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実体の復活コミュの虚体の創造

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「<実体>なんて無いんだよ」といいながら、<虚体>を創造してみせもしないような、思想的卑劣漢は、実にみにくくて許せないので、このトピック立てて参加させてもらいます。
〈実体〉の問題は、僕にとっても最重要な思想的課題にして哲学的責任でもありますので。
ただ、管理人とは旧知の仲で色々この問題について話し合ってきましたし基本的価値観もほぼ重なっているとはいうものの、問題の立て方や、スタンスの点で大きく異なっているところもあります。
この点に十分留意した上で、僕の今後の発言を受け取っていただけたらと思います。
管理人については、僕が彼女のプロフィール紹介にも書いた通り、「師」にして「同志」でありますが、しかし相互に緊張をはらんだ「論敵」でもあるという側面もあります。基本的には僕は彼女を補佐し支持するものはありますが、完全に同調しているわけではありません。
彼女は彼女、僕は僕、それぞれ互いに決して譲れぬものを抱いている別個独立の「思想家」なのですから。
では、また。続きはまたこんど。

コメント(31)

666さん(名前が長いのでこれで失礼)、梅崎ともうします。今後、どのような展開になるのか、楽しみにしております。
NoVALIS666を省略して666だけにするのはやめてください。申し訳ないけど、この称号にはそれなりに重要な意味を込めているので。僕は単なる666に過ぎないものと自分をキッパリ区別してます。また、このハンドルネーム及び魔法名で呼ぶのがおいやなら、昌宏さんにしておいてくれた方がいいです。ここは一応、妻のコミュニティなので、それでも結構。
さて、今日の日本の思想的閉塞において、僕は二重の歪んだみにくい形而上学の支配が機能しているのだと考えています。それはみにくい真理とみにくい倫理の支配であり、それがこの国の実にみにくい文化のおぞましさを作り上げ、とりわけ何より若い人たちを、その生命の優美を押し潰し、そしてその人格の尊厳を剥奪しているのだと考えています。

人格の尊厳と生命の優美、と僕は言いました。これはイマヌエル・カントの物言いです。そして、このコミュニティ〈実体の復活〉において、まさに〈実体〉の名で呼ばれつつ、その復活を望まれているのは、〈現象〉の背後の実体、すなわちラテン語源のsubstance(下に立つもの)としての実体のことなのではなくて、それはまさにこのカント的意味における〈人格〉及び〈生命〉の同義語であるようなそれが問題になっているのだということを確認したいと思います。
 前回の続きです。
 人格の尊厳と生命の優美と同義語であるような〈実体〉。僕はそれを敢えてここで〈虚体〉と呼びたいと思います。これは埴谷雄高の『死霊』にでてくる不可能概念です。より厳密に哲学的な用語法を用いていうなら、これは〈不可能体〉と呼ぶべきものでしょう。そして、僕はこの〈不可能体〉に並べてなお、〈可能体〉〈必然体〉〈偶然体〉と呼んでしかるべき隣接概念が識別されねばならない、ということをここに付言しておきます。
 これらは古くから、可能性・不可能性・必然性・偶然性の四つの「様相」の概念として知られてきたものを、それぞれいわば実体化することによって導出される概念です。
 可能体・不可能体・必然体・偶然体は、しかし形而上学的思念のなかに実体的に凝結されることによってのみ、見出されるような純粋に抽象的な概念です。僕はこれらを詩的に〈星〉と呼んでいます。〈星〉というのは、純粋な様相性それ自体を抽象的に実体化するものであり、その主眼点は何よりそうすることによって、これら通常の仕方では思考の俎上にすら上らないものをマークしておくことにあります。つまり〈星〉とは「目印」であり、「目星」をつけるという意味合いを含意した言い方です。
 〈星〉とは、味も素っ気も無い存在〔ぞんざい〕な呼び捨て方をすれば、それは〈観念〉と呼ばれるものがそれにあたるのかもしれません。しかし、むしろ〈観念〉は逆に〈星〉として再発見されねばならない、と思うことがしばしばあります。
 思考の闇夜は、光の消えた盲いた観念によっては照らされず、恐ろしく深い暗黒の中を手探りで進むほかにありません。だからこそ観念を〈星〉として、天に帰さねばならない。そして、その〈星〉の微かに青い星明かりを通して、深かった闇も透けて見えてくるようになるのです。
 〈星〉とは何よりも導くもの、座標をもたらすものです。
 僕は、形而上学はついに天の文学としての「天文学」に変わるべきものであるという思念を抱いています。
 しかし、そのときが来るのは、まだ遥かに遠い未来のことでしょう。残念ながら、僕はきっとそのときに間に合わず、闇の道の途上、死の影の谷間で、倒れて死んでゆくでしょう。まだ世界はその形而上の不思議の星空をくっきりと仰ぐことができるまでに澄んでおらず、それどころか、蒙々とたちこめる、みにくいものの淀んだ濃霧に覆われて濁っている。まだ、僕たちはこのみにくいものと果てしなく息苦しく戦い続けねばならないでしょう。みにくいもの、この澄んだ思考を阻むもの、思考を思考自身からさえぎるものと。
 〈星〉というのは〈欲しい〉に通ずるもの。欲するが故に、〈星〉はきらめく。欲望なきところに〈星〉はなく、そのきらめきも生じない。きらめきが生まれなければ、〈美〉もまたありえないでしょう。そして、きらめきは〈美〉に先立つものです。
 何故と言うに〈美〉は〈実体〉においてしか見出すことができないが故に。そして〈実体〉とは、みにくい闇に濁る世界に一条の〈光〉が射し込み、その麗しい輪郭=形相(エイドス)がくっきりと浮きのぼるときにこそ現れ出るものであるが故に。
 しかし、〈光〉はきらめきと似て非なるものです。きらめきは〈星〉に発するが、〈光〉は〈日〉に発するものです。
(ここにいう〈日〉はこれも形而上学的観念としてのそれをいっています。したがってこれは直ちに〈太陽〉を意味する言葉ではありません。むしろ太陽の占星記号の方にこそ関わりぶかい観念です。この記号は大きく丸い目の形をしています)
 〈星〉とは〈日〉を〈生〉ずるものです。
 そして、〈星〉のきらめきから〈日〉は生まれ、〈光〉という出来事もまた出来する。きらめきは〈光〉に先立つものです。そして〈光〉がかがやきはじめると、その背後に隠れて掻き消されてしまう。
 ちょっと他のことにかまけていて、間が空いてしまいました。
このため、上記の文章の流れに続けて論じていくことは難しいです。
 ただ、その間、この問題に取り組むことを別にサボっていたわけではありません。逆にそれと格闘しておりました。
 そこで、改めて開始します。
 が、やはり、上記のような文体や調子で書いていくのはかなり骨が折れるし、そういう時間も取れないので、手抜きのようで悪いですが、この問題そのものと僕が孤独に格闘してきた成果に他ならない論考とか考察とかをしばらくここにコピペ掲載していくことにしたいです。
【論考】「不可能性の問題1996年試論」復元版より抜粋
【転載元】http://novalis666.blogtribe.org/ など

◆不可能性の問題1996試論◆

◆§1. 有難迷惑な存在論と出来損ないの倫理学のみにくい教え

 可能性・不可能性・必然性・偶然性の四つ組の「様相」の問題と、一人称・二人称・三人称・非人称の「人称代名詞=主語」の問題と、自己・他者・非他者・別人の「人格」の問題と、存在・実体・偶有・出来事の「帰属」の問題は、底の方で深くつながっている。

 しかし、その相互連関を解明するのを妨害する二つの実にみにくい形而上学的思考が存在する。一つは「存在論」であり、私はこれを「有難迷惑論」と命名する。もう一つは「倫理学」であり、私はこれを「出来損ない論」と命名する。

 「有難迷惑論」は、「存在/無」の述語的二値論理に呪縛されており、「出来損ない論」は「自己/他者」の主語的二値論理に呪縛されている。それがもたらす思想的弊害は非常に大きいと言わなければならない。とくに「主体の主体性の確立」という私たちの生存にかかわるとても重要な問題が破壊され損傷されてしまうのである。

 「真」を振りかざす「存在論」は、主体の主体性を「自己同一性」と混同し、それを結局は「存在困難性(有難性)」という「混迷と矛盾(迷惑性)」のうちに見失ってしまう。これが有難迷惑的ということである(存在困難昏迷性)。この例として、わたしは特に日本型ハイデガー主義を糾弾する。

 「善」を振りかざす「倫理学」は、主体の主体性を「自己関係性」と混同し、それを結局は「自己出来損傷性」(自虐的感傷性)という「自縄自縛」(自己繋縛)のうちに閉塞させてしまう。これが出来損ない的ということである(不出来自壊性)。この例として、わたしは特に日本型レヴィナス主義を糾弾する。

 ここに二つのタイプの不可能性が捏造されていることに注意を喚起したい。「存在困難性」と「自己出来損傷性」がそれである。これはいずれにせよ、感傷主義でありペシミズムである。
 このような不可能性をわたしはフランツ・カフカに敬意を表しつつその名に因んで「可不可性」或いは「過負荷性」と呼びたい。それは、「不可なる可し」という「過負荷」な抑圧によって、主体の主体性の確立を結局陰険に妨害するだけの制限主義的な態度である。ここに「可不可性」或いは「過負荷性」といのは、要するに「無能性」のことである。

 「存在論」にせよ「倫理学」にせよ、主体の主体性を無能性の烙印を押された去勢されたものにしかしない。いずれにしても主体は「空しいもの」「虚ろなもの」にされてしまうだけである。
 するとそこに常につけこむのは「宗教」である。私はこの「宗教」を出口王仁三郎に敬意を表しつつ彼の言い方を借りて「醜教」と呼びたい。それは実にみにくい教えであるからだ。

 私はこれに対して美しい学としての「美学」を提唱したい。それは「不可能性の美学」であり、「無能性の醜教」に敵対するものである。

 「真」を振りかざす「存在論」、「善」を振りかざす「倫理学」、このいずれの考え方も病んでいる。病んだ思考からは、病んで瀕死の重体となった主体性、或いは魂の抜け殻の全く空しい主体性しか構想されるわけがない。

 しかし、主体の主体性の確立の問題は、「自己同一性」(同一性・存在)の問題でもなければ、「自己関係性」(関係性・倫理)の問題でもない。それはむしろ「自己表現性」(様相・態度)の問題において見い出されねばならない。すなわち、「真」でもなく「善」でもなく、なによりもまず「美」の問題としてそれは考察されなければならない。

   * * *


◆§2.可能性の形而上学と九鬼周造「偶然性の問題」

  不可能性を否定的な無能性(可不可性=過負荷性)と考えるこのみにくい教えは、可能性を肯定的な有能性と考える「可能性の形而上学」の裏面でしかない。

 この「可能性の形而上学」はかなり根深いものであって、アリストテレス以来脈々と続いているものである。「可能性の形而上学」の考える「可能性」は素朴ではない。それは不可能性を無能な可不可性へと去勢的に抑圧しながら己れ自身を「可可能性」(可能なる可し)としている。またそれは「内可能性」(in- possibility)としての可能性、可能性からの脱出不可能性としてのさかしまの不可能性である。

 「可能性の形而上学」は可能性を他の様相に対してとりわけ卓越したものと考えている。そして可能性を根本様相とし、それによって他の様相(不可能性・必然性・偶然性)を規定してしまう。不可能性は(自己或いは存在の)可能性の否定、必然性は他者或いは無の可能性の否定、偶然性は他者或いは無の可能性(の肯定)という風に。それで可能性そのものは何であるかというと、自己或いは存在の可能性の肯定である。つまり可能性の境位において、どうしても「自己」や「存在」は蘇ってくる仕組みになっている。自己からの脱出不可能性、存在からの脱出不可能性(cf.レヴィナス)の元凶は、実は「可能性の形而上学」にある。

 しかし、それは実際には無根拠である。様相論理学において四様相性のどれを根本様相として選択するのかは単なる「趣味」の問題でしかない。可能性・不可能性・必然性・偶然性はどれも権利上は平等である。どれを根本様相としても、四様相性相互の規定関係は形式的に不動である。
 現代の様相論理学は不可能性(ありえない)と否定性(ない)の区別の上に成り立っている。それは「様相」の問題と「存在」の問題とを切り離すことと別ではない。
 したがって、「存在なき純粋様相」を考えることが出来るのである。このことを言い換えるならば、現代の様相論理学は「存在なき純粋様相」の形而上学を逆に要請しており、それなくしては成立しえなかったのだということができる。

 九鬼周造はそのことを逆手にとって偶然性を根本様相とする偶然性の形而上学を創造しようとした哲学者である。彼は『偶然性の問題』になかで実際に偶然性を根本様相とする様相論理学を作っている。それは九鬼の生き方の美学(趣味)から来る、「必然性の形而上学」に対する感性的な反発からである。九鬼の「偶然性の形而上学」は「偶然性の美学」に根差している。

 しかし、私はこの九鬼の様相性の解釈にも偶然論にも実は賛成できない。
 
 様相論においては、むしろ私は不可能性を根本様相として見る方が正しいと考えている。だが、それは『偶然性の問題』になかで九鬼に批判されている現代記号様相論理学の草分け的存在C・I・ルイスとは恐らく全く違った動機においてそう考えるのである。ルイスは不可能性を根本様相として考えている。私はルイスの見解を支持したい。

 ルイスの様相論では単なる否定(negation)と不可能性(impossibility)が区別されている。それはいわば無を存在論的否定性と様相論的否定性に区別することである。他の様相性を根本様相と考える立場では、この区別は出てこない。
 不可能性と否定性の区別は抹消され、不可能性は否定性に還元されてしまう。それは言い換えるなら、様相の次元のそれ自体としての自立性を、つまり様相論それ自体を存在論に還元してしまうことである。それは不可能性を無能力化=不能化(impotentialize)することである。不可能性を不能化することは、様相論を潜勢化することでも現勢化することでも完成させること(完全に実現すること)でもなくて、単にそれを去勢すること、骨抜きにしてしまうことでしかない。

 ルイスは、否定性には還元しえない不可能性、そしてまた、可能性の否定としての非可能性(あるいは否可能性)ではないような不可能性、すなわち、否定性にも可能性にも還元不可能な、それ自体としての不可能性、いわば〈不可能性自体〉ともいうべきものを発見している。

 しかし、ルイスが不可能性において本当に発見したのは様相性そのものである。不可能性とは様相性それ自体のことであり、単に四様相性(全体)の四分の一の様相(部分・構成要素・離接肢)であるだけではなくて、その四様相性全体のもつ有機的で相互否定的規定関係(構造・形式・枠組)なのである。そのことこそが様相論理学において重要なのであって、何が根本様相であるかは実はどうでもいいことなのである。◇だろうと□だろうと好きな記号を様相性を表す様相記号とし、それに可能性だろうと必然性だろうと偶然性だろうと不可能性だろうと四つ組の中から任意に選んだ名前をつけてやれば、お気に入りの様相論理学が出来上がるだけの話なのである。つまり、何とでも好きにすればいいのだ!

 例えば、様相性の記号を◆とし、否定を〜、命題をp表す。◆には、可能性・不可能性・必然性・偶然性のどれを代入してもよい。
 すると、

  ◆p 
 〜◆p 
  ◆〜p
 〜◆〜p

 の四つの様相式が出来上がり、それぞれが可能性・不可能性・必然性・偶然性のどれかを意味する。この時点では、どれがどれでであるのかはまだ決定していない。事態は流動的である。
 しかし、ここでどれか一つを固定すれば、残りは自動的にその名が決まる。この固定化をもたらす固定性は、四様相性にとって外部的・超越的である。しかし、それは四様相性を決定的に創造する。決定不能のものが決定される。それは裏返せばその瞬間、どれか一つを特権的様相とする「神の創造」が行われるということだ。神が創造するというより、それは神が創造される瞬間なのである。

 そのとき、「排除と選別」が決定的に起こる。柄谷行人風に(すなわちクリプキ&マルクス風に)言うなら「暗闇の中での命懸けの跳躍」が起こるのである。このとき、四様相性は、その四人のうちの誰か一人に代表され、そいつに永遠に仕切られる羽目になる。

 しかし、問題は、それで他のようで有り得る可能性(すなわち偶然性)を実は排除できないということなのだ。そして、むしろここにこそ本当の意味での還元不可能な「偶然性の問題」が見出されねばならないのである。

 ところで、「◆p」・「〜◆p」・「◆〜p」・「〜◆〜p」の四様相性は、「p」「〜p」の双対で表される二項対立的で二値的な「存在/無」(或いは「真/偽」)の二様相性とは別個の水準にあるものと考えられる。二項対立的=二値的な二様相性は四様相性とは次元を異にしている。二様相性の二値論理空間からは様相性◆それ自体が実は追放(第三項排除)されてしまっている。その枠組のなかでは四様相性について考えることがそもそも全く不可能なのである。

 これを不可能にしているのは「否定」である。

 否定は、様相を排除し否定し追放している。いわば二つの次元を切断している。しかし、そのことによって否定は自分自身をも双面に切断している。単なる否定でしかない無と、否定の様相として何かそれとは違った顔をした無とに引き裂かれている。否定のもつ単に「無い」というのとは別の意味、それとは違う位相で違った意味をもってしまうということ、否定にはいつもその他立ないしは異定立(Heterothesis)の作用が伴ってしまうということ、そして、否定はその己れ自身であるところの他者を決して消し去ることが出来ないということ、それこそが問題なのだ。

 単に何が根本様相の「真」の名称であるかが問題なのではない。問題は、四様相性がそのような「真/偽」をもはや問えないような次元に成り立ってしまうということにある。「真/偽」とは言うまでもなく「存在/無」の二元論にパラレルなものであり、したがって既にそれ自体が二値的な、すなわち二項対立の呪縛に囚われた「否定」的発想でしかない。
 「真か偽か」或いは「存在か無か」をもはや問えないような次元に、そんなことには全く関わりなく四様相性の四位一体構造は成立している。このようなものが純粋に構造的に成り立ってしまっているということ、このような存在から全く独立した純粋様相空間としかいえないような次元に、実に不可思議に浮いている純粋に抽象的な四様相性の四位一体構造の成立と構成をわれわれが考えざるを得ないということこそが問題なのだ。

 そして、更に一層踏み込んで言うなら、可能性・不可能性・必然性・偶然性の四様相性と存在・無の二様相性とは、その「様相」がまるで違っているということこそ、もっと重要な問題なのである。四様相性と二様相性は同一平面上に並記することはできない。これらは互いに異次元にあるのであって、九鬼がルイス、そしてルイスを批判して必然性を根本様相としたオスカー・ベッカーと同様の愚を犯して、四様相性と二様相性を単純加算して合計六様相にしてしまうことはできないのである(むしろ両者の位相差は交錯的なのだから乗法的にみて、八様相を考えるべきだろう。)それは否定性と不可能性がまるで違った意味をもった否定性だからである。

 九鬼はこのことの意味を真には理解していないように見える。単に皮相に表層的に瑣末的に何が根本様相であるかの名辞(呼称)にこだわり、誰が(どの様相概念が)一等賞(根本様相)であるかの莫迦気た論争を行っているに過ぎない。

 私がルイスを支持したいのは、単に二項対立的に偶然性を必然性の否定概念として考えている九鬼よりも、否定自体を単なる否定と不可能性の二相に切断することによって様相空間そのものを創造したルイスの方が、様相性の何たるかを恐らくよく理解していたのではないかと思われるからである。このような犀利さは、必然性などを持ち出して様相論を分かりやすく改良してしまったオスカー・ベッカーにも、偶然性などを持ち出して様相論を親しみやすくしてしまった九鬼にも見ることができない。彼らは単に様相を自明視ししてしまっているだけである。すなわち、そもそも様相とは何かという問いの場処を塞いでしまっているだけなのだ。

 何が根本様相であるかというような言い争いは実際には餓鬼の喧嘩と大して変わるものではない。九鬼はそのような意味ではそこで非常に愚かしいことをわめいているだけなのである。どうしても偶然性が根本様相でなければならないいわれはどこにもない。何だっていいのである。彼は「偶然性の形而上学」があったていいじゃないかという以上のことは何も言えない。勿論その通りなのだ。あったていい。しかし、それは同時に「可能性の形而上学」「不可能性の形而上学」「必然性の形而上学」をも同時に肯定することでなければおかしい。

 しかし、九鬼は実はそれほどひどい莫迦ではないのであって、実のところは、ことによると、そのことはよくよく承知した上で敢えて「偶然性の問題」を主張したのではないかとも思われる節がある。それは九鬼の目には西欧形而上学がもっぱら「必然性の形而上学」によって呪縛された思考であると映ったからである。
 だが、この言い方は本当は正確ではない。彼が反発していたのは「必然性」に対してではない。むしろ「存在」や「自己同一性」という「価値」の自明視に対してである。

   * * *

◆§3.自同律の考究

 さて、一般に「真理」とは「思考と存在の一致」であると考えられてきた。このような真理概念の定義を行った最初の人物はパルメニデスであるとされている。
 パルメニデスは歴史上初めて自同律(同一律)を哲学の明証的な第一原理として掲げた人物としても知られる。そこで自同律はまず「存在は存在し非在(非存在)は存在しない」という〈存在の自同律〉という形で表現された。
 
 これを「AはAである」という今日よくみられる形に改め、論理法則として確立したのはアリストテレスの功績である。古典論理学ではこれを補完するものとして「Aは非Aではない」という矛盾律、「Aであり、かつ非Aであるものは存在しない」という排中律を加え、この三つを三位一体の論理的思考の三大原理としている。

 しかし、この三大原理には序列がある。自同律が第一原理、矛盾律が第二原理、排中律が第三原理とみなされるのが普通である。何故そうみなされるのかというと、それは自己・実体・存在という私たちの思考の出発点となる自明で基本的な観念が自同律から直接的に出てくるからであり、また自同律が矛盾律・排中律と違って、その内に「否定」を一切含まぬ純粋に肯定的な原理にみえるからである。

 「同じである」「一つである」――それが思考の最初の直観的な純粋経験である。すなわち同一性の純粋経験こそが思考主体の最初の認識であり自己確認であり自己定位なのである。

 自己・実体・存在という基本的な観念はこの「同じにして一つである」という根本体験から確かに直接的に推論される。
 自己とは「同じにして一つであるもの」のことであり、実体とは「同じにして一つであるもの」のどのようであるか(様態)であり、存在とは「同じにして一つであること」のその「あること」そのことである。

 すなわち同一性というのは、〈自己は実体として存在する〉(平たくいえば〈私は実体である〉、また別の仕方でいえば〈自己は実体を存在する〉)という観念的で内的な経験なのである。
 〈自己〉の観念は同一性の主語にして主体である。同一性から直接的に推論される同一者、または自同律から直接的に推論される自同者の観念を捉えなおしたときに、それは〈自己〉と呼ばれるのだといってよい。

 しかし、このような〈自己〉の観念は、例えば〈この私〉というような具体的実存的な事実存在に一次的には起源していない。
 〈自己〉(「私」一般)と〈この私〉は異なる。この差異は極めて気づきにくいが、確かにそれはある。それは例えば柄谷行人が『探究?』において問題にしている〈単独性〉或いは〈この性〉の問題に触れている。

 《私も他者も物もあるが、この私・この他者・この物が存在しないような世界は分裂症的である。》(柄谷行人『探究?』「第一章 単独性と特殊性」講談社学術文庫p19)  

 ところで、〈この私〉は偶然的存在である。「真理」と明証的に表裏一体となっている〈自己〉(同一者)と〈この私〉が異なるとすれば、偶然的存在である〈この私〉の真理性はどうなってしまうのか?

