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アナタが作る物語コミュの【サスペンス】子供の時間-Bサイド-ウサ子

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 この話はレイラアズナブルさんの『子供の時間』http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=3656165&id=77184725&comment_count=25のウサ子の視点から見たらどう見えるんだろう、と言う私の興味本意から創作されたBサイドです。内容にレイラさんや読者の方々が抱く『子供の時間』のイメージを破壊する表現、勝手に付け足した設定が含まれますが、『ああ、痛い子がいるな』程度に鼻で笑って下さい。
 コメントに続きます。「完」の字が出るまではコメントはお控え下さい。
 また、部屋を明るくして携帯、パソコンの画面からは離れてご覧下さい。

その他の作品はこちらからです。↓
作品一覧【単発/完結】
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=39667160&comm_id=3656165

 ___

「ねぇ、聞いた? 野本さんの旦那さん」
「まだ続いてるんでしょ、旦那さんの不倫」
「もう二年近く続けてるんだってねぇ。私達の耳にも半年位前には入ってたよね?」
「一年前だよ、ほら、バレンタインの直後だったじゃん」
「あぁ、思い出した。あの女とバレンタインデートキメてるの橋本さんの奥さんに見られて、近所中にぶちまけられたんだっけ?」
「知れ渡ってるのに知らないの旦那さんだけなんでしょ?」
「その不倫相手って、旦那さんの会社の取引先のお嬢さんなんでしょ? 離婚決めてそっちと再婚すれば旦那さん逆玉じゃん」
「その女、この近くに住んでるんだってね。ほら、十階建のあそこ」
「ああ、分かる。マンションの名前は思い出せないけど」
「でも凄い女だよね。奥さんもよく耐えられるわ」
「武君もね。あの子、変わってるけど、きっと不倫の影響だよ」
 今だ。通りすぎるなら今しかない。私は角を曲がって顔を出す。
「あ、こんにちはー。ママ、ただいま」
 作り笑顔を輝かせながら井戸端会議中のおばさん達の前を横切る。さっきまで実は聞いていた嫌な笑い話を知らない振りをしながら。面倒なので家の前では下らない長話はしないで欲しい。
「あ、お帰り、ミミカ」
 母が柔らかな声をかける。おっとりしているようで自尊心の高そうな雰囲気。特別に美人と言う訳ではないが、可愛らしい顔立ちに白い肌。服だって三十代半ばにしては明るい色使いと可愛らしいデザイン。『ママ』なんて甘えた呼び方をされて緩む頬には満足げな笑みが浮かぶ。私はこの女が生理的に嫌いだ。
「オヤツ、冷蔵庫にゼリー作ってあるから」
「うん、ありがとう。じゃ、失礼します」
 母へ(上部だけ)の礼と、おばさん達への(心のこもっていない)挨拶を済ませると、作り笑いとお辞儀をしてからドアを閉じた。
 カチャリと無機質な音を立てて家の外と中の世界を分離すると、フッと落ちた。いや、違う。私の顔に、体に、口の中にガッシリくっついていた『大人ウケの良い女の子』が一時的に離れた。どうせ大人が近くに居ればまた顔と体と口の中にくっついて、作り笑いをして、お行儀良く振る舞わせて、可愛くて礼儀正しい台詞を言わせてしまうのだ。それが分かっているから無表情になれる時が気持ち良い。
 冷蔵庫の中のゼリーは、オレンジジュースとリンゴジュースにそれぞれゼラチンを溶かし、透明なカップに交互に重ねて固められ、上にはホイップクリームを絞ってミントの葉が飾られていた。可愛くてオシャレな物を好む母らしい。きっとあのパステルオレンジのエプロンを着けて作ったのだろう。そんな可愛らしい姿が目に浮かぶので、頭を左右に振って掻き消した。
 最近の主婦達の話題は野本武の父親の不倫問題か。人の痛い所をつつくような話題で盛り上がっていながら、野本武の母親に会えば何事もなかったように挨拶をして、また別の人の痛い所をつつくような話題を振って笑っているのだ。怒りは沸かない。ただ、野本武の母親も近所のおばさん達も可哀想だと思えて来る。何故かは解らないし、解りたいとも思わない。でも自分の母に対してだけは別で、可哀想と言うよりも陰険な本質を隠し持っているとしか思えない。
 自室に戻って鞄を机の横にかけて椅子に座る。一息吐いてからスプーンでゼリーをすくって口に運ぶ。リンゴとオレンジの酸味とホイップクリームの甘味がふんわりと広がった。ミントは苦くて青臭いので残す事にしよう。

 ___

 学校は嫌いじゃない。クラスメイト達も嫌いじゃない。どちらも好きにはなれないけど、嫌う理由にはならないし、無理して好きになりたいとも思わないから、それで良いんだと思う。
「おはよう、ウサ子」
 ユキちゃんが肩を叩きながら挨拶してくれた。ナチュラルで子供らしい、かつ女の子らしい笑顔が可愛らしい。ユキちゃんはクラスでも一番の美人で、大きな目が笑うと半月型になるのが愛嬌があって、サラサラとした長い髪が肩の下で揺れるのと、フリルやレースをあしらったピンクの服を好んで着るのが何ともオシャレだ。ちょっと母に似ている気がするけど、生理的に嫌いな訳じゃない。
「あ、おはよう」
 私はそれだけ答えると俯いた。どうせ挨拶を済ませたら私の方は見ていないのだ。他の子にニコニコしながら話しかけている。
「ねぇ、聞いた? 武君ちの事。昨日救急車来てたじゃん。ママが自殺未遂だって」
 歳は離れていてもユキちゃんやクラスの子達と、母を含む近所の主婦達は同じ本質の生き物なのだ。ユキちゃんの口元のにやけた感じは昨日井戸端会議をしていたおばさん達のそれと全く同じだった。
「何でも武君のパパに愛人がいて、ママが自殺しようとしたんだってね」
「武君、今日学校に来るのかな。どんな顔してくるんだろう?」
「意外と平気かもよ、あの子は。独特と言うか、そんな感じするじゃん」
 ユキちゃんは人気者なので口を開くと自然と何人か集まってくる。井戸端会議のおばさん達とやっぱり同じだ。話す内容だって、別に聞かせてくれなんて頼んでないのに垂れ流して耳に入れてしまう。武君のママの自殺未遂だって今朝、母やおばさん達が話していた。
「ウサ子ちゃんは? 武君、来ると思う?」
 そう私に話しかけたのはミサトちゃん、ユキちゃんの周りでいつもニコニコしている愛想の良い子だ。私にも話しかけて、よく輪から外れないように気遣ってくれる。
「どうだろう? 来る、かな?」
 はにかんだ顔を作りながら答える。そして、自分の席に着いた。
「可愛い子ぶって気取っちゃって。ウザ子のやつ」
 ミサトちゃんが呟いたのが聞こえた。たぶん、本人は聞こえているかも知れないと思いながら言っている。

 ランドセルにはウサギのキャラクターマスコットが付けられている。母が私に買い与えた物だ。ピンクのワンピースを着て、ピンクのリボンを着けて、白くてフワフワした毛並みに黒いビーズの目が愛らしい、母好みの可愛いウサギのキャラクターだ。
『ウサギの耳って長いでしょ。ウサギみたいに可愛い女の子に育って欲しいから『ミミカ』って名付けたの』
 小さい頃、母からそう聞かされた。嫌だ、『ウサ耳のミミカちゃん』なんて。そもそも私はウサギみたいに可愛くなんてない。真四角な顔に低く上向きな鼻、分厚い大きな唇、小さな細い目、どう考えても不細工と呼ばれる領域だ。
 それにウサギは母が思っているような愛らしい生き物でもない。まず、寂しくても死なないし、むしろ縄張り意識が強過ぎるので他の個体が存在している方がストレス死の危険は高まる。なので当然のように取っ組み合いのケンカはしょっちゅうだし、弱い者いじめだって平然と行える。誘発排卵するので雄と雌さえいればすぐに交尾を始めてしまうし、相手はいつだって取っ替え引っ替えだ。挙げ句にずる賢く、中には追いかけてきた犬やキツネを有刺鉄線の柵にぶつからせて殺してしまう個体までいる。きっと母はシートン動物記を読んだ事はおろか、存在すら知らないだろう。私は、そんな卑怯で乱暴で淫乱なウサギが嫌いだ。飼育小屋のウサギ達を見るとよく分かる。
 クラスメイトは私を表立っては、ウサギが好きでミミカちゃんだからウサ耳、だから『ウサ子』なんて母が喜びそうな渾名で呼ぶ。でも、本当は裏では『ウザ子』なんて呼んでいる。先生や親には分からないように、でも私には分かるようにウザ子と呼ぶ。別にウザ子は嫌じゃない。
 本当は冷め切った腹の中を抱えておきながら、大人の前では無邪気で愛らしい振る舞いをするブスは相当ウザいだろう。クラスメイトにも愛想が良い訳ではない。嫌われるのは当然だろう。
 何よりも『ウサ耳のミミカちゃんだからウサ子』なんかより断然良い。母の喜びそうなものでなければ『汚れマン子』でも良いと思う。

「あ、来たよ野本君」 誰かが言った。女子の声だ。
 いつもと変わらない淡々とした様子で席に着く。普段は調子良く明るくクラスメイトに朝の挨拶をする橋本祐作も話しかけないが、いつも通りを装っている。
「本人はいつも通り装ってるけど、絶対何かあるよ。あんな事があった直後だしね」
 ミサトちゃんがこっそり耳打ちして来る。皆そう思ってるだろうよ、とも思ったが、噂話に参加したいとは思わない。
「興味ないし、野本君の家庭の事情とか」
 大人には通用するが同年代には嫌われる愛想笑いを浮かべながら野本武には聞こえない声で返す。
「そっか。ウサ子ちゃん、噂とか悪口とか好きじゃないもんね」
 そう言うとミサトちゃんはユキちゃんのグループに戻って行った。
「学級委員のウザ子様だもんね」
 とウザ子発言を忘れないでいてくれる。良い子だと思う。私の嫌いな『ウサ子』を『ウザ子』に必ず変えてくれる。ミサトちゃんはとても気が利くし、人当たりも世渡りも上手いから、きっと将来は主婦になっても上手くやって行ける。このまま中二病が治らずに、根暗なパートタイマー(ずっと独身)になる事がほぼ確定している私とは大違いだ。なりたいとは思わないが、少しだけ羨ましくなる事が稀にある。
 机に伏せて腕に下膨れな頬を乗せる。きっと分厚い唇はより分厚く、低い鼻はより低くなっているだろう。その体制で横目でユキちゃん達の女子グループを見る。キャキャッと言う笑い声。昨日のアニメの話題で盛り上がっている。野本武の話題はどこへ行った?
 野本武は机に座って淡々としたしている。目はどこを見ているか分からない、だが、その眼差しには何か強い物を感じた。いや、弱い。イタチを真後ろにしてイバラの茂みまで逃げ切れるか走り続けるワタオウサギの目だ。そう思った瞬間、久し振りに少しだけどワクワクした。

 ___

 野本君の母親が救急車で運ばれたと言う話を聞いてから一週間が過ぎた。
 野本武は、今日も昇降口で座っている。サッカーをしている男子達を眺めている。いや、ドッチボールをしている上級生を見ているのかも知れない。焦点が合っていないのでどちらでもないんだ。野本武の瞳に映っているのは何だろう? 逃げるために知恵と体力の限りを尽くすワタオウサギの、弱者で強者の瞳。気になる。気になる時に、少しだけワクワクする。
 時々そんな気分が嫌になる。他人の事情に首を突っ込んで面白がる精神、恥じるものでも誇るものでもない。ただ、この感情を認めたくない。クラスの女子や近所のおばさん達と同類になるのは構わない。ただ、その中に母が含まれる事、母と同じくくりになってしまう事が気に食わない。
 でも野本武の瞳の理由を知りたい時のワクワクは次第に大きくなり、ついに口を開いてしまった。
「野本君、何かやってるでしょ?」
 一瞬、それが自分の口から出た言葉だとは思わなかった。野本武はこちらを見て一瞬戸惑ったような表情を見せたが、すぐに冷静な顔に戻った。
「何にもないよ。僕には関係ない」
 ああ、両親の離婚について聞かれてると思っているのか。勘違いも甚だしい。今のおばさん方の旬の話題は、四年生の誰だかの児童虐待疑惑で、誰が児童相談所に通報したかだ。因みに通報したのは四年生の子の向かいのアパートに住んでいる若い独身の女だと言われていて、仕事で帰りが遅く、近所付き合いもほとんどないのでおばさん方との接点はほとんどなく、どうやってその独身女をいじめるかで苦戦しているようだ。世間とはそんなもの。
「そんな事を聞いているんじゃない。私は『何かやってるでしょ』って聞いたんだよ」
 私が答えると、野本武はまた戸惑った表情を見せた。
「大人ってろくでもない事をするもんね。子供は苦労するよ」
 ため息と一緒に吐き捨てる。
「あんな事があった後だからね、あんたのママの自殺未遂とか」
 私がそう言うと野本武は冷静な顔に戻る。この顔は冷静を装っている。絶対に何か企んでいる。
「僕の様子って変かな?」
「変なのは昔から、皆知ってる。大丈夫、何か企んでるのは誰も気付いてないよ」
 多分、きっと。だが、野本武は安堵したような顔を見せた。こいつは簡単に落ちる。そう確信した。
「それより何をしようとしているのか話しなよ。じゃないと家のママに…」
 自然と出た『ママ』と言う単語に一瞬、自己嫌悪を感じた。何で『母親』とか言わなかったんだろう。いや、母に限らず、『親』と言ってしまえば良かった。そうすれば結果的に母に対してであっても父も含める事が出来る。
「ママに全部話しちゃうよ? 武君が何かしようとしてるって」
 この先はわざわざ言う必要はないだろう、そうすれば大人達に止められるって。
「じゃあ、話すよ」

 思ったより野本武の話した内容はキツかった。母親の自殺未遂は皆知っているが、殺されかけた事までは知らなかった。
 目に浮かぶようだった。薄暗い浴場、冷め切らない湯、鉄の臭いと湯船に浮かぶ濁った赤、十歳の子供が大人の力で押さえ付けられたら抵抗なんて出来ない。野本武はそんな息が詰まりそうなくらい衝撃的な内容を口にしながら、更に衝撃的な絵空事をほざいた。
「ママが僕を殺そうとしたんじゃないんだ。ママが力を緩めてくれたから僕は助かったんだ」
 母性崇拝、吹き出しそうになったのを堪えた。こいつは自分を殺そうとした相手に命を助けられたと言っている。有り得ない。リストカットの痛みと自分の出血を見たショックで力が緩んだのだろう。児童相談所に行けよ、と言いたくなる。でも、『ふーん』としか返さなかった。それ以外の適切な反応が思い付かなかった。
 あとは噂を聞いたのとほぼ同じ内容だ。母親が自殺未遂して救急車で運ばれ、心療内科に転院した事。野本武と父親が愛人の家に転がり込んだ事。野本武が心療内科に出向き、面会謝絶の母親に 会おうとして病院職員に摘まみ出された事。
 それらを聞いてから、携帯の番号とメアドを交換した。ラインは学校で禁止されていたので、私はしていなかったので出来ない。
「私の名前はウザ子にして。そうすれば見られても疑われないから」
 ウザ子なら、親達と男子なら誰か分からないだろう。野本武が女子と接点を持つとは考えにくい。
「分かった。『ウサ子』だね」
 ウザ子だって、とは言わなかった。私がウサ子と呼ばれている事を知らないのか。そう言えば女子はウサ子と呼ぶが、男子は花咲とか委員長としか呼ばない。それにしてもずれていると思ったが、スルーした方が良いだろう。ややこしいのは避けたい。
「じゃ、僕は『ケシちゃんマン』で」
 なるほど、武の『ケシ』か。その時のケシの顔には、柔らかな笑みと、妙に懐かしそうなキラキラが見え隠れした。
「じゃ、私もう行かないと、皆に怪しまれるから」
 そう言ってケシに背を向けて歩き出した。ブスに色恋の噂が立つなんて見苦しいと女子達は陰口を叩くだろう。そんな感情はないけれど。

 ___

 今日はケシは学校に来なかった。だからプリントを届けに来た。学級委員と言う立場上、わざわざ申し出なくても届ける事になった。
「じゃ、家庭の事情で野本はここにいるから」
 担任教師は淡々と言って噂のマンションの地図を渡した。そんな物なくても噂でマンションの場所は知っている。分からなかったとしてもケシに電話して聞けば良い。でもそれは言わなかった。わざわざ話をややこしくしたくない。
 築六年の新しい建物で、分譲マンションだ。どこぞの大企業の役員の娘(と言われている)だけある。親に買ってもらったのだろうな。部屋の番号を確かめる。角部屋の南向き、最上階、母だったら羨ましがるだろう。
 チャイムを鳴らし、少し待つ。
「はーい」
 ケシの声が扉の向こうから聞こえる。かなり声に張りがない。相当悪いのだろうか?
 扉を開けて出迎えてくれたのは、目の焦点が合っていないケシで、パジャマ姿で髪は寝癖がついたまま、顔は土気色だった。
「学校に来るって言ったじゃない」
 そう言うと、ケシはかなり疲れたような声で、
「ごめん、具合が悪くて」
 と答えただけだった。
「まぁ、良いけど。プリント届けに来た。上がって良い?」
 私は言うが早いか、ケシの了承は待たずに部屋に上がった。自然と染み付いた癖で、靴はちゃんと揃えた。
 ケシが寝起きしている部屋は、四畳半程の広さで、ケシの家から持ち込んだと思われる子供用のベッドと学習机があるだけ。後は衣類を入れる衣装ケースはあるが、服は床に丸めて脱ぎ散らかしてある。ケシはベッドに横になると、私はベッドの端に腰を下ろした。ケシの足下だから、顔を見て話せる。
「お昼は?」
 私が問うと、ケシは頭を横に振った。
「ちょっと待ってて」
 私は立ち上がって台所に向かった。
 マンションの台所は狭く、食器棚や冷蔵庫を置くスペースとシンクに挟まれる形になっていた。しかし、繋がっているダイニングとリビングは広かった。
 意外と几帳面なのか綺麗に片付いた食器棚からマグカップを掴む。ふと目に入った洗剤の詰め替え用の容器が気になった。三つもある。安かったから買いだめしたのだろうか。意外と貧乏臭いと言うか、現実的なんだなと思ったが、すぐに打ち消して後ろの冷蔵庫に目をやる。他人の家の冷蔵庫を勝手に開ける事はいけないと思いつつも、いざとなれば無邪気な振りをして誤魔化そう。それよりも目当ての牛乳だ。入っていて良かった。500ミリの小さなパック入りの所を見るとあまり飲まないのかも知れない。取り敢えず、牛乳をマグに注ぎ、レンジに入れる。後は一分暖めればそれなりには暖まるだろう。
 一分間、キッチンからダイニングとリビングを見渡す。モデルルームのように整然としたそれは、まるで生活感がない。展示品を見ているようだ。ここでまだ顔も見た事のない女とケシの父親が愛し合い、そのせいでケシの母親はおかしくなったのだろう。その女もおかしくならないだろうか、ケシが邪魔だから殺そうとしたりとか。足下の収納棚を開けてみる。案の定、扉の裏側の包丁立ての中には万能穴開き包丁が二本。あとは鍋やらフライパンやらが整列していて、虫が嫌いなのかアリ用やゴキブリ用の殺虫剤が並べて置いてある。それらの前で包丁がギラリと光る。まさか、ね。
 レンジのピピッと言う音だけが響き、現実に引き戻される。そうだ、ホットミルクを作ったんだった。食器棚の横の棚にめざとく見付けていた砂糖のビンを手に取り、蓋を開ける。ティースプーンで三分の一くらい砂糖をすくってミルクに入れて、軽くかき混ぜる。それを手にケシのいる部屋に向かう。
 部屋に入るとミルクを黙ってケシに差し出した。そう言えばケシは給食の時に牛乳飲んでたっけ? 残してたっけ? まあ、そんな事はどうでも良い。少し躊躇いがちだったが口にしたし。
「病人をほっといて何をしているんだか、あんたのパパも、浮気相手のおばさんも」
 ケシはキョトンとした顔をしている。ああ、父親に期待はしてないし、女に世話差されるつもりもないんだな、と、勝手に思った。それにしても…。
 微かに扉を明け閉めする音がした。不機嫌そうな足音がこちらに近付いてくる。それを聞くと、反射的に良い子の表情と可愛らしく作られた声が顔と口に貼り付く。
「それに…」
 と、言いかけた言葉が打ち消され、部屋のドアが開く。ピョンと立ち上がって、自動的にお辞儀をする。
 ドアを開けた女の顔を見る。化粧はやや厚いが丁寧に施され、髪はアイロンでも使ったのか綺麗な艶とウェーブを描いている。色白な肌にはそれなりの手間とお金がかかっていそうだ。ピンクベージュのコートに白いマフラーを着け、ラベンダー色のややタイトなセーターが豊かな胸の膨らみと腰のくびれを表していた。スカートはふんわりめで膝がギリギリ隠れる長さだが、見たところ脚は長そうだし、黒いタイツに包まれたふくらはぎから足首はほっそりとしていた。顔そのものは美人とも不細工とも言えないと思うが、化粧のおかげで華やかに見えたものの、三十にさしかかるであろう年齢は隠し切れていない。その顔で私を睨んでいる。子供相手にみっともないと思った。
「武君のクラスメイトの花咲です。プリントを届けに来ました。お姉さんがお留守の間にお邪魔しちゃってごめんなさい」
 そう言って微笑むと、『それにしても、あんたもママの心配してる場合じゃないてしょ?』と、言う言葉が迷子になったような気がした。でもそれで良い。ケシを傷付けるような事は言うべきではないんだ。そんな自分を嘲うように、舌を出してしまった。ああ、いけない、きっとブリッコだと思われて、ケシは引いているだろう。目の前の女には呆れられても構わないが。
「じゃあね、武君」
 そう言って手を振ると、私は女の横をすり抜けて部屋を出た。廊下を足早に歩き、玄関で靴を履く。その横にはケシの子供用のスニーカーが揃えずに無造作に置かれているのに、ハイヒールと女物のツッカケは綺麗に揃えて置いてあった。私は自分の靴を履くと、玄関を開けて足早に外に出る。マンションから少し離れると、二月の終わりの冷たい風が肺を満たすのを感じた。

コメント(17)

 携帯電話が鳴った。『岡崎美里』
「ミサトちゃん?」
 立ち止まって電話に出る。ミサトちゃんの声が受話器越しに聴こえる。
『ウサ子ちゃん、野本君にプリント渡した?』
「うん、渡して今、帰ってるとこ」
『そう。何か学区ギリギリの場所だし、遠いから心配だったんだ』
「大丈夫だったよ」
『なら良かった。それより、野本君はどうだった?』
「具合が悪いみたい。ほとんど口も聞かなかったし」
 口を聞かなかったは嘘だが、あまり詮索されるのも嫌だからそう答えた。
『そうなんだ。何かさ、色々言われてるからさ。野本君のお父さんの…その…浮気の家にいるとか。会った?』
「会ったって誰に?」
『とぼけちゃ嫌。浮気相手の女の人だよ』
「会ったけど、挨拶しただけで話してないよ」
『そうなんだ。あ、変なとこはなかった? 野本君の病気はその女が人為的に引き起こしたみたいな証拠とか』
 そんな物をわざわざ残す犯人も珍しいと思った。
「なかったよ。って言うか、探してすらないし」
 異様に綺麗なリビング、ダイニング、キッチンだったよ、とは言わなかった。証拠を隠すために綺麗にしているんだ、とか言われるのが見えていたから。
『そうなんだ。ねえ、その浮気相手の女の人ってどんな人?』
「よく分からないけど、三十前くらいの割と派手めの人」
『そうなんだ。野本君はその人をどう思っているんだろうね?』
「さあ、聞いてないから分からないよ」
『私だったら絶対に嫌だな、父親の浮気相手と暮らすなんて。絶対に母親と暮らすよ』
「そうだね。よく野本君、耐えられるよね」
『そうだよね。まぉ、浮気相手も野本君が邪魔だろうけどね』
「だから、殺人事件じゃないって」
『そうだね。ところでウサ子ちゃんさぁ』
 ミサトちゃんは朗らかな声のままだ。
「なぁに?」
『普段ならこう言う噂話、あんまり好きじゃないのによく今日は聞いているね』
「そう…かな? 今日はそんな気分なのかな?」
『気分、ね』
「うん、気分かな」
『そっか。じゃ、また電話するね』
「うん、またね、ミサトちゃん」
『じゃあね、ウザ子』
 最後にウザ子と呼ぶと、クスクス笑いながら電話が切れた。
 寒いから急いで家に帰ろう。

 ___

 一旦病院の外に出る。壁伝いにぐるりと回る。
「通用口…通用口…」
 意外と早く見付かった。小さな入り口。ケシが言った通りだ。足を踏み入れる。目指すは…第二病棟412号室、野本弘子―。
 きっと、上手く行く。行かせる。
 冷たい廊下を歩きながら息を吸うと、消毒液の臭いが鼻にツーンと来た。病院独特の臭いと雰囲気に包まれながら昨日の事を思い出す。

 朝から女子たちに囲まれて質問攻めにされた。
「ねぇ、野本君のとこ行ったんでしょ?」
「愛人の住んでるマンションってどんなだった?」
「愛人には会ったの?」
「野本君と愛人ってどんな話するの?」
「ねぇねぇ、野本君の両親って離婚するの?」
「ウサ子ちゃん、教えてよ」
 答えようがなかった。答えて良い事だとは思わなかった。
「まぁまぁ、ウサ子もそんな質問攻めされたら困るじゃん。それよりさぁ…」
 ユキちゃんが女子達をなだめる。そして引き剥がしてくれる。あぁ、やっぱりユキちゃんは凄いなぁ。もう話題は犬と猫とどっち派かに移り代わっている。
「ウサ子ちゃん、昨日は遠いに大変だったね」
 ミサキちゃんが話しかけてくれた。
「そんな事ないよ」
 作り笑いで答えた。いつもの事。
「野本君、今日は来るかな?」
「来るって言ってたけど」
「そうなんだ。てっきり毒でも盛られて体調不良なんだと思ってた。変なとこはなかった?」
「さあ? って言うか、一般人が毒なんて手に入らないでしょ」
「農薬とか洗剤とかでも毒になるらしいしよ?」
「サスペンスドラマじゃあるまいし」
 愛想笑いで答えてはぐらかそう。
「そう、じゃあ私、ユキちゃんのとこに行くね」
 ミサキちゃんは私にくるりと背を向けて、ユキちゃんのグループの輪に入って行った。ウザ子とは言ってくれなかった。
 そして、その日はケシは来なかった。

