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史跡コミュの石見銀山遺跡

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 島根県大田市大森町・温泉津町・仁摩町

 1969年04月14日、史跡に指定。
 2007年07月02日、UNESCO世界文化遺産に指定。

 15世紀後半から16世紀にかけて最盛期を迎えた日本最大の銀山。現在は閉山している。鉱山の本体は標高537mの仙ノ山で、その周囲には要害山・矢滝城山等幾つもの火山が集まり、最高峰の大江高山(808m)の名を取って大江高山火山群と呼ばれる。
 大江高山火山群は、200万年前頃から70万年前前頃にかけて安山岩〜デイサイト質の溶岩を噴出し、こんもりとした溶岩円頂丘の集まりを形成したが、数十の溶岩円頂丘が集まる中で、仙ノ山だけは火山礫と火山灰が堆積して出来た巨大な火山砕屑丘で、石見銀山の鉱床は仙ノ山形成後に生じた熱水活動によって形成された。
 鉱床の形成は約140万年前と推定され、山体の形成後、地下にマグマの貫入があり、その熱によって熱水活動が起こったが、隙間の多い火山砕屑丘である仙ノ山は山体から高温泉と水蒸気を激しく噴出していたと考えられる。
 熱水はマグマ起源のマグマ水と、地表から浸透した地下水が起源だが、このうちマグマ水はマグマ冷却の過程で放出された水分で、この中にはマグマ成分のうち鉱物として結晶化せずに残った物が含まれ、そこには金銀銅等も存在した。
 一方、マグマの熱で高温に加熱された地下水が周辺の岩石と反応して、水に岩石の成分が溶け込む事もあり、こちらは鉱液と呼ばれて熱水鉱床を形成した。
 鉱液となった熱水は圧力によって上昇し、岩盤の割れ目を伝わって地表近くに達したが、地表に近づくと圧力が低下し、それに伴って熱水の温度も低下、溶け込んでいた成分の沈殿が生じ、沈殿物が岩盤の割れ目を充填して鉱脈が形成される。山頂近くでは、がさがさの火砕岩の中に鉱液が広がり、鉱染型の福石鉱床が生じた。また、地表近くでは自然銀の沈殿も起こったが、これには地下に染み込んだ雨水が影響していると考えられている。
 仙ノ山山頂から南側山腹にかけての福石鉱床の鉱脈は幅数cmまでの細い物しか無いが、その周辺の岩石中にも銀が染み込んでおり、その岩石は比較的柔らかいのが特徴となっている。また、含まれる鉱物の種類は、自然銀や銀鉱物の輝銀鉱の外、方鉛鉱・菱鉄鉱・マンガン鉱等である。
 他方、仙ノ山地下深部には永久(エイキュウ)鉱床と呼ばれる鉱脈型の銅・銀鉱床もある。こちらの鉱脈の幅も最大で30〜50cm程度で、国内の金銀銅鉱脈で大きな物が幅数mに達する事に比べると小さな部類である。こちらで産出する鉱物は、輝銀鉱・自然銀の外、閃亜鉛鉱・黄銅鉱・黄鉄鉱・菱鉄鉱・赤鉄鉱等を伴う。即ち、福石鉱床が銀主体だったのに対し、永久鉱床は銅を主体として銀を伴う鉱床だった。
 『石見銀山旧記』によると、延慶2(1309)年に周防国の御家人大内弘幸(ヒロユキ)が石見に来訪して北斗妙見大菩薩(北極星)のお告げにより銀を発見したとの伝説が記されており、鎌倉時代末期から小規模な採掘が行われていたと考えられているが、地表に露出した銀を取り尽すと大内氏は採掘を放棄してしまった。
