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アンチ日蓮正宗(日蓮正宗系)コミュの日蓮正宗の概略

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日蓮正宗(にちれんしょうしゅう)は、日蓮を宗祖とし、日興を派祖とする仏教の宗派のひとつ。日蓮系の諸宗派のなかでは、日蓮本仏論、勝劣派などを教義とする富士門流(日興門流)に属し、「興門八本山」のうち、大石寺(総本山)、下条妙蓮寺(本山)の二本山が所属する、富士門流中の有力宗派である。

<概要>
日蓮の入滅後、六弟子の一人であった日興が総本山大石寺(たいせきじ)を建てて「御開山」すなわち事実上の開祖となり、その教義的方向性を決定づけたが、日興は七ヵ年、大石寺に留まると、のち、石川氏の招きにより大石寺を退出。
晩年は重須談所(現在の日蓮宗北山本門寺根源・重須本門寺)に移住し、日目に大石寺法主の座を譲ったのち、晩年は師弟の教育・指導にあたり、ここで没した。

日蓮正宗と正式に名乗るのは明治最初の頃で、それまでは日蓮宗勝劣派の一宗派(大石寺派)、一時は富士門流各山と連合し日蓮宗興門派・日蓮本門宗という富士門流八本山による連合宗派も作っていた。日蓮本門宗時代は管長は八本山からの輪番制となったが、大石寺本末・中末が政府に独立が公許されこれから独立し、1900年(明治33年)に日蓮宗富士派と公称し、1912年(明治45年)に日蓮正宗と改称し現在に至るが、法華経正宗分の意味合いからであろうか少なくとも江戸時代中期には自宗派を正宗と呼ぶことがあったことが、金沢郷土史の文献(「正宗の題目」とある)から分かる。

<教義>
1279年(弘安二年)の10月12日の宗祖日蓮所顕と日蓮正宗が自称している本門戒壇之大御本尊(総本山大石寺奉安堂に安置)を帰命依止の本尊と定め、日蓮の出世の本懐であり、日蓮所顕の大漫荼羅の中でも究境中の究竟、本懐中の本懐の大漫荼羅本尊として位置づけている。

この他に宗派独自の主張として目立つものは、

1.宗祖は、外用としては法華経に予証された末法の世を救う上行菩薩であり、その内証は久遠元初の自受用報身(すなわち御本仏)である。なお、宗祖を日蓮大聖人と称している。大聖人の称号を用いているのは富士門流だけだとの誤解があるが、日蓮宗(一致派、等)でも用いられている。
2.宗祖は、1253年(建長五年)の3月28日に立宗を内示され、4月28日に立宗を宣した。
3.日興は、1282年(弘安五年)の二箇相承にもとづき、宗祖から「唯授一人の血脈相承(ゆいじゅいちにんのけちみゃくそうじょう)」を受けたとされている。以後、第三祖日目、第4世日道、第5世日行と順次に伝えて現法主第68世日如に至っている。
等々の教義があげられる。

現在、所依の経典としては、法華三部経・宗祖遺文(『日蓮大聖人御書』)・第二祖日興遺文・第9世日有遺文・第26世日寛遺文を正依としているが、天台宗系統の摩詞止観十巻および弘決・法華玄義十巻および釈籤・法華文句十巻および疏記をも傍依としては認めている。
仏教の基礎である三宝は、宗祖日蓮を久遠元初の仏宝とし、南無妙法蓮華経の大漫荼羅本尊を法宝とし、「血脈付法の人」である第二祖日興を随一として歴代の法主を僧宝であるとしている。宗祖日蓮こそが「本因妙の教主釈尊」であって、インドの釈迦(釈尊)は、法華経を説いて当時の衆生を救済するかたわら、末法における本仏(=宗祖)の出現を予証するために現れた仮の姿の「釈尊」(=迹仏)とされてされており、多宝塔や釈迦・多宝如来、等の仏像の制作・崇拝は現在では一切禁止されている。

従来「法華経では、女人は成仏できない五障の身である」と宗派として公式に主張していたが、昭和20年の敗戦後GHQによる封建的風潮除去の動きに従い、「女人成仏を説いたのは法華経のみ」と解釈を180度転換した。(実際には女人成仏を説いたのは勝鬘経)
ただし、この方針転換は「泣く子も黙る進駐軍」の威光を前に宗派の未来への存続を賭けて止むを得ず行われたもので、戦時中国家神道の圧力で神札を祭ったのと同じく、決して日和見主義やあさましさに由来するものではないとする見方も存在する。

また日蓮遺文には

殊更(ことさら)女人成仏の事は此の経より外は更にゆるされず(女人成仏抄)

法華経には女人成仏之(これ)有り。(星名五郎太郎殿御返事)

但法華経計(ばか)りこそ女人成仏、悲母の恩を報ずる実の報恩経にては候へ(千日尼御前御返事)

とあるように、宗祖日蓮の思想の中に既に「女人成仏」の思想がたくさんあるのであるから、この批判は事実相違であるとも思われる。

<歴史>
日興は、宗祖の本弟子六老僧の一人として積極的な折伏に目覚しい成果をあげ、特に駿河において強力な教団組織を創りあげた。この急速な布教展開は他宗派関係者や鎌倉幕府内権力者の警戒心を招き、1279年(弘安二年)には熱原郷付近の僧俗が徹底的な弾圧を受け、最終的に3名の農民信徒が殉教を遂げるという事件も起きている(熱原法難)。

宗祖日蓮滅後廟所の六弟子による輪番制が敷かれたが戦乱や疫病、遠方の布教活動を理由に日興以外の五弟子が輪番制を放棄。本弟子六老僧の一人の日向の示唆によって地頭波木井坊六郎実長が謗法行為をして、身延山久遠寺別当職の日興はやむなく身延離山したと、日蓮正宗や日蓮本宗などの日興門流では言っている。

日興は 1289年(正応2年)に多宝富士山下之坊を開山し、多宝富士山下之坊は現在では富士門流・日興門流発祥の聖地とされている。
翌1290年(正応3年)、日興は南条時光の寄進によって富士山の麓に大石寺を開いた。
その後長きにわたって、通称として富士門流または日興門流と呼ばれた「日興の日蓮宗」の流れを汲む諸派は、勝劣派・一致派48本山が戦前の宗教政策により連合した日蓮宗とは教義的にも宗教行為の交流はないが、学術面での交流を持っており、日蓮宗僧侶が大石寺に訪れることがある。

とりわけ日蓮正宗では現在でも、日蓮の正しい教えが日興-日目-日道と続く法脈以外には伝わらなかったとして、日朗系などの全ての他門流、さらには他の富士門流諸派(後世になって日蓮宗と妥協的な態度を取るようになり、大石寺に従わなくなった)までも、すべて謗法としている。

江戸時代、大石寺は江戸城では独礼席を許され、また第25世の日宥は後水尾天皇の皇孫であり第6代将軍徳川家宣正室の天英院の猶子(養子)に迎えられている他、皇室や公家・将軍家や大名家などの崇敬を得たが、他の宗派と同様に布教活動は江戸幕府の厳しい統制を受け続け、加賀藩・仙台藩・伊那・尾張藩・八戸藩などの各地では法難が続発した。尚、金沢法難は身延山久遠寺を総本山とする一致派日蓮宗の石川県羽咋市・金栄山妙成寺(後に本山)が、加賀藩に虚偽の答申をしたために日蓮正宗が被った法難で、後に一致派日蓮宗妙成寺は虚偽答申の犯罪行為が露見し閉門蟄居の刑を受けている。

このように日蓮正宗が被った法難の殆どは身延山久遠寺を本山とする一致派日蓮宗の讒言によって被るに至った例が多い。なお、この金沢法難については郷土史家の向敏子の著による『金沢法難を尋ねて』に詳しく書かれている。

