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New † クリスチャンコミュの言葉とイメージとリアリティ

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「言葉とイメージとリアリティ」という名前でトピックを作成させていただきました。
トピックのタイトルとしてもう少しぴったりしたものがあるかもしれませんが、とりあえず、こうしたタイトルで作成させていただきました。

おそらく、しばらくは、わたしの独り言のような書き込みが続くかもしれませんが、もし、なにか感じることや考えることがありましたら、どうぞご遠慮なく書き込んでください。既に確立された自分の意見を表明しているものではなく(一部そういう部分もありますが)、探求の最中です。みなさんの書き込みが助けになるかもしれません。


【議論の進め方の留意点】

同じ言葉を用いながらも、その言葉が指し示すもの・・・「イメージ、あるいは意味」は人によって違うとわたしは考え、そして、しばしば実感しています。
しかし、一方で、その違いがあることを忘れてしまい、言葉が相手の中でどういうイメージを指しているのかを確認せず、使う言葉が同じであることから、安易に相手と同じ意味の言葉を共有していると思ってしまったり、違っていると思ってしまうところもあります。

相手の言葉から、相手が意味しているところを推察するのは、なかなかに難しいところです。そこで、相手の言葉から受け取って生じた意味やイメージはあくまでも自分の心で生じたものであることに留意しつつ、味わい、考え、もう一度自分の言葉で表現して返す・・・
そんな風にわたしはできたならよいかと思います。

そうであれば、仮に言葉と言葉との間に激しい衝突や葛藤が生じても、それは、自己内の探求の過程のプロセスであり、けして相手を傷つけたり、相手より優位に立つことを意図するところには進まないのではないか・・・と仮説を立ててもいます。

もちろん、みなさんにこの留意を強制するものではなく、みなさんは、みなさんそれぞれの流儀で言葉を発してくださればと思います。


(次回は)

次回は、このテーマをなぜ、「クリスチャン」というコミュニティに書くのかということについて、補足が必要と思いますので、少し書いてみたいと思います。

コメント(4)

キリスト教では、言葉が重要視されていると思います。キリスト教で使われる『言葉』という言葉は、日常の意味とは異なる意味で使われている場合もあり、その場合の『言葉』は、日常的な意味での「言葉」とどうつながっていくのかという点にも興味があります。
が、それは、今はまだ、興味という範疇の問題でしかありません。

わたしのテーマとしたいのは日常的な意味での「言葉」です。それが切実なテーマです。
わたしがイエスキリストを知ったのは言葉を通じてであり、その知り方は、今わたしと一緒に生活している、まなざしとまなざしを交差させることのできる誰かと関係を持っている人を知るのとは明らかに違う知り方です。イエスと同時代に生き、具体的にまなざしを交差させてイエスと関係を持った人が居たにしても、わたしにとっては、遠い時代の、遠い場所の人々の出来事であり、それらが言葉で伝えられて、その言葉の意味内容が、信仰の基礎の一部になっています。

このように信仰の基礎の一部となっている、素材としての言葉は、一方、日常生活において、人と関係する場合にも、あるいは、人を遠ざけ、自分ひとりであれこれと考えるときにも重要な要素になっています。言葉は、真実と思われること、良いと思われること、美しいことを伝える場合もあれば、嘘やごまかし、悪いこと、醜いことをも伝えます。他人にあるいは自分自身に、命令や依頼をしたり、何かを描写したり、あらゆることに用いられています。

そのような言葉が織りなす世界の中で、どのようにして重要なものとどうでもよいもの、信ずるに値すると思われることと単なる空想と思われること、美しいものと醜いものとが生じてくるのでしょうか? どのように区別されるのでしょうか?

