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(小説家詩人作詞家)春野一樹コミュのセーレン・キルケゴール 5

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1843年に刊行された3冊の左手著作とともに、キルケゴールは右手の著作として9編の『建徳的講話』を出版する。これらの講話は、『二つの講話』、『三つの講話』、『四つの講話』としてまとめられ、しかも、「S.キルケゴール著」という実名で出版されている。これらの講話は、その文体はキルケゴール独自の言い回しが用いられてはいるが、哲学的な要素も文学的な要素もなく、始めから終わりまで純粋に聖書の言葉の解きあかしである。そして、予測どおり、これらの『講話』はほとんど売れなかったし、顧みられることはなかった。
 キルケゴールは、これらの『講話』を出すのに、繰り返し、これらが「説教」ではなく、「講話」であることを強調する。それは、彼の「牧師職」や「説教の権威」にたいするある種のこだわりを示すものである。彼は、自分が按手(牧師になるための儀式。牧師の仕事が神からの委託であることを示すと同時に、神の言葉の権威を授かる儀式)を受けていないこと、それでも聖書の神髄を語ること、の両方の意味をこめて「講話」と呼ぶのである。しかし、言うまでもないことであるが、これらの「講話」の内容は、そこらの教会坊主と組織管理者になりさがった按手をうけた牧師の「説教」よりはるかに優れている。
 この時点でのキルケゴールは、まだ、牧師になる可能性を十分に残していた。当時の教会の監督(教会組織の指導者・責任者)であったミュンスターとの関係も良好であり、ミュンスターが彼の父ミカエルの聴罪牧師(文字どおり罪の告白を聞く牧師)であったことから、キルケゴールはミュンスターを尊敬し、彼の説教集もしばしば読んでいる。著作活動に専念し、レギ−ネ・オルセンが他の男性と婚約をするという失意の経験後の1844年2月には、コペンハーゲンの中心に位置する三位一体教会で、牧師になるための試験説教もしている。また、1846年2月7日の日記には「牧師になるために自らを修める」という決意を新たにしているし、1849年には、ミュンスタ−監督と会い、牧師職につく可能性を打診している。
 牧師になることは、父ミカエルの願いであったし、彼自身も、幾たびかの挫折を経ながらも、ずっと願い続けてきたことに違いない。それ故、1843年に彼が右手著作として実名で9編の『講話』を刊行した時、右手著作と左手著作の思想的位置づけはともかく、牧師職への希求が彼の中で息吹いていたことは疑い得ない。
 9編の『講話』が刊行された後の1844年元旦に、教会の最高権威者であったミュンスタ−監督が、その説教でキルケゴールの『講話』を取り上げ、これを絶賛する、ということが起こった。2月の三位一体教会での試験説教の評価も「優」であった。自らも牧師になりたいと願い、また他からの評価も高いものを得た。
 しかし、彼は牧師にはならなかったし、「説教」ではなく、「講話」を書いた。そこにキルケゴールの「こだわり」がある。自分が「本当にふさわしいか」という自分自身に対する「こだわり」である。この「こだわり」の故に、キルケゴールは愛するレギーネとの婚約を破棄し、願い続けた牧師への道を進まず、「こだわり」の故に、左手の著作活動に専念していくのである。だから、どんなに軽蔑されても、また、どんなに高く評価されても、彼は動かなかった。キルケゴールは、まさに実存的に生きたのである。

 1844年、キルケゴールは左手著作の4番目として、ヨハネス・クリマクスの名で『哲学的断片』と題する書物を刊行する。前作の『反復』の後半で、レギ−ネの新しい婚約のために衝撃を受け、乱れてしまった彼は、ちょうど梯子を一段づつ上って行くように、立ち直り、新たに純化されたレギ−ネへの愛をもって、その歩みを進める。レギーネは、もはや決定的に「反復できない人」になった。しかし、彼の愛はそれ故にますます高められていったのである。そして、一連の左手著作の頂点へと上っていった。
 クリマクスという名は、まさに、「梯子」を意味し、「頂点(クライマックス)」を意味している。そして、この書物が、一連の左手著作の頂点に最も近いことを示すために、ここで初めて、キルケゴールは、刊行者として自分の実名を使うのである。当初、キルケゴールはこの著作を実名で出すことを考えていたと言われている。そのこと自体が、この著作が一連の左手著作の結論部分に位置することを示している。しかし、彼がこれを実名で出版しなかったのは、この作品もまた、限り無く頂点に近いとは言え、頂点そのものではないことに気づくからである。しかしながら、まさに梯子を一殿上るように、キルケゴールは、『反復』から一歩踏み出した姿を『哲学的断片』で示している。
 『反復』のコンスタンティウスは、その後半部分が乱れているとは言え、本来の自己への復帰である「反復」が不可能である、という結論をもって終わった。『哲学的断片』のクリマクスは、この反復の不可能性の理由を問い直すところから始める。彼は、人間に「反復」が不可能なのは、人間にその能力がないからではなく、そもそも人間には「反復」すべきものがないからであると言う。よく「人間性」とか「人間らしさ」とか、「本来の自分」とか言われるが、その本来のものが、そもそも人間にはない。人間は自分の中に真理を持たず、人間自身は不真理そのものである、と言うのである。彼はそのことをソクラテスの真理理解を引き合いに出して語る。ソクラテスは、人の中にある真理を引き出すことによって彼の弁証論を組み立てた。人はそれを「ソクラテスの産婆術」と呼んだ。ソクラテスは、人間の中にあらかじめ真理なるものがあることを前提にしたのである。そして、その真理が「理性」であることを認識した。
 人間がその中に真理をもっているか、それとも人間は不真理そのものか、は共に論理的根拠のない問題であり、それらはただ、それぞれの人間観や思想の出発点となる前提に他ならない。ある人は、人間は真理を持つ、というところから出発するだろうし、またある人は、人間は真理を持たない、というところから出発するだろう。近代を代表する哲学者のI.カントは、人間の理性の働きとしての認識において、人間は認識のためのア・プリオリ(先験的、つまり人間が経験することに先立って、すでに人間の中にそれを認識するもの)なるものがあるというところから出発して、人間の理性の働きの限界を明確にした。とすれば、人間は真理を持つと同時に、その真理には限界があり、不真理そのものである、ということになる。なんともややこしい議論であるが、キルケゴールも、『哲学的断片』において、このややこしい議論を展開するのである。
 しかし、ともあれ、『哲学的断片』のヨハネス・クリマクスは、「人間は不真理である」ということを前提にする。そればかりか、人間は単に真理を持たないというだけではなく、真理を求めようとすることすらない、と言うのである。そして、本来、不真理である自己に執着する限り、人間は常に不真理でしかないが、そこから言えることは、「確かなことは、今生きていること」以外にはない、と断言する。
 それ故、彼は、「私がもっているのは自分の生命だけです」と言う。人はいろいろな「立場」や「役割」を、あたかも自分の所有物であるかのようにして、もって生きており、それを自分自身であると勘違いして生きている。「あなたは何者ですか?」と尋ねられた時、「学生です」とか「会社員です」とか、自分の「立場」で答えてしまう。しかし、「立場を持つということは、私にとってはあまりに過分なことであるとともに、またあまりにもつまらないことです」とクリマクスは言う。「もっているのは生命だけです」とか「立場を持つことはあまりにもつまらないことです」というのは、「あなたは何者ですか?」と尋ねられた時に、「私は私以外の何者でもありません」と答えるという意味である。「確かなことが、今生きていること以外に何もない」、「私は私自身以外の何者でもない」、ということから始めること、これがクリマクスの出発点なのである。
 後に、このような自己の実存から始める考え方を、人は実存主義と呼んだ。ヨハネス・クリマクスは、人間の美的・感覚的段階、倫理的・理性的段階を一歩ずつ上ってきて、実存主義に到達したのである

