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(小説家詩人作詞家)春野一樹コミュのセーレン・キルケゴール   10

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 1845年4月に「製本屋ヒラリウス編集・印刷・出版」という姿でコペンハーゲンの書店の店頭に並べられた『人生行路の諸段階』は、その魅力的な書名にも関わらず、当時、キルケゴールの他の書物にもまして、誰からも顧みられなかった書物である。
 しかし、この書物ほど、キルケゴール自身の内面の変化を示す書物はないし、哲学的にも文学的にも魅力に富んだ書物はない、と言えるかもしれない。ある人は、この書物はヨーロッパ文学でプラトンの『饗宴』に対して成功した唯一の弁証法的芸術作品であるというし、短編芸術の新しいスタイルと方向を打ち出した画期的な作品であるというし、キルケゴールの作品の中で最も感銘深い作品である、という。しかし、また、この作品ほど誤解を受けた作品もない。
 キルケゴール自身は、後で、自分の全著作の大きな節目が『哲学的断片への結びとしての非学問的後書き』であることを明瞭にしているが、彼の内面の思想性を探る時、『人生行路の諸段階』は、彼の精神の変化を示す転換点となっている。
 それは、第一に、彼のこれまでの著作が、あの愛するレギーネ・オルセンに働きかける意図をもって書かれていたものであったが、この書物では、その意図から離れて、明瞭に自分自身へ向けられていることである。
 1841年に、愛しつつもレギーネ・オルセンとの婚約を破棄したキルケゴールは、それでもなお、レギーネとの真の関係の回復を望みつつ執筆活動に全精力を傾けた。しかし、『反復』の執筆中、1843年夏、その愛するレギーネ・オルセンが他の男性と婚約したというニュースを受け取り、もはや決定的に回復が不可能なことを思い知らされ、精神的な危機を迎え、その衝撃の中で葛藤を繰り返したのである。彼のその葛藤の苦しみは、『反復』の後半部分に顕著に現れている。
 かって、「失恋は確実な死です」といってキルケゴールを呼び止めた彼女が、キルケゴールに「死」の宣告を告げた。すべてが、本当に終わったのである。自業自得とは言え、生きながら「すべてが終わった」と思い知らざるを得ない人の苦しみは、それを経験した人にしかわからないかもしれない。実存の徹底的な無化が起こる。
 そして、約5年の歳月を経て、その苦しい葛藤をくぐり抜けたキルケゴールは、自分自身が『あれか−これか』や『おそれとおののき』、『反復』とは、別の立場に立っていることに気づいたのである。彼は、それらの書物で取り上げた人生の危機を、もっと別の角度から見、自らの問題を、別の形で明瞭にしたいと願った。
 それが、この『人生行路の諸段階』である。ここでは、もはや、彼の内なるレギーネは消え去っている。彼は、レギーネ・オルセンを相手にしていた次元よりも、遙かに深い次元に降りていったのである。そして、自分の苦悩の葛藤を通して人間の実存の弁証法を明らかにしようとする孤独な一人の人間として、新たな著作を始めたのである。
 第二に、そのことの直接の反映として、この書物では、これまでのように感情や思いを詩的に、文学的に表現することではなく、一つ一つの経験と苦悩とが、彼の内でじっくりと熟成され、それらの一つ一つを象徴的に描くという方法が取られていることである。そこでは、冷静な弁証法的な思考が巡らされ、あらゆることが彼の思想表現の諸目的に向けられるという形式が取られている。登場する人物が極めて象徴的な人物として描かれているのはそのためである。