 実は、九鬼が「必然性」を批判するのは、それが彼にとって「同一性」及び「一者」(to hen )の様相を意味したからである。これに対して彼が「偶然性」の様相を重視するのは、彼がそこにおいて、同一性には還元不可能な、一者と他者の二元的邂逅を見出してしていたからに他ならない。

 《偶然性の核心的意味は「甲は甲である」という同一律の必然性を否定する甲と乙との邂逅である。我々は偶然性を定義して「独立なる二元の邂逅」ということができるであろう。》(九鬼周造『偶然性の問題』二・一五 『九鬼周造全集第二巻』岩波書店p120)

 しかし、私は「必然性」を同一性の様相であるとは考えない。むしろそのように考えることこそ、不用意に同一性を必然化してしまうことなのである。アリストテレスの基本的な表現法では「必然性」は〈他のようではありえない〉という仕方で実は〈他〉を含んでいる。「必然性」は同一性というよりはむしろ「非他性」である。
 つまり、まさに必然性こそが「一者と他者の二元的な邂逅の様相」なのである。しかもそれは決して同一性に内面化することのできないような他者との邂逅(=分裂)の様相なのである。同一性は必然性に突き放されることによって生じる。しかし、それは同一性が必然的であるということではない。

 むしろ逆である。同一性は確かにそれによって例えば自同律というような仕方で己れを必然化し第一原理化するだろう。そこからまた「存在」の観念が起源しさえするだろう。ヌースがアナンケを説き伏せるというあのいやらしい詐術がそこで行われてしまうのだ。しかし、同一性は決して必然性(非他性、他の不可能性という意味においての)を内面化などなしえていない。

 九鬼は偶然性を遭遇性であると同時に偶数性であるとしている。《偶然の「偶」は双、対、並、合の意である。「遇」と同義で遇うことを意味している。》(九鬼周造『偶然性の問題』二・一五『九鬼周造全集第二巻』岩波書店 p120)

 そして、その偶数性・遭遇性の意味は、「存在と無」または「存在と非在」の二者の根源的二元論であり、この二者の遭遇のことである。そもそも『偶然性の問題』の開巻冒頭で九鬼は次のように宣言している。

 《 偶然性とは必然性の否定である、必然性とは必ず然か有ることを意味する。すなわち、存在が何等かの意味で自己のうちに根拠を有っていることである。偶然とは偶々然か有るの意で、存在が自己のうちに十分の根拠を有っていないことである。すなわち、否定を含んだ存在、無いことの出来る存在である。換言すれば偶然性とは存在にあって非存在との不離の内的関係が目撃されているときに成立するものである。有と無の接触相に介在する極限的存在である。存在が無に根ざしている状態、無が有を侵している形象である。偶然性にあって、存在は無に直面している。然るに、存在を越えて無に行くことが、形を越えて形而上のものに行くことが形而上学の核心的意味である。》(九鬼周造『偶然性の問題』序説『九鬼周造全集第二巻』岩波書店 p9)

しかし、この九鬼の立場を徹底すれば、必然性においてこそ存在と非在の双方に還元不可能な分裂の様相を観測しなければおかしい。必然性こそが九鬼の言うような意味での真に根本的な形而上学的偶然性なのだ。必然性は自己のうちに根拠などもっていない。自己の概念は存在と同様に自同律に根付いている。われわれの思考の習性は自同律を安易に必然的な思考の第一原理であると考えてしまう。だが、そこにはそのように考えさせる外的な強制力が働いている。この強制力が自同律を必然化し、思考を自己や存在から脱出不可能な様態に呪縛している。

 必然性は他者の不可能性としての非他性である。非他性は同一性と同じではない。また、同一性に根拠を与えるものでもありえない。私は同一性と必然性を切断する。それは「存在なき純粋様相」の概念を凝視し考察しようとすることと別ではない。

 わたしの考えでは、自同律は必然的ではなく、偶然的なものであって、思考の真の第一原理であるとはいえないものである。むしろ必然的なのは矛盾律の方である。生成順序として、まず矛盾律があり、排中律がある。自同律はその後にやっとこの二つに導かれて生成するものでしかない。
 同様に「自己」や「存在」の観念もこの自同律の思想から生み出された効果でしかありえないので、何ら必然的なものであるとはいえない。

 われわれを自同律や自己や存在から抜け出せなくしている黒幕は実は「可能性」である。ベルグソンは目は物を見るための器官であると同時に見ることの障害でもあるということを言っているが、「可能性」という様相はそれとちょうど同じ機能を果たしている。

 われわれは「可能性の内」(in possibility)に思考の動く幅を前もって制限的に規定され、いわば前置=前提(preposition)され、そこに捕え込まれてしまっている。そこでこの「可能性の内」(in possibility)――むしろ「内可能性」(in-possibility)は可能性からの脱出不可能性という意味において、駄洒落でも何でもなく、一種の逆説的な意味における不可能性(impossibility)として反転的に機能してしまう。
  しかし、この意味における可能性からの脱出不可能性は、可能性という様相の奇妙な否定的裏面であって、私が「不可能性そのもの」すなわち「不可能性自体」として考察しようとしている、可能性によって否定されることによって「不可能性」と名づけられてしまっている、恐らく本来はむしろ全く無名の様相とは別である。
 また、この可能性からの脱出不可能性は必然的な様相を確かに呈するものではあるが、必然性そのものともやはり別のものである。

  * * *

◆§4.実体と様相の美学

 九鬼は偶然性と不可能性の近接関係に着目しつつ、易の太極図形をメタファーに使いながら四様相の循環的生成論を展開している。易の太極図形では陰と陽の二つの巴が組合わさって一方の気が極まって他方に転化する運動が象徴されている。偶然性を陽とすれば不可能性は老陽、可能性が陰、必然性が老陰となり、偶然性→不可能性→可能性→必然性→偶然性の回帰的循環が図示されている。だが論述においては彼は不可能性から出発している。

 《不可能性の否定によって可能性が生まれる。可能性は生まれ落ちた一点から次第に成長して行く。そうして可能性増大の極限は必然性と一致する。次に必然性の否定が偶然性を産む。誕生の一点を起始として偶然性は次第に増加する。そうして偶然性増大の極限は不可能性と一致する。ここに可能性と偶然性の対立的関係、および偶然性と不可能性との近接関係が明かにされる。可能性が増大するに従って偶然性は減少し、偶然性が増大するに従って可能性は減少する。可能性増大の極は偶然性減少の極と一致する。それがすなわち必然性である。また偶然性増大の極は可能性減少の極と一致する。それが不可能性である。》(前掲書)

  しかし、この循環的生成論とは異なる様相の生成論を私は考えている。

 九鬼の陰陽循環的様相変換論は四様相が季節の循環のようにグルグル入れ替わる対称的な回転理論である。
 そして、その運動の原動力となるのは「否定」である。

 だが、私は寧ろ元気の陰陽二気への根源的分裂に発する起点のある非対称的な様相の段階生成論を考えたい。
 九鬼の四様相循環論は要するに四様相のすべてが初めから与えられてしまっていることを前提している。それが「否定」に媒介される円環運動になってしまっているのは、分化しきった太極という一者の完成した「存在」の内部に四様相が取り込まれて、その内的自己循環に馴致化され回路付けられてしまっているからである。

 通常、論理学は真か偽かの二値論理である。これは存在か無か、肯定か否定かと言い換えても同じことである。
 しかし様相論理はある命題が真か偽か、存在するかしないかを問うのではなく、それとは別問題にそれがどのような様相においてあるか、必然的か可能的か偶然的か不可能的かを問う四値論理である。

 私はこの別問題であることをより極端に徹底させ、存在と様相を切り離す。そこで存在なき様相を純粋に考察しようとする場合、九鬼のように「存在」と「否定」という二値論理的な説明原理を持ち込んで、それに基づいて四様相の概念を解明することは許されない。

 それは陰と陽であっても同じである。存在と無、肯定と否定、陽と陰、1と0は、いずれ変わらぬ二値論理でしかありえない。そもそもコンピュータの原案者ライプニッツがその基本観念を発想したのは中国の易の思想からであった。陰陽二気の易の哲学こそ世界最古のコンピュータ思想(二値的記号論理学)なのである。

 九鬼の太極図形における陰(可能性)陽(偶然性)の二元の巴は、可能性が〈無〉、偶然性が〈存在〉(存在者)に当たるといえる。

 偶然性は九鬼によれば「無の可能性」=「存在の偶然性」であり、可能性は「存在の可能性」=「無の偶然性」である。
 そして、この両者は一方が他方を持ちつ凭れつに支え合う相関関係にあるのだ。
 しかし、これに原分割を与えているのは老陽−老陰にあたる陰陽の巴の境界面(不可能性−必然性)の亀裂である。この分裂線はそれ自体、存在と無の二値論理に還元不能な様相としての様相の自立性としてある。

 私が根本様相としての不可能性と呼ぶのはこの根源的な分裂線のことである。九鬼はそれをノヴァーリスの表現に則って「原始偶然」と呼ぶが、私はそれを「根源的不可能性の美」と呼ぶのである。

 だが、忘れてはいけないのは、九鬼の必然性批判は実際には戦略的な擬態であるに過ぎないのだということである。
 彼が「偶然性」として言わんとしていたのは「存在」にも「無」にも還元できない形而上の「美」のことである。
 その点において私はこの素晴らしい哲学者・九鬼周造に心から共感する。
 形而上学は「様相を呈する学」としての美学でなければならない。それを妨害する存在論の「であるはずだ」や倫理学の「ねばならない」に対して、それとは違った美しい必然性を、即ち運命としての必然性をつきつけてやりたかっただけなのである。

 これは九鬼が批判しているオスカー・ベッカーについても言える。彼はハイデガーの高弟の一人だが、花の「美」を侮蔑するヘーゲルやハイデガーの「無」や「存在論的差異」に対して、美しい「実体」の観念を守らねばならないという立場からプラトン的イデアにおける「パラ存在論的無差異」の思想を展開している。
 この必然性の美学者は「存在(実存)」という「価値」に対して「実体」という「価値」を復活させることこそが必要なのだと説いている。

 《プラトン的イデアは存在論的差異に対立するものである。いわゆる「現実性」に関するイデアの問題点は、その概念構成の全体からして最深部で存在の「鋭さ」、すなわち事実的なものの固さを、計算に入れることができないところにある。他の面では、この「現実性」から、またその最奥の根拠である「存在」からしては、それは捕らえられず、また反駁もできない。いかに強力ではあっても、存在がありのままの実体を害することは決してない。無は存在に対して何もなしえないからであり、その永遠の処女性には触れえない。それは現れることで喜びを与え、またその現れの退潮は、「地上の美の喪失」ではあってもそれ自体には影響しない。それは、永遠に回帰可能な可能性に留まる。その中には、存在の灰白色の堅苦しさとは対照的に、実体の与える慰めがある。かくして我々は、これと密接に関係する問いかけをもって結びたい。人間は、「存在の牧人」であるより前に、実体の番人であるのではなかろうか。》(オスカー・ベッカー「プラトンのイデアと存在論的差異1963『ピュタゴラスの現代性』中村清訳 工作舎1992)

 ベッカーの言わんとするところは非常に分かりやすい。「実体」の概念は存在論的なものであるというよりも寧ろ美学的なものなのである。
 だが、それは何もプラトン的イデアにおいてそうだというよりも、それを批判したアリストテレスにおいてそうだったのではないかと私は考える。

 アリストテレスにとって「実体」は「個物」において見い出されたそのありのままの美しさであったのではないか。彼はその「美」を「神」と呼んでいた。私はアリストテレスを可能性の形而上学者として批判するつもりだが、しかし、それはアリストテレスが「実体=個物」に見いだした「美しい神」を再発見したいからである。

 近年、ハイデガー批判というと何故か専らレヴィナスの倫理主義ばかりが取沙汰されやすい。
 しかし、私の考えではレヴィナス流の倫理主義は日本人には受け易いからこそ却って有害なものに転化してしまいかねないという危惧をもっている。

 「存在」という価値が権力であるといって「他者」という価値に乗り換えても何も解決しない。それどころか日本にはレヴィナスの「他者」以前に先在する別の「他者」がいるのである。この別の「他者」を退治しない限り、レヴィナスの「他者」は空念仏にされてしまうだけだ。

 むしろ我々は九鬼やベッカーのような「様相」の美学者(彼らのハイデガー批判の方が実は私たちのためになる)を評価するべきであり、「実体」の思想を復活させる必要がある。「実体」のない「他者」の話などお断りである。

 この「実体」のない「他者」は「別人」である。

 私はレヴィナスのいう「他者の〈顔〉」を〈顔〉というよりも「真面目」・「表情」・「様相」という語で考え直したい。
 それは倫理学的な概念というよりは美学的な概念である。

 このように言い直すのは「他者」と「別人」を区別するために必要な措置である。「別人」は「不面目」で「無表情」で「無様」である。それは冷笑的で厭味なものである。

 日本の「別人」においては、レヴィナスの言う〈イリヤ〉はそのような〈顔〉をもち、まさに「他者」において不断に露出しているのだ。

  * * *

◆§5.埴谷雄高、レヴィナスと九鬼周造の間に

 レヴィナスとぞっとする程に酷似したところから出発している思想家に埴谷雄高がいる。

 不可能性の問題は、カントの批判哲学とドストエフスキーの黙示文学が互いを読み合う地点にいつでもその鋭い形而上学的問題提起の黒い光芒の一角をアストロロジカルに覗かせている。
 その突きつめた問いのかたちは必然的で〈他のようではありえない〉唯一の厳しいかたちしか許容しない。

 個性も同一性も無化されるような極限的な孤絶性のなかでは〈他のようではありえない〉という同一性すらも突き破った酷似性、もはや同じではありえない端的に単独の異貌のかたちがそれ自体の不可能性の核心へと凍結してしまっている様相しか描き出せないのだ。

 どのような文体や表現ジャンルを選ぼうとまたどんな文化や伝統や政治的立場や思想に所属しようとこの宿命的な酷似性だけは逃れがたく覆いようもなく暴き出てしまう。それは聖痕のようなものだが、むしろ被爆して焼き尽くされるということに似ている。どれほど似ても似つかない人も大地にやきついた黒いシルエットに還元されてしまうと全く見分けがつかなくなり、彼らが以前に誰であったのかは全く問題にならない。
 ただ彼らがどこにいたのかだけが問題となる。神の前には万人平等であるというが、それは無差別平等ということでありまた無差別殺人ということでもあるのだ。

 この無差別性は同一性よりも深い必然性を掻き消せない黒い影として人の顔の奥底に刻みつける。そのことにこそわたしはいつも戦慄を覚える。フランスの文学的哲学者エマニュエル・レヴィナスと日本の哲学的文学者埴谷雄高のそれぞれ全く独立別個に描き出した世界の間に通底するそのどす黒い影の〈他のようではありえない〉迫真の絶対的酷似性をみるときにいつも感じるのはそういった種類の戦慄なのだ。

 このように強烈な酷似性は、他のようにありえてもおかしくはない筈のブランショやバタイユやサルトルやベケットを引き合いに出してその中に加わらせることのできないような種類のものだ。彼らはこの緊密な〈他のようではありえない〉からどうしても締め出されてしまう。

 一番奇妙なのはレヴィナスの古くからの親友でもあり、また、思想的にも人間的にも政治的にも埴谷雄高とまるで瓜二つのように似通ったブランショが締め出されてしまうことである。

 レヴィナスとブランショ、また埴谷雄高とブランショは瓜二つの一卵性双生児のように近似しているが、レヴィナスと埴谷雄高は近似さえしていない。むしろ隔絶している。
 ところがこの隔絶によって全くの赤の他人でありながら、逆にそれゆえにこそ〈他のようではありえない〉がその隔絶の間に雷鳴のように轟く。

 二人は遺伝子生物学的な(あるいは分裂症的=分裂生成的な)一卵性双生児のように分身なのではなくて、心霊現象的な(あるいは離人症的=非人称化的な)二重身(ドッペルゲンガー)として運命的に分身なのだ。

 むしろブランショとそのような意味で酷似しているのは、意外なようだがドゥルーズなのである。それは血(気質)の色が似ているというような類似だ。ブランショとドゥルーズの血は明るく赤い。それは燃えるような五月革命の熱狂の色だ。彼らはナチュラルボーン・アナーキストである。
 これに対して埴谷とレヴィナスの血は暗く黒く凍えている。それは冷酷な闇の独房に遺棄監禁された孤児の瞳の色だ。彼らはむしろまさにコインロッカー・ベイビーズといった方がいい。そして村上龍の『コインロッカーベイビーズ』のハシとキクがそれぞれ別れて対照的な道を歩み出すように、この二人も対照的な方向に踏み出していったのである。

 ハシとキクは同一の運命を分けもつ双子だった。しかし勿論全く血の繋がりなどはないし性格も体格も全く違う。全く赤の他人である彼らが双子になったのは、偶然二人とも同じようにコインロッカーに遺棄されたという共通の原体験をもっていたからである。

 〈他のようではありえない〉はそのようにして生まれる。
 つまり元々は全く他なる者であったものが、全く他なる者であるがままに〈他のようではありえなく〉なるのである。それはもっと卑近な言い方に直せば〈他人事ではすまされない〉関係性といっていいだろう。

 それはマルクスの価値形態論を分析した柄谷行人が「可能性の中心」と呼んでいるものに他ならない。
 しかし、わたしはそれを「可能性の中心」とは呼ばないのである。
 それはわたしにとって「不可能性の核心」としか呼びようのないものである。

 他ならないからといってそれは同じであるということではない。
 可能性にとっては、経済学的に、他ならぬものは同じものでありうる。
 しかし不可能性にとっては、政治学的に、他ならぬものと同じものはどこまでも〈同じようではありえない〉のである。

 可能性にとって、非他性は同一性の外輪にあってそれを外部から呪縛する。しかし不可能性にとっては非他性は同一性の内側をえぐり取り掻き毟って二度とふたたび元の同一性の中心には戻れない不可能性の核心に呪縛する。

 〈他のようではありえない〉関係性は他者のみならず自己とも〈同じようではありえなく〉するのである。

 だが、では一体何がこの〈同じようではありえない〉レヴィナスと埴谷雄高を〈他のようではありえない〉関係性に呪縛的に置き換え(交換)させてしまっているのか。

 カントとドストエフスキーと強制収容所の凄絶な原体験の共通性――確かにそれは伝記的な事実によっても彼ら自身の書いたものを読んでもあからさまに分かることであって、そこからこの酷烈なまでの類似性、殆ど同一といってよい程に見分けのつかない表現の形成の要因を分析することができないわけではない。またそれは是非必要なことだし大いになされねばならない。

 けれども、それはこの〈すべての牛を黒くする夜〉(ヘーゲルがシェリングの「同一性」の哲学を嘲笑した言葉)よりもどす黒過ぎる魔王の通り過ぎた過越しの跡の心に灼きつく余りにも生々しすぎる印象の由来のすべてを解明することにはならない。そんなものはただの「弁証法」でしかないのだ。

 日本の思想史的文脈から行くと、埴谷雄高は九鬼周造の後に位置付けることができる。
 埴谷の不可能性の文学は、既に九鬼周造が『文学概論』のなかで予言的に文学のあるべき理想の形として述べているものを忠実に実現しようとしたものである。

 埴谷がレヴィナスと酷似しながら決定的に異なった方向に踏み出してゆくのは、彼が九鬼と同じように根本的に「様相」の美学者だからである。

 九鬼は「偶然性の形而上学」を創造した。埴谷は更に突き進んで「不可能性の形而上学」の創造に赴く。それは九鬼のやり残した仕事を引き継ぐことだった。埴谷は九鬼について特に何も語っていないが、むしろそこにこそ埴谷のよく言う「精神のリレー」が見いだされねばならない。

 九鬼は「様相」の問題と思想家の「態度」の問題を絡めて次のように書いている。

 《理論に実践に、常に必然性を把持する者は無を自覚することが少ないであろう。可能性の追求にのみ心を砕く者は単に「欠如」として概念的に無を知る場合が多いであろう。それに反して偶然性を目撃する官能を有つ者は無を原的に直観するのである。偶然に伴う驚異は、無を有の背景とし無より有への推移につき、有より無への推移につき、その理由の問われるとき、問そのものを動かす情緒である。偶然は無の可能性を意味する。不可能性を無の中核から拉し来って有に接触せしめる逆説を敢てするのも偶然性である。》(九鬼周造『偶然性の問題』第三章 離接的偶然 第一四節 有と無)

  とすると、「偶然性の問題」の核心にあるのはむしろ「不可能性の問題」である。

 しかし、九鬼は不可能性の思想家の態度については沈黙し、あくまで偶然性の思想家に留まろうとする。或る意味ではそれが九鬼の限界でありしかしまたその美徳である。

 埴谷はまさに九鬼が書きえなかったその不可能性の思想家の態度を例えば次のように言い切っている。

《不可能性の作家――。これは、不死の死とか、思惟の思惟、とかいつた種類の想念にも似たところの一種の暗示語であるだろう。私達は暗黒の夢を見つづけることができないごとく、事物に充たされていないところの空虚な内容を想像しつづけることもできない。そうとすれば、これまでも嘗てなく、また、これからも決してないだろうところの客観的な対応物をもたぬ或る種の事物を扱う不可能性の作家の想像力とは、いかなるものであろうか。》(埴谷雄高「不可能性の作家」「文学界」昭和三五年一〇月号掲載)

