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異端の文学/外道の系譜コミュの探偵は霧を見つけ、幽玄のさなかに消えた――コナン・ドイル(GFDL)

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 『霧の国』について語りましょう。

 訳者である龍口直太郎氏のあとがきに、“seance”という交霊会をあらわす言葉はフランスが由来だとわかる一文があるが、そのあたりは19世紀のフランス・オカルティズム復興運動――たとえば、私のような一般的な知識程度でも、エリファス・レヴィの名を簡単に記憶の引出しから探し当てることが容易であるように、親しみある事実だといえる。

 そもそも、メアリ・スチュアートのお膝元に群れ集まった人々の例を出すまでもなく、イギリスもまたオカルティズム大国であった筈で、プラハの夜と同様、ロンドンの霧の奥にも神秘主義の秘奥が長らく存在していた。ジョン・ディーや、ロジャー・ベイコンの名が頭をすぎた後でも、「黄金の黄昏」教団による大きな体系めいた名前が、いっせいに彼方の空を覆い尽くしてしまうだろう。とはいえ、ここではオカルティズムの観点からウィリアム・ブレイクの読むような距離の置き方で、節度あるつき合いが一番健全である。

 さて、コナン・ドイルが晩年、心霊主義に目覚めたのは有名だ。記憶が正しければ、イギリスの心霊学会の創立者にも名を連ねている筈である。

 個人的に興味があるのも、人生の終わりになにかしらの事変が起こり、こうしたスピリチュアルな世界へ目開く作家たちの生き様であって、例えばマーク・トウェインは徹底的な厭世観やらニヒリズムを煎じ詰めたブラックなヒューマニズムと、絶妙なコントラストを描いている。

 二極化めいた部分さえあるが、西洋におけるこの二つの軸を見定めて、もっと大きく東西の作家たちの晩年を眺めてみるのも面白いものだ。きっと一神教の縦の動き、多神教の横の動き、のようなモデルになってしまうかもしれない。また、あいまいで灰色めいた部分が、西洋化という津波が起きたところなのかもしれない……しかしながら、そこまで調べる気はさらさらないので、調査結果や真相は霧の奥に隠されてしまっている。

 サー・ドイルにとっての調査――ある種の作家の遍歴が、『霧の王国』のラスト・シーンを奥津城と見立てたとすると、個人的にはあまりにも心もとない結果であって、これならば引退して養蜂の本を書き上げるほうがよっぽどましである……と、シャーロック・ホームズの生みの親であるというフィルターをかけてみれば、すくなからず、そんな詠歎を書き殴りたくもなる。しかしながら、コナン・ドイルは19世紀の人間であることを忘れてはならない。

 稀代の探偵を生み出した人間も、時代の子であり、時代の作家であった筈である。とすると、人生の歩みによって左へ右へ傾くのも、時代が要請した時代の子供たちへのバイアスだろうし、レセプターとしての器もまた、時代のものであったというべきである。ついぞ前に流行ったフーコーのいうところの「知のエピステーメ」かもしれないし、心霊主義のような不可視の世界、いや、死後の興味という人間の普遍的な命題が、時代が欲するスタイルによる解を求めているのかもしれない。

 幾分感傷的ではあるが、19世紀という時代はどういうものであったかを考えると、おのずとわかってくる気がする。このあたりは、著名な高山“学魔”宏による名著、『殺す・集める・読む』を参照されたい。だいたい、エドガー・アラン・ポーも、標本を破壊したキュヴィエが死んだのも、ダーウィンの進化論も、吸血鬼ドラキュラも、顕微鏡の普及も、すべては19世紀であった。ことイギリスではヴィクトリア朝の栄枯必衰があり、エマやシャーリーなど萌えるメイドが生活しているだけではなく、ジャック・ザ・リッパーや「黄金の黄昏」教団も19世紀というタームで括られるキーワードなのである。そして20世紀の幕開けと共に、文明の破壊と創造はインド神話からシヴァを呼び寄せたように、加速度的になる。ダンセイニ卿の夢が終わり、アポリネールが散った第一次世界大戦(Great war)。その時の従軍兵士が、アインシュタインの科学概論を塹壕で読むふけっていた心地よいエピソードは、無関係とは言い切れまい。寓意もあら捜ししてしまう。

 19世紀に生まれ、第一次世界大戦(Great war)を経て、20世紀の始まりに生涯を閉じた作家の、最晩年に上梓したチャレンジャー博士の、明らかな合理主義の敗北といっていいラスト・エピソードはどう解釈すべきか? 失われた恐竜の世界へ行ったり、不可思議な毒ガスの世界へ行ったりと、並みの科学者は太刀打ちできないタフネスを持ったキャラクターが、霊媒によって自身の隠された秘密の指摘と救済がおこなわれた結果、文字通り「改宗」してしまうわけである。

 ありがちな展開ではあるが、ノンフィクションでも別段異常なものではない。こうした科学者の転向はよくあることで、そもそも初めから科学の界隈では神秘的なエピソードにことかかないし、ある種の陶酔――私はそれを「科学者の信仰」と呼んでいる。

 われわれの国では、心霊においては代謝も排出器官もそろい過ぎているので、肩に力の入らないスピリチュアルな逃げ場が用意された結果、無神論者のようなファッションも出来れば、その場限りのミーハーな行動や、過激な盲信に陥ることがある。それが出来ない一神教の文化では、余計に神と個人の対決は直接的な意義をもつ。輪廻という永続性が否定されれば、次のステップは神の国しか逃げ場はないのは当然で、俄然興味も大きくなる筈……と、あたりをつけてみたくなる。

 また、科学者の憩う場所を「象牙の塔」と呼ぶが、揶揄も含まれたこの言葉をメスとして扱うとき、「象牙の塔はジェリコの壁のごときものか、否か?」という最初の設定が肝心である。なぜなら、チャレンジャー博士のに突きつけられた心霊主義の要素が、「象牙の塔」にあるオブジェと何ら変わりないのない場合、当人にとってそれは科学的な可能性の範疇であるから、問題はなくなるからだ。これでは「神が存在している場所は、高度云々メートル、緯度云々、経度云々……」という観点でしかない。合理的、科学的のみの問題となり、コナン・ドイルがやろうとしたような、物質主義偏重の危険性を指摘する内容でなくなってしまう。以上により、この内容は「象牙の塔が壊された」という設定である。

 チャレンジャー博士の場合、過去に起きた自らのミスに、いつも苛まれていたわけだ。それが交霊会によってあばかれ、また真実が明らかになって彼は救われる。そして、目に見えぬ世界を認め、改宗したかのように心霊主義の世界に分け入っていく……という、おそらくドイル作者自身の変容を描いたようなものだが、チャレンジャー博士の「象牙の塔が壊された」点は、秘めた過去を不可視の世界から突かれた部分にある。自分の娘にも隠していた悔恨を、催眠によって霊媒状態にはいった娘から指摘される(!)というエピソードは、意味深である。

 その後、チャレンジャー博士は心霊主義の闘士のような人間となる。物語の結末は、キーパーソンである博士の娘と、主人公エドワード・マローン(実のところ、チャレンジャー博士は物語のダシに過ぎない)の新婚夫妻の会話で終わるのだが、ひとつ、物語の根幹を支える重要な個所がある。それは、娘が神の国の到来を「恐ろしい神の裁き」として捉え、マローンも「万事がどんなに悪いほうに変わったか考えてごらん……」と毒ガスや飛行船による爆撃などを例にあげ、「……いったい神はこんな目的のためにこの地球を造ったんだろうか? そして次第に悪化していく現状をお許しになるのだろうか?」と結ぶ場面だ。

 これは明らかに第一次世界大戦をうけての内容である。近現代にはいり、初めてヨーロッパ大陸全土を巻きこんだ大戦争を目の当たりにした老作家にとって、ホームズらもたしなんだ科学技術による大量殺戮の現実はいかに影響を与えたのだろうか? あとがきに、本格的に心霊主義に没頭したのは1916年以降とあるから、おして知るべしである。今を生きるわれわれからすれば、「……現在では、地球上のあらゆる国家が、いかにしてほかの国をもっともうまく毒ガス攻めにすることができるかとひそかにたくらんでいる……」という文章の、「毒ガス」部分をある兵器名に変換すれば、まさに現代の切実な国際問題に早変わりである。

 マローンは言う、「……僕はチャールズ・メイソンの書いた心霊のメッセージも読んでみたよ。それは“個人なり国家なりにとって最大の危機は、その知的な面が精神的な面より発達したときにある”というのだね。今日の世界の現状はまさにそのとおりじゃないかね?」と。

 その通り!

 ……と、ここらへんで物質主義偏重を罵倒し、精神の高みへ目指すことを鼓舞することで終わると80年代から90年代の日本国内における、この手の論調であり、控えめに考えても根性論と大同小異でしかなく、こと日本では平成の只中にオウム真理教の事件で完膚なきまでに叩き潰される。わが国では逃げ場を創造する余裕すらできなくなってしまった。

 実際問題として、この『霧の国』のラストもクサい台詞で終わるのだが、このドイルの締めの部分にしても、上述した精神面の重要さを唱えたものにしても、基本的には人間のオプチュニズムに支えられたものである。ここにコナン・ドイルの『霧の国』における時代の限界性がある。

 『霧の国』を書いたドイルが読者に突きつけたのは、第一次世界大戦の悲劇性と、その責任の所在をどこに問うのかという内容を、心霊主義=人間の豊かな善性(精神)を取り戻す運動から見た、というものだと私は思っている。龍口氏はベトナム戦争についてアメリカの青年が話した内容に対し、「……人間生活における精神面の重要さに、おそまきながら気がついてきたのではなかろうか」と指摘し、「イギリスにおけるスピリチュアリズム運動を、心霊術そのものとしてではなく、精神主義復帰へのおとぎ話として興味深く眺めている」と書いている。ベトナム戦争を第一次世界大戦の例に置きかえても、その批評の軸と点はぶれないだろう。

 ただ、コナン・ドイルにしてもアメリカの青年にしろ、今のところ地球上で最大威力と被害をもった核兵器について、我々のように間近で終に見ることがなかった。彼らにとって、世界の終末はまだ九相図や地獄絵図とそれほど変わらず、聖書のなかでの話、司祭や牧師の説法の物語でしかなかった。

 だとすれば、実際問題として、「意図を持って行使する人為的な破壊」の限界点に達した今、命なき機械や、行為者すら介在しない鉄と爆薬同士の空飛ぶ殺戮が、手札のひとつとして持ち出される点において、これは知的側面の進化史ではなく、むしろ今まで我々を最初から突き動かしてきたのは、精神的側面の殺戮史でしかなかったのではないか? 痴呆状態に近かったらしいチャールズ・ヘストンの、当時映画で「銃が人を殺すのではない、人が人を殺すのだ」という見出しとして使用された言葉は、なるほど一定の心理を突いていた。

 アベルを殺したのは石や鉄ではなく、カインの殺意だった。カインの殺意を行使するにあたって、石でも、鉄でも、何でもよかった。ただ、アベルの命を奪った最大の凶器は、カインの意志、カインの精神だった。彼の息子がトバル・カインであることは、歴史の必然であったのかもしれない。
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