瞞に満ちたものなのである。「本門戒壇の大御本尊」の文証というものは全く存在しない。 こうした日蓮正宗の欺瞞ははっきりと暴かれていかねばならない。

□日蓮の遺文「聖人御難事」の文は「本門戒壇の大御本尊」日蓮造立の文証ではない

日蓮正宗では、日蓮の遺文(御書)のひとつである「聖人御難事」の以下の一節を引っ張りだしてきて、強引に「本門戒壇の大御本尊」日蓮造立を証明する文証として作為的にでっち上げようとしている。以下の文がそれである。

「去ぬる建長五年太歳癸丑四月二十八日に・・・・・清澄寺と申す寺の諸仏坊の持仏堂の南面にして、午の時に此の法門申し始めて今に二十七年、弘安二年太歳己卯なり。仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に、出世の本懐を遂げ給ふ。其の中の大難申す計りなし。先々に申すがごとし。余は二十七年なり。其の間の大難は各々かつしろしめせり」
(大石寺版『平成新編日蓮大聖人御書』1396ページ)

日蓮正宗では、この文中に日蓮が「余は二十七年なり」と書き記しているのは、「本門戒壇の大御本尊」の「弘安二年十月十二日」のことであるなどとすり替えて、「日蓮は弘安二年十月十二日に出世の本懐を遂げた文証だ」などと臆面もなく宣伝してきている。
しかし残念ながら、この「聖人御難事」は日蓮が弘安二年十月一日の作であるから、弘安二年十月十二日の「本門戒壇の大御本尊」の文証としての資格は全くない。
日蓮が執筆した「聖人御難事」の内容の主文は、日蓮が立宗宣言してから二十七年間の、さまざまな受難について述べているものであり、例えば次のような文がつづいている。

「況滅度後の大難は竜樹・天親・天台・伝教いまだ値ひ給はず。法華経の行者ならずといわばいかでか行者にてをはせざるべき。又行者といはんとすれば仏のごとく身より血をあやされず、何に況んや仏に過ぎたる大難なし。経文むなしきがごとし。仏説すでに大虚妄となりぬ」
「而るに日蓮二十七年が間、弘長元年辛酉五月十二日には伊豆国へ流罪、文永元年甲子十一月十一日頭に傷を蒙り左の手を打ち折らる。同じき文永八年辛未九月十二日佐渡国に配流、又頭の座に望む。其の外に弟子を殺され、切られ、追ひ出され、過料等かずをしらず。仏の大難には及ぶか勝れたるか其れは知らず。竜樹・天親・天台・伝教は余に肩を並べがたし。日蓮末法に出でずば仏は大妄語の人、多宝・十方の諸仏は大虚妄の証明なり。仏滅後二千二百三十余年が間、一閻浮提の内に仏の御言を助けたる人但日蓮一人なり」(聖人御難事)

このように日蓮が年限を入れた受難の文々は他の遺文にもいろいろとある。
「余は二十七年なり」の前後の文脈を見ても、日蓮は、自らの受難や自分が末法に出て難を受けなかったら釈迦牟尼の経文がみな虚妄になってしまうなど、ということについて述べているのである。 したがって「聖人御難事」における「余は二十七年なり」とは、日蓮正宗がいうような「日蓮は二十七年目に出世の本懐を遂げた」という意味ではなく、
「日蓮は二十七年が間、受難の連続であった。このことはすでに各々も御存知のことである」
という意味であること明らかだ。




■検証102・「本門戒壇の大御本尊」日蓮造立を証明する文証はない10(聖人御難事2)

□安永弁哲氏の「聖人御難事」解釈は「本門戒壇の大御本尊」偽作の証拠ではない

1956(昭和31)年に出版された「板本尊偽作論」の著者・安永弁哲氏が、「六 『聖人御難事』は板本尊とは無関係也」と題して見解を表明している。安永弁哲氏の見解は以下の通りである。
「彼ら(日蓮正宗・創価学会)は、『聖人御難事』を必ず引用するが、この御遺文の中の『余は二十七年也』の御文を以て、板本尊と結びつけようとするが、その辻褄のあわぬことは多くの人が既に言い尽くしていることであるから、ここには言う必要もなかろう。てんで問題外のことを無理矢理にこじつけねはば、板本尊が成立しないことは、まことにお気の毒にたえない。
ただ一つ申し添えておきたいことは、この『聖人御難事』は鎌倉在住の『人々御中』宛のもので、
『さぶろうざえもん殿のもとにとめらるべし』とあって、四条金吾が保管せよと申されている。他人宛の御書である上に、この御書は板本尊の書かれたという『弘安二年十月十二日』より十一日前の『十月一日』の書状である。
その上御書の内容も、日付も、名宛も皆違う『聖人御難事』を無理矢理引っ張ってきて然も無茶苦茶の我田引水の解釈をしなければ、板本尊の成立もいじつけられないのである。板本尊が書かれた日に板本尊のことを日興宛に書き送られたというのならば、道理も立つが、内容は二十七年の今日まで、まだ本懐が達せられないが、将来必ず本懐が達せられるであろうという事が書かれたものを四条金吾等に宛てて送られたもので、而も十一日も前の御書が何で板本尊に関係があると言えようか。余りにも非常識な解釈というよりは、余りにも突拍子な凶人的解釈には、驚き呆れるより外はないのである」(『板本尊偽作論』p129〜130)

「聖人御難事」の「余は二十七年也」の文法解釈については、日蓮正宗や創価学会の読み方は誤りであり、安永弁哲氏やその他の宗派が言う解釈が「正」だと私も考える。
しかし徒に文法解釈論争に嵌り込んでも、お互いの解釈の水掛け論で終わってしまい、議論そのものが前に進まない。そこでその他のさまざまな偽作の証拠と照らし合わせて、日蓮正宗や創価学会の「余は二十七年也」の文法解釈が誤りであることを立証しようという安永弁哲氏の試みは、間違ってはいないと考える。
そこで安永弁哲氏が挙げたのは、
□「聖人御難事」の日付が十月一日で、弘安二年十月十二日より十一日前の遺文である
□宛名が日興ではなく、『人々御中』宛で、四条金吾が保管せよと言っていること
この二つであるが、あまり説得力がない。文法解釈の水掛け論とそんなに変わらない気がする。
どういうことかというと、「聖人御難事」の「余は二十七年也」の日蓮正宗の文法解釈が誤りであることを立証するには、日蓮の立宗宣言から入滅までの弘通そのものを検証し、日蓮が弘めようとした三大秘法、題目・本尊・戒壇がいつどのようにして、どういう形で建立されるのか、という本質を検証するという作業が絶対に必要である。
日蓮の仏法の成仏の要諦は、僧侶や公家と言った特別な人しかできない難解な密教の修行を行うことではなく、ただ南無妙法蓮華経の題目を唱えることによって成仏するということ。これが本門の題目であり、本門の戒壇は、日蓮の仏法が広まった暁に建立され、その戒壇に祀られる本尊とは、寿量品の教主釈尊、釈迦如来像である。すなわちこれが観心本尊抄で日蓮が説いている「一閻浮提第一の本尊」である。つまり日蓮の三大秘法の中心は、本尊、戒壇根本なのではなく、題目中心なのである。
よって、日蓮が弘安二年の段階で、出世の本懐を遂げたなどと言うはずがないのである。こういう日蓮一期の弘教に照らし合わせれば、日蓮正宗の「余は二十七年也」の文法解釈が誤りであることが明らかになる。
よって安永弁哲氏の「聖人御難事」の検証は不充分であり、「本門戒壇の大御本尊」偽作を証明する決定打とはなり得ない。もっと具体的に、日蓮一期の弘教と仏法そのものの検証が必要である。




■検証103・「本門戒壇の大御本尊」日蓮造立を証明する文証はない10(聖人御難事3)

□「聖人御難事」における日蓮正宗大石寺66世法主細井日達の欺瞞

このように文意が明らかであるにもかかわらず、日蓮正宗大石寺66世法主細井日達は、「聖人御難事」の文意をねじ曲げて、無理やりにでも「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊に結びつけようと、以下の文を書いている。

「『余は二十七年なり』の御文は、正しく本懐を達したことを御明かしなされたのであって、即ち二十七年にして本懐を達したとの御事である。此の事は如何に頭が悪くとも了解できるであろう。
然らば本懐とは何を仰せられたか。それは御文に於いて(日蓮)大聖人の教を蒙りし信徒が、(日蓮)大聖人の仏法である妙法蓮華経を命を懸けて信じ通す。その信心の確立があらせられるからである。
信仰の確立する処、(日蓮)大聖人の御一期の化導の究竟たる大御本尊を顕発あそばされることができる。信仰の確立、御本尊の顕発、此れは表裏であらせられる。此の故に、余は二十七年にして本懐を達すと、釈尊、天台に比して仰せ給うたのである」
(細井日達の著書『悪書板本尊偽作論を粉砕す』p25〜26)
「信仰の確立、此れが本懐と仰せられる表面であらせられ、信仰の確立するところ、御本尊の顕発があらせられるのは裏である。(弘安二年十月)一日に御本懐を達すと仰せ給い、徐に御用意の上、(十月)十二日の日を選んで御本尊を顕発あそばされたと拝するならば、最も自然の事ではないか。」 (細井日達の著書『悪書板本尊偽作論を粉砕す』p27)
「(日蓮)大聖人に於かせられては、かねがね熱原法難の成り行きと、其の信仰の確立とを重視していられたが、鎌倉からの注進によって壮烈なる最期の程をお知りになり、此処に御感あそばされて、弥々我が本懐ここに達する時来れりと此れ等の人々と対告発願の主と見定められ、御本尊をお顕しになったのである」
(細井日達の著書『悪書板本尊偽作論を粉砕す』p28)

現今の日蓮正宗が出している文献に出ている「聖人御難事」と「本門戒壇の大御本尊」を結びつける記述も、ほぼこの細井日達法主の記述を踏襲したものになっている。
それにしても日蓮正宗大石寺66世法主細井日達は、まるで七百年前の身延山に居て、そのようすを逐一見てきたかのようなウソを平気で自らの著書に書いているのには驚いてしまう。
細井日達法主は、信仰の確立がどうだとか御本尊の顕発と表裏だとか、何の根拠も証拠も示さずに言っているが、こんなことが果たして、日蓮の遺文(御書)のどこに書いてあるというのか?
日蓮の遺文(御書)のどこにも書かれていないばかりか、日興やその他の老僧が書いた文献にも、全くそんな文面はない。
つまり細井日達法主の空想の文にすぎないのだ。





■検証104・「本門戒壇の大御本尊」日蓮造立を証明する文証はない10(聖人御難事4)

□「聖人御難事」日蓮造立文証説を否定している日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨

さらに日蓮正宗大石寺66世細井日達法主の文には、大きな矛盾と欺瞞のカラクリがある。
細井日達よりも先代の法主にあたる日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨が、1922(大正11)年12月20日に出した「熱原法難史」という著書に、「聖人御難事」の文について次の文を書いている。

「然れば当時何事か宗祖(日蓮)の本懐満足と云ふ史実が有ったらうかと考えてみると、先師が曾て直に此文(『聖人御難事』の『余は二十七年なり』の文のこと)を以て戒壇本尊顕彰の依文と為れたやうだが、直接の文便は無いやうである」
(堀日亨の著書『熱原法難史』72ベージ)

このように日蓮正宗の法主であった堀日亨自身が、「聖人御難事」と「本門戒壇の大御本尊」は「直接の文便は無い」と言って、「聖人御難事」日蓮造立文証説を否定しているのである。したがって細井日達の先の文は、先代の法主堀日亨の著書の文と明らかに矛盾する。

この堀日亨という人は、日蓮正宗の宗門古文書取調べ、史籍編纂委員を歴任し宗門古文書の調査研究に全力をあげ全国にわたって調査研究に回った人で、法主隠退後も、宗学全集の編纂にあたり、原本の書写をはじめとして「日寛上人全伝」、「南条時光全伝」「身延離山史」を刊行させた。 1933年(昭和8年)頃から宗学全集の校訂に没頭し1938年(昭和13年)には富士宗学全集134巻を完成させた。日蓮正宗はおろか、他の日蓮宗各派からも「大学匠」「大学者」として崇められた人物だ。それほどの大学者が、「直接の文便は無い」と言っているのを日蓮正宗はどう説明するのか。このように日蓮正宗・細井日達法主の文は、矛盾と欺瞞に満ちているのである。

ちなみに、堀日亨法主の著書「熱原法難史」は、現在の日蓮正宗にとってはよほど都合の悪い本だということなのだろう。完全に絶版にしてお蔵入りさせ、封印して信者には見せまいとしている。
何も知らない日蓮正宗の信者を欺瞞する行為であり、許されないことだと思う。
しかし日蓮正宗は「熱原法難史」を絶版にしてしまったが、日蓮正宗とは関係ない書籍出版会が、この「熱原法難史」の復刻版を近年発刊していて、大きな図書館にも蔵されている。

さらに細井日達法主の文には他にも大きな矛盾がある。例えば
「(日蓮)大聖人に於かせられては、かねがね熱原法難の成り行きと、其の信仰の確立とを重視していられたが、鎌倉からの注進によって壮烈なる最期の程をお知りになり、此処に御感あそばされて、弥々我が本懐ここに達する時来れりと此れ等の人々と対告発願の主と見定められ、御本尊をお顕しになったのである」
との文だが、「熱原法難」の時、熱原の農民たちの逮捕・斬首が日興から日蓮に報告されたのは、日蓮の遺文(御書)である「聖人等御返事」によると、弘安二年(1279)十月十七日のことである。

この五日前の「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を建立したという弘安二年(1279)十月十二日には、日蓮はまだ「御感あそばされ」るどころではなかった。したがって、先の細井日達の文は歴史的史実にも反している。まことに欺瞞的な見解なのである。






■検証105・「本門戒壇の大御本尊」日蓮造立を証明する文証はない10(聖人御難事5)

□蒙古襲来による日本滅亡後に「一閻浮提第一の本尊」造立を予言した日蓮

日蓮正宗や創価学会では、日蓮の出世の本懐を、熱原法難における「農民たちの不退転の信心」なるものを挙げ、「本門戒壇の大御本尊」が「本門の本尊」であると言っているが、日蓮は遺文(御書)の中で、本門の本尊建立や広宣流布について、そんなことは一言も言っていない。
日蓮が1273(文永10)年、52才のときに佐渡から門下の大檀那の一人であった富木常忍に与えた遺文(御書)「観心本尊抄」には、次のように書かれている。

「此の釈に『闘諍の時』云々。今の自界叛逆・西海浸逼の二難を指すなり。此の時地涌千界出現して、本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし。月支・震旦に未だ此の本尊有さず」(観心本尊抄・御書全集p661)

即ち、日蓮は、蒙古が日本に襲来して日本が敗北した時に上行菩薩(日蓮)が出現して、一閻浮提第一の本尊(本門の本尊)を日本の国に建立するであろう、と予言している。
観心本尊抄の「此の時」とは、日蓮正宗や創価学会が言っているような、駿河地方の事件である「熱原法難」ではなく、蒙古が襲来して日本が敗北するという「国家的事件」の時のことである。
しかして1274(文永11)年10月に、第一回の蒙古襲来、いわゆる「文永の役」では大風によって蒙古は敗退したが、これはあくまでも一時的な現象であって、日蓮は蒙古は再び襲来してくると確信していた。この「文永の役」によって、いよいよ確信を深めた日蓮はその「文永の役」の直後の1274(文永11)年12月、身延山中で「万年救護の本尊」を図顕し、次のような讃文を書いている。