 その石見銀山を再発見し、本格的に開発したのは博多の商人である神谷寿貞(カミヤジュテイ;?〜1546)であるとされる。海上から山が光るのを見た寿貞は、周防・長門・石見・安芸・筑前・豊前・山城守護の大内義興の支援と出雲国田儀村の銅山主である三島清右衛門の協力を得て、大永6(1526)年3月、銀峯山(仙ノ山)の中腹で地下の銀を掘り出す事に成功、銀鉱石は約7kmの険しい山道を輸送されて、鞆ヶ浦(現仁摩町)から積み出された。良港として知られていた沖泊(現温泉津町)の利用を避けたのは、同地の国人領主である温泉(ユ)氏が、現邑智(オオチ)郡川本町の国人領主だった小笠原氏と結んで大内氏に反抗する事も多く、大内氏の支配が安定していなかったからだと考えられている。
 この時、採掘されたのは福石鉱床で、軟らかくて掘り易い上、比較的簡単な製錬工程で銀を取り出す事が可能だったため、一挙に開発が進んだ。
 義興の死後、息子の大内義隆が九州経営に気を取られている間に、享禄3(1530)年、小笠原長隆が銀山を奪ったが、三年後に義隆が奪回、銀山川を挟んで仙ノ山と向かい合う標高414mの要害山に山吹城を構えて銀山守護の拠点とした。
 天文2(1533)年8月、寿貞は博多から明帝国の禅僧である宗丹と桂寿を招き、明の銀精錬技術である灰吹法(ハイフキホウ)による採掘に成功した。灰吹法とは、金や銀を鉱石などから鉛に一旦溶け込ませた上で、そこから金や銀を抽出する方法で、日本でも飛鳥時代に行われていたが、その後、忘却されてしまっていた技術だった。灰吹法によって効率的に銀を得られるようになり、その手法は全国の鉱山に伝えられる事となったのである。但し、灰吹法では、銀と銅を含む鉱石から銀を取り出す事は出来なかった。
 天文6(1537)年、出雲の尼子経久が石見に侵攻、銀山を奪った。二年後に大内義隆が奪還したものの、天文10(1541)年に尼子氏が石見小笠原氏を使って再び銀山を占領、大内氏と尼子氏による争奪戦が続いた。
 天文20(1551)年の大内義隆滅亡後は、陶晴賢(スエハルカタ)が銀山を支配したが、弘治元(1555)年に晴賢が滅びると、尼子晴久が銀山を制圧、銀山奪取を狙う安芸国の毛利元就との間で激しい争奪戦が繰り広げられた。弘治2(1556)年の忍原(オシバラ)崩れ、永禄2(1559)年の降露坂(ゴウロザカ)の戦いでは晴久が勝利したが、晴久の子の義久の代になると尼子氏は弱体化、永禄4(1561)年から翌年にかけての雲芸(ウンケイ)和議を経て、永禄5(1562)年に毛利元就が最終的に勝利、銀山を完全に手中に収めた。
 元就は、山吹城に次男の吉川元春(キッカワモトハル)の家臣である森脇市郎左衛門を入れ、銀山を朝廷の御料所として献呈する事で支配の正統性も確立した。また、元就は鞆ヶ浦に代えて沖泊をメイン積出港としている。銀山から沖泊までは約12kmと、鞆ヶ浦までよりも距離は長いが、高低差は少なく、銀輸送はかなりスムースに行なわれるようになった。
 また、毛利氏は永久鉱床の開発も行い、銅中心の永久鉱床から銀を主体とする鉱物だけを選別して製錬していた。
 その後、天正12(1584)年に毛利輝元が羽柴秀吉に服属する事になると、銀山は秀吉の上使である近実若狭守と輝元の代官である三井善兵衛の共同管理となり、天正19(1591)年に輝元は秀吉の命によって石見銀山を始めとする領国の銀山を治めるため林就長(ハヤシナリナガ)と柳沢元政を奉行に任命した。石見銀は秀吉の朝鮮出兵の軍資金にも充てられ、慶長2(1597)年には輝元より秀吉に銀3000枚(約480?)が運上されている。
