ニューロエシックスコミュの信原幸弘・原塑（編著）『脳神経倫理学の展望』（?）脳神経科学の技術的応用をめぐる倫理問題

（?）脳神経科学の技術的応用をめぐる倫理問題
（４）染谷昌義・小口峰樹「『究極のプライバシー』が脅かされる！？―マインド・リーディング技術とプライバシー問題」（第四章一〇一頁以下）
この論文では、ｆMRI（その技術的説明として本書ⅹⅲ頁参照）などの脳画像技術によって脳活動から心を読む技術の現状を紹介し、それが教育や犯罪捜査などに応用され始めているが、「心の読み取りの理論的問題」（一〇七頁以下）からみて、リーディング技術が「心の究極のプライバシー」、すなわち「プライバシーに関わる心の状態を読みとれるようになる可能性は現状では希薄であると結論できる」（一二一頁）とするが、それが濫用されるとその理論的問題とは無関係にプライバシー侵害の問題が生じる可能性があるため、?暫定的な措置と視点法的保護と?脳科学リテラシーの向上の二つを軸とする対応策（一二〇頁）を講ずべきであるとする。
（５）河島一郎「責任の有無は脳でわかるか――精神鑑定から脳鑑定へ」（第五章一二七頁以下）
本論文では刑法上の責任能力（刑法三九条）などに関する精神鑑定の現状とその問題点を指摘し、精神鑑定から脳神経科学を利用した脳鑑定の導入を検討し、「精神鑑定が科学鑑定としての十分な信頼性を得られていないのは精神障害の因果的理解が欠けているからであり、脳神経科学に依拠した脳鑑定の導入によって、精神鑑定はより正確で信頼できる科学鑑定になると予想される」（一四二頁）とするが、脳鑑定は決して万能ではなく、有効であると考えられる刑事事件における責任能力の鑑定においても適切な鑑定のためには脳鑑定だけではなく再び精神鑑定を利用するということが必要であり（一四一頁以下）、ある程度枠組みが固まっている刑事精神鑑定という分野その適用範囲を広げることには慎重な姿勢が必要であるとしている（一四二頁以下）。
（６）原塑「メディア暴力と人間の自律性」（第六章一四九頁以下）
インターネットやテレビなどの仮想世界でのいわゆるメディア暴力に関する法的規制をめぐる倫理的論争を自律性の脳神経哲学的観点から再検討し、有力な二つの心理学的モデルである?観察学習モデルと?脱感作（＝暴力表現を繰り返し視聴すると、それに対する感受性・抵抗感が鈍化し抑制が効かなくなること：一五八頁）モデルについて、脳神経科学には必ずしも十分に検証されているとはいえないが、ｆMRIを使った研究では、さらに?や?のような効果のみならず、「攻撃的な行動を熟慮的に好んで選択してしまう」（一六六頁）になる場合すらあるとされる。それらの「研究が示唆するように、メディア暴力が視聴者の暴力的行動傾向を強めてしまい、さらにそれを自律的に抑制する能力を低下させるのであれば、メディア暴力は何らかの公共的手段によって規制されなければならない」といえるが、「メディア暴力に関する神経科学上の研究は始まったばかりであり、メディア暴力を法的に規制すべきか否かを判断するために必要な知見はまだ十分得られていない」ので、その「精神科学的研究が果たす役割は極めて大きい」とする（一六九頁）。
（７）植原亮「薬で頭をよくする社会――スマートドラッグにみる自由と公平性、そして人間性」（第七章一七三頁以下）
薬物を病気の治療だけではなく認知機能の増強（エンハンスメント）に使用してよいかという問題が本来はADHD（注意欠陥・多動性障害）の治療薬であるリタリンなどのいわゆるスマートドラック（SD）を試験の成績向上のために用いることがアメリカではすでに拡大しつつある。この論文では、このSD問題の社会的帰結をめぐる対立に関する事実認識、自由と公平性をめぐる論点、価値と人間性をめぐる対立に関する論点に関しての議論における容認派と反対派の論拠を詳細に検討し、両者の対立点は?「SDが社会や人間性にどのような影響を及ぼすかということに関する事実認識の不一致」と?「重視する価値や人間性のとらえ方の根本的な相違」に由来するものがあり、?に固執するよりも?の事実認識の相違を縮小させることが目指されるべきであり、その際知識不足を補うためには歴史上の事例を参照すべきだとする（一九三頁以下）。
（８）中澤栄輔「記憶の消去と人格の同一性の危機」（第八章二〇一頁以下）
本論文は、人格の同一性と記憶との関係に関する哲学的議論の素材として、忘れたくても忘れられない記憶、特にＰＴＳＤ（心的外傷後ストレス障害）の治療のための薬物プロプラノロールの服用と関連しての記憶の消去・変更と人格の同一性に関する論争を?反対派、?積極的賛成派、?消極的容認派(薬効懐疑派／人格同一性再考派)の各主張をそのバリエーション(変化型)も含め詳細に検討した後、「プロプラノールの服用によってもたらされるのは記憶の消去ではなく、記憶の部分的変更であ」り、人格の同一性が失われることはなく、PTSDの緩和やエンハンスメント目的での使用も、人格の同一性の観点からは、積極的に反対する理由はないが、もし将来記憶を選択的に消去することができる薬物が開発された場合には、「人格の同一性の崩壊という甚大な副作用を伴うことになる」のでその倫理的な是非が問われなければならないとする（二二一頁以下）。