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史跡コミュの牧野家墓地

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 群馬県前橋市堀越町1259

 1975年07月01日、大胡町が史跡に指定。
 2004年12月05日、前橋市へ移管。

 https://www.google.com/maps/@36.4213804,139.1595132,17z
 浄土宗無量山月照院養林寺境内にあります。
 養林寺裏手には中世館跡であった事を示す内堀跡があり、鎌倉時代の大胡氏の居館跡だと推定されています。
 大胡小四郎隆義は京都滞在中に浄土宗開祖の法然と知り合い、大胡に帰った後も浄土宗に深く帰依、その子の太郎実秀も熱心な浄土宗信者となりました。隆義・実秀親子は手紙で法然へ質問を行っており、法然からの返答が「大胡消息」として存在します。そして、太郎実秀が居館に草庵を建てて念仏修行の道場としたのが養林寺の原型だとされています。
 天正18(1590)年に大胡20000石の領主となった牧野康成は熱心な浄土宗信者だったため、大胡太郎実秀の念仏修行の旧跡がある事を知って当地に牧野家菩提寺を建て、明譽唱空(ミョウヨショウクウ)を開山上人として招聘(ショウヘイ)、浄土宗無量山月照院養林寺が創建されたのです。
 慶長9(1604)年、康成は100石を養林寺に寄進をし、徳川将軍家に御朱印地として願い出たところ許可される事となり、仏具等一切に葵の紋の使用を許されました。この頃は養林寺の最も栄えた時期であり、京都知恩院の直末でした。
 牧野康成は慶長14(1609)年に大胡城にて没し、当寺に葬られました。その子の牧野忠成は元和2(1616)年に越後国頚城(クビキ)郡長峯50000石へ転封となりますが、転封前に没した夫人は当寺に葬られています。
 江戸時代前期の養林寺は、上野三壇林(コウズケサンダンリン)として太田大光院・館林善導寺と共に高い権勢を誇っていた事が正徳2(1712)年成立の『和漢三才図会』にて伺えます。ところが、宝暦4(1754)年・天明4(1784)年・天保11(1840)年の三度の火災に罹い、堂塔寺宝の大半が焼失して衰微してしまったのです。唯一焼け残ったのが山門でした。
 維新後、御朱印地100石は明治5(1872)年に没収され、檀徒も無かった養林寺は経営が傾いたため、知恩院直末を離れて太田大光院末に転向、明治6(1873)年に大光院開山の呑龍(ドンリュウ)の分身像を奉安します。この結果、群馬県で人気のある呑龍上人信仰によって盛況を取り戻したのです。
 墓地には牧野成定・康成・忠成の三代を含む七基の墓が並びますが、実際に当地へ葬られたのは康成・康成夫人・忠成夫人のみです。
 徳川家康から綱吉に至る五人の徳川将軍の供養塔も設けられています。

◎城下町大胡
 https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=194642&id=96941028
+大胡城跡
 https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=398257&id=96942374
・大胡神社のムクロジ
 https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=320240&id=96942823

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