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別宮貞雄さんコミュの第3交響曲「春」

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 2007年3月23日(金)於・東京文化会館大ホール「レボリューション・アンサンブル演奏会」パンフレットより。

 メモです。

 以下は、別宮貞雄氏による第3交響曲「春」に関する自作解説の文章です。

*****

別宮貞雄作曲・第3交響曲「春」

 この曲は、素朴な意味で私が最も幸福だった頃の作品である。子供のころから音楽は好きであったが、音楽家になる覚悟を決めたのは、大学の理学部及び文学部を終えた後、1951年のことである(29歳)。
 1948年に「淡彩抄」(歌曲集)が音楽コンクールで優勝して、私が気持ちの上であとに引けぬ感じになり、そうかといってそれから日本の音楽学校に入るのはばかばかしく、フランスの留学生制度が再開されたので、父(注:別宮貞俊氏、元・住友電工社長)の理解を得て、1951年国立音楽院の作曲科でダリウス・ミヨー(1892〜1974)とオリヴィエ・メシアン(1908〜1992)に師事し1954年に帰国した。日本での滑り出しはなかなかうまくいった。1957年「管弦楽のための『二つの祈り』」が大変好評(尾高賞・毎日音楽賞)で、日本における私の地歩が固められたらしい。それから第1交響曲(1961)で西欧の大構成の音楽の秘密を学び取ろうとしたし、さらに第2交響曲(1977)で自分独自の方法を打ち出して好評を得たが、難しい探求をするより音楽はまず楽しいのが大切であろうと思った。
 私はその頃素朴な意味で大変幸福であった。自分の作曲家としての道が大分はっきりしてきたし、物質的にも桐朋学園での創立以来の色々なトラブルから解放されて、中央大学に移ることになって時間ができ、あくせくと映画やTVの音楽作曲に身を削られることなく好きなように芸術音楽に没頭できるようになった。家庭的にも、妻の20年前の大手術に由来する肝臓の病もまだそれほどひどくなく、また経済的にも給料があがったし、日本の高度経済成長のおかげで父の遺産の処分の可能性も出て余裕ができ、毎年2、3月には赤倉観光ホテルのスキー場で春スキーを楽しんだものである。第3交響曲はそんな中から生まれた。
 1983年、音楽コンクール50周年のための記念作曲をNHKから頼まれた。それで書き始めた曲を祝典序曲と名づけて、秋に森正指揮N響(NHKホール)で初演した。その後第2、第3楽章を作り上げた。第2楽章は「花は咲き。蝶は舞い・・・」(そして鳥はさえずる。深い山の中の自然の美しさ)、第3楽章は「人は踊る」(人々は浮かれ出す)と題を付けた。翌1984年、荒谷俊治指揮にて、全曲がNHK放送で初演されたが、舞台初演は少し遅れることになった。1984年私の中央大学における在外研修の年で、一年間ヨーロッパに行くことになったので、舞台初演は1985年春、日本現代音楽協会の音楽展で山田一雄指揮により行われた。この曲は殆ど変ホ長調といっていいぐらいに昔風で判り易いので聴衆は大喜び、ブラボーの声が高かった。それで前衛作曲家の中には今頃こんな昔くさい音楽とは、と顰蹙する向きもあったが、芥川也寸志さんは「音楽は聴くためのもの、には違いありませんが、これ程主張を強く表明した作品を近年聴いたことがありません」ととても褒めてくれ嬉しかった。第3楽章はそれでもいくらか安易すぎるかと思ったが、尊敬するダニエル・ルスユールがリズム上の工夫がたっぷりあると言ってくれてほっとしている。
 それ以後、井上道義さんが新日本フィルでも見事な演奏をしてくれて、聴衆に大いに喜ばれた。パリでも、ミヨー(注:原文のまま。ミヨーは1974年に亡くなっているので、ミヨー未亡人のことか)、メシアンが気に入ってくれたし、私の楽友から「これは別宮の『田園交響曲』だ」と言われて悦に入った。
 それがこの度、田中千香士さんによって、当初ベートーヴェンの田園交響曲と並べて上演される事を聞いて手ぐすねをひく感じだったが、「運命」と変わることになって、これが果たして張り合えるかといささか心配でもあるが、何とか皆さんに楽しんで頂ければ嬉しいと思っています。(別宮貞雄)

コメント(1)

これは有難い。この日は聴きに行くことが出来なかったため、このパンフレットだけでも入手することは出来まいかと思案しているところでした。Quawamura様、有難うございます。

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