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アナタが作る物語コミュの【恋愛】ラヴレター(カサブランカ)

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 沢田研二さん(ジュリー)のコンサートで、頭のすみでこんな話を考えていました。優しい、生きていくのが少し楽しみになる、そんな話になっているでしょうか。

 少し長いです。9500文字ぐらい。初出 09/08/03
 イラストはひろもるさんです。原画はカラーでした。

                      クローバー

「離婚して欲しいの」

 朝食のあと、お茶を飲んでいる時に、唐突に妻が言った。
 冷静な自分を感じた。予想はしていた。
 いつからだろう。彼女がぼくを見なくなっていた。いつも不機嫌そうだった。
 でも背中が冷えた。

 ぼくは湯飲みの中のお茶を見ながら、つぶやくように答えた。

「ごめん…」

 女のきみに言わせてしまった。ぼくから言うべきだった。
 つらいことを言わせたね。だから、ごめん…。

 そう口に出して言えば、ぼくはきみを引き止められるのかもしれない。
 でも、最初からあきらめているぼくに、それを言う資格は無いだろう。
 それに今さら。
 言わなければいけないことを、今までぼくはたくさん言わないで来た。

「どっちが出て行く? ぼく? ぼくでもいいよ」

 ぼくはこんなことしか言えない。
 彼女も湯飲みを見つめながら答える。

「いえ。私が出て行きます」

 それから、きりっとした目で前を見た。ぼくの背中の壁を、ぼくを通り越して見ている。

 ひとり息子が去年就職をした。家を出て一人暮らしを始めた。
 それからぼくらは何を話しただろう。
 いやそれよりもはるかに前から、ぼくは彼女と何を話しただろう。

「…もう、用意はできているの。
 今日、車が荷物を取りに来るの。
 …ごめんなさい」

 家族の思い出が残るこの家に、ぼくをひとりで残して行くことが、彼女のささやかなぼくへの復讐なのだろう。
 だから、…ごめんなさい。そう聞こえた。

 女はきっぱりと過去を切り捨てられるなんてうそだ。
 切り捨てるために、これだけの儀式が必要なんだろう。

「そうなんだ…」

「今日は一応の物を運ぶだけだけれど。
 それに…細かなことはあとで話しましょう」

 そう言ってまた下を向いた。ぼくはそれを目のすみで見ていた。

 ぼくはなぜ怒らないのだろう。なぜ泣かないのだろう。笑わないのだろう。
 自分の妻がこれだけの覚悟と準備をしていたというのに。
 なぜぼくは黙ってお茶を飲んでいるのだろう。

 TVの時間を見て、立ち上がり寝室に戻った。
 ふたりの布団を敷くのは彼女の仕事だ。たたむのはぼくだ。
 いつのまにかそれがふたりのきまりになっていた。
 そうなって何年たつだろう。あるいは何十年…。

 ふたりのふとんを押入れに入れ、枕元にたたまれていた彼女のパジャマを彼女のふとんの上に乗せる。
 背広に着替え、ぼくのパジャマをたたみ、ぼくのふとんの上に乗せる。
 それは機械的な作業だ。

 そして気がついた。寝室のすみに積み上げられたダンボールの箱。6個。いや7個はあるか。
 何日か前から少しずつ増えていた。そんな記憶がある。
 彼女のたんすを開けるとカラだった。中の服はあのダンボール箱の中に入れられているのだろう。
 何日も前から…。少しずつ…。

 それなのにぼくはいつものように家を出て、会社に向かった。



 終業のチャイムが鳴り、同僚がやってきた。忙しい時期がやっと終わったところだ。
 給料も出たばかりだ。

「1杯どう?
 みんな来れそうだからさ」

「あ、いや。きょうは予定があるんだ」

 家に帰ってもだれも居ない。しかし、だれかと飲む気にもなれなかった。
 行く当ての無い者の足取りで、ぼくは会社を出た。
 早めに点く街灯のあかり。みるみる暗くなっていく街角。朝とは違う、どこか高揚した雑踏。
 そんな不安定な時間がぼくは嫌いじゃない。

