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史跡コミュの花月

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 長崎県長崎市丸山町2番1号

 1960年03月22日、長崎県が史跡に指定。

 https://www.google.com/maps/place/%E3%80%92850-0902+%E9%95%B7%E5%B4%8E%E7%9C%8C%E9%95%B7%E5%B4%8E%E5%B8%82%E4%B8%B8%E5%B1%B1%E7%94%BA%EF%BC%92%E2%88%92%EF%BC%91+%E8%8A%B1%E6%9C%88/@32.74078,129.8791017,19z/data=!4m5!3m4!1s0x3515536aebdeb92d:0xdccc83c7846141f8!8m2!3d32.7403784!4d129.8799895

 イエズス会領時代の長崎には公然と売春施設を設ける事は出来なかった訳ですが、豊臣秀吉蔵入地(クライリチ)になっていた文禄2(1593)年に筑前国博多の花街である柳町の若干の遊女を古町・桶屋町・今博多町へ移住させる措置が取られ、長崎花街の歴史が始まります。江戸時代になると、その数は次第に増え、博多町・大井手町・紙屋町・古町・八幡町・伊勢町等になどに散在していましたが、寛永18(1641)年に平戸のオランダ商館が出島へ移転された際に平戸の丸山遊郭も長崎へ移転して来たため、遊女の数が一挙に増える事となりました。
 また、3代将軍徳川家光は遊女を特定の場所に集める集娼制度を推進していたため、寛永19(1642)年に長崎市中の遊女屋が全て太夫町に集められ、江戸の吉原・京都の島原と並ぶ日本三大遊郭の一つが誕生したのです。ここの特徴は日本で唯一外国人も対象とした遊郭であった点で、当地の遊女のみが唐人屋敷や出島に出入りする事を許されていました。但し、上級の遊女は日本人のみを相手にし、中級遊女が清国人、下級遊女がオランダ人を相手にするのが原則だった様です。当時は「紅毛人」に対する露骨な人種差別が行われていましたからね。
 後にその区域も整備され町名も太夫町から丸山町・寄合町(ヨリアイマチ)に変更されましたが、一般には「丸山」の名前で定着して行く事になります。東側が丸山町、西側が寄合町です。遊郭の周囲は、遊女の脱走防止のため、塀や石垣で取り巻かれていました。
 延宝年間(1673〜81)に出版された『長崎土産』には「丸山町遊女屋五十九軒遊女三百三十五人内太夫六十九人、寄合町遊女屋四十四軒遊女四百三十一人内太夫五十八人」とあります。
 元禄年間(1688〜1704)の状況を伝えるオランダ商館医師エンゲルベルト=ケンペル(1651〜1716)の紀行には「長崎の丸山は京の嶋原以外では、他に見られぬ艶麗を表現している」とあり、花月楼の鶴の枕は唐の楊貴妃の遺物であるとの話が捏造されていました。遊女の服装が華やかだった事は、小唄「京の女郎に長崎衣裳、江戸の意気地にはればれと、大坂の揚屋で遊びたい」とある程で、井原西鶴(1642〜93)の『日本永代蔵』には「長崎に丸山と云ふ所なくば、上方の金銭無事に帰宅すべし」とさえ評されていました。
 幕末に長崎が開港されると、外国人だけでなく日本人の商人や雄藩藩士も大挙長崎に集まって来たため、丸山は殷賑を極める事になります。亀山社中の坂本龍馬も頻繁に出入りしていました。
 しかし、明治12(1879)年に丸山は大火に見舞われ、長崎貿易の凋落もあって栄華の時代は終わって行きます。そして、昭和31(1956)年の売春防止法公布により遊廓としての丸山は終焉しましたが、現在でも長崎花柳界として「長崎検番」の下、20人前後の芸妓達が健在です。
 昭和時代末期に丸山公園内へ坂本龍馬の銅像が建てられる話が出ましたが、地元住民が「そんなヨソモノの像なんか必要無い」と言って反対したため、龍馬像は平成元(1989)年に風頭山(カザガシラヤマ)公園に建てられました。ところが、その結果、風頭山公園の人気が急上昇したため、後悔した丸山町周辺住民によって平成21(2009)年に風頭山よりも小振りな龍馬像が建てられています。
 丸山随一の郭と謂われていたのが、寛永19(1642)年に讃岐国引田(ヒケタ)村出身の山口太左衛門が創業した「引田屋」で、文政元(1818)年にはその庭に茶屋として花月〔長崎県指定史跡〕が作られ、長崎奉行の巡検の際には休息所として用いられる事となりました。
 向井去来(ムカイキョライ)・頼山陽(ライサンヨウ)・大田蜀山人(オオタショクサンジン)等の文人墨客に愛された郭で、詩文・版画等に紹介されて来ました。
 幕末には勝海舟・坂本龍馬・岩崎弥太郎等も訪れ、二階の大広間には龍馬が酔っぱらって斬りつけたと伝わる床柱の刀傷が残ります。
 花月は明治12(1879)年の丸山の大火で類焼したため、その翌年、花月の名称は引田屋の一部に移転されました。大正末年に引田屋は廃業しましたが、花月の名称と引田屋の庭園・建物は現在に継承されて来ており、今も料亭として営業中です。

コメント(3)

 丸山遊郭跡の中心部は丸山公園になっています。
 今も、遊郭の面影を残す建物が残ります。

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