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アナタが作る物語コミュの【インチキ童話】氷りの大地のフカー

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【物語の初めに…】

 さて、ある少年の話しをしようか。
 少年の名前はフカー。優しいんだけど頼りなくて、寂しがり屋な少年だ。髪は灰色がかった黒に月明かりのような青白い顔はいかにもひ弱そうだが、黒い宝石のような瞳には、強い意思と慈しみを讃えているように見えない事もない。
 少年はここではない別の世界の果ての果てにある、谷間の洞窟を抜けると行く事ができる場所、氷りの大地で産まれた。そして氷りの大地の端っこで静かに生きていた。

 まず、少年の両親の話しから始めようか。
 少年が産まれて間もなく、母親は亡くなった。元より氷りの大地の生まれではない母親は寒さへの耐性はなく、病気がちであった。
 なので少年は父親の手で育てられた。
 父親は生まれ付いて体が強く、大きく、銃を撃つのも上手かった。父親は狩人であった。森や平原を歩き、足跡や残された糞を追い、罠を仕掛け、銃で仕留める。こうして父親は自分達の食料だけではなく、村に売る毛皮や肉も得ていた。
 元より人間嫌いで村での生活が合わなかった父親だ。あくまでも村には、自分の仕留めた獲物と野菜などの作物やお茶やタバコ、服などの生活に必要な物を交換するためだけに通っており、普段は氷りの大地の端っこに自分で建てた小屋で静かに暮らしていた。

 氷りの大地についても話さなくてはいけないね。
 氷りの大地はその名の通り、氷りで覆われた大地だ。北の果てを更に北に進んだような場所とでも言っておこうか。
 氷りの大地の冬は長く、特に何日も明けない夜が続く事があった。そして夏は短いが、何日も日が沈まない事もあった。
 氷りの大地はとても広く、一年の半分以上は雪と氷りに覆われていて真っ白だったが、短い春が訪れると雪が溶けて地表が見えるようになり、緑が芽吹くと夏が訪れ、秋が訪れると葉は枯れて雪が再び運ばれて来て、また長い冬が訪れるのだ。
 春の訪れは渡り鳥の飛来によって告げられる。
 一番に氷りの大地にやって来るワタリライチョウは、まだ溶け残った雪のある土の上で雄が襟巻きのような首の羽を膨らませ、尾羽と翼を擦り合わせてドンドンとタイコのような音を立てる。その音に誘われた灰色がかった茶色にまだらな焦げ茶色の羽の雌がやって来る。そして、雌が雄を気に入ればつがいとなり、すり鉢のような巣を作って、白と茶の斑模様の陶器のような卵を産む。
 やがて淡い緑色の若葉が芽吹き、眠りから覚めたウサギやネズミのような小動物が草の下を駆け回るようになる。それらを狙うキツネも活動的に動き回るようになる。
 大きな枝のような角と強靱な蹄、白い毛皮を持つユキオオジカ(我々の世界のトナカイに近い)の群れは草を求めて移動を始め、それらを狙うクマやオオカミも現れる。
 どんな生き物も新たな恋の相手を捜し、生涯を連れ添う夫婦を変えない種族の生き物達は、再び共に行動するようになる。餌の取れない冬は、単独で行動する方が餌を奪い合わないで済むのだ。
 やがて生き物達には新たな子どもが産まれ、子育ての時期が訪れる。
 夏の始まりだ。草木の緑は濃くなり、土を覆い、虫達も姿を見せるようになる。それに伴って生き物達は活発に動き回るようになる。アザラシ達も頻繁に海辺で日向ぼっこをしている姿を見かけるようになる。
 春に産まれた命は成長し、生きていく術を学ぶ。
 太陽はサンサンと輝き、真っ白だった大地を明るく照らし、昼が長くなる。そして何日も夜の来ない日々が訪れるのだ。
 やがて久し振りに日が暮れたかと思うと、徐々に夜が寒さを連れてやって来る。毎日少しずつ、寒さを連れて来るのだ。暑かった日々は涼しくなり、やがて寒さが牙を剥くようになる。朝焼けを待つ時間は長く、夕暮れを迎える時間は早くなる。
 こうして実りの秋がやって来る。生き物達は長く辛い冬を恐れるように、食べ物を捜し回る。ウサギ達は木の実や草を惜しむように食べて太り、ネズミ達は自分が籠もる巣穴に木の実を溜め込む。太り出した小動物達を狙い、キツネ達も狩りを始める。彼らも同様に太り、また狩ったネズミ達を地に埋めて食料にするのだ。
 そして、ワタリライチョウが飛び去ると、長くて寒い冬が訪れる。
 それはゆっくりと少しずつ近付き、徐々に染み込むように氷りの大地を寒さの色で染めて行く。やがて、気付いた時には大地は雪と氷りに覆われ、冷たい風が吹き荒れ、何日も夜が明けない日々さえやって来る。
 氷りの大地の冬は他の地域のそれに比べると、別格と言って良い程に厳しい。
 生き物達は何日も食べ物が手に入らず、飢えと寒さに喘ぎ苦しむ。野垂れ死ぬか、自分より強い生き物に食べられるか、運良く生き延びるか、それは誰にも分からない。だが、彼らはその中で命を削って生きていた。ただ、生きるためだけに。

 少年は生き物が好きであった。
 本来、人間には感じ取る事の出来ない動物達の心を感じ取る事が出来た。その生き物が強く思っている事や、手を伸ばせば触れられるくらい近付かないと感じ取る事は出来ないが、その力は確かにあった。
 それは父親から受け継いだ力だった。
 父親の力では動物達が何を思っているかは分からなかったが、動物達がどこにいるかを感知する事は出来た。その力は狩りにおいてとても役立った。

【フカー八歳の初夏】

 少年は父親が大好きで、同時に苦手でもあった。
 父親は少年に対し、自分と同じように強く逞しく生きて欲しいと願っていたし、母親がいない事で寂しい想いをさせたくもなかった。父親は父親なりに少年を愛していたし、大切にもしていた。いつだって少年の事を想っていた。
 だから、それでいくつかの間違いがあったとしても父親の事は責められない。少年はそこまできちんと分かっていた。
 父親はそんなに難しい物でなければ農作物も少しは作れたし、家の事もほとんどこなしていた。村まで行けば自分の狩った動物で作った干し肉やハムや毛皮は高い値が付いたし、それらはタバコやお茶のような嗜好品や生活用品だけでなく、少年に与える本や玩具にも替えられ、北の大地では手に入らない高価な果実やお菓子になる事さえもあった。
 気まぐれに厳しい態度を取るものの基本的には甘い父親は、しばしば少年を喜ばせるような物を持ち帰っていた。

 氷りの大地の夏は短い。だからこそそこで生きる命は、その恵みを惜しむように生きる。輝く。
 どこまでも広がる草原には淡い紫色の花が咲き、爽やかな香りを風になびかせていた。その花はお茶やポプリになる。少年は花を摘んでいた。
 ふと、爽やかな香りの中にある心が飛び込んで来た。
《助けて。生きたいよ。お腹が空いたよ》
 弱々しい心だが、強い願いでもあった。
(どこにいるの?)
《助けて。怖いよ、腹ペコだよ。助けて、助けて、助けて》
 少年は心の主に呼びかけたが、相手には少年の心は届いていないようだった。それとも、それ程怖ろしい目にでもあったか、死にそうなのか。
 少年は心の主を捜した。どちらの方角から、どのくらい強く感じたかで、大体の位置は分かる。
 少年は自分の目の前を五歩、大股に進んだ。そして、草原の中に蹲る白い生き物を見付けた。
 ケガをしたコオリオオカミの幼獣だった。幼獣は少年に見付かると、鼻の上と目と目の間に深い皺を寄せ、唸り声を上げた。明らかに警戒している。
 少年は普段、動物から怯えられる事はない。生まれ持った動物達の心を感じ取る能力と自分の心を動物達に伝える能力のお陰だ。
 しかし、その時はそんな物は役に立ちそうになかった。幼獣は頑なに心を閉ざし、少年が何を呼びかけても何も感じていないようだったからだ。
 その幼獣には人間に対する深い憎しみと恐怖があった。
「大丈夫。俺はお前を傷付けたりはしないよ」
 少年は優しく話しかけ、手を差し伸べた。
 幼獣はまだ唸っていたし、銀色の瞳には憎しみがこもっていたが、少年が手を噛まれるような事はなかった。幼獣の心に、こいつは人間だが信用できるかも知れない、と言う思いが浮かんで来たからだ。
 少年は更に優しく話しかけた。
「大丈夫。ケガを治してあげるよ。薬草もあるし、干し肉もある」
 少年はポケットを探り、干し肉を幼獣の前に差し出した。もう片側のポケットには薬草が入っている。ケガにも腹を下した時にも利く薬草だ。どちらも少年の父親が持たせた物だ。もし遠くに行き過ぎて帰るのが遅くなっても、少しの間なら空腹を満たせるようにと。もしケガをしたり毒のある木の実に当たっても、少し休めばまた歩けるようにと。
 幼獣の顔に柔らかさが戻って来る。目からはギラギラとした光りが消え、剥き出していた牙は唇の向こうに見えなくなった。やがて、少年に甘えるように緩やかに尻尾を振り、手から干し肉を食べた。
「よしよし、良い子だ」
 少年は穏やかに幼獣に話しかけた。そして、背中に出来た傷に薬草を優しく擦り込んだ。
 少年は幼獣に何が起こったかを知る。幼獣の心を感じ取る事が出来たからだ。
 幼獣は森の中で両親と兄弟達と一緒に暮らしていた。そこに銃を持った人間がやって来て、両親と兄弟達を撃ち殺し、幼獣は一匹だけ逃げ延びたのだ。背中を銃弾がかすめながらも。
 