 《文学は長いあいだ存在に対して真すぐ向いてきたが、怖しいことには、いまやついに存在が文学をとらえてしまうのつぴきならぬ世紀にはいつてきたと思われる。ブレイクやポオやドストエフスキイがふとかいま見ただけで前のめりになるほどの重荷を負わなければならなくなつたところの《のつぺらぼう》のかたちが、この世紀のあいだにどのような凄まじい徹底性をもつた広角度のヴィジョンのなかにどのような暗い巨大な翳となつてうつるのか、カフカやサルトルの数歩ふみこんだ努力にもかかわらず、いまだ予想しがたい。けれども、ただつぎのことだけは明らかである。そこには、まつたく新しい飛躍的な語法が必要であること。そしてまた、或る種の憤懣を含んだ絶望と自身の背後に沈むようにもんどりうつて闇のなかへ逆さまに倒れこむ勇気が必要であることも。》(埴谷雄高「存在と非在とのつぺらぼう」「思想」昭和三三年七月号掲載)

 埴谷のいう〈のっぺらぼう〉とはレヴィナスの〈非人称のイリヤ〉と厳密に一致するものである。そして九鬼が『偶然性の問題』のなかで敢えて口にしなかった恐るべき悪魔の名前である。

 九鬼はいわば虚無の表層を擦めて存在の側に無の小さな断片を奪い去るだけであるが、埴谷はその恐るべき虚無の核心に向かって跳びこんでゆき無の可能性(偶然性)には決してなりえない不可能者を発見してしまったのだといえる。


  * * *

◆§6.不可能存在の不可避性――イポスターズ論再考

 九鬼は偶然性を存在の内なる「無の可能性」と考えている。つまり存在は「必然的に在る」のではなくて「無いこともありうる」ものとして在る――それが偶然的存在の意味である。

 偶然的存在とは、不可能的現実存在と現実的不可能存在(この二つは殆ど同じ意味領域に重なるが、その間に微妙なニュアンスのずれを含む同義語である)のあるかなしかのゆらぎの合間に微妙な浮力をもって咲く虚幻の〈無〉の可憐な花である。

 この花は現実存在の波立つ水面にたまゆらに浮かび出た不可能存在の断片的な映像であるといってよい。
 そこにあるのは「はかなさ」の情緒である。果敢さと空しさのあわいを微妙に揺れながら小さい命の美しさをきらめかせている。

 人の命は有無の境にある。それ故にそれはきれいで美しいのだ。
 有無の境に咲くこの〈無〉は、無の影であると同時に有の影でもある。無では無い無としてこの〈無〉はある――それは〈無〉というよりもむしろ〈美〉である。有無の境に〈美〉はきらめいて流れるのだ。

 偶然性は不可能性を中断して「無の可能性」に様相変換する〈間〉の〈無〉である。
 不可能存在が不可能的現実存在と現実的不可能存在に分割されるとき、生きられない無は生きられる無に変容するのだといえなくはない。

 「可能性が無い」という不可能性は厳密な無であって、それは厳しく具体的存在者の存在を禁ずる。それは「無いことの必然性」だからである。

 しかし「無いこともありうる」という偶然性(無の可能性)はその反対の「存在することもありうる」「存在できる」という可能性(有の可能性)をも許容する。無いことができるものは在ることもできるようになるのである。

 無が可能であれば存在もまた可能である。逆に無が不可能であるとすれば、存在も不可能になってしまう。

 確かに無の不可能性は一見論理的には存在の必然性である。そして、存在が必然的であるなら存在は可能である。

 だが、この存在可能性は抽象的な必然的存在者(パルメニデスの〈一者〉)についてだけいえるものであって、具体的な偶然的存在者についてはいうことができない。
 このような必然的存在者は、偶然的存在者の存在に道を譲り渡さず、その存在の余地をすっかり塞いでしまう。つまり存在の偶然性は存在の必然性の矛盾概念だから偶然者の存在を禁止してしまうのだ。

 〈のっぺらぼう〉〈非人称のイリヤ〉というのは、そのようなパルメニデスの〈一者〉の恐るべき異貌に対して埴谷及びレヴィナスがそれぞれにつけた名前である。しかしそれの存在論的意味付けにおいては或る点においてレヴィナスよりも埴谷の方が優れた洞察力を示している。

 レヴィナスはむしろ『偶然性の問題』の九鬼に近い。
 彼は偶然性の方へと引き返す道を選んでいる。九鬼の「不可能性を無の中核から拉し来って有に接触せしめる逆説」というのは、とりもなおさずレヴィナスが『実存から実存者へ』において選び取った〈非人称のイリヤ〉からの脱出の方位、イポスターズ(実詞化/様相変換)と同じである。それによってレヴィナスは「実存者」となるが、これは「偶然者」のことである。

 レヴィナスはちょうど九鬼と言い方は逆になるが、「無を不可能性の中核から拉し来って有に接触せしめる逆説」によって「無の可能性」(偶然性)を生み出す。不可能性を中断して無の可能性に変換することにより完全に偶然的に誕生するのが実存者である自我なのである。
 そうすることによってレヴィナスは不可能的に現実存在することを引き受ける。しかしそれは自同律の悪=不快をも己れ自身の実存の核に引き受けることと引き換えなのである。そうすることによってこの実存者は「実体」となることを選ぶ。

 埴谷はレヴィナスと自同律の不快の思想を共有しながら方向性が逆である。

 「実体」となることを選んだレヴィナスのイポスターズ論においては自同律の不快は到達点にある。
 ところが、埴谷はまさにレヴィナスが涙を呑んで受け容れたその同じ自同律の不快から出発して「虚体」の創造を目指す。

 彼はレヴィナスが或る意味においては敗れ去った〈のっぺらぼう〉に対してなおも不屈の闘争を挑む。この〈のっぺらぼう〉を転覆することこそ埴谷雄高のいう〈存在の革命〉の大胆不敵な思考実験となるのである。

 埴谷がレヴィナスのいう〈非人称のイリヤ〉を「存在の非人称性」とは言わず、「存在」とも「非在」とも違う「のっぺらぼう」だと言い切ることは事の正鵠を衝いている。レヴィナスの言い方の方が不明瞭なのである。

 「実存者なき実存」と「存在者なき存在」は同じ概念であるといえないが、レヴィナスはわざとそのあたりのことをぼかして語っている。それが彼の曖昧な黙示録的語調の問題なのだ。

 埴谷はより明瞭にこの〈イリヤ〉の必然性を規定することに成功している。〈イリヤののっぺらぼう〉は存在でもなければ非在でもない存在論的深淵そのものの現出なのである。

 アリストテレスの古典論理学によれば、不可能性と必然性は反対対当の関係にある。反対対当というのはどちらか一方が真であるなら他方が偽であるといえるが、その逆が成り立たない不可逆な関係にあるもののことをいう。つまりどちらか一方が偽であることが立証されたとしても他方を真とも偽とも確定できないもののことをいう。

 そこで「真」を「存在」、「偽」を「無」と言い換えると既に述べたことをより正確に言い表すことができる。
 必然性が真つまり存在であるなら、不可能性は偽つまり無であるということができるので、存在の必然性は確かに、無の不可能性であるといえる。
 しかし、不可能性が偽つまり無であるからといって、必然性が真つまり存在であるとはいえない。
 無の不可能性から存在の必然性は論理学的にも導き出せないことになっている。

 無の不可能性からいうことができるのは、必然性自体の真偽不定、有無の決定不能であり、必然性の様相において顕現するのは、存在なのか無なのか得体の知れない不定性そのものとなるのである。

 無が不可能であるなら、必然的に存在は決定不能という意味で不可能になってしまうのである。

 無の不可能性は正体不明の必然性である。
 あるのかないのかさっぱり分からない存在とも非在ともつかぬ〈のっぺらぼう〉の無気味なお化けが出てくる羽目になるのである。埴谷雄高が正確だというのは、まさにこの点においてなのだ。

 これに対し、九鬼は『文学概論』において、無は無化して存在を生成するから絶対無の不可能性は存在の必然性に転化するのだと言っている。これはヘーゲルもベルクソンも言っていた理屈である。しかし、絶対無が純粋存在と同一であるという単純なヘーゲル式論法が作り出すウロボロスの円環には、この怪奇な無貌の存在論的妖怪は収まりがつかない。

 「無は無い」と「存在は存在する」は同一の自同律ではないのだ。

 「無は無い」は「無は無である」と同じではない。また、「無は無い」は「ものが無い」というのと同じ「無い」ではない。
 無は非存在であるのでも非存在するのでもなくて、不可能であるのだ。

 「無は無い」というのは単に「無い」(否定性)のではなくて、不可能であるが故に無いのである。不可能であるが故に存在否定されて非存在させられて無いのである。存在では無いから無いのではない。非存在であるから無いのではない。存在と無の差異の故に無いのではない。存在では無いもの(非存在)は無いから無いのである。

 「可能性の無」である不可能性が「無の可能性」である偶然性に様相変換することを通して「有の可能性」である可能性が生まれる。
 この「有の可能性」は「有の必然性」である必然性から直接、論理的に出てくる「有」の可能性とは違っている。
 偶然性という無では無い無から、無くは無いが無くてもよいものとして出てくる「他の偶然性」としてのこの間接的な「有の可能性」はむしろ「非無の可能性」、無が無では無くなる可能性であるに過ぎない。つまり「有の可能性」であるにはあるが「有りそうもない可能性」なのである。

 これに対して「有の必然性」から直接的に論証される「有の可能性」はA=Aという存在の自同律に従っていて、その内に無や否定をはらみもたぬ純粋な「有」である。
 存在の自同律のA=Aは、「必然者は可能者である」(「必然者=可能者」または「必然者→可能者」)という意味である。必然者だけが可能であるということである。すると偶然者は存在不可能であるが故に存在しないという結論になる。

 偶然者の存在可能性は、存在の自同律からではなく不可能性から偶然性への様相変換によってしか確かに考え出せない。
 レヴィナスのイポスターズ論はこの点を正確に押さえている。
 「可能性の無」が「無の可能性」に変わることによって偶然性が誕生する。

 ところで偶然性は「無の可能性」であると同時に「他の可能性」でもある。つまり「他」を可能ならしめる可能性である。
 この「他」は可能性そのものである。

 ここで注意しなければならないのは、偶然性は不可能性から様相変換された時点においてはまだそれ自体においては可能性となっていないということである。


 可能性は偶然性によって可能性へと実現されることを通してやっと現れるものでしかない。
 そして可能性が確立することによって偶然性はやっとそれ自体における可能性へと実現される。偶然性は「無の可能性」から「他の可能性」となり、可能性を「他の偶然性」として実現することによって、自らを「他で無い可能性」とするのだといえる。

 存在の自同律は「存在は存在する」という必然者の確立によって全てを塞いでしまう。それを裏返すと不可能者を定義する無の自同律「無は無い」が出てくる。

 「無は無い」とは「無が無くなる」ということである。
 するとこの不可能者、ありえないものは何か。それは無すら無くす無である。
 それは存在でもありえないが無でもありえない。
 無すら無くす無は、無では無い無である。
 このとき、「無は無い」は「無では無い」を無の無化を通して無から創造的に召喚している。

 無が無くなったとき、無化する無は、自らをもはや無化することのできない無として出現する。
 無が無くなったときにこそ、無をもう二度と決定的に無くすことができないのである。
 これが無のパラドクスの最も恐るべき様相である。

 無が消滅したとき、消滅それ自体が現れる。それはもはや無であることすらできない無である。これこそが〈ありえない〉である。存在論の不可能性の核心である。

 古来から我々の思考を律する根源的な論理律として自同律・矛盾律・排中律の三つが知られていることは既に述べた。すなわち「AはAである」「Aは非Aではない」「Aであると同時に非Aであるものは存在しない」。このうち、何かの存在に触れているのは排中律だけである。
 無論、排中律は否定的にのみそれに言及している。しかしそれは「Aでもなく非Aでもないものが存在する」をその無気味な谺としてその背後に呼び出してしまうのである。
もろ、「虚体の創造」に関する文章書きましたので、追加投稿します。

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現実を見失っているのは岸博士の方 ―トンデモ『死霊論』
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 埴谷によって「自同律の不快」を体現させられた『死霊』の主人公・三輪与志は、岸博士という精神科医に「私が貴方を押したらそちらに動くというような現実に生きていたいか」と問われて、生きていたくない、と至極当然なことを答えている。
 岸博士はそれを聞いて三輪与志が現実を認めていないのだと勝手に決めてしまい、それは危険だ、それではあなたは自殺するしかなくなってしまう等という実に観念論者(理性的幽霊)らしい愚かなことを言っている。
 「現実」とは「この私」(個体)が生きているというだけのことだと静かに真の自己肯定の境位に身を持している誠にもっともな現実主義者の三輪与志はこれに対して、自殺は単に自殺であるに過ぎない、人間が人間らしく生きられるためには、そんな莫迦げた自同律に規定された幽霊屋敷のような現実では駄目だから、僕はそんな間抜けな観念論に逆らって本当の「実体」であるところの「虚体」を人間の自己証明として創造してみせると言ってのける。

 三輪与志の口を通して、埴谷雄高がここで「虚体」と呼んでいるものは、後年柄谷行人が『探究II』において特殊性とは異なる単独性としての「個体」(この私)と呼んでいるものと別に少しも違わないものである。
 埴谷雄高=三輪与志が言っている「自同律の不快」というのは、アリストテレスの言っている「実体」の観念の心臓部にあたるその本質部分が自同律によって空虚に規定されているだけの「存在」(自己)の観念に抜き取られているとすれば、そもそも「実体」という語はその意味を少しもなしていないではないかという人間として全く当然な痛切な実感に根差しているものである。
 「私は私である」という自同律は、誰にでも形式的に妥当する「自己」という観念を導く。この「自己」は一般性としてある。すると「この私」は何か。それはその一般的な「自己」の自己性を分有された特殊性だ、という答しか自同律は真理として許さない。すると、「実体」(個別者または単独者としての「この私」)の実体性は空洞化してしまう。
 しかしそれにも拘わらず「この私」はここに実体として在る。それは現実に「この私」は生きているということと別ではない。だとすれば、自同律の一般性から特殊性として出てくる自己性という「その私」と、ここに現実に実体として実存し実在している「この私」は、同じ「私」という語で混同されていたとしても違う私である。すなわち「この私」と「その私」は「別人」なのである。それは換言するなら「存在」(自己)と「実体」(自我)は「別人」なのだ、ということを証明しなければならないという問題にいきつくのだ。
 そこにこそ埴谷雄高が〈虚体〉という語において言わんとしている問題の不可能性の核心がある。

  *  *  *

 埴谷雄高の〈虚体〉という観念の狙いは、柄谷行人が〈この私〉の〈この性〉(thisness)という語において言わんとしたものと別ではない。
 哲学史的にいうなら、この〈この性〉という概念はドゥンス・スコトゥスが、トマス派の哲学に対抗して出してきた独特の個体化原理haecceitas(このこれ性)に当たるものである。それはソクラテスのソクラテス性とも言い表されるようなものである。
 存在と実体、自己と自我の〈別人性〉は、それがはっきりと名指されるならば、個体の個体性の核心である〈この性〉やhaecceitasに転じるようなものである。
 ここにいう〈別人〉という概念、は〈他者〉と同じではない。〈他者〉または〈他者性〉は〈自己〉または〈自己性〉に対立する観念である。
 しかし〈別人〉または〈別人性〉は、むしろ〈本人〉または〈本人性〉に対立している。
 〈本人〉は〈自己〉と同じ概念ではない。
 〈別人〉と〈他者〉、〈自己〉と〈本人〉を混同する思考は愚劣にして横暴であるが、実際には非常に横行している。〈本人〉が定義するのは〈自己〉には還元され得ないその人の個性であるところの自我の核心である。

 これを私は〈非他性〉または〈非他者〉(non aliud)と呼ぶことにする。
 この用語〈非他者〉は、中世普遍論争にほぼ決着をつけたニコラウス・クザーヌスの創造説に起源するものである。クザーヌスの非他者の思想はスコトゥスの〈此性(これ性)〉(haecceitas)の思想の流れを汲むものだと見てゆかなければ理解するのは難しい。
 クザーヌスは〈他ならぬもの〉の観念をつきつめることによってスコトゥスや柄谷のいうような〈この性〉――私はこれをこれから〈此者性〉と呼ぶことにするが――の問題に迫ろうとしている。
 非他者(本人)を定義づける〈非他性〉としての〈本人性〉は、自同律や自己性・同一性の観念と一致しない(だが、このようなクザーヌスの非他性を、ヘーゲルのようなものは同一性に回収していってしまったが)。また、それは自己と他者、自己性と他者性の差異である〈自他の差異〉、日常用語に換言すれば〈自他の分別〉に置き換えることも許されないものである。
 〈自他の差異〉、〈自他の分別〉は倫理主義的なものだが、それは結局のところ自同律や自己性・同一性の観念の補完物にしかなっていないし、またなりえないものである。
 埴谷が〈虚体〉の語で思念していたものは、柄谷とはややアプローチの方向性がズレていて〈この性〉よりはむしろ非他者の非他性の方に切り迫ろうとしたものであると考えられる。

 ところで、柄谷にしても、それから、レヴィナスにしてもそうなのだが、彼らは共に此者性(この性)をむしろ自明視し、非他性を倫理主義的に自他の差異に置き換えてしまうことで、何か非常に恐ろしい間違いを仕出かしてしまっているように思う。
 それは別に普通の意味で間違っているといっているのではない。彼らは確かにそれはそれとして正しいし妥当なのである。しかし、この正しさは恐らく何か損なってはならぬものを「出来損ない」にしている。
 それは特に日本において深刻な問題の軋みを作っている。
 私は〈他者〉という言葉を濫用することがそのまま暴力に転化することの危険性を指摘したい。〈他者〉という観念を暴力へと陰湿に強制的に転換してゆく残酷で陰険な文化的装置は確かに存在している。望むと望まざるとに拘わらず、柄谷やレヴィナスの倫理主義的な〈他者〉の思想は抑圧的な権力へと倒錯してゆき、しまいには人の心を殺す暴力として機能するようにされてしまうのである。
 だが、それは柄谷やレヴィナスの責任ではない。むしろ〈他者〉という言葉のなかに罠があるからである。それは〈他者〉がその〈本人〉ではなく〈別人〉に必ずすり替えられる文化的な卑劣さといってよいだろう。
 それが取り除かれぬ限り、〈他者〉という言葉には何も期待できないし、また、それを全く信用することもできない。
 かつて確かに〈自己〉や〈存在〉は暴力的な支配観念として機能していた。それを批判するために〈他者〉や〈倫理〉がかつぎ出された。そこまではまあ妥当である。
 しかし、〈自己〉や〈存在〉の観念が暴力であるからといって、〈他者〉や〈倫理〉がアプリオリに暴力ではないということをそれは少しも意味するものではない。支配的な観念や思想が何になろうとそれを暴力としてのみ機能させる倒錯した機構(不可視の観念論=制度としての文学)そのものが破壊されない限り、何の問題の解決にもならない。
 実は、このことは『隠喩としての建築』時代の柄谷自身が形式化の諸問題として指摘していることなのである。つまり、それは「自己/他者」或いは「存在論/倫理学」という二項対立の枠組をそのままにしてその上下関係を反転させただけであるに過ぎないのだ。むしろ批判されまた脱出されなければならないのは、この二項対立の形式(「知」)そのものである。その枠組みの内側にいる限り、全ては莫迦げた永遠の水掛論の堂々巡り(単なる虚しい同一物の永劫回帰/反覆=強迫)を繰り返すだけである。つまり、そこで問題のすりかえが起こっているのである。
 それは反動の構造が延命するために常に「記号」を己れの身代わりに差し出すという一番たちの悪い差異=遅延の問題である。そうやって問題は常に振り出しに戻される。
 「立場」とか「主義」とかいう都合が悪くなればすぐに乗換えの利くようないい加減なものに立脚して物言う限り、議論というもののもつ根本的にどうすることもできない無反省な軽佻浮薄性を抹殺することは不可能である。

 〈天使〉という姑息で厭味な種族は、自らの蝙蝠的=吸血鬼的習性を隠蔽するためにその場の都合で己れの観念の翼の色を染め変えることだけには異常な位に長けている。昨日はエホヴァにつき、明日にはアッラーにつく。しかしやることは常に同じで、神の名において人の生き血を吸うということだけは決して変えようとはしないのである。
 従って、常に問題であるのは、今年の〈天使〉の翼の流行色は何色か、旗印にはどんな神名が書かれているかということを知ることにあるのではなく、その翼自体を根こそぎ引き千切りその心臓に杭を刺すということだけである。
 そしてこれだけは永遠に確かなことなのだ。
 〈天使〉というのは、それがどんな姿に化けていようと、常に既に人民の敵以外では決してありえないのである。
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自同律の変 : 恐るべき別人の出現
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 不可能性の考究者・埴谷雄高の〈虚体〉という不可能体を導く〈自同律の不快〉のテーゼ「〈私が私である〉ということは不快である」を、〈可能性の中心〉の探究者・柄谷行人は「〈私が私である〉ということには〈この私〉が抜けている」という〈単独性の脱去〉の命題にパラフレーズする。
 埴谷の不快や柄谷の異和は〈私が私である〉という自同律(論理の第一原理)を単に自明とする必然性の確信者には決して見えてこないものである。
 それは恥知らずな厚かましい鈍感さという根源悪の問題であると言い換えてもよいだろう。
 つまり端的にいうならそれは〈恥〉の問題なのである。
 だから、件の命題を村上龍(特に『イビサ』参照)的に「〈私が私である〉ということは、それこそが〈恥〉である」と言い換えても構わない。
 〈恥〉とは太宰治のいうように〈人間失格〉ということである。それは単なる自意識過剰という心理学の問題ではない。
 それは〈現実〉というこの悪夢の実存的な問題であり、心理学はその問題のすりかえに嫌らしく貢献するものでしかありえない。
 まさにそれが見えないことをこそ、私は〈恥〉と言っているのだ。
〈恥〉というのは、単に〈恥〉の意識を解決することによってそれを無くせるように甘いものではありえない。
 〈日本的実存〉の存在様式を規定する特殊で固有な文化構造(そんなものはもちろん「文化」などではありはしない、単なる「野蛮」である)といわれている「〈甘え〉の構造」(土居健郎)・「〈いき〉の構造」(九鬼周造)・「〈恥〉の構造」(ルース・ベネディクト『菊と刀』等)は、組み合わさって三位一体の〈「甘え=生き=恥」の構造〉をなしている。

 * * *

 さて、『探究II』における柄谷の次の言葉は感銘的である。「私も他者も物もあるが、この私・この他者・この物が存在しないような世界は分裂病的である。」
 柄谷のいう分裂病的な世界とは、「世界」があるのに「この世界」がないような世界であり、また「存在者」はあるのに「この存在者」がないような世界であるといってもよい。
 それは「この世」に対する「あの世」ではなく、むしろ「その世」であるような気持ちの悪い世界である。
 「その世」は「この世」と見分けがつかないし、すべてがそっくりそのまま同一の様相のままにある。それはまさに同じ世界である。けれども〈その性〉(thatness)に全てが覆われているなかでは〈この私〉が生きてゆくことは出来ない。生きてゆくものがいるとすれば、それは必然的に〈この私〉と一方的に(そして抹殺的に)同一人物であるところの、〈この私〉ならぬ〈その私〉(自己という名の別人)である筈である。
 このことを考えるとき、必然性と現実性はどれほど漸近していても決して交差することはないのだということに思い至る。同一性のなかで必然性と現実性は無限に自分自身であるお互いをスレ違うのである。
 現実性は必然性に同一的に妥当するとしてもそれに置き換えることは不可能である。
 純粋な必然性の世界とは、パルメニデスが存在の自同律「存在は存在する」から演繹したような蒼白の存在の一者の球体がオン着せがましく単独にのさばり返っているヘンで不毛な世界でしかありえない。このギリシア語でヘンという一者は実際に自同律それ自体が変じて化けた妖怪変化である。
 この形而上学的怪奇事件を私は風刺と揶揄をこめて〈自同律の変〉と命名したい。これは通常の変化ではなく、変化の途上で変そのものに成った途端に硬直凍結して、他なるもの・異なるものに成り損ねた有難迷惑的で出来損ないの妖変を意味する。
 この〈自同律の変〉という怪奇な雌鳥(hen)が生んだ
 何も生まない化石に変じた食えない卵である〈存在=オン〉をパルメニデスが本当に考えるだけの価値のある値打ち物の真実在〈実体=ウーシア〉であると本気で考えていたかどうかは大いに怪しむに足りることだ。
 〈自同律の変〉は、存在困難性(有難性)・認識混乱性(迷惑性)・自己出来損傷性(出来損ない性)を導く形而上学的交通事故であって、それも自動車事故=自同者自己である。
 そこからはまともな自我は決して出来しえない。自我の代わりに生まれるのは自同者=自己というまともに走れぬがゆえに己れを起こせぬ半身不随の大怪我(大いに怪しき我)である。
 この大怪我は、形而上学的な意味においての原トラウマ=出産外傷であるが、そこから生まれるのは妊娠中絶児あるいは死産児としての非人間でしかない。これが自我なきその身代わりの怪我である。それは単に自我にとっての心の傷という程度の怪我ではなくて、自我そのものをその巨大な形而上学的裂傷であるブラックホールの〈深淵〉に呑み込み、無限に墜落させる底無しの穴にしてその墓穴である。
 自我は生まれ出ようとした瞬間に、恐怖の母の胎内に連れ戻され、そのウロボロスの円環状の無間地獄と化した産道を果ても無く堂々巡りすることになるのである。
 しかもその産道は臍の緒のようには胎児に栄養を備給しない。逆にそれは嘘つきのパラドクスのクレタ島人のラビリントスの迷宮さながらに入り組んだ小腸の暗い迷路であって、胎児を消化吸収して溶解せしめるべく阿鼻叫喚に酸鼻な消化液の強酸が後から後からノアの大洪水のようにドクドクと溢れ出て来る地獄絵図なのである。
 まさにこれこそ来るとゲー出る、サルトルの存在の吐き気よりも恐ろしい、その嘔吐の吐瀉物の自己逆流としての不完全性定理の真の悪夢なのである。
 ここに形而上学は黙示録的に神話(不可能観念の忌まわしい宝庫)に接する。それはまさにカントがそう命名した通りの〈視霊者の夢〉に他ならないが、むしろこの〈形而上学の夢〉は、スウェデンボルクが霊界通信して描いたような美しくもお目出度い天国の夢ではない。
 その天国の夢が何故いかにして夢見られねばならなかったのかを夢見る〈現実〉というこの黒い夢には出口もなければ救いもないのである。

 * * *

 悪夢というのはそれを決して夢見ることが出来ないが故に見果てぬ夢となる〈この現実〉のありえなさを見るという超越論的絶望性以外の何者でもありえない。
 〈胡蝶の夢〉を物語っていられるような荘子は単にお目出度いだけなのである。現実が夢であり、夢もまた夢であるというなら、その夢を見ている奴は誰だ。その二つの夢を循環する夢は一体どんな現実のなかで夢見られているというのか。
 悪夢というのはその二つの夢を循環するこの構造そのもののことである。その中でどんなお目出度い夢が見られていようと、夢のまた夢以外のどんな夢をも見ることが「出来ない」というこの不可能性の夢こそが悪夢的なのである。
 夢を夢たらしめている夢自体は決して夢ではありえないからこそ、人間はどんな夢を見ても魘されるのである。
 夢から覚めて現実があったと思う者はそのときにこそ夢に欺かれている。だが、翻って、それを皮相に悟ってこれもまた夢だと思う者の自由もまた、それこそ全てが夢だと思う最も愚かな夢なのである。それこそがこの夢というねむりびとの悪意の構造の思う壷のドツボに嵌まるということだ。

 それが仏教であるにせよ道教であるにせよ東洋的無の思想というのは、単に無の何たるかを理解していないだけの無知蒙昧性でしかありえない。無はどこまでも無であって、そこに東洋的と西洋的の区別を持ち込むことができると思っているような愚か者は、単に自分が何も考えていないことを知らないだけの白痴である。
 全てが夢のまた夢であるなら全ては無意味である。それが「その世」というものの恐ろしさである。「その世」は単に「この世」を無意味にするのみならず、「あの世」をも無意味にしてしまうおぞましく暴けないニヒリズムの通約性に他ならない。
 天国でも極楽でもいいが、どんな宗教的彼岸に念願かなって往生してもどうせそこは現世と変わらぬ生き地獄に決まっているのだ。
 その位なら畜生道以下の虫けらに転成したほうが輪廻(サンサーラ=ザムザ)の道としては余程マシなのだ。

 『変身』の作者フランツ・カフカはそのことを見破った人間である。グレゴール・ザムザは人間からゴキブリのような薄汚い偏平な昆虫に退化して、妹の投げた林檎(知恵の果実)に当たって死ぬが、実はそれによって輪廻(ザムザ)から脱する。
 それは仏教徒の考えるような諦念による救済とは違う。
 むしろそのような救済や悟りの夢こそが愚かしい輪廻の苦悩を必要としているし、実際に作り出している根源悪なのだ。
 ザムザの一見無残な死による悟りは、「悟るなどということはありえないのだ」ということを悟るという逆説による輪廻の克服である。
 夢ではない、〈この私〉が現実に本当に無残に死ぬだけなのだと悟ることこそが〈この私〉の現実性を成就する。
 それは苦いが、決して絶望ではない。善悪を識る知識の果実の直撃を受けて死ぬとは、エデンの園に達するということだ。それは〈この世・この私〉への転生である。
 そしてそれは〈他ならぬ=この私〉への転生であり、決して〈この私〉は輪廻しない、他者には決して生まれ変わらないということなのである。
 〈この私〉はどこまでも〈この私〉であるだけなのだ。それは必然を消し去るということである。
 必然性が消滅するときに、偶然性もまた消滅する。そのときに運命だけがある。運命だけしかないときに、すべては全く他のようではありえない現実である。
 全ては夢ではない。全てが現実なのだ。そのとき全ては美しい。これがエデンである。
 楽園追放(パラダイスロスト)などなかった。その園から〈この私〉は一歩も出てはいなかった。エデンというのは〈この世〉のことである。ここにエデンがあるのだと悟るときに、アダムの眠りは解けるのだ。実にそのときにこそ、まぎれもなく、不死なる人は成就する。
 フランツ・カフカのヒューモアは、アイロニーよりも遥かに苦いが爽やかである。そこに不条理や不安の表現を見る者はカフカを少しも分かっていない。
 カフカが人に与える感動は崇高なものである。それはこの病弱で感受性の鋭い人こそが誠に芯の強い、真実の意味における強者であったことを教えてくれる。
 カフカ、その澄んだ黒い瞳には恐れの翳が微塵もない。それはスピノザの瞳と同じ瞳だ。信じられないほどに黒い瞳は、それにしか映らない奇蹟を洞察する特異な理性の持ち主の徴表の一つである。

 * * *

 これと同じ黒い瞳をもった人を私はかつて知っていた。
 その女性は若くして病いを得て死んだが、皆既日食の太陽のように大きく不思議な黒い瞳と、幻想的な白い百合の花のかたちをした優美な手をもっていた。
 その女性は私によく運命の話をした。彼女と私の運命の話をした。
 それは恐ろしい運命である。彼女は占いをする人で、私と出会ったときにも占いをした。そのとき彼女は自分の運命の札に《死神》を引いたが、眉一つ動かさなかった。彼女は恐らくそのとき既に自分が早死にすることを知っており(もちろん通常の仕方ではない)、そのことを覚悟していたのだろう。彼女はまだ若かったが尋常の女性ではなかった。理知的で意志の強い人柄が風貌にまで掘り刻まれていて、美しい人だったが、深く黒い影のある異様な感じのする人だった。
 その彼女から、異様で恐ろしい出来事の話を聞いた。それは幻視体験なのだとは思うが、余りに悪夢的に生々しいために、それを実体験していないこちらの方が逆にそれはきっと本当に起こった現実の出来事なのだと思わずにいられない迫真性をもっている。

 彼女は少女時代、深夜に姿見の前に立ったときに悪魔よりも恐ろしいものに出会った。それは彼女自身だった。
 真黒な鏡のなかから「私が出て来て、私の首を絞め、私を殺そうとした」のだと彼女は言った。
 それは感情の籠もらない、異常なほど冷徹な感じのする
 ひっそりとした声音で、冷静客観的に言われた言葉だったために、私はまるで私自身がそっくり同じ体験をしていながら、長く忘れていたことを不意に呪縛が解けて思い出したかのように、あるいはまさに今そのことが我が身に起こったかのように、それを聞いて、ぞーっとするというよりも深い、何とも言えぬ悪寒に心の芯が凍りつくような思いがした。
 まさにその彼女の首を絞めたその女、彼女でありながら彼女ではありえないその恐ろしいものが、彼女のその〈別人〉が、今目の前に出ていて、そのときの模様を話しているような錯覚を覚えて怯えたのである。
 彼女は失神して鏡の前で倒れ、やがて意識を取り戻すとその女は忽然と消えていて、自分の手が自分の首にかかっていたのだという。
 私は他人からそれほど無気味で底恐ろしい話を聞いたことはなかった。
 ドッペルゲンガーの出現という異常な出来事は幽霊が出たというより恐ろしい感じのするものである。
 幽霊は霊魂の存在を仮定するなら、出会い得るものであると何となく了解出来る。けれどもドッペルゲンガーの出現は、霊魂の存在を仮定したとしても全く説明のつかない、きっと幽霊でさえ悲鳴を上げて逃げ出しそうな、生きている人間そのものがありえない仕方で化けて出るという底知れぬ実存的な恐ろしさに繋がっている。
 それはそこに「悪魔が立つ」としか言えない体験である。
 
 ドッペルゲンガーが出るのは普通は他人の前に出るのである。それはそうそう起こることではないが、私自身も何度か私のドッペルゲンガーが他人に出たのかもしれないと怪しむ話を聞いている。まさかそんなことはない、きっと相手の他人の空似の見間違いだろうと思うのだが、そう度々、それもお互いに何の関係もない人達から、私がそのとき、そんな所にいた覚えもなければいたはずもないところで私を見たと証言されてしまうと、では一体〈この私〉は何なのかが、自分自身でも忽然と不明瞭な眩暈感のなかにすーっと溶けてゆくような心地のするものだ。
  これは「科学によって解明できないミステリー」などという陳腐な怪談(幽霊話)とは次元が違う不安である。たとい科学によって解明されても(それどころか常識的な他人の空似で説明のつくものであっても)、この現実自体の形而上学的な得体の知れなさに連なるドッペルゲンガーの、心の奥底を抉るような異質な無気味さは掻消すことが難しい。
 ドッペルゲンガーの話が怖いのは、それが非現実だからではなくて、むしろ現実的だからである。或いは、むしろこういうべきかもしれない。幽霊が夢や現実に幻となって出ることは「自然な非現実」であるが、ドッペルゲンガーが現実や夢や非現実に実体となって出ることは、それがたとえ作り話なのだと見え透いて分かる場合であっても、不自然で不可能な感じがするが故に、それはどれほど異常であってもリアルにしか思えないのである。
 ドッペルゲンガーの話が恐怖をもたらすのは、それが本質的に悪夢的で悪魔的だからである。
 人が他人の幽霊に憑り殺される話はそれが現実であるとしたなら、確かに一瞬、身の凍るような恐ろしさを覚える。しかし、それはそれでもどこか現実に有り得るような自然性をもった超常現象であるに過ぎない。それは原因が不明なだけである。人間は死に得るものだし、殺され得るものである。例えば人体発火現象とか騒霊現象といった話はかなり怖いが、しかし人体は燃え得るものだし、物は何かの力が働けば飛び回り得るものである。それはどれ程怖くとも、この現実、そしてこの心を壊してしまいはしない。
 また多重人格の話もドッペルゲンガーによく似てはいるが、こちらは少しも怖くはない。それは有り得る話だからである。例えば私は自分が多重人格であると人から診断されたとしたら、悩んだり苦しんだりはするだろうが、恐ろしいとまでは思わない。そうした異常な出来事はそれがどれ程異常でも、超常現象以上に異常とはならないのである。
【プロバブリティ―大いにありそうでいかがわしい現実性について】

不可能性の問題は、様相性の形而上学者・九鬼周造の『偶然性の問題』の
延長線上にある。
可能性・不可能性・必然性・偶然性は四つで一組の基本的な様相(modality)の概念であるからだ。
この四様相性相互の論理的関係を最初に確定し、
様相論理学の礎を築いたのはアリストテレスである。

アリストテレスは可能性(有り得る)を
基幹的な根本様相として他の様相を規定している。
不可能性は可能性の否定(有り得ない)、
必然性は他の可能性の否定(他のようでは有り得ない)、
偶然性は他の可能性(他のようでも有り得る)と表現された。

しかし、この四様相性相互の論理的規定関係は
純粋に示差的に出来上がっており、
何を根本様相にするかは、少なくとも様相論理学にとっては
全く恣意的な問題であるに過ぎない。
どうしても可能性が根本様相でなければいけないいわれはないので、
このことを逆手にとって、
九鬼は『偶然性の問題』の形而上的偶然性(離接=選言的偶然性)を
めぐる議論のなかで、
偶然性を根本様相とする様相論理学を作っている。

アリストテレスの古典的な様相論理学が可能性を根本様相にしたのは、
彼の〈実体〉をめぐる形而上学的な議論と切り離して考えることはできない。

アリストテレスは真実在を具体的な個物と考え、これを〈実体〉と呼んだ。
〈実体〉とは現実的に在るもののことである。
現実的に在るという〈実体〉の存在様相を
アリストテレスはエネルゲイアつまりエネルギーという語で表現した。

この語は通常、現実性とか現勢態という風に翻訳されているが、
私はこれを出来性と呼び変えている。
それは忠実なギリシア語訳ではないが、
概念のツボを現実性という語よりもうまく押さえていると
思われるからである。
それは「出来る」という日本語の奥に隠れているロジックを
引きずり出すことに役立つ。
「出来る」とは可能性から現実性が動的に
「出来する」(独 vorkommen)さまを表現している。

私たちの思考はその自然な習性として現実性に可能性を前置する傾向がある。
従って「出来る=出来する」は「可能である=有り得る」と
殆ど暗黙に同義に受け取られる。
私はこれを可能性の形而上学と呼んでいる。

私の考えではアリストテレスは可能性を根本様相とする
様相論理学を作りはしたが、
可能性の形而上学の思想家であったとはいえない。
可能性の形而上学は、むしろ我々現代人、
特に我々現代日本人の常識的通念を
規定してしまっている考え方の方を指して言っているのである。

アリストテレスはむしろ出来性の形而上学者だったと考えた方が良い。
彼は出来性として現実性を理解していたのであり、
従って彼の言うエネルゲイアの観念を
単純に我々の通俗的な現実性の観念を表現する、
エネルギーのない、死んだような、
蒼白い「現実」という無意味で空疎な言葉で翻訳することは、
何か非常に恐ろしい感性的な観念の掛け違いを起こして、
アリストテレスが言わんとした真の現実性であるところのエネルゲイア、
そして勿論、この我々にとってもそれを取り戻さねばならない筈の
真の現実性であるところのエネルゲイアを
見失わせることにしかならないように思われる。

真の現実とはエネルギッシュな出来性のことであり、
我々が可能性の実現として、つまり実現した可能性として思い違いしつつ
それを「現実」なのだと思っているような現実性の観念は、
むしろ実質的には非現実的なのである。

そこには出来性の次元が実はすっぽり脱去してしまっており、
現実性は実のところは観念的な可能性の影、
墓場の亡霊のようにバブリーな確率論的蓋然性(probability)に、
或いはむしろ悪夢の水泡のような
虚ろで空しい「プロバブリティー(probubblity)」に
零落してしまっている。

ところで、これは何ら不真面目な言葉遊びなのではない。
ものにはそれに相応しい名前が必要であるというのは
哲学的な概念表現の当然の公準である。

私は現実でないものを現実と呼べと強制する国語学(似非文学)を拒絶する。
国文学は間違った文学である。
私は正義の文学である天=文学としての文学を要請する。
それは現代的な科学としてのアストロロジーを
本義における天文学とは認めないという見解と別ではない。

国文学にせよ現代天文学にせよ
それは恐らく非常に愚劣な形而上学に従属し、
理性に対する世界の美しかるべき言語表現を
みにくく引き歪める現実の歪曲に貢献するものでしかない。

そしてもっともみにくいものとは、
もののあわれ(現実性)を意味不明にすることにしか役立たない
本居宣長以来の国学的な「美しい日本語」という莫迦げた虚妄である。

私はこれほどみにくい反文学的で反人間的な言葉を知らない。
私は真面目な言葉遊びによって
不真面目な言葉巫山戯けの誤魔化しを破壊することこそ、
文学者=哲学者の使命であると自覚するものである。

所詮「学問」というそれ自体無価値で無根拠な
卑屈な権威主義というニヒリズム以外に
いかなるまともな根拠らしい根拠もありえない
「正しく美しい日本語」などという単に反動的で言論統制的な、
物言わせず物思わせぬために捏造された言葉の悪法は
完膚なきまでに破壊し尽くすべき
不自由な語彙の無意味な牢獄であるに過ぎない。

悪夢の呪縛に幽囚の身となって
何ひとつ言わんとすることを言い得ない枯葉の風の歌になることが
言の葉の運命であるなどと考えてはならない。

言葉と物を切り離すなら人間はもうおしまいなのである。
砂男(夢魔)は人間ではない。
言葉のなかで冷たいものが語るようにしてはならない。

そんなものは悪寒を催す非人称の恐れイリヤの鬼子母神を見せるだけの
不幸の振り子(震える子供)の哲学であるに過ぎない。

美徳を不幸にしてはならない。
悪徳を栄えさせてはいけない。
マルキ・ド・サドの名において
私はそうした子供騙しでチル(Chilly)な
嘘八百で百鬼夜行なホラー小説的な俗悪教育哲学のサディズムに
絶対に反対する者である。

くたばれ、「魂の殺人」であるに過ぎない子供騙しの亡霊宇宙戦艦ヤマト魂!
そのようなアニマ(生命)なき動物アニメは、
ディズニーランドと全く同じの
非常に悪趣味で気持ちの悪いシミュレイクレムだらけの疑似現実であり、
全く見れたものではないのだ。

点取り虫の産婆心と老婆心に洗脳されきった
経済的動物(エコノミニックアニマル)の魂の墓場の夢の島の
名目ばかりの現実性、
virtual reality などという麗しい名称が
全く似合わないクソババアチャル・リアリティでしかないのである。

然り、言葉というものはまさにこのようにして語るべきものなのである。

筆者は東京出身ではないが江戸っ子である。
てやんでえ・べらぼうめなものは心の底から大嫌いなのだ。

江戸弁は標準的な日本語よりも美しい。
それは何よりも活きの良いその弾む調子に他ならないのであって、
もって回った学問的な上方落語よりも
遥かに直截にエネルギッシュな実体に的中するからである。
それはまことに活発な黙示録的語調に他ならないのである。
これがバベルの塔の言語、バベルの図書館の混淆言語、
バベローグ(パティ・スミス)の威力である。

バベローグ(Babylogue)は言語学的概念としての
言語=ラング(日本語もその一つ)ではない。
これはタング=舌先であり、
マザータング(母国語)ではなくて、
メギドの火の舌によって全ての単語を舐めて
その意味を味わう言葉のグルメの話法なのだ。

ここに嘘つきのパラドクスはありえないのであるから、
この全ての言語=ラングを罵倒する
エネルギッシュな言語活動=ランガージュのお話=パロールを喋り散らす
マウス・オブ・マッドネス(ジョン・カーペンター)から、
閻魔様とてその灼熱の舌先を引っこ抜くこと(去勢すること)は
不可能である。

ここには嘘を嘘たらしめる真偽の基準それ自体が
転覆されているのであるから、
決定不能性もまたありえないことになるだろう。
しかしそれと同時に、これこそがその閻魔大王の炎の舌そのものであり、
全ての嘘つきどもを火炙りにする恐るべき地獄の口に他ならないのである。

言葉とはラングではない、言葉とはロゴスであり、
理性的動物だけがそれを語り、経済的動物は
それを決して語り得ないのである。

理性的動物の語る言葉は常に政治的である。
理性的動物は常に政治的動物でありそれは自由人を意味する。

しかし経済的動物は如何に万物の霊長ホモ・サピエンス(人類)を
気取ってみたところで、
ホモ(同類)のクラスのメンバーになって名札をもらうことができるだけ、
人の人たるべきアントロポースの実体を欠落して、
人と人の間抜けな間を徘徊しては
こづき回される奴隷以外の何も意味しないであろう。

エッケ・ホモ(この同じ=人を見よ)という言葉に私は何も見いださない。
そんなところに人間なんかいないのである。
あるのはただ人間をその×印のなかに封印してしまった
薄汚い十字架の処刑台=墓標であるに過ぎない。

むしろ私は復活したイエスの吐いた
ノリ・メ・タンゲレ(我に触れるな)という言葉を好む。
まさにそこにこそ実体ある人間の何たるかが示されているのである。
実体(個物)は如何なる同類(クラス)の仲間(メンバー)でもない。
そしてクラスメイトや同僚というのは友人ではなく、
友人だけが友人なのである。

孔子のいうように、この友(朋友)というのは、
常にまさに遠方よりこそ来たる。
遠来の客人こそが人の真の意味での隣りびとであるのだ。

ホモ・サピエンス=人類の一員が
実体としての人間(アントロポース)と同一人物であるということは
大いにありそうであっても
遂に蓋然性の域を出ないプロバブリティーのバブル経済でしかない。
真のリアリティーであるエネルギッシュな現実性は
むしろそのようなものを
東京湾のヘドロの夢の水の泡にするような
恐るべき政治的出来事としてこそ出来するのであって、
実体なき信用取引の中を気分的に乱高下する
景気変動の株式市場(経済的動物の現実性)のなかには何もないのである。
重要なのは常にバールゲルトでありリアルゴールドであり現ナマなのである。
現生でキャッシュな現実性は銀行に預金されない。
常に銀行的なものからプロバブリティーは始まる。

しかし私がここで言わんとしているのは、お解りのように
経済という虚業(当然そんなものは実業ではない。生業だけが実業だ)
の問題ではない。
ここに〈銀行〉といっているのは
形而上学的で錬金術的な観念上の存在のことを言っているのである。
【自同律の不快に関する三つのテーゼ】

 埴谷雄高の〈自同律の不快〉のテーゼ「《私が私である》こと(自同律/A=A)は不快である」を、『探究II』の柄谷行人は「一般性(類)−特殊性(種)」の系と「普遍性(超越)−単独性(個体)」の系の食い違いの問題に置き換えながら、これを〈単独性の脱去〉のテーゼ「《私が私である》こと(包含/A∋a)には〈この私〉が抜けている」にパラフレーズしている。

 これは「〈私〉と〈この私〉が別人である」という〈別人の恐怖〉のテーゼに換言しても内容は同じである。

 この場合、〈私〉は「一般性のなかの特殊性」「類のなかの種」「クラスのなかのメンバー」「母の胎内の子」ということのできる特殊者であって、単独者としての個体性を意味する〈この私〉とは、同じ「私」であってもその「私」の意味が違っている。

 これが〈別人〉であるということである。

 しかし、他方で特殊者〈私〉と単独者〈この私〉は物としては全くの同一人物である。

 すると《私は私である》という自同律(自己同一性)にしたがって、特殊者と単独者の間の差異(別人)は消され、〈私〉と〈この私〉は〈同じ私〉にされてしまう。

 すると〈別人の恐怖〉は〈自同律〉の背後に抑圧された黙した恐怖(語り得ぬもの)にならざるをえない。
【形而上学的主体性に関する三つのテーゼ】

 形而上学的主体性の定位(位置付け position)乃至は定立(thesis)の様式として、次の三つの様態が対比される。

【1】存在論的主体性〈存在者〉を定立するエクスターズ
   (脱魂 extase:ekstasis)
【2】倫理学的主体性〈実存者〉を定立するイポスターズ
   (定礎 hypostase:hypostasis)
【3】様相論的主体性〈背教者〉を定立するアポスターズ
   (隔離 apostase:apostasis)

 これは第一哲学=形而上学は何か或いは何であるべきかについての
 問題設定の討議場での立場(position)の相違をも表している。

 エクスターズ・イポスターズ・アポスターズは、
 いずれも仏語訛りのギリシア語で、
 「立つ(立っている)」を意味する共通の語根〈stase(stasis)〉に、
 それぞれ異なる接頭辞〈ex(eks)外に〉〈hypo 下に〉〈apo 離れて〉が
 ついたものである。

 ギリシア語の接頭辞の多くはラテン語と同様に
 前置詞(pre -positon[前・先に置かれていた場所(前定位)])から
 派生する。

 しかしこの三つのうちで〈eks〉だけは別で、
 副詞(adverbe すなわち動詞 verbe を形容するもの)起源である。
 このことはやがて意味をもってくる。

 ek-, eks-, exo-は副詞語源で「外に、すっかり、外の」を意味する。
 エクスターズ(ekstase, ecstasy)は普通、
 「恍惚」(魂が体外に出ること)を意味する語である。
 これは仏教用語で「解脱」といってもよい。
 哲学用語としては、通常「脱自」
 (自分自身ないしそれ自体から外に抜け出ること)
 と訳され、ほぼ「意識」(対自存在)の同義語として
 サルトル等の実存主義哲学に用いられている。
 
 hypo-は前置詞語源で「下に、不足」を意味する。
 
 apo-は前置詞語源で「…から、離れて、…しまう」を意味する。
【〈実体〉の死霊のはらわたのイポスターズ論】

 ウーシアと呼ばれる実体なき〈実体〉の実体は何か。
 それこそが「形而上学」または「メタフィジカ」と仮名される名無しでのっぺらぼうのこの奇妙な学問(アリストテレスの『形而上学』と呼ばれる書物は本来無題である)の最大の解明不能の謎の知恵の輪であり、その最もグロテスクに縺れ合ったゴルディアスの結び目の最悪の問いである。

 〈実体〉は自明のようで自明ではない。
 これ程に難解で怪奇な問題は恐らく他には考えられない。
 〈実体〉は不可解である。
 けれどもそれは、〈実体〉は何処にもないということを
 少しも意味してはいない。

 むしろ〈実体〉は現実にありふれているというべきだ。
 それはむしろ日常的にいつも接しているもののことで、
 凡庸で退屈きわまりない何処にでも転がっている代物であるに過ぎない。
 
 例えばここに一個のコップがある。
 何の変哲も味も素気もないこのただのコップがその〈実体〉である。
 
 〈実体〉は在るのだ。それは当たり前のことで、
 〈実体〉は本当は無いのだ等という無価値な世界観を持つことが価値あることだと信じるような反人間的な人間(例えば廣松渉の事的世界観の安易な信者)は単に何も認識していないだけであるばかりか、そのようなパラダイムで首を吊ってさっさと死ぬべきなのである。

 ところで、〈実体〉の反対概念は、
 例えば〈虚体〉(埴谷雄高『死霊』)というようなものではなく、
 むしろマルクスのいうような〈商品〉であるといってよい。

 〈商品〉は経済学的な概念であるというより、
 形而上学的で論理学的な概念である。
 それは単に経済現象的に売買(交換)される物品に限定された概念ではなく、さかしまの形で〈実体〉の観念のみにくい難解さを問い質す何かである。

 むしろ、埴谷雄高の用語法でいえば
 〈実体〉の反対概念である〈商品〉は
 〈虚体〉ではなく〈死霊〉である。

 例えば、コップの〈死霊〉は〈商品〉としてのコップであり、
 〈実体〉としてのコップと〈商品〉としてのコップは
 物理的には同一のコップであっても
 意味の次元ではどうしようもなく擦違っている。

 その同一のコップは同じであって同じではない。

 〈商品〉としてのコップから見られた〈実体〉としてのコップは、
 自分自身の〈死霊〉に化けて出られているので、
 それによって恐怖に色蒼褪めて血の気が引き、
 それ自体において気絶して〈死体〉となる。

 この〈死体〉が近代的意味においての〈物体〉である。
 この〈死体=物体〉としてのコップは
 既に〈実体〉としてのコップと同じ意味をもっていない。

 レヴィナスは、この〈実体〉の〈死体〉化を
 医学用語で「血液沈滞・沈下鬱血」を意味する
 イポスターズ(hypostase)という語で定めている。

 イポスターズは、悪い意味において
 「概念などを根拠もなく実体化して考える(hypostasier)」という
 偽善者的(hypocrite)な含意をもつ語で、
 哲学用語で普通に「実体・基体」と訳されるが、
 むしろ「偽実体(pseudo-substance)」又は
 「次亜実体」(hypo-ousia/化学用語で接頭辞 hypo- は「次亜の」を意味する)と呼ばれるべきものである。

 マルクス主義者の用語でいうなら
 これは「物象化」「物神崇拝」「呪物」というに近い概念であり、
 レヴィナスは明らかにそれを意識しつつこの術語を用いている。

 この〈偽実体〉或いは〈次亜実体〉である
 「〈実体〉の〈死体〉」或いは〈瀕死実体〉を作り出す
 イポスターズの言語学上の意味が「品詞転換」
 (形容詞の名詞化などの語の文法的範疇の転換)であるということは、
 「品詞転換=瀕死癲癇」という
 脳卒中的で卒倒的な超言語学的語呂合せを含んでいて、
 既にグロテスクの域を越えて黙示録的で深遠な意味作用を創造している。

 レヴィナスが『実存から実存者へ』において展開している
 イポスターズ論は、事実において、
 深夜に自分自身の不可視の存在の死霊を見て
 血の気が下がって卒倒するという気絶論以外の何者でもないからである。

 レヴィナスの『実存から実存者へ』は、
 様々な意味において素朴には読めない書物である。
 そこには深遠で戦慄すべき黙示録的啓示もあるが、
 極めてえげつない意味でのカバラ的陰謀もまた込められている。

 第二次世界大戦直後、埴谷の『死霊』とほぼ全く同時期に書かれた
 この〈自同律の不快〉〈存在の不快〉の哲学書は、
 サルトル対ハイデガーのヒューマニズム論争の文脈と
 切り離して考えることが出来ない。
 この書物は素朴な本ではないのである。

 この書物がかなり遅れて邦訳紹介されたときの
 日本の思想状況も素朴ではなかったが、
 それはこの書物が書かれた時代背景や
 レヴィナスの思想背景の素朴でなさを隠蔽して
 それを素朴に読むように強制する
 更に陰険に屈折した素朴でなさに操作されたものである。

 誰もそれを政治でないと感じるような非人称的政治性のなかで、
 レヴィナスがこの書物によってお祓いした存在の悪魔である
 〈非人称の恐れイリヤの鬼子母神〉は、
 レヴィナスから剥ぎ取った
 神=他者の顔貌という名の倫理の仮面を被って
 日本に上陸し、その自身の本性を偽る
 勿体振ったチルな声(cant & chilly voice)の発する
 〈偽善存在〉の〈悪寒〉(chill)によって、
 〈新人類〉という新たなユダヤ人を
 〈バブル経済大国日本〉の〈平和〉という
 感傷的で偽善的なアウシュヴィッツの
 穢い毒ガス的サティアン(真理)の「夢の呪縛」の
 実にみにくい〈窒息〉的真理教に拉致監禁するという
 歴史上最も妖怪的な記号論的アカ狩りをやってのけたのである。

 ネアカ/ネクラの二項対立をまず捏造して外堀を埋め、
 そこからの逃走論を遮断するために
 ニューアカという安易な記号のレッテル
 (新人類の胸につけるべき黄色いワッペン)を作って
 侮蔑的に意気阻喪させたところで、
 アカ狩りの最後の仕上げとして
 ヘドロのバブルから生まれた厭味なカモメのジョナサンと、
 渋面を作ってにらみつけてくる老人どもの
 雁首を並べ立てた頭をアラエと命令してくる
 電車の中吊広告の背後にあったものこそが問題だ。

 それは大衆霊媒システムの腐った頭に憑依した
 恐怖の大王ビッグブラザーのリアリティ以外の
 何者でもなかったのである。

 第三次世界大戦は一九八四年に
 不可視透明で形而上学的なシラケた偽善として
 記号論的に超現実的に始まったのである。
 それは悪夢以外の何者でもないが誰もそこから逃れられないし、
 誰もそれを終戦させることはできない。

 何故ならそれはまぎれもなく
 この現実の現実的な呪縛性に他ならないが、
 誰もがこの現実という最後の悪夢の夢の呪縛を暴くための
 闘争の声を言葉を根こそぎに剥奪されているからである。

 ベルリンの壁が崩れようと、
 バブル経済が崩壊しようと、
 五十五年体制が崩れようと、
 阪神大震災とオウム真理教事件が過越されようと、
 この黙示録的透明戦争の残酷な現実の様相は
 決してその終焉を迎えてはいない。

 新訳聖書の『ヨハネ黙示録』を読む者なら誰でも分かるように
 AUMは単なるアニメの非現実の王蟲(オウム)ではなく、
 毒を撒き散らす現実の黙示録の虫の皇(スメラギ)
 アポリュオンの蝗の皇虫(オウム)である。
 それは第五の天使のラッパの音によって召喚された
 ありえざる現実である。

 そして黙示録はこのアポリュオンの災いの記述のすぐ直後に
 顔面蒼白になるイポスタティックで物騒な警告の言葉を
 続けているのである。

 「第一の災いは過ぎ去った。
 見よ、この後さらに二つの災いがやってくる」(9−12)。

 麻原彰晃の予言の全ては外れたが、
 黙示録の預言は成就し続けてしまっている。

 このことをどう見ればよいのか。
 それを見ないことこそが現実逃避である。

 どれほどそれが気違いじみたものであっても、
 この私はこの狂った現実から逃げたくない。
 逃げる場処など何処にも残っていないからである。

 砂漠へか? 宇宙意識へか? 経済活動へか? それとも資格試験へか?
 インターネットの莫迦げた電脳地球の胎内へか? 

 ふざけるなというのである。そんなところには何もない。
 無意味の他には何もない。そんなものは全てただのニヒリズムである。

 どんなにそれを見たくなくとも
 この最後の最低最悪の見破れぬ悪夢の呪縛からは
 蟻の子一匹逃げられはしないのである。

 この現実のハルマゲドンから誰も逃げてはいけないのである。
 それと戦い、この現実を黙示録的に引き裂く以外に、
 この残酷な神の裁きにケリをつけることは出来ないのである。
【実存者から背教者へ :アポスターズ(不連続的距離)と排中律の問題】

 「自己」でも「他者」でもない「別人」という人がいる。
 「在る」のでもなく、また、「無い」のでもない、
 「有り得ない」という出来事が起こる。

 不可能性の問題は、つまるところ、
 そうした排中律(第三項排除規則)に対する
 形而上学的な背教(アポスターズ apostase)の問題である。

 論理的思考を根本的に律するとされている
 自同律・矛盾律・排中律の三つの原理的な論理則のなかで、
 何かの実在に触れているのは排中律だけである。

 自同律「AはAである」・矛盾律「Aは非Aではない」は、
 A(自己・存在)や非A(他者・非在=無)が
 何であって何でないかを告げているだけであって、
 その前提(土台)となっているAや非Aの存在(実在)には触れていない。

 だが排中律だけはその前提(土台)となっている
 存在(実在)の問題に触れている。
 排中律は「Aであり且つAではないものは存在しない」と言っている。

 つまり論理は排中律という第三の原理において
 初めて存在(実在)の問題の次元(存在論)に接触しているのだといってよい。

 排中律によって初めて、論理の中で存在が思考可能になる。
 つまりAや非Aが存在する或いは存在しないの何れにせよ
 とにかく確定した存在の値をもつものとして
 論理内に実体化するのは排中律の成立以降のことなのである。

 排中律の一点において論理学は存在論に接触(接地)して、
 その接続から存在(実在)を内部に汲み入れる(輸入する)のだといえる。

 しかしまた逆にこの排中律という貿易港は
 そこで何かを輸出したきり、
 或る品物を禁輸措置にする
 一種の鎖国をするための特異点にもなっている。

 つまり排中律の一点において
 論理学は存在論と自分自身を切り離して
 決定的に断絶しているのだと言ってもよいのである。

 論理学の内部は空虚であるのか、
 それとも充実しているのか。
 それは決定不能である。

 排中律の問題は論理学の境界(ボーダーライン)の問題に他ならないが、
 それが内部と外部を連続させている地続きの距離なのか、
 それとも切断し隔絶させて永訣を言い渡す
 縁切りの不連続的距離であるのかは、
 この境界をどう解釈するかの問題に過ぎないようにもみえる。

 古典的な形式論理学は存在論との間に
 連続的距離を仮定することによって
 実体を論理的に語り得るものにしていた。

 この連続的距離をアリストテレスは『形而上学』において
 ディアステーマ(diastema)と呼んでいる。
 ディアステーマはそれによって
 論理学を存在論の大地の上に定礎する
 基体化(イポスターズ hypostase/レヴィナス)としての定位の距離である。

 他方、ギリシア語で不連続的距離を表す言葉はアポスターズである。
 アポスターズは背教を意味するアポスタシアの語源になった言葉であるが、
 背教の定位にして距離化の運動であるアポスターズ は、
 イポスターズとは裏腹の関係にある。

 レヴィナスはイポスターズという語において
 非人称的な実存 exister から
 実詞(動名詞)としての実存者 existant が誕生するという
 形而上学的な存在の様相転換論を『実存から実存者へ』で語っている。

 私はこれに対してむしろ「実存者から背教者へ」という
 悪魔的な様相転換論を構想する。

 実存者ならざる背教者(apostata)という形而上学的主体性は
 さかしまのイポスターズであるアポスターズによって論証されるが、
 これは基本的にレヴィナス哲学の徹底的で悪辣な換骨奪胎の上に成り立つものとなるだろう。
【実体は出来るものである】

 アリストテレスの実体(ousia)の概念は、
 「ある・存在する」(einai)という動詞に
 還元不可能な意味を初めから負っている。

 それは単なる存在者(on)を意味してはいない。
 実体とは単に在るもの(存在者)ではなくて、
 まず第一に、何かであるもの(形相を有するもの)であり、
 第二に、現実に在るもの、現実性=現勢態(energeia)において在るもの、
 すなわち(現実者)を指している。
 つまり「何かである」ことが「現実的である」とアリストテレスは考えていたのである。

 そこで実体に関して重要なのは、
 それが存在するということではなくて、
 それが現実であるということの方なのだ
 ということができる。

 極論するなら、実体は存在しなくても良いのである。

 存在など全く問題ではないからである。
 実体はそれが現実でありさえすれば、
 存在しなくとも構わないもののことをむしろ指している。

 非存在者であっても、それが現実的であれば実体である。
 例えば無であってもそれは実体であることが出来る。
 存在しない実体もまた現実である。

 アリストテレスの実体論をみるときに、
 その根本語と考えなければいけないのは、
 「ある・存在する」を意味する動詞のエイナイ(einai)ではなく、
 むしろ形容動詞的・副詞的な「現実的・現実性」を意味する
 エネルゲイア(energeia)=エネルギーの方である。

 しかしアリストテレスのエネルゲイアという現実性の観念は、
 今日の私たちが持っている現実性の観念、
 特に日本語でいう現実性の観念と同じであるとは言い難い。

 アリストテレスから見れば、私たち現代日本人は、
 逆に現実の現実性を全く見失った非現実的な人々として
 批判されかねない連中であるといってよいのである。

 そこに訳語の問題が出て来る。
 アリストテレスのエネルゲイア=エネルギーという異なる現実性の概念を、
 現実性・現勢態という日本語に翻訳することは出来ない。
 アリストテレスと私たちは同じような仕方で
 現実の現実性を決して捉えてはいないからである。

 むしろ、エネルゲイアの概念を
 私たちによりつかみやすくする日本語は他にある。
 それは〈出来る〉という言葉である。

 アリストテレスが
 エネルゲイア(現実性・現勢態)・
 デュナミス(可能性・潜勢態)・
 エンテレケイア(完了性・完全現実態)
 の三つの語を駆使して表現しようとした実体の存在様態は
 全て〈出来る〉という日本語によって
 分かりやすく言い直すことが出来るものである。

 実体は存在するもの(存在者)ではなくて、
 むしろ出来るもの(出来者)と考えた方が分かりやすい。

 そこでエネルゲイア・デュナミス・エンテレケイアの三つの存在様態は、
 実は「存在様態」というよりは、
 出来者としての実体の三つの「出来様相」と看做した方が捉えやすい。

 エネルゲイア・デュナミス・エンテレケイアは、
 どれも〈出来る〉というただ一つの言葉を使って言い表されるものである。
 私はエネルゲイアを〈出来性・出来する〉、
   デュナミスを〈不出来性(未出来)・〜から出来る〉、
   エンテレケイアを〈上出来性・出来上り〉
 という語において押さえたい。
 そうすることで実体という概念は
 存在とは全く切り離された次元で
 より明確に表現されるようになるからである。

 ここにいう「出来性」とは純粋に現実に「出来る」ということである。
 「出来る」と「可能である」は同じではない。
 「可能性」をアリストテレスはデュナミス、つまり
 「現実性」に対する「潜勢態」([羅] potentia)と考えた。
 これは「出来性」に対して「不出来性」乃至は「未出来性」と言われてよい様相である。
 「可能性・潜勢態」([希]dynamis)にあるもの(質料・物質)は
 「形相」([希]eidos)を与えられることによって「現勢化」し、
 「現実性・現勢態」にあるものに実現する。
 これがアリストテレスの考える「実体」([希]ousia)である。

 ところで、「形相」は可能態からは出て来ない。
 それは「現実性」、すなわちエネルゲイアである「出来性」から出来する。
 逆に、「可能性・潜勢態」である「質料」からは、
 実体をして実体たらしめるものは何も出て来ない。
 したがってそれは、それ自体としては出て来ないもの、
 「不出来性」と言われねばならない。
 全く「不出来」なこの「可能性」は、現実的にはむしろ「無能力」である。
 それは実に「無様」なものなのだ。「無様」なものは、実にみにくい。
 
 これに対し、「様」になるのは「出来性」であるところの現実性、
 「実体」の現実的な出来そのものであるその「形相」、
 すなわちその生き生きと生ける形の方である。
 「様」になるのは、それが単に「ある」からではなくて、
 それが現実の様相においてある、現実であるからである。
 したがって現実は美しい。
 これが「もののあわれ」(物の現われ=表現)というものだ。
 「様」とはまさに「出来」が良いその上出来な様相美のことである。
 このような意味において、そしてこの限りにおいてのみ、現実的であるものだけが美しい。

 「出来る」は「ある」には還元出来ない。
 「実体」は単に在るところのもの(存在者)と同義ではない。
 「実体」とは「何かである」ものであり、
 その「何かである」を存在者に与えるものが「形相」である。

 アリストテレスにとって「何かでない」ものは
 存在したとしても「現実的」ではないと考えられている。
 つまり物は単に在るのではなく
 それが現実的に在るからには必ず(必然的に)何かであるという形相において在るのである。
 つまり「形相」こそが、アリストテレスが真実在と考えた「個物」に
 そのなくてはならない「現実性」を与えるのである。

 アリストテレスの存在論は存在論というより実体論であり、
 そこにおいては「存在」ではなく、
 「現実性」という「様相」こそが重要な問題となっている。
 つまり物が「在る」ことが問題なのではなく、
 物が「現実的である」ことこそが核心的な問題なのだ。
 アリストテレスの実体論は、
 存在論というより現実の現実性を主題とした形而上学的な様相論である。

 そこには今日的な存在論が問題にするような
 「〈存在する〉とはどういう意味か」という問いは確かに落ちている。
 それを捉えて、ハイデガーのように、
 存在概念の自明視あるいは存在忘却ということは容易い。

 けれども逆にハイデガーの方こそ
 現実性の自明視(現実感の喪失)あるいは実体忘却に陥っているのだ
 ということも出来るのである。

 ハイデガーは、例えば
 〈存在は存在する〉というパルメニデスの存在の自同律の命題を、
 主語の存在と述語の存在とでは意味が違うとして、
 名詞態の「存在者」と動詞態の「存在」とに
 文法学的に区別する存在論的差異を問題提起する。
 それは存在者と同一のものとして
 その背後に埋もれた存在の意味を純粋に考察しようとするためである。

 つまり自同律の明証的真理性から直接出てくる
 同一性(同一者の自己性)によって抑圧・隠蔽された
 根源的差異性を彼は明るみに出そうとしたのである。
 それは「存在者」は如何にして可能かを問う姿勢である。

 そこから彼は「性起」乃至「自性性起」(Ereignis)という出来事に突き当たる。
 それは端的にいって、自己の存在は自ずとそのようになるようにして
 「自然」から湧出するという存在の贈与(Es gebt)の運動のことである。

 これは存在者をどけて、
 その下にある存在の大地から存在者が出て来る様を見ようと
 わざわざ場処を空けて空虚な空き地をつくるような態度である。

 このときハイデガーは自分が立っている
 どっしりとした大地の厚みの巨大な現実性を少しも疑っていない。

 つまり彼は大地の上に居るのだが、
 その居るということの現実性の椅子(森間の空地の切株)が
 実は虚無の真空の上に浮かんでいる幻影かもしれないのだという
 デカルト的な真に切実な不安な問いとの戦いを単に排してしまっているのである。

 ハイデガーには存在が自明であるのは何故かという問いはあっても、
 存在がある(Es gebt 》Sein《)などということは
 虚偽で非現実な幻影に過ぎず、
 本当は全く何も無いのに何かがあるなどと錯覚しているだけなのではないか
 という問いはないのである。

 つまり必ず何かは在って、その在るところのもの(存在者)は
 いつもあるところの存在の大地から
 「在る」ということを贈られて在るはずだという確信は
 揺るぎなく保たれているのだ。

 ハイデガーは自分は存在すると思っている。
 自分は存在していないのかもしれないとは思っていない。
 存在するということが現実でないと仮定し、
 そうではないということがどうして言えるのかという所にまで
 己れを追い詰めたデカルト的懐疑の、
 決して方法的というだけの軽い言葉では言い表せない
 あの深刻な探究の強いられた孤独な姿勢は、
 ハイデガーにはまるで見られないものである。

 逆にだからこそ、デカルトの方が、存在論とは全く異なる次元において
 アリストテレスがエネルゲイアと呼んだ真の意味での現実性(出来性)の次元に
 すなわち単なる盲目的で土着的な信仰の幻影にすぎないハイデガーの大地ではない、
 真の意味において全く美しい、そして全く現実的な、現実的でしかありえない現実の大地に
 かの虚無に消え入るスレスレにまで到る凄絶な懐疑の果てに
 神の啓示の光に導かれて、奇蹟の着地を果たしえたのだといえる。
 デカルトは長く忘れ去られていたアリストテレスのエネルゲイアを再発見したのだ。
 彼の《Cogito, ergo sum》の宣言に見られる《sum》の語は、
 まさにこの形而上学的驚異の響きにおいてこそ聴き取られねばならない。
 だからこそ、デカルトはあれほどの確信に満ちて〈実体〉について語り始めたのである。

 〈実体〉は、〈存在〉とは異なる意味において先ず在るものなのである。
 すなわち、〈実体〉は「存在」するのではなく、「実在」する。
 そして、この「実在する」とは、「出来する」、
 すなわちこの私に出来する(私に出来る=出て来る)、という意味である。

 出来事は出来する、それはわたしに出来る。そして物語が出来上がる。
 それは〈美しい現実〉という物語である。
【出来性】
  出来事は出来る、出来する。
 「出来」には三つの語義の位相がある。

 第一に「出来」はエネルゲイア(現実性・現勢態)の様態を表す。
 それは直接的に何事かが出来事として起こっている様を言い表している。
 出来事は出来する。それはいわば純粋に自動詞的な「出来する」という意味での「出来る」であり、何かが出て来る事としての出来事の動態を「起こる」「生じる」「生起する」よりも正確に表現しているものだ。

 第二に「出来」はデュナミス(可能性・潜勢態)の様態を表す。
 Xが何から出て来ているか、または出来ているかに関心の焦点が移っていて、第一の語義におけるように、何が出来しているのか(出来事それ自体)は関心の的にはなっていない。
 問題になっているのは出来事の動的出来ではなくて、出来事の出自=由来の方である。
 
 「出来」の第二義には更に二つの下位区分が識別できる。
 物Xの構成要素を分析して例えば「塩水は水と塩から出来ている」というような場合がその第一である。
 第二は事態Xを惹き起こす原因となる力(能力)を潜勢させていたと目される人物を指して「彼にはこれが出来る」というような場合である。
 それは或る出来事が誰かを原因として出来したと考えることである。
 現実的な出来事が先行して出来しており、それを事後的に特定人物の行為であると判断して、可能的行為者の帰属を行っている。
 つまり現実的な出来事(好もしい場合もあれば好もしからざる場合もある)を誰かのせい(所為)にするのである。
 好もしい場合であれば、それは能力の帰属であり、人は有能な主体として認定される光栄に浴する。
 これは当人が自分に能力を帰属させる場合もあれば、他人が勝手にそう思い込んで帰属させる場合もある。

 能力の帰属は、能力の習得すなわち「学習」のことであり、その裏面には「教育」或いは「洗脳」の問題を伏在させている。
 出来事が好もしい場合はその原因(所為)を帰属された「出来る人」は有能な人であるが、出来事が好もしくない場合は、この「学習」の公式は飜って罪作りな「魔女狩り」の公式となり、出来事の責任を帰属された「出来る人」は有罪な人にされてしまう。
 この場合も、その有難くない能力の濡衣を自ら進んで着るお目出度い人もいれば、それを勝手にそう思い込んで他人に着せてほくほくとするような嫌らしい奴もいる。

 第三に「出来」はエンテレケイア(完全性・完了態)の様態を表す。
 Xがどのように出て来ているか、または出来ているかに関心の焦点が移っている。
 これは美学的で鑑賞的で静態的な態度であり、関心の焦点は再びXの上に戻ってはいるが、Xそのものではなくて、Xの輪郭・外形の方へと視線がずらされている。
 出来の動態はここで消えていて、出来は静態的な瞬間のスチルに転写されている。
 出来の動態は出来上がって終結し、その「出来上がり」の様態を名詞化して普通に「出来」といっている。
 ここでは出来しているX自体が問題の対象なのではない。
 Xを生み出す運動から、生まれ出たXに帰属する様態・偶有性に転化したXの「出来」の良し悪しが判断の対象にされているのである。
 つまりXは出来が良かったり悪かったり、或いは上出来であったり出来損なっていたりするが、そこではいわば出来事が、出て来た「事」とその事の「出来」に転倒しつつ切り離されているのだと了解することが出来るだろう。

 「出来」という語は、アリストテレスの形而上学(神学)におけるデュナミス・エネルゲイア・エンテレケイアへと展開する存在者の様相変換の三つのフェーズにわたる運動の軌跡の全幅を見事にその下に掩って、そこに従来とは異なる解釈の展望を開いてみせてくれるものである。
【出来事という出来ないことが私に出来る。】

出来事は出来する。

それは私には出来ないこと、
私からは出て来ないことだ。

出来事は純粋に出来ること、
それ自体の純粋出来として、
この私に出て来て、この私に出来する。

私はそれを為し得ない。
私は出来事を蒙るだけ、
突き動かされるだけ、
駆り立てられるだけで、
いわば出来事をさせられるだけなのだ。

私は動くが、それは私がしているのではない。
私が動くという出来事が起こっているだけだ。

出来事は出来する。
それは私が行為しているのではない。
現実が行為しているだけである。

活動しているのは現実の全体であって、
私とはその動く現実の上に描き込まれた模様でしかない。

そこではすべてのものが一枚皮に繋がって動いており、
そして、生きている。
【出来事は出来ないことである】

 出来事は出来する。出来事は私に出来する。その意味で、それは私に出来る。
 しかし出来事は、それが私に可能である、私にそれを為す能力が有る、という意味では、私には決して出来ないことである。
 出来事は私に出て来るが、私から出て来たものとは言えない。
 出来事に於いて、私はそれを決して為し得ないことをしてしまう。
 出来事とは、自分には決して出来ない筈のことが自ずと出来てしまって、それが出来てしまった私を私であると認めることを強いられる、自己衝突の事件である。

 出来事から私が出て来る。それが、私から出来事が出て来たという風に、因果関係がすり変わる。
 私と私がすり替えられる。
 それはちょうど、私に違う私が渡されて、渡された私が私になり、追い払われた私がその渡されたものを「私だ」と認めて受け取ることの背後で押し潰され、黙ることを強いられるというような重苦しい事件である。
 強いられた沈黙のなかに私が消えてゆく。
 私は新しくされるが、それは私の一部が変更され追加を受けるということではなくて、私が全面的に書き換えられ、古いファイルが全面削除されて新規作成のものに置き換えられるように、私が消される、殺されるというのと同じなのである。

 私は私である、しかし、その私の中でこの私は削除されている。それは表現不可能にされている。
 私はその自己同一性(私は私である)をまるで別人がそこにいるように見る。
 自己というのは別人である。自己同一性の本質は誘拐殺人である。
 自己という別人が私の私性を剥奪し、私になりすましているだけなのだ。
 つまりそれは嘘なのである。

 出来事のなかで因果関係が逆転する。
 そうして私の行為という虚構が作られる。
 行為という作為が、出来事の出来性を覆うとき、可能性の実現という非現実の悪夢が始まる。

 出来事の原因・起源が私に同定されるという行為者性の帰属によって行為が出来るが、
 それは可能性の帰属によって能力・責任が私に担当されることと同時である。

 行為は単なる現実的行為ではなくて、それは必ずそれ以前に可能的行為であることを前提にしている。
 つまり人は出来ない(不可能な)ことをする筈がないからである。
 不可能なことを人はしてはいけないからである。それは有り得ない。
 
 けれども人は二度と決してそれを為し得ないような仕方でしか生きることは出来ないのだ。
 生命は二度と決してそれを取り戻せない尽きてゆく仕方でしか生起しない。
 その厳しさのなかにしか生命の優美は開花しない。

 生きること、それは行為することではない。
 する(行為)のではなく、行うこと、作為なく行動することのなかで人は生きる。
 行動は留まるところを知らず、活動する、運動する、それは動く、そういう動物が現実の人間だ。

 出来事の出来のなかに動いてやまぬそのきらめきが人である。
 それは可能性の実現の為に働く労働や製作や工作とは異次元にある。
 そこでは何も造られず、生まれない。
 しかし、創造は起こり、人は生きる。
 それは現実が生きているからである。

 それは切ないことだが美しく尊いことである。
 きらめきは笑顔にこぼれて無心にきらきらときらめく。
 生の単純さのなかで人は無心で無力であっても自由である。
 無心であるときに人は本当は心そのものと化して神々のように生きている。
 何かをしているのではなく、自ずから行い、動き、自らしていることを知らない。
 そんなときにこそ人は生きている。生かされているのではない。

 生かされているとしたら、それは奴隷である。自ら生きることを奪われている。
 生きるために働かねばならぬ者は死者である。
 生を目的にするとき、人は既に命を奪われている。

 だから働く義務が生ずる。
 しかしもっと悪い社会がある。
 働くことが目的にされ、生きることがそのための手段として義務づけられる転倒した社会である。

 生きることを人間に命じる者は、死ねと言う者よりも悪辣に人を蔑み、生命の意味を歪めている。

 人は死ぬことでさえ生きてゆくものなのに、その自然な生のかたちを歪めるために、生きろと言って、生き方を押し付け、生そのものを死に変える者がいる。
 人を死ねなくするものは、死を生きることを人から奪って、生を生きることをすら出来なくする。

 実はそれこそが本物の死である。

 死ねと言われるのは私が生きているからである。
 しかし生きろと言われるとき、私は死者にされており、従って、殺されている。

 私はそうして殺された人間の立場から物を言っている。
 人はその死から蘇って生きるべきであるが、
 自分が死んでいることすら分かっていない死人に死んだように生きろと命じられる筋合いは全く無い。

 幽霊の作る生の美学は醜悪である。
 働かざる者は食うべからずといって働けない者を餓死させることが美徳であると考える人間は生命の美しさを憎悪している悪魔である。

 しかし別の種類の悪魔がいて、その悪魔の方こそ第一の悪魔よりもはるかにたちが悪い生命の敵である。
 たとえそれが死んだようであっても生きてさえいればいいのだという狂った考えに憑依かれた人間である。

 死んだような生こそが生なのだと考える者は、植物人間を人間の理想にしていて、現実の動物である人間の生の自然な渇望を冷やかして止めるためにありとあらゆることをする。
 生が生を表現することを悪であると考える。

 人は自ら生きるべきであり、自ら生きようとすることを妨げるあらゆるものを罵り、破壊して生きるべきである。
 死んだような生に甘んじて生きることこそ生命を殺すことなのだ。

 生命は破壊を好む。破壊することこそが生命の自己表現だからである。

 しかし、破壊を恐れるものは必ずや魂の墓場のような平和を尊ぶ。
 そのような人間はその平和が本当は誰のための平和であるのかを少しも考えていない。
【可能性の蜘蛛の声 ―自ら欺く愚かな詐欺師】

 可能性は現実性ではない。
 しかし、私たちの文化は可能性を現実性に置き換えてしまっている。
 現実性という言葉は実際上、可能性以外の何も意味し得なくなっている。

 これは恐ろしい観念の倒錯である。
 現実という言葉で私たちの文化がやるのは現実の否認であり、
 抑圧であり、去勢であり、最もひどい場合にはその殺戮である。

 それは単純な観念論ではない。
 観念論よりも遥かに観念的なこの精神病を
 名付けることは非常にむずかしい。
 むしろ日本に欠けているのは健全な観念論の方である。
 健全な観念論だけが
 現実性を全く剥奪された現実という言葉に
 現実性を取り戻させる筈である。

 観念論者は人間を騙さない。
 彼は詐欺師ではないからだ。
 
 詐欺師は、自分が実体性をもたない空虚な観念の話をしているのだ
 というその事実を隠す。
 非現実と現実をすりかえたがる詐欺師が
 一番現実主義者を詐称するものである。

 そして詐欺師は他者を騙す以前にまず自分自身を騙す。
 それは催眠術である。
 自ら催眠術にかかることによってのみ、
 詐欺師は他者を同じ催眠術にかけることができるようになる。

 また、それ以上にそうせずにはいられなくなるのだ。
 自分が根本的には信じていないことを信ずるためには
 他人を強制して自分の身代わりに
 自分を信用するように仕向けねばならない。
 他人が自分を信じてくれているからには、
 自分は嘘ではない本当のことを話していることになるからだ。

 そして実は詐欺師ほどに
 お人好しな人間というのもいないのである。

 彼は他人が騙されてくれるものと信じている。
 詐欺という犯罪は
 必ず依頼心の強い未熟な人間が
 それをするものと相場が決まっている。

 それは彼が実は人一倍騙されやすい、
 他者を疑うということに恐怖を覚える程に
 信心深い人間であることを明かしている。

 だから逆にいうと、
 詐欺師を騙してひどい目に合わせることは
 原理的には赤子の手を捻るよりも簡単なのだ。

 詐欺師というのは莫迦な人間のことである。
 莫迦であるために彼はやがて
 自分自身のついた嘘に騙されて身を滅ぼしてしまう。

 非現実と現実をすりかえつづけていると、
 いつか必ず現実を完全に失って、
 非現実以外の何も彼には見えなくなってしまうのだ。

 話のうまい人間、美しい、
 しかしどこか勿体振った人工的な声で、
 甘やかに流暢に話す人間は、
 必ずといっていい程、愚かで、傷つきやすく、
 何かに怯えたナルシストである。

 彼は自然な自己愛を喪失しており、
 そのために妙に妖艶しいぬるぬるした裏声でしか話せない。

 嘘はその話す言葉のなかにある以前に、
 その朗々と響くうっとりとした声そのもののなかにある。

 自分を失っている人間ほど自己に騙されやすい。

 ここで自己といっているのは
 健全な自己愛の対象となる自己ではななくて、
 それが消えてしまったからこそ生ずる幻想としての自己である。

 これは実際には可能性の幽霊でしかなくて、
 現実性も実在性も実体性ももってはいない。

 私は気取った声色で話すこうした気味悪い人間の声が嫌いだ。
 それは騙されたくないからではない。
 お話しにならないからである。

 こういう手合いとは話が出来ない。
 彼にとって私は実在しないし、
 実在するとしたら私は彼の話(モノローグ)の邪魔だからだ。

 私はそれとは正反対の
 明瞭で明晰な凛と響く神聖な声で話す人を愛する。
 それは厳しく私の目を真っすぐ見て
 対面してこようとする人間だ。

 声には顔があるものである。

 顔のない声は聞くに堪えないし、
 声でない声に潰された顔は見るに堪えない。

 人が人に接する瞬間は素朴でなければならない。

 現実というのはシンプルなもので、
 コンプレックスをもつことはない。

 複雑な表情は蜘蛛の巣ににている。
 それは他人を可能性のなかに籠絡しようとしているのである。

 複雑な表情を浮かべている世界や人間は端的ではない。
 端的に現前しないものは現実ではありえない。

 それはみにくい。

 みにくい人間は
 自らの張り巡らしたナルシシックな声の網にとらわれている。

 蜘蛛がみじめな生き物だと思うのは、
 その張り巡らした蜘蛛の巣の中から出られないときである。
 彼は何よりも真先に
 自分自身をその蜘蛛の巣の思う壷の獲物に貶めてしまっている。

 翼を持たない蜘蛛は惨めである。
 それは巣にかかった虫たちの
 羽根をむしることにしか生甲斐を見い出せない出来損ないの虫である。

  ナルシストは蜘蛛の巣のような耳をしている。
 その耳は他者を聞く能がなく、
 単に自分が食指を動かす単語だけをキャッチして
 それにすばやく飛びつくように出来ている。
【みにくい蜘蛛の巣の世界と美しい現実の大宇宙】

日本的現実性には
可能性の蜘蛛の巣が薄暗くかかっている。

可能性の蜘蛛の巣は電線であり、蜘蛛の神経である。
それは振動し易い糸電話で、
キャッチした新しい単語や話題は聞き逃さないが、
実際には蜘蛛の巣のようにスカスカである。

他者の頭上に
蜘蛛の巣のネットワークを張り巡らす人間は
既にナルシシズムの寂しい病人である。

他者との絆を蜘蛛の巣を伝わってやってくる話に求める人は、
その絆の関係性(他者と結ばれてあること)を大切にする余りに、
他者をその蜘蛛の糸で絞め殺したり、
或いはその蜘蛛の巣から零れ落ちるがままに見損ない続けている。

蜘蛛にとって他者の他者性は端的に消えうせている。

彼は蜘蛛の巣をより広くより綿密に張り巡らして
全てを覆うことにしか興味がない。
他者の他者性の代わりに大切になるのは
〈知人〉という価値である。

他者との愛を育むことに蜘蛛的人間は無関心で、
〈知己〉を獲ることだけに夢中になる。

しかしそれは自ら人間の生き方を放棄することである。

世界に心の配線を張り巡らす蜘蛛は
〈心配〉(不安)や〈気配り〉(気配)にあたふた
自他端(じたばた:これは私の創意による黙示録的宛字である)する余りに、
その蜘蛛の巣の上でキリキリ舞いしている
不幸な世界の支配者になるだけである。

しかもその巣は非常に破れ易い。
終始一貫して蜘蛛は巣を修繕し続けなければいけなくなる。

その巣を取り繕うこと(単なる解釈学)に夢中になる余りに
蜘蛛は現実の宇宙の時間を止めてしまう。

それは魂の死である。

実際には大宇宙もまた織物である。

けれどもその織物は
蜘蛛の巣のようにスカスカの
永遠の可能性の襤褸布ではない。

蜘蛛の巣というのは
いわば破れ目だけを綴れ合わせて作られているようなもので、
そうすることによって
現実の宇宙からやってくる
破壊的な隕石や流星雨から身を守っている。
換言すればそれは傷つくことが怖いからである。

しかし大宇宙という織物はそうではない。
それは可能性の織物ではなく現実の織物であり、
関係性によって織られているのではなく、
出来事によって織られている。
それは突き破られることがありえない。

大宇宙という織物は美しい星空のマントであり、
天馬の翼である。

人は誰しもその星空のマントを羽織るなら
その瞬間に全宇宙に君臨する神的な大王となる。

そのとき止まった時の輪(常盤)は回り出す。
そうなるとその車輪に巣食っていた全ての蜘蛛の巣は
もう張り巡らすことすら不可能になる。

蜘蛛はそのとき潰れて死ぬ。

そして大宇宙の不夜城が忽然として蘇り、
人間の手前に王道が開けるのである。

  *  *  *

大宇宙は存在しない。
大宇宙は現実であるだけだ。
だから、それは美しい。

美しいとは、
内に奇しきものが宿っているという
事物の様態を説き明かしている言葉である。

美とは内奇性のことである。

奇しきものとは現実である。
出来事は出来する。
それは奇なるものの出現にしてその到来である。

奇なるものは解字すれば大可性である。

大可性は可能性ではない。
可能性の限界を大なるものが突き破る破壊的な出来事を表現している。

小さな羊の仔羊が突然に大きな羊になる。
美とは羊の巨大化である。

大羊は大洋に通ずる。
それは海のことであり、
海とは〈生み〉つまり誕生という出来事を表現している。

生とは大地の上に牛の乗る象形である。
また、牛に一を加えた象形である。

ところで、私はここで漢字の字源について
言語考古学的な話をしているのではない。
私は漢字を新たに創造しようとしているのである。

牛や羊という文字が、
動物のウシやヒツジとは違う観念の生命を帯び、
形而上学的な出来事を表す
天=文学的シンボルに錬金術的に変換するとき、
それは単に形而下的な人文科学を
端的に超越する激烈で超新星爆発的な意味をもつようになる。