1868年の明治維新によって、大石寺教団と国家権力との間には新たな緊張関係が生まれた。すなわち、神道の国教化を宗教政策の根幹とした明治政府は、仏教各派に対しては、行政制度上の統合整理強制によって分割支配をはかる方針を採った。
この背景として、日蓮宗管長・新井日薩らによる「全日蓮門下の統合」を目指す画策もあった。大石寺第54世法主・日胤は、1873年に教部省へ「大石寺一本寺独立願」を提出し、以降も数度にわたって諌暁を繰り返したが遂に容れられず、結果的に1876年より、富士門流の系列に属する大石寺・妙蓮寺・北山本門寺・京都要法寺・小泉久遠寺・保田妙本寺・西山本門寺・伊豆実成寺の八本山は行政上、日蓮宗興門派(後に日蓮本門宗と改称)として分類され、行政上の宗派代表としての「興門派管長(本門宗管長)」の職は、八本山が交代で務めるという形を余儀なくされた。
1881年-1882年にかけては大石寺第55世法主日布は1881年-1882年が第4代の、1891年-1892年にかけては大石寺第56世法主日応が第5代の管長に就任している。

大石寺派僧俗にとってみれば、大石寺の住職は依然変わりなく法主(ほっす)の地位ではあるが、管長の地位は謗法の人間が占めている場合もある、などという、信仰上極めて耐え難い異常事態が続き、教団の存立そのものも危ぶまれる事態となった。
しかしその後、第55世日布・第56世日応と、数度にわたり政府への抗議活動と他の七本山に対する破折活動が続けられた結果、ようやく1900年、大石寺門流は、本門宗からの分離独立が認可されて日蓮宗富士派と公称するようになった。
そして1912年6月7日、大石寺第57世法主日正の決定により、現在の「日蓮正宗」へと宗派名の変更が行われた。

1930年(昭和5年)に、牧口常三郎、戸田城聖らにより、日蓮正宗の教義と牧口の「価値論」を合体させた教義を奉ずる教育団体として創価教育学会が設立され、初代会長には牧口が就任したが、当初は日蓮正宗では創価学会を信徒団体として認めなかった。牧口は後年、特高調書に「創価教育学会は純然たる日蓮正宗ではなく、自分の価値論を実践する一個の独立した団体」と供述している。

1937年(昭和12年)に、日蓮正宗住職・堀米泰栄(のちの65世法主日淳)の臨席のもと、牧口常三郎、戸田城聖らにより創価教育学会の設立・発会式が行われ、実質的に日蓮正宗の信徒団体となった。
が、創価学会員は設立当初から、1991年の破門、1995年の信徒資格喪失まで、全員がどこかの日蓮正宗寺院に所属する日蓮正宗信者であった。

太平洋戦争中、治安維持法違反と不敬罪で牧口常三郎と戸田城聖は逮捕されて入獄。牧口常三郎は獄中で死亡した。

創価学会の戸田城聖の会長就任式は1951(昭和26)年5月3日、当時、創価学会擁護派僧侶の堀米日淳が住職を務めていた日蓮正宗寺院常泉寺で行われた。

太平洋戦争終結後、創価学会2代会長に就任した戸田城聖は、創価教育学会を創価学会と改称し、バラバラだった信者を再結集。宗内の創価学会擁護派僧侶で堀米日淳の法弟・細井精道(のちの66世法主日達)が牛耳っていた日蓮正宗宗務院の公認のもと、戸田城聖は1952年、東京都から宗教法人としての認証を取り、創価学会を日蓮正宗の信者団体として再建した。

そして戸田城聖は聖教新聞を創刊するなど組織の整備拡大を行い、以後、戸田城聖が指揮した折伏大進撃(強引な折伏・勧誘)によって急激に信者数が増え、日蓮正宗最大の信者団体となり、それにともなって日蓮正宗も格段に発展した。
戸田城聖の死去直前には80万世帯にまで達していた。

とりわけ1960年(昭和35年)の3代会長池田大作の会長就任以降、全盛時代には800万世帯にまで勢力が伸長。
日蓮正宗の信者数の激増にともなって、池田大作は王仏冥合を掲げて創価学会と政教一致の公明党を結成して、国会や都道府県・市町村議会へ進出。一般世間への影響力を強めた。

日蓮正宗総本山大石寺には、従来の法華講(旧来の檀家と創価学会など他団体から移籍した信者を糾合した信者団体)と創価学会員の寄進により1955年に奉安殿、1958年に大講堂、1964年に大客殿、1972年に正本堂などが建立されるなど、長らく日蓮正宗・創価学会の間は、親子・兄弟のように親密な蜜月状態が続いた。
中でも1965年に355億円を募金して1972年に落慶した大伽藍・正本堂は世間の耳目を日蓮正宗・創価学会に大きく注目させる契機になった。

しかし創価学会の強引な折伏や過激な罰論、批判者・反対者を言論弾圧したり、謀略や裏工作を行う体質は反発も大きく、一般世間・マスコミからの批判も多かった。

日蓮正宗内部では、次第に日蓮正宗総本山大石寺と創価学会の対立が相次いぐようになり、1970年代後期の昭和52年路線問題を経て、1991年11月28日に日蓮正宗は創価学会を破門にし、翌1992年には池田大作を信徒除名にした。

その後、日蓮正宗は再び大石寺登山信徒を回復させようと折伏・勢力拡大に力をいれている。さらに、破門にした池田大作が願主になり主に創価学会の供養と寄進で建立された大客殿と正本堂を取り壊し、法華講から多額の資金を募金して新たに1998年に客殿を、2002年に奉安堂を大石寺に建立した。

顕正会の前身、妙信講は日蓮正宗妙縁寺を所属寺院として結成したが、やがて創価学会が中心となって寄進・建立した正本堂の教義上の位置づけをめぐって日蓮正宗や創価学会と激しく対立するようになり、1974年8月12日に日蓮正宗から講中解散処分を受けた。
同年10月4日には、創価学会本部を標的としたテロ事件(街宣車を突入させて破壊し乱入)を決行したため、11月4日、浅井甚兵衛講頭、浅井昭衛理事長(いずれも当時)らの妙信講幹部は、日蓮正宗を信徒除名されている。

1975年、日蓮正宗妙信講は第2代講頭に浅井昭衛が就任。その後、日蓮正宗顕正会と改称。現在は富士大石寺顕正会と名乗り、国立戒壇建立を目標に、全国的に強引な折伏活動を展開している。



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<日蓮正宗総本山法主の地位と権限>
唯授一人の血脈相承を受けた法主(ほっす)が、日蓮正宗の宗門における僧侶の最高位であり、僧侶の階級は大僧正(だいそうじょう)である。近年の宗規では、法主のみが管長推戴会議の選定を経て宗務行政の長である管長の職に必ず就くことになっている。また法主は総本山大石寺の貫首(住職)をも兼ねている。現在の法主は、第68世早瀬日如である。

次期法主候補者があらかじめ公表されている場合、次期法主候補者は学頭に任じられる。学頭の僧侶としての階級は権大僧正(ごんだいそうじょう)となる。ただし公表されない場合は、学頭は空席のままである。法主の下には若干名の能化(のうけ)が、法主に次ぐ高僧衆として存在し、現在は前法主の日顕を除く10名の僧侶が能化の位にある。

法主の尊称として「御法主日○上人猊下」「日○上人」が用いられる。生前に退座して隠居した前法主は御隠尊猊下または御隠尊上人と敬称される。 なお「上人猊下」という尊称については二重敬語・二重敬称で日本語としては甚だ不自然なため「〜先生」を「〜先生様(ソンセンニム、선생님、seonsaengnim)」と表現する朝鮮文化の影響が一部で指摘されている。
これは「会長」を「会長先生」と呼称する「実践倫理宏正会(朝起き会)」とも発想としては共通しており両者の思想の類似性を示しているともいわれるが、いずれも敗戦直後の特権的な「三国人」たる朝鮮人の横暴と重ねることで宗派としてのイメージダウンを図る反対勢力の妄言とする見方も存在する。

なお、上人の称号は、法主の許可により、能化をはじめ、法主経験者以外の者にも贈与または追贈されることがある。また、日の字がつく法名を日号(にちごう)と言い、僧侶には存命中に与えられる。ただし能化(権僧正)以上の高僧しか存命中に公称することは許されない。ただし死後は、やはり法主の許可により、一般僧侶も、また在家信徒にも戒名中に日号がつけられる場合がある。上人号・日号等の授与権は、本尊書写権や教義裁定権と並んで「法主のみの権能」とされている。こういった重要権限の「ブラックボックス」化は総本山の指揮統制を離れる「単立本山」の成立を許さない姿勢の表れであり、地元の住職が独自に文字曼荼羅本尊を書写し親しい信徒に下賜することもある身延系の日蓮宗とは好対照をなす。