「村の奴らか」
 少年が幼獣の事を話すと、父親は訝しげに言った。
 父親ならまずやらない銃の撃ち方だったので、他の誰かが森に狩りをしに侵入したのだと思ったのだ。
 父親ならば肉も臭くて食べられないオオカミを狙う事はあまりない。狙うとしてもあくまでも毛皮目当てだから、わざわざ背中の傷跡が目立つ場所を撃つ事はない。それに、一家を根絶やしにするような真似はしない。あくまでも自分達で食べて売りさばける量しか狩らない。それは自然の恩恵を受けて生活している者として、父親が決めた一定の配慮であった。
「最近は村の若い奴らの間で狩りが流行っていると聞く。奴ら、森のバランスを崩さなければ良いが…」
 そう言いながら父親は少年に料理を切り分けた。
 その日の夕食はアザラシの肉とカブをミルクで煮込んだシチューだった。
 少年はアザラシの肉から滲み出る脂と旨みを噛み締めながら思った。
(俺なら絶対に動物は殺せない。殺そうとしたら、やめて、助けてって心の声が聞こえるから。父さんは一定の配慮をしていても、やっている事は村の若い連中と同じだ。やめて、助けてが聞こえないから簡単に撃ててしまうんだ)
 しかし、そう思いながらも、自分も生きるためにその父親が取ってきた肉を食べているのだ。そう思うとやるせない気持ちになった。
(あいつは生き延びる事が出来るだろうか)
 少年は昼間のコオリオオカミの幼獣について考えていた。あくまでも自然の中で生きる存在であるあの幼獣を、人の手で育てる訳にはいかない。辛いかも知れない、冷たいかも知れないが、そのまま森に放す事が幼獣にとっての最善であると少年は分かっていた。
 それに、人間に恨みと恐怖を抱いている幼獣と心を通わせる事が出来る人間は少年だけだ。一緒に暮らす父親に幼獣が心を許すとは思えないし、そんな風に幼獣を自分の元に置けば、きっと病気になって死んでしまうだろう。

【フカー十歳の晩秋】

 実りの季節が過ぎ去ろうとしていた。赤や黄色に染まった果実は生き物達の腹に収まり、または地面に貯蔵され、草木は枯れて灰色や茶色へと色合いを変えていた。しかし、それも後一週間もしない内に白く染まるだろう。冷たい冬の匂いが少年の鼻をチクチクと刺すようにくすぐった。
 少年は歩き出した。家とは全く別の方向だった。

 少年が十歳になってから、父親は銃の使い方を教えたが、程なくしてそれは間違いであったと気付いた。
 動物達の心を感じ取れる、それも感情の変化まで感じ取り、自分からも動物達に心を伝える事が出来るのだ。動物達の心を感じ取れるとは言え、あくまでもそこに心ある生き物がいると分かるだけの父親よりもずっと鋭く、繊細な感性であった。
 だから、少年には動物を撃ち殺す事は無理だと分かった。殺される事が分かった動物達の恐怖や悲しみまで感じ取れる少年には、狩りで生きていく事は出来ないのだ。
「軟弱な坊主だ…」
 父親は小さく呟いたが、少年の耳にははっきりと伝わった。
 父親には少年を傷付ける意志はなかった。ただ父親の希望とは違うと言う事がはっきりしただけだ。そして少年が希望通りに行かない事は当たり前の事だと分かっていた事が、改めて思い知らされると少し悲しくなっただけだ。だが、少年には少年の歩む道がある事も知っていた。若い頃の自分が、自分の意思で村を出た事と同じように。自分も村のために狩りをして生きるように希望を持たれていた事もあるが、人間関係が煩わしかった過去もある。
 しかし、少年にはそこまでは理解出来なかった。伝わらなかった。少年は動物の心を感じ取れるが、人間の本心は感じ取れなかった。それに、少し大きくなったが少年はまだ幼かった。
 その中途半端な成長と幼さは、少年を家から飛び出させるには充分な引き金となった。

 まだ雪は積もってはいなかったが、粉雪が舞い、冷たい風は容赦なく少年の頬を凍えさせた。しかし、少年は唇を噛み締め、黒い瞳を見開いた。
 ──あいつは…。
 少年の目に白い物が動くのが見えた。白い毛皮の中に淡い灰色の毛が所々混じった生き物だった。少年の脳裏にいつかの夏の日が思い起こされた。
 八歳の夏に助けたコオリオオカミだった。そのオオカミは子どもながらに生き延び、成長し、少年の前に姿を現したのだった。
 その目の光りは強く、よりギラギラとしていて、盛り上がった肩からもガッシリとした長い脚からも、そのオオカミが強靱である事が分かった。同時に様々な困難に直面し、自分の力と運を頼りに生きていた者としての、信じる物は己の鼻と力と知恵だけだと言う決意めいた強い感情も読み取れた。
 オオカミは少年を一瞥すると、深い憎しみを讃えた光りを宿した目を向け、くるりと背中を向けて早足に歩き去った。少年に助けられた記憶はなくなったのか、または人間に酷い事をされた記憶がそうさせたのかは分からない。
 ただ少年は、その揺れる尾を眺めるだけであった。
 ──皆、自分の力で強く生きているんだ。
 しかし、自分はどうだろう。少年はいつも強靭な父親に護られて生きて来た。自然からも、社会からも。父親の狩って来た肉を食べ、父親が毛皮を売った金で生活用品を買い、父親の建てた家で風も雪も凌いで生きている。
 少年は自分が無力な子どもに過ぎないと思い知らされた。

 少年は荒野を歩き出した。やがて、切り立った崖の麓に辿り着いた。真っ黒な岩がそびえ立ち、ゴツゴツとした面を向けている。岩の隙間からは枯れかけた草が申し訳程度に生え、何者も寄せ付けないような厳しさがあった。その厳しさの麓に、小さな隙間を見付けた。洞穴だった。
 少年は穴に近付き、神経を研ぎ澄ます。こうすれば、何か人間以外の生き物がいるのならば心を感じ取れる。
 クマやオオカミのような強靭な生き物はいないようだ。
 少年は洞穴を覗き込んだ。入り口と言うよりも隙間に近いその奥は空洞になっているようだ。少年はそこにそっと身を滑り込ませた。その華奢な体は闇に吸い込まれるように、洞穴の奥に消えて行った。
 この暗くて冷たい、とは言え表にいるよりは幾分マシな場所でどうしようと言うのだ?
 少年は無計画に家を飛び出し、無意味に洞穴に入り込んだ自分の愚かさを嗤った。
 ゴツゴツとした岩の壁をただ眺めているだけの自分に何が出来るだろうか。
 ほとんど他の人間との交流を持たない少年も、自分の生き物の心を感じ取る能力が他の人間にはない事を知っていた。父親がそう教えてくれた。しかし、そんな能力は精神力の弱い自分には何の役にも立たないと思い知らされた。父親のように森で生きて行く道は選べない。
 ──ならば俺には何が出来る? どうやって生きて行く事が出来る? そんな答えの出ない自問に何の意味がある。
 少年は奥歯をギュッと噛み締めた。
 ──泣くもんか。
「こんな所にいたのか」
 聞き慣れた太く優しい声に振り向くと、外から漏れる光りのせいで黒い影にしか見えないが、屈強な大柄な男が立っていた。嗅ぎ慣れた優しい匂いに涙が出そうになる。
「さあ、帰ろう」
 父親は何も訊かずに、その大きな分厚い手を少年に差し出した。
 少年は小さく頷いた。
 俺はいつまでこの匂いを嗅いで生きて行けるのだろう。この大きくて温かな匂いに護られながら。


【荻原泰介】

 おれが隙間の旅人になってからどのくらいの月日が経つだろうか。
 そうだ、あれはまだおれが旅人になってから、色々な世界と隙間の森を行き来する生活に慣れたばかりの頃の話しだ。

 ん? 隙間の旅人とか隙間の森とかが分からない? 意外と隙間の世界の事を知らない世界って多いんだな。よし、教えてやろう。
 まず、おれ達やあんた達のような実体のある生き物が生きている世界、現実世界。これは百八つあると言われている。そして、天国や地獄のある実体のない世界、あんたらに分かりやすく言うと死後の世界とも言えるかな。現実世界は常に死後の世界を取り巻くようにグルグルと回っている。その死後の世界と現実世界、各現実世界と現実世界、それらの隙間には不安定な世界が広がっていて、そこは大部分が霧の深い森だ。そこが隙間の森さ。
 隙間って言ってもかなり広大な世界だ。それに不安定で怖ろしい世界だぜ? 何てったって取り込まれたら百年も苦痛を味わうんだからな。しかも、時間が壊れてるからその百年は千年にも一万年にも感じちまうと言われている。
 どうやったら取り込まれるかって?
 ミルク色の濃い霧の中に、取り込まれた奴らの魂がカラフルな蛍か鬼火みたいに光るんだよ。それがまた綺麗でさ。更に取り込まれた奴らが手招きまでしやがるんだよ。手だけが出て来て、おいで〜って感じで。しかも霧を吸ったような白くてふっくらした触り心地の良さそうな手さ。
 でも、ついつい誘いに乗って手を掴んでしまうと、隙間の森に取り込まれて時間の壊れた百年を過ごさなくちゃならない。その間、相当の苦痛を伴うらしい。どんな苦痛の内容かはその人次第らしいけど。
 ま、要は相手の手を掴まなきゃ良いだけだけどな。
 おれは隙間の世界と様々な現世を自由に行き来できる隙間の旅人になった。なりたくてなれるもんでもないんだぜ? 世界によっては行き来するのに許可証やら何チャラ申請やらしなきゃいけないし、異世界の存在そのものが否定されてる世界もあるし。
 ある意味、一度旅に出たら自分の元いた世界に戻れなくなるからな。戻れない掟があるとか、そう言う魔法が働くとかじゃなくて、そうだな…他の世界や隙間の森の風に吹かれると、元の世界の空気が合わなくなると言うか、元の世界よりもっと良い世界があるんじゃないかと思うと言うか、だから彷徨ってしまうんだ。帰る事への拒否反応みたいなもんだ。