 二日連続で来たマンション。昨日に比べたら感動も驚きもない。ああ、ただ整然としているな、程度。
「今日は来れるって言ったじゃん」
 カレーを食べているケシに不機嫌な声をかける。昨日の夜、『明日は学校に行くよ』と、メールがあったのだ。
 あの女はいない。居ても困る。と、言うか不快だ。母とは似ていないが、母と同じくらい生理的に受け付けない女だった。
「ごめん。朝ごはん食べたら急に具合が悪くなって」
 ケシは元気がなさそうに答えた。
「お昼はカレー? 今頃?」
 ケシが首を縦に振る。体調不良なのに刺激物か。あの女だけではなくケシの父親も非常識なようだ。
「今日は学校が終わってからまっすぐ来たからまだ時間あるよ。私は何をしたら良い?」
 素っ気なく答えた。
「この手紙を渡して欲しいんだ。今は行けそうにないから」
 力ない声と表情に、何だか悲しくなる。ケシもその事を分かっていると思う。
 手紙を受け取ると、ケシの母親の入院している病院の事を聞いた。病院の名前を聞いて地図アプリで調べる。病院の入り方をケシに聞く。身内であるケシが会えないのに、他人の私が会えるはずない。だから、当然正面から行けない。通用口の見付け方と部屋の番号と母親の名前を聞く。
 ケシの携帯が乾いた軽い音を立てて床に落ちた。ケシが吐いている。どうしよう…。
 ミサキちゃんの声が耳に蘇る。
『毒でも盛られて体調不良なんだと思ってた』
 まさか…。でもかなり苦しそうだし、顔も土色と紫を混ぜたような色だし、まだ吐いている。救急車を呼ばなくてはいけない。

 救急車が来るまでの間は五分くらいだったろうか。もっと長いように感じた。到着まで消防署の人から情況を聞かれ続け、伝えた。
 救命士がケシを連れて行こうとしている。付いて行きたかった。何も出来ないが、側にいたかった。この作戦でいけるかな?
「いやあ…武君が死んじゃう! 毒だよ、毒! カレーの中に入っていたんだよ。病人にカレーなんておかしいんだよ。私も救急車に乗る!」
 嘘泣き。涙なんて簡単に出せた。ああ、私は表情がなくなって来ている。
「お嬢ちゃん、無理だよ。お友達が心配なら…」
 救命士の一人が私をなだめる。
「乗せてくれなきゃ武君の家族の連絡先、教えないから」
 この台詞で無理なら引き下がろう。いや、きっと無理…
「ちょっと待っててね」
 なだめようとした救命士が別の救命士に何か話しかけている。
「どうぞ」
 呆れた表情を向ける。無理じゃなかった。私は救急車に乗り込むと、ケシが寝ている横に腰を下ろした。ケシの目が半開きだ。ウィンクして見せる。見えているのかな?

 ―武君は昨日の時点で具合が悪かったんだね。
『はい、顔色が土色と紫を混ぜたみたいで、ぐったりしていました』
 ―君は毒が入っていたと言っていたが、何故だい?
『マンションの十階なのにアリ用の殺虫剤が台所に有ったのを見ました。食器用の洗剤も三本も詰め替え用が置いてありました。それらは毒として中毒を起こすと聞いた事があるのでそう思いました』
 ―マンションの家主の女性に会ったよね。そんな雰囲気はあった?
『きつい印象の人でしたが、毒を混ぜるような人かどうかはその時は分かりません』
 ―今日は武君は昨日より具合が悪かったの?
『はい、昨日よりしんどそうでした』
 ―ちょっと話が戻るけど、何で沢山の洗剤や殺虫剤を見つけたの?
『昨日、私がプリントを届けた時、武君はお昼は食べていないと言っていました。だから、何か食べるものはないかと思って台所に行きました。その時はホットミルクを作りました』
 ―わざわざ殺人の証拠でもないか探したの?
『いいえ、マグカップや食べる物を探していて、偶然見付けました』
 ―殺虫剤や洗剤が毒として使われる事をなぜ知っていたの?
『武君の両親の不倫は近所でも母やおばさん達の間では噂されていて、私達子供の間でも知れていました。クラスの子達の中には武君の体調不良は愛人のおばさんなの毒を盛られたからだと噂されていたのです』
 ―つまり、確信、絶対にそうだと言う証拠はなかったのに、毒だと言ったんだね。
『はい』
 ―それで駄々をこねて救急車にまで乗った。
『はい』
 ―救急車に乗った時の事は覚えてる?
『色々とあって、少ししか覚えていません。武君は救命士さん達が処置していて、無線でやりとりしていて、凄く慌ただしかったのに、全く現実的ではなく感じました。具体的な処置や無線の内容は覚えていません』
 ―君はこれからだけの騒ぎを起こしたのだから、これから学校やお家で怒られるかも知れないね。
『そうですね』
 ―これは関係のない話なんだけど、君は大人ってなんだと思う?
『二十歳以上の人です』
 ―本気でそう思ってないでしょう?
『自分でもよく分かりませんが、そうなんでしょうね?』
 ―一応、忠告はしとくけど、あんまり良い状態とは言えないね。別に子供らしく振る舞えとかは言わないし、あなたが辛くないなら私からは何も言わない。余計な事を言って悪かったね。
『いいえ、そんな事はありません』
 ―じゃ、今日はありがとうね。

 病院の廊下の寒々しさは、昨日の警察署で私からは話を聞いた女性警察官の態度のようだった。あの人の前では子供らしくて可愛らしい振る舞いは出来なかった。彼女は母と同じくらいか、少し若いくらい人で、短く切り揃えられた髪型に薄い化粧だったが、目が澄んでいて、目線が鋭くて、何もかもを見据えられているように感じた。だから、子供らしく振る舞っても無駄だと思った。
 ケシの前でも子供らしく振る舞わなかったのは、自然と振る舞う必要がないと感じていたからだ。女性警察官のように振る舞えない状況に陥ったのではなく、自然と楽だったからだ。恋愛感情ではない。初めて出来た心を通わせる事が出来る、少なくとも私がそう感じた友達。
 母は女性警察官のように色々と聞いて来なかった。警察署まで迎えに来ると、警察官に挨拶を済ませると、普段使っている淡いクリーム色の軽自動車に私を乗せて連れて帰った。
「大変だったね」
 優しくそう声をかけると眠くなって、気がつくとベッドの上でパジャマに着替えさせられていた。
 母は私には悪意なんて持っていないし、強い愛情を持ってくれている。なのに何で母が嫌いなんだろう? 良い歳して少女趣味だから? 恵まれた環境を当然のように受け入れているから? でも、母は私に深い愛情を注いでくれる。それらを比べたら、私が母を嫌いになる理由にはならないと思う。あの理由だろうか? いや、違う気がする。

 病室に居たのは、母と似たタイプの女性だった。そんなに美人ではないが柔らかな可愛らしい雰囲気の女性、肩まで伸びた栗色の髪、小さな花模様をあしらったパジャマ、私を映しているであろう目に浮かぶ少しばかりの不安と優しそうな光り―。
「初めまして。私は武君のクラスメイトの花咲と言います。武君は今、体調が悪いので私が代わりにお手紙を渡しに来ました」
 ―初めまして。武の母です。花咲さん、ね。こっちへ来て、椅子に座って。
「ありがとうございます」
 ―礼儀正しいのね。
「いえ」
 ―武は、今、どうしているの?
「体調が悪くて、今、入院しています。おばさんは今、具合が悪いみたいですから、どこまで話して良いか…」
 ―大丈夫、全て話して。
「はい。武君は、お父さんの知り合いの女性のマンションにいました。お父さんと武君と女性の三人で暮らしていたのです。
 武君はおばさんが入院してからずっとぼんやりとして…いえ、違います。何と言えば良いのか、心ここに有らず、と言うのでしょうか。授業中もずっと何か別の事に囚われているようでした。きっとおばさんを助ける方法を考えていたんだと思います。
 武君は二日前から具合が悪くなり、学校に来なくなりました。そして昨日、私がプリントを届けた時に吐いて倒れました。私は救急車を呼んで、それから武君は入院しました。これは学校の先生が言っていたのですが、何日か入院するそうです。
 そしてこれは母や近所の人の話を立ち聞きしたのですが、マンションに一緒に暮らしていた女性が武君の食事に洗剤や殺虫剤を混ぜていたそうです。女性には逮捕状が出て、今は警察にいるようです」
 ―そう、そんな事が…
「お手紙、読んで下さい」
 ―………。花咲さん、ありがとう。武に、私は大丈夫だから。きっと迎えに行くから、そう伝えて下さい。
「はい。では私は失礼します」
 ―ありがとう。武に宜しくね。
「はい」

 ___

 三月になって、ケシの病院にお見舞いに行った。ようやく面会できるようになったのだ。
「来てくれたんだ」
「顔色、良くなったね。後遺症とかないの?」
「分かんない、しばらくしてから出るかも知れないって」
 言葉が出なかった。良い子ぶってる時なら安易な元気付けや慰めの言葉がスラスラ出てくるのに、出したくなかった。
「おばさんはきっと大丈夫。手紙を読んで、長い間目をつむって、『私は大丈夫だから。きっと迎えに行くから』と伝えて、そう言われた」
 私はそれだけ伝えた。私がケシの情況を伝えた事は言わない方が良いとおもった。
「そっか。ありがと」
 ケシは一瞬はにかむように笑った。
「ホント、ガキは苦労するよね…」
 私の口から自然と言葉が出て来る。良い子ぶった台詞じゃなくて、私が言いたい事。伝えたい事。お腹の底から胸と喉を伝って言葉が出て来た。
「私は武君が羨ましい。迎えに来るって言ってくれるママがいるから。まだ離婚も確定してないし。
 私の両親はもう決めてるんだ、離婚。パパに女がいるんだって、ママが電話口で言ってるの聞いちゃって。ママに全部教えもらった。でも離婚なんて当分先だよ。私が中学に上がるまで待つんだって。それまでにパパと行くか、ママと来るか決めてくれだって」
 こんな理由じゃ母を嫌いにならない。母は母なりに考えて、私が後々苦しまないように考える時間と選択権を与えてくれたのだ。
「そっか。花咲はどうするの?」
 ケシが尋ねる。
「ママと行く。ママには誰もいないもの」
 言った直後にこれは違うな、と思った。同時に私が母に着いて行く理由が判った。それは何故母が嫌いになるのか、その理由をハッキリ解明したいからだと確信した。父と一緒にいてケシのように愛人の女に何かされる恐怖心も少しはあったのも事実だ。
「苦労するね、子供は」
 ケシが呟く。ケシの顔は見なかった。
 取り敢えず、ケシの父親の愛人が逮捕された事を伝えるのはどのタイミングが良いだろう。

 ___

 五月の陽射しが眩しく、少し歩いただけなのに汗が吹き出し、嫌な臭いを放っている。首の後ろを照り付ける日光に、暑いからと坊主に近いベリーショートにしたのは間違いだったと後悔した。息が切れる。身長一五三センチ、体重六九キロには少しばかりきつい坂道だ。緩やかながらも長い坂道を渡り終えると、聳え立つ大きな門。私立の名門女子大学、私がこの春から通っているのはそこに併設される付属の中学校。地方とは言え地元では名の知れた、所謂お嬢様学校である。
 両親の離婚は母が言っていたのよりずっと早かった。父の愛人が妊娠したのだ。なので、早急に父は愛人と再婚する必要が出来た。ケシに中学に上がる頃に両親が離婚するつもりだと告げたその日の夜に知らされた。結局、両親は三月の内には離婚し、私は母と一緒に母の実家に身を寄せる事になり、五年生に上がるのと同時に引っ越し、転校する事になった。
 ユキちゃんもミサトちゃんも「ウサ子、元気でね」「ウサ子、向こうに行っても連絡するからね」と泣きそうな顔で言ってくれた。もう『ウザ子』とは言ってくれなかった。
 退院したケシとは連絡を取り合ったり、話したりする事がなかった。もう関わる必要がないから、私から避けるようになっていたと思う。ただ、私を見る目が時々いやらしく感じて気持ち悪くなる時があった。
 祖父母の家は、地元では名主と言われる家柄で、広い土地を人に貸したり、地元企業に融資をしたりする仕事をしていて、今は伯父が経営を引き継ぐ話を進めている。母はその会社で事務員として働く事になった。私は、広い家と緑の多い環境に未だに戸惑う事がある。


「ねぇ、聞いた? 『ウザ子さん』の話」
「あんたそう言う都市伝説とか好きだねぇ」
「あ、私聞いた事なーい。どんな話?」
「何でもね、東京のある街で旦那さんが不倫してる夫婦がいたんだって。そこの奥さんが自殺未遂して息子を殺しかけた。幸いにもその時は二人とも命に別状はなかったんだけど、奥さんは入院。で、旦那と息子は愛人の家に転がり込んだ。でも愛人は息子が邪魔だったから食事に洗剤や殺虫剤を混ぜて毒殺を謀った。でも、息子のクラスメイトのウザ子さんと言う渾名の子が異変に気付き、学校のプリントを渡すふりをして愛人の家に行った。そしたらどうなってたと思う? 愛人の家に着くと、息子は毒を飲まされていて…」
「ウザ子の前で倒れたのさあぁぁあーっ!!」
「うぉっ…いきなり大きな声出して驚かさないでよ!」
「ごめんごめん、一旦ごめん」
「まぁ、続けるよ。で、目の前で倒れた息子のためにウザ子さんは救急車を呼んで、そのせいで事件は明るみになった。そして、愛人は逮捕され、息子は奥さんの方の実家に引き取られてめでたしめでたし。
 でも、この話には続きがあったんだよ。続きと言うか、裏側だね。その愛人は事件の何年か前にも別の男性と不倫関係にあった」
「その話、初めて聞く。どんなの? どんなの?」
「うん。その時の不倫で家庭を壊された女の子がいた。両親は離婚。でも、愛人は別の男、そう、さっきの話の旦那さんと付き合い初めて、初めはそれを隠していたんだけど、別れる前にとお金を巻き上げるだけ巻き上げて、働きづめで疲労困憊した所で新しい男が出来た事を暴露。当然、愛人の足にすがり付いたんだけど、残飯を食べさせたり、会社に嫌がらせ電話をかけたり、愛人の親の権力に物を言わせてやり手の弁護士を雇って更にお金を巻き上げたり、色々とやった。そして、不倫してたお父さんはとうとう鬱になって引きこもってしまったんだって。
 でも、そのお父さんの娘と新しい浮気相手の息子は同じ学校の同級生だった。そして、同じクラスになったある年、そのクラスにウザ子さんもいた。ウザ子さんは心の読めない人で、大人の前では良い子を演じていて、同級生の前でも無邪気なふりをしていたけど、良い子ぶっていてウザいって言われて影では嫌われて浮いていた。新しい浮気相手の息子も同じように浮いていた。女の子はそこを利用したんだよ。
 男の子のお母さんが自殺未遂騒動を起こした時にチャンスが訪れた。ウザ子さんは男の子に無意識の内に興味を抱いていた。男の子は自分の進む道を選ぶためにお母さんの所にいく事を決めた。女の子はその事を悟った。そこで、友達を煽ってウザ子さんに男の子の家庭の噂を聞かせて、男の子に協力させた。その後も友達を使って、ウザ子さんから男の子の事情を聞くように見せかけて不倫相手の情報を仕入れた。そして、毒殺未遂を突き止め、ウザ子さんにプリントを届けさせ、倒れる現場に立ち会わせた」
「へぇ、腹黒いね、その子」
「もうちょっと続きがあるんだけど、ウザ子さんはその騒動のせいで土地に居られなくなり、両親も離婚して引っ越し。女の子も逃げるように引っ越したんだって。で、ウザ子さんはこの町にいるらしいよ」
「アレか、酒鬼薔薇聖斗が自分の住んでる町に住んでいるって都市伝説が日本各地にあるみたいなアレだ」
「きゃはは、そうそう、それそれ」

「花咲さん」
 学校の帰り道、呼び止められて振り返ると、とても可愛らしい女の子がいた。白いブラウスの上に茶色いベスト、黒いプリーツスカート、この地域の中学の制服だ。肩の下で揺れていた長い髪は今は顎と唇の間の高さのボブだが、笑うと半月型になる大きな目は変わらず愛らしい。いや、頬や唇が少し女らしくふっくらしただろうか。しかし、スカートから伸びてペダルに乗せられた脚は女性的な曲線を描きながらも細めだ。
「久し振りだね」
 女の子が笑顔を見せながら言う。
「あ、久し振り」
 私は答えた。
「何か変わったね、良い意味で」
「意味もなく太っただけだよ。よく私だって分かったね、体重は二倍になったし、二年以上振りなのに」
「花咲さんを忘れる訳ないじゃん」
「ミサトちゃんから聞いたよ。私が転校してしばらくしてからこっちに越して来たって」
「中学に上がったら同じ学校だと思ったのに、花咲さん受験してたんだね。その制服着てるの見かけて、どうりで学校で見ない訳だよ」
「親と祖父母が受験しろってうるさかったから」
「小五から受験して間に合ったんだ。やるじゃん」
「他にやる事なかったし」
「でも本当に良い顔してる」
「元々ブスだし、パンパンに膨らんでるし、どこが?」
「愛想笑いしなくなった。可愛い子ぶらなくなった。冷めた顔してる」
「どこが良い顔?」
「その無表情。自然で居られてる。意識して表情作ってない。野本の前でしかしてなかった顔だよ」
「野本君…か」
 少し懐かしくなった。脳裏に浮かぶのは小四の三学期の、昇降口でつまらなさそうにグラウンドを眺めているケシだ。
「花咲さんには謝らなきゃいけない事があるんだ」
「何を謝るの?」
「あのさ、中学入ってから聞いたんだけど、『ウザ子さんの噂』って奴。都市伝説みたいになってるでしょ?」
 同級生が休み時間に談笑していた。私とケシの事だと思った。私の事だとは周囲は分かっていないだろう。こちらに来てからは『ウサ子』とも『ウザ子』とも呼ばれていない。ただ『花咲』だ。そして、噂の中で愛人の昔の男の娘、その彼女が目の前にいる。
「全部話すわ、あんたには迷惑かけたし。大谷、これは野本君のお父さん愛人ね。その大谷の昔の不倫相手、それって私の父親なんだ。噂の中でウザ子を操って大谷の野本毒殺を明るみにさせた娘ってのは私。まぁ、あんたが噂を聞いてればそれはすぐ分かっただろうからね。
 父親が大谷と付き合い始めたのは私が小学校に上がってすぐ。父は大谷の父親が役員をしていた会社に勤めていた。大谷もその会社で働いていた。大谷は、後で分かった事だけど、学生時代から他の女の彼氏に手を出すような奴だった。因みに父は大谷から見たらカルタのお手つきみたいなもんで、前の男が奥さんの方に戻ろうとしていたから取り敢えず次を見付けるまでの繋ぎみたいに考えていた。でも、嫌がらせの末にその男に逃げられた挙げ句、奥さんには告訴されかけて、親の金と権力で事態を収集させるのに手こずった、そして次を見付けるまでもなく父とダラダラ関係は続いた。そして、私が小二の冬、野本の父親に会った」
 彼女は一呼吸置いて、苦虫を噛み潰すような顔を見せた。そして、私の方に向き直り、また目を反らした。
「私の父はあんたや野本のお父さんみたいに出世コースじゃなかった。一般的な大学卒業、特別仕事が出来る訳でもなく平社員、家は借家、顔は娘の私が言うのもアレだけどまぁまぁ、でも極端に整ってる訳でもない。ただの冴えない父親だった。そこに現れた年収は父の倍、有名私大卒、家持ち、仕事は出来て役職付き、ルックスは劣るけど他は全部父よりスペック上、そんな表面的な物に弱い大谷は野本父に簡単に飛び付いた。役員である大谷父にプレゼンする野本父は素敵に映ったんだろうね、大谷は何でも父親に依存していたから、別れた男とのいざこざまで。
 で、大谷から父や私達家族への嫌がらせが始まった。まずはゴミを宅配便で送り付けて来たね。残飯とか生ゴミ系が多かったね。それから父には残飯食べさせたり、それに洗剤や殺虫剤を混ぜたり。父の具合はたちまち悪くなり、後は野本と一緒さ。救急車で運ばれて、事件は発覚。大谷に逮捕状は出たみたいだけど、どう言う手を使ったのか、金と権力をフル活用したんだろうけど、大谷の父親はそれを揉み消した。事件はなかった事になった」
 愛らしいピンク色の唇を歪ませる。唇にはたぶん、色付きのリップクリームが塗られている。
「そう、結局両親は離婚、でも関係は続いた。父は会社を首になった。母は元々働いていたし、生活にはあまり困らなかった。殺虫剤の後遺症はなかったけど、父は鬱になり、近所で暮らしながらバイトと通院の日々、母は文句を言いつつも父の世話を焼いていて、離婚こそ長く続かなかった。ちょうど大谷が逮捕された直後、両親は再婚。小四の三学期にね。で、しばらくは向こうで三人で暮らしていたけど、大谷と両親の間で示談が着いたから、父の療養も兼ねてこっちに越して来た。小五の夏休みだったかな」
「大谷と示談って?」
「ああ、ちょっと省き過ぎたわ。大谷は逮捕後、『愛人が邪魔な息子を殺害未遂、二年前にも同様の事件を起こしていた! 91、58、88の何もかも恵まれたお嬢様の闇に迫る…!?』とかワイドショーて騒がれてね。そのせいで家の家族までほじくり返されてね。せっかきこもみ消したのに、大谷の親父さんも可哀想に、世間様に晒されて結局は会社を去る形になった。でも、家の母とこっちの祖父母は抜かりなかった。医師の診断書やら私にはよく分からん色んな証拠をかき集め、突き付けて、大谷の父親から、少なくとも家の父が貢いだ分と父の医療費を払わせて、月々の通院代を補償させたんだよ。で、父の療養にも生まれ育った町の方が良いだろうとなって、母もこっちに再就職できたから、さっさと越したって訳。
 花咲さんは知らなかったろうね。あんたはもう転校が決まってたからわざわざ話を横流しする必要なかったし、あんたのお母さんも近所のおばさん達から同じ理由で井戸端会議からハブられてたしね。自分の事が精一杯で気付いてなかったんだろうけど。それに、私からミサトに『花咲さんはもう仲間に入れる必要ないよ』って言ったしね」
「じゃ、あんたがミサトちゃんを使って私を操って大谷を云々って噂はあながち嘘じゃないんだ?」
「操るなんて人聞きの悪い事を、はい、そうです。まさかこんなに上手くいくとは、むしろ期待以上でした」
 少しばかりの悪意を滲ませた笑顔を向ける。彼女の顔には大人の部分と子供の部分が入り雑じっている。
「まあ、元々あんたを利用するつもりでミサトにも声をかけてあげなって言ってた訳じゃないしね。あんたがホントは冷めてるのに良い子ぶって大人の機嫌取るのが気に入らないと思ってる子はいたし。女子のほとんどは、まぁ知ってるとは思うけどウザがられてたけど、私はそう言うの嫌だったし。とは言っても、あんたの群れたがらない態度見て、私も余計なお世話だと思ったけどね。
 それから『ウサ子』って渾名、ウサギのマスコット付けてるミミカだからウサ耳のウサ子とか、それも嫌がってるのも分かった。最初に呼び始めた私が言うのもアレだけど。だから、敢えて他の子がウザ子って呼ぶのも別に止めなかったしね。あんた、ミミカとかウサ子って呼ばれるよりウザ子の方が気に入ってたろ? だからそれをカモフラするためにウサ子って呼び続けたけど。呼ばれるのが嫌な順に、ミミカ、ウサ子、ウザ子、だろ?」
「ウザ子はむしろ気に入ってたよ」
 別に言う必要もない。ウサ子だって、ケシがそう呼ぶようになったと思ってからは嫌じゃなくなった。好きにもなってないけど。
「そんな訳で、色々とあったけど、結果的にはあんたを動かして、大谷に復讐しちゃったね。本当にごめんなさい。謝って済む問題じゃないけど」
 もう一つ気になる事がある。
「ミサトちゃんは、どうなったの?」
「あの子は割りとさっぱりしてる。世渡りの上手い子だからね。あの『ウザ子さんの噂』を広げたのもあの子だしね。塾友からラインに乗って、少しずつ拡散したんだろうね。私に利用されって思いから塾友に愚痴って…そして月日が立ちこの町まで広がったんだね。もう止められないよ」
「止めなくて良い。止める理由なんてない。口裂け女や花子さんみたいな噂話の一つにしかならないよ」
「それは分かってる。あんたも気にしてないみたいだね。それを確認できて良かったよ」
 何だ、それを確認したかっただけか。ユキちゃんはあの愛らしい笑顔を浮かべ、安心した表情になった。

 ___

 広い家、古いのに綺麗で、祖父母と母と私の暮らす家。前の家から持って来た学習机に座り、携帯電話を取り出す。引っ越してから二年以上、ケシにはずっと連絡していない。でも、メールを打とうと思う。何て打とう。

 完
>>[12]
 読みました。ありがとう。
 かなり私の設定と同じところがあって驚いた〜。
 うさ子の感じ方とか、行動とか。
 ケシのお母さんにケシの入院の事を話したけど、ケシには言わないってところはそのまんまです。
 ケシ目線だからそこは書かなかったの。わーい(嬉しい顔)

 ミミカよりウザ子って呼び方のほうが好きとかもまんまです。

 大きく違ったのはウサ子の両親は離婚しないって設定だったの。
 で、多分離婚はしないんじゃないかなぁってウサ子もうすうす思ってたってとこ。
 嫌がらせと意地で離婚しないでずるずるいくんじゃないかなぁって。
 で、ウサ子は居心地が悪い…。わーい(嬉しい顔)
 きっぱり離婚するケシの母親がうらやましい。

 ま、子供の観察眼の限界という事で。わーい(嬉しい顔)
>>[13]

(((*´∀`)俺も内心、ウサ子の母親は離婚しないだろうなって思ってましたよ。でも、ウサ子と武は、そもそも何らかの距離がないと普通にくっつきそうなので、『ウサ子から恋愛感情を排除』、『どちらかが転校』と言う暴挙に出ました。(ウザ子遂に都市伝説デビュー、黒幕はおユキ、なども充分暴挙、と言うか小学生のやる事じゃないし)
>>[14]
『ウサ子から恋愛感情を排除』『どちらかが転校』はなんとかやりたいと思ってました。わーい(嬉しい顔)
 優秀なウサ子は私立のお嬢様進学校へという手を考えてました。
 ウサ子は恋愛感情を嫌悪する女の子でしょう。

 黒幕はおユキ、充分に小学生のやる事だって思います。
 クラス中でだれかを標的にいじめる。は、必ず黒幕が居るそうです。ボスじゃなくて。
 実はちょっと裏ネタをしこんであるんです。
 書けたらスピンオフで。
 でも、主婦は年末年始は忙しいので来春まで新作はお休みです。

 その前になんとか旧作をUPしたい…。あせあせ(飛び散る汗)
>>[15]

(((*´∀`)ホントはレイラさんに前半の話をメッセするまでは黒幕はおユキちゃんかミサトちゃんか迷ってたんですよ♪ どちらにしろ『大谷の被害者の娘で、ウザ子を利用した復讐を思い付く』って設定だったんですけど。『クラスの中心人物で、他の子を扇動するおユキ』or『取り巻きであり、ウザ子と接点を持とうとするミサト』
 ミサトちゃんが黒幕だったら、全てをユキちゃんが扇動した事にしてクラスのアイドルから引きずり下ろす、と言うエグい話になっていたでしょう。それをおユキから聞いてウザ子は『ふーん』って。
 では、春を楽しみにしてます♪

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