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史跡コミュの鳥羽殿跡

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 京都府京都市伏見区中島前山町

 1978年07月17日指定

 鴨川と桂川の合流地点である鳥羽の地には、古くから延喜式内社の真幡寸神社が鎮座し、神功皇后の三韓征伐の際に船上に立てた旗に神功皇后・八千戈神(大国主命)の神霊を添えて奉斎されていたが、平安遷都の際に国常立尊が併祀され、平安京の南の鬼門を守る城南宮と改称された。
 鳥羽は平安京羅城門の南約3kmに位置し、山陽道も通る交通の要衝で、朱雀大路を延長した鳥羽作道が作られて平安京の外港としての機能を持つ事になった。
 また、広大な巨椋池(オグライケ)に繋がる風光明媚な景勝地でもあり貴族達が狩猟や遊興を行うために別邸が建ち並び、市が立つなどして賑わっていた。
 そして11世紀に白河法皇の近臣である藤原季綱が鳥羽の別邸を法皇に献上、法皇は大規模な拡張工事を行って、これを離宮とし、ここで院政の政務を行った。後の南殿である。この時、城南宮も域内に取り込まれた。白河法皇は、さらに邸内に自らの墓所として三重塔を中心とした安楽寿院(東殿)を造営した。
 12世紀の鳥羽法皇の代には泉殿や北殿以下の増設が繰り返され、敷地面積は180万?にも達した。鳥羽法皇も安楽寿院に本御塔と新御塔の2つの塔を造営して本御塔を自らの墓所と定めた。新御塔は皇后の美福門院の墓所になる予定だったが、早世した近衛天皇が葬られた。鳥羽法皇も鳥羽離宮で院政を行った。
 また、治承3(1179)年の政変の際に平清盛の命によって後白河法皇が幽閉された地でもある。
 承久3(1221)年には、後鳥羽上皇が城南宮での流鏑馬(ヤブサメ)神事を口実に軍勢を集め、倒幕の挙兵を行っている。 
 このように重要な歴史の舞台となった鳥羽離宮だったが、南北朝時代の戦火によって多くの建物が焼失し、京都の外港の役割も伏見に奪われて急速に荒廃し、城南宮も応仁の乱(1467〜77)で燃亡し、江戸時代になって漸く復興される有様であった。
 鳥羽の地が、再び歴史の主舞台となったのは、慶応4(1868)年1月の鳥羽伏見の戦の時である。大坂城から鳥羽街道を進撃した大目付滝川具挙麾下の徳川軍と、安楽寿院を本陣とする新政府側の薩摩藩兵の間で大激戦が展開された事で知られ、安楽寿院の建造物の多くが焼失してしまった。
 現在、南殿跡が鳥羽離宮跡として整備され、ここのみが史跡指定地となっている。

*安楽寿院境内
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=42287622&comm_id=398257

コメント(1)

2日土曜日に行って来ました。

左;鳥羽離宮公園
中;鳥羽伏見古戦場
右;城南宮楽水苑

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