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瀬織津姫コミュの 神道と仏教をつなぐ瀬織津姫・聖徳太子 1

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神道と仏教をつなぐ瀬織津姫・聖徳太子
平成26年2月9日 瀬織津姫の御ひざ元 六甲サラシャンティでの講演内容を公開いたします。   
六甲山は武庫山で向津峰。向津姫がお鎮まりになる神聖なお山です。六甲八幡神社は創建年代不詳、石清水八幡、または宇佐八幡から勧請してきたといわれますが、祭神天照大神は勧請元の祭神ではないので、元からの祭神と思われます。つまり、六甲の神=向津姫命と八幡神を祀っていることを示す神社名なのです。六甲八幡神社の境内は現在よりもはる
かに広く、元の中心地は現在地の東にあったようで、そこに、碑が立っています。そこは六甲比命の磐座の真南に当たります。男神天照大神が崩御された後、瀬織津姫が天照大神の名代として天照大神のお名前を継承されたようです。天照大神アラミタマがそうですし、大日霊女と記された祭神名もそれを反映したものと思われます。阪神間には天照大神を祀る廣田神社や、この大日霊女の名前で祀る神社があります。また、このことが天照大神が女神として感得されたり、描かれたりする要因となったわけです。男神天照大神と瀬織津姫は一心同体なのです。

A 高畠精二氏の現代語訳ホツマツタエのサイトより抜粋 一部改訂
http://www.hotsuma.gr.jp/
>ハラミ山(蓬莱山、現・富士山)の西南の山裾野では、東北の豊受大神のもとへ留学されていた男神天照大神がご帰京されて早々、イサナギ・イサナミの両神(ふたかみ)の詔(みことのり)が諸神(もろかみ)に伝えられ、ヤソキネ(豊受神の子)を中心にして、天照大神のお后選びの神議(かみはかり)がおごそかに進められました。全国の有力な国神(くにかみ)の姫の中から、素直で気立て良く、聡明で見目麗(みめうるわ)しい姫達を選び、日の神アマテラスを中心に十二人の姫を月に例えて十二月として東西南北の四方に配しました。その位は上位よりスケ(典侍)、ウチメ(内侍)、オシモ(御下)の三階級としました。今回初めて十二后を立てたそもそものわけは、若仁君(ワカヒト=天照大神)の二代前の祖神(おやがみ)の第六代天神オモタル・カシコネに世嗣子(よつぎこ)が無いばかりに、一時期政(まつり)が途絶えて国の平和が乱れてしまった反省から、この度はイサナギ・イサナミの英断により決まりました。十二后達は、天君(あまぎみ)を真中に据えて太陽とし、東西南北に月を配して三人ずつ代わる代わる君にお仕えして、皆それぞれ機織(はたおり)をして操(みさお)を立てました。
やっと神議(かみはかり)も終わり、人々に政(まつり)ごとが発せられました。最初にイサナギの弟君クラキネの娘が北局(ネのつぼね)に決まり、姉のマス姫モチコさんがスケ后となり、妹のコマス姫ハヤコさんはウチ后に、カダの娘アジ子さんはオシモ后となりました。次に東(キ)のスケ后にはヤソキネの娘オオミヤ姫ミチコさん(活津彦根命の母:滋賀県彦根市の地名由来)が成り、同じくヤソキネの娘タナバタ姫コタエさんはウチ后に、ツクバハヤマの娘ソガ姫は東(キ)のオシモ后です。南(サ)のスケ后は前々から評判のサクラウチの娘、後にサクナダリセオリツ姫と呼ばれることとなるホノコさん、その妹のワカ姫ハナコさんは南(サ)のウチ后に、カスヤの娘イロノエ姫アサコさんがオシモ后です。西(ツ)のスケ后は、カナサキ(住吉神)の娘ハヤアキツ姫アキコさん(神戸市出身。カタカムナにも登場するカナサキの娘。天津彦根命の母)の称名(たたえな)はシオのヤモアイコ(潮の八百会子)、ウチ后はムナカタの娘オリハタ姫オサコさん、オシモ后は同じくムナカタの娘トヨ姫アヤコさん(熊野樟日神の母)と決まりました。
どの姫達もそれぞれにお美しく聡明でしたが、その中でも生まれつき素直でお美しい一人の姫に天照大神はついに心を奪われてしまわれました。本来ならば君たるもの、姫を迎える時は殿にいて殿前(トマエ)でお目通しするのがしきたりとなっていましたが、この時ばかりは自ら階段(キザハシ)を瀧の流れの如くお降りになり、姫の前に立たれて迎え入れたほどです。この姫の名をサクナダリ・セオリツ姫ホノコさんと申します。さくなだりとは、岩を割いて流れ降る清い渓流を意味し、正に名が体を表わした美しい真名(いみな)でした。称名(たたえな)は君との感激的な出会いに因んで天下る日前向津姫(アマサガルヒノマエニムカヒツヒメ)と申し上げ、ムカツ姫の御名は後世までも君との出会いを伝える名として残りました。
君はついに勇気を持ってご自分に忠実になられ、万難を乗り越えてセオリツ姫をご自身の坐す内宮(うちみや)に入れて一緒に暮らす決心を詔(みことのり)して世に触れました。これが、中宮制度の始まりとなりました。  
セオリツ姫が中宮に上られた後の南(サ)のスケ后の後任にはカナヤマヒコの娘のウリフ姫ナガコを臨時に起用して備えとしました。カナヤマヒコは古中仙道(こなかせんどう)を拓いた有力者で娘のウリウ姫の名前は、暦の閏月(うるうづき)として臨時を表わす語源となり今日に伝えられています。
日月は巡り、時は移ろい、日の神アマテルの御世は事もなく、神のご威光は国のすみずみにまで照りとおり、人々の暮らしは日のお陰(光)を受けてますます豊かに平和が長く続きました。
ここに居ます時、ムカツ姫がフジオカアナ(藤岡穴山)の忍穂井オシホイ(現・伊勢外宮宮城内、下御井神社しものみい)の縁(みみ)に産屋(うぶや)を造ってご出産になられた皇子をオシホミミと名付け、オシヒトを真名(イミナ)とし全国に触れました。又ご誕生の祝賀に集まった民には神の御心のこもった祝餅が配られて、諸民は日嗣皇子(ひつぎみこ)誕生を心から祝い万歳万歳(ヨロトシ、ヨロトシ)の声がいつまでも続きました。
しかし、この様に一点の曇りもない君(きみ)、臣(とみ)、民(たみ)の平和なお国の歳月にも、満つれば欠けるの喩(たと)えの様に、やがてむら雲の沸き起こる兆しを誰が予知できたでしょうか。
アマテル神の弟ハナキネ(ソサノオ=素戔嗚命)が、何とこともあろうに天君の后の北(ネ)の局に入り浸り、スケ后のモチコさんと妹のハヤコさんの居る大内宮(オウチミヤ)に折々に宿る様になり、ついにハヤコさんと陰(かげ)のみやび(密通)に明け暮れる事となりました。瀬織津姫はソサノオと姉妹の局との関係を薄々感じていたものの、アマテル神のお立場や心中をお察しして、長らくこの事を胸の内に納めておきました。
ある日のことです。中宮瀬織津姫は密かに二人を内宮(うちみや)にお呼びになり、二人共北(ネ)の局を解任して、しばしの暇を言い渡し、ほとぼりが冷めるのを待つことにしました。大内宮(オウチミヤ・東の殿に桜を植えてオウチ宮)に下って激しく嘆き悲しむモチコさんとハヤコさん、ソサノオは義憤と同情から我が事の様に怒り、ついに耐え兼ねて、中宮向津姫への怒りもあらわに血相を変えて剣を鷲掴みに駆け出さんとするのを、なんとか押し止めなだめたのはハヤコさんでした。若く血気盛んなソサノオに向い、ハヤコさんは毅然と、しかし静かに言い放ちました。「功(いさおし)ならば天(あめ)が下(した)」(手柄を立てるなら、天下を取れ)この言葉は、単に中宮瀬織津姫への恨みつらみを飛び越えて、アマテル神の殺害を暗にほのめかす女の執念と嫉妬心が牙をむき出し、君と中宮に襲いかからんとするものでした。
その時、この緊迫したやりとりを何も知らない瀬織津姫の妹のハナコ姫が来合わせたために、皆慌てふためいて一旦は矛を隠してその場を何とか取り繕ったものの、このただならぬ空気はすぐにハナコさんの悟るところとなりました。
