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足利直義コミュの梅松論

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先日ある本を読んでいましたら、「梅松論」の内容でとても気になる事がありました。
「梅松論」と言えば、
北朝というか、足利側から書かれた物として、直義様ファンとしては絶対に外せない史料です。

以前他のトピックで、「作者は誰か」というお話が少し出ましたが、
そういった事も含め、
「梅松論」について考えるトピを作っておきます。

コメント(4)

という事で、「梅松論」の気になる話


以前「お勧めの本」トピに、佐藤進一先生が直義の言葉として紹介している物で尊氏の言葉ではないか?と思う物があるという事を書きました。
これは「梅松論」の最後の方に出てくるエピソードで、佐藤先生が「南北朝の動乱」に
「尊氏が、国を治める職にあるからには、重々しく振舞わなければならぬと訓戒を与えたところ、かれは、「我身ヲ軽ク振舞テ、諸侍ナドニ近付、人々ニモ思ツカレ(慕われ)、朝家(朝廷)ヲモ守護シ奉ラント思フ」と答えたという。」
と書かれているものです。「かれ」というのは、足利直義です。
私の直義に対するイメージからは少し意外な事を言っているように思えて、でも好きなエピソードのひとつとして心に留めていました。

ところがですね、
私は、佐藤先生の本を読んだずいぶん後になってからやっと「梅松論」を読んだのですが、これがなんだか、佐藤先生が書かれている事と違うのですね。
私が読んだ物では
「ある時御対面の次に、将軍、三条殿に仰られていはく、国を治る職に居給上は、いかにもいかにも御身を重くして、かりそめにも遊覧なく、徒に暇をついやすべからず。花、紅葉はくるしからず。見物などは折によるべし。御身を重くもたせ給へと申は、我身を軽く振舞て、諸侍に近付、人々に思付れ、朝家をも守護したてまつらんとおもふゆえなり、とぞ仰られける。此重は、凡慮をよばざる所ぞと感じ申されし也。」
となっていて、「我身を軽く振舞て」以下は「御身を重くもたせ給へ」という言葉の説明として尊氏が言った言葉なのです。
これで、「あら?先生間違ってる?」と思っていましたので、「お勧めの本」のコメントで書いたのでした。

いったん私の中では「佐藤先生でも間違えることがある」という事で終わったのですが、先日他の方の本を読んでいて、「はて?」と思うことがありました。
私が「はて?」と思ったのは、八木聖弥さんの「太平記的世界の研究」を読んでいてなのですが、「梅松論」からの引用として書かれている部分をそのまま引用しておきます。
「或時御対面ノ次ニ、将軍三条殿ニ被仰云、国ヲ治ル職ニ居給上ハ、イカニモ御身ヲ重クシテカリソメニモ遊覧ナク、徒ニイトマヲツヰヤス事アルベカラズ。政道ノ為宜私有アルベカラズ。花紅葉、クルシカラヌ見物ナドハ節ニヨルベシ。御身ヲ重ク持セ給ヘト被仰ケレバ、我身ヲ軽ク振舞テ、諸侍ナドニ近付、人々ニモ思ツカレ、朝家ヲモ奉ラント思フ故也トゾ被仰ケル。此君ハ凡慮ノ及ザル所也ト感ジ申セシ也。」

問題の箇所は「御身ヲ重ク持セ給ヘト被仰ケレバ(おおせられければ)、」という所です。
これでは、ここは「重々しくしなさいと言ったところ」とか「言ったので」というような意味になって、前の言葉を受けて、聞いていた人が意見をしたことになりますよね?
そうしますと、この後は佐藤先生がおっしゃるように直義の言葉になります。
副助詞「は」と接続助詞「ば」の違い。という感じなのですけれど、それだけの違いで話が違ってしまいます。

ここまで来てや〜っと私も、
これは底本の違いだという事に気付いたのですが、
現代語訳ではどうなっているのか調べようとしましたところ、まず、現代語訳がほとんどない・・・。まぁ・・わずかにある現代語訳では、これは尊氏の言葉になっていました。