 そうそう、あいつに出会った頃の話しだったな。
 おれは十五歳、あいつは十一歳だった。
 おれはその世界に、森の高い木の枝に舞い下りた。そこは世界の中でも北の果てを更に北に進んで、谷間の洞窟を抜けた場所にある広大な氷りの大地と呼ばれる場所だった。
 氷りの大地は昔の戦争で世界が崩壊しかけた時、何とか逃げ延びて生き延びようとした人間が勝手に住み着いて村を作り、独自の文化を築いていたけど、基本的には自然に囲まれた寒い場所だった。
 おれはその世界で、まず始めにしたのは食料の調達だった。
 季節は冬、雪に覆われた場所で衣食住を確保しないと生きてはいけない。まずは何か食べて、体を温めなければと思ったんだ。腹ぺこだったし。
 おれはかなり運が良かった。幸福の女神とやらを味方に付けたんじゃないかってくらいに。
 少し離れた、雪がちらつく中でも何とか確認できる程度の場所に、白いオオカミを見付けた。
 白い動物は美しいって言われるけど、おれには怖ろしい、何か冷たい存在に思えた。それ程にそのオオカミは、自分以外は何も信じないし受け付けないと言う切迫した雰囲気を放っていた。
 だが、おれはオオカミを見ている訳じゃない。おれが見ていたのは、そいつがウサギを捕まえている所だ。血を滴らせながら奴の口にくわえられたウサギ、あれは焼けば食えるだろう。
 おれはオオカミから夕食を奪う事に決めた。
 ここに来る前までいた世界で手に入れた銃を、腰のホルダーから抜き、奴に向ける。奴はようやくおれに気付いたのか、こちらを見てハッとする。
「やめろ」
 甲高い声が耳に届いた。その声は怒りと軽蔑を含んでいるはずなのに、どこか心地良い響きで、頭の中に芯のように刺さって残った。
 おれは辺りを見渡した。
「上だよ」
 おれが見上げると、一人の少年がおれの頭より一つ上くらいの高さの枝に座っているのが見えた。それがあいつとの出会いだった。
 あいつの座っている枝は、おれの降りた木とは別の木だろう。おれより高い位置にいるのに、より太く頑丈そうな枝にいる。
「お前のせいで逃げちゃったじゃないか」
「でもウサギは手に入った」
 あいつはオオカミが走り去った場所を見ながら言った。そこには血に塗れたウサギが置き去りにされていた。
 逃げるために余分な荷物なら放り出してしまえば良い、と言う訳か。空腹を満たす事よりも、自分を殺そうとする相手から離れる事、そちらを選ぶ事こそが生きると言う事なんだ。
「あんた、この世界の人間じゃないな。何もない所から出て来たし、違う世界の匂いがする」
「ご名答」
 あいつは武器らしい物は持っていないようだった。ただ、着ている物はおれよりもずっと厳重で、と言うか、おれの装備がここでは寒過ぎるのだろう。温かそうな上着に帽子だが、動きやすそうな素材だ。そんな場違いな服装でいる事も、あいつから見たら不審な特徴なのだろう。
「お前も異世界人か?」
 おれは木を降りながら話しかけてみる。見た所、おれよりも年下だし、弱そうな奴だ。
「いいや、産まれも育ちもこの世界。この世界どころか、氷りの大地から出た事もないし、森の中で暮らしていて、村に行く事もない程の世間知らずな坊主だ」
 あいつも木を降りながら言った。スルスルと木を降りる。おれよりも素早い。伊達に森育ちと言う訳ではない、と言いたげだ。
「森の生き物の掟ではあのウサギはあのオオカミの物だ。今回は見逃してやるから持って行きな。でももう森から出るんだ。あの一際大きな木を目指せば村が見えて来るはずだ」
 少年が指差す方向には、森の木々の隙間からかなり大きな木が見えた。
「もう森には近付かないようにするんだ。今頃おしゃべりなキタグニカケスの連中が異世界人が来たぞって触れ回ってる」
「動物に詳しいんだな」
 この地域にしかいないカケスだろうか。なるほど、カケスは存在するのか。確かにカケスはギャーギャーうるさい鳥だ。
「分かるんだよ、動物の心の声が聞こえる。そう言う能力があるんだ」
 なるほどね。
 隙間の旅人になる能力は、隙間の世界と様々な現世を行き来する能力で、持って生まれた素質によって開花する力だから、隙間の図書館の連中も取り上げられない力。ただし、隙間の世界や異世界で危険な目にあっても、それは本人の自由で選んだ結果だから、助ける事はない。そう言うルールだ。
 そんな能力があるくらいだ。おれは様々な異世界で様々な特異能力を持つ人間を見て来た。だから、別に驚かない。
 それに、あいつはおれの匂いで異世界人だと分かったと言った。そんな能力を持つ連中の中には、匂いが違うとか、声の響きが違うとか、オーラみたいな物が見えるとか言う奴もいやがった。おれには分からないけど。
「今は冬で、この森に住むキタヒグマは深ーい冬眠に入っている。そのヒグマは普段は大人しいけど、力がとてつもなく強くて体もかなり大きくてな。だから、他のクマが春から秋の間は近付けない。でも冬眠している間には近付ける。去年から質の悪いシロクマがうろつき出したんだ。奴はかなり凶暴だ。
 それに、俺の父さんはかなりの人間嫌いで、異世界人が森を荒らせば容赦なく射殺する。異世界人は殺しても罪には問われないからな」

コメント(13)

 あいつは淡々と、まるでロボットがセリフを読み上げるように言った。よく見ると可愛い顔をした少年だったが、怖ろしげな事をサラサラと話す。
「お前は危険じゃないの?」
「危険だよ。ただ、ならず者のシロクマの気配と言うか、心は近付けばすぐに分かる。森には木がたくさんあるからな。高い木に登ってやり過ごす。大きなクマは手首のしなやかさがないから木登りは出来ないから。こっちから呼びかけても話しが通じる相手じゃないから仕方ないんだ」
 なるほどね。持って生まれた能力を使って難を逃れるのか。
「とにかく、さっさと村に逃げな。何か珍しい土産の一つでも持ってれば一晩くらいは泊めてくれるだろうよ。割りと気の良い人達らしいから」
「お前の父さんはどうなの?」
「父さんは無理だ。人間嫌いで村から離れて森で暮らしてるような男だから。それに、あんたはオオカミから獲物を奪い、異世界の銃を持ち込んだ。立派な森への冒涜だ。それは魔法か何かがかかった特殊な物だろ?」
 中々敏感なようだ。この銃は一度狙いを定めた対象には必ず当たるし、後は念じれば大ケガを負わせる事も出来る。魔法をちゃんと勉強した者が使えば、殺害する事も出来る。
「あんた、隙間の世界に自由に出入り出来ても、ナイフで刺されるか銃で撃たれれば死ぬただの人間だろ? 父さんの銃の腕は相当なもんだ。あんたが引き金を引く前に脳を貫ける」
「おっかない親父だな。分かったよ。あの木を目指すんだな」
 そうして、おれはあいつと別れた。そして村を目指し出した。

 村は幾つかの集落と、冬の間でも育てられる特殊な野菜の出来る畑があった。
 おれが目指していたとてつもなく大きな木は、根元に大きな穴が開いていて、そこには生き神が住んでいると言う。
 その木の下には大きな神社のような建物があり、祈り人と呼ばれる神主さんみたいな人と、何人かの巫女が暮らしていた。
「生き神様をご覧になりますかな、旅人さん」
 祈り人のおっさんはおれに訊いて来た。柔和な笑みを浮かべて、頭ははげ上がっていたものの体付きはガッシリとした男だ。村長だか長老だかはそんな祈り人の言葉に慌てていた。
「祈り人、よそ者にホイホイと生き神様を拝ませるなど…」
 白いヒゲと深いシワに覆われた長老の表情は読めなかったが、どうやら祈り人の発言は不謹慎なものだったらしく、困惑と少しばかりの怒りを醸し出していたように見える。
「いいえ、長老。この方、萩原様は隙間の旅人、この村ではまだ珍しいかも知れませんが、よそでは幸運を運んで来るとさえ言われています。その旅人が拝めばきっと生き神様も御利益を取り戻しましょう」
 長老はしょぼついた目を伏せ、祈り人は口の端に笑みさえ浮かべていたっけ。
 確かに祈り人の言うように、隙間の旅人は富や幸運を運んで来ると言われた事もあったが、災いを運んで来るとも言われる事もある。その世界、その地域、その文化によってまちまちだ。それに、隙間の世界や旅人さえ知らない事だってあるだろ、あんた達みたいに。
 とにかくおれは、祈り人の案内でその生き神様とやらの前に通された。長老は残る事になった。

 木の根元の穴の中は、階段になっていて地下に続いていた。ランプの灯りを頼りに、らせん階段のようにグルグルと下ると、少し広い空間に出た。石や煉瓦で壁や天井のようにぐるりと囲まれたそこは小さな部屋だった。
 部屋の半分は格子のように組まれた金属の棒で仕切られ、向こう側は牢屋のようだった。ご丁寧に牢屋の右端には鍵付きの扉まである。
 牢屋の中は、小さなベッド、椅子、マグカップの乗せてある樽、そして、カーテンで仕切られた一角があった。
 おれの目は椅子の上に座っている女に向かった。
 女はまだ少女と言った方が良いかも知れないほど若かったかも知れないし、成人していたかも知れない。別に汚れてはいないが、痩せ細り、散切りされたような髪が痛々しく見え、虚ろな目はどこを見ているとも分からない。
 灰色の石や茶色い煉瓦を橙色に照らしていたランプは、女の頬も明るく照らし、その骨が浮き乾燥した顔を鮮明に写し出していた。
「あちらが生き神様です」
 祈り人の声が背後から聞こえる。
「我々は、何かしらの不思議な能力のある者を生き神様として祀り、祈りを捧げ、この村を豊かにして来ました。生き神様に選ばれた者は、この地下の部屋で大地の神と繋がり、村に幸運と実りをもたらすのです」
「彼女は何も食べていないのか?」
 おれは自分の声が壁に跳ね返った時に、震えている事に気付いた。
「ええ、今は。ここの大地の神は気まぐれなのですよ。しばらくは村に実りをもたらすが、ある日突然何ももたらさなくなる。何らかの幸運がある内は、生き神様も神殿で世話人を付けて何不自由ない暮らしをして頂きますが、御利益がなくなればここで飲まず食わずで祈って頂き、更に大地の神に命を捧げなければならなくなりますな」
 おれは祈り人の方を振り向けなかった。その淡々とした、それでいて自信に満ちた言葉をこぼす顔を見るのが怖かった。
「そ…それって、生贄にするんじゃ…」
 おれは怖くなって、その場から逃げ出した。
 隙間の世界の入り口をこじ開け、隙間の森へと逃げ込んだ。
 濃いミルク色の霧と色取り取りの人魂の光り、ふっくらとした白い手の誘いは本来は怖ろしいはずだが、おれにとっては見馴れた景色だったので、安堵感をもたらした。

 それ以来、おれはその世界には行っていない。

【フカー十三歳の春】

 少年は初めて村にやって来た。
 村がどこにあるのかは知っていたし、村の人間と森ですれ違った事もあるし、父親を訪ねて村の人間が家に来る事もあった。それは、人間嫌いの父親でも完全に人間関係を断ち切って生きていけない事の証明のようなものであり、皮肉なような、仕方ないような現実として少年は受け止めていた。
 少年は自身を父親と同じような人間嫌いだと思った事はなかったが、父親と同じように人間関係や村のしきたりを煩わしく思ってはいた。なので、今まで村に来た事はなかったし、それに、村に行く用事もなかった。
 だから、それまで村に来た事のない少年に取ってはかなりの決断力を必要とする事だった。
 少年は、父親と離れて村で生活する事になった。

