ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

史跡コミュの堀之内貝塚

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
 千葉県市川市堀之内2丁目2899番

 1964年07月06日、指定。
 1967年06月22日、指定範囲追加。
 1972年02月03日、指定範囲追加。

 https://www.google.co.jp/maps/@35.759998,139.9126806,17z
 縄文時代後期から晩期の貝塚で、縄文時代後期前葉の標式土器形式である堀之内式の標式遺跡として知られています。
 縄文海進期には半島状になっていたと推測されている下総台地西端近くの国分(コクブ)川右岸部の標高22m程度の尾根状の台地及びその斜面の谷津(ヤツ)に位置しています。
 東西225m・南北120mの中央台状型の二方向砂泥質斜面に、鹹水(カンスイ)産の蛤(ハマグリ)・浅蜊(アサリ)・疣喜佐古(イボキサゴ)・沖蜆(オキシジミ)を中心とした貝殻が軒を連ねるように馬蹄型の貝塚を形成しており、特に縄文時代後期前葉の頃の貝層が厚いとされます。  
 東京に比較的近い事と、以前は未開発の山林であった事から早い時期から発掘が行われ、最初の踏査は明治16(1883)年に行われました。その後、明治34(1901)年に最初の発掘が行われ、続いて明治37(1904)年には東京人類学会の最初の遠足会が実施された際に埋葬された人骨が発掘され、更に大正6(1917)年にも同会33周年記念事業として遠足会が行われました。
 大正10(1921)年の東京帝國大学による発掘に参加した理学部学生の山内清男(ヤマノウチスガオ;1902〜70)は出土土器を研究してこれを「堀之内式土器」と命名、昭和15(1940)年になってから発表しました。
 戦後、昭和24(1949)年から翌年にかけて立教大学等が行った三度の発掘では、これまで注目されていなかった貝塚より下層の関東ローム層を発掘したところ竪穴式住居跡が発掘されました。昭和29(1954)年には日本人類学会70周年記念事業として、早稲田大学・慶應義塾大学・明治大学の合同発掘調査が行われて、初めて本格的な地形測量が行われています。
 また、昭和35(1960)年に堀之内貝塚の貝の性格について、日常生活において食用などに用いられた貝であるとする東北大学助教授芹沢長介(セリザワチョウスケ;1919〜2006)と、貝塚を加工用の剥き身場と推定して干貝などの形で他の地域に移出されたとする明治大学学生の後藤和民(ゴトウカズヒト;1932〜2009)が論争を行っています。
 更に昭和38(1963)年の明治大学の調査でほぼ全容が明らかにされました。
 現在、貝塚に隣接して市川考古博物館が建設され、姥山貝塚・曽谷(ソヤ)貝塚等の周辺の貝塚の物と共に出土品が公開されています。

コメント(3)

 日没が迫っていたので、急ぎ足で回りました。

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

史跡 更新情報

史跡のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング