ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

史跡コミュの長崎(小島)養生所跡跡

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
 長崎県長崎市西小島1丁目58番

 2017年06月05日、長崎市が史跡に指定。

 https://www.google.com/maps/@32.7389953,129.8783404,19z

 長崎(小島)養生所は長崎大学医学部・長崎大学病院の源流となった施設です。
 安政4(1857)年、幕府から医学教授を依頼された長崎海軍伝習所教官のオランダ軍医ポンペ=ファン=メーデルフォールト(1829〜1908)は、同年11月に長崎奉行所西役所へ医学伝習所を設立、幕府医官の松本良順以下11名に医学講義を行いました。しかし、すぐに生徒が急増して手狭になったため年末に大村町の高島秋帆邸内に移転しています。
 翌安政5(1858)年、米艦ミシシッピー号が清国から長崎へ入港した際に同号のコレラ患者から日本に於ける第二次コレラ流行が起こり、280000人もの死者が出る事態となったため、ポンベは長崎奉行所に衛生行政の重要性を訴え、病院設立の必要を説いたため、幕府はこれに応えて万延元(1860)年に養生所の建設を決定、文久元(1861)年9月にこの小島郷字稲荷岳の地に養生所が開院し、同時に医学伝習所も当地へ移転して医学所として併設され松本良順が初代頭取となりました。
 養生所が郷民の救恤(キュウジュツ)診療を行ったのに対し、医学所では学生の教育が行われ、薬局・図書館・人体解剖室が設置されて臨床医学の講義が行われました。
 文久2(1862)年、ポンペが帰国すると彼に代わって同じくオランダ軍医のボードウィンが教頭に就任しました。
 慶応元(1865)年4月に養生所・医学所は統合されて精得館と改称、これと共に館内に化学教室「分析窮理所」を新設して、オランダ人理化学者クーンラート=ハラタマ(1831〜88)を招聘(ショウヘイ)しました。
 この分析窮理所はその後、組織改革のため江戸の開成所、維新後には大阪舎密局に移転しています。
 維新後、精得館は新政府に接収される事となり、ここを視察した長崎府判事井上聞多(イノウエブンタ)の献策に基づき、明治元(1868)年10月に長崎府医学校・病院へと改編されました。長崎でポンペやボードウィンに学んだ松本良順・相良知安(サガラチアン)・佐藤尚中(サトウショウチュウ)等は、明治新政府がイギリス医学では無く、当時のヨーロッパ医学の主流であったドイツ医学を医学教育に採用する事に貢献する事となります。
 その後、「長崎府医学校・病院」は「長崎県病院医学校」→「長崎県病院・長崎医学校」→「第六大学区医学校」→「第五大学区医学校」→「長崎医学校」→「蕃地事務支局病院」→「長崎病院・医学場」→「長崎医学校・長崎県立長崎病院」→「第五高等中学校医学部」と改称を重ねました。第五高等中学校の本校舎は熊本に設けられています。明治24(1891)年に第五高等中学校医学部医学科・薬学科は小島から西彼杵(ニシソノギ)郡浦上山里村(現;長崎市坂本)へ移転しましたが、小島に分教室と病院は残りました。
 明治27(1894)年、第五高等中学校は官立第五高等学校と改称され、明治34(1901)年に官立長崎医学専門学校として分離独立しますが、明治39(1906)年に小島分教室は廃止されて、校舎は佐古尋常高等小学校に転用されました。
 佐古尋常高等小学校は昭和16(1941)年に長崎市佐古国民学校、昭和22(1947)年に長崎市立佐古小学校と改称され、平成28(2016)年に仁田小学校と統合されて長崎市立仁田佐古小学校となり、令和2(2020)年に旧佐古小学校跡地、即ち小島養生所跡に新校舎が完成しましたが、埋蔵文化財発掘調査により養生所遺構が検出されたため、校舎の一角に長崎(小島)養生所跡資料館が設けられて、遺構の一部を露出展示し、ヨーロッパ製薬瓶等の病院関連出土遺物を展示すると共に、映像やVRを用いて養生所及び関連施設である医学所・分析究理所の歴史的価値や、「日本近代西洋医学教育の父」と称されるポンぺの功績などを紹介しています。

コメント(3)

 分析究理所石垣が保存されています。
 資料館は入館無料ですが、写真撮影は禁止です。

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

史跡 更新情報

史跡のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング