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明日クラブコミュの『考える』ということ

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ここ数年、日本で、雑誌や本のタイトルで『論理的な話し方のコツ』や『話上手になる方法』といったようなものをよく見る気がする。ビジネスのセオリーから言うと、客のニーズがそこにあり、つまり話し下手で困っている人があるということで、しかもそのような本が売れるということからそれが確かであるということも証明される。そこで『考えた』。なぜ?

ある日、明日クラブでのメンバーでもある友人と『考えること』について話していた。結論から言うと、日本人は(欧米諸国の人達に比べると)非常に考える力が弱いということになった。自分もイギリスに来る前はそうだったと自分を分析する(余談)。なぜ?
それは日本の変わった文化や教育制度から来ると私は思う。変わった文化@別名(みたいな文化)。意見や考えを伝える際に、〜みたいな、と断定をしない、常に相手に同意を求めるような口調。ある一定のグループ(仲間)の中で理解できればそれで満足で、他グループとの差別化を図る(自分もそうだったと思う)。これは俗に言う『お山の大将』を作り上げる。(世界は広いよ!)
この文化は教育制度の問題とも絡む。日本の教育における基本理念は『平等』である。皆は平等に能力、チャンスを与えられており、平等な教育を与えられるべきである。能力の差は努力の差によって生まれるものである。できるだけ不公平をなくそうよ(みたいな・・)すばらしい理念である。出る杭は打たれる、この表現はこういった日本の文化を表してる。しかし、今の社会はその理念とは全く逆に進んでいる。できるやつは生き残るし、だめなやつはそこで終わり、自分で気づかない限りは。最近の少年犯罪や、軽かれ重かれ精神病の増加は少なからずともそれらが原因といっても過言ではないだろう。その守られた学校環境と今の競争社会とギャップにか弱い精神構造が耐え切れなくなってきているのである。
反対意見であろう『日本の厳しい受験地獄』これは競争ではないのか!、確かにそうである。しかしそこにもまた問題がある。それは
受験システムそのものというより、それをパスすれば、卒業は簡単。ここにある。欧米では逆である。また、学校内の試験方式も大学に至っても暗記方式だ。欧米は論述問題が多い。勘違いしないでほしいのは、どちらが良い、悪いということを言っているのではない。ただ、考える力を付けると視点から言うと、日本のそういったシステムは良い環境とは言えない。国としてみた時に平均的な学力
は他の国と比べると高いと言えよう。ただ、それは日本が裕福だからだ。個人として『考える』ことをしない文化は将来的見通しは暗いと言えよう。そして、まだまだ『出る杭は打たれる』文化、平等思考が根強く残る日本は、将来的に多くの優秀な日本人を失うこととなろう。

『考える』ことは『気づく』こと
考えながら日々の生活をしている人は、他者が気づかないことに気づく。なぜなら、そういう人たちは、なぜ?どうして?どうやって?などと、自分なりの問題提議をし、考え、自分なりの答えを模索する。その答えが違うならば、なぜ?とまた新たな考えるためのトピックを生み出す。そこに『気づく』ことが生まれる。考えるからこそ自分の意見というものがある。多くの人はわからないことがあれば、それを知っている人に考えることなく、ただ単純にその答えを求める。そこになぜそうなのか?という問題提議はない。答えがわかればそれでいいのだ(バカボンのパパみたいな)。そういう人はだいたい、それを違う人に伝えるときに、「これはこうらしいよ」ってあの人が言っていた、とか、なんで?と聞くと、知らない、「あの人がそういっていたから」、で終わってしう。だから、考えを具体化すること、人に伝える能力が低下するのだ。確かに、伝える能力というは、また違ったものなのかもしれない、ただ、それは日々の生活の中で訓練することができるのではないだろうか!?できると思います。難しいことを言えと言っている訳ではない、自分なりの表現方法で言葉にできれば、具体化できればそれでいいのではないだろうか!?小さな疑問を抱き、自分なりに考え、仮説を立てて人に伝えてみる。その流れの中に『気づく』ということがあるのではないだろうか!?考えることなく気づくことは、誰もが気づいているものだろう。その中で、自分なりの『気づき』があるということ、それが自分らしさであろう。

最後までこのわけのわからん日記を読んでくれた人、ありがとう。もし良かったら、あなたなりの『考え』をコメントください。これを書いているうちに、自分もまだまだ訓練が必要だということに『気づき』ました。みたいな〜。

コメント(6)

私は、みんな、どの民族も、ちゃんとものすごく考えていると思いました。欧米人がちゃんと意見を発せられているのは、世界基準が欧米基準とほぼ同一ということになっているからなのでは。
日本に新しい文化が入ってきて、まだ、あまり時間がたっていないので、急激な変化の中でそのひずみがたたっていると思います。個人的な経験から、着物を着ているときは、きちんとモノを話せていると思います。それは、日本人の体質、性格に調和したものを身に付けているから、自分自身でいられる。着慣れていなくても、どこか、体が知っている。

考えていないわけではないと思います。何も考えないこと、というのも、あれこれ経験した上で、ちゃんと考えて、何も考えないほうが生きていきやすい、と判断した人たちの手段だと思う。ただ、それは日本という特殊な文化のなかでしか通用しないし、特殊性を保つことで、日本人はもしかしたら、日本という国を外敵から守っているとも。
だって、日本のシステムで、とても外人がイギリスみたいにやってけないと思うし。

そういう意味では、日本は、個人の意見は少ないが団体としての主張がものすごくはっきりしていて強いとも言え、出る杭を打ってまで右と左を合わせてきた日本人の努力はすさまじいものだと思います。

私はややもするとそのひずみに絶えられない性格で、そういう人材が時々、世界で通用する人材、ともてはやされることもある。それを「堕落者」と判断しない日本人の珍品に対する感情はとても優しく、正しい。団体行動を常とする日本人が常に少々の規格外の人材を必要としてきた歴史から、それもやはりみんなが考えて作ってきた心意気だと思います。全員が規格外だった場合、こんなに険しい地形、地震や台風、雷も洪水も多く、常に大国からの圧迫を受けてきた日本は日本として生き延びてこれなかったのでは。

なので、みんな、人間である限り考えることはやめてないと思いました。それに気づくことは、でも、必要ですね。どうでしょうか。
なんだか今、小さな喜びに満ち溢れています。たった3人の中でもそれぞれ違う視点で考え意見が出る!すばらしい。(自己満足)
カキコありがとうございます。

確かに日本人という民族はとても賢い民族だと思います。世界水準という点でも、いろいろな点でとても高い水準を占めていると思います。そして、考えることもやめていない。ただ、考える力という点では、マニュアル人間たる言葉が生まれるくらいに、弱いのではないだろうか。今日、新たな点に気が付いた。単一民族国家、そして具体的は言葉よりも、しぐさや行動が意味を持つ日本の独特の文化である。

違う血が混じりあいにくい日本の環境は、国内でのコミュニケーションを取る上で多くの利点をもたらすかわりに国外でのコミュニケーション能力の低下をもたらす。ある限られた中では、多くの言葉を発することなく通じ合える。それは皆が同じ文化の中で育っているからだ。『Common sense is not very common』これはどこでどの血が混じっているかわからない欧米諸国の文化にはぴったりだ。そして、テクノロジーの発達がもたらした国境のない世の中にぴったりである。その中でこれから私たちは生きてゆかなければならない。今、言葉なくして、共通理解などがありえるのだろうか。あるとしたら、芸術の世界だけだろう。これは今も昔も変わらない。だけど、その芸術の世界(すえこさんの分野)においても欧米ではconceptualでないと受け入れられにくいのではないの?つまり、言葉というコミュニケーションツールを使って、自分の考え、アイデアを他の人に伝えることは重要なことであろう。

世界における日本人のコミュニケーション能力は低くないだろうか。言葉という壁もひとつの大きな要因であろう。
私が海外に住むようになってから、この能力が向上したことは自分でも感じる。まわりに居る人間との常識は数えられるくらいだ。何か言うと、なぜ?という質問が普通に返って来る。お互いの間に常識が存在しないから、なぜその意見に辿り着くのか疑問に思う。そういった環境に身をおくことができていることは将来的に財産になろう。言葉が上達したこと以上にこれは大きな意味を持つ。こういった環境をどういう風に日本の社会にうまく溶け込ましていくかは、今すでに進んでいるグローバル化を促進するという点で大きな問題ですね、TBさん。政治の力が必要ですね。
いろんな事考えてる人と話すのって楽しいよね。
きっと日本人もみんな自分なりに
とっても一生懸命考えてるんだと思うよ。
でもそれが自分の友達とか趣味のこととかで、
それが社会の事とかになると、
あんまり親近感が持てないのかもね。
「いろんな人がいてそれがいい。」
って日本のたぶん有名な人が言った言葉がケッコウ好きで、
考える人もいてあんまり考えない人もいて、
それだからこそ人と接するのがもっと楽しくなるよね。
もしみんながとっても考える人たちだったら、
話がにぎやかになって良いだろうなー。
今日は、皆さん。
「考える」ことって大事ですよね。
「考える」こと、つまりそれは自分や他の人の主張を「理由」を基礎として、どれほどの説得力がある意見かをできる限り客観的・科学的に分析しようとすることです。
ここで重要なのはその「理由」であり「根拠」で、この点においては確かに日本人をはじめとして東アジア各国出身の人たちはこの「理由」というものを明確に示さずに主張する傾向があるように感じます。
これは文化的なものが影響してるのではないでしょうか。
米英両国ではこれは顕著です。
アングロ・アメリカンの伝統では主張をするとき根拠というものがないと、「良いアーギュメントだ。」と言われる事がないように、デービッド・ヒューム以来のポジティビズムが両国の文化に大きな影響を与えているように思います。
(どっかの大統領の「神がイラクを攻めろとお告げをした。」というのは別として。実際、経済学者の僕からするとキリスト教というドクトリンを何の論証もなく受け入れてしまうのはあまり良い判断のようにはおもませんが。これはそのドクトリンが良い悪いにかかわらずに。当然、「科学」っていう物がどれほど信用できるのかもなぞですが。「科学」も一種のドクトリンのようなものなのかもしれません。)
当然、論証だけでなく例証も必要となってくるので、「−という感じ。」では、思いつきで話をしているように思われることがあるかもしれませんね。
僕は個人的に米国と英国でしか生活したことがないので、欧州大陸諸国ではどうかという事は明確にはわかりませんが、でも、欧州の哲学史、もしくは経済哲学史、政治哲学史を見ると僕が知る限りやはり「理由」が主張の基礎という伝統があるように思われます。(経済学を勉強しているので余計に感じるのかもしれないが。)
So−sanの表す「−みたいな感じ」が日本で生まれるのは、日本の文化ではコンフリクトを生まない事を重視するので意見を述べるときにこの「理由」を求められないということから来ているのではないでしょうか。
つまり、何か発言があった場合、聞き手は「え、何でそう思うの?」とは訊かずにその発言の意味を理解することを求められる。
「昔はそれでもよかった。」って言うのも怪しいが、とにかく、このシステムの中で「根拠」のない主張をする人がいるのは確かだろう。
とはいっても、米英両国の国民の「理由」とするものもちゃんとした物ではない場合もかなり多いので国民のレベルに大差はないように思う。

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