「大覚世尊御入滅後二千二百二十余年を経歴す。爾りと雖も月漢日三ヶ国之間未だ此の大本尊有さず。或は知って之を弘めず或は之を知らず。我が慈父、仏知を以て之を隠し留め末代の為に之を残す。後五百歳之時、上行菩薩世に出現して始めて之を弘宣す。
甲斐国波木井郷山中に於いて之を図す」

蒙古襲来によって、いよいよ本門の本尊建立の時が来る。日蓮はまさしくその本尊を建立して弘宣する上行菩薩なのであると・・・、強烈な日蓮の確信を読み取れる。
日蓮は、その「文永の役」以降の遺文(御書)の中で次のように述べている。

「いまにしもみよ。大蒙古国数万艘の兵船をうかべて日本国をせめば、上一人より下万民にいたるまで、一切の仏寺・一切の神寺をばなげすてて、各々声をつるべて南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経と唱え、掌を合はせてたすけ給へ日蓮の御房、日蓮の御房とさけび候はんずるにや。・・・・今日本国の高僧等も南無日蓮聖人と唱えんとすとも、南無計りにてやあらんずらん。ふびんふびん」(建治元年6月10日『撰時抄』日蓮54才・御書全集p866〜867)
「又、今度寄せば、先には、にるべくもあるべからず。京と鎌倉とは但壱岐・対馬の如くなるべし。前に支度していずくへもにげさせ給へ。其の時は昔日蓮を見じ聞かじと申せし人々も、掌をあはせ法華経を信ずべし。念仏者・禅宗までも南無妙法蓮華経と申すべし」(建治元年8月4日『乙御前御消息』日蓮54才・御書全集p897)
「後を御覧ぜよ。日本国は当時の壱岐・対馬のやうになり候はんずるなり。其の後、安房国に蒙古が寄せて責め候はん時、日蓮房の申せし事の合ふたりと申すは、偏執の法師等が口すくめて無間地獄に堕ちん事不便なり不便なり」(建治2年1月11日『清澄寺大衆中』日蓮55才・御書全集p948)
「ただをかせ給へ。梵天・帝釈等の御計らひとして、日本国一時に信ずる事あるべし。爾の時我も本より信じたり我も本より信じたりと申す人こそ、多く在せずらんめとおぼえ候」(建治3年5月15日『上野殿御返事』日蓮56才・御書全集p1123)
「日蓮一生が間の祈請並びに所願忽ちに成就せしむるか。将又五五百歳の仏記宛も符契の如し。所詮真言・禅宗等の謗法の諸人等を召し合はせ是非を決せしめば、日本国一同に日蓮が弟子檀那となり、我が弟子等、出家は主上・上皇の師となり、在家は左右の臣下に列ならん。将又一閻浮提皆此の法門を仰がん」(弘安元年3月21日『諸人御返事』日蓮57才・御書全集p1211〜1212)

日蓮は、蒙古は再び日本に襲来してくるであろう。ゆえにその時こそ日本国は亡国となるが、梵天・帝釈等のはからいで、題目は一挙に日本国に広宣流布するであろうと。否、日本国亡国の前に、真言・禅宗の諸人らと公場対決して是非を決せば、日本国一同に日蓮が弟子檀那となるであろうと・・・言っている。



■検証106・「本門戒壇の大御本尊」日蓮造立を証明する文証はない10(聖人御難事6)

□大石寺の「本門戒壇の大御本尊」は日蓮遺文における日蓮自身の言葉と大きく矛盾する

二度目の蒙古襲来、いわゆる「弘安の役」は1281(弘安4)年であり、それ以前の弘安二年十月十二日に、いくら農民信者ががんばって「熱原法難」が起こったからといって、日蓮が今まで各遺文(御書)などで言ってきたことを全て撤回して、蒙古が襲来する前に「本門の本尊」を建立して「出世の本懐を遂げる」などということは絶対にあり得ない。
そういうことをすれば、日蓮自身が前々から弟子檀那に何度も何度も言っていたことが全てウソだった、ということになってしまうではないか。だから日蓮がそんなことをするはずがない。

弘安四年(1281)五月、日蓮60才のとき、第二回目の蒙古襲来、いわゆる「弘安の役」がはじまったのであったが、しかし弘安四年七月一日の夜、突如として起こった暴風雨のために、蒙古の大艦隊は一夜にして沈没してしまい、またしても蒙古が敗れ去った。
かくして日蓮が「撰時抄」で「いまにしもみよ」と叫び挙げた題目の広宣流布も、「観心本尊抄」で「一閻浮提第一の本尊此の国に立つべし」とうたいあげた「本門の本尊」建立の予言も、又、真言・禅宗の諸人らとの公場対決も、皆、消えてしまった。

日蓮は失意のはてに自らの「本門の本尊」、「本門の戒壇」建立の悲願を弟子たちに託して(弘安5年4月8日の三大秘法抄)、弘安5年(1282年)10月13日に武州池上でその一生を閉じた。つまり日蓮は「本門の本尊」「本門の戒壇」の建立出現を待つことなく入滅してしまった。
そういう意味で日蓮の理想は、中途半端な形で潰れてしまったということになる。

□蒙古襲来が終結していない弘安二年十月十二日に「本門戒壇の大御本尊」を日蓮が建立することは絶対にあり得ない。

したがって「弘安の役」より二年も前の、弘安二年十月十二日に「本門戒壇の大御本尊」を日蓮が建立して出世の本懐を遂げたことを宣言するなどということは、絶対にあり得ない。
大石寺奉安堂に鎮座している「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊は、その存在そのものが日蓮遺文における日蓮自身の言葉と大きく矛盾するものである。

日蓮正宗は「熱原法難」に関してはいろいろと作り話に余念がないが、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊と蒙古襲来や日蓮の遺文(御書)との関係の会通については、ほとんど口をつぐんだままだ。
こうして冷静に歴史を検証していくと、日蓮正宗がいかに作為的な欺瞞をしているかが、お分かりいただけるのではないかと思う。




■検証107・日蓮正宗や創価学会が唱える日蓮出世の本懐論の欺瞞1

□欺瞞と虚構の「出世の本懐論」をオウム返しのように繰り返しす日蓮正宗

日蓮正宗や創価学会、顕正会あたりの信者が、外部から、大石寺に格蔵されている「本門戒壇の大御本尊」なる名前の板本尊が日蓮真作ではなく、後世の者の偽作であることを指摘されると、必ずと言っていいほど持ち出してくるのが、日蓮が1279(弘安2)年10月1日に執筆した遺文(御書)「聖人御難事」の
「仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に、出世の本懐を遂げ給ふ。其の中の大難申す計りなし。先々に申すがことし。余は二十七年なり」(御書全集p1396、旧御書全集p1189)
を根拠とした「日蓮出世の本懐論」なるものである。

最近でも、日蓮正宗謀略機関紙「慧妙」が、またしても「聖人御難事」の日蓮の文を根拠にして、執拗に「出世の本懐論」を展開している。
たとえば2005(平成17)年2月16日付け「慧妙」には、次のような文を載せて、相も変わらずお決まりの「出世の本懐論」を書いている。

「古来、これに疑難をなす妄弁者共は、『これは立宗以来、27年が経(た)った、という年月の経過を述べたにすぎない』だとか『立宗以来、27年間にわたり大難を受けた、ということを述べたもの』などと言って、涼しい顔をしている。
だが、この御文が、そのようにしか読めないとすれば、よほど国語能力がないか、根性が曲がっているかの、いずれかであろう。
この御文は、三国四師(インド・中国・日本の三国に、釈尊・天台・伝教・大聖人という4人の法華経の行者がいること)の関係において、まず前に、三師が出世の本懐を遂げるまでの年数『四十余年』『三十余年』『二十余年』と、そこに至るまでにはいずれも大難があったことを挙、(あ)げられ、次に、それと対比する形で、日蓮大聖人の場合の年数は『二十七年』で、それまでの間にはやはり大難があったことを述べられているのである。
されば『余は二十七年なり』とは語の重複を避けて省略されているものの、理の指(さ)し示すところ『余は二十七年にして出世の本懐を遂ぐるなり』の意であることは、誰の目にも明らかであろう。
これを、妄弁者らのごとく読むとすれば、わざわざ前文に、三国四師の出世の本懐までの年数を挙げられた理由がなくなってしまい、文意が支離滅裂となってしまう。むりな曲解は禁物である」(日蓮正宗謀略機関紙『慧妙』H17年2月16日号)

日蓮正宗の「出世の本懐論」の虚構を何度指摘されても、その虚構を何度も繰り返して唱えているだけ。

日蓮正宗や創価学会あたりが言う「ウソも百編言えば本当になる」「ウソも百年つけば本当になる」というのは、まさにこのことなのではないだろうか。

日蓮正宗は、「本門戒壇の大御本尊」なる名前の板本尊が後世の偽作であることを指摘されるたびに、具体的な指摘に対しては何ひとつ答えようとせずに、以前から全く同じ内容の虚構の「出世の本懐論」なるものを、オウム返しのように、唱えているだけにすぎない。

こんなものが「本門戒壇の大御本尊」なる名前の板本尊が日蓮の真筆・真作である証明に、まるでなっていない。なっていないどころか、日蓮正宗や創価学会あたりが唱えている「日蓮の出世の本懐論」なるものには、重大な虚構と欺瞞が隠されているのである。





■検証108・日蓮正宗や創価学会が唱える日蓮出世の本懐論の欺瞞2

□1279(弘安2)年の熱原法難の時期は、日蓮が出世の本懐を顕す所願満足の時期ではなかった1

日蓮正宗は、随所において、日蓮が1279(弘安2)年の10月12日に「本門戒壇の大御本尊」なる名前の板本尊を造立したと教えている。
たとえば日蓮正宗59世法主・堀日亨が編纂した「御書全集」には次のように載っている。

「(日蓮)大聖人は、興上(日興のこと)弘教の熱誠を賞し、其の功績重大なるに伴いて法難の熾烈な事は、実に末法怨敵の当鉾なりといえども、是れ全く日蓮出世の本懐満足の画期として弘安二年十月十二日、本門戒壇の大御本尊を興上に親付し給うたのである」(「弟子檀那列伝」御書全集付録p16)
また1981(昭和56)年の日蓮七百遠忌を記念して日蓮正宗大石寺が出版した「日蓮大聖人正伝」には、次のように書いてある。 
「富士の一帯、さらに鎌倉に至る弟子檀那、とくに未だ大聖人にまみえず、日興上人の教導によって入信まもない熱原の民、百姓たちが命を捨てて法華経を信じきるという、世の名僧や武士も及ばぬ信力・行力を示したのである。求道の至誠として仏になる道は、命を妙法に奉ることである」
「ここに熱原の法難を通じて、日興上人を中心とする法華講衆の結束と、死身弘法の赤誠の信仰をご覧になった大聖人は、下種仏法の究竟の法体を建立される大因縁の時がまさに来たことを感ぜられた」「(日蓮は『聖人御難事』を書いて)四条金吾を代表とする檀越に、今こそ大聖人御自身の出世の本懐を遂げる時であることを密示・予証されたのであった」(日蓮正宗大石寺「日蓮大聖人正伝」p378〜379)

要約してみると、日蓮は
1.熱原法難での日興の活躍を賞賛した。
2.入信まもない熱原の農民たちが、命を捨てて法華経を信じきったことを、.出世の本懐を遂げる時が来たと思った。
というようなことになる。

日蓮正宗では現に「日蓮は、命を捨ててまでも退転しなかった信者の出現を喜んだ」「『本門戒壇の大御本尊』は信者が命を捨ててまでも護らなければならない本尊だからだ」と教えている。
しかし、本当にそうなのか?? 日蓮は、熱原法難で熱原の農民信者が命を捨てて信仰を護ったことを喜んで、「今こそ出世の本懐を遂げる所願満足の時だ」と思ったのか??
常識で考えれば、これらの事柄はことごとくおかしいではないか。

自分の弟子たちが首まで切られるかもしれないという大きな法難に巻き込まれている最中に、命を捨てた農民を喜ぶ指導者がどこにいるだろうか!!?? しかも、そういう農民信者たちの姿を見て、出世の本懐を遂げる所願満足の時が来たなどと判断する指導者がどこにいるだろうか!!??
信者に対して自分の命までも捨てることを要求する宗教とは、指導者とは、一体、何なのか??
日蓮の、というか一宗教者としての、その信仰の目的とは、信者に信仰の道を教えている目的とは、一体、何であったか??
自らの宗派のために、信者に死を要求する指導者というのは、危険極まりない人物だ。
またそのような宗教の説く教えは、危険極まりない思想である。
そんな宗教に万人を救えるはずがない。そんな人物が宗教者を名乗る資格はない。ましてや仏でもなければ、菩薩でもあるはずがない。ただの危険な思想を持つ宗教であり、危険な思想を弘めようとする危険な人物だ。
日蓮正宗の教えは、日蓮の教えの、もはや原型をとどめていないほど、大きくかけ離れたものになっているのではないか。日蓮正宗の教えは、日蓮をかえって冒涜し、貶めているように思う。



■検証109・日蓮正宗や創価学会が唱える日蓮出世の本懐論の欺瞞3

□1279(弘安2)年の熱原法難の時期は、日蓮が出世の本懐を顕す所願満足の時期ではなかった2

そもそも人を救うべき宗教が、自らの宗派のために、教祖のために、仏のために、僧のために、本尊のために、信者に対して命を捨てることを要求すること自体が、間違っているし、あってはならないことだ。
しかも自分の弟子たちが大きな法難に巻き込まれて、首まで切られるかもしれないという事件が起こっている時に、
「今こそ出世の本懐を遂げる所願満足の時だ」
などと言う仏がどこにいるのか。そんなことを言っている仏など、まさにインチキであり、そんな宗教は、インチキ宗教だ。

熱原の法難で、実際は、日蓮は、信者の法難に巻き込まれたことに対して、心を痛めたのではないか。熱原法難の時期に、信者に対して日蓮は、いくつかの書状を書いている。
「滝泉寺申状」「聖人御難事」「伯耆殿御返事」「聖人等御返事」といった遺文(御書)がそれだ。
日蓮は、たいへん厳しい人であったようだが、その反面、信者に対しては、溢れんばかりの慈愛に満ちた言葉の数々を遺文(御書)の各所に、書き残している。 そういう日蓮が、信者が次々と投獄され、首まで切られるかもしれないという事件が起こっている時に、
「出世の本懐満足の画期として」、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を造立するということがあり得るだろうか?? そんなことがあり得るはずがないではないか。

こんなことをいくら言っても、日蓮正宗の信仰の世界にどっぷりと浸り、日蓮正宗の教義に洗脳されてしまっている信者には、届かないかもしれない。彼らはただ
「大聖人は、下種仏法の究竟の法体を建立される大因縁の時がまさに来たことを感ぜられた」
「今こそ大聖人御自身の出世の本懐を遂げる時であることを密示・予証された」(日蓮正宗大石寺「日蓮大聖人正伝」p378〜379より)という、日蓮正宗の教義を繰り返すだけだからだ。

それならば、敢えて問う。
熱原法難より以前には、日蓮の信仰のために命を捨てた信者は一人もいなかったのか??
いなかったどころではない。日蓮の信仰のために命を捨てた信者は、熱原法難より以前にも、それこそ何人もいたではないか。

1264(文永1)年11月11日、日蓮が安房の国(千葉県)東条小松原で、地頭・東条景信に襲撃された「小松原法難」では、日蓮の弟子である鏡忍房と工藤吉隆が実際に命を落としている。
1271(文永8)年9月12日、日蓮が龍口の刑場に引き出された「龍口法難」では、四条金吾が「我も死なん」として日蓮のもとに駆けつけ、自らも腹を切ろうとした。
またこの「龍口法難」では、日蓮自身が「聖人御難事」(平成新編御書全集p1396・堀日亨編纂御書全集p1189より)で

「其の外に弟子を殺され、切られ、追ひ出され、過料等かずを知らず」---その他に、弟子を殺され、あるいは切られ、所領から追い出され、過料等の刑罰を受けた者は数えきれないほどたくさんいた---
と、言っているように、四条金吾の他にも、実際に殺された信者がいたと書き残している。 このように、熱原法難より以前から、日蓮の信仰のために命を捨てた信者がたくさんいたではないか。
それなのに、これら「小松原法難」や「龍口法難」の時は出世の本懐満足の画期ではなく、なぜ「熱原法難」の時が、日蓮の出世の本懐満足の画期なのか。
日蓮正宗の信仰そのものが、信者に対して信仰のために命を捨てることを要求し、そして命を捨てたことを賞賛するような、命を捨てた信者を称賛するような、全く本末転倒したような狂った宗教だから、教義のあちらこちらが矛盾だらけになってしまっている。
日蓮正宗の信者たちは、少しはこういうことを冷静に考えたことがあるのだろうか??