 実存主義は、近代的自意識の頂点に位置している。かって、デカルトが、あらゆるものを疑って、疑いつくした後に残るただ一つのもの、それは私が考えているということである、と語り、「ゴギト、エルゴ、スム(我思う、故に我有り)」という有名な言葉を残した。「私」という意識への集中、それが近代的思考のはじまりであり、近代的自意識のはじまりであった。それが近代という時代を貫く根幹であった。そして、ヨハネス・クリマクスは、人間からあらゆるものを剥ぎ取った時、「今自分が生きていること以外に、確かなことは何もない」と言い、「いまここに生きている自分」、つまり自分の実存から始めるしかない、という。その意味では、クリマクスはデカルトの結論から始めるのである。そして、かってのデカルトのように、単純に人間の理性を信じることがもはや不可能となった時、その自分が不真理である、と言うのである。20世紀の実存主義者のサルトルは、人が自分の実存を認識した時、つまり、今ここで生きている自分以外になにもないと気づいた時、世界は「吐き気」をもようすもの以外の何ものでもない、と語り、カミユは「空しい」と言い、ハイデッガーは、「不安」に気づく、と言う。ヨハネス・クリマクスは、人間は本来、不真理であるという認識を展開するのである。
 そして、その不真理である人間に必要なことは、たとえばサルトルのようにめちゃくちゃな人生を送ることでも、カミユのように車をもうスピードで暴走させ、ガードレールにぶつかって死んでしまうことでもなく、真理を学ぶことである、と言う。彼は、あの倫理的段階を上ってきた人である。しかし、真理を学ぶ、と一口でいっても、人が何ごとかを学ぼうとする時には、教えてくれる教師が必要であり、教師の役割が重要となる。
 簡単に言えば、日本では教師は、何ごとかを教える者、あるいは最悪の場合は、教えを押しつける者、であり、西洋では、Education(引き出す)という英語が象徴するように、才能を引き出す者、である。しかし、クリマクスは、この教師は両方共に根本的に間違っている、と指摘する。なぜなら、学ぶ人間が不真理であるなら、「教える人間も、それが誰であれ、全く同じ不真理である」からである。不真理である教師が不真理である学生に真理を教えることはできないし、真理を引き出すこともできない。自分の学説を押しつけたり、教え込もうとしたり、あるいは何か立派にしてやろうなどとおこがましい思いで教育するものは、教師と呼ぶに値しない。
 彼によれば、真の教師は、はじめから「真理」を語り出そうとしないし、入門的な話から始めることもない。真の教師は、まず、「事実」から、つまり「学ぶ者が不真理そのものであるという現実を、学ぶ者に想起させる」ことから始めるのである。学ぶ者の自己は不真理であり、その不真理である自己から解放されること、つまり、自分自身を捨て去るようにすること、これが教師の第一の役割である、というのである。経験、知恵、知識、立場や地位、能力、そんなものに依存し、縛られている自己から解放させ、何もない不真理そのものとして生きている裸の自分に解放すること、それが教師の、最初の役割である。言い換えれば、教師の役割は、自己の実存を想起させることだ、と言うのである。
 しかし、このように、自分中に何もないことに気づいた人間、裸の人間が経験するのは、多くの場合、絶望である。『反復』のコンスタンティウスも実らない恋に悩む青年に絶望することを勧めたが、物質的にも精神的にも無一物となり、何の支えもなくなった時、人は、その孤独感や虚無感、なんとも言えない苦悩の果てに、絶望し、自ら生命を断とうとする。自分の中に何もないことが明らかになった時、人は本当に無力である。
 それ故、そこで、教師は、学ぶ者が真理へと向かうような条件を提示しなければならない、と言う。絶望が希望に転じるような条件、無から有が生まれてくるような創造的条件、そのような条件を提示することが、教師の最大の仕事となる。
 しかし、自らも不真理である教師に、そのような条件を提示することが可能なのだろうか。不真理である人間に無から有を創造するようなことが可能なのか。否である。不真理である人間は、たとえ彼が最高の教師であったとしても、絶望から希望へ転じることができるような「生命の条件」を提示することはできない。彼が教えることができるのは、真理そのものではなく、真理に近いもの、あるいはごまかしの真理でしかない。
 それでは、真の教師とは誰か。それは人間の有限性を越えた存在、自らが真理そのものであるものでなければならない。そのような存在は、もはや「神」という言葉でしか表現できない。ヨハネス・クリマクスは、ここで「神」の概念を持ち出す。かってプラトンは「究極のイデア(理想)、最高の善」を「神」と呼び、アリストテレスは「自らは動かず、すべてのものを動かす」ような「不動の第一動因」を「神」と呼んだが、クリマクスは、「自らが真理そのものである真の教師」を「神」と呼ぶ。クリマクスはキリスト者ではないが、その神理解は極めてキリスト教的である。そして、神が自ら教師として人間の前に立ち現われるのは、その「愛」故である、と言うのである。