佐藤先生と八木さんの引用は、「京大本」と呼ばれている物からで(ちなみに八木さんの引用、ちょっと間違ってます)、私が最初に読んだのは、「寛政本」と呼ばれている物でした。

で、結局これは
「どっちが言った言葉なの?」
ということが、と〜っても気になるのですが、
長くもなりましので、今回は、「梅松論」の中にそういう所がある。という事に止めさせていただきます。
前述の尊氏と直義のどちらが言った言葉なのか?という事について、先日出版されました峰岸純夫先生の「足利尊氏と直義」で、少し書かれていましたのでご紹介します。

この本には、
「「御身を重くもたせ給え・・・」以下は、文意の通る天理本によって補った。」
とあって、天理本からこの部分を解釈していて・・・。私はこの史料を読んだことがないのですが、切れ切れにですが目にした限りでは、他の物と雰囲気がずいぶん違っていて、早く読んでみたいと思いますが、天理本って一般的な歴史の資料にはほとんど出てきませんよね?
なので、今回この書籍でこの部分だけでも引用して下さってすごく嬉しいです。

峰岸先生の本から肝心の箇所を引用します。
「御身を重くもたせ給えと申すは、我文道闕くるに依て、世務(政務)を一向譲り奉れは国家の為めなり。さて我身は非器の上は軽々しく振舞、諸侍に近付、人々に思付れて、朝家を守護し奉らんと思故也、全く自由の儀に非ずと被仰ける。」

前に紹介した「寛政本」は、「御身を重くもたせ給へと申は、我身を軽く振舞て、」という部分が、きちんと繋がっていないような気がして・・・と言うか「我身を軽く振舞て、」以下が唐突で、私もなんだか変な感じがしたのです。
「京大本」にも「御身ヲ重ク」を繰り返すなどの座りの悪さがあります。
「天理本」では「御身を重くもたせ給え」の後にその理由を詳しく述べて、不自然さを解消しているのですね。また、この部分から、尊氏がただあれこれと注文を付けているのではなく、自分たちの長所短所を把握した上で、役割分担を行おうとしているように思えます。
で、峰岸先生は、佐藤進一先生が「直義が答えて「軽」を主張したと解したのは誤解と思う。」と書かれています。

でも、佐藤先生が「京大本」を採用したのにももちろん理由はあって、「南北朝の動乱(改版)」には「群書類従に収められて流布しているが、これより古い形を伝える」ので参考にしたと書かかれています。
この辺は、それぞれの史料が何を元にどのような順番で写されて行ったかなどの研究もありますので、追って勉強していこうと思います。
単純に「意味が通るから正しい」とも言えないので、この件はまだまだ保留です。
まだ『梅松論』論をほとんど読んでいないくせに、あまり言うのもどうかと思うのですが、備忘的に書かせていただきます。


『梅松論』に、いわゆる「流布本」から入って、その後、より原点に近いのではないかと言われている「京大本」、原典から別系統を辿って成立したと言われている「天理本」などを読むと、
細川氏の話があまりになくて愕然とします。

一説に、『梅松論』は、『夢想記』という書物をベースに書かれたのではないか?という話があるのですが、
私は、やはり『梅松論』は「梅松論」として最初からあったのではないか、と思います。
『夢想記』は南北朝当時の武将、細川和氏が書いた物なのですが、今に残っていません。ただ、彼よりひと世代後に活躍した今川了俊の『難太平記』に紹介されていて、その書かれ方から、細川氏の武功を顕示した物だと推測されます。
ですので、これがベースになっているのであれば、彼らの活躍が書かれていない『梅松論』というのは考え難い。
『梅松論』に『夢想記』が絡むとしたら、
『夢想記』と『初期梅松論』とのすり合わせが行われ、『流布本梅松論』が成立したのではないか?と思うのです。

細川氏の話盛りすぎ。かなり作ってるんじゃないか。
と、ちょっと悲しくなっていたのですが、そう考えると、「流布本」での細川氏の描かれ方も後世の創作ばかりではなく、また『夢想記』の記述も引用されてると思えて、和氏好きな私には、とーーーっても都合がよいのです。
そうであってくれればよいのですが…。

ってより、早く誰かが『夢想記』を発見してくれれば!!

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