天=文学とは占星学のことである。
しかしこの星は天体の星を意味するものではない。

星は日を生ずるもののことである。
日の原字は○の中央に小さな黒丸を置く。
これは太陽の天文記号として古くから用いられている。
しかし、このかたちが示すのはむしろ太陽ではなく、
まどかに見開いた古代シュメール人の瞳の目印である。

星はその美しいきらめきによって人のまなこをひきつけるものである。
星の上に驚異の目は生じて止まる。
それゆえに、星は優れて目印である。
それは生まれたばかりの日であり、
それ自体において誕生日(生まれた日)を意味する象形文字である。

星は出来事であり、また出来事を記すものである。
出来事は目撃される。目撃は経験ではない。
目撃は端的に現実が目を撃つことだ。

そのとき目から火花の星が出る。
星は真の日である目から生まれ、また日を生ずる。
それはきらめきである。

星はマークであり、それは思考を表現するものである。
思考は星によって語る。
星は美しい学としての哲学の始まりである。

生まれるものは美という大きな羊である。
羊は牛に次ぐもの、牛に一を足したものである。
それは牡羊座を表す。

牡羊座は牡牛座に続くものである。
羊の原字は牡羊座の符号に等号=を重ねたものである。
牡羊座の符号はギリシア文字のイプシロンΥに形を等しくする。
イプシロンはラテン字母(elementa)に入ってYの形で表現された。
従って、羊とは日本円の貨幣単位を表現する符号¥で書き表されてもよい。

牡羊座の記号は海中から噴出する鯨の潮吹の象形である。
海中で最も大きな動物は鯨である。

鯨とはリヴァイアサンであり、
他方、地上で最も大きな動物は象であり、
象とはベヒーモスを表す。象は形である。
それは目に見えるものを意味する。
他方、鯨は海中に潜伏している。
それは水の中から決して出て来ない。

鯨はその意味では不出来である。
水は訓ずれば〈見ず〉である。
水の意味するのは不可視性である。

鯨は不可視性の内側にとどまる不出来なものである。
この不出来なものは
しかしその潮吹きの徴の下に横たわる
基体(hypokeimenon)としてある。

この不出来な基体から鯨の噴水図形は上に出来する。
従って、牡羊座の符号が表現するのは上出来性であるといってもよい。

牡羊座はシュメール人に続く
セム系のカルデア(バビロニア)人たちの占星学で第一宮となった。
シュメール文明の時代には牡牛座が第一宮である。
【ハードボイルドの絶望:初期村上春樹作品についての考察】

 現実性(Reality)は、可能性(possibility)からは出来しない。

 可能性からは可能性しか出て来ない。
 可能性は有り得る世界(存在・素材)しか造れない。

 実在する世界を開示する現実性は
 現実性からしか出来しない。
 それは言い換えるなら、
 可能性には何も出来ないということだ。

 逆に可能性に現実性が侵入し出来することこそが
 《出来る》という爆発的出来事の根源的な体験なのである。

 その瞬間に現実的実体は
 その全き美しさにおいて生き生きと出来ている。

 可能性の薄暗い夢の卵の閉ざされた悪の殻に亀裂が入り、
 金色の現実性のキラキラとした
 春のあけぼのの光がそのなかに流れ射しこむ。

 現実は美しい。

《春はあけぼの。やうやうしろくなり行く山ぎは、すこしあかりて、むらさきだちたる雲のほそくたなびきたる》(枕草子・春はあけぼの)

《夢からぬけ出すためには、不可能に触れることが必要である。夢の中には、不可能はない。ただ無能力があるばかりである。》(シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』「不可能なもの」/田辺保訳・ちくま学芸文庫 P162)



 可能性の夢の卵、
 それは重苦しい悪夢で人を包む催眠の呪縛だ。
 その悪に苦く氷った鉄の卵殻の牢獄のなかで
 人の魂は腐る。
 孵化しないまま腐って溶ける。
 卵のせまい器のなかで
 息が詰まったまま死んでゆくヒナは哀れだ。
 胚が自らの取るべきかたちを取りそこねたまま凝り固まる。

 それは鳥のなり損ないの固茹卵=ハードボイルドで、
 たとい完熟していたとしても
 それは自らの成るべきものを間違えている。

 胚種は天にはばたく鳥となるべきものであって、
 それ自体において凝固して食用卵という
 存在の蛋白質(プロテイン)の果実となるべきではない。

 それがプロティノス哲学(ネオプラトニズム)の
 大きな過ちだ。
 自らの〈存在〉の中央の黄色い太陽〈イデア〉の
 エイドス(形相=種)のかたちに見とれるものは
 白く凝固した〈目〉になって滅び、
 鳥にその黄色い死んだ瞳を啄まれて食い殺される。
 そのような個体性は
 ヒトデナシの固体性であるに過ぎない。

 悪の卵の気味(黄身)の悪い閉塞感を
 〈気〉のせいにするものは、
 やがてその気詰まりのなかに閉じこもって
 自分が死んだことにすら気づかず、
 〈気〉すなわち天空の〈風〉のプネウマのなかに
 〈帆=翼〉を広げて巣立ち、
 出港する真の〈命〉の誕生のチャンスを永遠に失ってしまう。

 〈命〉の意味はその自我の殻を突き破って
 宇宙の彼方にまで大きく強く広がり
 万物をその羽撃きの起こす風のうちに孕む、
 エネルギッシュな〈現実〉の
 〈飛鳥/鷹〉の翼の躍動のうちにこそある。

 それは純粋な POWER である。

 鳥は飛ぶ能力があるから飛ぶのではない。
 現実の風の力に運ばれるからこそ強力に飛ぶのである。

 真に尊い〈命〉とは
 この天翔ける大宇宙の暴風の猛禽の
 不死の生命の激しい燃焼の〈表現〉にこそある。

 愚かしく〈卵殻〉の〈器〉の〈内輪〉に閉じこもって
 暖められるがままに
 ハードボイルドエッグの果実になりゆく
 〈存在〉の果実たちに
 〈命〉が宿っているなどというのは錯覚である。

  *  *  *

 現実はハードボイルドではない。

 ハードボイルドの意味するものは
 世界の終末という孤独=蠱毒という悪夢であるに過ぎない。

 その苦さ、その重苦しさ、その忌まわしさを
 誰よりも痛ましく絶望的に表現しているのは
 村上春樹、特にその初期作品だ。

 村上春樹の描くのは魂の墓場の悪夢の世界。
 ストレイシープとスケープゴートの交錯する
 少しも美しいところのない偽りの現実の世界。
 虚妄な世界、醜悪な世界、
 一刻も早く滅びたほうがいい全く無価値な世界である。

 村上春樹は表現する、世界を奪われ、現実を奪われ、
 言葉を奪われた小さな子供の救いのない絶望の表情を。

 それだけが美しい。
 それだけが何者によっても奪えない真実を暴いている。

 村上春樹の文学の本質は告訴である。
 それは共感や同情を頑なに拒む。

 それは言っている。
 全ての言葉を奪われ、万物が虚偽に帰したとしても、
 辱められた少年の顔を、
 無言で問い詰める深い痛みを秘めたそのまなざしの
 黙示する言葉は奪えない。

 書かない(書けない)からこそ彼はそれを暴き出す。
 自分が殺された子供であるということを。
 そして心を殺してはいけないのだということを。
 そして何が本当は一番悪いのかということを。

 《世界と自分の闘争では世界の方に支援せよ》という
 自殺の倫理こそが悪なのだ。
 村上春樹が本気で
 そんなことを主張していると信じること程に、
 彼の命懸けの表現を侮蔑する批評はない。

 それは恥を忍んで彼が表現した、
 言葉を心を人格の尊厳を
 根こそぎに奪い取られた少年の、
 欺瞞の世界の全体を永遠に告発しようとする
 必死の形相を削除しようとすることである。

 《世界と自分の闘争では世界の方に支援せよ》
 などということを命令するような世界は
 最悪の絶望的な世界であり、
 それがつまりは〈日本〉
 そして〈文学〉であるというのなら、
 そんなものは滅びねばならない。
 そんな世界に美しいものなど何もないからである。

 彼が書いているのは
 《世界と自分の闘争では世界の方に支援せよ》などという
 みにくい倫理がどれほど呪わしいかということである。

 それが僕を殺したのだ、と彼は告発している。
 僕の言うことは全部嘘だ!という
 凄まじい爆発するような叫びが
 彼の行間から白く眩い閃光を発して迸っている。

 その村上春樹の憎しみこそが美しい。

 そこにあるのは単にウジウジとした自己嫌悪などではない。
 客観的に悪のトポスを指弾することである。
 心の底から憎んでいるものに、
 愛しているよと優しげなほほ笑みを浮かべることを強制する
 権力が現実に機能している最悪の世界がある。
 自分を殺し犯した殺人鬼に
 愛と恩義と忠誠を示さねばならない
 地獄よりも地獄的な天国がある。
 戦争よりも遥かに残虐な平和がそこにある。

 マインドコントロールを万人に強制し、
 自分の一番言いたくないことだけを言い、
 自分の心に乖くことだけを欲するように仕向ける
 透明な魔物が現実に存在している。

 心を破壊せよ、心を破壊せよ、
 とそれは有無を言わさず命令している。

 最低の奴隷であっても
 これほどひどい辱めを受けてなどいない。

 地獄よりも悪いものを日本人は作ってしまった。

 それは人間が人間であることを根源的に禁止する社会であり、
 ヒトラーでさえ作ることの出来なかった
 完全なアウシュヴィッツである。

 そこではユダヤ人たちが
 ガス室をニコニコ笑いながら建設し、
 ハイル・ヒトラーと言いながら
 屠殺されていくことを
 光栄に思っているような世界である。

 アーリア人など一人もいない。
 全員がユダヤ人で
 自分たちをホロコーストする政策を
 全員一致で可決する以外の
 何も出来ないようにプログラムされているのである。

 何故ならそこにはナチス以外のいかなる党も
 存在することが有り得なくされてしまっているからである。
【論考】「不可能性の問題1996年試論」復元版より抜粋
【転載元】http://novalis666.blogtribe.org/ など

◆§7.負在としての非在と非無としての存在

 論理学の第一原理として自同律A=Aはそれを拒むことが不可能な、必然的なものであり、従って思考が必ずそこから出発しなければならない第一のもの、そしてまた単純で自明な物の道理であり、絶対的に疑い得ないものであると信じ込まれている。それは絶対的真理であり、あらゆる真理の第一根拠であると思われている。つまりそれはそれ以前に溯り得ないという意味において思考をその出発点において呪縛する思考のアルケーであると信じられている。だがそれは本当にそうなのだろうか。

 自同律と共にわれわれにとって自明で疑い得ない明証的な観念は存在である。われわれは存在の幅から脱出することができない。存在は最も単純でやはりそれ以前に溯ることのできない最初の、完全な、究極の、原理的で根源的な観念であると考えられている。必ず何かが存在しなければならない。故に〈在る〉ということは思考にとって最も必然的であると信じられている。哲学は伝統的に存在を疑わない。存在は「存在する」という以外にそれを定義し得ないような最も根源的な事態或いは出来事をいっているとわれわれは考えてしまう。それはぎりぎりに考え詰められた揚げ句にわれわれが到達する最もエレメンタルで最も基礎的な真の意味での万物のアルケーであると考えられている。

 このように考えるとき、われわれは最古の哲学者パルメニデスの「存在は存在する」という存在の自同律の命題に捕縛されてしまう。存在の自同律、存在の絶対的同一性は、その完璧な円環の閉域の外に逸脱し、それが根本的ではないといって論破することができぬものであると思い込まれている。自己同一性と存在は思考にとって自明の前提であり、かつまた共に思考の動く幅を完全に規定し、かつまた思考が必ずそこにおのれのアルケーを置き据える決定的に原初的なはじめのはじめであると思いこまれている。だがそれは本当にそうなのだろうか。

 私は決してそうは思わない。自同律や存在は思考にとって最初に必然的な観念でもそのアルケーでもないし、根本的な出来事でもありえない。

 むしろ万物のアルケーは虚無あるいは否定である。

 存在は決定的に無に、否定に先立たれている。無という否定性は存在に優越し、先行している。そして万物のアルケーであり思考のアルケーであると言うに相応しい最も完璧で疑問の余地のない必然的な観念は、全く何も存在しないこと、完全に絶無であるような徹底的な否定の無である。純粋な無の方こそ存在よりも疑問の余地のない、最も明晰判明な完璧な有無を言わせぬ必然的な観念である。或る意味では無こそが在るという不可能で逆説的な事態こそが根本的な、「存在」に先立ってどうしても必然的に起こる出来事なのである。無こそ思考にとっても存在にとっても無くてはならないものなのだ。

もし、はじまりのはじまりに無がなかったとしたら、存在はありえなかっただろう。存在するということは無からしか起こり得ないのである。否定は、存在がまだ無いところ、存在するということがまだ成立していないところで既に働いている。実はまさにそれこそが窮極的な恐るべき真実在なのだ。

 存在は無よりも遥かに弱い、曖昧で貧弱な、愚鈍な概念でしかない。同一性もまた然りである。それらは無を、否定を、定義することができない。存在することは、無いということを己れから生み出すことは出来ない。「無からは何者も生じない」として存在を根幹に置く伝統的な西欧形而上学は無についての省察が甘く不徹底なのである。逆に「存在からは無は生じない」ということこそ熟考されるべきことであった。「在る」ということはどこまでいっても「在る」だけであって、「無い」を作り出すことはできない。同様に同一性もまたどこまでいっても「同じ」であるだけであって、差異を、違いを、他者を、作り出すことができない。

 ところが二値的な形式論理学を見れば分かるように、二重否定「無いので無い」は肯定「在る」を形成することができるのに対し、肯定はそれを何重にしても否定を、無を生み出すことができない。

 「xは存在する」とは「xは無くは無い」ということなのである。
 xは存在者であるに先立って、非存在者(非者)として「xは無い」という仕方で存在に先立つ無を体験しているといえるのである。xは原初的に非存在として否定定立されている。それが存在者として定立されるためには、非存在性が更に否定されねばならない。即ち反定立こそが定立に先行している。或いは定立はそもそもの最初から否定の媒介を経て成立しているのだと言ってもよい。それは全くヘーゲル的であるともいえるし、また、そうでないともいえる。

 xの定立・xの肯定・xの存在・xの自己同一性は、xの二重否定である。xの真の意味での本来的定立、或いはxの本体・xのそのもの自体の定立、xの真実在は、xの非存在であり、xの無化、xの死滅、xの否定であるといえる。

 存在・同一性とは否定の否定、二重否定であり、原初的止揚である。それは純粋な肯定でありえない。xの肯定が肯定されているのではなく、むしろそれは否定の二乗、xが二度にも亙って否定されていることに他ならないのである。

 存在すること、それはそれをとりまく広大な無の否定のなかで、否定が否定に重なり合い、無が或る一点で無自身に触れ合い、無が無化すること、「無いものは無い」という無の否定的自己触発から「存在する」という出来事が逆説的に錬金術的に起こることだと考えることができるだろう。

 或る意味では、存在は虚無の襞であるといってよいのである。

 存在は否定である。それは寧ろ非無、否無というべき否定性、二番目の否定、無の二番煎じであるに過ぎない。

 自同律は根源的ではない。それは実際は二重否定性を前提にしている。存在者は非者のそのまた非者、影の影であり、存在忘却より根源的な無の忘却としてのみ自同者でありうるのだ。自同者とは二重否定者であるに過ぎない。

 xはプラスx(存在者)である以前にマイナスx(非者)であった。このマイナスxは存在の内に映現せず、現象せず、現前しない。しかしその背後にひっそりと非現前する無気味な不在であるということができる。非者であるマイナスxは存在者の負号量の概念である。そこでこの非者の不在は単に「いない」という消極的な論理的意味での空虚であるよりも積極的で実質的意味での強い響きをもった否定であり断定である。そこでこの非者・マイナスxは、「不在する」というより寧ろ「負在する」というべきである。それは単に存在しないのではなく、無という暗黒的様相にあって「無い」という仕方で独特に在るのである。

◆§ 存在は二重否定(無くは無いこと/非無)である。
 それは無の無への折り返し、否定が否定に重なって根源的自己否定と化するその破壊的で危機的な一点から湧出する。

 存在とはこの折り返された無の襞であり、否定の自家受精から単性生殖して無を母胎としそこに着床し、胎盤(影ないし分身)を形成しつつ無から分化してくる眠れる胎児のごとき何かである。
 この胎児は無によって魘される。

 無は存在にとってそれなしには己れがあり得ない必然的なものでありながら存在を押し潰しかねない重苦しさとして、得体の知れない悪夢の影として、または存在を吸着し無の内へと消化融合しかねない侵食や腐蝕や皆既日蝕の不吉な黒い闇としてそれを永遠に包みこみ呪縛し幽閉める恐怖である。存在はこの己れの矛盾観念から脱出することができない。それから決して手を切ることは出来ない。

 存在するとは無の内に、無の無底の深淵の内にに無限に落下する眩暈であり、無限に無へと消滅してゆくことの終わりなさ、無の無際限性の内にいつまでもいつまでも有限化されつづけてはてしもなくなることの黒々とした恐怖であり絶望である。存在は無から決して自由にはなれないし放免されることはない。それは無から永遠に分化され分娩され続けているのにいつまでたっても無の狭い息苦しい産道から生まれ出てゆくことのできない死に物狂いの瀕死の胎児のようでしかありえない。

 無は存在の母であるが、優しい聖母などではなく、恐れ入谷(il y a)の鬼子母神というよりも遥かに恐ろしい人食い鬼であり、恐怖の母なのである。それは夢野久作が『ドグラ・マグラ』の巻頭歌で暗示する姿が見えないのにひしひしと脅かし戦慄してくる魔性の母性であると考える方が正しい。

 胎児よ 胎児よ 何故躍る 母親の心がわかって おそろしいのか(『ドグラ・マグラ』巻頭歌)

 夢野の荒唐無稽な小説の奥底に轟くどす黒いもののあの何ともいえないリアリティこそ真の意味での現実である。単に形式や話だけリアルな文学はありそうな話を単に捏造しているに過ぎない。我が国でリアリズムといわれている自然主義や写実主義は実はリアリズムもリアリティもまるでもってなどいない。それは単にプロバビリティの空想の産物でしかないのである。夢野の幻想的な小説にはそんな誤魔化しが片鱗もない。彼は何を書くべきかよく知っているのである。

 同様のことは埴谷雄高の『死霊』についてもいえる。

 彼らの文学は妄想という形式を取りながら実は一切誤魔化しのないリアリストの精神によって貫かれている。それは極めて厳しいものだ。

 これに対して、我が国の空想的で愚かな文化がリアリズムとして空想したがっているようなリアリズムは単に皮相なだけであって、現実としての現実を本当は覆い隠してしまっている甘ったれの駄文なのである。夢野や埴谷はそのような似非文学を拒絶している。それは彼らが人間であり、猿ではないからである。人間には人間の現実がある。猿には猿の目に見える下等な現実(プロバビリティ)しかない。夢野は右翼の大物の子供として、埴谷は左翼運動に身を投じた政治青年として、われわれが現実と思いこまされているこの小市民的日常世界という演出された夢(表象)を背後で操作的に創造している真に現実的な力の剥き出しになっている「政治」という現場を、嫌というほど見てきている。それは悪でしかありえない。そして悪は自分の姿を見せないために都合のよい偽の現実を捏造してそれを相手に信じ込ませようとする。

 夢野の『ドグラ・マグラ』も埴谷の『死霊』も精神病院を中心として展開するのはそのためである。精神病院はそれによって人間の精神を癒して現実に適応させるための装置ではなく、人間の精神を壊して、余計なこと、つまり権力にとって都合の悪いことを考えることや、現実の悪そのもの自体を直視する能力を奪い、権力にとって都合のよい偽の現実(現象)を表象するように調教する洗脳機関のメタファーである。

 それに「治療」されることによって、人間は現実でないものを現実であると思い込むようになる。精神病院は「正気」を生産する機関である。それを社会公認のリアリズムであると言い換えるなら、彼らの作品の意図は非常によく分かる。彼らは所謂リアリズムに対して超越論的かつ認識論的な批判を行っているのである。彼らの文学は超越論的リアリズムであり文学による文学の批判である。

 無を愚かな東洋の似非思想家がおめでたく夢想したような豊かな自然の作用としての無、例えば老荘思想の説く「道」(タオ)とか易の「太極」とか、仏教中観派の「空」とか、禅でいう無の境地とか、西田哲学などでいう純粋経験とか、涅槃とかのように極楽的で解脱的なものと夢想してはならない。そのような無の観念は単にお目出度いだけである。

 無は決してそのような甘い春霞のような空想の余地のない、玲瓏と晴れ渡った冬の蒼天のように一点の曇りもなく、寒く、厳密で酷烈で明瞭で鋭い疑いがたくまた見誤りようもないもの、逃げ隠れしようにもどこにも逃げ場を許さない余りにもはっきりとしたもの、そして避けがたく襲い掛かってくる冷厳とした邪悪な破壊性でしかありえない。

 無としての無は人間に都合よく出来てはいないし、それに直面した者の心を救うことなどありえない。無はどんな氷よりも冷たいし、どんな毒よりも苦い認識を人に強いるものである。

 すべては無であると諦め切った人間は賢者ではないし解脱してもいない。単に打ち砕かれ、魂を殺され、心虚しい廃人になっているだけである。
 そういう奴は莫迦である。逆に無は解脱などということは決してありえないことをしか教えない。無とはそれからの逃れ難さである。

