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瀬織津姫コミュの神道と仏教をつなぐ瀬織津姫・聖徳太子 2

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◎神道と仏教を結ぶ瀬織津姫と聖徳太子の深いご縁
「三宝を敬え」と仏教を推進した聖徳太子は、神道を無視ないし軽視していた、そのため神道派の物部氏と対立することになったと考える向きが多いのですが、実は「十七条五憲法」には「神・儒・仏の三法を敬え」と記されていること、「敬神の詔」にあるように、日本の神を大切にするお考えをお持ちであったのです。神道派の物部氏と崇仏派の蘇我氏・聖徳太子という対立構図が崩れ去るのです。そもそも物部氏の神道は伊勢祭神の信仰とは縁が薄く、出雲の神やニギハヤヒとのつながりが深いのです。逆に皇統の血統を有する聖徳太子は伊勢祭神との結びつきが強いこと、仏教本尊に伊勢祭神を習合して、伊勢祭神を守ろうとされたことはほぼ間違いないこと、などから、実際は神道の内実をめぐる対立ではなかったのでしょうか。
聖徳太子が神道を基本としていたことを、後世、藤原鎌足・不比等一派によって歪められ、日本書紀にもその最も重要な点が書き換えられてしまったことは、昨年10月のサラシャンティでの講演でも、お話しました。聖徳太子は、すでにその当時、何者かによって歪められ、その存在が否定されつつあった伊勢祭神、中でも瀬織津姫を守ってこられたといえるでしょう。国常立命と伊勢祭神は聖徳太子とともに仏教興隆を通じて、深刻な宗教対立が起こらないように神仏習合という方向性を打ち出されたのではないかと推測しています。
◎瀬織津姫と聖徳太子の深いご縁、という仮説を実証することが必要となってきました。大日如来は天照大神の本地であることは有名です。すると不動明王はこの大日如来の御働きをされる瀬織津姫のエネルギーを表していることになります。
毘沙門天が天照大神、吉祥天(弁財天)が瀬織津姫、天忍穂耳命が善膩師童子という仏教的なお姿で祀られることになったこと、同じく西方浄土の阿弥陀三尊も天照大神・瀬織津姫・天忍穂耳命をそれぞれ阿弥陀如来・聖観音・勢至菩薩として仏教的に祀ったこと、瀬織津姫を単独で祀るときは如意輪観音(救世観音)や三十三観音とされたことも実証する必要があります。
聖徳太子が四天王・吉祥天を祀る信貴山朝護孫子寺・四天王寺・法隆寺を創建した当初より本来仏教寺院では、神道の神と仏教の本尊を共に同じ境内で祀る方式がとられています。鎮守神が寺院境内に祀られているのもその証拠です。四天王寺の西門には大鳥居があり、伊勢遥拝石・熊野権現遥拝石も境内にあります。政敵、物部守屋を祀る守屋社もあり、神として祀っています。
物部守屋の息子、真福(まさち)と共に創建した愛知県犬山市の真福寺8本尊は本堂の真下から湧き出る泉で水体薬師)は境内に神社と寺院が対等に立ち並んでいます。
信貴山縁起で有名な朝護孫子寺は入り口に多聞天(毘沙門天)の額を掲げる大鳥居が立ち、各堂塔の前には必ずと言ってよいほど鳥居があります。神道と仏教の様式が融合しているのです。聖徳太子が日本の神々を見捨てて、仏教本尊のみを信仰した、とは考えられません。聖徳太子は十七条五憲法にあるように、神道を根本の幹として仏教と儒教の枝葉と果実を実らせようとされたのです。

聖徳太子が毘沙門天を感得した場所に創建した朝護孫子寺と信貴山奥の院(ここに毘沙門天が出現されました)はいずれも毘沙門天・吉祥天・善膩師童子を本尊としています。法隆寺も創建当初は四天王寺式伽藍配置であったことは有名です。おそらく四天王寺式伽藍と同じ若草伽藍の東側には、神社が同じ規模で併設されていたのでしょうが、放火によって、伽藍配置を変えられ、神社の祭神は別の場所へ移されたものと推測します。今も法隆寺の鎮守社として、龍田神社が法隆寺の西に鎮座しています。この神社の摂社に廣田神社があります。瀬織津姫が祀られているのです。
救世観音は如意輪観音と同じであるとみなす四天王寺は、金堂の本尊を救世観音としています。四天王と吉祥天も境内に祀っています。
また、四天王寺には聖徳太子創建の7つの鎮守社があり、今もそのうち3社は合祀されているものの、ちゃんと残っています。その中の一つが今宮戎神社です。ここは毎年、十日えびすで賑わっているところです。今宮戎とは、実は兵庫県西宮市の西宮神社を勧請した神社であり、今宮戎の北方200メートルほどの至近距離に廣田神社が鎮座しています。兵庫では廣田・西宮神社ともに祭神の変更・追加がなされましたが、四天王寺近くのこの2つのお社はおそらく勧請元の原型をより忠実に残しているように思えます。 
ホツマに基づけば、廣田・浜南宮(現西宮神社)のいずれかには稚日女(ワカヒメ)が祀られているはずですが、兵庫県西宮市の両社には現在その神名は伝わっていません。稚日女はホツマにはエヒスという別名やヒルコの別名で呼ばれていたことが記されていますが、現在漢字の蛭子(ひるこ)が無理矢理「えびす」と読まれ、いつも笑顔の笑みす(えびす)の事代主神と習合させられ、その存在が消されたたようです。兵庫の廣田神社は、平安時代の延喜式神名帳には1座、つまり一柱の神を祀る、と記されていたことからわかるように当初は向津姫だけを祀っていたのですが、中世以降、住吉大神・八幡大神・武御名方大神・高皇産霊神を加えた五社を祀る神社となっています。大阪の廣田神社は本殿に向か津姫一柱を祀っており、今宮戎では、今もなおちゃんと稚日女命の神名で祀っていることから、勧請先の大阪の方が古式を保っているのです。
西宮の廣田神社の摂社、浜南宮が現在の西宮神社ですが、中世より商人たちの信仰が広まって大きくなりました。つまり兵庫でも当初は、廣田神社がメイン浜南宮はその摂社だったわけです。するとこの四天王寺七宮の今宮戎も、セットで創建されたはずの廣田神社の方がメインだったはずです。廣田神社の創建年代や創建の人物は不詳となっていますが、これは本末転倒でしょう。大阪の廣田神社(および摂社の今宮戎)は聖徳太子が四天王寺と共に創建したものに違いありません。
また四天王寺の山号を荒陵山(あらはかやま)といいますが、近くには山などありません。しかし、夏至の日の出方向に六甲山頂がピタリと位置しており、六甲山は天照大神の荒御魂の御陵があります。四天王寺の創建時に六甲山の御影石を切り出しています。

聖徳太子はほぼ六甲山を囲むようにその周囲に複数の寺院を創建しています。中山寺を筆頭に、宝塚市の塩尾寺、平林寺、金龍寺、神戸市北区道場(聖徳太子命名の地名といわれる)の光明寺。同じく道場の鏑射寺と、聖徳太子が3歳の時病気になり、瀧に打たれて治癒したという伝説のある太福寺を結んだ延長上に六甲比命の磐座が位置し、さらにその先にほぼこの場所、サラシャンティが位置しています。有馬温泉の極楽寺は六甲比命の磐座のほぼ真北に位置します。毘沙門天が姿を現した雲ヶ岩・心経岩・六甲比命(弁財天)の磐座を奥の院とする吉祥院多聞寺の秘仏本尊は毘沙門天・吉祥天・善膩師童子です。西宮市名塩の木元寺には、「日本三躰ノ一 木ノ元地蔵尊」と刻まれた碑がありますが、ここは紀伊の木ノ本、近江の木之本地蔵尊とともに、聖徳太子が鎮護国家のため一本で三体の地蔵尊を刻み三か所に納めた日本三体地蔵尊の一つと伝わっているそうです。和歌山の木ノ本は日前宮の神鏡(天照大神と瀬織津姫の御神体)が最初に祀られたところです。滋賀の木之元地蔵は、天武朝の創建とされますが、この西宮の木元寺では聖徳太子創建と伝わっています。驚くべきことに、滋賀県の木之元地蔵とこの木元寺を結んだ延長上に六甲比命の磐座が位置するのです。つまり三つの木ノ元地蔵で、日前宮と六甲比命の磐座の関係を示しているのです。
神戸市北区にはワカヒト様(=この天照大神の別名はホツマに登場する)ワカヒト様を祀る若一王子権現を鎮守とする福寺を創建されています。(ただし神社創建は後世とする説も有り。)東灘では岡本の宝積寺、水神を祀る灘区の敏馬神社の神宮寺、龍泉寺がそれぞれ聖徳太子創建の伝承を持ちます。東灘区御影の綱敷天満宮は四天王寺創建のために御影石を切り出す際に、聖徳太子が倉稲魂神を祀ったと伝わり、また、神社には聖徳太子御所持の笏と駒角が伝わっています。
四天王寺創建の際、京都に用材を求めた折に、念持仏の如意輪観音が動かなくなって、寺院を創建しましたが、それが小野妹子の子孫、池坊とも関わる六角堂(頂法寺)です。それを導かれたのは現在も境内に祀られる唐崎明神です。
