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史跡コミュの大浦天主堂境内

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 長崎県長崎市南山手町5ー3

 1933年01月23日、天主堂が(旧)国宝に指定。
 1950年08月29日、天主堂が文化財保護法に基づき重要文化財に指定。
 1953年03月31日、天主堂が国宝に指定。
 1972年05月15日、旧羅典神学校が重要文化財に指定。
 2011年03月04日、長崎県が旧長崎大司教館を有形文化財に指定。
 2012年09月19日、境内が史跡に指定。
 2018年06月30日、天主堂・旧長崎大司教館が「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の一つとしてUNESCO世界文化遺産に指定。

 https://www.google.com/maps/place/%E5%A4%A7%E6%B5%A6%E5%A4%A9%E4%B8%BB%E5%A0%82/@32.7344618,129.8694595,19z/data=!4m5!3m4!1s0x3515530faf86dfc1:0xf5f01f5408720d26!8m2!3d32.7341535!4d129.8701372

 安政5(1858)年の日仏修好通商条約に基づいてフランス人の礼拝堂建設が認められたため、文久2(1862)年にフランス帝国のパリ外国宣教会宣教師で日本教区長のプリュダンス=セラファン=バルテルミ=ジラール司祭の命により、横浜にいたフランス人司祭ルイ=テオドル=フューレが長崎に赴任、司祭館と教会堂の設計を行って建築準備に着手したのが大浦天主堂の歴史の始まりです。同年、慶長元(1597)年に豊臣秀吉の命によって長崎で処刑された26名が列聖されたのを記念して、教会堂の正式名は日本二十六聖殉教者聖堂とされました。
 文久3(1863)年にはベルナール=タデー=プティジャン司祭が長崎に着任し、フューレ司祭を補助して天主堂設計に尽力、肥後国天草出身の小山秀之進が大工棟梁として施工し、元治元(1864)年12月29日に教会堂は竣工しました。元治2(1865)年2月19日には献堂式を挙行、式典には居留外国人を含め、長崎港に停泊中のフランス帝国・ロシア帝国・イギリス王国・オランダ王国の軍艦艦長がそれぞれカトリック信者の水兵数名を従え参列しました。建築様式は三本の塔を持つゴシック風の構造ながら、正面中央の壁面はバロック風で外壁は海鼠(ナマコ)壁との特殊な意匠を持つ木造建築でした。
 プティジャン司祭は日本には隠れ切支丹が潜伏しているとの妄想を抱いていたため、連日、十字架の描かれた凧(タコ)を揚げるなどして教会堂の存在をアピールしていましたが、長崎在住の欧米人達は「250年も過酷なキリスト教弾圧が続いた日本に信者なんか残っている筈がない」と言って嘲笑していました。
 ところが、元治2(1865)年3月17日(グレゴリウス暦2月12日)に浦上の住民十数名が天主堂を訪れ、そのうちの一人の中年女が祈っていたプティジャンに近づき「ワレラノムネ、アナタノムネトオナジ」「サンタマリアの御像はどこ?」と囁(ササヤ)き、自分達がカトリック教徒である事を告白したのです。彼等は聖母像を見て間違いなくカトリックの教会堂であると確信し、自分達が迫害に耐えながらカトリックの信仰を代々守り続けて来た隠れ切支丹である事実を話し、プティジャン司祭を狂喜させました。この「信徒発見」のニュースは欧米諸国で大きな反響を呼び、時のローマ教皇ピオ9世はこれを「東洋の奇蹟」と呼ぶ事となります。
 慶応4(1868)年6月にはフランス人司祭マルク=マリー=ド=ロが来日して大浦天主堂に入り、「教会暦」「聖教日課」を石版印刷しましたが、これが日本初の石版印刷になります。
 明治8(1875)年から天主堂の大規模な増改築が開始され、明治12(1879)年に完成しました。その結果、外壁を煉瓦造に改めて完全にゴシック風の建物にするなど創建当時の外観から大きくその姿を変え、九州初の煉瓦造構造となったのです。
 明治24(1891)年にカトリック長崎司教区の司教座聖堂となり、昭和20(1945)年の原爆投下によって破損しましたが、爆心地から比較的離れていたため倒壊・焼失は免れ、昭和27(1952)年に修理が完了、昭和28(1953)年、文化財保護法に基づき洋風建築としては初の国宝に指定されました。
 昭和34(1959)年に長崎司教区は長崎大司教区に昇格し、大司教座管区聖堂となります。昭和37(1962)年にカトリック長崎大司教管区座聖堂は浦上教会へと変更されましたが、平成元(1989)年に長崎大司教館は大浦教会隣接地に移転して来ました。
 また、この間、観光客の増加に伴ってミサの実施に支障が出始めたため、昭和50(1975)年に天主堂に登る石段横の隣接地にカトリック大浦教会が建てられ、毎日のミサは大浦教会で行われる事となりました。
 昭和56(1981)年には第264代ローマ教皇ヨアンネス=パウルス2世が訪れています。
 平成30(2018)年に「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成物件としてUNESCO世界文化遺産に指定され、それに伴って「キリシタン博物館」が開設されました。
 キリシタン博物館の南棟は、明治8(1875)年にド=ロ司祭の設計で竣工した旧羅典(ラテン)神学校です。構造は木骨煉瓦造で、骨組を木造にし、壁に煉瓦を積む特殊な物ですが、ド=ロ司祭は建築技術に造詣が深く、その設計監督した建物は極めて堅牢であるのが特徴です。大正15(1926)年に浦上神学校が出来るまでは神学校の校舎兼宿舎として使用され、その後、司祭館や集会所にも使用されました。昭和初期に一階の間仕切(マジキリ)を撤去して広い部屋を作り、更に三階を改造して学生の寝室としています。
 キリシタン博物館北棟は大正4(1915)年竣工の旧長崎大司教館です。

コメント(6)

 拝観料はキリシタン博物館込みで1000円と高めです。
 コロナ騒ぎのせいか、観光客は少な目でした。
 プティジャン司祭像とローマ教皇ヨハンネス=パウルス2世胸像もあります。

左;旧羅典神学校〔重要文化財〕
中;大浦教会
右;旧長崎大司教館〔長崎県指定文化財〕

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