 さて、『人生行路の諸段階』は、「数人の著者による研究を集めたもの」を製本屋ヒラリウスが印刷し、出版するという体裁がとられている。その説明が巻頭の「愛読者諸君!」と題する文章でなされているが、これは、キルケゴール特有のユーモアである。彼は意図的に、この書物の出版者に「製本屋」という言葉を使っている。それは、この書物が、実際に、彼自身のいくつかの著作を集めたものだからである。
 製本屋ヒラリウスは、ある高名な文学者からこの書物の原稿をあずかり、そのまま忘れ、誰の原稿かもわからなくなってしまって、子どものお習字の手本にぐらいしか使っていなかったところ、家庭教師を依頼した一人の神学生がこの原稿の価値に気づき、出版を勧め、ついに出版するに至った、というのである。
 まず、この書物は、大きくは二つの別々の著作の合作である。
 第一は、『酒中に真あり』と題する数名の匿名の人物が催した「饗宴(宴会・ギリシャ語ではシンシポシオンといい、英語のシンポジュームの語源となった言葉で、明らかにプラトンの『饗宴』が意識されている)」での女性・恋愛・結婚に関する演説と、『結婚についての諸想』と題され、饗宴で示された5つの演説に対しての『あれか−これか』に登場した妻帯者ヴィルヘルム判事の異論である。
 そして第二は、『<責めありや?>−<責めなしや?>』と題された「ある苦悩の物語」で、「ある苦悩の物語」は、「ある人」の婚約破棄をテーマにした日記体の手記をフラーテル・タキトゥルヌスという人物が発見し、これを出版し、その「ある人」をフラーテル・タキトゥルヌスが批判した「心理学的実験」が付け加えられるという体裁が取られているものである。
 キルケゴールはこの二つの著作を意図的に合作して出版したのである。 第一の『酒中に真あり!』と『結婚についての諸相』は、本来は、『異常と正常』と題する著作で、数人の匿名の人たちが催した「饗宴」(異常なもの)と、饗宴の際に行われた演説に対する、妻帯者であり、常識的な倫理道徳家のヴィルヘルム判事の返答(正常なもの)であるが、その登場人物は、彼の前著作、『あれか−これか』、『おそれとおののき』、『反復』の著者や作中人物である。
 つまり、 『異常と正常』は、彼のそれまでの著作に対して、それらに向き合うものとして置かれているのである。これは、先にも述べたように、この著作が、もはやレギーネ・オルセンに働きかける意図ではなく、人生の危機を実存的に考察しようとする彼自身の思想的意図に従ったものであるからである。そのため、このいずれの人物も、以前の著作に現れた姿とは変わっており、いずれも個人的な生き生きしたところを失って、単なる心理的実験モデルに過ぎないものになり、それぞれが自分の実存の深まりの程度を、自分の反省を通して述べるものとなっている。
 「饗宴」で女性・恋愛・結婚について演説ををする5人は、『反復』で登場した、あの愛する女性と恋愛できないで悩んでいた青年、同じく『反復』のコンスタンティン・コンスタンティウス、次に、『あれか−これか』の仮名著者ヴィクトル・エレミタ、世俗の観察者である流行品商人、そして、最後が誘惑者ヨハンネスと名づけられた人物である。
 彼らの演説は、それぞれがアイロニー(皮肉・逆説)で彩られ、女性・恋愛・結婚を否定するにしろ賞賛するにしろ、いずれも美的・感覚的段階での心理的な考察を展開したものであり、美的なものを堪能し、懐疑的に人生を考察する姿が描かれている。
 他方、これに反論する妻帯者ヴィルヘルム判事の方も、『あれか−これか』のBとしての実存感のある姿ではなく、単に、宗教的・倫理的な飾りを付けて、確信をもって現実の生活に執着し、堅実な生活態度を守ろうとする、いわば、小市民的な人間を代表する人物として描かれている。
 これらの人々は、すべて象徴である。つまり、キルケゴールがここで恋愛・女性・結婚を取り上げるのは、それ自体を問題にするからではなく、いわば、人生の確かさ、生きることの確かさがいったいどこで見出されるのか、ということを問うためであり、人生の確かさは、現実的には恋愛や結婚を破壊するような、美的・感覚的なもの(異常なのも)にあるのか、それとも誠実で平和な生活を望むところにあるのか、を問うためである。
 しかし、キルケゴールは、ヴィルヘルム判事を単純に「正常なもの」といっているのではない。ヴィルヘルム判事の正常さは、単に外面だけのことである。彼は宗教的・倫理的な正当性、平和で安定した生活の重要性を語る。道徳的には尊敬すべき存在である。しかし、彼には深みがない。5人の演説をした者は、美的・感覚的であるが故に破壊的ではあるが、個々人は、女性・恋愛・結婚を語りつつも、生きることの深みを体現する。
 この狭間に中に、『人生行路の諸段階』のもう一つの著作『<責めありや?>−<責めなしや?>−ある苦悩の物語』が位置づけられている。

