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こうの史代コミュの「この世界の片隅に」

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こうの史代ファンページでは、既に盛り上がっていますが、
ついに、1/9に、連載開始です。
皆さん、もう、読まれましたか?
カラーの扉絵がなんともいえません。
お話は、まだ、始まったばかりでコメディ調ですが、これから訪れる幸せが、いずれ訪れる悲劇が、どのようなものであるのか、必見です。
ページ数は12Pと少なめですが、こうのさんの連載としては
丁度いいかも知れません。作品の、特に絵のクオリティを保つためには。

寒い時に手をすりあわせる「そすそすそす」という擬音が面白いですね。
皆さん、今年の冬は、「そすそす」して乗り切りましょう。

コメント(329)

ラストシーン部分だけ見ましたが「高圧線の鉄塔」が映りこんでいるのはいかがなものか?

予算がないのか、はたまたスタッフがヘボなのか…

個人的な意見ですが、他にも色々な作者の漫画作品からドラマ化したものは沢山ありますが、今まで見てきた中で中で一番ひどいと思う。

なんでだろう?こんなものなのか?
原作読んでると、どうしてもナナメから見てしまいますね笑
頭で補正しながら見てました。
僕はもこみちの哲さんかなり好きでした。儚い感じのするこうのさんの絵とは対照的にいかにも「活きてる」って感じで。

合成のクオリティにムラがあるのには、さすがにちょっと笑ってしまいましたが。。

原作読んでない人がどう感じるかは未知数です。
感想きいてみたいですね。少しでも原作を手にとる人が増えるといいですね。
こうのさんの他の本は読んでますが、この世界の片隅にはまだ未読です。
ドラマからこのトピ見る人もいるのに、ドラマのことを悪し様に言うのはどうかと…原作未読のせいかもしれませんが、私はそれなりに楽しめましたよ。(合成だけはちょっと惜しかったですが;)
明日原作買ってこようと思います。
私は素直によかったと思います。ぴかぴか(新しい)

(優香をじっとみてたらバカ殿のコントを思い出しちゃいましたが。不謹慎ですいません。あせあせ(飛び散る汗)


これを機にたくさんの人が原作を読んでくれるといいと思います。わーい(嬉しい顔)
割と期待してドラマ視聴したものですが。

俳優さん方はすごく頑張ってたと思います。
小出くんしかり、りょうさんしかり。もこみちくんも良かったですよ。
北川さんもね、もう少し抜けた演技できるはずたったと思うし。

ともかく脚本が全然ダメでした。
こうの先生の凄さはあの悲劇を悲劇として見せず、あえて日常として描いてる点であると思うのです。
この原作で悲劇を悲劇的にえがいてどーすんですか。

あの描き方だとせっかくのお父さんの無駄なウンチクがただの変な人になっちゃってるし
リンさんに変な設定ついちゃうし……。

むしろ失われた右手の行方をどう描いてくれるか、それを楽しみにしていたのですが。

すごく色々と勿体無いです。
togさんのおっしゃる通り、「こうのさんの凄さ」に尽きるんだと思います。
作品の根底でありながら、なかなかできる表現ではないとおもいます。
テクニカルな部分で、表現不可能だった。それだけじゃないですかね。
原作の大ファンで何回も読んだので、原作イメージが強すぎて…主役が北川景子さんってとこで
「こりゃ…だめかもな」
と思いました冷や汗が、北川さん、役に近づこうとすごく頑張ってたのが伝わってきましたぴかぴか(新しい)でももっと顔が優しい女優さんのが鈴さんらしいな…鈴さんのほんわかした雰囲気を出してほしかった。旬な女優さんだからって、なぜ北川景子なんだ…涙涙
りんさん→なぜ優香?優香が鈴で、北川景子がりんさんではダメなのか…?イメージではそちらのがしっくりくる。

一番はまってたのは、りょうさん!一番目立ってた。

「夕凪の街…」は、映画を見ましたが、映像も素晴らしく、特に麻生さんがハマっていて泣きました。

お前、何様だ?的な意見ですが、すみませんあせあせ(飛び散る汗)あせあせ(飛び散る汗)

桜のシーンあたりから見れましたが、母が食い入るように見ていました。呉の街が美しかったです。戦争と似つかわしくない美しさ。この時期に、こういう番組を放送する意味を考えて、今日は黙祷します。
観ないと宣言しておいて観てしまいましたあせあせ

感想は一言、「失敗」ですね
ある意味予想通りでもあったんですが・・・

とにかくドラマとしてあまりにもチープ
白木リンさんとの関係もキッチリさせすぎて、原作の醸しだす幻想的な儚さをブチ壊していた
あれならむしろエピソードごと割愛したほうが良かったと思う

俳優陣、主演のお嬢さん、頑張っていたのはわかるんですが、総て一呼吸速過ぎるんです
すずさんの天然な空気が消されてしまってましたね
これでは原作の香気に近づけるハズもないです
演出に一番の問題があるんですが、やはり彼女の実力不足も否めません

それから周作さん役の子も酷かったです
台詞回しが完全に現代人の早口で、寡黙な周作さんとはまったくの別人になってしまった
テレビの尺に合わせたのか知りませんが、演出家は原作を何度読んだのか、読んだことさえあるのか甚だ疑問に思いました

合成のチープさには敢えてふれないでおきますが、舞台劇みたいなお粗末なラストはもうどうにかならんかったかと、憤りを禁じえなかったです

2人の出会いの謎解きとして籠の中のシーンを持ってくるとか、将来への希望の象徴として戦災孤児を連れて帰る3人の後ろ姿にするとか、ラストに余韻を残す演出センス(この場合編集センスなのだろうか)の無さにはがっかりしましたね

こうのさんが語っておられた「戦時の生活がだらだら続く様子」ではなく、中途半端なドラマ性を前面に打ち出したが故の、中途半端な反戦ドラマになってしまったような気がします

予想通り、残念でした
そうですね、3夜連続くらいの時間は必要だったように思いますね。
3夜連続に同意です。連ドラにしても良かったかも。
NHK辺りでやらないかしら?

今回「別物」のドラマとして見るとしても、演出等の制作側が台なしにしてしまった感じで残念です。
むしろアニメでやってほしかったなぁ。
原作を読む人が増えればいいな。


そう自分に言い聞かせたり。
こうの作品は、「言葉にできない思い」を大切にする人なので、
言葉だけを拾い集めるだけでは、原作の思いを再現することは出来ません。
その分、たくさんの言葉を使えなくても、思いだけは伝えてほしいと思ったのですが、
どうも、うまくは行かなかったようです。

何を考えているのかわからない、のんびりしたキャラのすずだから、
玉音放送での怒りが生きるのですが、
北川景子さんは懸命に演技されているのですが、見るからに神経質そうなので、
あのセリフを「いかにも、言いそう」で、かえって弱くなってしまったのでした。
これは、役者の問題よりも、スタッフの問題でしょう。

それと、非常に残念だったのは速水もこみちさんで、
あまりに好青年に過ぎて、もう二度と陸には上がれないであろうという覚悟が
少しも伝わってこないのでした。

冗談ですが、離れのシーンでは、もこみちくんが演技する後ろで、
スタッフが密かに金属バットで殴りかかろうとしてでも、
役者の本気を出してほしかったと思います。

CGの処理の甘さなどにしても、低予選でやっつけで作っちゃったのかなあという印象です。
映画版「夕凪の町・桜の国」より、原作の方が10倍面白いと思ったのですが、
ドラマ版「この世界の片隅に」は、原作の方が100倍は面白いと言って、
ドラマを見た人に普及するしかありませんね。
ドラマがあまりにもできが悪いので、娘と一緒に突っ込み目的で見ていましたが、最後まで良いところなしでしたね。

一番悔しかったのは原作者のこうのさんではなかったかと思います。
昨日読んで、今日はずっと余韻に浸っていました。

登場人物みんなやさしくて、それが細かい仕草や表情でかわいらしく描かれていて、みんなすきになってしまう。だから後半は読むのが辛かったです。だけど後半にもたくさんすきなシーンがあって…

いろんなひとにおすすめしたい!と思ったマンガです。
呉育ちの者です。

夕凪の街〜を、呉ポポロで観て、原作を読んで、読むほどにひとつ、またひとつ
と、引き込まれていくこうのさんの世界が大好きになりました。


ずうっと読もうとしながら
今更ながら、この世界の片隅にを読みました

教科書や、小学生の頃の平和教育よりも
いまだからこそ、すうっと染み渡るというか
じんわり響く作品


ドラマでの、原作にはない描写もハッとするシーンはありましたが、
やっぱり2時間にまとめるには無理がありますよねぇ…。

いつかもう一度、
ゆっくりと、映像化して欲しいです。


ほいで、県外から広島に来る知人に
先ず読んで頂きたいなぁ。
そんなことをおもいました。
ドラマ版の出来が良いので、語りたくなりました。
まずは、第1回から。

一昨年のアニメ化で話題になったマンガ連作のドラマ化です。

アニメ作品が、原作では「描かなかった/描く必要がなかった」背景の細部も含めて、
原作以上に忠実に再現したことで高く評価されただけに、
生身の役者を使うドラマがどんな画面を作ってくるか心配でもあり、興味もありました。