 けれど駅に近づいて、ぼくは思わず立ち止まる。わかっている。知っている。
 駅は関門だ。深層心理で人はそう思っている。
 テストに受からないと、その先には行けない。資格の無い者にはその門は開かれない。
 だから、駅前で人は人を殺す。

 この先へは自分は行けない。行けない自分を殺す代わりに、軽やかに越えて行く見知らぬ人間を殺す。
 何人殺しても血を吹くのは自分の心だけで、自分を殺すことはできない。
 なのに、しかし、逮捕されれば法律が自分を殺してくれる。だから、殺す。

 ぼくにもこの先に行く資格はあるのだろうか。
 振り返っても、もう一度生き直しても、ぼくは今と同じ位置に居るだろう。
 それなのに、今のぼくの手には何も無い。

 右手の人差し指を銃に変えて、目の前を行く見知らぬだれかにめがけ、架空の弾を撃ち込む。

「パン」

 本物の銃は乾いた音がするらしい。

「パン」

「パン」

「パン」

 何人撃ち殺しても、ぼくの心は血を吹かない。死に近づかない。架空の弾じゃだめだ。

 それに長く生き過ぎた。仕事を終えて疲れた顔をして、あるいはいきいきと充実した顔をして、駅前を行き過ぎる彼らにも現実の重荷はある。長く生きて、それをぼくは知ってしまった。

 ぼくが今日妻につきつけられたような。あるいはもっと過酷な重荷を彼らだって背負っている。
 そのことを知っているぼくには彼らを殺せない。

 ぼくは胸のポケットに手を入れて、サバイバルナイフの替わりに定期を出して、改札口を通り抜けた。


 家の駅で降りて、時間をつぶす。つぶす? ただ家に帰る時間を遅らせるだけだ。家じゃなくなった、ただのうつわに戻る時間を遅らせる。

 夕食をとり、バーへ。ひとりで飲む習慣はなかったが、飲み会に誘われた。その時に、頭のすみにアルコールの味がすりこまれた。それだけだ。


 カラン。

 すんだ音をたてて、グラスの中で溶けた氷が崩れ落ちた。

 バーボンをオンザロックで。バーテンにそう頼んだ。バーボンてそういう飲み方をする酒だろうか。ぼくは知らない。バーテンは無表情のまま作ってよこした。
 2・3口飲んだのは覚えているが。氷の音で意識が戻ってきた。

 何も考えていなかった気がする。ただ溶ける氷を見ていた。

 残りを流し込むように飲んで店を出た。

 バーボンのボトルを抱えて、通り過ぎる人生と、自分に背を向ける女とを、なげく男の歌があった。だれの歌だったろう。ぼくはそんな男にあこがれる。

 携帯がなった。着信メールの音。ひとり息子の高志からだった。

『今日は結婚記念日だろ。たまには母さんに花束でも買って帰りなよ』

 家を離れ、一人暮らしを始めてからのほうが、まめに連絡をよこすようになった。しかし、メールの内容には笑った。これは神の企んだ喜劇なのだろうか?

 目の前に花屋があった。で、なければ入らなかった。

「あのう、花をください」

 奥から出てきた店員が、けげんな顔をしながらも

「どんな花がよろしいでしょう。どなたかに差し上げるんですか?」と聞いた。

 まだ若い。アルバイトだろうか。慣れない笑顔に切り替えた。

 花屋に来て『花をくれ』だ。けげんな顔をされても当然かもしれない。
 しかし、どなたに…。どう説明したらいいのだろう。

「あぁ、そのう、花束にして…」

「はい」

「あ、そこの白いのを」

「バラですね。じゃあかすみ草をおつけしましょうね。何本くらい?」

 バラ? そうかこの花は確かにバラだ。カスミソウってなんだ?