ハナコさんもその場は何食わぬ様子で切り抜けたものの、隠しおくにはあまりにも事は重大で時も切迫しており、ついに姉の瀬織津姫に一部始終を告げました。聡明で心優しい瀬織津姫は何とかこの難局を打開し良い方向に解決しようと思いを巡らし、一旦は事を心中に納め置いて時のくるのを待ちました。
ある日のこと、セオリツ姫はアマテル神がヒタカミのタカマガハラ(地上の高天原・現仙台、多賀城市付近)に御幸された後に、モチコさん、ハヤコさんをお呼びになり、心を込めて切々と諭されました。
「二人共既に解っている事ですが、君(天照大神)と汝等姉妹とは冷え切った食事(関係)なのでこのままでは二人の居場所はもうありません。この場は私に任せ、私の言う事を聞いてください。実は今度の一件をツクシ(筑紫)のアカツチ老翁(おじ)に良く頼んでおいたので、ウサ宮(現・宇佐神宮、大分県宇佐市宇佐)に行って、時の来るのをおとなしく待ちなさい。くれぐれも真面目に反省して、罪を償えば私がきっと局(つぼね)に復帰できるよう計らいますから、どうか素直に私の言う通りにしてください。」「又、モチコさんの生んだタナキネ(天穂日命)は、古来より男児は父に附ける習わしなので、私が預かって立派に教育するから心配しないでください。ハヤコさんの生んだ三つ子の三女(タケコ、タキコ、タナコの宗方三女神)は母に附ける習わしなのでお願いします。必ず心静かに待つのですよ。」と、丁寧に諭されて、一旦は不承不承ながらも身に覚えのあること故、やむなくウサ宮へと下ることになりました。
ウサでは、アカツチ老翁が新后(アラキサキ・改心)として、両人と三女をお迎えするための宮を改築して、不自由の無い様に万端整えて心から歓迎しましたが、何といっても宮中の華やかな暮らしとは格段に違い、ここ宇佐は静かで淋しい田舎暮らしのことゆえ、二人に馴染むべくもありません。三女の養育もしないままモチコさん、ハヤコさんの両人は出奔してヒカワを目指して流浪姫(サスラヒメ)となりました。
もともと両人の父上クラキネは、おそれおおくも、ネの国(北陸一帯)とサホコチタル国(山陰地方)を統治する有力な貴族でした。今度の左遷で何が両姉妹を傷つけたか、それは何と言っても瀬織津姫の中宮への大抜擢でした。次に許せない屈辱はモチコさんが瀬織津姫より先に生んだタナヒト(天穂日命)を当然日嗣(ひつぎ)の皇子(みこ)として皇位を継承されるべきなのに棚上げされて、皇位を継ぐ皇子に付けるヒト(仁)の名も外してタナキネに変えられ、ムカツ姫(瀬織津姫)の子にはオシヒトとヒトの字をつけて、我が子の皇位継承の地位を奪われた事でした。
事がこれでおさまらないのがソサノオです。生来が粗野で乱暴なうえ、亡き母への屈折した思いが、モチコさん、ハヤコさんの両局に通うようになった原因となりました。
また決まりかけた縁談が破断したことも重なり、ソサノオは失望と身の置きどころ無き悲痛な日々に、同情を求めてモチコさん、ハヤコさんの局に通い詰めたのが事の発端でした。唯一の理解者であった親しいモチコさん、ハヤコさんは自分の犯した罪が原因で遠流(おんる)となり、今はもう甘える術(すべ)もありません。ソサノオは益々荒れ狂い、年中行事で最も大切な新嘗祭(にいなめさい)用の苗代(なわしろ)に重播(しきまき)して神田をだめにしたり、田に駒を放って暴れさせ、畔道(あぜみち)を壊して稔りを台無しにしたりの悪事の数々を繰り返し、神聖な新嘗祭で君がお召しになる神御衣(かんみは)を織っている斎衣殿(いんはどの)の戸に糞尿を撒くやら悪事は益々エスカレートしてゆきました。織姫達に恐怖心を抱かせぬように殿の戸を閉ざしたところ、ソサノオはついに切れて、屋根を破って斑駒(ぶちこま)を投げ込むという暴挙をしでかしました。あろうことか真下で一心に機織をしていた瀬織津姫の妹ハナコさんの頭上に馬が落下して、驚き動転したハナコさんの手に持つ梭(ひ)が身を突き、不運にも身罷ってしまいました。「ハナコさんが神去りました」と、泣きわめく姫達の悲しみの声を聞きつけて、馳せ参じたアマテル神もついに語気を荒げてソサノオをしかりつけます。
「お前は国を乗っ取ろうとする心汚い奴だ」 「天成る道を教えるこの歌を味わって反省せよ」と言って、歌をお与えになりました。
天(あめ)が下  やわして巡る日月(ひつき)こそ
晴れて明るき  民(たみ)の両親(たら)なり
ハナコ姫を傷つけて死なせた決定的な悪事を最後に、高天(たかま・宮中)では諸神(もろかみ)による神議(かみはかり)が召集され、決議によりソサノオの罪状が言い渡されました。罪科はかつてない厳しいもので、一般には天の巡りの三百六十科が死罪と決まっていますが、ソサノオには、その三倍の千科(チクラ)の死刑が科せられました。この三折死(ミキダガレ)とは三回死ぬほどのむごい刑死をいいます。刑が序々に執行され、髪も抜かれ、爪も剥(は)ぎ取られつつある時です。突然、瀬織津姫の勅使から急な知らせが告げられました。
「ハナコの御霊(みたま)は、ウケモノ(倉稲神・うけみたま)に祈り、死の苦しみから救い上げ蘇り(または、無事神上がり)ました。ソサノオのハナコ殺しの四百科はすでに償われました。ソサノオの性格は生まれつきの遺伝です。情状酌量により減刑し獄舎(ろうや)を出してやれないものでしょうか」
なんと高貴な優しい御心でしょう。健気(けなげ)で一途に生きた姉思いの妹を失った悲しみを乗り越えて、普通なら憎んでも憎み足りない罪人の減刑を真剣に乞う尊い慈悲心こそが、若きアマテル神が自ら階段(キザハシ)を大急ぎで降りて手を取ってお迎えしたセオリツ姫の雅(みやび・愛情)にあったのです。<

大江註:大祓詞に登場する瀬織津姫・速秋津姫・速佐須良比売・息吹戸主の祓戸四神がホツマには全て登場します。速佐須良比売とはモチコさんとハヤコさんの事だったのです。
「早川の瀬に坐す。瀬織津比売と伝ふ神。大海原に持出でなむ。此く持ち出で往なば荒潮の潮の八百道の八潮道の潮の八百曾に坐す。速開都比売と伝ふ神。持ち加加(モチコさん)呑みてむ。此く加加呑みては気吹戸に坐す気吹戸主と伝ふ神。根国底国に気吹放ちてむ。此く気吹放ちては根国底国に坐す。速(ハヤコさん)佐須良比売と伝ふ神。持ち(モチコさん)佐須良比失ひてむ 此く佐須良比失ひては。今日より始めて罪と伝ふ罪は在らじと。」 

B神道と仏教を結ぶ瀬織津姫と聖徳太子 
上記の高畠さんの現代語訳で見てきたように、ホツマに記された瀬織津姫は男神天照大神の皇后です。天照大神と十二后の間で誕生された御子は全部で8人の五男三女です。その中の長男がイザナギの親族から入内していたモチコ姫との間に誕生した天穂日命です。皇后となられた瀬織津姫と天照大神の間に後に誕生されたのが天忍穂耳命です。
天穂日命は瀬織津姫の実の子ではありませんが、その育ての親である瀬織津姫の六甲山の御陵の至近距離に、天穂日命の磐座があります。 天忍穂耳命の御陵はホツマをもとにして考えると、伊豆・箱根、芦ノ湖の近くの神山ではないかといわれています。天忍穂耳命の依り代となる磐座もきっと六甲比命の磐座の近くにあるものと思われます。雲ヶ岩、仰臥岩あるいは仙人窟がそうなのかもしれません。六甲山周辺には天忍穂耳命を主祭神とする神社がありますが、六甲比命の磐座と関連を持つ位置関係にあります。
瀬織津姫と六甲山、六甲比命大善神社の深い関係については、2011年夏の特定、そして、2012年春の公表以来、次第に多くの人々に認められつつあります。ムコ、ムカツと呼ばれた六甲山が廣田神社祭神向か津姫と結び付けられるのは、その関連が判明した今となっては、時間の問題だったのかもしれません。
しかし、瀬織津姫の御子神である天忍穂耳命(実子)や天穂日命(養子)を祀る六甲山とその周辺の神社、磐座との関係については、ホツマを抜きには何とも説明がつきません。瀬織津姫と廣田神社・阪神間の関係について記されているのは唯一、ヲシテ文書のホツマツタエのみです。六甲山と瀬織津姫の深い御縁について、ホツマを抜きに語ることはできないと思われます。

◎山陰・因幡と阪神間の関係
私の故郷である鳥取の因幡は、因幡国造の祖である天穂日命神社の鎮座する鳥取市湖山の高草郡と八上姫の故郷で天照大神を道案内した白兎の伝承が残る八上郡を中心として、ほぼ全域に土師氏の系統の影響が色濃く残っています。現在の、芦屋と有馬温泉を結ぶ芦有道路が、かつて因幡の人たちが阪神間方面へと向かう旧道に沿っているものであることや、因幡から天穂日命を信仰する人たちがこちらの方へ移り住んだという伝承があることを芦屋神社の神職の方からお聞きしています。因幡の人々=土師氏は天穂日命、瀬織津姫を慕って、この地に移住してきたのでしょう。
いずれにせよ天穂日命は、出雲の国造を務め上げた後、晩年に六甲山へお越しになり、瀬織津姫の御陵(予定地)を守るために、そのすぐ近くを御自らの御陵として定められたのではないかと思われます。天穂日命には、その場所を強力に守るお力を持ち、またそのお立場にあるという御自覚もあったと考えられます。
◎処女塚古墳
東灘区と灘区の沿岸に3つの大きな古墳があります。東灘区住吉町の東求女塚古墳、御影の処女塚古墳、灘区岩屋の西求女塚古墳です。ちょうど世代の代替わりの期間を隔てた時期に造営されたかのようですが、これらは等間隔で並んでいます。
後付けと思いますが、一人の美しい菟原乙女と恋敵となった二人の菟原壮士の青年との間の悲しい物語が伝わり、万葉集にも載っています。
 神戸市HPより
>◎処女塚(おとめづか)古墳(東灘区)は古墳時代前期に築かれたと思われる前方後方墳で、1985年(昭和60年)に遺跡公園として整備されています。
◎東求女塚(ひがしもとめづか)古墳(東灘区)は阪神電鉄の施設工事によって崩されてしまいましたが、処女塚古墳と同じ頃に築かれたと思われる前方後円墳です。
◎西求女塚(にしもとめづか)古墳(灘区)も早くから公園として整備されていましたが、最近の調査で、古墳時代初期の前方後方墳であることが分かり、慶長の大地震による地滑りや崩れた石室の跡などが確認された他、邪馬台国の女王・卑弥呼が中国・魏の皇帝から贈られたといわれている鏡「三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)」(実際にはこの鏡は日本国内でしか出土せず。)が7面出土し、話題になりました。
3つの古墳の位置関係は、処女塚を中心に東西それぞれ約2キロメートルの地点に、東西
の求女塚があり、それぞれが処女塚の方向を向いている形になります。<
 http://www.city.kobe.lg.jp/culture/leisure/history/genshikodeai/004.html
この3つの古墳は六甲比命の磐座を意識した位置関係にあるのではないでしょうか。ちょうど最も築造年代の古い西求女塚古墳と処女塚古墳の中間点が、六甲比命神社の真南に当たります。六甲比命の磐座と東求女塚古墳と西求女塚古墳でほぼ二等辺三角形を形作ります。これらの古墳からは山陰の土器が多く出土しているのが特徴です。また先日、魔鏡としてクローズアップされた三角縁神獣鏡も出土しています。

◎白滝姫と瀬織津姫
さて、神戸市北区の山田の白滝姫のお話も興味深いものがあります。 
ひょうご伝説紀行より
>昔、六甲山(ろっこうさん)の北にある山田の里に、左衛門(さえもん)という男が住んでいました。あるとき左衛門は都へ出て、御所の庭仕事にやとわれることになりました。 ある日、庭をはいていると、いつもは中が見えない御殿(ごてん)のすだれが上がっています。そっと近づいてのぞいてみると、そこにはたいそう美しいお姫さまが座っていました。このお姫さまは、右大臣藤原豊成(ふじわらのとよなり)の娘で白滝姫(しらたきひめ)といいました。白滝姫は、そのころ都でいちばん美しいと評判だった中将姫(ちゅうじょうひめ)の妹でした。(大江註:藤原鎌足の玄孫に当たる中将姫は奈良の当麻寺に伝わる当麻曼荼羅を織ったとされる尼僧で藤原氏の犯した過ちの贖罪をされた。)
左衛門は一目見るなり、すっかり白滝姫のことを好きになってしまいました。
「あんなお姫さんが、およめさんになってくれたら、ほんまに幸せやろなあ。」
それ以来左衛門の心は、白滝姫のことでいっぱいになってしまいました。右大臣の娘と左衛門とでは、あまりにも身分がちがいます。けれどもあきらめようと思えば思うほど、白滝姫を思う気持ちは強くなるのでした。
そしてとうとう左衛門は、せつない心を歌によんで姫に送ることにしました。
 水無月の 稲葉(いなば)のつゆも こがるるに 雲井を落ちぬ 白滝の糸
しかし、姫からの返事には、こんな歌が書かれていたのです。
 雲だにも かからぬ峰(みね)の 白滝を さのみな恋ひそ 山田男よ
雲もかからないほどの高い山のように、身分の高い私です。あきらめなさい。そんな意味でした。けれども左衛門はあきらめきれません。もう一度、歌を送りました。
 水無月の 稲葉の末も こがるるに 山田に落ちよ 白滝の水
この歌を知った父の豊成には、左衛門がまことの心で白滝姫を思っていることがわかりました。話を聞いた天皇も、姫を左衛門のおよめさんにするようにすすめました。こうして、左衛門は白滝姫をおよめさんにむかえ、姫といっしょによろこびいさんで山田の里へと帰ってゆきました。京の都から山陽道(さんようどう)をたどり、ようやく神戸の平野についてひと休みしていますと、里の人たちがひどい干ばつで困っているようすです。それを聞いた白滝姫が、手に持っていたつえで地面をつつくと、そこからはみるみるうちに清らかな水がわき始めましたので、里の人たちはたいへん喜びました。烏原(からすはら)から急な坂を登り、長坂山をこえて、ふたりはようやく山田の里に着きました。
ちょうど梅雨に入ろうとする季節です。山田の里には、栗(くり)の花がさいていました。それにしても左衛門の家は、白滝姫がこれまでに見たこともないようなあばら屋です。夜になると、屋根のすきまから月の光がもれてくるほどでした。 
左衛門は貧しいながらもけんめいに働き、白滝姫との間には男の子も生まれました。しかし白滝姫にとっては、なれない山里の暮らしです。体はしだいに弱り、とうとう病気にかかって、ある年の梅雨のころ、幼い子を残して死んでしまったのでした。
悲しみにうちひしがれた左衛門は、姫を手厚くほうむりました。するとその墓の前から、清らかな泉がわきだし、水面に栗の花が散り落ちたそうです。それから毎年、白滝姫が亡くなったころになると、泉には清水が満ちあふれて、決まって栗の花が散り落ちるのです。
そこで左衛門は姓を栗花落(つゆ)と改め、泉のわきにお堂を建てて姫を祭りました。やがてその泉も、栗花落の井戸と呼ばれるようになりました。今でも左衛門の子孫が、この井戸を祭っています。そして、白滝姫がつえでついて泉をわかせた所は栗花落(つゆ)の森と呼ばれ、神戸の都由乃町(つゆのちょう)で大切に守られています。<
セレブ感覚の持ち主であった(?)白滝姫もある意味、モチコさんハヤコさんの運命と似ているものがあり、何らかの贖罪を果たしたといえるかもしれません。
この伝承地の位置を確認すると、神戸市北区山田の白滝姫がお嫁入りした左衛門の実家と泉のある場所は何と六甲比命神社の真西です。そして、錫杖をついたら水が湧き出たという神戸市兵庫区都由乃の地点を結ぶとちゃんと二等辺三角形が出来上がります。そして、住居跡の北区山田の泉が出るお堂には如意輪観音と弁財天が祀られています。兵庫区の都由乃には(弁財天=)市杵嶋姫命と豊受大神が祀られる祠があります。やはりなにか神様のご加護があったように思えます。

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