判断は聖書に従えばよい・・・といっても、その前提として聖書を読むことができなければなりません。読むということは、単に字句を知り、辞書的な意味で単語を知ればよいというものではない。わたしにとって、「読む」とはどういうことなのか。
言葉を通じて何かを理解するということはどういうことなのか。
そもそも、理解は、言葉に依らなければならないのか。

こうした問いは、キリスト教に限らず、日常の家族との関係、職場での仕事、一人で考えるときにも、わたしにつきまとってくる中心的な問題です。ですから、この問題は、クリスチャンに限定せずに、志のある方々と一緒に考えていきたいという願いがあります。

しかし、クリスチャンを問わず人々と言葉について語り合う場合でも、話が深まるなら、言葉に関する、わたしの考えや体験として、信仰に関連した問題を避けることはできない。わたしの信仰の土台には言葉を通じて伝えらえた物語の現実性の問題があるからです。

加えて、わたしにとっては、クリスチャンとしての生活とそうでない生活というのは分けることができないと感じられています。聖書や「唯一のまこと」のことを一切忘れて、何かに仕事や趣味に熱中したり、ただぼーっとしていて過ごしても、そうした時間や自分の在り方を振り返るなら、それもまるのままのひとつのわたしの一部であり、信仰とは、そうしたまるのままひとつのわたし全体に関わるもののように思うし、そうでありたいと思うのです。

そういう意味で、信仰と日常的な生活を区別せずに貫いていて、なおかつ、身近な存在である「言葉」はわたしにとって、重要なテーマになっています。

(次回は)

テーマのタイトルをなぜ、単に「言葉」とせずに、「言葉」、「イメージ」、「リアリティ」という三つの要素を並べたか、その三つについて少し書いてみたいと思います。

わたしは聖書を物語として読む。
物語は、理論やマニュアル、料理のレシピとは違って、現実に比較的近い。

現実は、特定の時空で特定の物事が生じる、一瞬一瞬がかけがえのない物語である。
理論やマニュアルは、そうした現実を、ある観点から同一性を見つけ、分類し、構造化した言葉といっていいいだろう。
ハサミやホッチキスや杖といったものが人間の手足の動きを助ける道具であるように、理論やマニュアルは人間の思考の道具といってよく、理論やマニュアルによって、考えを集中させるべき場所を特定し、考える順番や優先順位をガイドし、効率よく考えていくことができる。
道具は使う場所があって始めて生かされるように、理論もまた、それを適用する分野があって生きてくる。理論やマニュアルは思考の技術であって、思考の目的、思考の対象によって、その技術は異なってくる

一方、物語は、物語であって、道具とは異なる。もちろん、子供が寝る前に話す、夏の夜に集まって涼しさを求める、退屈を紛らわす・・・など、物語を始めるきっかけに理由はあるかもしれない、物語はそのための道具とみなされるかもしれないが、物語が始まったとたん、物語は単なる手段や方法にとどまらず、限られた時間であっても、わたしたちがそこに生きる、ひとつの世界となる。
物語の登場人物に自分を重ね、物語の中に自分を浸透させ、物語もまた自分の深いところに浸透してくる。


桃太郎という物語は、桃太郎という名前の主人公でなければならず、これは別な名前ではだめだ。猿も、生物学的一般のサルではなく、桃太郎から吉備団子をもらい、一緒に鬼の征伐に出かけた、あの猿である。一般的ではなく、具体的なあのお猿さんである。

現実は、今ここで唯一の出来事である。もし、現実の中に繰り返しを見つけるなら、それは一種の理論化だろう。物語は、もちろん、何度も繰り返しいろいろな人によって語られるが、すくなくとも、語り始められたとたん、読み始められたとたん、それは唯一の世界となる。

理論やマニュアルは、物語と違って、もっと抽象的で、構造化され、今ここでの唯一のものとは言えなくなる。学者は、物語や現実を研究し、異なる物語の間に共通の構造を見つけ出し、理論化する。そうすると、桃太郎は桃太郎と呼ぶ必要さえなくなり、Aと呼んでもよい。桃太郎という唯一の個性は失われていく。重要なのは構造なのだから。

わたしは大学時代、経済学を勉強した。ケインズ理論だとかマネタリストだとか南北問題を勉強したが、そこで学んだ道具(理論)を生かすには、財務省か、日銀の偉い人にならなければおそらく役立たないだろう。現に今、学んだ内容を思い出すこともできない。理論は、道具だから、それを生かす場所を必要とする。

その後、社会に出て、プログラミングを学んだ。そして、30年以上もプログラムに関する様々なテクニック、考え方を、まさに仕事の道具として駆使している。
しかし、それはわたしがプログラマーとして生きているからであって、けしてプログラミングが万人に役立つ理論であるとは思えない。わたしにとっての経済学のように、プログラマーでない人は、学生の頃にプログラミングを学んでも、そんなことも勉強したかなぁ程度で終わっているだろう。