(フリー百科事典「ウィキペディア」より)
<日蓮正宗の宗務行政>
宗務院の事務を総理する長として、管長の職を置く。管長は法主・大石寺住職が兼任する。
宗務院は、総本山大石寺境内に置かれている。 管長を補佐する宗務総監の指揮監督の下、庶務部・教学部・海外部・渉外部・財務部の五部門によって宗務行政が分担される近代的事務機構が構築されている。
なお、管長・総監に次ぐ役職として重役も設けられており、顧問的役割を持つ。
各部には部長、副部長(現在、海外部と財務部は空席)、主任が置かれており、特に庶務部長は実質的に総監を補佐する立場にある。
この他に、僧侶の中から選挙によって議員が選ばれる宗会、綱紀粛正機関である監正会、管長が任命した権大僧都以上の者5名による参議会などの合議システムも導入されている。
宗務院は全国に大布教区と大布教区に統轄される布教区を敷いている。
総本山塔中には特別布教区を敷いている。特別布教区の事務は、大石寺内事部において取り扱われている。内事部では法主のもと塔中坊の住職の中から主任理事が1名、執事が1名ないし2名、理事が若干名任命され総本山の寺務の責任者となる。法的に、大石寺の代表役員は法主が務め、主任理事、理事、総代が責任役員となる。
また、主任理事、執事は法主の大石寺住職としての法務を補佐する立場にあり、法主不在の場合代理で法要の導師を務めるなどする。

(フリー百科事典「ウィキペディア」より)
<日蓮正宗の出家制度>
日蓮正宗寺院の住職・主管、副住職・副主管は明治維新以降の伝統仏教でよく見られるような世襲制、家族経営ではなく、日蓮正宗管長(法主)の辞令により総本山から派遣される極めて中央集権的なシステムとなっている。
そのため、短期間で住職が交代したり、2つの寺院の間で住職が入れ替わるということもある。
副住職・副主管に関しては、宗規で、住職・主管が教師の中から選び、法主の承認を得て着任する決まりとなっている。

僧侶となる場合、かつては宗内の僧侶が弟子をとることもあったが、現在は得度審査に合格して法主の弟子となる。大半の僧侶は少年得度で12歳、小学校卒業と同時に出家する。それ以外の一般得度者も随時募集される。出家得度し総本山大石寺で修業した後、地方寺院(主に本山格寺院や大都市周辺の寺院)で在勤し、総本山で1年在勤したのち教師に補任され、管長の辞令があれば地方寺院の住職(副住職の場合もあり)として派遣される。一部の僧侶は得度以来総本山で一生を過ごす者もいる。法衣は全階級とも白五条袈裟に薄墨色の衣(僧階が上がると模様が入るなどの違いはある)であるが、袈裟・衣は管長の免許がなければ着用することはできないことになっている。

概ね創宗蜜月時代といわれていた昭和40年代辺りの得度の世代だと、創価学会からの多大な寄進で新寺院が急増し僧侶の「粗製濫造」が進んだことが一部で指摘されているが、他の伝統仏教に比べ在家出身の修行僧が多いため、現在では僧侶としての厳格な素養教育には定評がある。

(フリー百科事典「ウィキペディア」より)
<日蓮正宗僧侶の階級(僧階)>
日蓮正宗では僧侶の階級(僧階)は次のようになっている。

●教師
大僧正(法主及び法主経験者)
権大僧正(学頭・次期法主内定者)
僧正
権僧正
  (これより上が能化となる)
大僧都
権大僧都
僧都
権僧都
大講師
講師
少講師
訓導
権訓導

●非教師
一等学衆
二等学衆
三等学衆
沙弥

それぞれの階位の授与等は内部規定による。

(フリー百科事典「ウィキペディア」より)
<日蓮正宗中枢の役僧>
管長(法主) 早瀬日如(総本山大石寺住職)大僧正
前管長(法主) 阿部日顕(前・総本山大石寺住職)大僧正
宗務総監 八木日照(東京・法道院主管、法華講本部指導教師、前・大石寺主任理事)権僧正
重役 藤本日潤(東京・常泉寺住職、元・総監)僧正
宗会議長 細井珪道(東京・常在寺住職)
教学部長 水島公正(所沢・能安寺住職、法華講本部指導教師)
庶務部長 阿部信彰(東京・妙国寺住職、法華講本部指導教師)
海外部長 漆畑行雄(富士宮・本山妙蓮寺住職)
財務部長 長倉教明(札幌・日正寺住職)
渉外部長 秋元広学(東京・宣徳寺住職)
副教学部長 宮野審道(埼玉・啓信寺住職、(株)大日蓮出版代表者)
副庶務部長 斎藤栄順
副渉外部長 梅屋誠岳

(フリー百科事典「ウィキペディア」より)
<宗教法人大石寺役員>
住職(法主) 早瀬日如
主任理事兼執事 佐藤慈暢(百貫坊住職)
理事兼執事 小川只道(理境坊住職)
執事 関快道(久成坊住職)
理事 駒井専道(観行坊住職)
同 山崎慈昭(総一坊住職)
同 田爪鏡道(蓮成坊住職)
総代 井出光彦(百貫坊信徒)
同 渡辺定元(了性坊信徒)

(フリー百科事典「ウィキペディア」より)
<日蓮正宗の信徒団体/法華講>

●法華講

法華講は日蓮正宗唯一の信徒団体である。各末寺に檀家グループの○○講(講中)が存在し、この○○講の総称を法華講という。法華講は日常の唱題行や総本山への団参登山を行うものとして、宗史上古来より存在していたが、1962年にこれらの○○講の連合体として日蓮正宗法華講全国連合会(略称全連)が結成されて加盟するようになった。この全連は1967年に日蓮正宗法華講連合会(略称連合会)に改称され、現在に至っている。
日蓮正宗の信徒団体を作るには、末寺の住職が信徒団体の指導教師となって信徒団体を作ろうとする代表者と連名で組織結成許可願を宗務院に提出し、宗務院での審議を得て日蓮正宗の管長である法主が組織結成許可書に署名押印して組織結成許可書が交付されて指導教師から○○講に手渡される。これは明治時代からのシステムであるが、第2祖日興の「この法門は師弟子をたゞして仏になる法門にて候なり」(佐渡国法華講衆御返事)の伝統と慣習を踏襲したものであり、組織結成許可書に類する江戸期の古文書も残っている。こうして結成された○○講は、日蓮正宗法華講全国連合会に加盟申請書を提出し、総本山内の日蓮正宗法華講全国連合会事務所(通称法華講事務所)で加盟手続きが行われる。
よって組織結成許可願と指導教師のない団体は日蓮正宗の正規の信徒団体とは言えないことになっている。

●法華講の役員

各末寺の法華講の役員には講中の代表者の講頭、副講頭、幹事、会計がいるが、法華講の役員はすべて組世話役と定義され、講員に対して指導することは法主や指導教師に対する越権行為とみなされるのでしないことになっている。
日蓮正宗法華講連合会には事務機構上、委員長、副委員長、理事、地方部長などの役職があるが、これも組世話役と定義され、連合会に加盟する各法華講に対して指導・監督することはない。
また名誉職として総講頭、大講頭の称号があるが、信徒を指導することはない。
なお法華講では、日蓮正宗法華講連合会発行の大白法(だいびゃくほう)が唯一の機関紙となっている。定価は100円である。

●海外の法華講

海外では50か国弱で法華講が存在し、寺院や布教所などが建立されている。特にインドネシアでは60万人(インドネシア政府による公称)の信徒がいるとされ、また台湾では5か寺が建立され信徒は増加傾向にある。

(フリー百科事典「ウィキペディア」より)
<日蓮正宗の機関誌(教誌)>

●大日蓮

日蓮正宗唯一の機関紙誌(教誌)は大日蓮(だいにちれん)である。時局に応じて号外も発行されている。宗務院録事、総本山録事、宗務広報、法主の説法、布教講演及び論文、総本山の動き、末寺の動き、海外の動き、住職普山の挨拶などが載せられていて、定価は300円である。宗務院録事には、総本山での法要などの達示、住職などの辞令、講中組織結成許可、檀徒団体の法華講の役員の承認、末寺の檀家総代の承認などが掲載されている。総本山録事には、総本山における人事が載せられている。総本山の動きには総本山で奉修された法要など、末寺の動きには末寺で奉修された法要などが掲載されている。1916年創刊。 この他、各末寺で寺報が発行されており、大日蓮と末寺の寺報のみが機関誌紙とされている。

(フリー百科事典「ウィキペディア」より)
<日蓮正宗信徒の活動>
信徒の修行としては、本尊に向かって「南無妙法蓮華経」の題目を唱え、法華経を読誦すること(自行の題目)と並び、それを他の人に伝える折伏の修行(化他の題目)が基本となる。自行としての日常の勤行は、妙法蓮華経方便品・如来寿量品(長行、自我偈)の読誦、唱題(「南無妙法蓮華経」の題目を唱えること)を基本構成とし、古来からの朝五座・夕三座の格式を守って行われている。

末寺や総本山への「登山参詣」(総本山大石寺に参詣すること)なども修行の一環として、成仏への功徳を積むことができる行為と考えられている。

日蓮正宗の檀信徒名簿へ登録を受けるためには、末寺において授戒を受け、さらに大曼荼羅本尊を下付されなければならない。授戒のみ受けて本尊未下付の者は内得信仰と呼ばれ公式の信徒数には数えない。いずれにせよ、日蓮正宗の信仰をする者は必ず存命中に授戒を受けていることとなる。

(フリー百科事典「ウィキペディア」より)
<日蓮正宗に対する教学上の批判>
日蓮宗の諸派は伝統的に、「本門戒壇の大御本尊=偽作」説と「二箇相承=偽書」説、さらに「三大秘宝抄=偽書説」等でこの宗派を批判してきた。しかし、本門戒壇の大御本尊は秘仏のため放射線を使用した製作年代の科学的な鑑定は一度も行われておらず、二箇相承および三大秘宝抄の原本も現在存在しないため、700年にわたる論争に未だ決着はついていないとされる。

本門戒壇の大御本尊については鎌倉時代の工具の痕跡があるが、日蓮が生きていた時代の日蓮宗の財力では製作不能と言った状況証拠や花押が日蓮の物と違う、禅師授与漫荼羅との酷似等の理由で、後世の偽作では無いかと言われている。
『 日蓮正宗大石寺の「本門戒壇の大御本尊」は日蓮真筆ではない。後世の偽作だ』
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=5482743&comm_id=406970

三大秘宝抄については日蓮宗僧侶の伊藤瑞叡らの研究グループによってコンピュータ解析がなされて、真跡だと確定しつつ有る。

二箇相承や日興跡条条事については日蓮正宗の流れを汲む僧侶の中では真書説が取られているが、他の日蓮宗の僧侶や宗教学者らの間では後世の偽書説が有力。
『「二箇相承書」は日蓮が書いた遺文(御書)ではない。後世の偽作だ』
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=6472591&comm_id=406970

一方、正信会、創価学会との対立のなかから、法主個人への絶対帰依や権力の集中を指摘する主張が生まれてきた。しかし日蓮正宗側ではこうした主張は成り立たない主張している。根拠としては、日興遺戒置文などにおいて法主と他の僧侶の関係が示されることで法主として判断の客観性が担保されていることなどがある。この背景には、日本仏教における伝統宗派の多くは、1970年代以降「下からの近代化」を目指す動きの中で試行錯誤しながら教団体質の民主化を進めてきたのと対照的に、日蓮正宗は管長一人に権力をより集中させており、中央集権制を進めているという指摘もある。

独特の罰論、死相観に対しては以前より賛否両論あり、折伏の際の入信しないと自然災害に遭う、伝染病になる。入信しないで死んだ人は死後死体が真っ黒になり重くなるといった勧誘や、自派に関わる科学的、歴史的矛盾による批判は受け入れないが他宗派を激しく攻撃する際には武器として扱う等、言動は明らかに伝統宗教と一線を画し、カルト宗教的とも言われる。

(フリー百科事典「ウィキペディア」より)
<現在の日蓮正宗と他教団との紛争>
過去においては他宗教は全て謗法・邪宗であると定義し、これらに対する折伏を行ってきている。その意味であらゆる宗教と対立関係にあると言える。ただし、折伏はあくまで常識と礼儀をもって行われるべきものと宗祖日蓮自身が規定しており、あくまで教義的な対立に限られる。このため、現状で「紛争」と言えるような対立関係(教義以外についての対立関係)があるのは創価学会くらいしかない。

顕正会(旧妙信講)とは、1977(昭和52)年、裁判上の紛争について「和解」が成立している。
正信会系日蓮正宗寺院との裁判上の紛争は、管長裁判については、裁判所不介入・双方棄却の最高裁判所判決が出ている。
個々の寺院関係の裁判は、日蓮正宗側に有利な判決ないしは双方棄却の判決が出ているものの、擯斥住職・擯斥僧侶がそのまま寺院に居すわり続けるという状態が続いている。
しかしこれも、擯斥住職の死亡や日蓮正宗大石寺への寝返りによって、日蓮正宗大石寺側に返還されるという流れになっている。

創価学会は、1990年(平成2年。正式な破門は翌1991年)に日蓮正宗に破門されて以来、日蓮正宗への攻撃に多くの時間と労力を費やしており、「仏敵を責めること」が重要であるという立場から、聖教新聞などの機関誌では連日のように日蓮正宗への誹謗中傷や人権侵害を繰り返しており、特に前法主日顕を含む高僧に対しては、とりわけ激しい中傷が繰り返されている。また、日蓮正宗を人的・経済的に消耗させる目的で、敗訴を前提に大量の訴訟を行うという活動も行われている。これは末端の組織でも徹底しており、前法主である日顕の死亡を祈念する唱題会が行われたケースもある。このため末端の創価学会員には、日蓮正宗の檀徒に対して暴力による攻撃に走る者も多くいる。日蓮正宗寺院の多くは創価学会員による法要の妨害を経験しており、横須賀法照寺では創価学会員が二度にわたって放火で現行犯逮捕されるなど、刑事事件も頻発した。ただし、こうした暴力攻撃も現在では比較的収まってきているが、寺院への盗撮や参詣者への尾行は執拗に続けられているという主張もある。

(フリー百科事典「ウィキペディア」より)
<日蓮正宗に対する外国政府による評価>
●台湾では、67世法主阿部日顕が外省人主体のマスコミにより新聞、TVなど各種媒体で「花和尚」(好色僧)と紹介された。ただしこのマスコミは創価学会についても痛烈な批判記事が掲載されていることでも知られている。
●マレーシアでは仏教団体でこの宗派のみが僧侶の常駐を許可されている。
●フランスでは、1980年代に「日蓮正宗(創価学会)」の名称でセクトとする報告が国民議会へ提出されたこともあるが、1996年の新しい報告書において該当部分はSGIフランスと書き改められており、日蓮正宗と創価学会を分離した上で判断を下しているが、一部の民間団体では創価学会と同様のセクトと主張する団体も存在する。
●アルゼンチンではマザー・テレサ への日蓮正宗のみが正しい宗教で他の宗教は邪教とする基準での評価が誹謗中傷と判断された事と、政府の許可を得ずに布教所の開所式を行った事によって、現地の法人格を抹消されて僧侶も国外退去処分を受けたと創価学会機関紙「創価新報」では報じられているが、現在は布教所は儀式を奉修して、寺院活動は継続されている。この背景にあるものはアルゼンチン創価学会の工作により誤解の生じたもので、大統領令によって1年に亘って公式に活動はできなかったが、「法人取り消し及び活動禁止処分の停止の仮処分」が現地裁判所で認められた。
●ヨーロッパでは伝統が重んじられ、仏教は三宝(仏・法・僧)を帰依するものと捉えられ、日蓮正宗は一般的な仏教という評価である。逆に、創価学会や日系宗教団体は、「俗物的」と捉えられ、異端視される感がある。

