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武蔵野火薬庫★ぐゎらん堂コミュの■A■草創期

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■A■草創期 1970.10.28〜1971年×月(特定せよ)
開店〜シバがあのドアを開けるまでの期間

 このころ、ぐゎらん堂の巨大なスピーカーからワタルの歌声は流れていなかった。
 律&イサトも加川良も、トモも三上寛もなぎらもペケも、斎藤哲夫やあがたくんや田中研二も、五郎ちゃん、GWANさん、青木ともこさんや林亭の歌声も……。
 シバがぐゎらん堂のドアを開けるまでに、もうしばらく時間が必要だった。
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■1970.10.28 10:00〜

●武蔵野火薬庫・ぐゎらん堂、開店

● [epi]《ハルキ》
 チンドン屋さんを雇い、♪チンチンドンドン、♪チキドンドン。朝から日没まで、スタッフ一同交代で吉祥寺の街を練り歩き、開店案内のチラシを撒く。チンドン屋のジンタに振り返る通行人多かれど、若者たちの姿少なし。当時、吉祥寺はまだ「若者の街」ではなかったんだね。

● [epi]《ゆみこの手帳より》
 朝4:00まで営業。売り上げ、34,000円。
大学時代の友人や、「柿の木」の若旦那のヤスヒコさんなど盛大に祝ってくれる。このときはまだ旧人脈が頼りの営業だった。


■[who] ほかのスタッフ 
マサミ
ユーコッペ
星野くん
ミキオ(坂田クンだったよね?)
ヨシモト

■[ph-0001〜0002] 開店時チラシ(表/裏=ゆ/は)
■[mono-0001]  同、実物

■1970.10〜12月

●[1st☆contct]《meg》
わたしが同級生達に連れられて始めて行ったのは
オープンして間もない頃だと思います。
羽良多平吉デザインの「月に赤猫」マッチの業務用を
開店記念で貰いましたから。
勿論小奇麗でした 
マリリン・モンローやヘンリー・フォンダの大型ボードは
最初からあったのかな?

■[who]《出演バンド》

「アルバトロス」=コンテンポラリー・ブルース・バンド。和製ジミ・ヘンといわれたリードギターに、マサミのベース? あとジャニスばりにシャウトして「メルセデス・ベンツ」を歌った大柄なボーカルの彼女、どなたでしたっけ?
 
「宇梶晶二」=ニュージャズのバンド。宇梶氏のサックス、あとウッドベースとパカッションだったかな? 


 *もちろん、ほかにもいろいろ出演されたと思うけど、なにせ35年前(!)のこと。さらに段ボール箱を開けて、資料を発掘してみなくちゃ。
 *誰か、覚えている人がいたらお教えて!


*だれか、開店記念品のぐゎらん堂徳用マッチ持っているといいんだけどね。それと、徳用マッチとは別に白地に赤い炎のブック型マッチをつくったような気がするんだけど、手元にブツがない(写真もない)のでよくわからない。あるいは、だれかお持ちだろうか?
(ハルキ)

  
■[req/rec] 
ジャニス・ジョプリン「チープスリル」
ステッペン・ウルフ他「イージー・ライダー」
レッド・ツェッペリン
グランド・ファンク・レイルロード
ザ・ビートルズ「ハード・デイズ・ナイト」他多数
ジョン・コルトレーン
マイルス・デイビス
マル・ウォルドロン
ビリー・ホリデー
クリフォード・ブラウン

* ほかにもたくさんあったと思う。教えて!(ハルキ)



● [epi]《ハルキ》
 このころから、ブルースのこと、調べはじめていました。音楽的側面の興味からというより、むしろアフリカ系アメリカ人の文化の側面からだったと思う。
 これは、ゆみことぼくの次のような体験からではないかと思っている。

 ⇒早大での全共闘運動(ただし、由緒正しきノンセクト・ラディカルズ=別名「ナンセンス・ドジカルズ」。「インターナショナル」をエレキギターで演奏して、党派の連中からひんしゅくを買った)。
 ⇒1969年の硝煙たなびく沖縄への映画取材。
 ⇒嘉手納基地のブラックパンサー(シンパ)との出会い。
 ⇒「Black is Beautiful !」の思想。
 ⇒リロイ・ジョーンズの著作。
 (リロイ・ジョーンズ著/上林澄雄訳『ブルースの魂』音楽の友社)との出会い
 ⇒もともとあった近代(モダニズム)否定。
 ⇒原点回帰。
 ⇒ブラインド・レモン・ジェファーソン、ロバート・ジョンソンなどのレコード探索。
 ⇒新宿駅西口の「月光社」(いまはない)、中野ブロードウェイ「文化堂」(いまもある。最近も行ってきた)ほか古レコード店めぐり。
 ⇒ぐゎらん堂のレコードのラインナップにブラインド・レモンやロバート・ジョンソンなど一連のLPを加える。



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1971年
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■1971.4月〜

●[1st☆contct]《ちゅうそつ》
ボクのぐゎらん堂のお初は、71年の4月初旬。
69年10月にパクられて高校を退学。一年半九州へ疎開してて、大学進学を機に上京してすぐでした。
最初は客としてでは無くて、三里塚空港反対同盟からもらった落花生を売ってもらうために行ったんだけど、初めてなのに由美子さんがいやに愛想良かったのが、気持ち悪いくらい印象に残ってる。
あの頃はまだパネル写真も無くて、床もまだ絨毯っぽかった。客もまばらだったね。
その頃は板橋に住んでたんだけど、新宿から京王線に乗り換えて多摩動物園にある大学に行けばいいものを、明大前でどうしても途中下車して井の頭線で吉祥寺というコースは4月中旬には出来上がってしまって、だから4年目に除籍になってしまった大学へは、最初の2週間しか通ってない。
この先はまた後日。

■1971.5月(?)〜

● [epi]《ハルキ》
 たしか、ぐゎらん堂で「三里塚支援デー」をやったよね。
 店内外に「×月×日、ぐゎらん堂の1日分の売り上げを全額三里塚闘争にカンパします。皆さん、来てくださいね!」とかいうポスターを貼り出して、「三里塚支援ピーナッツ」(つまみにも出していたし、後に『ガロ』を置いて「青林堂漫庫」となったカウンター脇の棚に、その当時はピーナッツ袋を置いて売っていた)の売上代金と「支援デー」の総売上金を持参して、ゆみことハルキ、タブテの手を引いて、はるばる三里塚の現地闘争本部(?)まででかけたことを覚えている。
 そのときのピーナッツの密売人が中坊だったわけだ。〈初めてなのに由美子さんがいやに愛想良かった〉のは、きっと、三里塚に対する熱き連帯心以上に、中坊がチャウチャウ犬のぬいぐるみみたいに可愛かったからだと思う(ゆみこは、そういえば、学生時代の荻窪のアパートで「ゴンベエ」というぬいぐるみを可愛がっていた。これは大きなクマのぬいぐるみだったけど)。

 * あのとき、ぐゎらん堂で三里塚ピーナッツ買ってくれた人いる? 教えて(ハルキ)


■1971.某月(?)〜

● [1st☆contct]
 高以良基、いち早くぐゎらん堂を訪れる。ややあって、八重さん、易者のおじいさん(当時、吉祥寺の街を歩いていたものなら、アーケード街になる前の駅前通りで「手相見」をしていた白髪白髭の名物爺さんを知らぬものはいないはずだ)を伴って現れる。
 この夭逝した天才画家は、以後、いつもぐゎらん堂をにぎわせる立役者の1人だった。

[mono-0002] その当時からある電気スタンド(ゆ/ハ)
[mono-0003] 同、鉄製扇風機(ゆ/ハ)



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↓↓↓ 書き込み欄にどんどん書き込んで、絵巻物を延ばしていきましょう ↓↓↓
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コメント(17)

高以良基さん、懐かしい。
ちゅそつの言っていた、豆腐の厚さの100円札、いい話ね。
団結ピーナッツ、食べた記憶はあります、買ったかどうかは?
大作さま

 そう、ぼくらがボロと出会ったのはすごく早い時期。この「草創期」でしたよ。
 これが、なんだか愛嬌のある、なぜか憎めない、可愛い少年でね。目が澄んでた。ホモサピエンスの'70年代的ニュータイプって感じがしてたのをいまでも思い出します。

 本を贈呈したってホント? ぼくはすっかり失念していました。ゴメン。
 もし、その本がサイン本になっていたら、きっと日付が入っているんじゃないかな? だとすれば、ボロとぼくとのファースト・コンタクトの正確な年月日が特定できるかもね。

 1973.05.23(水)20:00〜22:00 ボロ(BC21名 ) .....は、ぐゎらん堂初出演ではないと思います。もっと前に初舞台があったはず。

 当時の記録、櫛の歯の欠落的箇所はありますが、まだまだありますので、順次、ヒマをみつけながらアップしていきます。

 ま、みなさん、あせらず、あわてず、あきらめず、ゆっくり思い出していきましょう。
けいこは「団結ピーナッツ」を食べたそうです。わっしは記憶が無い、恵子のほうが先に来てたからだねきっと。ただちゅうそつが持ってきたのではなくて、「団結」が持ってきた って分かりにくいな(笑)。ちゅうそつの他にも「団結ピーナッツ」持ってきてた子がいて、それであだ名が「団結」になった。その子のことはわっしも知ってる、神高生だったよね「団結ぼうや」とか言われてた。