http://www.ikenobo.jp/event/2010/newsandtopics/20100726_karasaki.html
>聖徳太子がこの地に六角堂を建立しようと材木を探しておられた時に、一人の老翁が東よりやってきました。老翁曰く、「私は地主の神である。この地の側にある禿杉という毎朝紫雲たなびく大木を使い、堂をこの地に建立すれば、 私が後々まで守ってやろう。」と言い終わると、明神天子菩薩となり光明を輝かせながら東の方角へ消えていったと いいます。 太子はその教えに従い、その杉を伐り、六角堂を建立した後、自ら明神天子菩薩の御神体を作り、堂の東方に一社を設けて、 鎮守守護神 唐崎大明神として崇め奉りました。<
現在は下賀茂神社境内で祀られる瀬織津姫を祭神とする井上社も唐崎明神と呼ばれていました。そして、滋賀県大津市と高島市にも同名の神社がありますが、ちょうど六角堂の唐崎明神社も正式な祭礼の日は同じ7月28日で、祓えの行事と深く結びついています。高島の唐崎神社と井上社は祭神が瀬織津姫(・祓戸神)です。このことから聖徳太子を導かれたのは瀬織津姫ではないかと推測できるのです。
聖徳太子生誕地の明日香村の橘寺と大阪府太子町の御陵(叡福寺)と兵庫県太子町の斑鳩寺(いかるがでら)は一直線で並びます。同じく、法隆寺若草伽藍跡と、信貴山奥の院と兵庫県太子町の斑鳩寺も一直線で並びます。斑鳩寺には境内に稗田神社(現在は御旅所)があり、神仏分離令の後、稗田神社は移転しますが、摂社太神社に天照大神が祀られています。太子堂には聖徳太子御自身の本物の長い髪を施した太子16歳像がありますが、その御姿は神職の衣装の上に袈裟を重ねたもので、その衣装は必ず皇室より賜ってきた伝統があります。現在のその衣装は、高松宮が昭和37年2月22日の聖徳太子の命日に寄贈されたものだそうです。右手に神道の象徴である笏を持ち、左手には仏事の法具、柄香炉(えごうろ)を持ち、その足元には天照大神の象徴である鏡が安置してあります。まさに神仏習合を推進された強固な意志を体現した神々しい御姿です。この太子像を本尊とする太子堂の、向かって右側にはなんと善光寺の阿弥陀如来の複製が祀られているのです。聖徳太子も、善光寺の阿弥陀如来とは深いご縁があり、この阿弥陀如来との往復書簡が四天王寺に伝わっているそうです。

聖徳太子の継承者たちの活躍
さて聖徳太子が622年に薨去され、その直後、法道仙人がインドより渡来して、主に兵庫県南東部、つまり六甲山を中心として多くの寺院を創建します。そのうちの一つが神戸市北区唐櫃の吉祥院多聞寺ですが、法道仙人は六甲比命の磐座・雲ヶ岩・心経岩をその奥の院としました。 
乙巳の変(大化改新)で藤原鎌足一派は、聖徳太子の思想=国常立命の橘の繁る常世国の理念をさらに発展させた神仏儒の道を推進する勢力の一掃を、表面上は完了させたかのようでした。しかし、主に修験道・仏教の衣をまとって、聖徳太子の教えを守ろうとする動きも継承されていきます。法道仙人の遺業を継いで役行者が、聖徳太子の教えに基づく活動をされます。六甲山で瀬織津姫と出会った役行者は、後に天武天皇とともに、天河弁財天を祀ります。
斉明天皇2年(658年)兵庫県太子町斑鳩寺のすぐ隣に徳道上人が生誕されます。徳道上人は閻魔大王の命によって西国三十三か所を創始された方です。志半ばでこの事業は途絶えますが、その270年後に花山法皇が大成されます。
聖徳太子の時代の200年後、京都の六角堂の如意輪観音に帰依して仏道に入った丹後の与謝野町香河出身の小萩さん=真名井御前は、淳和天皇の御后として入内しますが、すぐにまた出家され、おそらく瀬織津姫に導かれて、『元亨釈書』の記述に基づけば浜南宮(西宮神社)、廣田神社、甲山を経て六甲山頂へ向い、甲山の山麓に、如意輪観音を本尊とする武庫山(六甲山)神呪寺を空海と共に創建しました。 
これが聖徳太子生誕地・天武天皇御陵・役行者生誕地・空海生誕地が一直線で並び、空海生誕地と日前宮・高野山奥の院・天河弁財天が東西一直線で並ぶ理由です。まさに神がすべて御計画された通りなのです。人間業ではありません。
それから約200年後、今度は花山法皇が熊野権現に導かれ、全国各地の瀬織津姫にかかわる場所を花山院領とされます。廣田神社と花山法皇の子孫である神祇伯の深い関係もこうして築かれました。静岡県御前崎にある桜が池は瀬織津姫が敏達天皇の御世584年にご出現されましたが、ここも花山院の領地となりました。
桜ヶ池は瀬織津姫と聖徳太子を結ぶ大切なところです。584年、瀬織津姫がご出現されたその後すぐに、桜ヶ池の真西に四天王寺(593年)、真北に善光寺が創建されました。同じ593年位広島の厳島神社が創建されますが、神殿は北西を向いています。北西の方角に高貴な存在を意識する考え方は古くからあったようです。 四天王寺の北西に六甲山が位置します。四天王寺創建なって、聖徳太子が念仏三昧に入られた時、はるか六甲の山肌に阿弥陀三尊が出現されたことから、そこが御影と呼ばれるようになったそうです。
善光寺の北西に戸隠神社と九頭竜神社が位置します。また善光寺の真北には善光寺奥の院と呼ばれる神社、駒形嶽駒弓神社(こまがたけこまゆみ)神社が鎮座します。菊池展明氏はこの神社祭神について、「早池峰大神つまり瀬織津姫神は「早池峰山駒形大神」でもあることを指摘し、さらに善光寺にはお寺としては珍しく「盂蘭盆六月祓」という名前の祓えの行事があることにも注目し、「善光寺には明らかに「六月祓」の神、つまり、瀬織津姫神がいます。」と結論付けています。
花山法皇が皇位をわずか2年で離脱させられた後、花山法皇を仏道に導いて、ともに西国三十三所を復興されたのが仏眼上人ですが、出会ったのは何と聖徳太子の御廟を守る叡福寺でした。仏眼上人はこの叡福寺の僧侶であり、熊野権現の化身とも伝わる不思議な方です。この三十三か所は、地震の活断層のあるところに位置しているものが多い、という話が古くから一部の僧侶の間で伝わっているようです。(神戸市北区道場 太福寺住職のお話と、成瀬正透著『神がわたる謎の道』より)
それから約150年後、今度は熊本県玉名市出身で『扶桑略記』を著したことでも有名な皇円阿闍梨が、亡くなる際に龍身となって桜ヶ池に入定されます。六甲比命の磐座と空海生誕地である善通寺の産湯井戸と皇円阿闍梨生誕地は一直線で並びます。皇円阿闍梨が桜ヶ池に入定された30年後、皇円阿闍梨の龍体が善光寺上空に現れ、境内の阿闍梨池に毎年数日間鎮まるようになったそうです。
善光寺にはどのような秘密が隠されているのでしょう。

善光寺の北西にモチコさんが最期を遂げた戸隠しの洞窟があり、現在九頭竜神社として祀られています。わが子天穂日命を九代目の天神になしえなかった無念の気持ちを持ち続け、本家からのプレッシャーなどから窮地に追いやられてしまったモチコさんは九頭竜となり、全国を流離い、戸隠の洞窟に潜んでいるところをトカクシに切り殺されてしまうのです。肉体は死のうともその無念の気持ちは晴れることなく、後の世にもわだかまっていたわけです。伊勢祭神はハヤコさん、モチコさんを本当に神上がりできるようにと腐心されたと思われます。神代の時代から人の世の時代になっても、まだ神上がることのできなかったハヤコさん、モチコさんを丁重にご供養するために、聖徳太子、役行者、空海ほかの高僧・神官にもその供養を託したものと思われます。もっとも古くにハヤコさんが八大龍王として祀られたのは、滋賀県竜王町の雲冠寺と合わせて聖徳太子によって創建された貴船神社と思われます。その後、役行者が天川村の洞川に龍泉寺を創建して八大龍王を祀って御供養し、善の神へとお導きされたものと思われます。
日本仏教の草創期に、物部氏によって廃棄された阿弥陀三尊が、不思議な経緯をたどって長野の善光寺で祀られます。善光寺の創建はその北西に位置する戸隠=九頭竜社、モチコさんの調伏・供養と密接に関係しているはずで、戸隠修験者は善光寺と戸隠を一体のものとみなして修行していました。モチコさんも九頭竜神社・戸隠神社神官、善光寺僧侶を中心に手厚くご供養されたものと思われます。箱根の芦ノ湖の九頭竜神社においてもモチコさんの無念の思いが現れましたが、そこでは万巻上人によって調伏され、次第に人々を守る善神となっていかれたようです。

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