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史跡コミュの巨勢寺塔跡

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 奈良県御所市古瀬361

 1927年04月08日指定

 『阿吽寺縁起』によると、巨勢寺は聖徳太子の創建と伝えられるが、詳細は不明。
 出土した瓦は、飛鳥時代後期のものとみられ、当地を本拠地とした古代の大豪族巨勢氏の氏寺として創建された大伽藍を持つ寺院だったと推定されている。
 『日本書紀』巻第二十九に「朱鳥元(686)年8月巨勢寺封二百戸」の記事が見える。
 白鳳時代の巨勢寺門前の冬野春野と呼ばれる庭は椿の名所として知られており、『万葉集』には巨勢の椿を称える歌がニつ収められている。
 春日倉老が、巨勢の川沿いに咲く椿の見事さを詠んだ歌。
 「河上の つらつら椿 つらつらに 見れども飽かず 巨勢の春野は」(巻1-56)

 持統天皇が紀伊国へ行幸した大宝元(701)年の秋に、巨勢に立ち寄った際、供奉した坂門人足(サカトノヒトタリ)が、秋の椿の木々を眺めて花咲く頃を思って詠んだ歌。
 「巨勢山の つらつら椿 つらつらに 見つつ偲ばな 巨勢の春野を」(巻1-54)

 巨勢寺は平安時代には興福寺の末寺となった。また、平安時代に巨勢(曽我)川が氾濫し村人が窮していたところへ阿吽(アオン)法師なる人物が現れて、これを救ったため、村人は法師を崇めて巨勢寺の一坊に寺を構えさせ、玉椿(ギョクチン)山阿吽寺となった。
 巨勢寺は鎌倉時代に所有財産を春日大社に寄進しており、その頃から荒廃して廃寺となったようだが、子院の阿吽寺は存続し、近隣には冬野春野に由来する山号を持つ浄土真宗冬野山勝福寺も創建された。
 阿吽寺は貞治元(1362)年に火災で全焼してしまったが、江戸時代に再建されて高野山真言宗の末寺となり、勝福寺は正福寺と改称された。
 明治元(1868)年の廃仏毀釈で阿吽寺は荒廃し、明治5(1872)年に廃寺となったが、明治13(1880)年に村人の手によって仮堂が建てられ、正福寺に預けられていた仏像を迎えて再興された。現在は、多くの椿が植えられ、嘗ての巨勢の椿が再現されている。
 巨勢寺跡には塔心礎と基壇跡が残り、大日堂と呼ばれる小さな堂がある。
 露出している塔心礎は、約1.3mの大きさで、直径88cm、深さ12cmの円形の柱孔を穿ち、さらにその中央部には直径13cm、深さ6cmの舎利納孔が穿ってある。舎利納孔の周りには三重の溝が切ってあり、これらの溝を結ぶ排水溝が西方向へ掘られている。このような排水溝を持つ塔心礎は全国唯一である。
 塔の規模は不明だが、正福寺に保管されている巨勢寺の伽藍図「和州葛上郡古瀬邑玉椿山図」には五重塔が描かれている。
 正福寺には巨勢寺の古仏像が所蔵され、境内には巨勢寺跡から移した礎石もある。

コメント(6)

史跡指定地はJRと近鉄の線路に挟まれた地です。
左;礎石
中;正福寺境内の礎石
右;同上
阿吽寺の椿はまだ殆ど咲いておらず、山茶花が少し咲いていただけでした。

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