(フリー百科事典「ウィキペディア」より)
<行事>
●年中行事・恒例行事

1月1日 元朝勤行
正月3ヶ日 新年勤行会
1月成人の日 成人式(各寺院で檀信徒に新成人がいない年は行わない)
2月3日 節分会
2月7日 興師会(開祖・日興の祥月命日) 
2月16日 宗祖御誕生会
3月春分の日 春季彼岸会
4月28日 立宗会
虫払い法要(宝物がある一部の古刹寺院のみ、大石寺では毎年4月6日、4月7日に営まれる)
8月15日 盂蘭盆会
9月12日 竜口法難会
9月18日、9月19日 寛師会(第26世日寛上人祥月命日)
9月秋分の日 秋季彼岸会
10月〜11月前半 宗祖日蓮大聖人御大会(大石寺では11月20日から11月21日にかけて営まれる)
11月15日 目師会(三祖・日目の祥月命日。七五三を兼ねる)
11月20〜21日 宗祖日蓮大聖人御大会(日程は末寺によって違う場合有り)
毎月1日 御経日(信徒精霊、先祖供養)
毎月第1日曜 広布唱題会(大石寺と全ての末寺で一斉に午前9時からの1時間唱題会)
毎月第2日曜 日蓮大聖人御報恩御講(大石寺大坊では13日のみ、一部の寺院では命日にあたる13日にも行われる)
御経回(春秋の彼岸やお盆に僧侶による檀家回りが行われる)

●総本山大石寺月例行事
毎日 丑寅勤行〔午前2:30~ 客殿〕
第一日曜日 広布唱題会〔午前9:00~ 客殿。必要に応じて大講堂でも同時放送〕(6、7月は夏期講習会登山と重なり前夜に行う)
1日 晨朝衆会、御経日(先祖代々諸精霊追善回向)〔六壷〕
7日 晨朝衆会、開山日興上人御報恩御講〔午前7:00~ 御影堂、2月の祥月命日のみ客殿〕
13日 晨朝衆会、宗祖日蓮大聖人御報恩御講〔午前7:00~ 御影堂〕(塔中坊および全国末寺では第二日曜日)
15日 晨朝衆会、三祖日目上人御報恩御講〔午前7:00~ 御影堂、11月の祥月命日のみ客殿〕
これらの行事は法主の大導師のもと奉修される。

●総本山大石寺 年中行事
1月1日 元旦勤行〔午前2:30~ 客殿〕
1月中毎朝 唱題行〔客殿、初登山会中は大講堂も使用〕

2月3日 節分会〔御影堂〕
2月6日,2月7日 興師会(開山日興上人祥月命日)
2月16日 宗祖日蓮大聖人誕生会〔午前7:00~ 御影堂〕、御塔開き〔五重塔〕
3月春分の日 春季彼岸会〔午後4:00~ 客殿〕
3月28日 立宗内証宣旨報恩会〔午前7:00~ 御影堂〕
3月下旬 得度式〔六壷〕
4月6日,4月7日 御霊宝虫払大法会〔奉安堂、御影堂、客殿〕
4月下旬 教師補任式〔客殿〕
4月28日 立宗会〔午前7:00~ 御影堂〕
5月1日 大行会(開基壇那南条時光祥月命日)〔午前7:00~ 客殿〕
8月15日 盂蘭盆会〔午前10:00~ 客殿〕、前後の日に墓参り
9月12日 御難会(龍の口法難会)〔午後6:00~ 御影堂〕
9月18日,9月19日 寛師会(第26世日寛祥月命日)〔客殿、常唱堂〕※奉納角力大会・花火大会も同時開催
9月秋分の日 秋季彼岸会〔午後4:00~ 客殿〕
9月29日 有師会(第9世日有祥月命日)
11月14日,11月15日 目師会(第三祖日目祥月命日)〔客殿〕
11月20日,11月21日 宗祖日蓮大聖人御大会〔御影堂、客殿と大講堂で同時放送〕
これらの法要は法主の大導師のもと奉修される。

上記以外で、歴代法主の遠忌法要等の宗門法要も執り行われる。

(フリー百科事典「ウィキペディア」より)
<日蓮正宗法主・大石寺住職一覧>
日蓮正宗において法主は、総本山大石寺の住職(貫主)・代表役員であり、日蓮正宗の管長・代表役員である。
僧侶の中からただ一人が、先代の法主から血脈相承を受けて法主となる。日蓮正宗の僧侶の階級では「大僧正」となる。ちなみに、日蓮正宗の本尊を書写できるのも法主ただ一人に限られる、との宗教的主張も特徴の一つである。  
但し、近年、その伝統に多大なる疑義がわきおこっていることも事実であり、論議すべき問題であろう。

歴代法主の葬儀には密葬・本葬があり、密葬の後で火葬して本葬が行われる。

密葬・本葬ではそれぞれ前々夜と前夜の2夜に渡って通夜を行う。

本葬の際に法主の遺骨は輿に入れられ、葬列を組む。式場は古式に則り竹矢来を組んで囲まれ、四隅に「発心門」、「修行門」、「菩提門」、「涅槃門」の四門を構え、四門行道(発心門から式場に入り修行門を抜け一周して修行門から再度式場に入り、菩提門を抜け一周して菩提門から式場に入り開式。閉式後、涅槃門を抜けて墓地へ向かう)を行う。