原作が、一話10数ページという短い紙数に扉やセリフを使って情報を凝縮させる一方で、
マンガ独特の笑いや誇張を含む表現(人さらいが怪物だったり)も含まれるので、
ドラマは、そのあたりの交通整理をしつつ、なめらかに流れる脚本になっていました。
さすが、「ひよっこ」「ど根性ガエル」などを手掛けた岡田恵和ならではの仕事です。

主役の浦野すずには、松本穂香。
「ひよっこ」では工場の同僚のメガネ少女でしたが、吹石一恵系のウサギ顔を活かして、
すずのおっとり、ぼんやりした感じをリアルに演じてくれました。

夫の北条周作には、松坂桃李。
若々しさや誠実さとともに、もはや風格さえ感じさせてくれるほどの申し分のなさです。
周作の姉・径子には、尾野真千子。
すずへのあいさつの場面だけで、面倒そうだが真直ぐな性格が如実に表れていました。

榮倉奈々らが空き家になった北条家を訪れる「現代パート」も、
「茶の間」にいる視聴者を切れ目なく戦前に誘導するのに必要だったのでしょう。
当時のまま残る広島や呉の景色を取り込むようなロケシーンが多いことを評価するなら、
足元にアスファルトやコンクリートが写りこむのは受忍すべきなのかもしれません。
宮沢賢治の「星めぐりの歌」を思い出させる印象的なわらべ歌もドラマオリジナルです。
そもそも、音楽に久石譲を起用した時点で、スタッフの本気度を感じさせるところです。

初回は、子ども時代の前段3話に、結婚話から初夜までの3話も含めて、
第1巻の80ページ分が描かれました。
この丁寧さなら、最後まできっと楽しめることでしょう。
第2回について

歴代の朝ドラとキャストが重なることから、
すでに「夜の朝ドラ」との異名を得ているドラマ版「この世界の片隅に」です。

とはいえ、朝ドラ出演者が多いことはけっして奇妙なことではなく、
主演女優をオーディションで若い才能を発掘し、
それを支える脇役には実績のある演技派を配するという朝ドラのような作り方は、
本来、すこぶるまっとうなものであると言えましょう。

さて、ドラマの第2回は、原作の第4回から第7回、
昭和19年2月から4月の約30ページが描かれます。

やはり印象的だったのは、周作の幼なじみ・幸子でしょうか。
ドラマだけの登場人物なのですが、けっして原作の邪魔をしていません。
ひそかに、いやむしろ、あらわに周作に恋をしていたという設定ですが、
すずのおっとりぶりに、嫉妬することさえもアホらしくなってしまったようです。

今後も様々なご近所づきあいが続く中、
やさしく見守る年長者以外の立場として貴重な存在になりそうです。

演ずるのは、「ひよっこ」でも一途な恋心で好演した「米子」役だった伊藤沙莉です。
脚本が同じ岡田恵和ということもあって、この配役に限っては、
「ひよっこ」でのガンバリのご褒美で起用されたとしても許せるところです。

後半は、尾野真千子演ずる義姉・径子とのバトルでしたが、
ここで注目すべきは、径子が家に戻る直前の場面で昔のアルバムを発掘していて、
径子のオシャレな洋装の写真を披露していたことです。

つぎはぎのモンペを着ていることですずのことをみっともないと責める径子ですが、
夫に先立たれ、嫁ぎ先からはつらくされるばかりか跡継ぎとなる息子とは切り離され、
和服を仕立て直したモンペ姿をしている径子にとっては、
夫はもとより、嫁ぎ先の家族からも優しくされ、
モンペの上には今も娘時代のようなブラウスを着ているすずは、
自分が失ってしまったものをすべて持っているような存在でした。

しかも、自身がそれほどに恵まれた存在であることを、
すずが全く自覚していないことが、ますます径子をいらだたせます。
こういう芝居をさせると、尾野真千子が実に上手い。
障子を勢いよく動かしすぎて、そんな自分にもいらだって閉めなおすあたりは、
ねらっていたのか、偶然かはわかりませんが、実に径子らしいところです。

たとえ配給が少なくなっていても、まだ周作が誇らしげに戦艦大和を指さす程度には、
希望が持つことができた昭和19年の春なのでした。

というわけで、今回の秀逸は、
原作どおりの和服をモンペに仕立て直したすずの裁縫力でも、
娼館で暮らす二階堂ふみ演ずるリンの哀しさも含んだ色っぽさでも、
おそらく布に住所・氏名を書いてくれた周作に対するリンの恋心でもなく、
伊藤蘭が演ずる義母・サンがこつこつ新聞紙を揉んで作っていたトイレットペーパー。
第3話は、昭和19年6月とクレジットされます。

空襲警報、防空訓練、雑草と楠公飯の食事、建物疎開、防空壕造り、砂糖の配給停止と、
番組タイトルまでの10分ほどの間で、急速に戦時下の窮屈な生活に入っていきます。

その一方、周作の幻の結婚話に注目させた上、
水甕に砂糖事件から、闇市、迷子、リンさんとの出会いと矢継ぎ早の展開です。
かたや、周作は酒場で水兵となった哲と出会います。
戦況は、文官に当たり散らしたくなる水兵が出てしまうほどに、
もしくは、水兵たちが自らの死を覚悟しなければならないほどに悪いようです。

周作は、すずを街に連れ出し、密かにアイスクリームを食べさせます。
他にも客がいる食堂で、どこが内緒なのかとも思いましたが、
リンからすずに渡された「アイスクリーム」のバトンが、さらに周作に渡され、
その流れの中で、周作とリンとの再会も、さりげなく描かれます。
見事な流れです。

原作では、雑草と楠公飯は5月、建物疎開が6月、防空壕造りが7月でした。
中の巻に入って、砂糖の配給停止からリンとの出会いが8月、周作との逢引が9月です。
空襲警報は原作にありませんが、6月にはセリフどおりに八幡が空襲を受けています。
酒場での周作と哲との出会いや、周作とリンとの一瞬の目礼もテレビ版の脚色です。

このあたりのわかりやすい展開は評価の分かれるところかもしれませんが、
原作が短い紙数の中で、最小限のほのめかすような伏線をつないでいたことを思えば、
この程度の原作を損なわない程度の脚色は許容の範囲でしょう。
なにより、脚本家や製作スタッフから、原作に対する敬意が感じられます。

さすがに、砂糖統制下での「内緒のアイスクリーム」は 、やりすぎと感じましたが。

というわけで、今回の秀逸は、
ぼんやりしているようで、しっかり今回も登場したすずと周作のキスシーンでも、
イヤミな小姑から世話焼きの義姉に変化した径子がすずにほどこした化粧でもなく、
けっして忘れていたわけではなかった、
すずさんによる天秤棒で2人を同時に倒してしまうという神業。
今回は、中巻の88ページまでのうち、前回描かれた部分を除く4話分が描かれました。

カレンダーは19年8月。
先週の最後に、海を軍艦ごとスケッチしていたすずを
憲兵が間諜行為ではないかと咎めるところから始まります。
原作では、19年7月のエピソードですが、
前回、砂糖のエピソードを原作どおり8月としたため仕方ないところでしょう。

そこから、すずの体調不良、懐妊の可能性へとつなぎ、
原作では19年9月のリンとの再会へと渡していきます。

リンと再会したすずは、異なる運命から生まれる異なる価値観に打ちのめされます。
アトトリを作るというヨメのギムを果たすべき、という当時の常識に対し、
リンは、母は出産で亡くなった、子どもは困れば売ればよい、とサラリと言います。

そして、リンの言葉を咀嚼できないすずに、
リンは、この物語の根幹のような大切な言葉をふっと語ります。
「誰でも何かが足らんくらいで この世界に居場所は無うなりゃせんよ」
原作どおりの展開ですが、すっかり忘れてました。

そこから、男子を産むことで居場所ができた径子、懐妊せぬまま夫が出征した志野、
結婚していない幸子と居場所をめぐる井戸端トークをリレーした上で、
家父長制を背景にした径子と長男・久夫の別れで締めくくるのかと思いきや、
最後に、晴美の「自分は兄のように奪い合いをしないのか」という衝撃が待ってました。
オリジナルストーリーですが、女の居場所をめぐる流れるような展開が見事です。
(毎回、言っている気がする。)