■検証110・日蓮正宗や創価学会が唱える日蓮出世の本懐論の欺瞞4

□日蓮正宗大石寺56世法主大石日応が唱えだした「本門戒壇の大御本尊・出世の本懐論」

日蓮正宗の法主や僧侶が、かくも執拗に、繰り返して「日蓮・出世の本懐論」なるものを唱えれば、何も知らない信者たちは、日蓮正宗大石寺では、日蓮、日興、日目が生きていた時代から「出世の本懐論」が唱えられてきたと思うのではないだろうか。
ところが、そうではないのである。

現在の日蓮正宗や創価学会が唱えている、日蓮の遺文(御書)「聖人御難事」の文を根拠とした「本門戒壇の大御本尊・出世の本懐論」は、日興も日目も、全く言っていない。
それどころか、「本門戒壇の大御本尊」なる名前の板本尊を偽作した大石寺9世法主日有も、江戸時代の大石寺「中興の祖」である17世法主日精も、26世法主日寛も全く唱えていないものだ。
そればかりではない。数々の書籍を書き残した31世法主日因も、48世法主日量も全く唱えていないし、1879(明治12)年に北山本門寺住職・玉野日志と「霑志問答」と呼ばれる問答を闘わせた52世法主鈴木日霑も、「聖人御難事」の文を根拠とした「本門戒壇の大御本尊・出世の本懐論」など、全く言っていないのである。

ではこの「本門戒壇の大御本尊・出世の本懐論」なるものは、誰が言い出したものなのか??
近年の学術的研究によれば、1897(明治30)年頃、大石寺と富士門流7本山が合同した宗派・日蓮宗興門派の中において、大石寺の興門派からの独立を主張していた日蓮正宗大石寺56世法主大石日応が言い出したものであることが判明している。
したがって、日蓮正宗や創価学会が唱える「本門戒壇の大御本尊・出世の本懐論」なるものは、日興、日目の時代からあった伝統教学でも何でもなく、大石日応が大石寺独立を達成するために考え出した新義なのであり、大石日応の手によって発明されてからまだ百年足らずの教義なのである。

この「本門戒壇の大御本尊・出世の本懐論」の矛盾は、他にもいろいろある。
日興は、大石寺を開創して後、重要な日蓮の遺文(御書)の正本を集めたり、「富士一跡門徒存知事」に正本の所在を書きとどめているが、「出世の本懐論」なるものの根拠となっている「聖人御難事」については、日興は一言も述べていない。 それどころか、「聖人御難事」という日蓮の遺文(御書)自体、日興の眼中に全くない。
「聖人御難事」という日蓮の遺文(御書)が「出世の本懐論」の根拠となるほど重要な遺文(御書)ならば、日興は、「聖人御難事」の正本を自分の手元に集めるなり、「富士一跡門徒存知事」に正本の所在を書きとどめるなりを絶対にしたはずである。
日興がそれほど大事な「聖人御難事」の正本を集めることもしなければ、正本の所在を全く書き留めないなどということをするはずがないではないか。

日蓮正宗が「本門戒壇の大御本尊」なる名前の板本尊が建立された日であるとしている1279(弘安2)年10月12日に日蓮が書き残した遺文(御書)である「伯耆殿御返事」(平成新編御書全集p1399・御書全集p1456)の中には、日蓮自身が「本門戒壇の大御本尊」なる名前の板本尊については一言も触れていない。
日蓮正宗や創価学会では、日蓮が自らの「出世の本懐」である「本門戒壇の大御本尊」なる名前の板本尊を日興だけに秘かに相伝したなどといっているが、それならば日蓮が「本門戒壇の大御本尊」なる名前の板本尊を建立したとする日に、日興に対して書き遺した遺文(御書)の中に、「本門戒壇の大御本尊」なる名前の板本尊について、何かしら書き遺すはずではないか。

このように日蓮正宗や創価学会の唱えている「本門戒壇の大御本尊・出世の本懐論」は、まことに矛盾に満ちたものである。こういった疑惑・反問に対して、日蓮正宗も創価学会も顕正会も正信会も、全く沈黙したままである。




■検証111・日蓮正宗や創価学会が唱える日蓮出世の本懐論の欺瞞5

□日蓮正宗大石寺56世法主大石日応が唱えだした「本門戒壇の大御本尊・出世の本懐論」2

現在の日蓮正宗や創価学会が唱えている、日蓮の遺文(御書)「聖人御難事」の文を根拠とした「本門戒壇の大御本尊・出世の本懐論」は、日興も日目も、全く言っておらず、何と19世紀末期の近代に入ってから、日蓮正宗大石寺56世法主大石日応がはじめて言い出したものなのである。
日蓮正宗大石寺56世法主大石日応より以前の大石寺法主は、だれ一人、「聖人御難事」の文を根拠とした「本門戒壇の大御本尊・出世の本懐論」など唱えていない。

1892(明治25)年5月、富士門流八本山のひとつである京都・要法寺48世法主驥尾日守(きびにっしゅ)が「末法観心論」を著して大石寺の教義を批判したが、これに対して大石寺では56世法主大石日応が「正法実義論」を著し反論。さらに大石日応は、1894(明治27)年6月3日、自ら「弁惑観心抄」を著して次のように、「聖人御難事」の文を根拠とした「本門戒壇の大御本尊・出世の本懐論」を唱えている。それには、次のように書いてある。

「弘安二年十月、本門戒壇の大本尊を顕すを以て出世の本懐を成就せりと云ふへし、故に宗祖の云く『去る建長五年四月二十八日乃至此の法門申しはじめて今に二十七年・弘安二年太歳己卯なり、仏は四十余年天台大師は三十余年伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う、其中の大難申す計なし・先先に申がごとし、余は二十七年なり』此文意を深く考ふへきなり、余は建長五年より二十七年弘安二年十月本門戒壇の本尊を顕はし出世の本懐を究盡し玉ふへきとの聖意にほかならさるなり」(日蓮正宗大石寺56世法主大石日応の著書「弁惑観心抄」より)

これが日蓮正宗の歴史上、「聖人御難事」の文を根拠とした「本門戒壇の大御本尊・出世の本懐論」なるものが登場した最初である。
さらに引き続いて大石日応は、現職法主を隠退して隠居法主になった後も、1916(大正5)年には、東京各所で「日蓮本仏論」を講演し、それが当時の日蓮正宗機関紙「大日蓮」「自然鳴」に載っている。それには次のように書いてある。

「而して又宗祖出世の御本懐は、末法万年の一切衆生に下種結縁せしめ、無間地獄の苦を救い給うにあれば、弘安二年十月に至り本門戒壇の大蔓茶羅を顕し、全世界の一切衆生に総与し給えり。
 故に聖人御難抄に日く、去る建長五年乃至此法門申はじめて今に二十七年、弘安二年(太歳己卯)なり。仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う。其中の大難申す計りなし。先々に申すがごとし、余は二十七年なり。共間の大難は各々かつしろしめせり。法華経云而此経者如来現在猶多怨嫉況滅度後云云。
文に、余は二十七年也とは、上の仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給うと、一連互顕の御文にして、宗祖は宗旨建立の日より二十七年にして出世の本懐を顕し給いたることを示し給いたる
明文にして、其の間の大難は各々且しろしめせりとは、御本懐を顕すまでの大難は、仏や天台伝教が本懐を顕し給う其の中の大難にも勝れることを示し給いしものなり。
故に次下に、法華経に云く、而此経者如来現在猶多怨嫉況滅度後云云と示し給い、而して此本門戒壇の大本尊は、弘安五年九月に本宗第二祖日興上人へ御付嘱ましまし、六首数十年来我総本山大石寺に奉安せり」(日蓮正宗機関紙「大日蓮」「自然鳴」より)

このように都内各所の講演のみならず、日蓮正宗機関紙にまで、大石日応は、「聖人御難事」の文を根拠とした「本門戒壇の大御本尊・出世の本懐論」を唱えているのである。

日蓮正宗大石寺56世法主・大石日応(おおいし・にちおう1848〜1922)

日蓮正宗大石寺68世の現法主早瀬日如から見ると、56世日応は曽祖父にあたる。
法道院大石阿闍梨慈含、あるいは日雄と称する。
嘉永元年(1848)11月15日、山梨県山梨郡加納岩村に、名取亦兵衛を父として出生。俗名は直次郎。
安政5年(1858)5月13日、日蓮正宗大石寺52世法主・鈴木日霑の徒弟となって出家得度。
文久3年(1863)4月、16才で上総国(千葉県)の細草檀林に入る。
慶応2年(1866)に細草檀林を出檀。
明治3年(1870)1月に三春町中学校に入学。
明治6年(1873)に卒業。
明治17年(1884)3月1日に大石寺宗務局長になる。
明治17年(1884)10月11日の富士門流八本山の八山会議において、大石寺門流の日蓮宗興門派からの独立を主張。
明治17年(1884)10月15日、日蓮宗興門派の七本山に対して、日蓮正宗大石寺55世法主下山日布の大石寺門流の独立決意書を示す。
明治17年(1884)11月12日、福島県信夫郡腰浜村に広布寺を創立。
明治18年(1885)4月18日、19日、神奈川県小田原町にてヤソ教徒と公開討論。
明治19年(1886)10月、日蓮正宗大石寺38代学頭になる。
明治22年(1889)5月21日、42才で日蓮正宗大石寺55世法主下山日布から相承を受けて大石寺法主に登座。
明治22年(1889)8月22日、大石寺布教会会長になる。
明治24年(1891)4月7日〜明治25年(1892)4月7日まで、富士門流(日蓮宗興門派)八本山法主の輪番制になっていた日蓮宗興門派管長を務める。
明治24年(1891)5月、関西地方に巡教。
明治24年(1891)9月、東北地方に巡教。
明治25年(1892)6月24日、日蓮宗興門派八本山のひとつである京都・要法寺48世法主驥尾日守(きびにっしゅ)が「末法観心論」を著して大石寺の教義を批判したことについて、日蓮宗興門派管長に難詰書を提出。
明治28年(1895)6月〜7月、関西地方、九州地方へ巡教。
明治29年(1896)6月17日、日蓮宗興門派管長芦名日善に内務大臣宛の大石寺門流分離独立請願書を提出。
明治30年(1897)6月30日、大石寺門流分離独立追願書を内務省に提出。
明治30年(1897)10月31日、大石寺御影堂営繕事務所を設置。
明治31年(1898)7月5日、日蓮宗興門派管長大井日住よりの日蓮宗興門派宗制改正案に対して、大石寺門流の日蓮宗興門派からの分離独立出願中のため不賛成を回答。
明治31年(1898)12月12日、東京・本郷・西片町に法道会(今の東京・池袋の日蓮正宗寺院・法道院)を設立。
明治32年(1899)2月28日、3月13日、5月11日、日応法主の代理・佐藤慈一が、日蓮宗興門派(本門宗)管長・大井日住の副申書を添えて大石寺分離独立追願書を内務大臣に提出。
明治32年(1899)6月1日、12月23日、内務省より大石寺分離独立請願につき、他の七山との相違、分離独立後の宗制・寺法・布教・学林等について回答を求められる。
明治33年(1900)9月18日、大石寺門流の日蓮宗興門派(本門宗)からの分離独立認可され、日蓮宗冨士派と公称する。
明治33年(1900)9月20日、日蓮宗冨士派宗務院を大石寺内に設置し、日蓮宗冨士派の本門宗からの独立を宣言。
明治33年(1900)10月16日、本門宗石山学林を冨士学林と改称。
明治33年(1900)11月4日、日蓮宗冨士派独立発表式を大石寺御影堂にて挙行。
明治37年(1904)12月15日〜25日、愛知県に巡教。
明治38年(1905)4月25日〜5月10日、東京市内に巡教。
明治41年(1908)8月5日、阿部日正を大石寺40代学頭に任命する。
明治41年(1908)11月10日、阿部日正に相承を授けて法主を隠退する。
明治42年(1909)4月28日、東京・砂村新田に砂村法華本門道場(今の白蓮院)を設立。
大正5年(1916)、東京各所で日蓮本仏論を講演。
大正6年(1917)4月26日、東京に日蓮正宗会を創立。
大正6年(1917)9月1日〜22日、北海道・東北地方に巡教。
大正8年(1919)4月23日〜5月24日、愛知・大阪地方へ巡教。
大正10年(1921)3月25日、高津たきが神奈川県東神奈川に神奈川教会所(今の応顕寺)を設立寄進し、日応が隠居所の大石寺蓮葉庵より移る。
大正11年(1922)6月15日、神奈川県東神奈川の神奈川教会所(今の応顕寺)にて死去。行年75才。


■検証112・日蓮正宗や創価学会が唱える日蓮出世の本懐論の欺瞞6

□「本門戒壇の大御本尊・聖人御難事証拠説」を否定した日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨

日蓮正宗や創価学会が唱えている「本門戒壇の大御本尊・出世の本懐論」の矛盾は、他にもある。
もともとは日蓮正宗大石寺56世法主大石日応が唱えだした「出世の本懐論」なのだが、大石日応より後の大石寺59世法主である堀日亨が、聖人御難事を根拠とした「本門戒壇の大御本尊・出世の本懐論」を、公然と否定している。

日蓮正宗大石寺56世法主大石日応は、1922(大正11)年6月15日、75才で死去しているが、その大石日応死去の直後の12月20日、当時、すでに日蓮正宗で「能化」の地位にあり、宗会議長であった堀日亨(後の日蓮正宗大石寺59世法主)が「熱原法難史」という著書を出し、その中で堀日亨は、「本門戒壇の大御本尊」なる名前の板本尊と「聖人御難事」の文の関係について、次のように全面否定する文を書いているのである。

「然れば当時何事か宗祖(日蓮)の本懐満足と云ふ史実が有ったらうかと考えてみると、先師が曾て直に此文(『聖人御難事』の『余は二十七年なり』の文のこと)を以て戒壇本尊顕彰の依文と為れたやうだが、直接の文便は無いやうである」
(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨の著書『熱原法難史』p72)

堀日亨がここで「先師」と言っているのは日蓮正宗大石寺56世法主大石日応のことと考えられるが、このように日蓮正宗の法主であった堀日亨自身が、「聖人御難事」と「本門戒壇の大御本尊」は「直接の文便は無い」と言って、「聖人御難事」と「本門戒壇の大御本尊」は全く関係ないものと、現在の日蓮正宗や創価学会が唱えている「出世の本懐論」を否定しているのである。
したがって現在の日蓮正宗が唱えている「出世の本懐論」は、先代の法主堀日亨の著書の文と明らかに矛盾する。
堀日亨は、その3年後の1926(大正15)年3月、日蓮正宗大石寺法主の座に登座しているが、法主に登座して後も、「本門戒壇の大御本尊」なる名前の板本尊と「聖人御難事」の文は無関係とする自説を撤回していないし、著書「熱原法難史」の内容を訂正・改訂など全くしていない。

この堀日亨という人は、日蓮正宗の宗門古文書取調べ、史籍編纂委員を歴任し宗門古文書の調査研究に全力をあげ全国にわたって調査研究に回った人で、法主隠退後も、宗学全集の編纂にあたり、原本の書写をはじめとして「日寛上人全伝」、「南条時光全伝」「身延離山史」を刊行させた。 1933年(昭和8年)頃から宗学全集の校訂に没頭し1938年(昭和13年)には「富士宗学全集」134巻を完成させた。
堀日亨という人物は、日蓮正宗大石寺の59世法主を歴任した人物であり、しかも日蓮正宗や創価学会はおろか、他の日蓮宗各派からも「大学匠」「大学者」として崇められた人物だが、そういう人物が「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊と「聖人御難事」の文について「直接の文便は無い」と言っているのを、日蓮正宗はどう説明するのか。 
とは言っても、日蓮正宗も創価学会も顕正会も正信会も、現在に至るまで、自分たちが唱えている「本門戒壇の大御本尊・出世の本懐論」と、堀日亨の著書「熱原法難史」の文との矛盾については、沈黙したまま、何の説明もしていない。

否、説明していないどころか、堀日亨の著書「熱原法難史」は、現在の日蓮正宗にとってはよほど都合の悪い本だということなのだろう。完全に絶版にしてお蔵入りさせ、封印して信者には見せまいとしている。
この堀日亨の著書「熱原法難史」が、日蓮正宗にとっては都合が悪いものとして“勝手に”絶版にしてしまったのは、日蓮正宗大石寺65世法主堀米日淳、66世法主細井日達である。
何も知らない日蓮正宗の信者を欺瞞する行為であり、許されないことだと思う。




■検証113・日蓮正宗や創価学会が唱える日蓮出世の本懐論の欺瞞7

□「聖人御難事」の文は「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊造立の証拠ではない

日蓮の遺文(御書)である「聖人御難事」の以下の一節

「去ぬる建長五年太歳癸丑四月二十八日に・・・・・清澄寺と申す寺の諸仏坊の持仏堂の南面にして、午の時に此の法門申し始めて今に二十七年、弘安二年太歳己卯なり。仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に、出世の本懐を遂げ給ふ。其の中の大難申す計りなし。先々に申すがごとし。余は二十七年なり。其の間の大難は各々かつしろしめせり」
(大石寺版『平成新編日蓮大聖人御書』p1396)

日蓮正宗の信者たちは、この文を、強引に「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊が1279(弘安2)年10月12日に造立された文献上の証拠(文証)に仕立て上げようとしている。
最近でも日蓮正宗謀略機関紙「慧妙」をはじめ、日蓮正宗理境坊妙観講をはじめとする信者は、必ずと言っていいほど、これを言ってくる。

元々、この「聖人御難事」の文を「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の文証にこじつけようとしたのは、日蓮正宗大石寺56世法主・大石日応であり、それをそっくりコピーして『悪書板本尊偽作論を粉砕す』という名前の本で言っていたのが、日蓮正宗大石寺66世法主・細井日達である。
今の「慧妙」や妙観講をはじめとする日蓮正宗の信者が唱えている「本門戒壇の大御本尊・出世の本懐論」なるものは、大石日応や細井日達が言っていたことを、コピーして言っているだけのことである。

しかし普通に考えれば、この「聖人御難事」は日蓮が1279(弘安2)年10月1日の作の遺文であるから、1279(弘安2)年10月12日の日付になっている「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の文証としての資格は、あるわけがない。当然のことである。

細井日達よりも先代の法主にあたる日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨が、1922(大正11)年12月20日に出した「熱原法難史」という著書に、この「聖人御難事」の文と「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の関係について否定する文を書いている。

「自分は宗旨建立より二十七年目に法難も終結して始めて出世の本懐を満足したのであると云ふ御意と拝見せねばならぬ。法難即本懐では無くて法難終結に寄せて何か本懐満足の事実を祝し給ふのではないか。
然れば当時何事か宗祖(日蓮)の本懐満足と云ふ史実が有ったらうかと考えてみると、先師が曾て直に此文(『聖人御難事』の『余は二十七年なり』の文のこと)を以て戒壇本尊顕彰の依文と為れたやうだが、直接の文便は無いやうである」
(堀日亨の著書『熱原法難史』p72)

このように日蓮正宗の法主であった堀日亨自身が、「聖人御難事」と「本門戒壇の大御本尊」は「直接の文便は無い」と言って、両者の関係を完全否定しているのである。
「聖人御難事」の文は「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊造立の証拠もなければ、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊が日蓮の出世の本懐であることを証明する遺文(御書)でも何でもない。「聖人御難事」と大石寺の「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊は全く無関係である。もっとも、普通に考えていけば、至極当然のことである。
実は、堀日亨以外にも、日蓮正宗大石寺の法主で、この「聖人御難事」の文は、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊造立の証拠ではない、ということを言った人物がいるのである。





■検証114・日蓮正宗や創価学会が唱える日蓮出世の本懐論の欺瞞8

□かつては阿部日顕も否定していた「本門戒壇の大御本尊」聖人御難事証拠説

すでに日蓮正宗大石寺59世法主である堀日亨が、日蓮の遺文「聖人御難事」の文
「仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に、出世の本懐を遂げ給ふ。其の中の大難申す計りなし。先々に申すがことし。余は二十七年なり」(平成新編御書全集p1396、御書全集p1189)
を根拠とした「本門戒壇の大御本尊・出世の本懐論」を、公然と否定していることは述べたが、ところが日蓮正宗大石寺の法主で、もう一人、公式の席で日蓮の遺文「聖人御難事」の文が、本門戒壇の大御本尊」なる板本尊が造立された証拠であるとする説を公然と否定した人物がいる。
それは、日蓮正宗大石寺67世法主・阿部日顕である。
阿部日顕は、日蓮正宗と創価学会が和合路線を歩んでいた「宗創和合時代」の1983(昭和58)年4月6日、大石寺御影堂での「霊宝虫払い大法会」御書講の席で、次のように説法している。

「この御抄(聖人御難事のこと)の日時は、弘安二年十月一日でありますから、まだ本門戒壇の大御本尊顕発を旬日(じゅんじつ)の後に控えております。従って、この文が直ちに戒壇の大御本尊を顕したもう事実的証拠ではありません。そのように取るのは過ぎた解釈と思われます」
(日蓮正宗宗務院機関誌「大日蓮」昭和58年5月号・1983(昭和58)年4月8日付け「聖教新聞」)

どこをどう読んでも、日蓮正宗大石寺67世法主阿部日顕は、日蓮の遺文「聖人御難事」の「余は二十七年なり」の文は、「この文が直ちに戒壇の大御本尊を顕したもう事実的証拠ではありません」と、完全に否定している。

この文は、日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨が、1922(大正11)年12月20日に出した「熱原法難史」という著書の中で
「然れば当時何事か宗祖(日蓮)の本懐満足と云ふ史実が有ったらうかと考えてみると、先師が曾て直に此文(『聖人御難事』の『余は二十七年なり』の文のこと)を以て戒壇本尊顕彰の依文と為れたやうだが、直接の文便は無いやうである」
(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨の著書『熱原法難史』p72)
と、述べていることと軌を一にしている。

「余は二十七年なり」の文が、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊が熱原法難のときに造立された証拠であるとする説は、日蓮正宗大石寺の法主自らがかつては否定していたことなのである。






■検証115・日蓮正宗や創価学会が唱える日蓮出世の本懐論の欺瞞9

□「余は二十七年なり」直接証拠説を否定する堀日亨と阿部日顕の二人の大石寺法主

日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨や日蓮正宗大石寺67世法主阿部日顕が、日蓮の遺文「聖人御難事」の「余は二十七年なり」(平成新編御書全集p1396御書全集p1189)の文が、本門戒壇の大御本尊」なる板本尊が造立された証拠であるとする説を公然と否定していると言うと、日蓮正宗の信者あたりから「切り文だ」などという反論が聞こえてきそうである。

日蓮正宗大石寺の法主が公式に「余は二十七年なり」の文が、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊が造立された証拠であるとする説を公然と否定したとなると、日蓮正宗大石寺56世法主大石日応が言い出した、その「聖人御難事」の文を根拠とした本門戒壇本尊「出世の本懐論」と、真っ向から矛盾してしまうことになる。
したがって、堀日亨も阿部日顕も、言い訳がましく、弘安2年9月〜10月期における何らかの日蓮の本懐満足を示唆はしているが、二人とも、結論として、日蓮の遺文「聖人御難事」の「余は二十七年なり」の文が、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊が造立された証拠であるとする説を公然と否定していることは事実である。

堀日亨の場合は、
「自分は宗旨建立より二十七年目に法難も終結して始めて出世の本懐を満足したのであると云ふ御意と拝見せねばならぬ。法難即本懐では無くて法難終結に寄せて何か本懐満足の事実を祝し給ふのではないか」
と、一応、大石日応の説を立てた弁を述べたあとに
「然れば当時何事か宗祖(日蓮)の本懐満足と云ふ史実が有ったらうかと考えてみると、先師が曾て直に此文(『聖人御難事』の『余は二十七年なり』の文のこと)を以て戒壇本尊顕彰の依文と為れたやうだが、直接の文便は無いやうである」 (堀日亨の著書『熱原法難史』p72)
と、「余は二十七年なり」の文と、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の直接の関係を否定している。

阿部日顕の場合は、直接証拠否定説の自説を述べる前に、言い訳がましく
「まさしくこの文(『仏は四十余年…余は二十七年なり』の文のこと)は、(日蓮)御自身が出世の本懐を遂ぐべき時が来ていることの感慨を述べられたものと拝せられます。…この文脈にそなわる義において、大聖人が自らの出世の本懐を志したもう文であることは、けだし理の当然であります」
「『余は二十七年なり』の文には、この三師の出世の本懐に対し、御自身の出世の本懐たる化導の完遂の義が必ず込められていると拝すべきであります」
などと、こちらも大石日応の説を立てた弁を述べたあとに
「この御抄(聖人御難事のこと)の日時は、弘安二年十月一日でありますから、まだ本門戒壇の大御本尊顕発を旬日(じゅんじつ)の後に控えております。従って、この文が直ちに戒壇の大御本尊を顕したもう事実的証拠ではありません。そのように取るのは過ぎた解釈と思われます」
(日蓮正宗宗務院機関誌「大日蓮」昭和58年5月号/1983(昭和58)年4月8日付け「聖教新聞」)
と、堀日亨と同様、「余は二十七年なり」の文と、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の直接の関係を否定している。

つまり、堀日亨も阿部日顕も、二人とも、結論として「余は二十七年なり」の文と、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の直接の関係を否定することに主眼があることが明らかである。
堀日亨の「直接の文便は無いやうである」、阿部日顕の「この文が直ちに戒壇の大御本尊を顕したもう事実的証拠ではありません。そのように取るのは過ぎた解釈と思われます」との文に、直接の関係を否定する意味が明確である。





■検証116・日蓮正宗や創価学会が唱える日蓮出世の本懐論の欺瞞10

□日蓮は「阿仏房御書」で自らが図顕する大漫荼羅本尊を門弟に授与することを「出世の本懐」と言明

日蓮が、自らの出世の本懐について、直接に言及した遺文が残されている。それは「聖人御難事」ではなく、1275(文永12)年3月13日に日蓮が執筆した「阿仏房御書」と呼ばれている遺文で、その中には、次の文がある。

「宝塔をかきあらはしまいらせ候ぞ。子にあらずんば譲る事なかれ。信心強盛の者に非ずんば見する事なかれ。出世の本懐とはこれなり」
「宝塔をば夫婦ひそかにをがませ給へ」
(『阿仏房御書』平成新編御書全集p793)

「阿仏房御書」とは、日蓮の弟子の阿仏房が日蓮に、「法華経の多宝如来涌現の宝塔とは何を意味するものですか」と書状で質問したことに対して、日蓮が「宝塔とは大漫荼羅本尊であり、大漫荼羅本尊を拝んで信仰する人のことである」と答え、阿仏房に大漫荼羅本尊を図顕してこの遺文(御書)といっしょに授与したものだ。
そして日蓮はこの「大漫荼羅本尊の授与こそが出世の本懐だ」と言っているのである。

この遺文の中にある「出世の本懐」を指しているのは阿仏房に対する本尊をはじめとして日蓮が多くの弟子の僧侶や信者に対して授与している「個人授与の本尊」のことなので、大石寺が偽造した「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊とは何の関係もない。

この「阿仏房御書」の文によれば、日蓮は、弟子や信者に対して、自らが図顕する「大漫荼羅本尊」を授与することを「出世の本懐」と言っているのだから、逆に言うと、大石寺の「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊が、日蓮の「出世の本懐」ではないという証明になっている。
もともと大石寺の「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊は後世に偽作されたものであるから、そもそも日蓮の「出世の本懐」になろうはずがない。

つまり、日蓮正宗や創価学会が「本門戒壇の大御本尊」の文証だと強硬に主張している、『「聖人御難事」の「余は二十七年なり」の文が日蓮の出世の本懐を顕した文である』とする、日蓮正宗や創価学会の読み方が間違っているという証拠になっているということである。

最近は、この「阿仏房御書」の文中に「出世の本懐とはこれなり」とあることを奇貨としたのか、日蓮正宗の信者が、この文を引っ張りだしてきて、「本門戒壇の大御本尊の文証だ」などと言い始めているようだが、欺瞞も甚だしいと言わねばなるまい。





■検証117・日蓮正宗や創価学会が唱える日蓮出世の本懐論の欺瞞11

□日興は日蓮の「出世の本懐」を南無妙法蓮華経・大漫荼羅と言明

日蓮の六老僧の一人で大石寺・北山本門寺の開祖・日興は、日蓮の「出世の本懐」について、次のように言っている。

「此れのみならず日蓮聖人御出世の本懐南無妙法蓮華経の教主釈尊久遠実成の如来の画像は一二人書き奉り候へども未だ木像は誰も造り奉らず候に」
(日興から原弥六郎への返状「原殿書」/日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂『富士宗学要集』8巻P10〜11)

「つらつら聖人出世の本懐を尋ぬれば、源権実已過の化導を改め、上行所伝の乗戒を弘めんが為なり。図する所の本尊は亦正像二千の間一閻浮提の内未曽有の大漫荼羅なり」
(「五人所破抄」平成新編御書全集p1879)

このように日興は、日蓮の出世の本懐を「原殿書」では、「南無妙法蓮華経」と言っている。これは三大秘法の題目・本尊・戒壇の義の「題目」に焦点を当てて言ったものと言える。
又、「五人所破抄」においては、日蓮の出世の本懐を「上行所伝の乗戒」と言い、それは「正像二千の間一閻浮提の内未曽有の大漫荼羅」であると言っている。
特に、日興が「五人所破抄」で日蓮の出世の本懐を「大漫荼羅」と言っているのは、日蓮が、「阿仏房御書」で、大漫荼羅本尊の授与のことを「出世の本懐とはこれなり」(『阿仏房御書』平成新編御書全集p793)と言明している意味と、同じであり、三大秘法の題目・本尊・戒壇の義の「本尊」に焦点を当てて言ったものと言える。
したがって「原殿書」や「五人所破抄」において日興が日蓮の出世の本懐について言明している分は、逆に言うとこれらも、大石寺の「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊が、日蓮の「出世の本懐」ではないという証明になっている。

すなわち、この二つの文も、日蓮正宗や創価学会が「本門戒壇の大御本尊」の文証だと強硬に主張している、『「聖人御難事」の「余は二十七年なり」の文が日蓮の出世の本懐を顕した文である』とする、日蓮正宗や創価学会の読み方が間違っているという証拠になっているということではないか。

「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊が、本当に日蓮の出世の本懐の本尊として存在していたならば、日興はけっしてこんな言い方をしなかったはずである。
「此れのみならず日蓮聖人御出世の本懐・弘安二年の大御本尊」とか「聖人出世の本懐を尋ぬれば、戒壇の大御本尊」とか言ったことであろう。
しかしそう言わずに、「日蓮聖人御出世の本懐南無妙法蓮華経の教主釈尊久遠実成の如来の画像…」とか「聖人出世の本懐を尋ぬれば、源権実已過の化導を改め、上行所伝の乗戒を弘めんが為なり。図する所の本尊は亦正像二千の間一閻浮提の内未曽有の大漫荼羅」とか言ったということは、少なくとも、『「聖人御難事」の「余は二十七年なり」の文が日蓮の出世の本懐を顕した文である』という日蓮正宗や創価学会の主張は、間違っているという証拠に他ならない。





■検証118・日蓮正宗や創価学会が唱える日蓮出世の本懐論の欺瞞12

□日蓮正宗の「聖人御難事」の解釈は堀日亨や阿部日顕の解釈と明らかに矛盾する

------------------------------------------------------------
(日蓮正宗の妄説)
「聖人御難事」の文は「仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に、出世の本懐を遂げ給ふ」で一回切れているのだ。そしてこれは「余は二十七年なり」につながっている。
「余は二十七年なり」を法難にかこつけるのは他門流の定石。「聖人御難事」という題名がついてはいるが、これは本来は「出世の本懐抄」と言うべき御書だ。
(日蓮正宗の信者・樋田昌志氏が出している破折?DVD映像)
-------------------------------------------------------------

日蓮の遺文の中の文を勝手に切ったり、つなげたりして都合よく解釈しているのは、日蓮正宗の信者のほうである。
しかも、日蓮の出世の本懐とは何の関係もない遺文を引っ張りだしてきて、名前も「出世の本懐抄」だ、などと勝手に変えようとしている?に至っては、呆れてしまう。

それならば、日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨が「熱原法難史」に書いている文
「然れば当時何事か宗祖(日蓮)の本懐満足と云ふ史実が有ったらうかと考えてみると、先師が曾て直に此文(『聖人御難事』の『余は二十七年なり』の文のこと)を以て戒壇本尊顕彰の依文と為れたやうだが、直接の文便は無いやうである」 (『熱原法難史』p72)

日蓮正宗大石寺67世法主阿部日顕が1983(昭和58)年の「霊宝虫払い大法会」御書講の説法
「この御抄(聖人御難事のこと)の日時は、弘安二年十月一日でありますから、まだ本門戒壇の大御本尊顕発を旬日(じゅんじつ)の後に控えております。従って、この文が直ちに戒壇の大御本尊を顕したもう事実的証拠ではありません。そのように取るのは過ぎた解釈と思われます」

この二人の法主の文と、日蓮正宗信者の「聖人御難事」の「余は二十七年なり」を無理矢理にでも「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊に結びつけようとする解釈は明らかに矛盾している。
又、日蓮が「阿仏房御書」で
「宝塔をかきあらはしまいらせ候ぞ。子にあらずんば譲る事なかれ。信心強盛の者に非ずんば見する事なかれ。出世の本懐とはこれなり」(『阿仏房御書』平成新編御書全集p793)
と、「大漫荼羅本尊の授与こそが出世の本懐だ」と言っていることとも矛盾している。
この矛盾をどう説明するのか。というか、日蓮正宗信者は、日蓮の遺文(御書)である『阿仏房御書』との矛盾、堀日亨や阿部日顕の解釈との矛盾を全く説明していない。

否、それだけではない。日蓮の遺文(御書)「聖人御難事」の「余は二十七年なり」を「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊が日蓮の「出世の本懐」であるとする説を書いている「日蓮大聖人正伝」「日蓮正宗入門」をはじめとする日蓮正宗の公式文献の記述そのものが、堀日亨や阿部日顕の解釈と全く食い違っているのである。
この矛盾についても、日蓮正宗は何の説明もしていない。

とにかく、何がなんでも「聖人御難事」の「余は二十七年なり」を無理矢理にでも「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊に結びつけようとする日蓮正宗の解釈は、呆れて嘆息するばかりである。






■検証119・日蓮正宗や創価学会が唱える日蓮出世の本懐論の欺瞞13

□何がなんでも「聖人御難事」を「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊にこじつけようとする日蓮正宗
----------------------------------------------------------
(日蓮正宗の妄説)
戒壇の大御本尊は秘仏で日興上人ただお一人に相伝された御本尊だ。大聖人が在家に授与した「聖人御難事」に、おおっぴらに戒壇の大御本尊のことを書くわけがない。戒壇の大御本尊のことを、ほのめかしているのだ。 だから、難のことに言及された文で、戒壇の大御本尊のことをオブラートに包んだ言い方になっているだけ。だから、難に言及した部分をカットして読むべきなのだ。
文法的に言っても、そのように読める。読めないのは中学校時代の国語の成績が悪かったからだ。
(日蓮正宗の信者・樋田昌志氏が出している破折?DVD映像より)
------------------------------------------------------------

日蓮の遺文「聖人御難事」の中に、大石寺の「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊について「おおっぴらに?」書いてないのは、そもそも、そういった本尊が存在していないし、造立もされていないからで、日蓮がオブラートに包んだ言い方をしているからではない。

「難に言及した部分をカットして読む」などと言っているのは、「聖人御難事」の文の
「仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に、出世の本懐を遂げ給ふ。其の中の大難申す計りなし。先々に申すがごとし。余は二十七年なり。其の間の大難は各々かつしろしめせり」 (大石寺版『平成新編日蓮大聖人御書』p1396)
の「其の中の大難申す計りなし。先々に申すがごとし。」と「其の間の大難は各々かつしろしめせり」をカットして読むと言っているのである。
そうすることによって「仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に、出世の本懐を遂げ給ふ。余は二十七年なり」というふうに、無理にでも「出世の本懐」に、こじつけて読もうとしているのである。
こんなひどい「聖人御難事」の解釈は、日蓮正宗の法主ですら言っていない。デタラメも余りあるものだ。
こういうのを見ていると、道理を無視してでも何をしてでも、何がなんでも「聖人御難事」を「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊にこじつけようとする日蓮正宗の信者の謀略と言わざるを得なくなる。

しかもこの文は「文法的に言っても、そのように読める」「読めないのは中学校時代の国語の成績が悪かったから」などというのは、さらにひどい。こんなひどい読み方をする文法?が、一体、どこにあるのか。
こじつけも大概にせよ、と言いたくなる。
ただ、無理矢理にでも、日蓮正宗信者のほうが、こじつけようとしているだけではないか。



■検証120・日蓮正宗や創価学会が唱える日蓮出世の本懐論の欺瞞14

□矛盾だらけの大石寺26世法主日寛の「仏滅讃文二千二百三十余年・弘安元年以降本懐論」

日蓮正宗が唱えている「『本門戒壇の大御本尊』なる板本尊・本懐論」は、日蓮正宗大石寺56世法主大石日応が言い出した「聖人御難事」の「余は二十七年なり」説だげではない。
江戸時代においては日蓮正宗大石寺26世法主日寛が、「仏滅讃文二千二百三十余年・弘安元年以降本懐論」といったものを唱えていた。日寛の本懐論というのは、日寛の著書「観心本尊抄文段」という文書に書いてあるのだが、それには次のように書いてある。

「問う、本尊問答抄の啓蒙に云く『諸山代代の本尊に多く仏滅後二千二百三十余年と云う。是れ元祖の本意顕れ畢る時を定規とする故なり』と云云。これ則ち弘安五年御入滅の年、正しく二千二百三十余年に当る故なり。若し爾らば弘安四年已前は宗祖の本懐末だ顕れ畢らざるや。
答う、今処々の明文に拠るに、正しく弘安元年已後を以て仏滅後二千二百三十余年というなり。故に弘安元年七月の千日尼抄二十五に云く「仏滅度後すでに二千二百三十余年になり候」と云云。
また弘安元年九月の本尊問答抄に云く『仏滅後二千二百三十余年』(取意)と云云。また第十六四条金吾抄、また第十七大陣破抄、また第二十二初心成仏抄等云云。また蒙抄応云く『京の本国寺弘安元年七月の御本尊に二千二百三十余年』と云云。
また上総日弁授与の弘安二年四月の御本尊に『二千二百三十余年』と云云。故に知んぬ、弘安元年已後、御本意即ち顕れ畢ることを。
問う、弘安元年は正しく仏滅後二千二百二十七年に当る。蓮祖何ぞ三十余年というや。
答う、恐らくは深意あらんか。宗祖云く『今此の御本尊は(乃至)寿量品に説き顕し』等云云。然るに寿量品御説法の年より弘安元年に至るまで、正しく二千二百三十一年に当るなり。謂く、如来七十二歳より八箇年の間に二十八品を説く。故に知んぬ、一年に三品半を説きたまうことを。故に七十六の御歳、正しく寿量品を説くなり。
而して七十七の御歳、神力品を説いて本化に付嘱して、四年後の八十歳の御入滅なり。如来の御年八十歳、御入滅の年より弘安元年に至るまで二千二百二十七年なり。これに七十六、七、八、九の四年を加うる則は二千二百三十一年と成るなり。
故に寿量説法の年よりこれを数えて弘安元年に至るまで、二千二百三十余年というか。故に本尊問答抄に云く『此の御本尊は世尊説きおかせ給いて後二千二百三十余年』と云云。この文深くこれを思うべし。
若し余文の中は多分に従う。故に仏滅後というなり。若し本尊問答抄に「説きおかせ給いて後」といい、新池抄には『寿量品に説き顕し』という、これを思い合すべし。故に弘安元年已後、究竟の極説なり。
就中弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐の中の本懐なり。既にこれ三大秘法の随一なり。況や一閻浮提総体の本尊なる故なり。」
(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂『富士宗学要集』3巻p220〜221)

引用が長くなってしまったが、簡単に言うと日寛の「仏滅讃文二千二百三十余年・弘安元年以降本懐論」というのは、こんな感じである。
「日蓮は、さまざまな遺文や本尊の脇書きに仏滅年代を書いている。そのうち、日蓮が「仏滅後二千二百三十余年」と書きはじめた弘安元年(1278)以降の本尊に、日蓮の本意が顕れている。
弘安元年(1278)は、周書異記の記述を根拠とする仏滅年・紀元前949年説からすると、仏滅後2227年であるが、日蓮はあえて釈迦牟尼如来が法華経寿量品を説いた時から算定して、弘安元年(1278)から仏滅年代を「二千二百三十余年」と言っているのだ、ということである」



■検証121・日蓮正宗や創価学会が唱える日蓮出世の本懐論の欺瞞15

□科学的考証の仏滅年代と矛盾する日寛の「二千二百三十余年・弘安元年以降本懐論」

一見もっともらしく見える日寛の説も、よくよく見てみると、矛盾がたくさんある。
弘安元年(1278)以降の日蓮の本尊に本意が顕れているとする根拠として日蓮の「二千二百三十余年」の記述をあげているが、日蓮の仏滅年代の記述と日蓮の本意が顕れるか顕れないかが、どこでどう結びついているのか、という点について、日寛は全く何の説明もしていない。第一、こんな記述も説も、日蓮や日興の遺文の中には、全く見られないものである。
日寛が唯一、根拠らしきものとしてあげている文が
「本尊問答抄の啓蒙に云く『諸山代代の本尊に多く仏滅後二千二百三十余年と云う。是れ元祖の本意顕れ畢る時を定規とする故なり』」
であるが、日寛が引用している「啓蒙」という書物は、日蓮宗不受不施派の僧侶・安国院日講の著書「録内啓蒙」のこと。
日蓮宗不受不施派という宗派は、もちろん日蓮正宗大石寺が「邪宗」としている宗派であり、日寛は、日蓮正宗が「邪宗」としている宗派の僧侶の著書を根拠として、「仏滅讃文二千二百三十余年・弘安元年以降本懐論」を述べるという、まことに矛盾したお粗末な論になってしまっている。

日蓮正宗大石寺26世法主日寛が、自らの著書「観心本尊抄文段」の中で唱えている「弘安元年・二千二百三十余年・弘安元年以降本懐論」には、根本的な矛盾がある。
そもそもこの仏滅年代を「二千二百二十余年」とか「二千二百三十余年」とか立てること自体、実際に釈迦牟尼が入滅した仏滅年代と矛盾するのである。

釈迦牟尼が入滅した年代は諸説あり、一致していないが、大乗仏教における三時説(末法思想)によれば、釈迦牟尼の入滅後、最初の1000年(500年とも)を正法、次の1000年を像法、その後の1万年を末法とする。末法に入ったとされる平安時代では、周書異記の記述を根拠とする仏滅を紀元前949年とする説が一般的だった。日蓮をはじめ、日寛などの日蓮正宗大石寺歴代法主も、全て周書異記の説を用いて仏滅年代を算定しており、これで計算すると像法から末法に入るのは1052(永承7)年になり、日蓮在世の時代(1222〜1282)は末法ということになる。

しかし現在では、周書異記の説の他に
□1東南アジアの仏教国に伝わる紀元前544-543年説
□2紀元前544-543年説をギリシャ資料によって修正した紀元前486年もしくは紀元前477年説
□3中国、チベットに残る記述から紀元前400-368年説
□4前463年 - 前383年、
□5前560年 - 前480年

現在、歴史学説として有力になっているのは、周書異記の説ではなく、□4ないしは□5の説である。むしろ、周書異記は中国仏教が儒教に対する優位性を確保するために制作された偽書であるとする説すらある。というか、周書異記の説以外の上記□1〜□5のどれかの説が有力ということは、日蓮在世の時代は末法ではなく像法だったということになり、日寛の周書異記の説を基本とした「二千二百三十余年・弘安元年以降本懐論」そのものが、実際の仏滅年代と合わないという根本的な矛盾を包含しているのである。




■検証122・日蓮正宗や創価学会が唱える日蓮出世の本懐論の欺瞞16

□「大乗経典非釈迦仏説」と矛盾する日寛の「二千二百三十余年・弘安元年以降本懐論」

さらに根本的なところで言うと、日寛が「日蓮は法華経寿量品を拝して二千二百三十余年と言った」と言うのなら、これは大乗非仏説経典は釈迦牟尼仏が説いた教典ではないとする「大乗経典非釈迦仏説」(大乗非仏説)とも矛盾していることになる。
日本ではじめて、仏教経典を精密に論証して「大乗経典非釈迦仏説」(大乗非仏説)を唱えたのが、江戸時代の大阪の町人学者・富永仲基(1715〜1746)である。