本葬の最中に導師を務める当代の法主が「嘆徳文」を捧読する。本葬終了後、直接埋葬される。

大石寺墓苑には歴代法主の墓地があり、墓石の形状は五輪塔と定められている。


代 日号 在位
誕生 - 遷化 享年(満年齢)(()内は数え年)
宗祖 日蓮 1253年4月28日 - 1282年10月13日
1222年2月16日 - 1282年10月13 60歳(61歳)
開山・2祖 日興 1282年10月13日 - 1290年10月3日
1246年3月8日 - 1333年2月7日 86歳(88歳)
3祖 日目1290年10月3日 - 1333年10月
1260年 - 1333年11月15日 (74歳)
4世 日道 1333年10月 - 1339年6月15日
1283年 - 1341年2月26日 (59歳)
5世 日行 1339年6月15日 - 1365年2月15日
?- 1369年8月13日 ?
6世 日時 1365年2月15日 - 1406年6月4日
?- 1406年6月4日 ?
7世 日阿 1406年6月4日 - 1407年3月10日
?- 1407年3月10日 ?
8世 日影 1407年3月10日 - 1419年8月4日
1353年11月7日 - 1419年8月4日 66歳(67歳)
9世 日有 1419年8月4日 - 1467年 1472年 - 1482年9月
1402年4月16日 - 1482年9月29日 80歳(81歳)
10世 日乗 1467年 - 1470年
?- 1472年11月20日 ?
11世 日底 1470年 - 1472年4月7日
?- 1472年4月7日 ?
12世 日鎮 1482年 - 1527年6月24日
1469年 - 1527年6月24日 (59歳)
13世 日院 1527年 - 1573年
1518年 - 1589年7月6日 (72歳)
14世 日主 1573年 - 1596年9月1日
1555年 - 1617年8月17日 (63歳)
15世 日昌 1596年9月1日 - 1607年、1611年 - 1622年4月7日
1562年 - 1622年4月7日 (61歳)
16世 日就 1607年 - 1611年、1622年4月7日 - 1632年1月
1567年 - 1632年1月21日 (66歳)
17世 日精 1632年1月 - 1633年、1637年 - 1645年
1600年 - 1683年11月5日 (84歳)
18世 日盈 1633年 - 1637年8月
1594年3月3日 - 1638年3月7日 44歳(45歳)
19世 日舜 1645年10月27日 - 1652年
1610年 - 1669年11月12日 (60歳)
20世 日典 1652年 - 1673年
1611年 - 1686年9月21日 (76歳)
21世 日忍 1673年 - 1680年
1612年 - 1680年9月4日 (69歳)
22世 日俊 1680年 - 1682年2月
1637年 - 1691年10月29日 (56歳)
23世 日啓 1682年2月 - 1692年6月7日
1648年-1707年11月14日 (60歳)
24世 日永 1692年6月7日 - 1709年春
1650年 - 1715年2月24日 (66歳)
25世 日宥 1709年春 - 1718年3月
1669年 - 1729年12月28日 (61歳)
26世 日寛 1718年3月 - 1720年2月24日、1723年6月4日 - 1726年5月26日
1665年8月7日 - 1726年8月19日 61歳(62歳)
27世 日養 1720年2月24日 - 1723年6月4日
1670年 - 1723年6月4日 (54歳)
28世 日詳 1726年5月26日 - 1732年9月19日
1681年 - 1734年8月25日 (54歳)
29世 日東 1732年9月19日 - 1736年春
1689年3月3日 - 1737年12月1日 48歳(49歳)
30世 日忠 1736年春 - 1740年9月19日
1687年 - 1743年10月11日 (57歳)
31世 日因 1740年9月19日 - 1750年9月11日
1687年10月17日 - 1769年6月14日 81歳(83歳)
32世 日教 1750年9月11日 - 1756年8月
1704年 - 1757年8月12日 (54歳)
33世 日元 1756年8月 - 1764年9月27日、1765年7月26日 - 1765年10月8日
1711年8月15日 - 1778年2月26日 66歳(68歳)
34世 日真 1764年9月27日 - 1765年7月26日
1714年 - 1765年7月26日 (52歳)
35世 日穏 1765年10月8日 - 1770年4月8日
1716年 - 1774年7月3日 (59歳)
36世 日堅 1770年4月8日 - 1776年4月15日
1717年 - 1791年10月3日 (75歳)
37世 日琫 1776年4月15日 - 1783年4月28日、1785年2月20日 - 1785年6月24日、1786年 - 1791年7月1日
1731年1月23日 - 1803年5月26日 72歳(73歳)
38世 日泰 1783年4月28日 - 1785年2月20日
1731年 - 1785年2月20日 (55歳)
39世 日純 1785年春 - 1786年
1736年 - 1801年7月30日 (66歳)
40世 日任 1791年7月1日 - 1795年6月28日
1747年 - 1795年8月25日 (49歳)
41世 日文 1795年6月28日 - 1796年8月14日
1751年 - 1796年8月14日 (46歳)
42世 日厳 1796年9月23日 - 1797年閏7月11日
1748年 - 1797年閏7月11日 (50歳)
43世 日相 1799年11月7日 - 1803年10月
1759年 - 1805年12月3日 (47歳)
44世 日宣 1803年10月 - 1807年8月19日、1808年5月8日 - 9月24日、1817年1月27日 - 1817年2月16日
1760年 - 1822年1月7日 (63歳)
45世 日礼 1807年8月19日 - 1808年5月8日
1763年 - 1808年5月8日 (46歳)
46世 日調 1808年9月24日 - 1814年4月11日、1815年8月16日 - 1817年1月27日
1766年 - 1817年1月27日 (52歳)
47世 日珠 1814年4月11日 - 1815年8月12日
1769年 - 1816年9月22日 (48歳)
48世 日量 1817年2月16日 - 1820年8月、1830年6月24日 - 1831年11月7日、1836年5月
1771年2月18日 - 1851年5月29日 80歳(81歳)
49世 日荘 1820年8月 - 1830年5月8日
1773年 - 1830年5月8日 (58歳)
50世 日誠 1831年11月7日 - 1836年5月1日
1795年 - 1836年5月1日 (41歳)
51世 日英 1836年5月 - 1853年6月20日、1865年5月7日 - 1865年閏5月15日
1798年 - 1877年7月9日 (80歳)
52世 鈴木日霑 1853年6月20日 - 1862年12月、1865年閏5月15日 - 1869年11月1日、1885年6月15日 - 1889年5月17日
1817年8月25日 - 1890年6月24日 72歳(74歳)
53世 日盛 1862年12月 - 1865年5月7日
1831年10月11日 - 1892年6月25日 60歳(62歳)
54世 日胤 1869年11月1日 - 1874年12月12日
1829年3月16日 - 1880年6月2日 51歳(53歳)
55世 下山日布 1874年12月12日 - 1885年6月15日
1835年2月5日 - 1919年3月4日 84歳(85歳)
56世 大石日応 1889年5月21日 - 1908年11月10日
1848年11月15日 - 1922年6月15日 73歳(75歳)
57世 阿部日正 1908年10月29日 - 1923年8月12日
1861年12月18日 - 1923年8月18日 61歳(63歳)
58世 土屋日柱 1923年8月12日 - 1926年3月8日
1865年5月24日 - 1928年1月26日 62歳(64歳)
59世 堀日亨 1926年3月8日 - 1928年6月2日
1867年2月24日 - 1957年11月23日 90歳(91歳)
60世 阿部日開 1928年6月2日 - 1935年6月1日
1873年8月23日 - 1943年11月21日 70歳(71歳)
61世 水谷日隆 1935年6月1日 - 1937年10月2日、1945年6月17日 - 1946年1月25
1874年8月10日 - 1947年3月24日 72歳(74歳)
62世 鈴木日恭 1937年10月2日 - 1945年6月17日
1869年9月16日 - 1945年6月17日 75歳(77歳)
63世 秋山日満 1946年1月25日 - 1947年1月15日
1873年3月5日 - 1951年1月7日 77歳(79歳)
64世 水谷日昇 1947年1月15日 - 1956年3月2日
1879年9月24日 - 1957年10月14日 78歳(79歳)
65世 堀米日淳 1956年3月2日 - 1959年11月15日
1898年10月10日 - 1959年11月17日 61歳(62歳)
66世 細井日達 1959年11月15日 - 1979年7月22日
1902年4月15日 - 1979年7月22日 77歳(78歳)
67世 阿部日顕 1979年7月22日 - 2005年12月15日
1922年12月19日 - 現在84歳(86歳)
68世 早瀬日如 2005年12月15日 -
1935年2月26日 - 現在71歳(73歳)

(フリー百科事典「ウィキペディア」より)
<日蓮正宗の主要寺院>

●総本山

多宝富士大日蓮華山大石寺(たほうふじだいにちれんげざんたいせきじ、静岡県富士宮市)

●本山格寺院

多宝富士山下之坊(しものぼう、静岡県富士宮市)
多宝富士山妙蓮寺(みょうれんじ、静岡県富士宮市)
高永山讃岐本門寺(ほんもんじ、香川県三豊市)
日知屋山定善寺(じょうぜんじ、宮崎県日向市)

(フリー百科事典「ウィキペディア」より)
<御大会>
御大会(ごたいえ)とは、日蓮正宗で最も重要な慶祝の儀式。日蓮宗、浄土宗、等のお会式に相当する。
創価学会台頭以前(昭和前期まで)には「雅楽演奏」と「稚児行列」も存在したようである(戦前の「大日蓮」に掲載)。

●概要

日蓮正宗では、日蓮という末法下種の本仏が、不滅の滅を現ぜられながらも、常住此説法の御振る舞いを示された(日蓮の肉体はなくなられたが、日蓮の魂は本尊に帰入し、常に法を説いている。日蓮の示した三大秘法は不滅である)ことを寿ぎ、広宣流布を決意する慶祝の儀式として行う。 日蓮正宗のすべての寺院で10月〜11月前半の時期に2日間にわたって行われ、総本山大石寺では、弘安5(1282)年10月13日を現代の暦に換算したことから、毎年11月20日、21日に「宗祖日蓮大聖人御大会」として執り行われている。末寺では、同じ布教区内の寺院の住職などを招いて行われる。

日蓮は弘安5年10月13日に入滅されたが、入滅に際しては大地が震動し、晩秋にもかかわらず桜の花が咲いたと伝えられていることにちなんで仏前には桜の造花などを供える。 また、この儀式は日蓮正宗総本山第9世日有が、日蓮以来行われてきた国主諌暁を行われている姿を模したもので、初めに日有上人申状が、続いて「立正安国論」、「宿屋入道許御状」(大聖人申状)、日興、日目、日道、日行の申状が捧読されている。

式の流れは以下の通りである。

●大石寺(日蓮正宗宗門が主催で執行)
11月20日

・御開扉
・お練り(御法主上人を中心とした行列が境内を練り歩くこと。)この行列は御影堂前の石畳の上で歩みをとめる。すると御影堂で待機していた助番僧が法主上人のもとに向かって説法を願いに向かう。これは法華経に説かれる四請三誡をあらわすものである。その後、出仕太鼓、出仕鈴が鳴り参列者一同の唱題の中、一行は御影堂裏向拝東側より入場し、御影堂内陣に入った法主は上行座に座る。このとき、法主に高座説法を願いに僧侶(主に大石寺執事がその役を務める)が伺い、数度にわたり法具を受け取り、高座に設える。
この後、御本尊の側から南面に設えられた高座に法主が登座し、唱題が止まり、寿量品自我偈を唱える。