けいこが初めてちゅうそつに会ったのはぐゎらん堂じゃないらしい、明星のそばに「物部さん」ってべ平連(?)の人の家があってちゅうそつが良く来てたとか。
「団結」が持っていったんじゃないよ。
アレは三里塚反対同盟が「もののべさん」の所に寄付してくれたのを「べ平連らしき」団体がぐゎらん堂に卸してたんだよ。

「もののべ氏」と「べ平連らしき団体」については後日
『武蔵野火薬庫ぐゎらん堂』の解説書である「ちゅうそつ日記」で
明らかになるであろう!
永山さんとか団結とかMとか出てくると、動揺するじゃないか!
中坊さま

なぜ、動揺するの? おせーてちょーだい! Mってだれ?
noriさま→ここへ移しましたよ。

● [epi] 1971某月某日「世情半デビュー 」《nori》

2005年12月01日 23:17 71: nori
 わぉー! はるきさんの緻密な整理整頓、色々思い出は有るがいつだったけなぁと考えています。
 覚えているのは1971年小林清と高校で出会う、バンドごっこを始め そのころからぐわらん堂に通い始める。
 世情半潜伏期、なんちゃって!  キヨシ、この頃まだつっぱりリーゼント(笑)

2005年12月02日 11:06 73: ハルキ
71のnoriさま
 ということは、「世情半潜伏期」は「ぐゎらん堂草創期」の'71年に入れてもいいですか? ぼくも、そのころ──つまり、ごく初期に出会ったような記憶がありますね。

2005年12月03日 01:56 74: nori
 そうですね、時期はまちがいないです。
 当時の新聞の切り抜きをとっておいたのですが、どこに消えたやら? (僕等がぐわらん堂で唄っているのが記事になった)

2005年12月03日 03:40 75: meg
 探してみてね。
「ベンツが欲しい」だよね。
「アルバトロス」のちの「メルディ・フィグ」のボーカルは蛇の様な口をしたサンディー。
その後「久保田まことと夕焼け楽団」を経て、現在はフラダンスの先生をしているそうな。

「白地に赤い炎のブック型マッチ」ってハルキさんホントに覚えてない?
それは「白地に赤い炎の箱形マッチ」です。大きさは赤猫の三分の一位。
実家にあるはずだから正月に帰ったとき探してみます。


初期ぐゎらん堂でお気に入りのレコード(取り敢えず)
キング・クリムゾン     「クリムゾン・キングの宮殿」
ポールバターフィールド・ブルースバンド 「イースト・ウエスト」他
「バンク・ジョンソン」や「ジョー・ルイス」も有った様な気がする。
「メルディ・フィグ」は「モルディ・フィグ」の間違い。
「夕焼け楽団」は間違いか?
「サンディ&サンセッツ」のサンディ。
もう一度、中坊さま

なぜ、動揺するの? おせーてちょーだい! Mってだれ?
1964年くらいから吉祥寺に出没していて、名店会館の近所にあった「歌声喫茶」で八木さん?にピート・シガーを教えてもらいました。高校の英語の教師はボブ・ディランの追っかけをしていました(その教え子が中山ラビです)。もう一人の英語教師が「自由劇場」の旗揚げ公演を見せてくれました。67-70年に色々あって釈放後、吉祥寺近辺に戻り中卒に会いました。ビールと中卒の肉じゃが、定番でした。「べ平連らしき団体」の元メンバーです。横浜「寿町ライブ」を古いテープから起こそうかな・・
「ムジナ」→動物ではない。
みんなと会う前からの、ちゅうそつの仲間。
最初はやんちゃ仲間だったが、のちに音楽仲間にもなる。
中山ラビや渡ちゃん、順平君、タマエにもつながっている。
幻の「ぐゎらん堂5周年コンサート」はムジナが録音した。

みんな突然現れてビックリしたかもしんないけど、怖がらなくていいよ!
ムジナさんようこそ、ぐゎらん名もムジナさんですか?
八木さん、ヤハギ氏ではないですよね?
随分前だけれどヤハギ氏にはNYでお会いしました、まだ住んでいるのかな?
名店会館の近くの歌声喫茶・・灯火はOZだものね。

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