延享2年(1745年)に刊行された、富永仲基の主著「出定後語」(しゅつじょうごご、しゅつじょうこうご)は、まずヴェーダが先行し、それに対抗して六師外道が、それに対抗しての釈迦・小乗仏教が、それに対抗して大乗仏教が加上されたとし、つまり大乗仏教を後世に作られたものと断じた、「大乗非仏説」を唱えた書として、あまりにも有名である。
この説は本居宣長、後には内藤湖南や、大谷大学学長・村上専精の『仏教統一論』により評価され、服部天游(てんゆう)の『赤裸々』、国学者の平田篤胤の『出定笑語』、等が、富永仲基の主著「出定後語」の大乗非仏説につづいている。
日寛が寛文5年(1665年)〜享保11年(1726年)の人物だから、富永仲基は日寛よりほんのすこしだけ、後の時代の人ということになる。
この中で面白いのは、大乗経典の宗派である真宗大谷派の僧侶で大谷大学学長もつとめた村上専精が、『仏教統一論』を著して大乗非仏説を提起していることである。

「法華経を含めた大乗経典はすべて釈迦牟尼とは何の関係もないものである」

歴史学者・井沢元彦氏は、著書「逆説の日本史」で、この富永仲基が日本ではじめて唱えた大乗非仏説は、現在に至るも、誰からも論破されていないものである、と述べています。
「大乗経典非釈迦仏説」(大乗非仏説)が今日に至るまで、誰からも論破されていない論説ということになると、日寛の「二千二百三十余年・弘安元年以降本懐論」そのものが、科学的な論証のもとに成り立っている「大乗非仏説」や「仏滅年代の学説」と根本から矛盾する説ということになり、逆に「大乗非仏説」や「仏滅年代の学説」によって、日寛の「二千二百三十余年・弘安元年以降本懐論」なるものがインチキ極まりないものであることが立証されているということではないか。

もっと言うと、「大乗経典非釈迦仏説」(大乗非仏説)が誰も論破できないということになると、大乗経典のひとつである「法華経」の「文底秘沈」の「南無妙法蓮華経」をはじめとする「三大秘法」を教義の根幹に置く日蓮正宗の教義が根本から崩壊することになる。もちろん「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊も含めてである。



■検証123・日蓮正宗や創価学会が唱える日蓮出世の本懐論の欺瞞17

□科学考証に基づく歴史学説としての仏滅年代を「正」と認めている阿部日顕

周書異記の記述を根拠とする仏滅年代と科学考証に基づく歴史学説としての仏滅年代には約500年前後のズレがある。
実は、これについて日蓮正宗大石寺67世阿部日顕法主が1991(平成3)年8月に大石寺大講堂で行われた「全国教師講習会」の法主講義の席上で見解を発表しており、これが日蓮正宗宗務院機関誌「大日蓮」第548号に掲載されている。
「全国教師講習会」というのは、毎年8月下旬に大石寺で行われている全国の日蓮正宗の末寺寺院・住職、無任所教師等の教師僧侶の夏期講習会のような行事である。この講義の中で、何と阿部日顕が科学考証に基づく歴史学説としての仏滅年代を「正」と認めているから面白い。
該当する箇所を引用してみたい。

「したがって玉井は、「御本尊様の讃文の仏滅後二千二百二十数年をそのまま拝すると、仏滅とは五百年のずれがある」と主張するわけです。これは実際にそのとおりであります。
したがって、これは御本尊様のみならず、御書の中において常にお示しになっておる二千二百何年という記述も当然、実際には五百年の違いがあるということになります。
ですから、説によっては多少の前後はありますが、実際の仏滅は、BC949年から五百年を引いたBC449年頃ということになります。
このBC449年から算定すると、大聖人の御出現は正法千年、像法千年、その二千年よりも内になってしまうわけです。つまり仏滅が五百年、あとへずれることによって、末法に入る年も五百年あとになるわけですから、大聖人様が御出現の時はまだ像法の内であるということであります。 」
「このように法華経等の大乗の教えは、釈尊滅後直ちに経典になったのではなく、釈尊の説かれた内容が伝わって、それを後世の仏教家がまとめたものでありますから、大乗は、釈尊が説いた内容とは異なるものであり、仏説ではないというのが大乗非仏説の根幹をなすところであります」
「肉身の釈尊の入滅からだけ算定すると、大聖人の仏滅讃文は、近年の科学的実証研究による仏滅年代と比較して、たしかに違っているのです。」
「もちろん、大聖人の深い御本仏の御境界においては、『周書異記』に示されている仏滅に関する説が必ずしも真実ではないということは深く御承知であったと思います」
(日蓮正宗宗務院機関誌『大日蓮』第548号より)

このように周書異記の記述を根拠とする仏滅年代と科学考証に基づく歴史学説としての仏滅年代を対峙させた場合、阿部日顕は、科学考証に基づく歴史学説としての仏滅年代が「正」であることを認めている。
そしてさらに日蓮も、『周書異記』に示されている仏滅年代が間違っていることに気づいていたなどと言う不埒なウソの言い訳まで行っているのである。日蓮はありとあらゆる遺文(御書)で、『周書異記』に示されている仏滅年代を使用しており、これが間違いだったなどと認識していたはずがないではないか。
阿部日顕が法主としての公式見解として、ここまでウソをつかざるを得なくなったほど、科学考証に基づく歴史学説としての仏滅年代が「正」であることが明白なのである。





■検証124・日蓮正宗や創価学会が唱える日蓮出世の本懐論の欺瞞18

□仏滅とは「滅不滅の仏を表したもの」などと大ウソの言い訳をする阿部日顕

科学考証に基づく歴史学説としての仏滅年代を「正」と認めざるを得なくなった日蓮正宗大石寺67世阿部日顕法主だが、これでは「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊が後世の偽作であることが明らかになってしまうだけでなく、日蓮正宗の教義そのものが根幹から崩壊して全滅してしまうことになってしまう。
そこで阿部日顕は、不埒な言い訳を並べているのだが、窮地に立たされた阿部日顕は、何と本尊の「二千二百二十余年」「二千二百三十余年」の仏滅讃文の相伝からすでに解決済みであるとし、「仏滅」とは、釈迦牟尼の肉親の入滅したという意味ではなく、「永遠常住の滅不滅の入滅が本当の仏滅だ」などという、不埒な大ウソの説法で煙に巻こうとしているのである。
該当する箇所を引用してみたい。
----------------------------------------------------------------------
(日蓮正宗大石寺67世阿部日顕法主の妄説)
「これは御本尊に関する相伝の上から、既に解決済みなのであります」
「ここで、改めて「仏滅」という語の意味を考えてみてください。仏滅というのは仏様が亡くなった年ということであります。そして、寿量品に説かれている仏様の姿は「非滅現滅 非生現生」です。「現有滅不滅」、すなわち滅を現じ、不滅を現じて、法・報・応三身の永遠常住の体と用を示されたということであります。すなわち、仏滅は通常、応身の滅であるが、法華円教の三身相即と、寿量品でその永遠常住の滅不滅を示す意味こそ、御本尊の示し給う妙法に共なる仏滅なのです。
 ですから、その寿量品を起点として算定された「仏滅後二千二百三十余年」を讃文に示されているということは、寿量品におけるところの滅不滅の意味においてお示しになったと拝さねばなりません。つまり、釈尊の肉身が滅したということよりも、むしろ肉身の元である三世常住の御本仏の滅不滅の上の仏滅年代であるということなのです。それを「二千二百三十余年」とお示しになったのです。」
「この讃文は寿量品の仏の常住の仏身の上の御境界としての滅不滅をお示しになっていらっしゃるわけですから、釈尊が亡くなってから実際には千七百何年しか経っていないから、「仏滅後二千二百云云」と言うのは間違っている、などという議論は全く当てはまらないのです。」
つまり、肉身の釈尊の入滅からだけ算定すると、大聖人の仏滅讃文は、近年の科学的実証研究による仏滅年代と比較して、たしかに違っているのです。ところが「三十余年」というめどにおいて示された寿量品の仏から算定するならば、三世常住における仏身の滅不滅が基本になるのです。すなわち、大聖人の仏滅讃文は滅不滅の仏を表したものである故に、近代研究における事実上の釈尊肉身の仏滅年代に影響されるということは絶対にないのであります。しかし、大聖人様が敢えて「二千二百」という数をお示しになったのは、当時の仏教界の仏滅年代の定説でありましたから、それに応じて化導をあそばされたという意味があるのです」
(1991(平成3)年8月・大石寺大講堂「全国教師講習会」の法主講義・日蓮正宗宗務院機関誌『大日蓮』第548号より)
--------------------------------------------------------------
「日蓮の仏滅讃文は滅不滅の仏を表したものだ」などという阿部日顕の説を信じている者など、どこにいるのだろうか。この法主講義を直接聴聞した日蓮正宗の僧侶ですら、舌を巻いてあきれ果てているのではないか。
仏滅とは、読んで字のごとく「仏の入滅。釈迦牟尼の死」ということで、これ以外に意味はない。中国、朝鮮、日本に仏教が伝来してから今日まで、仏滅とは「仏の入滅。釈迦牟尼の死」という意味で使われており、国語辞典、古語辞典にもそのように載っている。
それを「日蓮の仏滅讃文は滅不滅の仏を表したものだ」などというのは、科学的考証による仏滅年代を「正」と認めざるを得なくなった阿部日顕のゴマカシであり、大ウソである。


■検証125・日蓮正宗や創価学会が唱える日蓮出世の本懐論の欺瞞19

□科学的考証に基づく仏滅年代が「正」なら三大秘法や「本門戒壇の大御本尊」の正統性は崩壊する

さらに日蓮正宗大石寺67世阿部日顕法主は、驚くべき大ウソの言い訳を重ねている。
----------------------------------------------------------------------
(日蓮正宗大石寺67世阿部日顕法主の妄説)
もちろん、大聖人の深い御本仏の御境界においては、『周書異記』に示されている仏滅に関する説が必ずしも真実ではないということは深く御承知であったと思います。
また、この仏滅年代という問題は五綱教判の時綱に当たり、薬王品の後五百歳ということも、大集経の五箇の五百歳ということも、その時の法門が経典に示されて説かれておるわけです。しかし、大聖人の化導の中心は三大秘法を建立あそばすというところにあるわけですから、教・機・時・国・教法流布の先後等の五綱教判は、その建立のための足場のようなものです。ですから建物が出来れば足場は外してしまうのと同様に、三大秘法が建立されたならば、そのあとも五綱に執われてしまっていては駄目なのです。
(1991(平成3)年8月・大石寺大講堂「全国教師講習会」の法主講義・日蓮正宗宗務院機関誌『大日蓮』第548号より)
--------------------------------------------------------------
日蓮の全遺文(御書)のどこを探しても「『周書異記』の仏滅年代は間違っている」とか「『周書異記』の仏滅年代は信用できない」との記述は全く存在しない。
それどころか、日蓮は『周書異記』の仏滅年代を「正」として、『周書異記』の仏滅年代が「正」であることを前提として、ありとあらゆる教義を組み立てているのである。
『周書異記』の仏滅年代が「誤」で、科学的考証に基づく仏滅年代が「正」ということあるになると、日蓮在世の時代が仏滅後2000年以上を経過した「末法」ではなく「像法」だったということになるわけで、「末法」であることを前提にしている日蓮の教義そのものが崩壊してしまうことになる。
日蓮が、『周書異記』の仏滅年代を否定するということは、自らの教義を否定するようなもので、日蓮がそんなことをするはずがない。
したがって「『周書異記』に示されている仏滅に関する説が必ずしも真実ではないということは深く御承知であった」などというのは、阿部日顕の詭弁にすぎない。

それから阿部日顕は、三大秘法を盾にとって日蓮正宗の教義の正統化を計ろうとしているが、その三大秘法とて、日蓮在世の時代が仏滅後2000年以上を経過した「末法」であることを前提にしていることに変わりはない。日蓮正宗は、建前上は、三大秘法とは、日蓮の教義の根幹であるとして、仏教思想の延長線上の、日蓮の教義の中のことであるという位置づけをしているからである。
よって『周書異記』の仏滅年代が「誤」で、科学的考証に基づく仏滅年代が「正」ということあるになると、日蓮の教義そのものが崩壊すると同時に、三大秘法や「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の正統性も全く失ってしまうということになる。
「仏滅年代という問題は五綱教判の時綱に当たり、足場のようなものだから、足場は外してしまわなくてはならない」という阿部日顕の言い訳は、論理が逆さまであり、あべこべ。ゴマカシを通り越した欺瞞に他ならない。







■検証126・日蓮正宗や創価学会が唱える日蓮出世の本懐論の欺瞞20

□「大乗非仏説」が論破不可能であることを認めている法華講連合会機関紙「大白法」

日蓮正宗法華講連合会機関紙「大白法」が、1993(平成5)年6月1日(第387号)号の「教学基礎講座?」の欄において「大乗非仏説」に対する「破折?」を試みているが、見事にこれに失敗し、「大乗非仏説」が、もはや論破することが不可能であることをかえって認めているという結果に終わっている。
日蓮正宗法華講連合会機関紙「大白法」の教学に関する欄は、実際は日蓮正宗の僧侶が執筆しているもので、ここにおいて「大乗非仏説」が論破することが不可能であることを認めているということは、日蓮正宗として、「大乗非仏説」が論破することが不可能であることを認めているということに等しいのである。
該当する項目を引用してみる。

「日本では江戸中期に、富永仲基(ちゅうき)の『出定後語』や、服部天游(てんゆう)の『赤裸々』、国学者の平田篤胤の『出定笑語』などに大乗非仏説を発表され、国学者や神道学者による、仏教攻撃の大きな原動力となりました。」
「これらの非仏説論に対して明治以後になると、仏教学者の間に、歴史学文献学によって大乗仏説を証明しようという動きが出てきました。 その代表的なものに、村上専精の『仏教統一論』、前田慧雲の『大乗仏教史論』、伊藤義賢の『大乗非仏説論の批判』、姉崎正治による法華経信仰者としての立論などがあります。これらはいずれも非仏説論者を論破するのには十分な立証はできませんでした」
「このような非仏説の論議が起こる原因は、どの経典も釈尊自らが書かれたものはないということです。 経典には二つの成立形態があります。一つには釈尊の滅後、弟子たちが大勢集まって編集したもの。(経典の結集・けつじゅう)もう一つは釈尊から聞いた教えを師匠から弟子に、更にその弟子に伝えるという口伝形式によったもの。前者が小乗経典、後者が大乗経典です。
この口伝を疑って、科学的文献学のみによって、仏説か否かを解明しようとする者には、大乗経典は仏説とは認め難いかもしれません。しかし、当時のインドにおいては、暗誦や口伝による伝承が一般的な方法でした。」
(日蓮正宗法華講連合会機関紙「大白法」1993(平成5)年6月1日号の「教学基礎講座?」)

このように「大白法」の記事は、
○過去の村上専精の『仏教統一論』、前田慧雲の『大乗仏教史論』、伊藤義賢の『大乗非仏説論の批判』、姉崎正治などが「大乗非仏説」の論破に失敗していること
○大乗教典が口伝方式で伝えられ、経典結集で成立したものではないこと
この二点を認めており、「科学的文献学のみによって、仏説か否かを解明しようとする者には、大乗経典は仏説とは認め難いかもしれません」などと、実質的な降伏宣言をしている。

そしてその言い訳が
「当時のインドにおいては、暗誦や口伝による伝承が一般的な方法でした」
というものだが、これはウソ。
古代インドには紀元前1500年頃からサンスクリット語で書かれた聖典・リグ・ヴェーダが存在している。後期ヴェーダ時代(紀元前1000年頃より紀元前600年頃まで)に続くヴェーダとして『サーマ・ヴェーダ』・『ヤジュル・ヴェーダ』・『アタルヴァ・ヴェーダ』の三つの聖典が編纂されていて、釈迦牟尼在世当時もすでに文字や聖典が存在していた。
したがって仏典結集で編纂されていない大乗経典は、釈迦牟尼の諸説として認められないのである。