さて、いわゆる。神学とか、キリスト教世界で流通する、概念や理論の多くは抽象的な理論は、大学で学んだ経済学のようにわたしの生活にとって無縁なものが多い。

たとえば三位一体という考え方があるが、いまだによくわからない。


もちろん、経済学がわたしにとって役に立たなくても、経済学が必要な人もいるだろう。だから、三位一体という考え方も、役立てている人もいるだろうとは思う。
たぶん、キリスト教の初期のとある地位や立場の人にとっては切実な問題だったのだろうとは想像する。しかし、今のわたしの問題ではない。


そして、理論や道具は、はっきりとそれを使う場所が限定されてこそ、使うことができる。いったい、さまざまな神学的な考え方や理論はどこで使うのだろうか?
神父や牧師などキリスト教的な職業につく人が、教会を運営するために必要なのだろうか? いわゆる宣教というものをするために必要なのだろうか?


ところが、物語は道具ではない。物語を聞いて、それを道具のようにどこかで利用してやろうなどと考えると、物語のもつ魅力は半減してしまう。よい物語に熱中し、いつのまにかその物語の中に入り込み、物語が自分の中にしみこんで・・・とある決断やとっさの行動のときに、ふと物語が自分に影響を与えていることに気づく。


もちろん、理論やマニュアルであっても、私自身が、現実や物語と格闘し、考え抜いて、理論化していくという過程を経るなら、それはその過程そのものがわたしの中にしみこんで、ふと気づくと自分の行動が変容していることに気づくこともあるかもしれない。

しかし、他人のそうした考え抜いた過程をたどることなく、結論の言葉のみを教条的に覚えこんでも、それは、行動変容をもたらさないだろう。道具として使うことができないだろう。他人の考えた過程をたどるということは、自分の生活や人生を途中で放棄して、一定期間、そのような研究に費やさなければならない。それは、それ相応の覚悟や経済的な余裕がないとできないことである。

もちろん、理解されていない言葉であっても、同じ言葉を話す人同士が、互いにその言葉を交わしあえば、人と人の結束を強めるという効果はあるだろう。また、そういう難しい言葉を並べることで、相手よりも優位に立つという効果もあるかもしれない。
あるいは、そうした言葉を覚えているかというテストをパスすることが、なんらかの社会的、集団的地位や役割に着くこと条件になっていれば、生活は変わるだろう。
経験や実践を軽視した、言葉だけの教育、テストだけの確認による教育は、そうした状況を表しているように思われる。

しかし、単に言葉だけを知っても、その意味を理解していなければ、根本的なところでは自分は変わらないように思う。


さて、聖書は、いろいろと難しいことは考えずに、物語として読むので十分ではないだろうか? と自問自答している。

理論化が必要なのは、それを道具として、なにか自分の中の矛盾を解決しようとしているからかもしれない。その場合、理論を学ぶ前に、まず、自分の中に生じている矛盾を観察するところから始めたほうがよいのかもしれない。


わたしは、いわゆるキリスト教的世界が、わたしにとっては別世界のように感じられる。聖書の物語は身近なのに、キリスト教世界はわたしの生きる場所ではないように感じられる。
聖書の物語が、キリスト教的世界の中で「解説されたとたん」わたしから遠のいてしまう。


わたしは、わたしの生きる現実の中で、わたしに向かって、生きる現実を解説する。さまざまな事柄の意味について考える。すると、ふと気づくと、聖書の物語が思い出されている。というより、背後に聖書の物語が漂っている。


わたしにとって、パウロのあの語った内容、理論的解釈そのものではなく、パウロが具体的な状況に出会い、そうした理論的解釈を手紙にしたためた・・・という物語に惹かれる。
わたしはパウロと同じ結論にはならないだろうが、考えるということではパウロに自分を重ねる。マリアが、いったいこれはどういうことだろう・・・と考える姿や、百卒長が自分の体験から得た解釈をイエスに投げかける姿や、異邦人の母親が、子犬のたとえでイエスに言葉を返す姿を、思い出しながら、自問自答している・・・


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