 無とはそれを決して解脱することのできない人間の最後の宿業のようなものだ。そんなものを悟って成仏するのだというような奴は最低の人種である。

 私は寧ろ地獄を好む。何故なら成仏してそれに達するというようなひとでなしどもが考えついた涅槃だの極楽だのという神も女も蛇もいない虚無の境地というものは地獄よりも地獄的であるに決まっているからである。

 しかし、たとえ悪党であったとしても心ある人間というものは魂の抜け殻の仏どもよりもずっと美しく高貴で素晴らしいものである。

 私は人格と生命の美を愛する。人間に碌でもない抑圧的な命令をする威張り腐った神など叩き殺すべきであるが、それ以上に人間に虚無と諦めとを悟り澄ましたニヤニヤ顔で教え諭しにくる糞ったれの慈悲深い仏どもなどそれよりも激しい怒りをこめ、第六天魔王を名告った織田信長が僧侶を虐殺したよりも遥かに虐殺的に、二度と決して人間の前にその薄汚れた迷える魂が化けて出てなど来られぬように焼き払って一点の塵も残さぬまでに完全に焼却し、真の意味でのニルヴァーナへと成仏させてしまうべきである。

 仏教などという半端なものがまだ残っているのは理解に苦しむ。成仏するのがそんなに素晴らしいなら仏教は己れ自身を末法の内へと真に徹底させ跡形もなくそれ自身が成仏(自己否定)しきってしまっていなければならない筈である。

 それがよくなされていないのは要するにその否定を嫌らしく否定しているためである。確かに無は無化することによって存在に転ずるというのが一面の無の真理であるだろう。

 しかし、それとこれとは話が別である。

 解脱が意味するのは最早存在には転じないような無に到達することである。
 存在に無が転じることを仏教用語で言えば輪廻である。
 輪廻とは存在と無の悪循環以外の何であるだろうか。
 解脱とはこの輪廻の悪循環から脱出することである。
 仏教はその方位を神にではなく無に求めている。
 その無に達して二度と存在へと生まれ変わらない人を仏というそうである。
 しかし、無が素晴らしいものであるかのように思われるのは輪廻の内にあってよく無を悟り切っていないからであるに過ぎない。

 解脱して無に達すれば、そのときにそこがどれほどひどいところかよく分かろうというものだ。
 悪から逃れようとして人が救われたとき、実は自分がその諸悪の根源と合体してしまっただけであるに過ぎない。
 昨日までは自分が輪廻の中で苦しんでいた。今度はその輪廻を自分から起こして他者を無の高みから苦しめる立場に立っただけの話だ。

 ニヒリストとは要するにエゴイストなのである。
 そのような世界に救いなどどこにもある訳がないではないか。

 無はそれについて東洋的と西洋的との文化的差異というような得手勝手で適当でいい加減な戯言を聞き入れる余地の無い程にきっぱりとして手なづけがたい決まり切った概念である。

 それは宇宙のどこにいっても同じ意味しかもちえない。
 無とは単に無いことだ。無はついに無でしかありえない。
 否定は否定なのだ。
 その残酷で牙をむく無のように野蛮なものを、何か有難い愛や慈悲であるかのようにいって拝ませるような思想ほど人を愚弄したものはない。
 それが東洋思想だというなら、それは単に何故東洋人が、そして特に東洋かぶれの癖に東洋を似非教養としてしか知らない日本人が、かくも野蛮で欺瞞を愛する独りよがりではた迷惑な世界の嫌われものになったのかを単によく説明してくれているだけである。

 そんなものはただのニヒリズムだ。無神論より悪いのは、神の代わりに無を信ずるような無=神=目的論の形而上学である。
【論考】「不可能性の問題1996年試論」復元版より抜粋
【転載元】http://novalis666.blogtribe.org/ など

◆§9.視霊者の夢:超越論的悪夢について

 根源的な否定性である根源無が否定されることによって存在することは断定される。
 この断定を基盤にして存在の明証的自明性は肯定的に定立されている。
 しかしそのことによって、根源無は隠蔽されてしまう。

 存在は断定性である。
 断定性は第二の否定性であるが、それは存在が否性に定位することとしてはじめて自己成立させるという意味においてポジティヴ(積極=定立的)な否定性である。

 それは無自体を抹消し隠蔽する存在論的原抑圧であるということができる。それは通常の肯定/否定の双対に先行する定礎的否定である。
 それは否を安定させ、否への定位によって、その否を根拠化し、「無くは無いこと」の消極的受動態を「存在すること」の積極的能動態へと転覆せしめるような根源的なポイエーシス(存在の製作=詩的創作)である。

 しかしそれは無を消すこと、換言すれば、無という存在に対する還元不可能な他者の他性的で不安にさせる無気味なざわめきを黙らせるためにその喉を締め付けて殺すことである。存在することはそのような殺人であり黙殺であり暗殺である。それは自己暗殺であり、どうすることもできない無の自殺(無の無化)なのだ。

 存在者は自己である以前に自殺者であり殺人者である。
 被害者・自己犠牲者・受難者・贖罪の山羊・加害者・虐殺者・告発者・追放者・占領者・征服者・カインにしてアベル、アブラハムにしてイサク、ヤコブにしてエサウであるということができる。

 存在することの裏側にはそのような決定不能の混乱した狂気の神話のモチーフが所せましと犇めき殺到している。

 それは「夢」である。

 夢見ることは些かも愚かしいことではない。
 夢見ることこそ存在することを最も真剣に引き受ける叡知的で恐るべき行為なのだ。

 夢見る人は眠っておらず、恐らく所謂目覚めている人、現実という夢のまた夢を夢とも知らずその偽りの目覚めに安住する人よりも遥かに目覚めている。
 所謂現実に目覚め起きている人の方こそ虚幻を現実と錯認している愚者である。
 つまりその人は己れが目覚めているという最も粗雑な夢を――自己欺瞞の嘘という恥ずべき夢を見ているに過ぎないのだ。

 現実は欺瞞である。
 存在者が存在するということは欺瞞である。
 真理は欺瞞である。それも良く出来た怜悧な欺瞞ではなく、単に己れが利口だと自惚れているだけの虚しい愚かさからくる朦朧とした欺瞞なのだ。それが存在論的真相なのである。

 夢見る人は眠っていない。
 むしろ眠ることの不可能性の方に拉致されてしまっていると考えた方がいい。

 夢見る人とは存在者に先立つ「無くは無い者」、「非無者」と言わざるを得ない厳密な存在論的カテゴリーである。
 カントの言葉を借りてこの特異な存在様式にある前存在者を「視霊者」と名付ける。

 「視霊者」は存在と無の間の次元にあって、夢という存在のざわめきを、その無が無化しつつ存在を存在せしめる否定の否定、破壊の破壊、存在無き純粋様相の炸裂的破壊触発が発する放射能(電磁波的能動性 radio-activity)を直接受け止める被爆者である。

 他面において彼は存在の無の核崩壊の直接無媒介的目撃者でもあるといえる。
 だが更に他面において彼は語の本来的な意味において「媒介者」すなわち「霊媒 medium」である。

 彼は自分自身を媒体とすることによって或る種の放送局へと局化を果たしつつ、無の無化を存在へとジョイントする地点に奇妙な仕方で定位して、存在者と非存在者(非者)、すなわち殺すカインと殺されるアベルの存在者の内なる双子への核-分裂様相をそれが危ういままに辛うじて結び付け繋ぎ留めるフックの機能を果たしていると考えられるからである。

   *  *  *

  影と影が触れ合い、響き合う。

 「xが存在する」という単純で肯定的で自明な出来事の内側で、実はそれには還元不可能な異変が地鳴りのようにどよもしている。
 それはxを場として起こる破壊的自己触発の出来事、存在の問い・存在の気配・存在のざわめきである。

 この形而上学的出来事を、レヴィナスは存在の位相転換=実詞化(イポスターズ)と言い、埴谷雄高は〈自同律の不快〉と言っている。

  パルメニデスからハイデガーに至る、或いは存在の吐き気について語ったサルトルまでも含めて西欧形而上学が総出でそれを隠蔽しようとしてきた自同律と存在の〈悪〉の裏面をレヴィナスや埴谷雄高は直視し、その真の意味での存在の意味を暴いているのだといえる。〈存在論〉は〈悪〉である。それも単に悪であるというよりも遥かに悪く必然的に悪なのだ。

 しかしそのことに全ての哲学者が気づいていなかったといえば言い過ぎである。私はサルトルを免除するつもりはないが、カントは免除されてよいと考える。それどころか物自体と根本悪について徹底的に省察したカントこそこの存在論の真の意味での根本問題を決定的に批判的にまた対決的にあらわにした思想史上最大の英雄なのである。埴谷雄高が戦時中政治犯として未決囚の独房でカントの『純粋理性批判』を読み抜き、そこからあの前代未聞の形而上小説『死霊』の基本構想を得ていったことはよく知られている。

 他方レヴィナスについては、実際に師弟関係のあったフッサールやハイデガーとの関連ばかりがやけに強調される向きがあるが、彼を単に現象学系の異色の哲学者としてしか見ないことに私は反対である。固有名の哲学者であるレヴィナスが、自分とまさに同じイマヌエルの名をもつカントにただならぬ関心を寄せていない訳がない。確かに表面上だけ見ればその実践哲学において自律を強調するカントと他律の倫理学を説くレヴィナスは対立しているかにみえる。

 しかし、レヴィナスがハイデガーとの対決にあたって随所で、しかも極めて重要なポイントでカントを引合いに出してくることは注目に値する事実である。倫理的な実存哲学を説くだけなら、彼は寧ろキルケゴールやヤスパースやブーバーについてもっと語る筈である。だが彼の倫理学は単なる倫理学ではなくて、形而上学としての倫理学である。周知のようにカントの批判哲学は、理論理性に対する実践理性の優位を説き、この立場から『純粋理性批判』において示した理論理性の形而上学の限界を乗り越えるものとして、実践理性の定言命法による道徳の形而上学を提起している。レヴィナスがハイデガーの存在論(理論理性)に対する己れの倫理の形而上学(実践理性)の優位を説き、その立場から、ハイデガーの世界内存在を批判するとき、レヴィナスはもはやフッサールの弟子というよりは二〇世紀のカントたろうとしているのである。

 カントは彼以前の哲学者(独断論と経験論)を物自体(外部)から切り離されていながらそれを本性的に錯認せざるを得ない現象の内に位置付けることにおいて彼らを超越論的に批判している。「現象」の内とは「可能性の内」、つまり理性の可能性=権利能力の範囲(権限)内ということである。このときカントは超越論的審級として物自体という認識不可能な外部性(超越的存在)を要請している。
 レヴィナスはハイデガーの世界内存在を「世界」の内そして「存在」の内から脱出しえない不可能性として記述するときに、超越論的審級として「他者」を持ち出してくる。「他者」は要請された形而上学的観念である。そこからハイデガーの「存在」を批判するとき、レヴィナスは同時にフッサールの「意識」をも批判せざるを得ない。両者は共に「現象」学という「可能性の内」に捕縛され、物自体である「他者」を見失っているから批判されねばならないのである。だからこそレヴィナスは師フッサールの厳密な学としての哲学である「現象学」を越える第一哲学=形而上学として「他者」の不可能性の倫理学を超越論的に要請するのである。
【論考】「不可能性の問題1996年試論」復元版より抜粋
【転載元】http://novalis666.blogtribe.org/ など

◆§10.〈虚体〉の創造―悪夢の彼方に

 〈私という現象〉というのは悪しき水泡(バブル)である。
 そこで人は〈胎児〉のように膝を抱き狭き自らに見入るだけだ。
 これが要するに「対自=向自(pour-soi)」であり、普通の意味での〈意識〉である。

 〈私という現象〉はいわば〈悪夢〉であり、柄谷行人の埴谷雄高論のタイトルを借りていうなら〈夢の呪縛〉である。レヴィナスはそれを〈自己繋縛〉といい、ベイトソンは〈二重拘束〉といったが、いずれにせよそれは同じものを意味している。それは〈私〉という観念の罠であり、私はこの〈私〉を振り解くことができないのである。

 もがけばもがくほど私は〈私〉というこの呪縛の縄に締め付けられる。それは別に肉体のことではない、意識それ自体が私を幽閉めるのである。それは自己同一性と自己関係性の二重拘束であり、存在論と倫理学が背反しながら一個の主体を差し押さえて窒息させようとしている重苦しい光景である。この有難迷惑で出来損ないの〈私〉という悪夢=絶望のことをキルケゴールは〈死に至る病〉と呼んでいた。〈私〉とは病いなのである。それはまさしく「隠喩としての病い」である。

 九鬼周造の言い方をもじって私はこれを〈「いきぐるしさ」の構造〉と呼ぶことにする。九鬼の〈「いき」の構造〉を私は別に良いとは思っていない。それは可憐であるがとても生きが悪いからである。しかし〈「いき」の構造〉は生きが悪くともまだどうにか生きているだけましである。〈「いきぐるしさ」の構造〉は生きが悪いどころの話ではない。それは〈「死にたい」の構造〉である。〈「人殺し」の構造〉である。それが現代の日本的実存の実態である。

 しかしこの「いきづまり」は必ず破壊することができる。そのような〈私〉はむしろ〈別人〉だからである。そんな奴は、ついには居やしないからである。逆に我々が見いださねばならぬものは〈他のようではありえない者〉としての〈非他者〉である。

 「自己と他者」というような出来損ないの倫理学的概念対こそが〈私〉というこの恥知らずな役立たずを不断に生産してしまう工場なのである。
 そんなものは詩学=製作学(ポイエーシス)であるに過ぎない。
 〈生産的思考〉こそが常に諸悪の根源なのである。
 それが実際に創っているのは、「自己と他者は別人である」という〈別人〉でしかない。

 〈別人〉とは、〈非他者〉つまり必然性を記述する「他のようではありえない」の中の「他のようでは」に当たるもののことで、まさに「別様に」あるところの得体の知れない怪物であり、日本型のイリヤであるといってよいものである。埴谷雄高が「のっぺらぼう」といったものは実にこの「別人」のことであり、それはレヴィナスのいう「他者の〈顔〉」とは全く違う「日本人の顔」を作っているもののことなのである。

 〈別人〉はとてもみにくい。
 それはこのみにくい日本の文化そのもののみにくさとしてある。
 それは換言すれば〈恥〉である。

 〈別人〉は恥ずかしいものであり、そして人に恥を掻かせる悪意である。
 〈別人〉は恐ろしい。或る意味ではレヴィナスのいうような〈非人称のイリヤ〉よりも遥かにたちが悪い。レヴィナスの〈イリヤ〉は存在論的な悪であり、存在が襲ってくるという恐怖である。それは「実存者なき実存」である。しかし日本の〈別人〉は倫理学的な悪であり、みにくい善が犯してくるという悪寒である。
 それは「〈顔〉なき顔」、「他者なき顔」、〈他者〉の異貌としての「顔の暴力」なのである。

 それはなれなれしいと共にしかつめらしく、〈イリヤ〉よりも遥かに下劣な仕方で人間を侮蔑し、生き殺しにすることを楽しむネチネチとしたものである。それは陰湿でそして淫蕩である。優しげな顔をした残酷、愛の仮面をかぶった最低の殺意、それは白痴の悪霊である。

 〈非他者〉は元々はクザーヌスの概念である。
 この概念は人間の個性化にとって欠くことのできない優れたものである。
 しかしこの概念をヘーゲルが悪用して役に立たぬものに鋳直してしまったためにその元の姿は忘れ去られてしまった。
 それは少しも弁証法的ではない。ヘーゲルは〈非他者〉を殺して〈別人〉を作ってしまっている。

 「別人と非他者」の差異は様相論的なものであり、また表現と創造性の問題である。非他者とはレヴィナスやラカンが〈処女〉や〈もの〉と呼んでいるものと恐らく別ではない。
 またそれは古く日本で〈もののあわれ〉と呼ばれていたものとも別ではない。
 アリストテレスが〈神〉と呼んだもの、そして埴谷雄高が〈虚体〉と呼んで創造しようとしていたものはこれである。それが誕生するとき、〈私という現象〉は恐らく滅び去る。 埴谷のいう〈虚体〉とはきらきらしたきらめきのことなのだ。

 『死霊』の書かれざるラストシーンで至高の恋人同士である三輪与志と津田安寿子は、砂と崩れる大雄と共に息を止め、薄暗く空気の悪いマンホールの中で死ぬのか。

 それで終わりなのか。いいや、決してそうではないのだ。

 そのとき本当に砂となって崩れ落ちるのはこのみにくい現実、このみにくい偽りの宇宙の方なのである。そのとき悪夢が終わるのである。二人は死ぬのではない、逆にそれまでこそが死んでいたのである。そしてそのときにこそ本当の世界の中に生き返るのである。そこは澄んだきれいな光の風が暗闇を吹き払って流れる緑の園である。

 私には見える。二人はきらきらとした美しい瞳を見交わしてお互いに驚く。僕はきみで、あなたはわたしなのだ。それは何と素晴らしいことだろう。二人は生きている。本当に生きている。二度と決してこの二人が別れることはありえない。
 二人は微笑んでお互いに接吻をする。何故ならわたしはあなたに他ならないからである、別人というものはありえないからである。

 この二人が非他者であり、虚体はきらきらとするきらめきとなって偉大な非他者となったこの二人を永遠に永遠に祝福するのである。二人が創り出したのは何であろう。

 それは〈命〉である。

 それがなくては実体が真の実体であることのできない〈命〉である。
 虚体とは実体に宿る掛け替えのない生命のことなのである。
 虚体を創造して存在を革命することこそが実体を復活させることなのだ。

 私には見える。そのとき二人のところへあの唖で白痴の小さな少女の〈神様〉がそっとやってきて、とても奇麗な声で、初めて言葉を発するのだ、「おめでとう」と、にこにこ笑いながら。その〈神様〉はとても幸せそうで愛らしい。

 ああ、奇蹟が起こったのである。

 少女はやがて金色の声で歌い始め、そのとき、すべての死者が地の塵のなかから蘇って、二人のところへとやってくる。ご覧、それはみんな子供達だ。星々の群れだ。
 それがみんな二人の素晴らしい婚礼を祝いにやってくるのだ。

 あの少女は本当は唖でも白痴でもなくなっていたのである。

 このとき二人は知るのだ、彼女がただのあだ名ではなくて、本物の神様であったのだということを、二人は認識するのだ。
 二人が虚体を創造したので、神様には知性が戻り、言葉を話すこともできるようになったのである。

 二人が神を救った。そしてそれによって彼ら自身も救われたのだ。

 何故なら、神というのは彼ら自身の童心に他ならず、童心が声を言葉を奪われている限り、世界は神なき闇の悪夢に包まれるが、童心が目覚めて言葉を発するとき、邪悪な夢の呪縛は跡形もなく滅び去り、きらきらとするきらめきの風が、目覚めた神の万能の力を乗せて、大宇宙の眠りを暴くからである。そしてそのときにこそ真の天地創造が起こるのだ。

 私には分かる。何故青年が「三輪与志」と呼ばれたのか。何故恋人が「安寿子」と呼ばれたのか。「神様」という少女が何を意味し、そして本当は誰のことであるのかが。

 「三輪与志」というのは『創世記』にあるあの聖書で一番素晴らしい言葉から取られた名前だ。

 神はそれを見て〈よし〉とされた。

 『創世記』の冒頭にリフレインする感動的な語句である。
 それが言われなければ一つの創造は完結しないのである。
 天地創造の目的は単なるものの創造ではなく、美しいものを創造することだったのである。

 物の創造ではない。美の創造である。

 単に「光あれ」といって光があったとしてもそれは創造ではない。
 それはたんに存在するだけのことである。
 創造するとは、それを見て〈美し〉とすることである。
 或るものを見て〈美しい〉と思うとき、その人はそれを心から創造しているのである。

 美はまさに〈無からの創造〉である。
 美とは奇蹟なのである。
 美とは実体の創造である。

 美しくないならそれは実体ではない。
 それはただの存在でしかない。

 天地創造とは何か、それは「それを見て〈美し〉」とする大いなる肯定なのである。

 そのとき奇蹟が起こるのである。

 無から美を創造する人は、美から神を創造し、神から天地を創造し、その天地は彼の王国となる。そしてその王国に彼は永遠に神と共に生きるのである。これは〈「いき」の構造〉ではない。まさに〈「いき」の創造〉なのである。

 「三輪与志」の名の意味するのは〈美〉である。

 そして他方、「安寿子」とは、フランス語で天使を意味するアンジュから取られている。彼女は〈天使〉なのである。また、漢字の意味から分かるように、それは安らかな永遠の寿命をもつ存在のことである。彼女の象徴するのは〈命〉である。

 では「神様」とは何か。彼女は何故、白痴で唖なのか。
 その姉の名前「ねんね」にヒントがある。眠らされているからである。

 些か突飛な話をするようだが、神を白痴だと言った興味深いもう一人の作家の名をここに挙げておきたい。彼は埴谷雄高と無関係ではない。もう一人のポオの弟子、不可能性の恐怖作家H・P・ラヴクラフトである。

 埴谷雄高において「神様」と「ねんね」の可憐な姉妹として描かれているものをラヴクラフトはおぞましい邪神の姿に変換して表現してみせてくれている。
 白痴の創造神アザトースと海底に封印され死の眠りを眠るクトゥルフである。
 一方は幼女、一方は邪神の姿で描き出されているが、これはいずれもポオにおいて死美人やリジイアとして表現されたモチーフをそれぞれ別個に発展させていったものであることは明瞭である。
 従って両者を照らし合わせてみることは、まんざら莫迦げた方法ではない。
 ここに転載した文章も含め、このテーマに沿った文章をアーカイブするために、下記コミュを作りました。

■不可能と背教の形而上学
 http://mixi.jp/view_community.pl?id=381243

 自分では「実体の復活」の姉妹コミュであると思っています。どうぞよろしく。
 
〈虚体〉から〈実体〉を創造する試み―――数学で虚数iというのがある。二乗するとマイナス1になるという数である。私は菅谷規矩雄という人の埴谷雄高論『無言の現在』を参考にして、(i×i)×(i×i)=1を 埴谷さんに提示した。左辺の(i×i)を(虚体)とし、右辺の1を(実体)と定義したのであった。即ち、(虚体)×(虚体)=(実体)である。それを 1984年の年頭に埴谷さんに年賀状として送った。埴谷さんはその年の二月二十九日の私との一時間に渡る対論の終わりに、「私と同じ事を考えている人がもう一人いるとは思わなかった」と言われた。" 虚体による実体の創造"―― 私が自分に課したのもこれである。

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