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史跡コミュの夏見廃寺跡

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 三重県名張市夏見2348−1

 1956年00月00日、名張市が史跡に指定。
 1980年00月00日、三重県が史跡に指定。
 1990年03月08日、文化庁が史跡に指定。

 『醍醐寺本薬師寺縁起』に「大来(伯)皇女、最初斎宮なり、 神亀2(725)年を以て浄(御)原天皇のおんために昌福寺を建立したまう。夏身と字す。もと伊賀国名張郡に在り。」と記載された個所があり、その昌福寺の跡だと推定されている。
 この地は壬申の乱に際し、大海人皇子(天武天皇)が通過し、また、その娘で歴史上恐らく初めて伊勢へ下向したであろう斎王大伯皇女も、ここを通った。さらに、その後、政情の変化により苦境に立たされた大津皇子が、姉である大伯皇女に会いに行くのに通ったのもこの夏見である。
 大伯皇女と大津皇子は姉弟にしては異様に仲が良かった事で知られ、表向きは「天武天皇のために」建立された昌福寺だが、実は非運に斃れた大津皇子の鎮魂も目的だったと推定する説もある。
 昭和59(1984)年から3年に亙って本格的な発掘調査が行われ、多彩な遺物とともにその伽藍配置の詳細が明らかになった。
 階段状に整地された斜面の一番上に金堂があり、その東側に塔が置かれていた。講堂は一段下がった金堂南西に置かれた。
 夏見廃寺の主要堂宇は、全て川原石による乱石積み基壇で、金堂の周囲三面の犬走りと講堂東側の参道などに石敷きが認められている。これら主要堂宇の建立時期は、おおよそ二期に分かれると推定されている。
 金堂は、身舎と廂の柱が同数の大和山田寺と同じ構造を持つ建物であった事が礎石位置から判明しているが、その規模は、基壇で山田寺(21.6×18.2)の凡そ三分の二、建物においては三分の一程度になると推定されている。
 朱のエンタシスの柱に緑の連子窓のはめ込まれた金堂が、跡地横の夏見廃寺展示館で復元されている。

コメント(6)

左;掘立柱建物跡
中;大伯皇女万葉歌碑「磯の上に 生(オ)ふる馬酔木(アシビ)を 手折(タオ)らねど 見すべき君が 在りといはなくに」
右;夏見廃寺展示館

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