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史跡コミュの白鳥塚古墳

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 兵庫県宝塚市中山寺2丁目11-1

 1960年03月31日、兵庫県が史跡に指定。

 https://www.google.com/maps/@34.8212539,135.3670854,19z
 中山寺古墳とも呼ばれます。
 中山寺伽藍建設によって大きく改変されてしまっているため、墳丘の元の形状は不明ですが、一辺約25m以上の方墳だったとの説もあります。主体部の埋葬施設は両袖式の横穴式石室で、南東方向に開口する現存長16.2mに達する大型石室であり、石材には花崗岩の巨石が使用されています。石室の玄室内には加古川流域産の成層ハイアロクラスタイト(竜山石)製の刳抜式家形石棺(クリヌキシキイエガタセッカン)が据えられていますが、副葬品は不詳です。この石棺が閻魔大王の御宝印を納めとされる「石の櫃」なのです。
 6世紀末から7世紀初頭頃の築造と推定されます。中山寺一帯の長尾山丘陵では丘陵東半部で群集墳が営造されていますが、この古墳はそれらとはやや離れた位置に築造されており、石室は大和国の大型石室にも匹敵する規模であり、石室の構造も長尾山丘陵の石室よりは大和の石室に共通性が認められます。西方の特異な八角墳として知られる中山荘園(ナカヤマソウエン)古墳と合わせて、摂津平野西部に勢力を有した大豪族の存在を示唆する点で重要視される古墳です。
 中山寺は寺伝によると、人皇第14代仲哀天皇〔位;192〜200〕と先后大中姫の子で、神功皇后によって撃滅された麛坂皇子(カゴサカノミコ)と忍熊皇子(オシクマノミコ)の追善供養のため聖徳太子が建立したとされる日本最初の観音霊場です。587年に大臣(オオオミ)蘇我馬子によって撃滅された大連(オオムラジ)物部守屋(モノノベノモリヤ)の追善供養のために建立されたとの話も伝わるため、守屋の霊を鎮めるのが真の目的で、麛坂皇子云々は馬子の目を誤魔化すための名目だったとも考えられます。この一帯は物部氏一族の若湯坐(ワカユエ)氏の居住地でしたから、若湯坐氏が真の創建者だったのかもしれません。
 中山寺の寺伝では仲哀天皇の先皇后大中姫(オオナカツヒメ)が被葬者とされますが、時代が全く合いません。物部守屋の墓だとすると年代が合いますが…。
 同じく中山寺境内にある安産手水鉢(チョウズバチ)は、古墳の舟形石棺で、寺伝では忍熊皇子(?〜201)の墓だと伝えられています。

コメント(2)

 2021年01月10日日曜日に訪れました。

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