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史跡コミュの梁田戦争関連史跡

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 栃木県足利市梁田町540
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 栃木県足利市福富町398−2
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 1967年09月19日、足利市が梁田戦争戦死塚を史跡に指定。
 2005年02月24日、指定地域を拡大し、名称変更。

 「梁田戦争戦死塚」「明冶戌辰梁田役東軍戦死者追弔碑」「弾痕の松」の三つから成ります。
 慶応4(1868)年1月3日に戊辰戦争が勃発すると、足利藩主戸田忠行は態度を逡巡させますが、家老川上広樹が藩内を新政府支持で纏め上げたため、それに従う事になりました。3月9日には徳川軍歩兵部隊の衝鋒隊900人余と、薩長両藩兵を主力とする新政府軍200人余が梁田宿で激突する事件が起きましたが、少人数ながら高性能銃を持つ新政府軍が圧勝しています。この戦いは梁田戦争と呼ばれます。
 梁田戦争直後、徳川軍戦死者の墓である梁田戦争戦死塚が村民により渡良瀬川の河原に建てられましたが、洪水によって塚の一部が抉(エグ)られる事態が発生したため、明治43(1910)年に旧日光例幣使街道梁田宿(ヤナダジュク)の曹洞宗梁田山長福寺へ遺骨は改葬されました。また、墓碑は近くの星宮神社近くに移されましたが、昭和6(1931)年に長福寺へ移されています。戦死塚は、多数の石塊(セッカイ)を積んで石塁とし、上に高さ105cm・幅120cm・厚さ20cm程度の扁平な石碑を置いています。
 長福寺には明冶戌辰梁田役東軍戦死者追弔碑も建てられました。台の上に建てられた高さ260cm・幅77cm・厚さ15cmの碑で「大正十三年九月 従軍衝鋒隊士 従四位勲三等内田万次郎建立」とあり、さらに尽力者五名の名が刻まれています。内田万次郎は父と共に幕府軍側で梁田戦争に参戦し、その後も五稜郭まで徹底抗戦を貫いた人物です。戦後、特赦を得て大蔵省印刷局に奉職し、退職後にこの碑を建てました。
 「弾痕の松」は梁田公民館前にあり、梁田戦争の際に砲弾が当たった痕跡を残す松です。砲弾の痕跡は32cm×10cm程あり、現在はコンクリートが詰められています。松は梁田宿の中にあった「中山楼」という旅籠の庭先にありましたが、その後の所有変更を経て由緒ある松として梁田村へ寄贈され、梁田小学校→村役場→梁田公民館へと移植されました。

コメント(1)

 1月5日木曜日に「梁田戦争戦死塚」と「明冶戌辰梁田役東軍戦死者追弔碑」を訪れました。

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