19年10月に代わって、
物資疎開からリンドウをきっかけにする周作とリンの関係に気づく流れが、
原作どおりに、きれいに展開します。
竹の枝をナタで打ちながら、周作とリンをめぐる記憶を細かいカットでつなぐあたりは、
原作も、こんな感じで読んでほしかったことをドラマで再現したように見えました。

というわけで、今回の秀逸は、
憲兵を説得した、海の一枚以外は食べ物の絵ばかり描いていたすずの画帳でも、
意外と達者でさまになっている径子の水汲み姿でも、
妊娠してないとわかった途端にすずに水汲みをさせる径子でもなく、
朝・昼・夜、夏・秋・冬で微妙に変えているカメラの色調。
さて、今週の「この世界の片隅に」は、
「二人きりの納屋」「鬼いちゃんの遺骨?」「リンドウの茶碗を託す」の3本でした。
原作でもドラマでも、19年12月と20年2月のエピソードです。

まずは、すずが(軍人なのに)平気で盆で殴ることができるほどに親しい哲の登場です。
原作にもある、生きて帰れない任務の哲と軍人になれなかった自分という負い目と、
けんかの仲裁というドラマオリジナルの「借りを返す」という思いもあって、
周作は、すずを哲に「提供」します。

生身の人間が演じ、つながりがあるドラマならではで、
このあたりの周作の複雑な心情が上手く描かれます。
すずさえも、当初はまんざらでもないという表情で、それに応えています。
この流れだけでも、ドラマは成功していると感じます。

続く、兄の葬儀の場面では、祖母の宮本信子の上手さが光ります。
あらゆる場面、あらゆるセリフが、すべて上手い。
死を悲しむことさえ許されなかった時代を、きちんと伝えてくれます。

北条家の風邪は、尾野真千子の「ザボン演技」が秀逸でオリジナルかと思いましたが、
リンに茶碗を届けた後に一コマだけですが、しっかり登場していました。
ザボンを分け与えたり、リンがそっと眺めるのはオリジナルですが、
雪の場面が大変という大人の事情は抜きにしても、なかなかに優しい脚色です。

そして、現代パート。
香川京子が「北条」と名乗ったってことは、あの子かあ。

というわけで、今回の秀逸は、
すずに対するケジメを示すかのように、膝枕にならない角度で寝転んだ哲でも
目でイチャイチャしなくなったことで示唆される二人のすれ違いでも、
周作の勧める縁談に、「よろしくお願いします」と言った幸子の女の意地と、
途端に、そそくさと女の部屋に移動した幸子の女心。
諸事情で遅れましたが、性懲りもなく勝手に続けます。

第6回は、時間がどんどん加速して、まだ少しだけ牧歌的だった時間を
どんどん後ろに押し流していったように思います。

まずは、昭和20年3月。初めての呉空襲です。
夜勤明けの義父が熟睡していたのは原作どおりですが、まだ笑い話に出来ました。
今にして思えば、学校に上がることが不安な晴美も、
この後に起こる悲劇の前触れであったのかもしれません。

そして、ドラマは4月の花見の場面を念入りに描きます。
裏に、幸子と成瀬の見合いという薄っすらと喜ばしいオリジナル設定をはさむことで、
なおさらリンドウの茶碗を託した遊女が亡くなっていたことの悲しみが強調されます。
もはや、誰もが「いつまで生きられるのか」について意識しなければならないような、
そんな時代になっています。

5月になって空襲は日常のものとなり、
原作でも紹介された軍艦マーチの替え歌「広工廠歌」を義父が歌った流れで、
義父が勤めている広工廠の空襲につなげる脚本は、原作どおりながら巧みです。
ラジオの公式発表は「被害はきわめて軽微」としか言いませんが、義父は戻りません。

義父が不在の夜の不安さをじっくりと描いたところで、
たたみかけるように、周作は軍人に編入されたことを告げます。
ただし、この場面のすずさんは、少々バタバタしすぎていたように思いました。
なにせ、この後の後に、終戦時の「あの場面」が待ってますから。

そして、6月。
運命の日がやってきます。ああ。

というわけで、今回の秀逸は、
婚約者との顔合わせに、期待通りにクネクネする幸子でも、
父の時計をめぐる径子の説明ゼリフを一蹴してしまう母・伊藤蘭のスゴ味でもなく、
現代パートに、原作発表当時なら生きていたかもしれないすずさんではなく、
あの子を登場させるしかないほどに経過してしまった戦争の時代と現代との距離感。

「夕凪の街 桜の国2018」の石川旭が、
原作と比べて、過剰に「認知症の疑い」をかけねばならない年齢になったことも含めて。
第7回の感想です。

原作を読んだとき、下巻の怒涛の展開のせいで、
何が起こったのかじっくりかみしめる暇もなく、
気がつくと終戦を迎えてしまったようなところがありました。

というのも、呉の空襲のことを知らなかった自分が悪いのですが、
妹のすみが何も知らずに「広島は空襲もないし」と言っていたように、
私も、すずは呉にいるから原爆被害にも合わず無傷でいると勝手に思い込んでいて、
時限焼夷弾からの展開を、なかなか整理できないでおりました。
今回、改めて「すずの右手」の問題に向き合えたように思います。

さて、径子の娘・晴美は、出会ってすぐからすずになついてくれていて、
北条家にあって、すずの心の大きな支えとなっていました。
また、すずの右手は、日常生活や家事がままならなくなることに加えて、
すずの唯一の取柄と言ってもいい「絵」を描いてきた右手を失うことでもあります。

原作では、これまでのページを反芻するかのように、
「六月には晴美さんとつないだ右手 五月には周作さんの寝顔を描いた右手…」
とすずの独白で描かれていた右手の思い出を、
ドラマでは、海の写生、海苔すき、楠公飯、縫物、洗濯、アイスクリームと、
細かいカットでつないでいきます。

このカットにすずの独白をかぶせても良かったのでは、と私的には思いましたが、
「四季・ユートピアノ」みたいに、と言っても誰もわからないのでやめます。

晴美を「殺してしまった」という罪悪感、右手を失ったという絶望感が、
すずの心を押しつぶしそうになります。
晴美を失った径子もまた、すずに言ってもどうにもならないことを分かっていても、
すずに当たるしか心の置き所がないのです。

原作ではわざと淡々と描いているこのあたりの場面ですが、
さすがに、生身の人が発すると言葉は重くなります。
むしろ、そのことがマンガをドラマにするということの意味であり、
ドラマの持つ力であるといえましょう。

右手を失ったすずは追い詰められ、
自ら「歪んでおります」と混乱する中で自分の気持ちを表に出し始めるようになり、
広島に帰ることとし(また思いとどまった)、その日が8月6日なのでした。

というわけで、今回の秀逸は、
左手で描くという原作の荒業には及びはつかないものの、
「すずの左手」を意識させた幸子に返した「ちっとも痛うない」すずのグーパンチでも、
本当に何も知らないまま過ごしている浦野家の夕刻の空虚なセピア色でもなく、
やっぱり、これでしょう。
抑えに抑えた心が、どうにも抑えきれなくなって噴出してしまった
娘・晴美を失った径子の声にならない慟哭。
第8回です。

原作を読んだときに、最初の内は意外であり、読み進めるうちに納得したのは、
「昭和20年8月20日」が単なる通過点であったことでした。
よく考えれば、庶民にとっては戦争の前からも戦争中も戦争が終わっても、
日々の暮らしはずっと続いているのです。

右手を失ったすずは、その代償であるかのように爆撃機に毒つくほど強くなり、
玉音放送に対しても、「覚悟のうえじゃないんかね」「納得できん」と叫びます。
ふつうは、伊藤蘭のように、生き残ったことに安堵したのが正直なところでしょう。
(手塚治虫少年は、阪急百貨店のコンコースで灯りのついた街に万歳したといいます。)

そんな状況で、「怒りに震えるすず」という描写を成立させるのは、相当な冒険です。
すずは、「最後の一人まで戦う」(のだから、戦死も空襲も受忍せよ)というタテマエを、
ある日、突然、平気で覆している人たちに心の底から怒っているのです。
この難しい場面を見事に演じきった松本穂香さん、本当によく頑張りました。

顔も分からなくなるほどになっても呉まで歩き続け、行倒れていた男性は、
木野花というか刈谷さんの長男で、幸子の兄でした。
そんな厳しい状況にあっても、幸子が祝言をあげられたのは、
ドラマだけの脚色とはいえ、少しほっとさせてくれるところです。

そして、行こうと思えば行くことができる呉だからこそ、見えてしまう広島の惨状。
しかし、呉にいるだけでは、けっして見ることのない広島の惨状。
広島に行った医師や竹内都子が、沈黙したり寝込んでしまうことで、
広島の厳しさを私たちに想像させます。
もう、すずには妹からの読めないハガキだけが頼りです。
(あの女性配達員は、刈谷家にも友人からのハガキを届けたのでしょう。)

というわけで、今回の秀逸は、
空襲にあって、看板(と割れたリンドウの茶碗)しか残っていない遊郭に自然に誘導した
周作のいつでもさり気ないやさしさでも、
玉音放送を聞いた北条家に集まった人たちが繰り広げる
小津安二郎的な妙に歯切れのよいやり取りでもなく、
その間、かみしめるように動かなかった塩見三省が見上げる静かで空襲のない青空。
いよいよ最終回です。

原作では、幻の右手が描く回想と空想がないまぜになった物語が挿入されたり、
今は亡くなってしまった人や物の記憶が幻の右手によって描かれたりしていますが、
鬼イチャンが南方でワニと幸せに暮らしている(と、いいな)みたいな話は、
さすがにドラマでは描くことはできません。

とはいえ、そんな挿話も含めて断片的な情報をつなぎ合わせていた原作に対し、
ドラマは、ジャズを堂々と演奏ができることで戦後の開放感を表してみたり、
衣類を物々交換に出すまでのくだりや、祖母からの手紙とその後のやりとりなど、
原作にない描写を補いつつ、丁寧につながりをもたせているところが伺われました。

そして、最後に節子を連れ帰るすずと周作の行動に、ほとんど違和感がなかったこと、
あるいは、この二人なら節子を連れてかえっても不思議ではないと思わせたことが、
このドラマが成功している何よりの証拠であるように感じられました。

まさかの哲の生還については、原作でも生死不明だったので、
戦後の復興に希望を持たせる意味でも「あり」でしょう。
ただし、現代パートについては最後までいささかしっくりこなったのですが。
原作を知らない人にとっては、節子の謎解きに驚きがあったのでしょうか。
それと、すずさんがまだ生きていて、広島球場に通ってるというのもどうなのかなあ。
広島の人の率直な感想を聞きたいところです。

というわけで、今回の秀逸は、
「ギブミー・チョコレート」と米兵に群がる子どもたちを見つめる径子の
優しさ、羨ましさ、せつなさ、諦めなどが入り混じった複雑な目線でもなく、

海水をありがたがるほどに乏しい食材で調理していても、
その無防備な和やかさに、ふと義父がつぶやいた「終ったんじゃのう、戦争」でもなく、

祖母がすずと再会したときに絞りだすように発した「よう、生きた」の言葉が示唆する
広島で「生きることができなかった」あまりにもたくさんの生命のことでもなく、

それを手放すと晴美がいたことさえ無かったことになりそうで、
もう着る人がいないとわかっていても物々交換に出せなかった晴美の服を、
ためらうことなく節子に差し出そうとした、本当はやさしい径子の親心。
一部訂正します。
あちこちを読んでいると、原作でも哲は生きているとの指摘があり、
調べると、確かに下巻のp124-p127で海に向かって佇んでおりました。

哲の「まともで居ってくれ」の言葉を引用していたので、
勝手に回想している場面かと勘違いしてました。失礼。
こんにちは。毎回レビュー楽しみに見てました。
現代に生きるすずさんがカープファン、というのはアニメ劇場版の片渕監督の発言が元になっているのではないかと思います。
https://twitter.com/katabuchi_sunao/status/799578091987222528
また、これに則して当日ネット上にファンアートが色々集まり、メガホンを持つすずさんのイラストなどが色々アップされていました。
https://togetter.com/li/1054291

「夕凪の國 桜の街」もそうですが戦争というものが遠い記憶でしかなくなってしまった今だからこその、今と当時を繋ぐ糸…演出として私はアリだと思っています。
>>[324]

ありがとうございます。
勢い込んで長い独り言書き続けてしまったので、
楽しみにしてくれた方がいて嬉しいです。
イイネを頂戴した方も含めて、改めて御礼申し上げます。

さて、昭和とともに生きてきたすずさんは、2018年時点では92-93歳です。
もちろん、90代で元気な方もたくさんいらっしゃいますが、
「生きている」設定にするには、ギリギリすぎるなと思います。

アニメ版が制作されてからも2年たちます。2年前なら90-91歳です。
原作では昭和21年を描かれたのが平成21年で9年前ですから、
原作が描かれた当時なら、まだ83-84歳です。

今も生きているとするのは夢のある話ですが、
いつまでも使える設定ではないな、とは思います。
上でも少し書きましたが、「夕凪の街・桜の国」を現代設定で描くのも、
そろそろ限界にきていると思いましたし。
>ひつじさん
原作・アニメ・ドラマも好きなファンとしては毎回の丁寧なレビュー楽しく読みました。
ありがとうございます!
ドラマ・・後半、原作とはかなり違うアレンジが見られましたが個人的には納得でした。
現代シーン、最初どうかな?と思いましたが香川京子さん登場あたりから
最終回どうなるだろう?と期待して見てました。
香川京子さん=多分あの娘というのは想像してましたが、
まさか、すずさんが生きててカープ女子になってるとは!驚きの展開でした。
そして、最後の広島へのエール。
原爆、水害に苦しんだ人たちへのエールに繋がってる気がします。
その意味では現代シーン、あっても良かったかなと思います。

このドラマ毎回の日常生活の描写が丁寧で・・・
90年代に放映されていた向田邦子終戦特別企画シリーズの久世光彦さんの
演出を彷彿させました。(若い人は知らないかな?^^;)
流石ドラマのTBS、またこういう重厚なドラマを見たいです。
>>[325]

毎回レビュー楽しみにしておりました!
そして先週最終話だったので、これから楽しみがなくなるのですね。
これがこのセカロスというやつなのか……。

すずさんがもし2018年現在も健在であれば91歳か92歳。
その話を聞いて、うちの父方の祖母と母方の祖母のことを思いました。
どちらもすずさんより年上で、認知症にもならず介護施設にも入らず、よく元気にしてるよなぁと。
年々衰えは感じているものの、大病もなく生きている人もいるようです。
でもすずさん……本当に一人で広島球場に行けるんかね?
正直そこだけは現実味がなかったです。

それこそ娘となった節子がそばにいて、いろいろ世話をやいてくれるなら
球場へ直接応援に行ったりもできる話でしょうけど。
彼女の話から鑑みるに、北條に婿入りした旦那さんと東京に出てしまったようだし。
その為北條の家も手放してボロ屋になってしまったし。
……つまりすずさんは長ノ木から離れて、どこか施設に入ってるという事?
などと現実問題ばかり考えてしまうのは、ドラマを見る上ではご法度なんですかね(汗)

とはいえ、たっぷり9話分じっくり描かれたドラマは見応えがありました。
以前あった2時間実写ドラマが散々な出来だったので
あまり期待はしてなかったのですが、それを見事に裏切ってくれました。
自分的には5段階評価で4はつけたいです。
>>[326]  >>[327] しをんさん
原作好きの者としてはアニメは大絶賛ですし、ドラマも誠実に作られた良作と思っています。
ただし、ドラマ開始当初、「アニメと違う」「アニメと同じ」という声が多くて閉口しました。
(アニメもドラマも、同じ二次創作であるはずなのに。)

現代編について補足すると、
現代の香川京子が孤児の節子だったという「謎解き」のための現代編じゃないだろうし、
だからといって、「すずさんに会いに行きましょう」と行った先が(お墓ではなく)、
球場で今もカープを応援しているという「驚き」というだけでも苦しいと思っています。
(アニメの片淵監督のリップサービスに、ドラマが拘束されなくてもよいとも思うし。)

となると、現代編がわざわざ制作された意義は、最後の「負けんさんな、広島!」にあって、
もし現代のすずさんが発した言葉が、水害被害の広島の人たちの心を打ったのならば
それはそれでよかったのかなあ、という感覚です。
(関東で10%、関西で15%前後だった視聴率が、広島では20%をキープし続けたと聞きます。)

生きているすずさんですが、あの坂の上の長の木はさすがに高齢者には暮らしにくく、
どこかの時点で市街地に近い便利なところに移転したのかと妄想します。
にしても、球場に行けばきっと会えるみたいなのには、まだ馴染めないでいるのですが。
すずさんの実家がある、広島の江波へ広電で行ってきました。12月上映予定の、ディレクターズカット版のアニメ映画楽しみですわーい(嬉しい顔)

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