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史跡コミュの大洲城跡

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 愛媛県大洲市大洲三の丸

 1957年06月18日、愛媛県が史跡に指定。

 源平合戦の際に河野通信が肱川と久米川の合流点にあたる標高約100mの地蔵ヶ岳に築いた平山城。当時は比志城と呼ばれた。
 鎌倉時代末期の元徳3(1331)年に伊予守護宇都宮豊房が比志城を改修して大津城(地蔵ヶ岳城or根来山城)を築き、拠点として以来、伊予宇都宮氏の居城となった。
 江戸時代初期、伊予府中城主藤堂高虎の属城となっていた際に近世城郭として大改修された。北と東は肱川に臨み、南から西にかけて二重の堀が巡らされて、丘陵頂部を本丸、その下段に二の丸を配し、三の丸には武家屋敷が設けられた。城郭の規模は東西約300m、南北約430mあり、天守のほかに20棟近い櫓があって、小規模ながら堅固な縄張りを持っていた。
 天守閣は本丸の南東隅に建てられ、北に高欄櫓、西に台所櫓を配置し、渡り櫓で連結した複合連結式層塔型四重四階で、中央付近に心柱が通され、それに伴い二階の床には吹き抜けが造られていたが、この構造は天守閣の耐久度を低くしていた。外観は、下見板張りで、比翼千鳥破風・千鳥破風・向唐破風で屋根を飾り、窓には連子窓が多用されたが、二階には華頭窓のみが並べられていた。
 加藤泰興が城主の時(1623〜74)に、戦国時代末期から大津と併用されて来ていた大洲に城名が改められた。
 天守閣と一部の櫓は地元住民の活動によって廃城後も保存されていたが、天守閣は老朽化と吹き抜け構造が原因の構造上の欠陥のために明治21(1888)年に解体されてしまった
 現在の天守は、大洲市市制施行50周年記念事業として平成16(2004)年に竣工したもので、大東亜戦争後初めて江戸時代の工法・木造で復元されたものである。明治時代に撮影された外観写真のほか、大洲藩作事棟梁の中村家に伝わる天守雛形等内部構造を知る事が出来る資料が充実していたため、往時の姿をほぼ正確に復元する事が出来た。
 また天守の高さは石垣の上から19.15mあり、本来なら建築基準法で木造では認められない規模であったため、当時の建設省や愛媛県は建設計画をなかなか認めなかったが、二年近い大洲市の執拗な折衝の結果、保存建築物として建築基準法の適用除外が認められ、往年の複合連結式による天守群の復元に至った。天守の復元資金には、民間からの浄財が多く寄せられ、その寄付者の名簿は天守内にレリーフで残されている。
 台所櫓・高欄櫓・苧綿(オワタ)櫓・三の丸南隅櫓・下台所は江戸時代のものが現存し、四つの櫓は重要文化財、下台所は愛媛県指定文化財よなっている。内堀も一部が残っている。
 史跡指定地は、二の丸の一部と本丸。

*城下町伊予大洲
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=63991828&comm_id=194642

コメント(21)

7月29日金曜日に行って来ました。

左;肱川橋よりの遠望
中;苧綿櫓〔重要文化財〕
右;二の丸虎口
左;下台所〔重要文化財〕
中;天守閣
右;本丸石垣
左;中江藤樹詩碑
中;中江藤樹銅像
右;中江藤樹遺愛の藤
左;天守台虎口
中;本丸井戸
右;天守台石垣
左;高欄櫓〔重要文化財〕
中;台所櫓〔重要文化財〕
右;天守閣と高欄櫓
左;旗指物
中;天守閣木組
右;天守閣模型
左;天守閣階段
中;天守閣より肱川上流を望む
右;天守閣より高欄櫓を望む
左;天守閣より冨士山を望む
中;本丸石垣
右;内堀跡
左;内堀跡花菖蒲園
中;同上
右;三の丸石垣
左;三の丸虎口
中;三の丸 お殿様公園
右;外堀跡
天守閣があると、城址らしくて、いい感じです。
4層の天守というのは一般的なんでしょうか?
ブルースカイ様
 四層の天守閣はそう多くは無かったですよ。大洲藩レヴェルの藩にはおこがましいとも言える規模ですなあ。
ありがとうございます。
紀州本家の和歌山城でも三層ですからねえ。

しかし、お写真からは小規模の天守閣のようにみえます。
ブルースカイ様
 天守閣内部の展示室に、主なお城の天守閣の大きさ比較図が載っていましたが、大洲城はかなり大きい方でした。
あら。
意外ですねえ。
愛媛県は複数の領国支配で、地域分割が進んでいたのに、財力があったんですね。
ブルースカイ様
 大洲城は、伊予府中200000石の太守で築城の名手だった藤堂高虎の属城だった時に大規模に改修され、それがそのまま維持されましたから、50000石の小藩にはおこがましい規模の大城塞だった訳です。
 ちなみに大洲藩は肱川が毎年のように繰り返す洪水のために財政は慢性的に破綻寸前の状態が続いており、重税に反発した百姓一揆も頻発していました。
そういった事情ならば、天守の維持費もたいへんだったでしょうね。
 この天守閣は奇をてらった吹き抜け構造になっていたため、工学的に問題が多く、維持費はかなり負担になってたと思いますよ。
 フィルムカメラで撮影した写真を追加しておきます。
肱川橋から見た苧綿櫓〔重要文化財〕です。

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