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思い出の来日公演コミュのこんなに素晴らしいライヴだったのに

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実際に見た自分としては、とても素晴らしいと思ったコンサートだったのに、ほとんど話題にならなかった、あるいは雑誌などのメディアで酷評されてしまったというご経験はありませんか?
そのアーティストの汚名を返上する意味でも、またわかっていないライターを糾弾する意味でも、ここでそれをぶちまけて下さい。

私の記憶にあるものでは、キャロル・キングの初来日となった1990年のコンサートです。決して酷評というわけではなかったのですが....。
当時は「シティ・ストリーツ」というアルバムを発表した頃で、ハッキリ言って既にヒット・チャートを賑わすようなところまでは行かず、遅すぎた初来日ではありました。
しかし、名盤「タペストリー」の収録曲を中心に多くの名曲を生で聴くことが出来た喜びは、言葉では言い表せないくらいのものでした。
ただ、彼女、アンコールのときだったか、ピアノの上に立って歌ってしまったのですね。
それは個人的には見ていてとても微笑ましいやんちゃなオバさんといった光景だったのですが、当時の雑誌のレヴューで、その姿を指して「もっといい歳のとり方をしてほしかった」みたいなことを書いていた記事があって、大いに憤慨したものでした。
その精神的な若さや可愛さがあればこそ、何十年も第一線で活躍することができたのだろうし、みんなから愛されたのだということが、そのライターには全くわかっていなかったのだと思います。

昨年の日本公演では、オフの日にバンドのメンバーの関わりからザ・フーの武道館公演(最終日)を見に行き、後日のステージでは、ギターを持つパートでピート・タウンゼントのマネをして腕をグルグルまわすなど、今もお茶目なキャロルおばさんでした。

コメント(14)

キャロル・キングって、すみません、全然知らないし守備範囲外なので
いいソングライターって認識だけで・・・冷や汗 「It's Too Late」は好き。

ほとんど話題にもならないどころか、あまりお客さんも入らず、メンバーも悔しそうだったのに、私としてすごくよかったというコンサートは、1979年の5月に来たナザレス!
演奏は、本当によかったと思う。タイトなハードロックで技術的にもクオリティ高かった。演奏力は、その後に来たUFO(私のお気に入りだけど)なんかより、ずっと良かったと思ったのでした。
1979年の3月から6月にかけてはコンサート三昧。私だってそのころは4ヶ月で18のコンサート見てます(UFOでは大阪にも行った)。そういうコンサート・ラッシュのころだったから、よけいナザレスは埋もれちゃったとも言えますが。

でも、ナザレスって『Razamanaz』ってアルバムで出てきたとき(1973年終わりころ)、ディープ・パープルの弟分扱いで(ロジャー・グローヴァーがプロデュースだっけな?)、めっちゃカッコよかったんだけど、日本じゃイマイチ人気に火がつかなかったんだわ〜。いいバンドだったけど、そうだな、美形はいなかったからね・・・冷や汗
私は、彼らのアルバム正規のだけで9枚もっている、という隠れナザレスでした。
彼らの「Love Hurts」は泣けます泣き顔
実は「Love Hurts」は本家のエヴァリー・ブラザーズよりも前にナザレスで知りました。トップ40をよく聴いていた頃、大ヒットしましたからね。
ヴォーカリスト:ダン・マッカファティの声も迫力と哀愁があって良かったな。

来日したのは何となく憶えていましたが、そんなに前のことだったんですね。
私はその頃レコード店にいましたが、確かにナザレスは売れませんでした。
いや厳密には、当時廉価盤が出ていてそれらはよく売れたものの、その分中古の買取も多くデッドストックになってしまい、叩き売った憶えがあります。
多分アドリブ・パートが少なく1曲1曲がコンパクトだったところが、メタル系のファンには受け入れられなかったのでは?
その辺、メタルとハード・ロックを一緒くたにしていた業界にも責任あると思います。
まだ1979年のころは、ヘヴィー・メタルという呼び名も一般的じゃなかったし、ジューダス・プリーストもUFOもナザレスもハードロックでよかったのよ。
彼らはその後のメタルなんかじゃないけどね。別に業界に責任あったとは思わないけど。
だって、そのころ私らが業界の人間だったからあせあせ
>ヘヴィー・メタルという呼び名も一般的じゃなかった
そういえばそうですね。
やっぱりヘヴィ・メタルという言葉が浸透したのは80年代に入ってからかな?
初めてその言葉を聞いたのは70年代中期のHeavy Metal Kidsというバンド名からだったけれど、それも全然今で言うヘヴィメタの音ではなかったような気がするし.....