■検証127・日蓮正宗や創価学会が唱える日蓮出世の本懐論の欺瞞21

□「大乗非仏説」に反論不能で逃亡し実質的な降伏宣言をしている「大白法」

さらに日蓮正宗法華講連合会機関紙「大白法」は、驚くべき詭弁を重ねている。
----------------------------------------------------------------------
(日蓮正宗大石寺67世阿部日顕法主の妄説)
◇ 大聖人の仏法より非仏説論を破折 ◇
大聖人の仏法より大乗非仏説論を見るとき、次の二点から論ずることができます。
第一点は、日蓮大聖人が末法に出現することは二千三百余年を隔てた「法華経」に予証されているという現実です。これは「法華経」が仏の悟りによって説き明かされた経典であり、現実世界に生きている経典であるということです。
第二点は日蓮正宗における御本仏は日蓮大聖人であり、大聖人の御教示は御書として留められ、御法門の極理たる戒壇の大御本尊と血脈相承は、今日まで連綿と継承されているということです。
従って、大乗経典が釈尊の説か否かという議論は他宗と異なり、当宗にとっては直接関係ある問題ではないといえます。
(日蓮正宗法華講連合会機関紙「大白法」1993(平成5)年6月1日号の「教学基礎講座?」より)
--------------------------------------------------------------
「日蓮が末法に出現することは二千三百余年を隔てた「法華経」に予証されている」などと胸を張っているが、この反論の論理そのものが逆さまでひっくり返っている。
□1 その法華経が、釈迦牟尼が説いたとは認められない大乗経典の中のひとつであること。
□2 科学的考証によって『周書異記』の仏滅年代は間違っていることが立証されており、正しい仏滅年代によれば、日蓮在世の時代は末法ではなく、像法ということになる。
□3科学的考証によって『周書異記』の仏滅年代は間違っていることは、日蓮正宗大石寺67世阿部日顕法主が認めている。
これによって、第一点の「大白法」の反論は崩壊している。

第二点の反論に述べられている「日蓮本仏」「本門戒壇の大御本尊」「血脈相承」なるものは、いずれも後世の偽作。室町時代に日蓮正宗大石寺9世法主日有が、大石寺の総本山化、信者からの金銭収奪システムの確立、大石寺を「事の戒壇」とするため、法主の宗教的権威の確立のために偽作したものであって、「大乗非仏説」への反論として成立していない。
「日蓮本仏」「本門戒壇の大御本尊」「血脈相承」なるものが、そもそも「大乗非仏説」を覆すものにはなり得ない。

最後に「大乗経典が釈尊の説か否かという議論は他宗と異なり、当宗にとっては直接関係ある問題ではないといえます」と「大白法」が述べているのは、全くの詭弁であり、逃げ以外の何物でもない。
「大乗非仏説」が「正」ということになると、日蓮正宗が自ら「日蓮大聖人が末法に出現することは二千三百余年を隔てた法華経に予証されている」などと認めているように、大乗経典の法華経を根幹にしている日蓮の教義も、日蓮正宗の教義も全て根底から崩壊する重大問題である。
これについて明確な反論ができずに逃げている「大乗経典が釈尊の説か否かという議論は他宗と異なり、当宗にとっては直接関係ある問題ではないといえます」との弁は、明確な日蓮正宗の降伏宣言に他ならないのである。




■検証128・日蓮正宗や創価学会が唱える日蓮出世の本懐論の欺瞞22

□弘安以後に日蓮が図顕した本尊で「弘安式」になっていない本尊は多数ある

大石寺の「本門戒壇の大御本尊」なる名前の板本尊を、何がなんでも日蓮の「出世の本懐」の本尊であると定義づけたい日蓮正宗は、日蓮正宗大石寺26世法主日寛の「二千二百三十余年論」を、さらに拡大させて、日蓮が図顕した漫荼羅本尊の相が、文永・建治の本尊よりも弘安の本尊のほうが整っているから、弘安の本尊は、日蓮の究竟の本尊であるとする論を展開している。
日蓮正宗が日蓮七百遠忌を記念して出版した「日蓮正宗要義」という本には、次のようなことが書いてある。

「しかし弘安以前と以後の大漫荼羅の歴然たる変貌相違は、他の部位にもまさに迹門と本門のかわりめというべきものが拝せられるから、その中の一つの理由としての日寛上人の説は大聖人の聖意を拝考する上からは正確であると信ずる。即ち弘安元年の年度において二千二百三十余年と、約半数の本尊に顕示されるところに大聖人が、この時期より末法の寿量本仏の境地を確信し給う究竟の意味を拝せられるのである。
次に身延期の文永より特に建治年間はほとんど例外なく、善徳仏と十方分身仏が顕示されるに対し、弘安に入ってまったく廃されている。
これは建治年間が、寿量文上の意を示し、弘安以後、消除せられた大漫荼羅は寿量文底の本仏境界を顕わされたものである。
次に御名花押が左右に隔ててあるのが、次第に歩み寄り、中央で合致するのは前に述べた如く建治二年からである。…弘安に入って御名花押の占める位置が急速に大きくなり、全体を圧する態の雄大さを拝するのである。
花押は弘安元年七月の二幅の本尊から弘安式に改められている。この判形の有無こそ非常に大事であるが、ただ弘安に入って文字の更改が明らかに認められ、そこに凡下のき視すべからざる深意のおわしますのを拝察できる。
以上大漫荼羅の化導については日寛上人の仰せの如く、大旨は弘安以後究竟ということに尽きるのである」(『日蓮正宗要義』p199〜200)

つまりこれは、日蓮が図顕した本尊の相にかこつけて、「弘安の本尊究竟論」を展開して、日寛の「二千二百三十余年論」が正しいということを立証しようとしているのだが、残念ながら、日蓮が弘安以後に図顕した本尊の中に、「弘安式」になっていない本尊が多数ある。具体的に言うと、次のようなものがある。

「56番 弘安元年十月十九日の本尊」
「59番 弘安二年二月 日 妙心授与本尊」
「61番 弘安二年四月八日 日向授与本尊」
「62番 弘安二年四月八日 日田授与本尊」
「66番 弘安二年九月 日 日仰授与本尊」
「70番 弘安二年十一月 日 日久授与本尊」
「74番 弘安三年一月 日 日仏尼授与本尊」
「72番 弘安三年二月 日眼女授与本尊」
「78番 弘安三年三月 本尊」
「94番 弘安三年六月 日 俗日円授与本尊」
「110番 弘安四年九月 日 俗日常授与本尊」
「112番 弘安四年十月 本尊」
「113番 弘安四年十月 日 俗守綱授与本尊」

これらはいずれも日蓮正宗が言う「弘安式」になっていない本尊である。さらに日蓮正宗は「弘安に入って御名花押の占める位置が急速に大きくなり、全体を圧する態の雄大さを拝する」などと言っているが、弘安以後の図顕した本尊で、日蓮の名前と花押が全体を圧していない本尊を含めると、さらに数が増える。
以上の事例は、立正安国会発行の「日蓮御本尊集」に載っている本尊の写真をよく調べれば、すぐにわかることである。日蓮正宗が言う「日蓮図顕の本尊の相にかこつけた「弘安の本尊究竟論」は、成り立たないことになる。
もっとも、日蓮正宗は、「信者や世間の人たちは立正安国会の『御本尊集』など、めったに持ってはいまい」と考えて、意図的にこういう間違った論を展開しているとすれば、欺瞞も甚だしいと言わねばなるまい。


■検証129・日蓮正宗や創価学会が唱える日蓮出世の本懐論の欺瞞23

□元寇まで「本門戒壇の大御本尊」にこじつけようとする日蓮正宗の苦しい言い訳

--------------------------------------------------------
(日蓮正宗の妄説)
 『観心本尊抄』は、文永10年の述作である。文永10年の時点で「一閻浮提第一の本尊」建立の時期は「立つ可し」と未来形をもって示されている。さらに具体的には「自界叛逆・西海侵逼の二難」が起こる時であると教示されている。
一方、大聖人は『観心本尊抄』述作以前の文永8年10月には既に本尊を顕されている。このことから、「一閻浮提第一の本尊」とは大聖人書写の数多の曼荼羅本尊の中でも特別な(それこそ一閻浮提第一の)存在であることが分る。
他国侵逼難は文永11年と弘安4年に起こっている。これは『聖人御難事』で出世の本懐の時期を「余は二十七年」とされた年即ち弘安2年と符合している。
(日蓮正宗信者が主宰しているインターネット・サイトにおける書き込み)
----------------------------------------------------------

日蓮正宗の信者が、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊偽作説に反論をはじめると、ありとあらゆる所から、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊とは関係ないものを持ち出してきて、無理にでもそれらの材料を「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊と、こじつけようとする。上記に書いた「日蓮正宗側の言い分」も、まさにそれである。
これなんかは、日蓮の遺文『観心本尊抄』のみならず、元が日本に侵攻してきた元寇「文永の役」「弘安の役」までも、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊に結びつけて、言い訳しようとしているから、全く呆れてしまう。それにしても、日蓮正宗側の言い訳は、何とも苦しい?言い訳である。

「文永の役」も「弘安の役」も、大石寺の「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊とは何の関係もない事件である。
日蓮正宗側は、『観心本尊抄』の「自界叛逆・西海侵逼の二難」が起こる時を以て、こじつけたいようだが、日蓮正宗自身が、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊は、「弘安二年の熱原法難を機縁として日蓮大聖人が御図顕した」と言っているではないか。
こういうことは、日蓮正宗側の文献を見れば、明らかである。日蓮正宗自身が「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊と「文永の役」や「弘安の役」との関連性など、今まで一言も公式見解で言っていないではないか。
まず、これらのインターネット・サイトに書かれている日蓮正宗の信者の見解は、日蓮正宗大石寺が出している公式見解と大きく矛盾しているものである。
「本門戒壇の大御本尊」後世偽作説でさんざん厳しい追及を受けつづけてきた日蓮正宗の信者たちが、ここへ来て、日蓮正宗の公式見解とも矛盾する「文永の役」「弘安の役」までも「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊にこじつけようとする論を展開しようとしているのだから、これ自体、笑ってしまうことである。






■検証130・日蓮正宗や創価学会が唱える日蓮出世の本懐論の欺瞞24

□日蓮は「一閻浮提第一の本尊」を建立することなく入滅した1

日蓮正宗の信者は、日蓮の予言を「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊に結びつけて、「本門戒壇の大御本尊」偽作説に反論したいようなのだが、そもそも日蓮の予言は、簡単にいってしまうと
「邪教を捨てて法華経を信じないと、外国から侵略を受けて日本が滅びるぞ」
ということであった、
しかし鎌倉幕府は、日蓮の三度の「諫暁」にも関わらず、日蓮には帰依せず、今まで帰依していた信仰も捨てなかった。
それならば、日蓮の予言からすると、日本は元寇によって完全に滅亡してしまうか、それでなくても滅亡寸前の壊滅的な打撃を受けていなくてはならない。
ところが、元は「文永の役」も「弘安の役」も、二度とも暴風雨にあって敗退して行った。鎌倉幕府が、日蓮や法華経に帰依しなかったのに、「神風?」が吹いて日本は国難を免れたのである。
日蓮の予言が正しいとか当たったというのなら、日蓮に帰依していない日本に「神風?」は吹いてはならず、元は敗退してはならないということになる。
つまり日蓮の予言は、「外国が攻めてくる」ところまでは確かに当たったが、「日本は滅亡する」というのは、ハズレたのである。

日蓮が1273(文永10)年、52才のときに佐渡から門下の大檀那の一人であった富木常忍に与えた遺文(御書)「観心本尊抄」には、次のように書かれている。

「此の釈に『闘諍の時』云々。今の自界叛逆・西海浸逼の二難を指すなり。此の時地涌千界出現して、本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし。月支・震旦に未だ此の本尊有さず」(観心本尊抄)

□日蓮の「外国が攻めてくる」予言は当たったが「日本は滅亡する」との予言は外れた

即ち、日蓮は「観心本尊抄」という名前の遺文の中で、蒙古が日本に襲来して日本が敗北した時に、上行菩薩(日蓮)が出現して、「一閻浮提第一の本尊」(本門の本尊)を日本の国に建立するであろう、と予言しているが、ところが結局、日蓮は、自らが予言した「一閻浮提第一の本尊」を建立することなく、入滅したのである。
日蓮の予言のとおり「外国が攻めてくる」ことは攻めてきたが「日本は敗北・滅亡する」ことはなかった。したがって、日蓮は、「一閻浮提第一の本尊」を建立することはなかったのである。

二度目の元寇である「弘安の役」は、1281(弘安4)年10月のことだったが、いわゆる「神風?」が吹いて蒙古軍が全滅したことを伝えてきた弟子の手紙に対して、日蓮は
「是偏に日蓮を失はんとして無かろう事を造り出ださん事兼ねて知れり」(富城入道殿ご返事・御書全集p1571)
---そんなはずはない。この日蓮を陥れるために捏造したデマだ---
と返書しているくらいである。

その日蓮の予言?に、日蓮正宗の信者が言うように「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を無理にこじつけようとすると、日蓮の「日本は滅亡する」という予言がハズレたのに、日蓮が出世の本懐を顕して「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を造立した?などという、論理的に極めて矛盾した話になってしまうではないか。しかし、そもそも「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を日蓮の予言に無理にこじつけようとする、この「こじつけ理論」そのものが、内容的におかしいのである。
それは、日蓮が生涯をかけた予言が、「半ば的中し半ばハズレた」ことが確定したことを、日蓮自身が知ったのは、1281(弘安4)年暮れのことだ。 その二年も前の1279(弘安2)年10月に、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を図顕・造立した?ということになると、時系列的に順序がおかしいではないか。 まあ、関係ないものを無理矢理にくっつけて、論理をこじつけようとすると、あちらこちら矛盾だらけの論理になってしまうという典型的な例といえよう。



■検証131・日蓮正宗や創価学会が唱える日蓮出世の本懐論の欺瞞25

□日蓮は「一閻浮提第一の本尊」を建立することなく入滅した2
--------------------------------------------------------
(日蓮正宗の妄説)
(「観心本尊抄」の「一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし」の文を引いて)
これは大聖人様が、唯一の本懐の御本尊として本門戒壇の大御本尊を未来にお顕しになるための予言なのです。故に未来の一言として「立つべし」と仰せられている。大聖人様は決してこの約束を反故にされていません。そこのところをよく拝さなければならないわけです。
(日蓮正宗大石寺67世法主阿部日顕・夏期講習会2000・H12・7.27講義)
--------------------------------------------------------

□日蓮の「日本は滅亡する」との予言は外れたが故に「一閻浮提第一の本尊」の建立はなかった

日蓮正宗は、日蓮の遺文(御書)「観心本尊抄」の
「此の釈に『闘諍の時』云々。今の自界叛逆・西海浸逼の二難を指すなり。此の時地涌千界出現して、本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし。月支・震旦に未だ此の本尊有さず」(観心本尊抄・御書全集p661)
の文にこじつけて、この「一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし」と日蓮が予言した本尊が「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊だと言うのだが、ここに日蓮正宗独特の欺瞞的なカラクリがある。
つまりこの阿部日顕法主の説法の中にもあるように、日蓮正宗側の妄説を見ていると、日蓮が「一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし」と言ったことは、絶対に実現されているのだ、という決めつけを以て「観心本尊抄」の文を読み、その「一閻浮提第一の本尊とは『本門戒壇の大御本尊』なのだ」という結論をもってくる。