「なん本ありますか?」

「20本くらいかしらね…。ええ、20本です」

「じゃ全部。それとこっちのも…」

「ゆりですね。カサブランカですよ」

「カサブランカ?
 映画じゃなかったかな? カサブランカ」

「さあ…。そういう名前のゆりなんです」

 昔観た映画だ。まだ若い店員は知らないのかもしれない。

「でもお客さん。
 白と白じゃさみしくないですか?」

「あぁ、そのう…白い花が好きな人、…だったんです」

 結婚する前に、そんなことを言っていたような気がする。

 店員は笑顔を消して、うなずいた。
 つい、過去形になってしまった。誤解されたのだろう。
 でも、居なくなったことに変わりはないな。

「カサブランカを…何本ぐらい?」

「そこにあるだけ」

 黙って驚いたようにぼくを見る。ぼくはあわてて財布を出した。
 花ってどのくらいの値段なのだろう。近くの花についている値札を見た。
 1本4・500円の値段がついていた。
 財布の中の1万円札3枚を全部出して渡した。足りるだろうか。

「えぇ、あの、これで…買えるだけ」

 何種類かの白い花を選んで足して、一束にまとめてもらった。

「足しておきますね。おまけしておきます」

 店員は口の中で言いながら、緑の葉を何枚か加えて形を作った。
 思ったよりも大きな花束になった。両手で抱えるようにして歩いた。

 大き過ぎる花束を抱えてバスにもタクシーにも乗る気にはならなかった。
 歩いても15分か20分だ。歩こう。
 手からすべり落ちていきそうな重い花束と会社用のかばんをもてあましながら、歩いた。
 徐々に繁華街をはずれ、暗くなり、人通りの少なくなっていく道を、大きな花束を抱えてぼくは歩いていった。
 1杯のアルコールがぼくを酔っ払いにしていた。
 カサブランカの強く甘い匂いが、風にのって夜の中に広がっていった。

 カサブランカ。やはり映画だ。キザなセリフが散りばめられた、キザな映画だった。

『夕べはどこに居たの?』

『そんな昔のことは覚えてはいないね』

『今夜、会ってくれる?』

『そんなに先のことはわからないな』

 ハンフリー・ボガードとイングリッド・バーグマンだったな。結婚前の彼女と観た。

 自宅が見えてきて、玄関燈がついていることに気がついた。
 出る時に彼女がつけて行ったのだろう。

 鍵をあけ中に入った。彼女のサンダルが残っていた。あとで取りにくるのだろうか。それとも捨てて行ったのだろうか。
 上がり口に花束とかばんを置き鍵をかけた。
 いつもは彼女に声をかけ、奥から出てきて…。あとは花束もかばんも鍵も彼女の仕事だった。

 台所の食器洗いに水をはり花束を入れた。ながしがいっぱいになった。
 馬鹿なことをしている、とあらためて思う。どうするかは、あした考えよう。

 寝室に行き、手探りで壁のスイッチを入れた。明るくなり、反射的に消した。
 一瞬の明るさの中で、ぼくはぼくのふとんが敷かれているのを見た。そして、その横にもふとんがあって、だれかが寝ていた。
 くらやみの中で考えた。考えなくてもいい。彼女しかいない。行かなかったのか?

 そっと這って自分のふとんに近寄った。枕もとのパジャマに、音がしないように着替えた。
 くらやみに目が慣れてきて、背広をハンガーに、楽にかけることができた。
 振り返ったがふとんの中の人間の顔は見えなかった。
 そっと自分のふとんに入り寝息をうかがった。寝ているのか、寝たふりをしているのか。彼女なのか。わからなかった。



 目覚ましの最初の音で反射的に手を伸ばし止めた。すぐに隣を見た。
 からになったふとんと枕元にたたまれた彼女のパジャマが朝の光の中にあった。

 寝られるわけはない。ぼくでなくてもそう思うだろう。でもぼくは夕べすぐに寝たようだ。覚えていない。
 アルコールと花束を抱えて歩いたせいだ。たぶんそうだ。きっと。

『ひどいでしょう? なんにも言わないでさっさと寝るのよ。
 朝、わたしがあんなことを言ったのに。
 わたしのことなんてどうでもいいのよ。関心が無いんだわ』

 だれかに、そんなことを話す彼女の声が聞こえた気がした。口に出して何回か同じようなことを言われたことがある。ただの連想だ。
 でも彼女がそんな話をする相手には心当たりが無い。
 彼女の両親はもういない。ほかにうちとけた相手はいるのだろうか。ぼくは知らなかった。知らないことに初めて気がついた。

 洗面所に行く途中に台所の前を通った。ながしに花束は無かった。
 食事の間、彼女もぼくもなにも言わなかった。いつもと同じだ。
 いつものように、時計代わりのTVから、軽薄な司会者の声が流れて行く。

 会社に行くしたくをする前に、家の中をうろうろと探した。それは高志の部屋だった6畳間にあった。ほどいてかさが増えて、バケツひとつでは足りなくなっていた。
 差し込む光の中に、バケツがふたつ並んで置かれ、両方に白い花があふれるほどに入れられていた。
 そうすると、夢ではなかったのだ。
 夕べぼくが大きすぎる花束を抱えて歩いたことは。そしてきのうの朝、彼女が出て行くと言ったことは。

「いってきます」

「いってらっしゃい」

 ドアに手をかけ、反射的に声をかけた。台所に居る彼女の声が答えた。彼女もまた反射的に、なのだろう。
 長い習慣がぼくらには染みついている。
 バス停に向かい振り返った。ぼくの家が見えた。あんな形、あんな色だったろうか。
 あれはぼくの家なのだろうか。


 翌日から寝室のダンボール箱が少ずつ姿を消して行った。
 ぼくはなにも聞かず、彼女もなにも言わない。ただ日が過ぎて行く。



「今度の日曜日にでかけるわ。いい?」

 やはり朝食のあと彼女が言った。出て行くと言った日から、1週間近くたっていた。

「ああ、ぼくは別に…。予定も無いし」

「……。
 あなたもどう? ひまなら」

 少し黙ったあとで彼女が聞いた。
 めずらしいな。いつからだろう。彼女がぼくを誘わなくなったのは。

「……。
 ああ。つきあってもいいよ」

 ぼくも少し考えて答えた。

「あら、めずらしい。いつも断るのに」

 そんないやみを言うのなら、誘わなければいいのに。でも、口には出さなかった。
 昔のことだからはっきりとは覚えてはいないが、ぼくはいつも断っていたような気がする。
 だからかな。だから彼女はぼくを誘わなくなった。


「ここで待ってて」

 見知らぬ駅の、小さな商店街の、古臭い喫茶店の前で彼女が言った。

「用事はすぐに済むから」

 誘っておきながらぼくを置いていくのか。不機嫌さが顔に出たはずだ。
 ぼくの返事を待たず、彼女はぼくを置いて、商店街の奥へと歩いて行った。
 彼女が見えなくなる前に、ぼくは彼女を追って歩き始めた。
 つかず離れず。しかし、彼女が振り返ったら、ぼくがつけていることはすぐに気づかれてしまうだろう。

 彼女には何度も通った道なのだろうか。ためらいもなく、まっすぐに進み、店の中に入って行った。
 表の立て看板にも、ガラスの壁にも何枚ものチラシが貼られている。よくある町の不動産屋だった。
 笑顔を浮かべた若い男が彼女の前に座り、ふたりでなにかを話し始めた。ぼくは不動産屋の店の前から離れた。

 家を出て、彼女はどうするつもりだったのだろう。身をよせるところなど無いはずだった。
 不動産屋と話す彼女を見て初めて思い至った。荷物を運び込む場所を、彼女は用意をしていたはずだ。
 この不動産屋で探したのかもしれない。


「あら?」

 彼女が指定した喫茶店の前で、中に入らずに立って待っているぼくを見て、彼女が不審な顔をする。

「あぁ、こんできてね。居づらくなって出てきた」

 そんな言い訳をするぼくに

「あらそう」

 こともなく答え、振り返り、歩き始めた。

「どこへ行くんだ」

「すぐ近くよ」

 答えになっていない。ぼくは黙って彼女の後ろをついて歩く。
 広い表通りから、1本奥に入り、車の音も聞こえなくなる。
 駅から10分か15分だろう。商店街ではなく、住宅街だ。

 3階建てのアパートの前で彼女が足を止めた。

「ここよ。
 2階の右から2部屋目。あそこに住むつもりだったの。
 さっきキャンセルしてきたわ」

 まぶしそうに目を細めて部屋の窓を見上げた。その横顔に違和感が持つ。
 視線をはずし、彼女の横で、ぼくもその部屋を見上げる。
 小さな部屋なのだろう。小さなベランダだった。
 そのベランダに立ち、洗濯物を干す彼女を想像してみた。
 まるで見知らぬ人のようだった。
 それは、さっき見た彼女の横顔と同じ違和感だった。
 いつのまにか彼女はぼくの知らない人になっていた。

「いいのか。キャンセルして」

「ふふっ。
 来月分までは支払い済みなのよ。返してくれない決まりなんですって。
 その間は自由に使っていいって言われたわ。
 家を出ようと思ったら、まだいつでも出られるのよ」

 そんな夫を脅すようなことを、口にする女だっただろうか。

「なんであの日、出て行かなかったんだ?」

 やっと口に出し聞くことができた。

「なんで花束を買ってきたの? あの日」

 また質問の答えになっていない。

「高志からなにか連絡が入ったんでしょう?
 結婚記念日だから母さんに花束でも買って帰れって」

「……あ、ああ」

「そうよね。そんなことだと思ったわ。

 あの日あなたが出た後、高志から私にメールが入ったの。結婚記念日おめでとうって。
 少し前に私がそんな話をしていたのを覚えていたのね。
 ありがとうって返して。出るのはまた今度にしようって思ったの。
 あとで高志が知ったらどう思うかなぁって思ったから。
 おめでとうって言って、ありがとうって返ってきて。その日に私が出たなんて」

「そうか」

「そう。
 それだけ」

「……」
 そうか、また、今度か…。

「で、夜ふとんに入ったらまたメールが来たの。
 父さん、帰ったか? って。
 まだだって返したら、しょうがないなあ。忘れてるんだなぁって。
 覚えていたことなんて無いわよって返した」

 くすくす笑いながら彼女が話す。笑うようなことじゃないとぼくは思う。

「きみも忘れていたんだろう。出て行こうとしていたんだから」

「違うわよ。結婚記念日だから、よ。だから、あの日に出て行こうとしたの」

 なるほど。それも儀式の一部だったのか。そして、ぼくは忘れていた。気がつかなかった。
 けれども、なのに、息子からメールが来て中止にしたのか?
 何日も前から用意をしていたのに、それだけで?

「行きましょ」

 そう言ってぼくの腕を取って彼女が歩き始めた。腕を組んで歩くのは何年ぶりだろう。
 高志が生まれる前じゃないだろうか?

「それからきっとあなたに連絡したんでしょうね。高志。

 私が居ないって思っていたのに。それにあんなにたくさん買ってくるなんて。
 本当にあなたらしいわ」

 まだ、くすくす笑っている。
 それよりもぼくの腕にふれる彼女の手のほうが気になって、ぼくは自然に歩けないような感じがした。
 妻に腕をとられて、初めてデートをする中学生のようにギクシャクしてしまう50歳まぎわの男というのはなんなのだろう。

 さっき、自分の家になるはずだったアパートのベランダを見上げていた彼女は見知らぬ人だった。

 ぼくが恋愛をし結婚をした女性は、20代のはじける若さともろさがあった。
 ぼくを見て幸せそうに笑っていた。はりのある肌と光る瞳を持っていた。

 あれから20年以上たっている。いつのまにか時が彼女から若さを奪っていた。
 染めていてもその髪からはつやが消えていた。しわもしみもその肌に浮かんでいる。
 ひとまわり小さくなったようだ。歳をとった。
 けれども、その代わり、不思議な自信が彼女のまわりを取り巻いている。
 多分ぼくがいなくても、彼女は生きていける。ぼく抜きで彼女は生きてきた。

