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史跡コミュの橘寺境内

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 奈良県高市郡明日香村大字橘

 1966年04月21日指定

 正式には天台宗仏頭山上宮皇院菩提寺と呼ばれる橘寺の地は、人皇第11代垂仁天皇〔位;29B.C.〜A.D.70〕の勅命を受けて常世の国へ渡り、10年後に不老長寿の薬である植物の種を持ち帰った田道間守命(タジマモリノミコト)が、天皇が既に崩御している事を知って、その種を蒔いた地とされ、芽が出たのが橘であった事から、橘と呼ばれるようになったとされる。
 人皇第29代欽明天皇〔位;539〜571〕は、この地に橘宮と言う別宮を建て、欽明天皇の死後は第四皇子の大兄皇子(用明天皇)に引き継がれたが、用明天皇第一皇子の聖徳太子は敏達天皇元(572)年にここで誕生したと伝えられている。
 推古天皇14(606)年、人皇第33代推古天皇の命により摂政皇太子の聖徳太子は勝鬘経(ショウマンキョウ)を講義したと伝えられ、その時、庭に蓮の華が降り積もり、太子の冠から日月星の光が輝いたという。天皇は驚き、この地に寺を建てるように命じたとされ、聖徳太子は御殿を改造して寺を建て橘樹寺(タチバナノキテラ)と命名したと伝えられている。当初の建物は、四天王寺式伽藍配置の壮大なものだった事が判明している。
 現在、太子堂の前南側にある低い石垣に囲まれた10m四方程の蓮華塚が、降り積もった蓮の華を埋めた場所とされているが、大化改新の時、この場所を広さの単位である1畝(セ)の基準としたと言われている事から、畝割塚(ウネワリヅカ)とも呼ばれている。
 日月星の三光を発した太子の冠が変じたとされる三光石も残る。
 『日本書紀』に「天武天皇9(681)年に尼房失火で十房焼く」の記載があり、橘寺は当時尼寺であったと考えられる。また、万葉集には「橘の寺の長屋にわが率宿(イネ)し童女(ウナイ)放(ハナ)りは髪上げつらむか」の歌が収録されている。
 皇族・貴族の庇護を受けて栄え、治安3(1023)年には摂政太政大臣入道藤原道長が参拝している。当時は法相宗寺院であった。
 久安4(1148)年に五重塔が落雷で焼失したため、文治元(1185)年に三重塔として再建された。五重塔の心礎は橘の花を象っている。
 永正3(1506)年に多武峯(トウノミネ)の僧兵の攻撃を受けて焼亡し、江戸時代には僧房一棟を残すだけに衰微、天台宗山門派に転向した。
 現在の本堂(太子堂)は元治元(1864)年に再建された建物で、本尊として木造聖徳太子坐像〔重要文化財〕が安置されている。太子35歳の姿を現した像とされ、永正12(1515)年、椿井舜慶の作である。
 観音堂には11世紀の作とされている木造如意輪観世音菩薩座像〔重要文化財〕が安置されている。
 境内には重要文化財の石灯籠の外、二面石と呼ばれる高さ約1m程の石像があり、左右に善相と悪相が彫られていて、人の心の二面性を表現しているとされる。
 その他、重要文化財の木造伝日羅立像・木造地蔵菩薩立像・絹本著色太子絵伝8幅・木造鼉太鼓縁(ダタイコブチ)を所蔵する。
 新西国三十三箇所観音霊場第10番札所となっている。
 平成9(1997)年に建立された往生院の天井には260枚もの花の絵が奉納されて天井画となり、華の浄土を現出している。

コメント(9)

 一昨日、行って来ました。

左;西門
中;経堂
右;聖徳太子愛馬「黒駒」像
左;二面石 善相
中;二面石 悪相
右;鐘楼
左;護摩堂
中;勝鬘経一石一字写経塔
右;土蔵
左;五重塔芯礎
中;紫式部
右;三光石
寺の背後のミハ山は飛鳥全体の神奈備だとされます。

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