 少年を乗せた馬車は壁と天井に囲まれており、出入り口の扉を閉めると窓もなく、ランプの灯りだけが車内をほんのりと橙色に照らしていた。
 おそらく馬車に揺られていたのは三十分かそこらだろう。ただ、何もない密室でじっとしているのは退屈だし疲れるので、時間が経つのが遅く感じただけだ。
 少年は扉が開かれると顔を上げた。
 夕方であるためだろう、外は薄暗い。しかし、家々がたくさんあり、何人かの人々が行き来している事は見て取れた。
 軽い目眩がした。
 当然ながら複数の人間の匂いがする。そして、様々が生活の匂いがした。料理、洗濯、入浴、野良仕事、畑、土、家畜…。様々な匂いが複雑に絡まり合い、鼻をついた。
 どこにあるかは知っていたし、遠くから眺める事はあった村。それが今、ここにある。いや、その中に自分も入ったのだ。
 ある程度は予想していたものの、実際に入ってみるとそこは全く違う世界と言っても良い。わざわざ隙間の森を通らなくとも行ける異世界だと思った。
「フカー様、ここがあなたがお守りする事になる村です」
 村長だと言う男が頭を下げる。柔らかな表情と豊かな黒髪の男で、父親よりも十は年下であるように見えた。
 ──随分と若い人が村長なのだな…。
 少年はそう思ったものの、口には出さなかった。
「様はやめて下さい。俺は単なる子どもでしかありません」
 少年は、村長の後ろに立つもう一人の男を気にしながらも返した。その男はガッシリとした体付きで、鋭い目付きと口元に浮かべた笑みが不釣り合いであった。額から頭頂部にかけてはげ上がった髪を全て剃り上げている所が余計に不気味に映った。
「いえいえ、あなたは生き神様、粗末に扱う訳にはいきません」
 務めて優しく微笑もうとする村長の後ろから男が言う。
「こちらは祈り人、フカー様のお住まいとなる神殿の総責任者にして、身の回りのお世話の総括をする者です」
 村長は言う。
 ──頼りなさそうな人だな。
 少年は村長にそんな思いを抱いた。
 父親からは、村長はかなり歳を取った聡明な男だったと聞いていた。
「あんたの爺さんか、親父さんに会いたい。忙しくて代理で来たのか?」
 馬車の隣りで馬に乗っていた父親が言う。村長に対しても、祈り人に対しても不信感を露わにした口調で、祈り人に負けず劣らずの鋭い目線だった。
「祖父も父も亡くなりました。今は私が村長なのです」
 自信がなさそうな村長の口調に、父親は舌打ちをした。
「あんたの爺さんと俺が契約したのは先週だ。どう言う事だ?」
 父親は責めるような口調で村長に詰め寄った。
「スノールノさんと契約を交わした翌日、祖父と父は狩りに出かけて、亡くなりました。崖から足を滑らせ、大ケガを負ったのです。発見された時、父はまだ生きていましたが、その父も一昨日息を引き取りました。祖父の子どもは皆、村を出ていたり病気になっていましたし、父の子どもは私しかいませんでした。なので、私が村長を引き継ぐ事になったのです」
「あんたの叔母さんは病気でも、そこのとこの従兄は随分と逞しく賢い男だったと記憶しているがな。何であんたなんだ? 誰も何も言わなかったのか?」
 村長の説明に父親は食い付いた。
「本来なら村長のお父様が引き継ぐはずだったものを、その息子が引き継いだだけの事。それに、私が後ろから何かと助言するつもりです。村人達もそれで納得しています。村を捨てたあなた様が口を出す事ではございません」
 しどろもどろになっている村長の後ろから祈り人が静かに言った。
「あんた、どう見ても俺より年上だな? 俺が二五年前に村を出た時にはいなかった。つまり、よそから来たんだよな。そんな奴の言う事を村の奴らは聞くもんかね? 特に年寄り連中はさ」
「祈り人が来てからは村は豊かになりました。外から見ていてもそれは分かるでしょう? 氷りの大地の外や異世界との交流が盛んになって、様々な物品が手に入るようになった。それを異世界からの珍しい品物を求めて、外から買い物に来る人も増えた。それに伴って豊かな自然を楽しむための観光客も増えた」
 父親はまた舌打ちをし、苦虫を噛みつぶしたような表情になった。
「ここ数年、時たま森を荒らしに来る奴らが増えたような気がしたが、そうやって招き入れられた奴らだったのか」
「荒らす? 森は本来あなたの物ではない。村の物でもないから無闇に口出しは出来ないが、少なくともあなたが勝手に小屋を建てて住み着いただけだ」
 村長は不満そうな声を上げ、後ろにいる祈り人に目を向けた。
「まあ村長、この方の言い分も分かると言えば分かる。この方は森の中でずっと生きてきたし、これからもそうするつもりだろう。自分の足で渡り歩き、その恩恵を受けて生活を成り立たせて来た。外から来た者を誰彼構わず毛嫌いする気持ちも分かる」
 祈り人は淡々と言葉を紡いだ。その声には高揚がなく、それでいて低く頭の芯に響くように感じさせた。どこか自信を感じさせる不思議な響きだ。
「そんな奴らに大事な息子を渡す訳にはいかんな。森を踏み荒らし、恩恵を吸い尽くすような奴らをホイホイと招き入れるような連中には任せられん」
 父親は毅然とした態度で言った。祈り人には不審な物を感じ取ったのだ。うまく言葉では言い表せない、嫌な感じだ。
「スノールノさん、我々の契約は成立したのです。差し上げたお金や作物を返したとしても、なかった事に出来る物でもない。なぜならばフカー様は既に生き神様になる事が決まっているのですから。村の皆さんが許すはずもございません」
「知らんな。前の生き神にあと数ヶ月続けさせれば良いだろう。大人になったら生き神は解任、後は神殿での業務に当たるだけだろう? 大人になるって奴の基準だって曖昧だ。俺がガキの時には、三十を過ぎてようやく次が見付かって解任された生き神もいたくらいだぜ?」
 父親はフフンと鼻を鳴らした。
「生き神だなんて…様を付けて下さい! それに、その話しはもう三十年以上も昔の話しでしょう?」
 村長は狼狽えたような声を上げた。
 それでも祈り人は表情を変えない。まるで精巧に作られた蝋人形のようだった。本当に血が通っているかのように赤みを帯びた肌に柔らかなシワを刻んだ顔の蝋人形だ。それが、淡々と言葉を口からこぼしている。
「生き神様になれるのは、あまりに小さ過ぎる子どもであってはなりません。ちょうど大人になり始めた時期の子ども、そして大人になれば神としての力を失います。元より神としての寿命は短いのです。更に神としての力は人間の体で使うには強過ぎる。何日も飲まず食わずで祈り続けなくてはならない事もある。故に早めに解任し、次を見付けなくてはならないのです。
 今の生き神様はあなたが村にいた時のような、単なるお飾りではないのですよ」
 祈り人の目線が父親を捉えた。まるで銃で仕留められたオオカミのように全身がビクンと跳ねるような感覚、次いでブルリと身が震えた。
「しかし、体に負担がかかるのならば、尚更息子を預ける訳にはいかん!」
 父親は震えを払いのけるように大きな声を上げた。その声は、夕方になるとまだ冷たい風と闇をまとい始めた空に雷鳴のように響いた。
「おいおい、ジーユルトス。その子はもうお前の息子じゃない。この村を守る生き神様なんだよ」
「まさかお前さん、生き神様を独り占めして自分だけ富を得ようってんじゃないだろうな?」
「そもそも昔、村を捨てたのはお前だぜ? それが今更になって村の神事に口出しとは、筋の通らない話しだ」
 騒ぎを聞き付けて集まったのだろう。村の男達がぞくぞくと少年と父親の周りに集まって来た。
「やかましい! とにかくこの子は俺の子どもだ。金も作物も倍にして返してやる。それでも俺からこの子を取り上げるって言うんなら、連れて逃げてやるさ。氷りの大地の外にだって世界は広がってるんだ」
 父親は少年の腕を掴むと自分の方へと引き寄せた。
「ですから、そう言う問題ではないのですよ。この村に住む者が皆、あなたのように全てを捨てられる訳ではないのです」
 祈り人の声がまた響く。今度は頭の中にずしりと、そしてそれが腹の底に溜まって行くように沈み込んで行く。少年は動けなくなり、父親は怯んだ。
「そうだ! 俺達にはここしかない」
「俺達は氷りの大地を離れては生きていけないんだ」
「ここで豊かに暮らすためには生き神様が必要だ」
「それ、生き神様をこちらに引き渡せ」
 男達は祈り人の言葉に突き動かされたように少年の腕を、足を掴むと父親から引き離した。更に父親を突き飛ばし、棒や石で殴り始めた。いくら屈強な父親でも、何人もの道具を持った男達を相手にすると為す術もない。
「やめて下さい! 俺、村の物になりますから… 」
 少年の声が響いた。まだ甲高いものの、少し掠れた声だった。
 男達が父親を殴るのをやめて振り向く。村長は安堵した表情を浮かべる。祈り人は満足そうに鼻息を吹いた。
「では、決まりですな。スノールノさん、村の者達が失礼な事をしてすみませんでしたな。後で謝罪の品でも…」
「要らん!」
 父親は祈り人の申し出を断ると、立ち上がった。その目には怒りが込み上げ、ギラギラと光っていた。
 だが、少しだけその目に柔らかな慈しみの光りが戻って来た。少年を見たからだ。
 少年は父親に寂しそうに笑いかけた。
「俺なら大丈夫」
 父親はその言葉を聞くと、背中を向けて歩き出した。そうして、星は瞬いているもののすっかり濃くなった夜の闇の中、うな垂れて歩き出した。

【シェリエット・アン・パーツォ】

 空はいつまでも青く、太陽が沈まない季節がやって来ました。すっかりフカー様のお世話にも慣れたわたくしは、今日もまた神殿へと足を運ばせて頂きます。
 窓を開けると、柔らかな夏の光りが部屋に射し込み、木々が放つ青臭い香りが鼻をくすぐりました。私はそれらを肌で、目で、鼻で感じ、フカー様に微笑みました。
「おはようございます」
 フカー様は私を見据え、口元を綻ばせるように笑うと、言われました。
「おはよう」
 その年頃の少年特有の掠れた声でした。フカー様は目にかかり出した前髪を指先でいじり、そっと横に流しました。黒く濡れたような瞳が露わになります。
「少し髪が伸びましたね」
「そうだな。ここに来てからは一度も切ってないから」
 わたくしが言うとフカー様はちゃんと返して下さいました。
 フカー様が村に来られてから三カ月が過ぎていました。
「以前は髪はどうされていたのですか?」
 そう訊くとフカー様は少しだけ寂しそうな顔になり、耳にかかった髪を掻き上げると、ポツンと口を開かれました。
「父さんが切ってくれてた」
 懐かしむように目を閉じて、寂しさを堪えるように唇を噛み締められています。
 お父様のジーユルトス・スノールノ様のお話しはフカー様の前では禁句でした。フカー様は生き神様になられたとは言えまだ幼く、小さな頃からずっと一緒に暮らして来られたお父様の事を思い出し、悲しそうな顔をされる事もあります。また、ジーユルトス様は一度は村での生き方が合わずに出て行かれた方で、村人からも邪険には扱われないながらも良い顔をされている訳ではありません。フカー様が村に初めて来られた日に一悶着あった事も影響しています。
 幼年期より森の中でお父様と二人きりで生活されていたフカー様にとって、村での生き神様としての生活は大きな変化であり、まだお慣れになっていないようです。
 わたくしはそれでも構わないと思いました。もっと時間をかけてゆっくりと馴染めば良いのですから。
 わたくしは少し俯いたフカー様に微笑みました。澄んだ瞳にわたくしの醜くシワの刻まれた顔が映ります。
「わたくしが切って差し上げます」
「ありがとう」
 フカー様の柔らかな微笑みは、わたくしの濁った灰色の瞳にはどのように映り、フカー様からはどのように見られているのでしょうか。

 わたくしがこの村で生まれ、生活を始めてから何年の月日が流れているのでしょうか。この神殿で働くようになってから何年の月日が流れているのでしょうか。
 もちろん、わたくしは自分が今何歳で、何年神殿で働いているかはきちんと存じ上げております。
 随分と長い月日をこの神殿に仕える使用人として働いたのですが、あっと言う間の月日だったようにも感じます。
 それ程にわたくしも歳を取ったのだと言う事です。シワや白髪が増えただけではなく、節々は痛み、体の動きは鈍くなり、疲れやすくなりました。確実に老いはわたくしの体を蝕んでおりましたが、それに対する抵抗もなく、受け入れられるようになりました。
 そう、生き物はいつかは老い、そして必ず死ぬのです。

 わたくしがまだ若く、神殿に仕え出した頃、まだ生き神様は人間らしく生活されていました。
 今のように、実りの悪い時期にはご神木の地下に住むような生活ではなく、いつも神殿で暮らしていらっしゃいました。
 生き神様もよく表に出られ、村人達と話しをする事もあり、むしろ人間が宗教上の理由で割り切ってやっている役割、と言う方が正しかったのかも知れません。
 それが変わったのは十年前、祈り人がやって来てからでした。

「フカー様、ご気分はいかがですか?」
 祈り人が訊ねます。フカー様は少し身構えたような硬い表情になり、ぎこちなく笑いながら返します。未だに祈り人には慣れていないようです。
 わたくしもです。
「中々良いよ」
 フカー様は引きつったような声で答えられました。
「左様にございますか。フカー様のお陰です。今年の麦や砂糖大根は豊作です。家畜の育ちもかなり良く、ヤギや牛はたくさんの乳を出しますし、鶏もたくさんの卵を産みます。今度、美味しいお菓子でも作らせましょう」
 祈り人は言いました。フカー様は愛想笑いを浮かべ、頷かれました。そして、少し顔を曇らせて首を横に振られました。
「いや、お菓子は村の人達に振る舞ってあげて下さい。俺だけが食べる物ではなく、働いてくれた人々が食べるのが先です」
 素晴らしいお言葉です。わたくしもフカー様に頷きました。
「フカー様、この村での恵みはあなた様によってもたらされた物。あなた様が一番に食べるべきなのです」
 祈り人はきっぱりと言い放ちました。その表情は毅然としていると言うよりも、自分の考え以外は受け付けないと言う冷たい雰囲気を漂わせていましたが、フカー様は黙られ、わたくしも何も言えなくなりました。

「あの人間はどうも嫌いだ。パーツォさんは?」
 わたくしが髪を切って差し上げている間、フカー様は訊ねられました。
「実はわたくしも苦手と言うか、好きにはなれません。しかし不思議な方です。言葉の一つひとつには異様な説得力があり、あの方の言う事は全て正しいと思ってしまいます」
「どんな不条理な事でもね」
 フカー様の前髪が短くなり、平らな額を露わにしていました。クロスの上には灰色がかった黒い固まりが落ちては、ハラハラと散って行きます。
 確かに、フカー様のおっしゃる通りだと思いました。
 フカー様のご生活は、淡々としたものでした。強い酒も受け付けず、賭け事もせず、質素な野菜や山菜を好まれました。華やかな物を美しいと感じられる事はあっても、それを欲しがる訳でもなく、時々売春婦を宛がわれる事はあっても、深入りはされず、いつも森を見つめ、寂しげな表情を浮かべていらっしゃいました。
「欲のない方なのだ」
 祈り人がそう言っていた事があります。しかし、本当にそうなのでしょうか。
 わたくしは時々考える事があります。フカー様が欲している物は、もっと別の何かで、それが中々手にできない物なのではないかと。
 それが何かはわたくしには分かりませんが。
 わたくしはすっかり短くなったフカー様の髪の毛をバサバサと振り払い、毛くずを落とします。
「ありがとう。ちょっと頭を洗って細かい毛を払ってくるよ」
 フカー様は木造りの浴場に向かわれようとしているようです。
「今すぐお湯を沸かして差し上げ…」
「構わないよ。夏場で暑いから水でも丁度良いくらいさ」
 フカー様は柔らかな笑みをわたくしに向けられました。その美しい瞳は散髪した事でより明るく、はっきりと見えるようになり、わたくしのシワを浮かべた笑顔を映し出していらっしゃいました。

 夕刻、わたくしは帰路に着きました。
 オオカミが一頭、遠くの丘にいるのが見えました。
 凜とした佇まいと美しい毛皮が映えます。
 とは言え、別段珍しい光景でもありません。
「森で暮らす誇り高き者よ、わたくしに教えていただけませんか? フカー様の欲している物は一体何かを」
 わたくしは呟きました。と、言ってもオオカミに人間の言葉が解るとは思えませんし、わたくしの疑問の答えを知っているとも思えません。
 そのオオカミが突然、体を震わせたかと思うと、一目散に丘の向こうへ逃げ出しました。
「そんな物を知ってどうする?」
 背後から祈り人の声が聞こえ、重々しい気配に肺を押し潰されるような感覚に陥りました。
「さようなら、パーツォ」
 わたくしは振り向けませんでした。背中に何か鈍い痛みが走り、熱い感覚がありました。腰に何か生温かい物が流れます。
 すぐにその感覚もなくなり、寒くなって来ました。

【フカー十四歳の初冬】

「パーツォさんが亡くなってからどのくらいだ?」
 少年は世話係りの娘に訊いた。
「去年の夏ですから一年と三ヶ月くらいです」
 娘はニコニコとしながら答えた。
 ──そんな事を笑いながら答えるなよ。
 少年は少し苛立ちながらも、無表情のまま頷いた。
 パーツォとは生き神となった少年に、最初に配属された世話係りで老齢の女性であった。
 そんな彼女も、去年の夏に亡くなった。夕刻、と言っても太陽の沈まない季節であったからかなり明るい時に、自宅の玄関の前で何者かに刺殺された。
 凶器となったナイフには毒が塗られていたと言う。犯人はまだ捕まっていない。
「ヒナゲシ、君のその場違いな笑みはいつも俺を苛立たせる」
 普段ならこんな台詞はぶつけない。しかし、その一時間前に少年は祈り人と会っていた。去年に続き、今年も豊作だったと言う報せと共に、来年も是非とも豊作をもたらせてくれ、と言う内容であった。
 ──豊作? 作物がいくら取れても村の人達は痩せ細って働き続けているじゃないか。
 少年は時々、娘と一緒に表に出る事がある。祭事の際に、籠に乗せられてだが。朱や金や紫でゴテゴテと彩られた籠からは塗料の臭いが鼻をつき、少年を不快にさせた。更に顔には真っ白な化粧を塗りたくられ、髪は油で固められ、どこかの世界のどこかの国から取り寄せたと言うチゴショウゾクと言う衣装は動きづらく、少年はいつも吐き気を堪えていたほどだ。
 それでも、周りの様子を見渡すくらいの余裕はあった。むしろ周りを見ていないと、憂鬱な気分に押し潰されそうな錯覚に陥った。
「ヒナゲシは俺を偉いと本気で思ってる?」
 落胆も高揚も、不機嫌すら含まない少年の声が小さく漏れた。
「それはもう、生き神様ですから。誰にだって出来る事ではありません。この村を豊かにしてくれるお方を偉いと思わないで、何と思えば良いのでしょう?」
 そう言うと娘は八重歯を見せて笑った。
 その元々細いのに更に細くなった目を見て、少年は溜め息が出た。
「もう良い。君に何を言っても間抜けな顔で、決められた事しか言わないのは分かっていたのに、そんな事を訊いて悪かった」
 少年は心の中で、訊いたのではなく、つい口からこぼれ落ちてしまった言葉に娘が勝手に答えただけだ、と訂正した。
「今日の午後からの予定は?」
「お夕飯までは特にありません」
 ──そうだろうよ、祈り人はもうさっき来たんだ。
 分かり切っていた答えだった。しばらく特に行事もない。
「テラスに出て少し話しをしよう」
 少年は行事で籠に乗せられる時以外は外に出る事はない。籠の上から見せ物にされながら、連れ回されるだけだ。あとはずっと神殿の中で暮らしている。
 ──大地をどのくらい踏み締めていないのだろう。
 少年は娘を連れ立ってテラスへの扉を開けた。キィと小さな音を立てて扉が開くと、冷たい空気が頬を刺し、鼻をくすぐった。粉雪が黒い髪にかかる。不思議と不快感はなかった。あったのは、それよりも冷たい懐かしさだった。
「お寒くはないですか?」
 少年が身につけているのは、どこかの世界のどこかの国から取り寄せたと言うユカタと言う衣服で、夏場の風通しと汗によるベタつきには強かったが、冬場に外で着る物ではなかった。その下には綿で出来た肌着を着ている物の、足元は裸足である。
 娘がフワフワと柔らかな肩掛けを手に後を追って来る。
「大丈夫だ、この土地で生まれ育ったんだ。寒さには強い」
 少年は娘を振り返りながら言う。
 娘の細い目も小さな鼻も薄い唇も、いつもの間抜けな笑みによって形を崩されている。
「前に外で噂になっていると言ったな。白いオオカミの話しだ」
「興味がおありですか? そりゃあもう狩人達の間でも牧場主達の間でも有名です」
 つまらなさそうは少年の言い方にも娘は喜々として答える。
「凄く頭が良くて、あらゆる罠も毒餌もくぐり抜け、更に毎晩何かしら家畜を頂戴していくと言う話しだな」
「ええ、子羊や子豚や鶏のような小さな家畜ばかりですけど。あんな巧妙なオオカミは見た事がないと皆頭を抱えています」
「白いオオカミなんだろ?」
「ええ、白い悪魔だなんて言われています。しかしなぜそんな事を?」
 娘は首を傾げ、少年の顔を覗き込んだ。少年の方が少し背が高いので、やや上目遣いになる。しかし、少年の瞳には娘は映っていない。映っているのは冷たく白い空ばかりだった。
「白いオオカミには少しばかり思い入れがあってな」
 少年は吐き捨てるように言うと、鼻でふふんと嗤った。
「勝手には助けて、勝手に思い入れがあるだなんて迷惑な話しだな、あいつから見たら」
 娘はその言葉の意味が理解できずに更に首を傾げた。
「白いオオカミなんて他にもいるのにな」
 確かに、氷りの大地では白い体色の生き物は多い。雪が降ると大地の色に溶け込むためだ。
 コオリオオカミも白を基本とした被毛に、所々に灰色や茶色や黒い部分を持つ。全身が白いオオカミも別に珍しくはない。
「所々に淡い灰色が混じっていて、それがまたそのオオカミの白さを際立たせて美しく見えるんだとか」
 娘は付け加えるように言った。
 少年の耳には娘の言葉は通り過ぎるだけであった。
 少年はただ、回想していた。あれはいつだったか、幼き日の事だった。
「子どもの頃、コオリオオカミの幼獣を助けた事があるんだ」
「お優しいのですね」
「自然の掟に反した行為だ」
 少年は吐き捨てるように呟く。
「最近、この神殿の近くにも現れるのだろう?」
「ええ、神殿と言うか、家畜を荒らすために村に現れるようですね。ただ、誰も知らない内に侵入して、小さな家畜をさらって、残ったのは家畜の血の跡と小さめの足跡だけのようです」
 ──皮肉な物だな。俺が助けたばかりに中途半端に人に慣れたか? そして、人の手から家畜をさらった方が楽だと学習したか?
 少年はそう思ったが、もちろん娘には言わなかった。
「奴が近くを通った時、心の声が聞こえる事がある。」
 ──今日は子ども達にごちそうを振る舞えると喜んでやがる。
「生き神様の能力ですね。以前はあみだくじやガラガラ抽選会で選ばれていたようですが、近年は特殊な能力を有した者のみが生き神様になれる、でしたね」
 娘は目を輝かせて少年の顔を見た。正直うっとうしかったが、それを指摘するのも面倒だった。
「下らないメルヘンな力さ。ロクに役に立った試しがない」
 少年はぶっきらぼうに、遠くの森を眺めながら言った。テラスから見える森は雪で白く化粧を施されているみたいで、曇り空は分厚い綿で何か大切な物を隠しているみたいで、前髪を揺らす風の冷たささえも、拒絶的な何を孕んでいるような気がした。
 さっきまでの心地良い懐かしさはどこへ行ったのだろう。
「素敵な能力です。誰にでもある物ではありませんから。皆、そう思っています」
 少年は娘に気付かれぬよう、小さく鼻で嗤った。
 ──皆って具体的に誰だよ? 名前なんて並べられないだろ。
「少し、強くなって来ましたね」
 娘は空を見上げながら言う。
「雪の事か?」
「はい」
 娘の言う通り、雪は粒が大きく、量も多くなって来た。目の前の景色を白く染める。
「ヒナゲシ、俺に何かかけるより、君が何か羽織った方が良いんじゃないか? 寒くなって来たぞ」
 少年はやはり、娘の方を見ずに言う。
「お優しいのですね、フカー様は」
 ──誰が?
 その時、少年は気付いてしまった。
 ──俺は優しいんじゃなくて嫌われたくないだけの奴だ。唯一のまともな話し相手になってくれるお前に。
 だから、時々優しさを見せる。
 全ては計算された行為であった。
「勘違いするな。もう部屋に戻ろう」
 少年は踵を返す。娘も後に続いた。
 ──いつまで続くんだろう、この生活は。
 少年は何か確信めいた不安を抱いていた。
 きっと自然は、しばらくの間は豊かな実りをもたらさない。
 そうなれば、自分も飲まず食わずで祈り続けなくてはならないだろう。きっとその中で餓えるか病気になって命を落とすだろう。
 ──どうでも良い話しさ。どうせいつかは死ぬんだ。

【ジーユルトス・スノールノ】

 ずっと聞こえなかった『声』が聞こえるようになった。聴けるようになった。
 動物達の心の『声』だ。何を感じ、考えているかが『声』となって私の頭に響くのだ。
 なるほど、息子のフカーはずっとこんな感じだったのか。
 あの繊細なフカーの事だ、かなり辛い事もあっただろう。何せ、怒りや哀しみまで頭の中に『声』となって飛び込んで来るのだから。
 私には、ずっとただの生き物の立てる『心の音』でしかなかった。
 とは言え、私はどんな生き物の『声』も聴ける訳ではない。特定の彼女──とあるコオリオオカミの個体だけであるが。

 彼女は白い体毛に淡い灰色が混じった毛皮を持った、どちからかと言うと体が小さなオオカミであった。極端に脚が速い訳でもなく、力が強い訳でもなかったが、かなり用心深く、罠や毒を見破る事に長けていた。
 そう言う個体が生き残るのだ。自然の中で生き延びる事が出来る者は常に臆病でありながらも、ギリギリで危険をかわせるだけの知恵と機転と少しばかりの勇気を持っている。
 力の強い者、特に用心深さよりも力が上回る者はいつかは油断から見落とした危険に飲み込まれ、命を落とす。それは割りと早い段階で訪れる。
 だから大きな体も、強靭な力も、速い脚も持たない彼女は何年も生き延びた。知恵を積み重ねていった。夫となる雄のオオカミは死んでも、次の春には別の雄を見付けて子どもを産み育てた。

 私は十八歳の時に村を出て、森で暮らしている。
 村の閉鎖的な風土が合わなかったから? しきたりやら決め事を守るのが面倒だったから? いや、違う。単に人間嫌い、と言うか、人と関わる事が小さな頃から苦手だったからだ。
 それに、銃の腕には自信があったし、森や自然の知識は同年代のそれよりも豊富だった。
 私は一人でも森で生きて行ける。そう踏んで森で暮らし始めた。

 ターシャは異世界人だった。自分の元いた世界が崩壊したために戻る場所をなくし、隙間の森といくつかの世界を放浪する隙間の旅人だった。
「この世界も大昔に戦争があったのね」
 ターシャは寂しげに呟き、黒く濡れたような瞳を伏せた。
「そして生き残った人々はこの世界の果ての果ての更に先ににある氷りの大地を見付け、そこに逃げ込んだ。俺達の遠いご先祖の話しさ」
 ターシャはゆっくりと天井を仰いだ。灰色がかった黒髪がはらりと揺れ、ランプのオレンジ色の光りを帯びて艶めいた。
「この世界はまだ完全に崩壊はしていない。数百年の間に崩壊を免れて再生を始めている。氷りの大地の外に広がる世界は平和で美しい物になろうとしている。見た事はないけど、私には分かる。感じ取れる」
 ターシャは静かに言った。
「だが、俺は…俺も村の連中も、ここを出られない」
 それは何か戒めのような物だと今となっては思う。先祖代々、土地に、風土に、文化に、そして私達の心の奥深くに根付いてしまった外の世界に対する恐怖だ。私達の先祖が恐れた世界の崩壊、そのせいで始まった戦争、そこから生まれた破壊、私達の先祖がそれらに抱いた恐怖は私達の遺伝子にくっきりと刻み込まれていた。
 しかし、私は氷りの大地を出て行く覚悟を決めた。
 フカーのためだ。
 私が村の連中から聞き出した話しによると、近年の村では生き神は不作の年には地下室で、より大地の神に近い場所で祈り続けると言う。その間は飲まず食わずでだ。
 とんでもない話しだ。
 自然は人間の都合なんて知らない。寒い冬が長引く時も、大雨で洪水を起こす時も、日照りも雪崩れもある。ただ、あるがままに流れ、形を変え、私達に恩恵も畏怖ももたらす。無限に存在する可能性を組み合わせて流れ続ける。
 誰かが祈ろうが生贄になろうが関係ない。村の連中はそんな事も分からないのだろうか。
 今はフカーが生き神となっている。そして、冬が長引き、遅れてやって来た春も大雨をもたらして村の三割りが破壊された。その後の夏は日照り続きで作物はかなりの数が枯れた。そして秋は実らず、痩せた大地には例年より早い雪が絶望を伴って降り積もった。過去にない寒さに、病で倒れる人々が続出し、死者は今も出ている。
 そして、それは生き神の力が及ばなかったためとされ、フカーは地下室で祈り続ける事になった。
 祈り人とか言う祈りの専門家がいると言うのに、何故フカーなんだ? そもそもフカーの力不足だとは祈り人が言い出した事らしい。
 私はフカーを助けたいと思った。私にとって一番大切な存在であるからだ。

「坊には素晴らしい能力がある。お前さんも持っているが、それよりもずっと強い力だ」
 フカーが十三歳になったばかりの夏の事だった。当時の村長が私達の家を訪ねて来た。老齢の威厳ある男だった。
「確かに俺にもそんな能力があったからな。だが、俺よりも強い力だなんてどうやって調べた?」
 村長の表情は深い皺に埋もれていて読めなかったが、以前、フカーが隙間の旅人に出会ったと話していたのを思い出した。その旅人を森から出て村に向かうように仕向けたと言っていた。
 隙間の旅人も種類は違うものの特異な能力には違いない。読み取ったのかも知れないし、フカー自身が話したのかも知れない。その旅人が村人達に話したのかも知れないと思った。
 村長は何度か私達を訪ねて来た。
 フカーは森で生まれ育ち、村の存在は知っていても行った事はない森の子だ。上手くやれるはずはないと思った。
 しかし、村長が訪ねて来る度に私の頭の中には別の考えも浮かんで来た。
 フカーは優し過ぎて動物を殺せない。おそらく自分に害を与えられたり、命の危険に晒されない限りは無理だろう。
 そんな子が森で生計を立てて行けるだろうか?
 木の実を穫って、作物を育てて生きて行くのなら村にいるのと同じではないか。そもそもそれだけで生きて行くのは少し、キツい。
 私が子どもの頃の生き神はお役御免になったら神殿の職員として働いていた。神殿職員はそこそこの高給取りだった。その時は近年の状況なんて知らなかったのだ。
 フカーは世間知らずだから始めは空気を読めないかも知れないが、人当たりも良いし、農作業も家事全般も手伝わせて来たから出来る。
 私の頭の中には一つのビジョンが浮かんだ。生き神として神事で祀られたフカーが大人になって解任された後、神殿の職員として働くビジョンだ。小さいながらも小綺麗な家を与えられるだろう。そこで簡単な作物を作り、神殿で働いた給料も合わせれば充分に豊かな暮らしを送れる。そして、フカーと同じくらい心優しい女性と出会って、二人でいつしか生活して行くのだ。
 私は、フカーを村に、神殿に預ける事を決めた。

 彼女はフカーの存在を知っている。おそらく、フカーがもっと小さな頃に助けたいと言っていたコオリオオカミだろう。
 彼女は自分には関係がないと思ってはいるが、どこかで気になってはいるようだ。
『また村で森に住む者の声を聞こえる人間を感じとった』
 と、時々思っているようだ。
 私は遠くに見えるアヒルをくえた彼女を眺めながら思った。
 フカーの生存を報せてくれてありがとう。お前にそんな気はないかも知れないが、私にとってはとても心が安らぐメッセージだよ。
 私は決意し、銃を握り締めた。

【名もなき強き者】

 ──俺のした事は全て無駄だったのかな。
 あの忌々しい火薬と鉄の臭いを漂わせた人間が私に語りかける。森で暮らしているあの雄だ。
 私には関係ない事と思い、無視した。
 そんな事よりも私が気がかりなのは、あの匂いが消えた事だった。
 私が子どもの頃、薬草と食べ物を与えてくれたあの子どもだった人間の匂いが、消えた。
 あの人間に私を助ける事で得る利益などはなかった。なのに、いや、だからこそ気にかかっていた。なぜ、私を助けたのかと。

 あの森で暮らしている雄は、人間達の集落で同族の人間を銃で撃ち殺した。
 それにしても不可解だ。あの人間は自分で食べる分しか殺さない。
 いや、所詮はあの人間も他の人間と同じように無意味に生き物を殺せるのだろう。
 そして、あの人間に撃たれた人間が同族だと先程述べた事を取り消したい。
 撃たれた方は、ここではないどこか別の世界から来たのだ。この世界にはない匂いがしたから、分かる。
 そして、私を助けた人間はふてぶてしいくも、まだ生きている。生きたいと願いながら。
 私は人間の集落から頂戴したアヒルをくえると走り出した。早く安全な森でこれを食べたい。血の匂いが胸を躍らせる。半分は残して巣穴に埋めよう。餌が獲れない時の重要な食糧にもなる。こんな痩せた小さなアヒルでも。
 私は集落から遠ざかる時、私を助けた人間の気配がぷっつりと消えた事を感じ取った。死んだのではない。突然消えたのだ。
 いや、私が気にする事ではないだろう。

【フカー十五歳の春】

 ──今年の誕生日は、迎えられるかな。
 少年は少し痩せた胸に手を置いた。薄いユカタの上からでも分かる肋骨の感覚には、声にならない乾いた笑いが出た。
 何とか十六歳にはなれそうだ。
 ──祈るって、何を? ああ、村の豊作をか。
 ──誰に祈るんだ? ああ、大地の神にか。
 ──神ってそもそも存在するのか?

「フカー様、お顔を上げて下さい」
 少年はその声に嫌悪感を抱きながらも、言われるがままに顔を上げた。目の前には動いてしゃべる蠟人形のような男、祈り人がいた。少年はいつまで経っても、この男の不快な声の響きと異様な雰囲気には慣れなかった。
 少し痩けた頬にギラギラと光る黒い目には祈り人に対する軽蔑と憎しみを感じられた。もう隠すつもりもない。どうせこのまま地下牢に閉じ込められたまま死ぬのだ。
「何の用だ? 残念だな。俺はまだ生きてるぜ?」
 少年は精一杯の虚勢でニタニタと笑った。しかし、祈り人もそれを見透かしているようだった。
「地下水と苔だけでまだ生きていらっしゃいますか。中々ご立派な方だ」
 祈り人は感心したように、それと同時に薄汚い物を見るように言った。
「茸も地虫も獲れる。ダイエットには中々良い環境だ。運動不足の生き神暮らしで少しばかり体型の崩れを気にしていた所だ」
「流石は森で生まれ育っただけはある。体力も生き残る知恵も備わっているようですな。だが言葉遣いは備わっていない」
 祈り人は吐き捨てるように言うと、一歩、少年に近付いた。
 狭い地下牢だ。小さなベッドとトイレ用の穴、地下水が滲み出る壁、古びた椅子、壁も床も天井も薄汚れて赤茶けた煉瓦が一面に張り巡らされている。
 少年は自然と追い詰められた形になる。それでも口元には虚勢の笑みを絶やさない。
「ほう、私の背後にお気付きですな」
 祈り人の顔がニヤリと歪む。それと同時にその後ろに隠れていた小さな影がおずおずと動き出し、前に出て来る。
「ヒナゲシ、何をしに来た? 俺を笑いに来たのなら残念だが無駄だ。まだお前一人くらいなら打ちのめせる力は残っているぞ」
 少年は下を向き、こちらを見ようともしない世話係りの娘に吐き捨てた。
「これを飲んでもらいに来たんです」
 娘は小さな瓶を少年に差し出した。エプロンのポケットから取り出されたそれはコルクのフタで閉められており、中には半分程だが薄いオレンジ色の液体が入っている。いや、オレンジ色に見えたのはランプの灯りのせいかも知れない。
「毒か?」
 少年は呆れたような声を出した。
「いいえ、薬です。たちまち体力を回復させる魔法の薬です」
 祈り人はそう言いながら娘の横に立つ。手には銃が握られている。それを娘のこめかみに突き付けた。
「祈り人さんよ、ヒナゲシは俺の人質になんかならない。行きずりの世話係りだ」
 少年はせせら笑った。
「フカー様、あなたがこの娘を見捨てられないのは存じ上げております。何せ、ずっとあなたの側にいて、ただ一人の理解者になってくれたのですから」
 図星だった。見抜かれているとは分かっていても、やはり改めて指摘されるとつらい。
「その薬をお飲みなさい。取りあえずヒナゲシは置いて行きましょう。
 フカー様、あなたなら分かっているはずだ、この銃がどんな代物かも」
 そう言うと、祈り人は身を翻し、地下牢の扉を閉めて出て行った。
「俺が薬を飲まないとお前を撃つってよ。そのこめかみにうっすら光ってる銃の跡があるだろ? 多分、あれは魔法の銃で、引き金を引けばお前の脳みそを吹き飛ばせる」
「そうです。祈り人はあの異世界の魔法がかかった銃の跡を私の母と弟にも付けました」
 諦めたような少年の声に娘は応えた。
「そうまでして俺に毒を飲ませたいか」
 今度は呆れてすら来た。祈り人がいなくなった安心感からか、余裕も出て来た。
「いえ、本当にこれは薬です。弟は体が弱く病気がちで、母も働き詰めでかなり疲労して倒れる寸前でした。でも、祈り人がくれたこの薬を飲むとすぐに回復しました。試しに私が半分飲んで毒でない事を証明もできます。それ程に少ない量でも効果を発揮する薬です」
 娘の表情は硬かった。少年は皮肉な笑みを浮かべる。娘の後ろに置かれた鞄と杖と風呂敷包みを見ていた。
「で、俺を回復させてどうする気だ? その荷物を持って隙間の森でも探検して来いってか?」
 娘の顔が曇る。
「隙間の森? 私が言われているのは、フカー様を回復させたら鞄を渡して、この杖を振れと…」
 なるほど、娘は全てを知らなかったようだ。
「その杖は隙間の世界の扉をこじ開ける物だ。異世界の匂いがするのに気付かなかったか?」
「気付きませんでした。そんな恐ろしい物だっただなんて…」
 娘はカタカタと震え出した。両手で胸の前に持っている薬がユラユラと揺れる。
「まぁ良いさ。生きられるんならチャンスはいくらかやって来るだろうに」
 ──チャンス? 何の?
 少年は自分の口からこぼれた強気な言葉に、自分自身が一番驚いている。
 少年は娘の手から薬の瓶を引ったくった。蓋を開け、口を付けると瓶を傾けた。妙に甘ったるい液体が口に流れ込んで来る。
「さあ、振れよ。命令なんだろ?」
 少年は娘の後ろの風呂敷包みを手にすると、中身を出し始めた。中には衣服が入っていた。麻の肌着の上下、綿の黒いシャツ、茶色いズボン、靴下と紐付きの靴、そして裾の長いコート。早速少年は着替え始める。
「行かれるのですか?」
 娘はおずおずと訊く。
「ああ、行くよ。ここにいてもジワジワと殺されるだけだ。本音を言うと、外の世界も見てみたい。ずっと森で育って、その後は神殿と地下牢しか知らないなんて、嫌だよ」
 少年は靴紐を結びながら応える。
「このスニーカーとか言う靴はずっと前に父親が買ってくれたのと同じ物かな。紐の結び方を覚えるのに随分と苦労したっけ」
 懐かしそうに呟く少年を、娘は不安そうに見ていた。娘は見抜いていた。少年の奥に眠る未知なる物への不安、それ以上に強い氷りの大地の外に出る事への恐怖を。その恐怖は娘を含めた氷りの大地で産まれた者全てに、深く刻み込まれた戒めのような物であった。
「しかし、このコートは変わった素材だな。質感も光沢も見た事がない」
「ポリ…ポリエステルと言う物だそうです。何でも化学繊維と言う自然物ではない物だそうです。この世界では珍しいようですが、それを取り寄せた世界では綿や麻のような物より安価な物なようです」
 少年と娘は意味のない会話を続けた。少年はコートのボタンを留め、フードを被る。鞄を手にし、娘に出来るだけ優しく微笑んだ。
「さ、ヒナゲシ。お母さんと弟とお前自身の命がかかっているんだろ? その杖を振りな」
 娘は緩慢な動作で杖を拾った。少年を見る目には心配と寂しさと罪悪感が混ざった感情が溢れている。それは涙に変わり、今にも溢れそうだ。杖を握る手は震えている。
「最後に言い残す。もし俺の父親に会う機会があったら、俺はどこでも図々しく生きて行ける、何てったって父さんの息子だからって伝えてくれ。さ、早く杖を振りな」
 娘は意を決して杖を握る手に力を込めた。

【ヒナゲシ・ナズナ】

 全てが終わった気がしました。
 私はフカー様のいなくなった部屋を見回しました。ランプの灯りが赤黒い壁を橙色に照らしているだけの部屋ではありませんでした。
 私はフカー様が地下室に入られる前に掃除を命じられたのですが、その時にはなかったはずの水のシミが壁には出来ていました。それは水脈を突き破って壁から水を滴らせたために出来た物です。
 他にも、床板は所々剥がされていて、茸や苔があります。フカー様がおっしゃっていたように、地虫も獲れた事でしょう。
 これだけ自然の力を応用して一冬を越えたのです。
 それだけ生存力と知識の高い方です。フカー様をもし、地下室などに閉じ込めなかったら、村の皆に生きる術を教えていたら、きっと不作も水害も乗り越える事が出来たでしょう。
 フカー様も祈り人様から聞いているかも知れませんが、一年前の水害で村の三割りが崩壊した時には何人もの人々が死にました。その後の夏の極端な日照りでまた何人もの人々が死にました。秋は来ずにすぐに冬になり、その冬も例年よりずっと寒かったので、何人もの人々が病気になって死に、村の人口は一年前の半分にまで落ちました。
 祈り人様はそれもこれもフカー様が真面目に祈っていないからだと生き残った村人達を焚き付けました。生き残った村人達も約四割りが病気です。病に苦しむ者と看病に疲れ果てた者です。心に余裕などありません。正常な判断力を失っていました。
 彼らは祈り人様の言葉を鵜呑みにし、怒りの矛先をフカー様に向けました。
 昨日、私は祈り人様が持って来た薬を病気に倒れた母と弟に飲ませました。二人は立ち所に元気になりました。
 私は祈り人様に感謝を告げ、次の瞬間にそれを後悔しました。祈り人様は母と弟に異世界の銃を突き付けたのです。二人の額にはうっすらと光りの跡が付きました。
 その銃は引き金を引けば、印を付けた場所を撃ち抜けると言う魔法がかかっていると言います。母と弟を守りたければ言う通りに動けと祈り人様は言いました。
 私は言われた通り、フカー様に着替えてもらい、鞄を手渡し、最後に杖を振りました。
 フカー様は杖の魔法で異世界へと消えました。

 とは言え、私も祈り人様の言いなりになっていただけではありません。
 あの不思議と、何を言っても信じてしまう声と雰囲気に圧倒的な存在感、それに疑問を抱いていた人も実は数少ないながらもいました。
 まず第一に上げられるのが、私の前任のフカー様の担当者だったパーツォ様、あの方はいつも祈り人様の言う事には単に従っているだけで、信用できない方だとおっしゃっていました。フカー様も同様でした。そして、そう思っている人は村に何人かはいるようで、皆が従っているから言えない、無言の圧力のような物を感じている事が分かりました。
 私も、フカー様と一緒に過ごす内に祈り人様の不穏な雰囲気や怪しさを感じ取れるようになりました。
 私はその怪しい祈り人様の家に侵入しました。
 元々は言う事を聞くだけの私です。簡単な家事くらいしか出来ない愚かな女で、娘としても姉としても、家族の命乞いをする事しか出来ない非力な存在でしかありません。そんな私ならノーマークに決まっているではありませんか。
 実は異世界からやって来ている祈り人様は、隙間の森を通して様々な世界を渡れる隙間の旅人でした。その力で時折どこか別の世界に行っているようでした。その時もそうなのでしょう。
 私は不用心にも鍵が差し込まれたままのドアノブを回し、簡単に家に入れました。そして神経質そうな見た目そのままに綺麗に片付けられた台所を抜け、居室に入ると、棚に並べられた異世界の魔法道具やら薬やらが丁寧に並べられているのを見付けました。母と弟に飲ませたのと同じ薬を手に取ります。病気の村人全員には足りそうにはありません。
 私は落胆しましたが、机の上に置かれた黒いガラスのような板が目に入りました。それはタブレットとか言う異世界の道具で今の村長様の息子様がずっと前に自慢していたのを思い出しました。使わせてもらった事もあります。私は記憶を探りながら操作してみました。
 画面を開くと、いくつかのアイコンが並びます。私はその中から『魔法の薬の作り方』と言うアイコンをタップしました。その中から『超回復の薬』をタップしました。母と弟に飲ませた薬の作り方でした。
 私は台所を漁って材料を調達し、異世界の道具(電子レンジと言うようです)を使いながら薬を大量生産し、さっさと部屋を片付けると祈り人様の家を出ました。
 実は地下牢に来る前に、フカー様が大地の神様から贈り物を頂いたと言ってその薬を村中に配って回ったのですが、祈り人様にはバレていないようです。
 私が侵入した事にも気付いていないようですし、鍵を差しっぱなしにしていた事と言い、神経質なように見えて実はズボラな人であるようです。私は密かに軽蔑しましたが、やはりその異様な雰囲気に押され、祈り人様を前にすると逆らえませんでしたけど。

「ジーユルトス…スノールノ様ですね」
 私は地下牢の階段を登り、外扉を開けた所に立っていた男性に声をかけました。
 振り向いたスノールノ様は、短く散切りにした髪に無精ヒゲを生やした方で、背が高くがっしりとした色黒な方で、フカー様には似てはいません。しかし、意思の強そうな瞳やはにかむような表情はそっくりです。
「君は?」
「私はヒナゲシ・ナズナと申します。神殿ではフカー様のお世話をさせて頂いていました」
 村人達からは邪険な扱いを受けているとは言え、生き神様のお父様です。私は胸に手を当て深く頭を下げました。
「そうか、私はフカーの父親だ。と言っても私を知っているようだがな」
 私はその無理をして作った笑顔を見上げながら、少し迷って、何があったかをお伝えしました。
「そうか、君はかなり勇敢だな」
 単に愚かだから敵として認識されないだけの小娘に、この方はなんて評価をしているのでしょうか。
 私は、フカー様からの、恐らく最後となる業務伝達を伝える事にしました。
「俺はどこでも図々しく生きて行ける、何てったって父さんの息子だから、フカー様はそうおっしゃって異世界へと旅立たれました。再会を妨害した事を深くお詫び致します」
 私は再び頭を下げます。
「いや、良いんだ。君の立場ならそうするしかない。それにあいつは、弱そうに見えるけど、意外と図太…芯は強い。生きていればどこかでまた会えるって信じているよ」
 顔を上げるとスノールノ様は笑っていらっしゃいました。
「会ったばかりだけど、さようならだ。実は君達を支配し続けた祈り人を銃殺した。もう氷りの大地にはいられないから、外に出て行くよ。
 村の連中にはジーユルトス・スノールノが祈り人を殺して逃げたって言うんだ。それからこいつが使っていた魔法道具の解除方法は、そのタブレットとか言う道具の中にトリセツがあるだろうから、それで解除するんだ。そして出来れば全てを破棄するんだ。この土地においては、新たな争いの火種になりかねないから。
 今までフカーの事をありがとうな」
 そう言って笑うと、スノールノ様は身を翻して去って行きました。
 私は見ないようにしていた、その血を流している蝋人形のような死体を一瞥しました。
 スノールノ様の去った方向には、コオリオオカミがいるのが目に入りました。所々に溶け残った雪と芽吹く淡い緑の中で、そのオオカミは一際美しく佇んでいました。
 春の柔らかくて少し冷たい風が、私の髪と頬を撫でて行きます。

【フカー、隙間の森の中で】

「あれ? 谷原の兄ちゃん、久し振り」
 少年は隙間の旅人の青年に声をかけた。
「荻原だ、オ、ギ、ハ、ラ」
 隙間の旅人は呆れながら答えた。
「で、フカーが何で隙間の森にいるんだよ? 隙間の入り口に踏み外しちゃったのか?」
 少年は首を横に振った。
「氷りの大地を追い出されたんだ」
「何やらかしたんだ?」
 旅人は笑いながら問う。まるでイタズラ好きな子どもに問いかけるように。
「宗教的な意味でのヘマをやらかした。大雪、豪雨、猛暑、更なる豪雪」
「フカーの住んでるとこじゃ元から豪雪地帯じゃないのか?」
「それが例年を遥かに上回る寒冷でさ、作物は採れないわ、村は滅びかけてるわで大変だったらしい。俺は地下牢に閉じ込められてたから見てないけど」
「どこまでマジだよ?」
「ぜーんぶ大マジ」
 旅人は少しだけ考えてから、無理をして笑っている少年の目を見て、その分厚い手を少年の頭に乗せた。そして、髪をくしゃくしゃにして撫で回した。
「ちょ…何すんだ!?」
「大変だったな」
「まぁね。でも、氷りの大地を出るためのキッカケにも言い訳にもなったし、外を知ってみたいってずっと思ってたから」
「で、わざわざおれを探してくれたのか?」
 少年はここでキョトンとした。
「いや、単に知ってる人を見付けたから声をかけただけ。偶然だと思う」
「あ…そう」
 旅人は拍子抜けしたように返した。
「ま、そんな訳で、俺はこっちに行くみたいだ」
 少年はどこかの現実世界へと開きかけた入り口を指した。
「じゃ、達者でな」
「おう、荻原の兄ちゃんも元気でね」
 少年と旅人は手を上げて挨拶をし合うと、別々の方向に歩き出した。深いミルク色の霧が立ちこめる森の中だ。二人はお互いにすぐに姿を見失った。
 ──本当は知ってるんだ。こんな魔法、振り切れるって。でも、とりあえず進んでみる事にしたんだ。
 少年は開きかけた隙間の入り口に足を踏み込む。期待と不安を胸に抱きながら。

【完】

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