 『<責めありや?>−<責めなしや?>』は、『あれか−これか』の『誘惑者の日記』に向き合う「ある人」の恋愛と婚約、そしてその婚約の破棄に至る過程の精神の遍歴を日記風に思い出す形で綴った「ある人の苦悩の物語」と、その日記を発見したフラーテル・タキトゥルヌスの心理学的分析による批判である。
 キルケゴール自身も文中で述べているが、「ある人の苦悩の物語」は、そこには納められているいくつかの挿話は別にしても、愛によって混乱した精神をそのまま現すかのように、混乱し、神経を病んだ人間の文章のように、錯綜して理解しがたいところが多々ある。キルケゴールは、この著作の中で、レギーネ・オルセンとの実際の経験を、少し形を変えてはいるが、あちこちで、ちりばめている。しかし、この「ある人」は、明らかにキルケゴール自身ではないし、登場する女性もレギーネそのものではない。
 「ある人」は、ひとりの明るく可愛らしい女性と出会い、彼女に恋いこがれ、愛し、もはやいても立ってもいられなくなり、彼女に婚約を申し出る。告白の不安、自分がふさわしいかどうかの不安、自分が「絶望」と向き合って生きてきたが故に、彼女を不幸にするかもしれない、という不安、様々な不安が彼を襲う。
 この不安は、いうまでもなく、人が真実に出会おうとする時に経験する不安の象徴である。人は、「出会い」において、不安をくぐり抜けなければならない。
 女性は「ある人」の申し出を受け入れ、かくして「おつきあい」が始まる。デートをし、楽しいときが過ぎる。彼女は闊達であり、生き生きとし、幸福を満喫しているように見える。しかし、彼は、表面は、楽しく時を過ごしつつも、お互いが真実に理解し合えないことに悩み苦しむ。女性は、普通の、何の屈託もないようにして生きてきた明るい少女であるが、「ある人」を理解するための深みをもたない。「ある人」は屈折した自分の内面に捕らわれ、女性を理解する広がりを持たない。行き違いやすれ違いが起こる。「ある人」は、女性の理解を得るために、様々のことを試みる。女性も彼の愛を求める。しかし、お互いが愛しつつも、理解し合えない。そして、破局が訪れる。破局が訪れた時、彼女は言う、「私はあなたのことを何とも思っていない。ただ同情しただけだ」と。
 少女の自分を守ろうとする強がりかもしれない。あるいは、気位の高い女が持つ悪魔的な残酷さかもしれない。
 「個性の不一致ということで、私は難破した」と、彼は言う。どこにでもある恋愛とその破局のパターンかもしれない。
 人が人を理解することは不可能なのか。その理解できない、<責め>はどこにあるのか。
 フラーテル・タキトゥルヌスは、この恋の破局の物語を心理学的実験として受け止め、互いに理解することができない個性の異質性を明瞭に、次のように説明しようとする。
 1)彼は心を閉ざしている−彼女は決して心を閉ざしていることができない。
 2)彼は憂鬱である−彼女は快活である。
 3)彼は本質的に思索家である−彼女は全然そうではない。
 4)彼は倫理的・弁証法的である−彼女は審美的・直接的である。
 5)彼は共感的である−彼女は直接的であるから無邪気に自分を愛している。
 そして、この不一致の根源を、シェークスピアやソクラテスを用いて探ろうとし、苦悩、後悔の心理的弁証法を明らかにしようとする。審美的・直接的であること、つまり、簡単に言えば、感性だけの快・不快で生きることと、倫理的・宗教的であること、つまり絶えざる内省を持って生きることの相違を明らかにしようとするのである。もちろんこれは、心理学的分析の実験であり、その結論を出すものではない。
 しかし、キルケゴールは、この著作と、先の第一の著作を合わせて一冊の『人生行路の諸段階』として出版することによって、『結婚についての諸相』を書いた見かけだけの安定を求める倫理道徳的なヴィルヘルム判事の宗教的装いでもなく、「苦悩の物語」の「ある人」のような人生の否定、ニヒリズムに陥るのでもない、自分自身の人生行路を進むことを示唆するのである。それ故、『人生行路の諸段階』は、この階段を上って人生行路の最高の段階に至る道を示すものではない。どのように真実に生きるかは、ここでも、読者の手に委ねられる。そして、キルケゴール自身は、「悔い改め」の道を進んだのである。


11につづく





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