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史跡コミュの大胡城跡

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 群馬県前橋市河原浜町660-1

 1967年02月24日、群馬県が史跡に指定。

 https://www.google.com/maps/@36.4200595,139.1589016,17z
 大胡(オオゴ)城は天文年間(1532〜55)に藤原秀郷(フジワラノヒデサト)の子孫である国人領主大胡氏によって築かれた平山城です。大胡氏は平安末期から東毛地方の豪族として勢力を持っていましたが、室町中期までは大胡城西方300m程度の所にある養林寺周辺に館を構えていたと推定されています。
 観応の擾乱(1350〜52)に際して大胡氏は山上氏等と共に足利尊氏に与し、足利直義方の桃井直常・長尾景忠と笠懸野で戦って敗れましたが、やがて直義の敗亡によって大胡氏の勢力は回復した模様です。
 その後、享徳の乱(1455〜83)の最中に古河公方(コガクボウ)足利成氏(アシカガシゲウジ)が配下の岩松持国に赤堀・大胡・深津氏を攻撃させているので、この大乱に於いて大胡氏は関東管領上杉氏方に加担していた事が判ります。また、乱の中、文明元(1469)年に武蔵国川越城で行われた太田資清主催の連歌会に大胡修茂の名が見えています。
 天文年間に入って新田金山城の横瀬氏(由良氏)の勢力が強大となって圧迫される様になったため、大胡重行は大胡城を築いて守りを固めました。
 当時の大胡城は細長い小丘陵地の南北を堀切で仕切り、土塁・枡形門を備えた本丸・二ノ丸を設けた土塁の城でした。大手口は本丸東側の荒砥(アラト)川に沿った根小屋と呼ばれる平坦部に設けられていました。また、やや北方に離れて近戸郭(チカドクルワ)がありますが、これが本来の大胡城だったとの説もあります。
 大胡重行は天文10(1541)年に至って小田原の北条氏康を頼って武蔵国へ赴き、牛込城主になったと伝えられています。
 しかし、大胡氏の一族はなお当地方に残っていた模様で、永禄年間(1558〜70)に上杉謙信に従う者を書き連ねた「関東幕注文」には大胡氏の名前が見えます。しかし大胡氏に大胡城を維持するだけの実力は無く、新田金山城主横瀬氏方となった大胡城には、配下の益田氏(藤原秀郷の子孫)が居城したとの説や、大胡一族の上泉城主上泉信綱(1528〜77)の支配下にあったとの話もあって、話が錯綜しています。
 その後、上杉謙信と北条氏康との抗争に際して横瀬成繁は当初上杉方でしたが、北条方へ寝返ったため上杉謙信が大胡城を攻め落とし、配下の厩橋(マヤバシ)城代北条高広(キタジョウタカヒロ)が大胡城も預かる事になりました。しかし、永禄10(1567)年に高広は北条氏康側へ寝返り、一帯は再び小田原北条氏の勢力圏となりました。
 ところが、翌永禄11(1568)年になると、武田信玄に対抗して上杉政虎と北条氏康の間で越相同盟が成立したため、北条高広は上杉家へ帰参する事が取り決められ、厩橋城は上杉方に引き渡されました。その後、高広は周辺の在地武士の掌握を進め、天正2(1574)年には家督を嫡男の景広に譲って、大胡城を隠居城としました。この当時の大胡城は近戸郭を出城として用いていたと考えられます。二の丸南方には広い捨曲輪(ステグルワ)がありました。
 天正6(1578)年に上杉謙信が急死し、翌年、上杉家の家督相続を巡って御館(オタテ)の乱が起きると、北条高広・景広親子は上杉景虎方に付いたため、越後の本拠地北条城を上杉景勝軍に攻められて失い、景広が戦死する事態を招いてしまいました。そこで高広は甲斐の武田勝頼に服属して厩橋城代としての地位を与えられたのです。その際、大胡城には高広の親族高繁が大胡姓を称して入りました。
 天正10(1582)年3月に武田勝頼が織田信長によって滅ぼされると、織田軍の滝川一益が上野国を与えられたため、高広・高繁は一益に厩橋城・大胡城を引き渡して服属しました。ところが6月2日の本能寺の変で信長が死んだ事を知った小田原の北条氏直が出陣、6月16〜19日の神流川(カンナガワ)合戦で敗れた一益は上州から逐電したため、高広等の上野諸将は一旦北条氏直に服属しました。しかし同年12月に至り、真田昌幸が北条氏直陣営から上杉景勝へ帰順、北条氏直は上野諸将に上杉・真田討伐の動員令を発しましたが、高広はこれを拒否して上杉方に属し、小田原方である今村城主那波顕宗(ナワアキムネ)を攻めました。
 これに対し、小田原方では北条氏直自身が大軍を率いて出陣、厩橋城に猛攻を加えたため、天正11(1583)年9月に高広は耐え切れず降伏、厩橋城は氏直の直轄領とされて北条氏邦が城代となったのです。大胡高繁は氏邦に服属して地位を保ちました。
 天正18(1590)年、小田原城が陥落して権大納言徳川家康が江戸に入府すると、大胡高繁の所領も没収され、大胡城には徳川譜代の牧野康成が20000石入る事になりました。
 牧野氏は大胡城を石垣を備えた近世城郭に大改造します。
 即ち、従来の本丸・二の丸に加えて、南側に三の丸・四の丸(南郭)、西側に西の丸・玉蔵院、東側に根小屋、北側に北の丸(越中屋敷)が設けられ、出城だった近戸郭も大胡城の一角に組み込まれました。
 城全体の広さは南北670m、東西は西の丸・根小屋の平城部を含めると最大310m、丘陵部のみだと180m程度です。
 城の大手口は四の丸の南にあり、厩橋方面に開いていました。西側に侍屋敷、南側の伊勢崎方面には町人町が広がっており、大手口は城下町と城を直結する意図で大手口が変更されたと思われます。
 目立った水堀は無く、空堀以外には城の西側の小さな用水と東側を流れる荒砥川を天然の堀として利用していたと考えられます。当時の荒砥川は、北の丸・近戸郭の崖下直下を流れていました。また西側の用水はS字に歪曲して二の丸と三の丸間の城中央部を横断していましたが、これは本来は歪曲していなかった川筋を変えて用水としたと推定されています。
 北の丸が越中屋敷と呼ばれるのは、牧野氏寄騎(ヨリキ)で3000石を領した真木越中守の屋敷だったためで、北の丸北側には虎口(コグチ)が無かったと思われ、北からの攻撃を防御して本丸を守る役割があったとされます。つまり、近戸郭は北の丸と連結されていない孤立した状態だった模様で、やはり出城としての性格を保ったままだったと考えられます。
 三の丸と四の丸(南郭)は捨曲輪を二分した物で、東の根小屋と西に設けた侍屋敷の連絡通路として堀切が設けられた結果、南北に分断された訳です。
 西の丸は、大手口の移動により三の丸・四の丸の西側に大手への通路を作る事になったため、旧捨曲輪西の用水を東遷させる必要が生じ、その結果、三の丸と四の丸の防備が手薄となったため、新たに設けられました。南北に細長い平城部で、西に広がる侍屋敷との連結を深め、また従来東西に狭かった城の構造的脆弱さを補う役割も持っていました。
 慶長5(1600)年の関ヶ原合戦の際、牧野康成は徳川秀忠軍に属して中山道を進みますが、その際、大胡城の守備は稲垣長茂が任されています。そして、康成はは独断で西軍方の真田昌幸が拠る信濃国上田城攻めを行って、秀忠軍が関ヶ原合戦に間に合わなくなる失態の原因を作ってしまったため蟄居処分となりましたが、改易は免れました。
 その後、慶長9(1604)年に徳川家光が誕生した恩赦で康成は処分が解かれましたが、公事は嫡子忠成に任せて閑居を続け、慶長14(1609)年に死去しました。
 大胡20000石を継いだ牧野忠成は慶長20(1615)年の大坂夏の陣で活躍したため、元和2(1616)年に越後国長峰50000石に加増移封され、大胡領は厩橋藩主酒井氏の管轄となりますが、一国一城令の例外として大胡城を保持する事も認められ、高須氏が大胡城代となっています。但し、大胡城の上部構造物は撤去されて軍事機能は事実上失われました。
 そして、寛延2(1749)年に前橋藩主酒井忠恭(サカイタダズミ)が播磨国姫路へ転封になった際に大胡城は正式に廃城となったのです。

◎城下町大胡
 https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=194642&id=96941028
・大胡神社のムクロジ
 https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=320240&id=96942823
・牧野家墓地
 https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=398257&id=96946160

コメント(9)

左・中;本丸土塁
右;本丸北側空堀
左;本丸西側虎口
中;二の丸
右;本丸と二の丸の間の空堀
左;二の丸
中・右;二の丸桝形門跡
左・中;二の丸桝形門跡
右;二の丸水の手門跡
左;本丸からの赤城山眺望
中;水の手門跡
右;本丸からの谷川岳眺望
左;根小屋からの赤城山眺望
中・右;近戸郭跡の大胡神社〔郷社〕祭神;大己貴命・豊城入彦命

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