・読経・唱題
・法主による寿量品説法
・三々九度
ここでは特に醸造された澄み酒が用意され、日蓮と弟子達が杯を交わす姿を表す。小杯、中杯、大杯の順に酌み交わされるが、実に厳正な雰囲気である。このあと僧侶より「お菓子頂戴」「お流れ頂戴」の声がかかり、参詣の信徒にもお菓子とお流れが許される。 一切の儀式終了の後、再び唱題が始まり、法主を中心とした行列は、入場時とは逆の須弥壇西側から退場される。これは、日蓮が現された久遠元初の仏法が東から西へ、すなわち日本から中国・インドへと流れていくことを表している。

11月21日

・勤行衆会(丑寅勤行)
・正当会
・出仕太鼓、出仕鈴
・法主入場
・献膳
・読経(方便品、寿量品長行)
・申状捧読
・日有申状(総監)
・立正安国論(法主)
・日蓮申状(宿屋入道許御状)(重役)
・日興申状(主に大石寺主任理事、以下の申状は大石寺執事ら塔中坊の一部の住職が奉読)
・日目申状
・日道申状
・日行申状
・読経(寿量品自我偈)
・引題目(五遍)
・観念文
・題目三唱
・法主退場
・お花くずしのお経(方便品・自我偈・唱題、導師・総監)
・布教講演
以上が大まかな流れである。


● 末寺の正当会
・出仕鈴
・僧侶入場
・献膳
・読経(方便品、寿量品長行)(途中で僧侶焼香、申状配布)
・申状捧読
・日有申状
・立正安国論(住職)
・日蓮申状(宿屋入道許御状)
・日興申状
・日目申状
・日道申状
・日行申状
・読経(寿量品自我偈)(途中で申状収納)
・唱題
・観念文
・題目三唱
・僧侶退場
・僧侶による布教講演
なお、末寺におけるお会式は様々な形式があり、塔中坊などでは住職の立正安国論俸読だけといった略し方もあるので、注意されたい。また、宗門から離脱した自称・正信会に占拠されている寺院でも同様にお会式を行っている。

(フリー百科事典「ウィキペディア」より)
<日蓮正宗総本山・大石寺 概要>

山号は「多宝富士大日蓮華山」(たほうふじだいにちれんげさん)で、「大日蓮華山」と略すこともある。

日興の法脈を継承し、勝劣派、宗祖本仏論を奉ずる富士門流に属し、静岡県の駿東地方に分布する 北山本門寺、 西山本門寺、 下条妙蓮寺、 小泉久遠寺とともに同門流の「富士五山」を構成する。また、さらに 京都要法寺、伊豆実成寺、保田妙本寺とあわせて「興門八本山」のひとつにも数えられる。明治期には富士門流の統一教団日蓮宗興門派(のち本門宗)の結成に参加、興門八本山より輪番制で就任する同宗の管長には、第4代として日布、第15代として日応などが着任した。

住所は静岡県富士宮市上条2057番(北緯35度16分41.98秒 東経138度35分19.99秒)。墓苑の一部は同市北山に属する。
駐車場、売店を除く境内地は墓苑を含めて南北約1550m、東西約1150mで約70ヘクタールに及ぶ。

明治の作家・大町桂月は、「大石寺を見ずして寺を語ることなかれ」と評している。

なお、1950年代初期に、創価学会の第二代会長・戸田城聖によって、創価学会員の大石寺への月例登山会が実施されるようになった。その後、法華講(古くからの日蓮正宗の信徒組織)でも、法華講連合会の発足後は、法華講員の月例登山会などを行なうようになったが、それ以降、1990年頃から創価学会が日蓮正宗の教義から逸脱したことにより1991年に日蓮正宗宗門から破門されるまでの間は、学会員の登山者数の方が、法華講員の登山者数よりも圧倒的に多かった。

現在(学会員が日蓮正宗の信徒資格を喪失した1997年以降)は、大石寺に登山・参詣できるのは、法華講員のみに限られる。

日蓮正宗の信徒でない一般の人は、境内の散策・見学は自由であるが、教義と防犯上の理由のため、奉安堂内部に立ち入ることは出来ないものの、その他の堂宇には、許可を得れば比較的自由に入ることが出来る。ただし、日蓮正宗の信徒以外の一般の人が(信徒しか立ち入りが許可されていない奉安堂以外の)諸堂宇内部に立ち入ることが出来るのは、原則として、法要などの諸儀式・諸行事が行なわれていない時に限られている。

(フリー百科事典「ウィキペディア」より)
<日蓮正宗総本山・大石寺 起源と歴史>

日蓮の六老僧・日向および身延の地頭・波木井実長が日蓮の教えを捨て去る謗法(非法)行為に及んだと判断した日興(身延山久遠寺・現日蓮宗総本山の第2世住職)が、宗祖日蓮の「血脈・法灯」を継承するは自らであり、清浄なる法を守るとして、身延山久遠寺を離山。
後に、上野の地頭であった南条朝臣時光の招請を受けて1290年(正応3年)、富士山麓の大石ヶ原(「おおいしがはら」と読む)に移り住んだのが大石寺のはじまりである。これに供奉した主要の弟子が塔中(脇寺)を建立し、現在の大石寺の原型ともいえる姿ができた。

日蓮正宗の教義において、大石寺は「本門戒壇の根本霊場」と位置づけられており、本門戒壇が建立されたときは正式寺号である大本門寺を公称するとの言い伝えもある。
また、日蓮正宗の信仰活動の根本の本尊である「本門戒壇の大御本尊」が安置されていることから、日蓮正宗の教義的には、この世における唯一の常寂光土とも位置付けられている。

開山・日興以来、日蓮の法を内証に付嘱されるとする法主が大石寺の住職であり、大石寺末寺すべてを束ねる。現在でいう宗教法人上の代表役員、管長である。現在の大石寺住職は第68世法主・早瀬日如。

(フリー百科事典「ウィキペディア」より)
<日蓮正宗総本山・大石寺 境内>

日蓮正宗総本山・大石寺の境内(敷地内)には、五重塔(重要文化財)、御影堂(県指定文化財)、三門(県指定文化財)などの堂宇がある。
1998年に純和風の客殿、2002年に宗旨建立750年を記念して、正本堂跡地に奉安堂(「本門戒壇之大御本尊」を安置)が建立された。そのほかに1958年建立の大講堂や1988年建立の六壷、1994年建立の広布坊などがある。

境内地東方には11ヘクタール、16,000基となる日蓮正宗の墓苑があり、大石寺歴代法主の墓地、僧侶墓地に続いて一般信徒の墓地もある。
一般信徒の墓地には日蓮正宗の熱心な信者でもあった創価学会初代会長の牧口家の墓や第二代会長の戸田家の墓がある。
戸田城聖・創価学会第二代会長本人の墓は、五重塔のそばに建っている。
又、一般信徒の墓地には、俳優赤木圭一郎の墓もある。
大石寺の総門・三門から御影堂に至る参道には表塔中(脇寺)が立ち並んでいる。これら表塔中は大石寺開山直後の建立であり、いずれも700年を超える古刹である。

大石寺境内には桜の木が数多く植えられており、表塔中の枝垂れ桜は景勝地として知られているほか、境内を南北に流れる御塔川(潤井川)や常燈ヶ峰の桜は信徒を中心に全国的に有名である。

総門と三門を結ぶ石畳の両側には、総門より三門に向かい左手に、5階建ての常灯坊、柱に遮られる事のない1000畳を超える大広間を持つ広布坊、続いて総二坊があり、総二坊と石畳を挟んでシンメトリーのように総一坊が聳え立っている。
この総一坊・総二坊ともに230畳を超える広間が、1階に1室、2階と3階にそれぞれ4室(4室のうち2室に本尊が安置)があり、信徒の宿坊や集会所として使用される。総一坊東側玄関前には団参用のバスターミナルもあり、三門前には国道469号が横断している。また三門より表塔中を上りきって右手に折れると、大石寺開山700年記念事業で整備された日本庭園「法祥園」が明鏡池を中心としてひろがり、その右手には東裏塔中がある。

(フリー百科事典「ウィキペディア」より)
<日蓮正宗総本山・大石寺 寺宝>

●秘仏とされる「本門戒壇之大御本尊」(弘安2(1279)年10月12日建立、奉安堂に安置)
●最初仏とも称される御影像(祖師像)(奉安堂・戒壇本尊に向かって右側の宮殿に安置)
●舎利灰骨(奉安堂・戒壇本尊に向かって左側の舎利塔に安置)
●「御生骨」(御肉牙、日蓮の遠忌と法主の代替法要の際にのみ公開)
○日蓮が祈雨の際に用いた「雨の祈りの三具足」

ただし●印のものは、学者・研究者たちの研究・調査により、日蓮真筆あるいは日蓮在世のものではなく、後世の何者かが偽作したものを、日蓮正宗が「日蓮真筆」「日蓮在世」のものと詐称していると判定される。

○本尊

○日蓮真筆の本尊

○弘安3(1280)年3月の「師資伝授之御本尊」(伝に曰く「紫宸殿御本尊」とも言う。)
○文永11(1274)年12月の「万年救護本尊」(大講堂安置の常住板御本尊、真筆は保田妙本寺)
○建治元年11月の本尊
○弘安3年5月9日南之坊開基の少輔公日禪へ授与の御本尊
○弘安3年11月本門寺重寶の本尊

○日興真筆の本尊

○「御座替わり御本尊」(正応2(1289)年10月3日書写、宝永3(1706)年に客殿安置本尊として模刻造立)
○「御手続御本尊」(正慶元(1332)年11月3日書写)
○「御筆止御本尊」(正慶2(1333)年1月27日書写)
嘉元元(1303)年8月13日書写、之を模刻・開眼し六壷に安置するところの常住板御本尊(これと全く同じものが品川区・妙光寺本堂に安置されている。)等

○画像、御影像

○宗祖日蓮「鏡の御影」
○御影堂安置の宗祖等身大御影像(元中5(1388)年造立、越前法橋快恵作)
○客殿安置の宗祖御影像(万治3(1660)年造立)

○日蓮真蹟 遺文(御書)

○諌暁八幡鈔
○衆生心身御書
○南条殿御返事
○宝軽法重事など

これらの重宝は「御霊宝」と称され、毎年4月7日に奉修されている御霊宝虫払大法会で虫干しされ、参詣檀徒に披露されている。本尊については120体ほど収蔵されているが、虫払大法会で虫干しされる本尊は9世・日有以前の60体ほどで、残りの本尊は日を改めて関係者のみによって虫干しされる。

(フリー百科事典「ウィキペディア」より)
<日蓮正宗総本山・大石寺 現存する堂宇・建造物>

○奉安堂(平成14(2002)年10月建立、本門戒壇の大御本尊を安置している建物で、ここで本門戒壇の大御本尊の御開扉を行っている。僧侶500人・信徒5000人を一度に収容できる)

○奉安殿(創価学会・戸田城聖氏の発願・寄進供養により昭和30(1955)年11月建立、かつて本門戒壇の大御本尊が安置されていた建物。3000人弱の信徒を一度に収容できる。現在は仮御影堂として使用している。)

○御影堂(静岡県有形文化財)(徳島藩主夫人・敬台院の寄進供養により寛永9(1632)年建立。日蓮、日興、日目の三師御講、二大法要が行われる)

○五重塔(国重要文化財)(亀山城主板倉公の資金と全国信徒の供養金によって寛延2(1749)年建立。日蓮の誕生会法要が行われる)

○三門(静岡県有形文化財)(徳川幕府6代将軍家宣が寄進した富士山の巨木70本と御台所天英院の寄進した黄金をもとに享保2(1717)年建立。大石寺の表玄関の門)

○大坊(内事部)(創価学会の寄進供養により昭和37(1962)年新築。大石寺の寺務を司る内事部や大石寺で修行している所化僧が居住する学衆寮などがある。 )

○大書院(昭和56(1981)年10月建立。全国住職寺族・連合会役員講頭の法主目通りや全国法華講講頭会などが行われる。)

○大奥(法主が居住している庫裡。法主が住職・連合会役員などに個別面会する対面所などがある)

○客殿(平成10(1998)年3月再建。法主の丑寅勤行や虫払い法要・興師会・目師会・寛師会・満山供養など、多数の信者が参詣する大きな法要が行われる場所)

○不開門(勅使門)(平成10(1998)年3月再建。広宣流布の日に天皇の勅使が開ける門として、ふだんは固く閉ざされている。)

○大講堂(創価学会・戸田城聖氏の発願・寄進供養により昭和33(1958)年2月建立。教師講習会や御書講義などが行われている。)

○六壷(昭和63(1988)年10月再建。法主の丑寅勤行や大石寺で修行している所化僧が朝夕の勤行を行う場所)

○御宝蔵(寛政2(1789)年建立。大石寺重宝の日蓮・歴代法主の本尊や遺文・遺品などを収蔵している)

○御経蔵(昭和48(1973)年再建。釈迦が説いたとされる全ての経典が収蔵している)

○多宝蔵(平成2(1990)年3月建立。大石寺創建以来の古文書を収蔵している)

○富士見庵(昭和33(1958)年再建。隠居した法主がかつて居住していた)

○蓮葉庵(平成2(1990)年3月再建。隠居した法主の住居。今は阿部日顕の住居となっている)

○日蓮正宗宗務院(昭和56(1981)年建立。日蓮正宗の宗務行政を司る庁舎。かつて大講堂内におかれていたが、独立した建物として新築された)

●三師塔中央大塔(宗祖日蓮、二祖日興、三祖日目、以上三師の墓、墓苑内、元禄年間・宗祖400回遠忌記念に建立)
●三師塔西大塔(宗祖日蓮、二祖日興、三祖日目、以上三師の墓、墓苑内、享保年間・宗祖450回遠忌記念に建立)
●三師塔東大塔(宗祖日蓮、二祖日興、三祖日目、以上三師の墓、墓苑内、昭和36(1961)年・宗祖680回遠忌記念に建立)

日蓮正宗はこれらを「墓」と自称しているが、しかし日蓮・日興・日目のいずれの遺骨も収蔵されていない。したがってこれらは「墓」でも「廟」でもない。日蓮正宗のどこの墓苑にある単なる三師塔と同じものである。

○大納骨堂(中央に三師塔がある)(平成17(2005)年3月再建。154,500体の遺骨を収蔵できる)

○大忠霊塔(大東亜戦争戦没者顕彰塔、墓苑内)

○熱原三烈士碑(熱原法難で殉死した信者の顕彰碑)

○宝永六萬塔

○平成六萬塔(平成6(1994)年4月建立)

○鐘樓(平成2(1990)年3月再建、梵鐘は昭和28(1953)年鋳造。法要の時間が来ると、ここの鐘を鳴らす)

○鼓樓(平成2(1990)年3月再建。御影堂で法要がある時、法主の出仕を知らせる出仕太鼓を鳴らす)

○中講堂(富士学林)(昭和63(1988)年建立。僧侶育成機関である富士学林研究科が行われている。2Fに図書館、3Fに300人を収容できる講堂がある。大講堂と渡り廊下でつながっている)

○鬼門(朝日門)(享保2(1717)年建立。大坊の表門)

○二天門(寛永15(1638)年建立。御影堂への表門)

○裏門(昭和63(1988)年再建)

○総門(黒門。大石寺境内の最南端にある大石寺の表門。)

○十二角堂(開山堂・位牌堂)(昭和35(1960)年再建。歴代法主の位牌を収蔵している)

○典礼院(墓苑事務所)(昭和59(1984)年再建)

○法華講事務所(宗創蜜月時代は創価班が起居する登山センターと呼ばれていた。学会の登山停止後、法華講事務所と改称され、法華講の登山会が行われる時、連合会役員と輸送班が起居する)

○閼伽堂(御華水)(昭和48(1973)年再建。杉の巨木の下に湧き出ている湧き水の井戸。古来から番僧が早朝にここの水を酌んで本尊に供えている)

○医薬坊(大石寺に登山参詣する信者の救急医療をする建物)

○浣衣堂(大石寺に登山参詣する信者の浴場。一度に50人が入浴できる浴槽があり、シャワー室は80名が使用できる)

この他に塔中坊などあわせて五十以上の堂宇からなる。

(フリー百科事典「ウィキペディア」より)

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