しかも日蓮正宗は、「一閻浮提第一の本尊とは『本門戒壇の大御本尊』なのかどうか」について、歴史的な検証もしなければ、科学的な検証も一切何もしない。つまり日蓮正宗の論法は、「日蓮の予言は絶対に外れていない」という、勝手な決めつけだけの上に成り立っていると言える。
日蓮は、その「文永の役」以降の遺文(御書)の中で次のように述べている。

「いまにしもみよ。大蒙古国数万艘の兵船をうかべて日本国をせめば、上一人より下万民にいたるまで、一切の仏寺・一切の神寺をばなげすてて、各々声をつるべて南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経と唱え、掌を合はせてたすけ給へ日蓮の御房、日蓮の御房とさけび候はんずるにや。・・・・今日本国の高僧等も南無日蓮聖人と唱えんとすとも、南無計りにてやあらんずらん。ふびんふびん」(建治元年『撰時抄』日蓮54才・御書全集p866〜867)
「又、今度寄せば、先には、にるべくもあるべからず。京と鎌倉とは但壱岐・対馬の如くなるべし。前に支度していずくへもにげさせ給へ。其の時は昔日蓮を見じ聞かじと申せし人々も、掌をあはせ法華経を信ずべし。念仏者・禅宗までも南無妙法蓮華経と申すべし」(建治元年『乙御前御消息』日蓮54才・御書全集p897)
「日蓮一生が間の祈請並びに所願忽ちに成就せしむるか。将又五五百歳の仏記宛も符契の如し。所詮真言・禅宗等の謗法の諸人等を召し合はせ是非を決せしめば、日本国一同に日蓮が弟子檀那となり、我が弟子等、出家は主上・上皇の師となり、在家は左右の臣下に列ならん。将又一閻浮提皆此の法門を仰がん」(弘安元年『諸人御返事』・日蓮57才・御書全集p1211〜1212)

日蓮は、蒙古は再び日本に襲来してくるであろう。ゆえにその時こそ日本国は亡国となるが、梵天・帝釈等のはからいで、題目は一挙に日本国に広宣流布するであろうと。否、日本国亡国の前に、真言・禅宗の諸人らと公場対決して是非を決せば、日本国一同に日蓮が弟子檀那となるであろうと・・・言っている。
その日蓮の予言は、「外国が攻めてくる」ところまでは当たったが、「日本は滅亡する」という予言はハズレた。即ち、日蓮は、蒙古が日本に襲来して日本が敗北した時に上行菩薩(日蓮)が出現して「一閻浮提第一の本尊」を日本の国に建立するであろう、と予言しているが、結局、日蓮は「一閻浮提第一の本尊」を建立することなく入滅したのである。
「外国が攻めてくる」ことは攻めてきたが「日本は滅亡する」ことはなかった。したがって日蓮は、「一閻浮提第一の本尊」を建立することはなかったのである。



■検証132・日蓮正宗や創価学会が唱える日蓮出世の本懐論の欺瞞26

□「三大秘法抄」の戒壇に祀る本尊も「弘安二年の大御本尊」も存在していない

--------------------------------------------------------
(日蓮正宗の妄説)
・もし、大御本尊が偽物であるならば、「一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王・帝釈等も来下して蹋(ふみ)給うべき戒壇」(『三大秘法禀承事』)に安置すべき御本尊は、一体何処にあるのか。
・「日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す。本門寺に懸け奉るべし。」(『日興跡条々事』)という「弘安二年の大御本尊」は何処にあるのか。
(日蓮正宗信者が法華講員専用掲示板に書いた書き込み)
--------------------------------------------------------

「三大秘法抄」という名前の遺文は、疑義がある文献であり、今でも「三大秘法抄」は、後世の偽書であるとする見解をもっている人も多数いることを付け加えておくが、一応ここでは日蓮の真書と仮定して話しを進める。

日蓮は、「一閻浮提第一の本尊」を建立することなく入滅した。したがって、「一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王・帝釈等も来下して蹋給うべき戒壇」に祀る本尊というものは、明確な「本尊」としては、地球上のどこにも存在していない。そういう本尊は「ない」のである。
これは当然の帰結である。

それから「日興跡条々事」という名前の文書は、これは完全な後世の偽作文書であると断定できるものである。 したがって、日蓮から「日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊」という本尊は、最初からどこにも存在していない。

というか、大石寺にある「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊は、日蓮正宗大石寺9世法主日有が偽作したものであり、それによって「日興跡条々事」という名前の文書も、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊がさも日蓮・日興の代から存在しているかのように、アリバイ偽装工作のために偽造した文書である。
「日興跡条条事」が日興とは全く無関係の後世の偽作文書であることは、別トピックで詳しく論述しているので、そちらを参照せられたい。
「『日興跡条条事』は日興真筆ではない。後世の大石寺法主・9世日有の偽作だ」
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=37625405&comm_id=406970

「日興跡条条事」が後世の偽作である証拠は
■日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨が『富士宗学要集』8巻で「日興跡条条事」の正本と称している文書と日蓮正宗宗務院・堀米日淳教学部長(後の65世法主)や細井精道(日達)庶務部長(後の66世法主)らが中心となって新たに出版した「日蓮正宗聖典」の中で発表している文書の内容が食い違っている。
■「祖師伝」「家中抄」「冨士大石寺明細誌」「富士宗学要集」「日蓮正宗聖典」に載っている「日興跡条条事」の日付がバラバラになってる。
■「日興跡条条事」の年号を仮に元徳二年としても元徳四年としても、どちらにしても、「日興跡条条事」の書いてある内容と矛盾する
■ 「日興跡条条事」の中に 「御遷化の後、弘安八年より元徳二年に至る五十年の間」の文に「御遷化の後、弘安八年より…」とあるが、日蓮が入滅したのは1282(弘安5)年であり、1285(弘安8)年ではない。
■「日興跡条条事」の中に「弘安八年より元徳二年に至る五十年の間」 という文があるが、「弘安八年より元徳二年」の間は、50年ではなく46年である。

このように「日興跡条条事」の内容は矛盾だらけであり、とても日興の真筆とは認められないニセ文書である。



■検証133・日蓮正宗や創価学会が唱える日蓮出世の本懐論の欺瞞27

□「波木井清長誓状」の「本尊」とは大石寺の「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊のことではない

--------------------------------------------------------
(日蓮正宗の妄説)
●もし身延沢を御出で候えばとて、心変わりをも仕り候て疎(おろそ)かにも思い進らせず候、又仰せ入り候御法門を一分も違え進らせ候わば、本尊並びに御聖人の御影のにくまれを清長が身にあつく深く蒙(こうむ)るべく候(正応元年12月5日「波木梨清長誓状」/『富士宗学要集』第8巻10頁)
[通解]=若し万一あなた(日興)が身延沢を御立ち去りなされても、私(清長)は一向変心は致しません。又疎末にも御扱い申しません。これ迄仰せ遊ばした御法門の一ヶ条でも違反するような事があったら、大御本尊は勿論の事、大聖人の御影様の御憎悪を、この清長が一身に厚くも深くも蒙りましょう(『日興上人身延離山史』再版140頁)

これは西山本門寺所蔵の文書で、書誌学的にも疑問の余地のない正史料である(『日興上人身延離山史』再版140頁)。波木梨清長とは波木梨実長の長男である。文中「本尊並びに御聖人の御影」とは、久遠寺に安置されていた大御本尊と大聖人の御影様に相違ない。何故なら、清長が「本尊並びに御聖人の御影」と書いたのは、この2つが久遠寺において一所に安置されていたからであろう。とすれば、当然「本尊」とは曼荼羅本尊であるが、日興上人が身延離山に際して御影様とともに御搬出されたのは大御本尊様だとされているのである。
----------------------------------------------------------

日蓮正宗の信者は、「波木井清長誓状」の文中にある「本尊並びに御聖人の御影」の「本尊」を、勝手に、大石寺に格蔵されている「本門戒壇の大御本尊」なる名前の板本尊のことだ、と決めつけてしまっているが、これは何の根拠も証拠もないものである。
これは、日蓮正宗の信者の、ただの空想的な決めつけにすぎない。

日蓮正宗の信者は、「文中『本尊並びに御聖人の御影』とは、身延山久遠寺に安置されていた大御本尊と大聖人の御影様に相違ない」などと言っているが、これは何一つ、その根拠も証拠も示していない。
「身延山久遠寺に『本門戒壇の大御本尊』なる板本尊があった」という日蓮正宗だけの決めつけをもとに論じているだけである。
だから、さも「波木井清長誓状」が「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の文証であるかのようなことを書いているが、「波木井清長誓状」にはただ単に「本尊並びに御聖人の御影」と書いてあるだけなので、これは「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊が身延山久遠寺に存在したことを証明する文証でも何でもない。
「波木井清長誓状」の「本尊並びに御聖人の御影」の「本尊」とは、大石寺の「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊のことではないのである。






■検証134・日蓮正宗や創価学会が唱える日蓮出世の本懐論の欺瞞28

□「波木井日円状」の「聖人の御本尊」とは「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊のことではない
--------------------------------------------------------
(日蓮正宗の妄説)
●聖人の御本尊の入らせ給いて候御厨子(ずし)に仏造りて入れ進らせ候わんと申して候いしは、白蓮阿闍梨御房も聞かせ給い候いしに、尤(もっと)も能(よ)かるべしと仰せ候いしなり、聖人の御仏は始成の仏にて候と和泉殿仰せられしを、など聖人は秘蔵し進らせて我より後には墓の上に置けとは仰せ候いけるぞと問答申して候えば、宣(の)べやらせ給い候わで御立ち候いき。(正応2年2月12日「波木梨入道日円より大隈殿への状」/『富士宗学要集』第8巻13頁〜)

これは、日興上人が身延を離山された直後の文書である。「聖人の御本尊の入らせ給いて候御厨子(ずし)に仏造りて入れ進らせ」とあるように、大聖人直筆の曼荼羅が安置されていた御厨子に、御本尊がなかったことが分る。それは何故か、日興上人が離山に際し御搬出されたからに他ならない。では、その御本尊とは何か。史料を見る限り、久遠寺に安置されていた大聖人直筆本尊は"弘安2年の本門戒壇の大御本尊"以外あり得ないのである。尚、文中、日興上人があたかも、仏像の安置を容認されたかのごとき内容が書かれているが、日興上人の他の文書から考えてあり得ないことである。これは、波木井実長が仏像安置を正当化するために話を捏造したか、あるいは日興上人の仰せを曲解したかのいずれかであろう。
-----------------------

この日蓮正宗の信者が言っていることも、同じことである。

「波木井入道日円より大隈殿への状」の「聖人の御本尊の入らせ給いて候御厨子(ずし)に仏造りて入れ進らせ」の文を、身延山久遠寺にかつて「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊が存在したという、勝手な決めつけを前提に論じているだけのことである。
そして、何の根拠も証拠も示さずに、勝手に「久遠寺に安置されていた大聖人直筆本尊は"弘安2年の本門戒壇の大御本尊"以外あり得ない」などと結論づけているだけのこと。
というか、「聖人の御本尊の入らせ給いて候御厨子」の「聖人の御本尊」が、日蓮正宗が言うように「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊のことであるとする証拠もなければ、根拠も何一つないのである。

「聖人の御本尊の入らせ給いて候御厨子」の「聖人の御本尊」を仮に、日蓮が日興に授与した本尊だとすれば、現在、保田妙本寺に格蔵されている「万年救護の本尊」があるし、京都要法寺に格蔵されている「称徳符法の本尊」もある。
又、日蓮が日興に授与した本尊以外の本尊で、「聖人の御本尊の入らせ給いて候御厨子」の「聖人の御本尊」の可能性の高い本尊としては、日蓮入滅の折りに枕頭に掲げられていた「臨滅度時の本尊」ということも充分に有り得ることだ。
「日蓮の漫荼羅本尊を日蓮に見立てる」という意味ならば、丈が161センチの、ほぼ等身大になっている「臨滅度時の本尊」のほうが、むしろ可能性が高いのではないか。

したがって、「聖人の御本尊の入らせ給いて候御厨子」の「聖人の御本尊」とは、もちろん大石寺の「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊のことなどではない。この二つは、全く関係ないものである。




■検証135・日蓮正宗や創価学会が唱える日蓮出世の本懐論の欺瞞29

□「万年救護本尊」など日蓮が日興に授与した本尊は他に存在している

--------------------------------------------------------
(日蓮正宗大石寺65世法主堀米日淳の妄説)
反問するに日興上人が身延山にましまして何を御本尊と遊ばされてをつたか。(中略)上人の御本尊が大曼荼羅にあらせられたことは否定し得ないところであらう。日円返条に「聖人の御本尊の入せ給ひて候御厨子(ずし)に仏造つて入れ進候はんと申して候しは云々」といふを見れば此れは誰れもが認めるところであらう。
然らばその御本尊を御離山に際し奉持遊ばされたとするに何んの不可があるであらうか。日興上人へ給はる御本尊を日興上人が御供申し上げるは理の当然である(日興上人へ給はるといふも此は大導師としての上人へ給はつたのである)。若しこの事実を認めるならば御板なると紙幅なるとは問題ではないが、御板でないといふならばその証拠を示すべきである。若しその証拠がなければ大石寺の伝ふる通りに信従してはどうか。
(日蓮正宗大石寺65世法主堀米日淳『日淳上人全集』p1320〜)
----------------------------------------------------------

日蓮正宗大石寺65世法主堀米日淳は、「聖人の御本尊」を何の根拠もなく、今の大石寺に格蔵されている「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊のことだと決めてかかっているが、日蓮が日興に授与した本尊は他に存在している。

日蓮正宗大石寺48世法主日量は、著書「富士大石寺明細誌」の中で
「(文永11年)十一月、蓮祖大漫荼羅を書して師(日興)に授与す。万年救護の本尊と号す。後、目師(日目)に相伝す。今房州妙本寺に在り」
(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂「富士宗学要集」5巻P319)
と、書いており、日蓮は日興に「万年救護の本尊」を授与したと言っている。
これについては、日蓮正宗富士学林が発行した「日蓮正宗富士年表」でも
「1279年 弘安2年 ○日興に文永11年12月の本尊(万年救護本尊)を賜る」(P45)
と書いており、日蓮が日興に「万年救護本尊」を授与したことは認めているではないか。
したがって、「万年救護本尊」も日蓮が日興に授与した本尊のひとつとして数えられるべきである。

また日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨は、富士門流八本山のひとつである日蓮本宗本山・京都・要法寺に格蔵されている「称徳符法の本尊」を「日蓮真筆」と鑑定している。
その「称徳符法本尊」の脇書きには
「文永九年太歳壬申正月元日 問答第一、行戒智徳筆跡符法の沙門日興に之を授与す」
(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂「富士宗学要集」8巻P207)
と書いてあることからして、堀日亨の鑑定のとおりであるならば、この本尊は日蓮が日興に授与した本尊と言える。
ただしこの「称徳符法本尊」については、日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨は「日蓮真筆」と鑑定しているが、私の研究調査では、「日蓮真筆」とするには数々の疑義があり、「真偽未決」としていることも付け加えておく。

したがって、「波木井入道日円状」の中にある「聖人の御本尊の入らせ給いて候御厨子」の「聖人の御本尊」とは、これら明確に日蓮が日興に授与した本尊のいずれかであることは明らか。
「聖人の御本尊の入らせ給いて候御厨子」の「聖人の御本尊」とは、むしろ「万年救護本尊」だった可能性のほうが高いのではないか。

少なくとも、日蓮の真造・真筆ではない「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を意味するものではないことは明白である。




ログインすると、残り86件のコメントが見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

アンチ日蓮正宗(日蓮正宗系) 更新情報

アンチ日蓮正宗(日蓮正宗系)のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング