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史跡コミュの高島秋帆旧宅

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 長崎市東小島町5番38号

 1922年10月12日指定。

 https://www.google.com/maps/place/%E9%AB%98%E5%B3%B6%E7%A7%8B%E5%B8%86%E6%97%A7%E5%AE%85%E8%B7%A1/@32.7394652,129.8801518,17z/data=!3m1!4b1!4m5!3m4!1s0x3515536a38565a0b:0xbdacf62349cc8274!8m2!3d32.7394652!4d129.8823405
 
 高島秋帆(タカシマシュウハン;1798〜1866)は、長崎町年寄の高島四郎兵衛茂紀(タカシマシロウベエシゲノリ)の三男として寛政10(1798)年8月15日に大村町(現;万才町)で生まれました。その後、茂紀が文化3年(1806)に現在地へ雨声楼(ウセイロウ)や齢松軒(レイショウケン)と呼ばれ別邸を建てています。
 文化11(1814)年に秋帆は父の死によって町年寄を継ぎ、また長崎表御取締(ナガサキオモテオトリシマリ)にも任じられました。天保9(1838)年の大火で、大村町本邸が類焼したので、以後この別邸が秋帆の居宅として使われる事となりました。
 秋帆は荻野(オギノ)流砲術を父に学ぶ一方、オランダから銃砲を購入して西洋砲術も研究し、日本の兵制改革の急務を幕府に上申しました。天保12(1841)年5月武には州徳丸原(現;東京都板橋区高島平)で洋式の訓練を実施して幕府から褒賞を受けましたが、天保13(1842)年に無実の罪で捕縛されてしまいます。
 嘉永6(1853)年のペリー来航による社会情勢の変化により漸く釈放された後は、幕府の富士見宝蔵番兼講武所支配及び師範となり、幕府の砲術訓練の指導に尽力しました。元治元(1864)年には『歩操新式』等の教練書を「秋帆高島敦」名で編纂しています。慶応2(1866)年1月14日に69才で没しました。
 雨声楼は維新後も維持されていましたが、昭和20(1945)年に原爆で大破して破却されてしまいました。

コメント(6)

 邸内に残る建造物は石倉のみです。
 解説パネルに雨声楼の写真がありました。

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