真理である神は不真理を必要とはしない。その真理が不真理に真理を教えるのは「愛」以外に考えられない、と言う。「神が地上に現われる(教師として人間の前に立つ)ことを決心させたものは何だろうか。神はまったく自分だけで行動を起こすことができる。しかもさらにアリストテレスが言ったように、自らは動かずして、すべてのものを動かしさえする。しかし、神が自ら動き出すと言っても、神を動かすものは衝動的なものでは決してない。そこで、神を動かすものが外部から駆り立てる衝動でないとすれば、それは愛以外の何であろうか」と述べる。愛だけが教育を可能にする。そして。この愛は真理が自らを空しくして不真理の前に立つという謙遜とへりくだりの形を取る。真の教師である「神」は、その「愛」の故に人間の教師となるのである。

 謙遜とへりくだりではなく、押しつけがましさとごう慢さをもって自分の自慢話をするように学説を展開する教師は、たとえどのように高度の知識を教えたとしても、真の教師でないばかりか、偽教師に過ぎない。学ぶ者は、彼から何も学び取ることはない。しかし、今や、学ぶ者は真の教師である「神」から学ぶ。彼は真理そのものから真理を学ぶのである。
 だが、人間の真の教師が「神」であるところから、一つの大きな問題が生まれる。それは、神と人間の絶対的な差異を埋めることができない、という問題である。真の教師が人間であれば、学ぶ者は、自分もいつかはあのような真理に到達できる可能性が有る、と考えることができる。自分の努力によって到達可能な地平を見い出すことができる。目標とその目標に到達するための方法も見出せる。そして、教師と学ぶ者は、その目標に向けて一歩一歩前進することができる。そこで「愛」は増し加わり、教師の「愛」は確実に伝わる。学ぶ者にとって、その愛は最も大きな支えとなる。
 しかし、人間にとって真の教師は「神」以外にはあり得ない。「神」は「愛」のゆえに、ただその「愛」のためだけに、人間の教師として存在する。だが、「この愛は根本的には非常に不幸である。なぜなら、教師と学ぶ者とは互いに『全く不等』だからだ。」教師が人間であれば、たとえその立場が不等であったとしても、互いに人間どうしであるという平等な地平が存在する。たとえば苦しい時、教師は自分の経験を語り、学ぶ者を慰め、「君にもできる」と励ますことが可能であり、学ぶ者は「あの人にできて自分にできないことはない」と努力をすることができる。麗しい師弟愛が、確かにそこに存在する。だが、教師は「神」である。「あなたは神であり、私はただの人間」という絶対的な差異の認識が生まれ、そこで立ち往生してしまい、もはや一歩も前に進むことができなくなる。差異の認識は、愛される者ではなく、愛する者を決定的に傷つける。愛する者の「愛」は沈黙の内に悲しみに沈む以外にはない。愛する者は「学ぶ者からは決して理解されないということを理解しなければならない」からである。理解し合えない不幸の他に、理解し合えないことを知らなければならない不幸がある。愛する者は憂いと悲しみに襲われる。もし神が、この不幸の前で、教師として教えることを放棄したら、人間は永遠に真の教師を持つことなく、不真理の中で「迷える小羊」であり続けなければならない。それは人間の滅びを意味する。
 真の教師は、自らの憂いと悲しみの中で、「迷える小羊」の前に立つ。そして、その愛の故に、教師と学ぶ者との間にある絶対的差異を取り除こうとする。その際、取り得る方法は二つしか無い。一つは、教師である神の高みに学ぶ者である人間を引き上げることである。もう一つは、神自身が自らの高みを放棄して、人間の低さまで降りることである。第一の方法は、神は神のままであるが、人間は人間であることを止める。第二の方法は、神は神であることを止めるが、人間は人間であり続ける。
 人々は、一般に、第一の方法を歓迎するだろう、とクリマクスは言う。人は自分が神の高みにまで引き上げられることを願い求め、追求したがる。しかし、そこには願望や欲望はあっても、愛はない。愛の取る方法は一つしかない。それは、真の教師である神が自ら神であることを断念し、学ぶ者の低さにまで下ることである。「このゆえに、神は自身を最も卑賎な者に、それと等しい者として現わそうとする。・・・そこで神はしもべの姿を取って現われようとする。しかし、このしもべの姿は王様が乞食のマントで身を包み、乞食を装うようなしかたで装われるものではない。なぜなら、このようなうわべだけを繕ったマントは、しっくりいかないため、王様だということがすぐにばれてしまう。」だから、真の教師は、平均的な人間よりも低く卑しい姿を取る。これが、真に教えるものと学ぶ者との間に現われる逆説である。真の教師は学ぶ者よりも低いところに立っているのである。

 さて、そこで学ぶ者はこの逆説の前に立たされる。彼を真に教え導く者は、彼よりも低い者である。しかし、クリマクスは言う、「逆説とは、思考激情であり、逆説のない思想家は、情熱のない恋人のようなものである。・・・自分の『内』で完成している人間は、その時すでに没落の道を歩んでいる」と。逆説は思考を高め、人間を高める。それ故、学ぶ者はこの逆説の中で自ら学ぶ者であることを放棄してはならないのである。彼は自分が途上にあることを自覚しなければならない。そして、情熱をもって「自分がまだ知らないもの」に自らを開き、突き当たらなければならない。それが、自らが不真理である人間に与えられた「悟性(理性)」である、と言うのである。人間の理性は自らの限界を知りつつ、なおその知れれざるものに向かう時に理性であり得る。そこには「情熱」が必要である。それ故、学ぶ者が真理を理解するための条件、無一物の絶望した人間が立ち上がる条件、虚無感や孤独感に立ち向かう条件、無から有が創造される条件、それは「情熱」に他ならない。
 「情熱」は決断の「瞬間」を提示する。進むか退くか、跳ぶか立ち止まるか、彼は決断しなければならない。そして、一度決断されたら、もはや後戻りはできない。それは一種の「賭け」である。この「賭け」の根拠は何もない。ただ、自分が勝利を信じるか否かだけである。それ故、クリマクスは、この「情熱」を「信仰」と呼ぶ。
 しかし、ここでいう「信仰」とは、通常の宗教的な意味での「信仰」とは異なっている。ヨハネス・クリマクスはキリスト教の神髄に限りなく近づいているとはいえ、キリスト者ではない。彼によれば、ここでいう「信仰」とは、認識でもなく、意志の行為でもなく、それ自体が奇跡であるような「情熱」であり、「信仰」は人間精神の最終目標ではなく、その信仰によって、真理、あるいは真理そのものである教師を知ることが最終目標なのである。クリマクスは、本来不真理である人間は、たとえどのように優れた能力、高潔な人格を持っていたとしても、真理に到達できないことを、繰り返し強調してきた。「真理について」知ることはあっても、「真理そのもの」を知ることはできない。「信仰」は「真理そのもの」に至る人間精神の唯一の「門」であり、「入り口」に他ならない。そしてそれが奇跡であるのは、人間が自ら生み出したり獲得したりするものではなく、与えられるものであることを意味している。それは、多くの擬似宗教家が伝えるような「思い込み」や「幻想」や「錯覚」ではない。あるいは、宗教に対する深い知識や神学的知識でもない。どんなに深い神学的知識や宗教認識を持っていたとしても、それらは「信仰」とは無縁である。高邁な神学論議を繰り返す神学者や牧師は、最も「信仰」から遠くにある。「信仰」は人間の内から生まれてくるものではなく、与えられるものに他ならない。「信仰とは、懐疑の反対であり、認識を飛び越える自由の=行為であり、意志の=表明である」(=で表されているのはそれらが同じ意味であることを示す)、と彼は言う。それ故、「信仰」が促すものは、論理的推論の自然な帰結でもなければ、安全と確実性の保証付きの何かではなく、「飛躍の覚悟」を伴う「決断」である。分析し、よく認識しようとする判断を中止し、「飛び出していく」ことを促すのである。
 彼は、今や、自分のあらゆる判断を中止し、真理の教師に向かって飛び出さなければならない。しかもそれが「現実」の中で起こらなければならない。クリマクスは、そう結論づける。しかし、「飛び出す」ことが現実に起こるためには、人は、真理の教師と同じ時間と場所、つまり同時代を生きることを求める。たとえば、あなたが誰かを愛したとする。その時、あなたは、彼または彼女と同じ時間と空間を生きること、経験を共有することを願わないだろうか。人を愛することは、「決断」そのものであり、信じ、情熱を持って、あなたは飛び出す。その時、あなたは彼または彼女と一緒にいたいと願う。彼はそれを「同時代性」と呼ぶ。
 では、その「同時代性」にどれだけ意味があるのだろうか。また、人は真実、「同時代性」を生きることができるのだろうか。ヨハネス・クリマクスは、次にこの問題へと進んでいく。



6につづく



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