 石見銀山が開発された時期は日本経済の商業的発展の時期と重なっていたため、製錬された灰吹銀を譲葉状に打ち伸ばし加工された石州丁銀、及びその後の徳川幕府による慶長丁銀は基本通貨として広く国内(主に西日本)で流通したばかりでなく、明帝國、さらには16世紀後半からマカオを拠点に来航するようになったポルトガル王国、17世紀初めに来航したネーデルラント連邦共和国(オランダ)等との間で、石見銀山の銀を媒介とする世界規模の交易が行われた。
 特に明は大口の商取引や兵士への給与などのため、額面が無く重量で価値が決定する秤量(ショウリョウ)貨幣を広く使用しており、この多額に上る銀需要の吸引力は莫大なものであった。また、私貿易を禁止する明の海禁政策にもかかわらず、日明間の密貿易が活発となり、密貿易商人は明の朝廷から海賊と見做された。これが後期倭寇である。
 当時の日本の銀産出量は年間平均生産量は約200tだったが、これは世界全体の三分の一を占め、その内石見銀山産は約38tだった。この結果、石見銀山はスペイン王国ペルー副王領ポトシ銀山と並ぶ世界最大級の銀山として全世界的に有名になった。なお、秤量貨幣である石州丁銀は、取引の際は必要に応じ切り分けて使用されたため、原形を留める物は希少であるが、島根県は石見銀山の銀で製作されたとされる御取納丁銀・文禄石州丁銀・御公用丁銀を購入、随時公開している。
 石見銀山は当時のポルトラーノ地図にも記載されており、当時、ポルトガル国王も兼ねて「太陽が没する事が無い帝國」を築いていたハプスブルグ朝スペイン王国国王フェリペ2世は銀を求めて日本へも船団を派遣している。
 銀山を手中にした大内氏・尼子氏・毛利氏、そして豊臣秀吉は積極的にこれらの海外諸国と貿易を行い、当時貴重であった火縄銃の入手に努めた。
イングランド王国やオランダに於いて、石見産銀はSomo銀、或いはSoma銀と呼ばれ、そのまま日本産銀の銘柄の一つとして商取引に利用されたが、これは銀鉱のある大森地区の旧名である「佐摩」に由来する。
 慶長5(1600)年9月の関ヶ原合戦に勝利した内大臣徳川家康は、西軍総大将だった権中納言毛利輝元から石見銀山を接収、同年11月に大久保長安と彦坂元正を下向させ、石見国江の川以東を中心とする地域(石見銀山の所在地、即ち邇摩郡大森を中心に安濃郡・邑智郡・那賀郡の4郡146ヶ村と、美濃郡・鹿足郡で6ヶ村の飛地)を天領とし、翌慶長6(1601)年8月に初代銀山奉行として大久保長安を任命、銀山開発の費用・資材を賄うため、周辺の郷村には直轄領である50000石の石見銀山領が設置された。長安は山吹城の下屋敷のあった吉迫に陣屋を設けて支配の拠点としている。
 長安は山師の安原伝兵衛等を使って石見銀山開発を急速に進め、家康に莫大な銀を上納、これが朱印船貿易の元手になった。慶長7(1602)年に伝兵衛が福石鉱床の釜屋間歩(マブ)を発見して産出された銀を家康に献上すると、大いに喜んだ家康は安原伝兵衛に備中の名と自身の辻ヶ花染胴服を与えている。
 また、坑内の高さが5mもあり、石見銀山最大の坑道である大久保間歩も開発され、長安が騎乗で槍を持ったまま入ったとの伝説が残る。
 新たな間歩の開発に続き、融点の差を使って銀と銅を吹き分ける南蛮吹の技術が導入されて永久鉱床の銀銅鉱石から銀生産が可能になった結果、銀の産出はピークに達し、『当代記』によれば慶長7年の運上銀は4000〜5000貫に達したとされる。
 また、冬の日本海は季節風が強く、沖泊からの出帆航海に支障が出る琴も多かったため、長安は銀山から安芸国三次(ミヨシ)を経て備後国尾道まで中国山地を越え瀬戸内海へ至る陸路の銀山街道を整備し、尾道から山城国伏見の銀座へ輸送するようにした。大森町にある熊谷家は幕府に上納するための公儀灰吹銀を天秤で掛け改め勘定を行う掛屋に任命され、現在、この熊谷家住宅は内部が見学可能となっている。なお、伏見の銀座は慶長13(1608)年に洛中の両替町に移転している。
