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川嶋哲学コミュの同性愛・バイセクシャルの方へ川嶋哲学的公式見解

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同性愛・バイセクシャルの方へ川嶋哲学的公式見解

ブログの記事、拝見させて頂きました。
> 実は、私自身が「両性愛者」・・・いわゆる、バイセクシャルという類いの人間です。
> 同性愛者とはまた違い、異性に対する不信感や嫌悪感があるわけではなく
> 女性も男性も好きになることがある、というだけです。
> 実際に女性と恋人としておつきあいしたこともございます。
>
> 正直なところ、「病気」という単語を使われてしまうのは、悲しい気持ちになります。
> 過去のトラウマや複雑な家庭環境で異性への不信感を持っている人も確かに存在しますが、
> そんなことはまったくない、普通の家庭で普通に育ったのに同性愛者という方も多くいます。
> 同性愛のメカニズムについては未だ解明されておらず
> 自分でもなぜそうなったのかわからないという人がほとんどですのに、
> 家庭的な悲劇にあった被害者に違いない、あいつらは不幸だ、病気だと言われてしまうのは、
> どうにもやりきれない気持ちです。
>
> 一意見として、投稿させて頂きました。
> それでは、失礼致します。

ご意見拝読いたしました。

非常に深刻な内容なので深く考えないといけないですね。

なぜ人の姿をして生きている存在は、男性か女性という枠組みの中に存在しているのかという、根源から考えて行かないと、これは普遍的な回答には到達できないでしょうね。

一方的な決めつけではなしに、異性愛・同性愛どちらの立場の人にとっても、希望を感じる目的へ到達できるように導ける内容でないといけないでしょう。



まず、人として生まれて来る方は、例外なく自分の意志で生まれている方はおりません。私もあなたもそうですね。

退行催眠なんかで、今回の人生はこういった課題を超えて人格を磨くことを目的に誕生する、ということを計画してから生まれてくる方も、数万例の実例が存在しているのであながち非科学的とは言えなくなってきているようですが、少なくても私たちにおいてはそういった生まれる前の記憶があるわけではありませんし、気がついたら生まれていて、いつの間にか生きなければならない運命の中にいるというのが、誰しも当てはまる人生ではないでしょうか。

親にしてもこういった子供が欲しいので、目鼻立ちはこうやって、性格はこうして、性別はやっぱり…という風に計画して子供を作ることが出来る人間は事実上一人も存在しません。


私たちは皆、例外なく自分の意志で生まれた存在ではないということです。


つまり、自分が原因となってここに来たのではなくて、何かは分からないけれども、もっと人間という存在の前にはその原因的な何かがあって、そこから結果的に私たちはここへやってきた、というのが否定できない事実ではないでしょうか。

その原因的存在である何か、その最も重要であるはずの自分自身のルーツの中のルーツであるその最重要ポイントに関して、漠然とした考えしか持つことも出来ず、実感も何もなく、分からないまま生きるために生きているという、ほとんど精神的に死んだような状況の中で、争いながら迷いながら生きているのが、我々人の姿をした存在達の実情です。

これは男性であっても女性であっても老若男女例外はありません。

人のために無償で生きることに喜びを感じるのでボランティアに精を出す方ですとか、公的な大仕事を達成した時の達成感の喜びのために一生懸命生きる方もおりますが、結局どんなに良いことを達成したとしても、必ず人の姿をした存在には死が訪れます。


生まれたのも自分の意志でなければ、死ぬのも自分の意志ではない。


この残酷とも言える運命圏内の中において、はかない喜びのために一生を費やしている存在が我々人間なのではないでしょうか。
ですから普通は生きていることに嫌気が差すのが当たり前です。それはある程度永遠性への認識を持つことが出来ている人にとっては、正常な感覚と言えるのではないでしょうか。


そして、さ迷いながら生きる運命の中において否応なく生じてくる人間関係。

私たちは通常、最初の人間関係として、一組の父母の扶養の元に誕生します。

父母は自分に先立ってこの世に存在していた人であり、自分は何も分からないままこの一組の父母の元で人生を出発することになったか弱い存在です。

人の形をした存在は、この男性と女性の両性の結合によって誕生し、育ちながら再び自分も同じ父か母の役割を果たして、また子孫を繁殖して地上を去って行く。

この繰り返しが連綿と人類誕生以来、自分という存在がここに来るまでに何千回、何万回繰り返されてきたのでしょう。
しかしそうしながらも、どの時代のどんな素晴らしいカップルであっても、決して完全な愛の形というものを見いだすことは出来なかったはずです。

人類は最初のカップルからすでに家庭を崩壊させて出発した存在であるという記述が、聖書の創世記に見られます。

人類最初の女性であるエバは、自分に唯一永遠不変の男性として与えられていたアダムを裏切り、ルーシェルという自分の家庭教師役の存在(ここでは人間同様の姿をした天使長という表現が使われています)との不倫の性的関係を結んで、そのあとに自分の犯した間違いに対して恐怖を感じ、本来の伴侶であるアダムを誘惑して、結婚前であるのに性関係を結んだことにより、更にお互いに恐怖と疑心暗鬼にとらわれる結果となり、愛の秩序を破壊した罪のためにエデンの園を追放され、天使長も地獄へ落とされたと記録されています。

そしてエデンの園を追放された後に産み落とした子供たちは、兄弟同士で殺し合うという殺人事件を起こしました。

兄が優遇されている弟に対して嫉妬し、石で頭を叩き殺してしまったそうです。当然この兄弟間には相互の信頼も愛情もなく、親であるアダムとエバから受けた愛情というものが機能不全であるかのような、非常に不完全で乏しいものであったことを物語っています。

愛は受ければ受けるほど自然と返したくなる原理が存在していますが、まともな愛を受けて育っているなら、親であるアダムとエバの悲しむことをしようとする心には自ずと抑制がかかって然るべきです。

しかしアダムとエバの家庭では日常的に激しい紛争状態にあったことがうかがえるのです。その延長線上でごく自然に生じざるを得なかった兄弟間殺人事件だったのではないでしょうか。親に感謝する気持ちなど微塵もあり得ない状況の家庭だったのでしょう。

つまり、全人類というのは最初の先祖の段階で大きな間違いを犯して出発したその子孫達なのであり、未だにその愛機能障害を負った姿を克服することが出来ない状況下で、同じ間違いを繰り返すことしかできない運命の子孫を生み増やしているのに過ぎない存在ということが、過去の人類歴史をすべて総括して導き出された結論です。

しかしこれを克服するべく命をかけてきた方々を、我々は宗教歴史の指導者の歩みから知ることが出来ます。
義人、聖人、賢哲、哲人なども同様です。
彼らや彼女らがほぼ基本的に独身生活を貫いてきたのは、自らが愛情機能障害のままで子供を作れば、また同じ過ちを犯すことになるということを、漠然とではあっても認識していたからなのでしょう。

僧侶や神父、尼僧やシスターたちは生涯独身でした。今もその伝統は引き継がれています。

彼らが欲していたのは、人間世界では見つけることの出来ない心の平安、安らぎ、神の愛といったものと一つになることでした。

しかしこれらのものは人類最初のカップルの失敗がなければ誰でも得ることのできるものでした。

宗教というのは、人類全体が掛かっているこの愛情機能そのものが崩壊した状況に陥っている人間を治療するための手段として、天が地上の宗教指導者を通じて、下さったものです。

聖書も仏典も論語も治療方針のヒントが書かれたレシピともいうべきものであり、道しるべというわけです。

当然それ以上の価値があるわけではありませんので、宗教の細かな教条を目的として人間を強制的に強いるべきものではありません。

それを混同して、文明を破壊してマホメットの時代へ逆行させようとするアルカイダの蛮行は断固として壊滅させなければならないでしょう。

未来の子供達を守るために現役世代の大人が命をかけるべき事の一つです。

思想的に妥協してもらえる余地がないならば、思想転向する余地は与えつつ、完全に壊滅してしまうまで実力行使しなければなりません。徹底的に無情であるべきです。

宗教というものの存在理由を明確に認識しているのならば、こういった戦争は起こりえません。しかし人間は特定の宗教圏のなかにどっぷりつかって育つと、健全な批判精神すら罪悪視して抹消するきらいがあります。

宗教は人間が愛情機能に深刻な障害を負ってしまうという事件が起こりさえしなければ、本来は必要性のないものでした。

病気でもない人になんの医者が必要でしょうか。宗教歴史というのは仕方が無く天が出発させたものなのです。

ここで天というのは人間の存在原因です。今ここに私がいる、あなたがいる、その原因です。

私やあなたに人格があって、愛情があって、知恵があり、燃える意欲や希望があるならば、それはまず天にその原因があって、今この私とあなたに生じているものです。
私自身が原因的存在ではなくて、結果的存在であるということは、因果関係として完全に理論的に合致した結論です。

キリスト教では我々人間は造られた側の存在であり、人間や宇宙を造った側の原因的存在は天というのです。
この結論を否定する人は、論理的思考を放棄して、嫌悪感や傲慢な思いから感情的な判断をされているだけです。

そういった思考方式だけでは真理と一致した生活を送ることは難しくなります。つまり、愛情機能障害とでも言える疾病の治療が困難になるのです。真理と一致した行動をとることで、愛情機能障害の克服は可能なのです。

ここで治療という言葉が出てきました。

人類歴史は最初、原始的共同生活体から徐々に社会生活を営むようになり、やがて国家を形成して世界にまで影響を広め、科学の力により地球全体の支配者になったと言われていますが、その内実はひどい闘争歴史の連続でした。

現代にいたってようやく国家間同士の戦争が終息してきたために、まあ最近はロシアの軍事侵攻もありましたが、イデオロギーの違いによる深刻な世界的対立までは及ばないはずなので、せいぜい地域国家間の紛争程度で収束するはずです。

この国家間の戦争が小さくなるにつれて地域間紛争や、さらにより小さな争いに目線が行くようになって参りました。

実際はずっと以前からこの小さなレベルでの紛争というのも頻発していましたが、より大きな紛争の陰に隠れて露呈してこなかっただけです。

では具体的に、その小さな紛争とはなんでしょうか。それが家庭紛争です。そして男女間における紛争です。そして個人において生きる意味を模索しながら惰性に流れてしまう自分自身に対しての紛争です。

自分自身の究極的問題と、正面から向き合って闘争して行くことができる世界的環境が生じてきたということです。

これは天が準備された千載一遇のチャンスです。

そこで同性愛の問題にもスポットが当たってきました。

自分が生きる意味と、同性愛・バイセクシャルであることとなんの関係があるのか。

これは原因的存在である神の願いに逆らって出発した人間が、真に愛と一つになった存在に戻る道における、その具体的克服課題であると言うことです。

愛とはなんでしょうか。

それはまず骨や原理原則に比喩できる力強い性質を持った男性的愛情を持った存在と、肉や現実主義者として比喩される柔軟ですべてのことを実体化する性質を持った女性的愛情を持った存在が、それぞれの愛の形にふさわしい形態を持って、愛を概念ではなくて、実体の形を持ってぶつかり合い、そこに初めて出現するものです。

生殖器の形態というものは、凹凸の形態をとることにより、二つの全く違う性質の実体が、完全に一体化することのできる目的であえてそのように造られているのであり、両方とも平べったくとか、両方とも出っ張らせてはいません。

その唯一肉体のパーツの中で正反対の、生殖器の形態にふさわしい内面性を備えているのです。本来は相互補完しつつ内面・外面とも完全に一致するように造られているのです。

これが同じ性別同士、同じ形体同士では宇宙全体の要素をその一点において十分に顕現することのできない、異形の存在となってしまうのです。

人間に天が望まれる愛の次元はそういった不十分なものではなくて、あくまでも陽陰すべての要素を含んだ完全なものです。
不完全な愛を味わうためにわざわざ造った宇宙ではないし、人間ではないのです。

神はご自身の持つすべての陽的、陰的要素を人間の中に男と女とに分けて投射されました。

しかし我々は今のところ、そういった完全性・永遠性を有した存在として地上に繁殖することが出来ていません。

つまり、人の姿をした存在は、男性として完成し、女性として完成した個人となる責任分担をまず果たしきることによって、神様と同等の価値と愛を有した神的存在となる道が願われていましたが、かつて誰一人としてその責任をまっとうした人物がいなかったために、完全な愛を顕現できる家庭というものを地上に出現できなかったわけです。

その人格完成への過程は完全に一人一人の自主的選択にかかっています。

人間は自らの意思で存在理由を発見し、永遠に変わらない利他的存在目的に従うことで、天が人間創造当初より望まれている個人としての人格完成、家庭の完成、親族の完成、民族の完成、国家の完成、世界の完成へと歩んで行くことが可能になるのではないでしょうか。

人の姿をしている存在が生存している現時点の世界状況は、非常に不安定かつ未完成な状況下に置かれており、かつ例外なく全員が愛情機能障害という深刻な疾病下において、気分次第で相手を取り替えることはもちろん、性別においてさえも特に疑問を感じることなく、確固たる目的も方向性も欠如した人生を送ってゆくことになるのだと思います。

しかし本当に神がこの世界を造ったのだとして、いつまでも人間を追放したままで何もせずに手をこまねいていて、いったいそれのどこが親でしょうか。

確かにそう見えることは一理あるのですが、実はしっかりと神は人間世界に関与されてきた歴史があるということは、聖書に多く記述が残っております。

もちろんその手段は宗教という道具を使ってということになるのですが、その中でも特筆するべきはやはりイスラエル民族でしょう。

この民族だけが唯一神の啓示によって集められた一つの家族から出発して、氏族を形成し、民族を形成し、国家を二〇〇〇年間に立派に築いたのです。

この民族が実在し、かつ世界において大きな力を有している事実からも、神の関与が現実のものであることを証明しています。

そしてその国にはついに自らを神の一人子であると宣言したイエス・キリストという人物が出現しました。

国家的な安全な土台の上にようやく送ることが可能となった、神様ご本人の代身者としてのイエス・キリストであったのです。

しかし当時のイスラエル民族は彼の価値を見抜くことができず、最終的に彼を殺害するに至ってしまいました。

メシヤが来るということを予言者達を通じて何度も述べさせ、準備に準備を重ねたイスラエルであっても、彼をユダヤ教の秩序を破壊する異端者としてしか認識することができずに、王として迎えることに失敗して、十字架刑によって虐殺したのです。

彼は人類歴史発生以来、人類史上ついに最初に完成された男性として、二番目のアダムとして、地上の誤った血統関係をすべて精算する空前絶後の責任を持っていたのですが、殺される事にならざるを得なくなったために、彼はまた自分自身が地上に来ることを明言しております。

その詳細な失敗原因に当たる摂理的な重要人物の不信はここでは割愛しますが、要するに神の関与というものは、神がすべてのことをしてしまって人間を自由に操ることができるというものではなくて、神の関与プラス、人間側での責任が全うされた場合にのみ、その全体的な目的が達成されることができるという原則に貫かれているのです。それはアダムとエバ当時から変わっていません。

もし神がすべてのことを自由に思い通りにできるのであれば、アダムとエバが愛の秩序を破壊してしまう前に、自由に彼らを操って失敗などさせずにすでに思い通りの地上天国は完成しているはずです。

しかし現実は不安定で未完成な世界の中で、誰しも生まれた理由も原因も分からないままに、日々の移ろいの中むなしい営みを続けるだけの状況下にあります。

この状況の中に生まれた私たちが明確に指向すべき事として、上記の内容を自分の責任分担としてまずはっきりと感じ取って頂くということが必要なのですが、同性愛、バイセクシャルというのは、人間存在の性別を通した永遠性を崩壊させる方向性のベクトルを発生させ、人間の価値を喪失させる行為につながり、自分自身の永遠なる存在価値が認識できなくなります。

男性と女性にすべての存在を分けて、これは鉱物の原子核と電子、プラスイオンマイナスイオンから、植物のおしべとめしべ、動物の雄と雌あらゆる存在物に当てはまることですが、その中において永遠の繁殖も可能になり、完全な愛を顕現させることができるという神の創造目的があるのです。

同性愛、バイセクシャルは、この目的に真っ向から反旗を翻す行為となって、自分自身の愛情機能障害がより深刻な状態へ悪化します。刹那的には幸せを感じるような錯覚に陥るのでしょう。しかしそれは永遠には続けることのできないことです。神は永遠でないものを創造されてはいません。

我々は神の創造理想をある程度は認識することができるのですから、分かった分だけ少しでも合わない内容を修正し、より永遠の存在軌道に一致した自分の姿へと自らを変えて行くことが、刹那的な生き方に振り回されている現在の世界に生きている私たちの責任分担です。

決して現状を追認するのではなく、絶えず反省し、絶えず悔い改め、決して責任転嫁をしないで、原因と結果としての自分の姿へと日々少しづつでも一致させることで、間違いなく自分の愛情機能不全を徐々に克服することができ、やがて真に自分自身への誇りと歓びが訪れ、良心の確かな存在と、そこにある神様との絆を明確に自分自身の中に見いだすことができるのです。

私は神の子供である。という永遠に変わらぬ確かな歓びを持って、生きることの価値を最大限に満喫することができるのです。それは神と私との関係が、原因と結果として隙間無く一致した姿に近づく事でしか感じられない境地です。

人が真に永遠の価値を持って創造されている尊い存在であるということを、生きている間に、今、ここで感じることができなければ、人生路程において我々は不幸な存在のままです。

愛情機能障害をキリスト教では堕落とも呼びますが、我々は残念ながら堕落した血統を連結した結実として今ここに来ているのです。

私もそうですし、あなたもそうです。ですから今のままでは人の姿をした存在達は何も誇りを持って生きることはできません。すべては偽りの人生であり、誇りであり、名声であり、価値なのです。

どの分野で堕落した現実を自らの責任として受け持っているのかは人それぞれです。

同性愛・バイセクシャルでの分野の責任を持っている方もいるのでしょうし、他にも様々な責任が託されているのではないかとも思います。

これは自分で選択できることではありません。気がついたらそういった分野の堕落した内容を受け持っているのが現実です。恨むならアダムとエバに対してでしょう。彼らも無知だったので仕方がなかったのですが。

人間に願われている神の創造理想というものを認識していない時には、現状をそのまま放置していても仕方のないことですが、この内容を読む機会を与えられたというのは、偶然ではありません。

望むのでしたら、あなたにも責任を分担して、人類と神様に貢献する喜ばしい機会が訪れたということなります。

科学というものは神の存在を前提として組み立てられているものではないために、道徳や倫理の存在理由を説明することのできる心の世界についての内容をまだほとんど持ち合わせていないので、科学絶対主義、科学万能主義では人間を幸せにするには不十分です。

むしろ科学は神の存在を否定する理論を組み立てる目的で出発したきらいすらあります。ですからこの世界はまだまだ人間にとってすべての情的満足を得られる世界になってはいません。

科学と宗教が一致するにはまだ相当の歳月が必要でしょう。ですから科学的認識の進歩だけに頼る生活を送るのでしたら、あなたが幸せになることができるのは、あと数百年は後になることでしょう。それでは人生が終わっています。科学の進歩は後に見ながら、自分の良心を信じて人類に先んじて責任を果たす方が待ち望まれているのです。

相当長い文章になってしまいましたが、この内容を読んでいるあなたは、時代の先端的な責任が期待されている可能性があります。

私の申し上げることにわずかであっても永遠に通じうる内容を、何か感じて頂くことができるようでしたら、ぜひとも現実の自分自身と、神様の創造理想の自分との隙間を埋めて行くために、日々一歩すつでも前進して行くことを決心されてみて下さい。

あなたがそれを望むなら、世界に対しての自分自身の認識がきっと日々変わってくることを実感して頂けるでしょう。


今現在私が活動を開始しているのは、すべて上記の思想が背景になっています。まだまだ歴史的事実とつきあわせて導き出された事実や、再び来られるイエス様との連携による長期的計画もありますが、ここでは割愛します。膨大すぎる内容なので、理解に合わせてしかお話しできないのです。最低数年間はかかる学習内容になります。

地上に準備された人々がしっかりとまた土台を形成しておくことで、実際にそれは現実になることです。生涯を掛ける価値を実感しています。

それにしても、上記すべての事を荒唐無稽なことにしか感じて頂けない可能性もありますが、こういった文章だけではどうしても限界がありますね。私の表現力や理解力が未熟であるためです。

ですから、また疑問やご意見ありましたらお待ちしております。是非お寄せ下さい。

この度は、お読み頂きまして、本当にありがとうございました。

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