 ぼくたちは一緒に生きてきたわけじゃなかった。

 高志というひとりの人間が、生まれ成長し巣立っていった。
 その同じ時間、同じように彼女の中で、ぼくとは別の人生があり彼女もまた育っていったのだ。
 今、ぼくの横にいるのはぼくの知らない女だ。

 妻に腕をとられ、ギクシャクと歩きながら、ぼくはそんなことを考えていた。

「ねえ、きみ?」

「?」

「今度というのは、つまり出て行くのはいつごろになりそうだ?」

 言ってすぐに馬鹿なことを聞いていると思った。

「さあ、そんなに先のことはわからないわ」

 笑いを消し、まじめな顔をして彼女が答える。
 ふいうちのようで思わず笑ってしまった。笑ったぼくを彼女がとがめるように見た。

「ああ、すまない。思い出したんだ。カサブランカ。映画だよ。
 …昔、観に行ったね。ふたりで」

「あら、行かなかったわよ。私じゃないんじゃない?」

「……」

「ふふっ。うそよ。行ったわよ。私と」

 いったん飲み込んだ言葉を口にした。

「やめてくれよ。心臓が止まるかと思った」

 以前なら言わなかったろう。いや、むしろ弱みを見せまいと、彼女に言ったかもしれない。

『ふざけるな! 人をからかってなにが面白い』きっとそうどなっただろう。

 彼女もそう思ったのだろう。不思議そうにぼくを見た。
 彼女もぼくと同じように思っているのかもしれない。『ここにいるのは知らない男だ』と。
 
「夕べはどこに居たの? イングリッド・バーグマンがそう聞くだろう?」

「ええ。そうだったわ。
 そんな昔のことは覚えてはいないね。ハンフリー・ボガードがそう答えたわ」

「今夜、会ってくれる?」

「そんなに先のことはわからないな」

「さっきもきみはそう答えた。
 そんなに先のことはわからない、って」

「あら。ええそうね。
 でもそれじゃ、逆だわ。男と女が」

「だから、笑ったんだ」

「そう」

 ぼくの体から力が抜けていく。普通に歩けるようになった。でも胸の動悸はとまらない。

 ここに居るのは彼女の知らない男だ。
 そしてぼくの横に居るのはぼくの知らない女だ。

 しかし、ぼくたちには同じ時間と同じ思い出がある。違う人生を生きてきたとしても。
 これから、探しあうのかもしれない。隣にいる人間がどんな人なのか。
 どんなふうに時を生きてきたのか。

「もっと先になって言おうと思っていたが…、今言ってもいいかな。
 何年か先だけれど、ぼくが定年になって時間ができたら、一緒に旅行に行かないか?」

「どこへ?」

 不機嫌になって彼女が答えた。なぜだ。

「どこでもいい。のんびりとできるところへ」

「ただの小間使いならいやよ。自分のことは自分でして。それなら行くわ」

 そういうことか。強くなった。以前なら不機嫌になったまま、黙っただろう。

「ああ。自分のことは自分でするさ」

「それから、定年になったらというのもいや。お休みをとれば今からだって行けるでしょう?」

「ああ。わかった。わかったよ」

 振り返ると彼女の新居になるはずだったアパートがかろうじて見えた。
 右手は彼女にとられていたから、左手を銃にしてねらいを定めた。
 まだ早いかもしれない。しかし。

「パン」

「なにをしているの?」

「いや。なにも」
 


 ぼくの買ってきた花の一部を、彼女は押し花にしていた。
 彼女はそれを色紙にはり、額に入れて、玄関と洗面所の壁に飾った。
 ぼくはいやでも一日に何回か見ることになる。手のこんだいやがらせだなとぼくは思う。

 でももしかしたら。
 もしかしたら、ぼくが買ってきた花束がそうであったように、あの押し花の色紙は、彼女からぼくへのラヴレターなのかもしれない。

 …終わり

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【作品一覧【単発/完結】】
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