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史跡コミュの難波宮跡

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 大阪府大阪市中央区法円坂町・中央区大手前

 1964年05月02日指定

 大阪市街の東辺、南北に長く連る上町台地は、古代においては大阪湾に突き出た半島であり、大和の外港機能を持つ港町が古くから成立していたと考えられる。
 『記紀』によれば人皇第16代仁徳天皇が313年に高津宮を営んだとされ、645年大化の改新で即位した孝徳天皇は難波長柄豊碕宮(ナニワナガラトヨサキノミヤ)を建設した。653年に都が飛鳥に戻った後も、陪都の如きものとして、難波宮が存続したと認められ、その管理のために摂津職が設けられた。
 その後、聖武天皇の御代の744年2月に難波宮を皇都とする事が決まったが、早くも同年11月には紫香楽(シガラキ)宮への遷都が行なわれ、結局翌年5月に都は平城に戻されている。
 そして793年3月、桓武天皇によって難波大宮は廃され、摂津職も摂津国と改められた。
 この故地は明らかでなかったが、1950年代に上町台地の北端部、大坂城外堀の南方程近いところにおいて、奈良時代の朝堂院の大極殿・小安殿・内裏の大安殿の跡等が檢出された。
 大極殿は、南北約21m、東西推定約42mの基壇を有し、その南面と北面にはそれぞれ三ヶ所ずつの階段があったと認められる。この北に近く南北約12m、東西約33mの基壇があり、小安殿の跡と認められる。
 大極殿の南方は広場をなし、かつ小安殿の東面には、廻廊の遺構が遺存し、彼此合わせ考えて大極殿を中心として廻廊が繞っていたと察せられ、広場の西南隅に東西に延びる雨落溝が発見されている。すなわちこの地域は、朝堂院の大極殿地区であり、この南方に朝堂等が建てられていたのである。
 この大極殿地区の北方には、北面は詳かではないが、南・東および西の三方に掘立柱の廻廊を繞らす内裏があり、その中央部に掘立柱の跡によって桁行(東西)9間、梁行(南北)4間と認められる建物、すなわち大安殿の跡がある。また西廻廊の外側には周垣の一部と推定される南北に延びる築地の跡がある。
 一方、上記の遺跡と或いは複合し、或いは独立し、しかも大極殿・大安殿等と中軸線を等しくする建物遺構(掘立柱穴・石敷等)が発見されており、これが難波長柄豊碕宮跡と推定されている。
 現在地は、大坂市中心部の官庁街中にあるため、聖武天皇難波宮の大極殿地区と内裏中大安殿跡のみが史跡として保存の対象とされている。

コメント(6)

隣接する大阪歴史博物館では、現在「ペルシャ文明展」が開催中です。
11日に大阪歴史博物館に行って来ました。

左;大阪歴史博物館から見下ろした難波宮
中;前期難波宮模型
右;後期難波宮模型
 今日、史跡エリア外の難波宮内裏東方遺跡に行って来ました。
 最近まで下の写真のようにマンション駐車場内に柱跡等が保存されていました。
 それが今では駐車場に黄色いペンキで柱や溝の跡が書いてあるだけと言う珍妙な遺跡に落ちぶれてしまいました。www
4は「下の写真」じゃなくて「上の写真」でした。あせあせ(飛び散る汗)

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