 幕府や銀山街道沿道各藩による取り締まりの下、直轄地内の郷村に対する人的・物的負担や、街道各村にも銀の輸送にあたる人馬や経費負担の提供が厳しく課せられ、大きな負担となったため、時として訴え出る者や争議が起こったが、この輸送は幕末まで続いた。
 当時の石見銀山の人口は20万人に達しており、当時まだ15万人の人口しかいなかった江戸を超越、京の30万〜40万人、大坂の20万人と並ぶ日本有数の大都市だった。
 長安は表面的には武蔵国八王子8000石の旗本に過ぎなかったが、実高は90000石に達し、さらには天領1500000石の管理もほぼ全面的に委ねられており、幕府年寄(後の老中)兼所務奉行(後の勘定奉行)にまでなって権勢を振るったが、慶長15(1610)年頃から早くも石見銀山の産出量が減少し始めたため、家康の寵愛を失った。さらに、家康の謀臣たる本多正信・正純父子との対立もあって、慶長18(1613)年4月25日の死去の直後に不正蓄財を理由として改易処分とされ、七人の男子は全員処刑、長安の遺体も掘り出されて梟首(キョウシュ)されるに至った。
 長安の後任として第2代銀山奉行となった竹村丹後守道清は、寛永12(1635)年まで22年の長きに亙って奉行を勤めたが、吉迫陣屋から銀山東北の大森に支配拠点を移し、大森奉行所が設置された。
 また、道清は処刑場や大森関所も設けて、銀の不正持ち出し等の犯罪防止に対し厳罰を課す事で治安維持に務めた。鉱夫が石ころ一つでも持ち出せば、問答無用で斬首され、遺体は薦(コモ)で包んで千人壷と呼ばれる屍体捨て場の穴へ廃棄された。
 一方、道清は関所の隣には遊郭を設けて鉱夫の慰安にも配慮したが、灰吹法では鉱夫が酸化鉛の粉塵を吸い込む事になるため、鉛中毒を発症する者が多く、坑道内の出水・高温多湿や鉱滓・煤塵等の過酷な環境も相まって、当時の鉱夫の健康状態は劣悪で、妻帯しても子供も作れぬまま30歳前に死ぬのが一般的だった。
 その後、銀産出量は次第に減少し、延宝3(1675)年に銀山奉行の職は大森代官に格下げされて、大森奉行所は大森代官所と改称された。特に元禄年間(1688〜1704)になると福石鉱床での産出量減少は著しくなってしまったが、永久鉱床の開発が進められ、元禄6(1693)年〜天明7(1787)年にかけて手掘りで1400mも掘られた永久間歩が開削されたのに続き、正徳5(1715)年に龍源寺間歩、享保年間(1716〜35)に新切間歩、同時期に新横相間歩(シンヨコアイマブ)が開発されたため、銀の生産量はかなり盛り返す事となった。
 大久保・永久・龍源寺・新切・新横相の五ヶ所の間歩は代官所直営の御直山(オジキヤマ)で、五ヶ山と称された。なお、龍源寺間歩は現在常時一般公開されている唯一の間歩である。
 享保16(1731)年、江戸南町奉行大岡越前守忠相(タダスケ)の推挙で第19代大森代官に就任した井戸平左衛門正明(イドヘイザエモンマサアキラ;1672〜1733)は60歳の高齢だった事もあって2年間しか任に無かったが、領民から「芋代官」として慕われ、現在の島根県だけでなく鳥取県・広島県にも功績を称える多くの頌徳碑が建てられている。
 平左衛門は、享保の大飢饉に苦しむ領民のため薩摩国から他の地域に先駆け石見国に甘藷(カンショ)、即ち薩摩芋を導入、飢饉の際には自らの財産や裕福な農民から募った浄財で米を買い、幕府の許可を得ぬまま代官所の米蔵を開いて与えたり、年貢を免除・減免したりした。享保18(1733)年5月26日に備中国笠岡の陣屋で死去したが、幕府の許可を得ずに独断専行した事の責任を取っての切腹だったとの説もある。