ということで、引き続き皆様の投稿をお待ちしておりますうまい!
チュートンさん、
きゃあ〜〜、Heavy Metal Kidsをご存じ!? ウレシイで〜〜す!わーい(嬉しい顔)
私が初めてロンドンに行った1974年にマーキーで見て、すぐにファンになりました!
そうです、彼らは名前とは違って全然ヘヴィー・メタルではありませんでした。
センセーショナル・アレックス・ハーヴィー・バンドにも通じるウィットと、ロックンロールとファンクとトラッドの微妙な混合・・・、う〜〜む、どう語ればいいのでしょう?
ボーカルのゲイリー・ホルトンは役者でしたよ! もう亡くなってますが泣き顔
今度、そのマーキーでの写真、お見せしたいです!

一つ前の書き込み、不親切でスミマセン。
77〜78年ころは、私は雑誌の編集をやってまして、当時はクイーンにKISSやチープ・トリック、エアロスミスにエンジェル・・・あたりが日本では大アイドル時代(あとベイ・シティ・ローラーズか)。
イギリスからのパンクは、日本ではまだファッションとして捉えられていて、ピストルズはもう解散、クラッシュはまだブレイク前。ストラングラーズやトム・ロビンソン・バンドなどがニューウェイブの旗手でした。

ZEPはちょっと盛り下がっていた時期で、このころはルックスが良くなければハードロック・バンドも話題にもなりませんでした。
そんな時期でも、私のいた雑誌は編集長以下ZEPマニア大勢だったので、やたら何かにつけてZEP特集やら、ハードロックのバンドを取り上げていたのでしたが、確かにレコードもそう売れず、現実的には実に厳しかったのでした。レコード会社の担当に泣きつかれて、よく新人ハードロック・バンドの「よいしょレビュー」は書きましたが、ブレイクしたバンドはめっきり少なかったのです。

78年にジューダス・プリーストが初来日して取材にも行きましたが、彼らは「自分たちの音楽はヘヴィー・メタルだ」と確か言ってました。彼らのコンサートは、かなりお客さんは多かったです。同じ年にスコーピオンズも初来日し、そこであの「荒城の月」を・・・。
両者とも翌79年も来て彼らはもう固定のファンがいましたが、そのちょっと後に来たブルー・オイスター・カルトやナザレスとかUFOは、少し盛り上がりに欠けた、という印象でした。それほどスーパー・ヒーローや美形もいないハードロック・バンド・・・、仕方なかったわね(UFOはマイケルは抜けていた)。
シン・リジィは秋に来ましたが、この年が、ちょっと地味目でタイトなハードロック・バンドの時代の最後の年って感じがします。

ヘヴィー・メタル・ロックとはっきり呼ばれるようになったのは、NWOBHM、つまり「ニュー・ウェイヴ・オブ・ブリティッシュ・ヘヴィー・メタル」80年代に入ってブレイクしたアイアン・メイデンあたりからです。サクソンとかサムソンなども。そのころは、デフ・レパードやガールなんかも、NWOBHMで括られてました。でもマイケル・シェンカー・グループとかホワイトスネイクなどの、有名どころからの脱退・解散組が活動を始めたのもこのころです。

ハードロックとヘヴィーメタルが明らかに線引きを始めたのもこの時期ですね。
このあとはキリがなくなるので、この辺で。

「ヘビメタ」となると、またかなり意味合いが違ってきます。
お笑い系入ってくるよなぁ〜あせあせ
このトピ、不発だったかなぁあせあせ
それじゃ、もうちょっとチャット状態を続けさせていただきますね。

Heavy Metal Kidsは「ロックンロール・マン」とかいう曲だったと思うのですが、たまたま当時よくエアチェックしながら聴いていたラジオのリクエスト番組でかかり、ドラマティックでヴォーカル・ハーモニーがカッコイイので気に入っていました。
さすがにそのテープはもうないですし、後年日本盤で出ていたアルバムを中古盤で買った記憶はあるのですが(多分家の中のどこかに埋もれています)、アルバムの印象は全く憶えておらず.....。
しかし、このバンドを実際にご覧になった方がいるとは思いもよりませんでした。

NWOBHMという言葉は初耳ですが、なるほど、こうして系統だてて説明していただけると勉強になりますね。僕がレコード店に勤務していたのは正にそうした時代だったのですが、ヘヴィ・メタルというジャンルが売り場にジャンルとして独立してきたのはやはり80年代前半くらいだったかな?

元々その店は「アメリカ系」「イギリス系」「プログレ」といった分け方で判りやすくコーナーを作っていたのが、パンクが出てきたあたりから「アメリカ」と「イギリス」の区別が無くなっていき、更に「パンク」が「ニュー・ウェイヴ」というジャンルの一部になって、「ヘヴィ・メタル&ハード・ロック」が独立し、おまけに「AOR」なんてものまで出てきたから、どのアーティストをどのコーナーに入れるというのが、その担当者によって違ってきてしまったりして、とても判りづらくなったものでした。
お客さんもさぞかし混乱したと思います。
ちなみに私の居たのはお茶の水の店で、楽器屋街の並びにあったため、自身でギターを弾くお客さんが多く、ハードやメタル系はニュー・ウェイヴ全盛の時代でもよく売れていました。

それはそれとして、懲りずに皆様の投稿をお待ちしておりますあせあせ
そもそもHeavy Metal Kidsというバンド名は当時フリーを解散したポールロジャースのニューバンドのためにプロダクションサイドが用意したんですよね。
しかし彼が作ったバンドはBad Companyと命名されたため回って来たんですよね。
ですからバンド名と演ってた音楽は縁も所縁も無いんですよね。

最近彼らのファーストとセカンドがCD化されました。
因みにゲイリーホルトン抜きで再結成されたアルバムもブラムチャイコフスキーの「Girl of My Dreams」のカバーや後にマイケルモンローがカバーをする「She's No Angel」とか入っていて良い出来です。ジャケは最悪ですが・・・。
私が一番印象に残っているのは元The Byrdsの3人、ロジャーマッギン、ジーンクラークそしてクリスヒルマンが組んだその名もズバリMcGuinn, Clark & Hillmanです。
彼らの来日は殆ど話題にもならず大阪公演は主催が田中マネージメントで1979年5月31日今は無き桜橋のサンケイホールで行われました。田中マネージメントの社長は当時DJでFM大阪の人気番組「ビートオンプラザ」をやっていた田中正美氏です。
同じサンケイビルにあったラジオ大阪の某番組で招待券をもらって行ったのですがそんな無料客が多数いても1,500人キャパの会場は半分も埋まっていなかったと思います。
そのステージは予想通りロジャーマッギン中心に進められジーンクラークは左の裾でギターとコーラスを奏でて全く存在感が無い。彼には昔から孤独なイメージが有ったけど実際目の当たりにして何とも言えない気持ちになりましたがステージもクライマックスの時ファーストアルバムのA面ラストに入っている「バックステージパス」を彼が歌い出した途端、ガラガラの会場から大合唱が起こりました。私はそんな人気の有る曲なの?って感じでワケも分かりませんでしたが曲が終わった後のジーンの笑顔は今も覚えています。意外な客の反応に気を良くしたのでしょう。
その後発売されたセカンドアルバム「In The City」では3人名義では有るもののジーンクラークは2曲提供しただけで殆ど参加しておらずどちらかと言うとロジャーとクリスのコラボアルバムみたいになったのは残念です。
数年前ひっそりとジーンクラークが亡くなった時もあの時の笑顔を思い出しました。
派手さは全く無く淡々と進められたコンサートでしたがこの時、雑誌・新聞等で殆ど取り上げられなかったしたぶん来日した事すら知ってる人はあまりいないのでは無いかと思います。

>とおるさん
丁度ここでHeavy Metal Kidsの話題が出た矢先にCDの再発を渋谷の某大型店舗で見て驚きました。やはり隠れたファンは多かったということでしょうか?

マッギン、クラーク&ヒルマン、見に行きませんでしたが、当時雑誌のインタビューでもジーンは現れず終いだったという記事を今も憶えています。東京公演は後楽園ホールでしたっけ?
あの頃はニューウェイヴ全盛の頃でしたから、マスメディアの扱いは冷たかったですね。ほとんどシーラカンス扱いでしたし。
結局その後ジーンが脱退してしまい2作目はマッギン&ヒルマン・フィーチャリング・ジーン・クラークになっていましたが、やはりジーンと他の二人のギャップはかなり大きいように感じました。
昨年クリス・ヒルマンが来日公演を行いましたが、当時あまりにも軽いと思っていた感性にも今は程よく渋みが加わり、相方のハーブ・ペダーセンの好サポートもあって、なかなか良いライヴだったように思います。
チュートンさん
Heavy Metal Kidsの再発は上海在住の元部下からのメールで知りました。
結構反響有りましたし米英両方で再発されましたからねぇ〜。

MC&Hインタビュー有りましたか?
クリスは今もコンスタントに活動しているようですね。

FOCUSの2回目の来日公演、京都で見たのですが客は2,400人のところに500人くらいで前年の初来日に比べて勢いは無く丁度「Mother Focus」発売前で過渡期だったのかも知れませんが演奏内容は素晴らしかったのにそれほど話題にならなかったのが残念です。
>とおるさん
マッギン・クラーク&ヒルマン、というよりもマッギン&ヒルマン(ジーン・クラークはすっぽかしたようです)のインタヴューは、当時のニュー・ミュージック・マガジンに載りました。ちょっと今手元にないのですが、インタヴュアーは小倉エージ氏だったと思います。
当時ニュー・ウェイヴが業界を席巻し、更にお膝元の西海岸周辺でも産業化したロックに否定的な流れが出ていた中、イーグルスの「ホテル・カリフォルニア」やジャクソン・ブラウンを逆批判し、今もカリフォルニアは文化の中心だとか、どこまでも自分達はやり続けるといった、極めて脳天気な内容(ある意味前向きではありましたが)に、正直萎えました(苦笑)。

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