 安永7(1778)年には要害山を貫通して北方の現仁摩町大国の柑子谷(コウジダニ)へ伸ばされていた永久間歩に連動する永久稼所(カセギドコロ)と呼ばれる製錬所も稼動して開発が進められたが、寛政12(1800)年に大森は街並みの三分の二を焼失する大火に見舞われ、代官所も炎上してしまった。代官所は文化12(1815)年に再建されたが、この頃から石見銀山の鉱脈枯渇は深刻となり、深く掘らなければ銀産出は不可能となった結果、地下水にも悩まされて、コストパフォーマンスは悪化する一方であった。
 慶応2(1866)年6月の第二次長州戦争において、幕府は石見国に紀州藩・備後福山藩・浜田藩・松江藩の藩兵を出動させたが、長州軍の大反攻に遭い、7月18日に浜田藩主松平武聡(タケアキラ)は浜田城を捨てて逃亡するに至った。このため、大森代官鍋田三郎右衛門成憲も7月20日夜に銀山付の役人を引き連れて備中国倉敷へと逃亡、石見銀山は長州軍に占領された。毛利家による266年ぶりの銀山奪回である。以後、石見銀山は長州藩支配下に置かれ、幕府崩壊に乗じて起きた一揆は長州藩兵によって鎮圧された。
 明治元(1868)年の太政官布告による民間払い下げにより田中義太郎が銀山経営権を取得、明治2(1869)年8月に大森県が設置された事によって長州藩による支配も終焉した。
 石見銀山は、明治5(1872)年の浜田地震の被害を受けて暫らく休山となったが、明治19(1887)年からは大阪の藤田組(現DOWAホールディングス)により再開発の試みが続けられた。藤田組は福石鉱床の金銀含有率と量に着目し、明治27(1894)年、旧銀山柵内の清水谷(シミズダニ)に近代的な収銀湿式製錬所建設を開始、翌年完成させた。しかし、鉱石の品質が予想より悪く、また銀の製錬設備も不備だったため、明治29(1896)年10月に僅か1年半余りで閉鎖せざるを得なくなった。
 その後、明治32(1899)年に永久稼所近くで優良な銅鉱脈である内中瀬鉉(ウチナカセツル)が発見されたため、明治35(1902)年に藤田組は採鉱施設・事務所等を大森から永久稼所に移し、発電所を建設して電動式ポンプによる揚水で銅の採掘を進めたため、当地は銅山として注目を浴びる事となった。特に第一次世界大戦(1914〜18)中の好況期には江戸時代初期の全盛期を髣髴させる活況を呈したが、大戦終了後の銅価格暴落や坑内の環境の悪化などにより、大正12(1923)年には休山を余儀なくされてしまったのである。
 昭和12(1937)年に日中戦争が勃発すると、軍需物資としての銅国産化の目論みから当地は再び注目を集め、昭和16(1941)年より銅の再産出を試みるものの、昭和18(1943)年の水害で坑道が水没する大打撃を受け、完全閉山となった。但し、鉱業権は今もDOWAホールディングスが保持している。
 平成19(2007)年6月28日、UNESCO世界文化遺産に登録された。
 登録対象は以下の通り。
・銀山柵内
・大久保間歩
・金生坑(キンセイコウ)
・釜屋間歩(カマヤマブ)
・代官所跡
・矢滝城跡
・矢筈(ヤハズ)城跡
・石見城跡
・大森銀山伝統的重要建造物群保存地区
・宮ノ前地区
・熊谷家住宅〔重要文化財〕
・羅漢寺五百羅漢
・佐毘売山(サヒメヤマ)神社
・石見銀山街道鞆ヶ浦道
・石見銀山街道温泉津(ユノツ)沖泊道
・鞆ヶ浦
・沖泊
・温泉津重要伝統的建造物群保存地区

★大田市大森銀山
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=20127417&comm_id=398257
+石見銀山代官所同心遺宅柳原家
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=73411136&comm_id=398257
+石見銀山代官所地役人遺宅三宅家
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=73409177&comm_id=398257
+石見銀山代官所地役人遺宅岡家
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=73410952&comm_id=398257
+石見銀山代官所地役人遺宅阿部家
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=73413210&comm_id=398257
+石見銀山御料郷宿泉屋遺宅金森家
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=73411963&comm_id=398257
+石見銀山御料郷宿田儀屋遺宅青山家
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=73409061&comm_id=398257
+石見銀山御料銀山町年寄山組頭遺宅高橋家
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=73840146&comm_id=398257
+石見銀山遺跡 二代奉行竹村丹後守墓所ほか
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=73413444&comm_id=398257
・大森代官所地役人遺宅旧河島家
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=73414419&comm_id=398257
・大森代官所地役人遺宅旧宗岡家
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=73414733&comm_id=398257
・豊栄神社境内
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=73840312&comm_id=398257
・吉岡出雲墓
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=73839998&comm_id=398257
・城上神社相生の松
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=73420775&comm_id=320240
★大田市温泉津
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=20127885&comm_id=398257

コメント(47)

左;金生坑
中;深山片喰(ミヤマカタバミ)
右;大久保間歩
大久保間歩入口です。長靴に履き替えて中に入ります。
 大久保間歩内部です。内部に照明は無く、懐中電灯のみが頼りです。フラッシュは持参していなかったので、坑内の柵の上にカメラを固定してバルブ撮影してみました。
 坑内にいた菊頭蝙蝠(キクガシラコウモリ)です。冬季は膨大な数の蝙蝠が坑内で冬眠するそうですが、DNA分析の結果、山口県の秋芳洞の物と一致、相当な距離を飛んで来た事が明らかになりました。
 大久保間歩上方の露頭掘りの跡です。
 大森地区、及び銀山地区北部については以下を御参照下さい。

★大田市大森銀山
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=20127417&comm_id=398257
 3月30日土曜日に銀山地区を訪れました。

左;石見銀山御料銀山町年寄山組頭遺宅高橋家〔島根県指定史跡〕
中;甘南備坑
右;紺屋間歩
坑内の柵の上にカメラを固定してバルブ撮影してみました。
坑内のライトが当たる場所ではヤブソテツが生えていました。
新横合間歩(シンヨコアイマブ)です。
佐毘売山(サヒメヤマ)神社〔史跡〕祭神;金山彦命(カナヤマヒコノミコト)
佐毘売山神社は昆布山谷にあります。一帯では熊が出ます。
吉岡出雲墓〔大田市指定史跡〕です。
新切間歩(シンキリマブ)〔史跡〕と銀山川です。
真言宗銀葉山清水寺(セイスイジ)です。

左;山門[大田市指定文化財]
中;「銀家巌」扁額〔大田市指定文化財〕
右;本堂
清水寺です。

左;石造毘沙門天立像〔大田市指定文化財〕
右;石造不動明王立像〔大田市指定文化財〕
清水谷(シミズダニ)精錬所跡です。
清水谷精錬所跡からは眺望が素晴らしかったです。
温泉津温泉については以下を御参照下さい。

★大田市温泉津
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=20127885&comm_id=398257
3月31日日曜日に沖泊に行って来ました。

鵜丸(ウノマル)城跡と温泉津港です。
恵比寿神社 祭神;恵比寿命(エビスノミコト)・事代主命(コトシロヌシノミコト)

本殿も拝殿も島根県指定文化財です。
沖泊のハマビワ群落〔大田市指定天然記念物〕です。
櫛島城跡です。山麓には石垣がありました。登山道からの眺望は絶景でした。

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