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国際哲学クラブコミュの如月さんの掲示板での議論を転載(2-C)

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承諾が得られましたので、如月さんの掲示板で行われた議論を、以下に転載します。

網上戯論
http://www.furugosho.com/cgi-bin/newbbs/yybbs.cgi

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生得的原理が即座に明証的とは限らない 如月 - 2009/12/01(Tue) 09:05 No.20198

 フィラレート「いかなる義務も法の観念を伴っているし、法を定めた立法者や賞罰なくしては、法が知られたり想定されたりすることはありえません。」
 テオフィル「立法者がいなくとも自然的な賞罰はあります。たとえば、不節制は病気によって罰せられる。けれども、不節制が即座にすべての人に害を及ぼすわけではない。だから、いかなる罪にも必ず罰を与え、いかなる善行にも必ず報奨を与える神がいないとしたら、ぜがひでも従わなければならぬ掟などないも同然であることは認めます。」
 フィラレート「すると、神の観念や来世の観念も生得的でなければなりません。」
 テオフィル「私が説明してきたような意味では、その通りです。」
 フィラレート「しかし、それらの観念はすべての人間の精神に自然的に刻み込まれているどころではなく、事物を多少なりとも厳密に検討することを生業としている多くの学識者たちの精神にさえ、さほど明晰判明には現れません。ましてや、いかなる人にも知られているなんて、とんでもないことです。」
 テオフィル「知られていないものは生得的でないとする想定を、私は幾度となく反駁してきましたが、またその同じ想定に逆戻りですね。生得的なものであるからといって、即座に明晰かつ判明に知られるわけではありません。生得的なものに気づくには、しばしば注意と秩序が大いに必要です。学識者がそれを常になし遂げているとはかぎらない。すべての人となればなおさらです。」
 フィラレート「しかし、もし人々が生得的なものを知らずにいたり疑ったりできるなら、生得的諸原理について私たちに語ってその必然性を分らせようとしても無駄です。それらの原理は、事物の真理と確実性を私たちに教えるのに役立ちうる、と主張されていますが、少しも役には立ちません。ですから私たちは、それらの原理があっても、私たちの内にそれらがないのと同じく不確実な状態に留まるでしょう。」
 テオフィル「すべての生得的原理を疑いうるとはかぎりません。自同的なものや矛盾律については、あなたもそのことに同意し、疑いえない諸原理があることを認めました。その際あなたは、それらの原理が生得的だと認めてはいませんが。しかし、生得的であるもの、そしてそれら生得的原理と必然的に結びついているものがすべて同様に、疑う余地なく即座に明証的であることにはなりません。」(『人間知性新論』第一部第2章、工作舎『ライプニッツ著作 集』第四巻、90-91頁)

 フィラレート「慣習や教育や私たちが交わる人々の一般的意見は、生得的と想定されるこれら道徳の諸原理を曖昧にしうると言われてきました。しかし、もしこの反論が正しいとすれば、普遍的同意に基づくとされている論拠は無に帰してしまいます。多くの人々の推論はこうなってしまいます。良識ある人々が認める諸原理は生得的である。私たちと私たちの仲間は良識ある者たちである。ゆえに、私たちの諸原理は生得的である。何と愉快な推論の仕方でしょうか。無謬性へのまさに近道です。」
 テオフィル「私はと言えば、普遍的同意を、主要な論拠としてではなく確認として使っています。なぜなら、理性の自然な光と考えられた生得的原理は、あなた自身が疑いえないものと認める直接的原理に含まれているので、幾何学と同様にその刻印をもっているからです。しかし、本能や他のいくつかの自然的習態を慣習と区別することの方がもっと難しいのは認めます。それでも、たいていは区別できると思います。」(『人間知性新論』第一部第2章、工作舎『ライプニッツ著作集』第四巻、93頁)

Re: また繰り返しになる部分も有りますが…。 佐々木 寛 - 2009/12/05(Sat) 21:15 No.20530

 「ただ、われわれの「知」というのは、そうした経験から得られるものがすべてではないと私はおもうのですね。たとえば計算能力を考えると、「1+1=2」とか「10+15=25」のようなものであれば、指を折ったり、モノで代用するなりして数えた実体験からそうした実感や解答を導きだすことができるかもしれませんが、たとえば「258,568+609,359」のような計算は、直接的な経験知や体験ではなく、経験知の応用によって解答を導き出すのではないでしょうか。それと、この「258,568」なり「609,359」といった数の概念(私はそれを適当に書いただけですが)も、われわれがこれらの数を経験したことがあるからその概念を把握しているとは言えないのではないでしょうか。」(如月さん投稿より)

 応用や類推などというのは、しばしば我々が、経験していることです。当然、経験知の応用というのは経験の範囲内でしょう。右手の指を一つ二つと曲げながら、1・2・3・4・5(ここで右手の指が全て曲げられる)・6(ここから曲げた指を伸ばして)・7・8・9と数えるのは、1ずつ加えて行くということでしょう。そして、9の次が、10で位(桁)が一つ上がり、そこで左手の指を一つだけ曲げる。それから、また右手で、11・12・13・14・15・16・17・18・19と数えられるならば、後は原理的に、この繰り返しで、100まで数えられますし、その後も、左手の指の代わりに別のものを位(桁)が一つ上がった目印(めじるし)として一つずつ用意すれば、原理的に無限に、この操作を繰り返すことが可能だと考えられます。
 それから、インド記数法を基にしたアラビア数字による数値、「258,568」と「609,359」の加算は、簡単な、一桁同士の足し算から二桁同士の足し算へと、我々が習い覚えたように、六桁同士の足し算も、算術の計算規約に基づいて可能でしょうし、数や算術自体、後天的に習得した経験を多くの人が持っているのではないでしょうか。少なくとも私は、数の数え方などを父親などから教わった経験を持っています。数や言葉を教わると、それに付随して暗黙の内に、論理の規約である同一律や矛盾律も教わることになります。
 子供の頃には、簡単に教えて貰ったり自分でも考えると思いますが、「山」や「犬」という言葉を教わり、その意味内容として、概念があります。たとえば、山とは、平らな平野などから高くなっている部分であり、犬とは、四本足の生き物でワンワンと鳴くものであるなどが、その言葉の意味内容であり、その簡単な概念ですね(ちなみに、犬という言葉と、その概念〔=意味内容〕を教えられた後で、実物の犬を見たり触れたりする経験をしたということもあるでしょうが、この場合、限定的ですが、犬の実際経験以前に犬の概念があることになります。ただし、厳密に言えば、その概念は言語経験により、得られたものに他なりません)。さらに進むと、何度か述べたように、「線」という〔言葉〕は、「幅の無い長さ」という意味〔線の概念〕であるなどになります。
 また、ある具体的な数を経験したことが無いから、数の概念を把握しているとは言えないというのは、たとえば、アフリカなどに存在するバオバブという樹木を実際に見た経験が無いから、樹木の概念は把握できないし、経験から樹木の知識を得ることはできないと言っているのに近いように思えます。常識的に言って、バオバブ以外の身近にある松や杉などの樹木を観察する経験は持てますので、樹木に関する相応の知識や概念は持てるでしょうし、新種が確認されたら、既知の樹木の種類に加えるか、分類上、新たな種類を付け加えれば良いだけの事だと考えます(ほとんど問題ないでしょう)。

 「テオフィル「それらの知識の現実的認識が生得的なのではなくて、潜在的認識と呼べるものが生得的なのです。ちょうど、大理石の石理の描く形が、加工によって発見される前に、大理石のなかにあるようなものです。」(如月さんの引用より)

 …と、ライプニッツは述べていますが、知的能力が潜在的かつ生得的だと考えた方が適切だと思っています。私が、父親からも誰からも数え方を教わらなければ、そもそも数えること自体できないでしょうから、幼い頃に知的な潜在能力を適切な学習経験により、引き出すことは重要でしょう。そうでなければ、大理石の塊は、何の像も描かれず仕舞いになるでしょう。実際、不幸な野生児の例もありますから…。
 それから、顕微鏡の問題ですが、これも、それほど大した問題でもないでしょう。そもそも我々は、ラッセル流に言えば、センスデータ(感覚与件)として、あらゆる対象と関わる訳ですから、肉眼だろうと光学顕微鏡だろうと電子顕微鏡だろうと、それが対象として、本質的に、センスデータ(感覚与件)であることには、何の変わりも有りません。ちなみに、二千数百年前に、釈迦牟尼が、そのことを明確にしています(正直に言って、桁違いの頭脳だと思うし、人格も桁違いに思えます)。そして、感覚与件(経験事実)外に実在を仮定しても、それは、検証できない仮定でしかなく、その意味で唯物論は、観念的と言わざるを得ません(たしか、ショーペンハウアーも、同様のことを指摘していたように思います)。
 最後に、「生得的原理が即座に明証的とは限らない」(如月さん要約)というのは、ライプニッツが自説の説得力の無さの言い訳で述べているようにしか聞こえないところも有ります…。

 追記:「(たしか、ショーペンハウアーも、同様のことを指摘していたように思います)」というのは、表象(意識)の方が前提であり、物は従属的であるということを、ショーペンハウアーは述べていたはずです。

Re: 一皮(ひとかわ)剥(む)けたような、くまげん7くん…。 佐々木 寛 - 2009/12/05(Sat) 21:29 No.20531

 「これは、ライプニッツの場合、モナドが複数であり、かつ共通の概念を共有しているからかなともおもいます。こう考えると、ライプニッツの哲学は一見モナド中心の独我論のようでありながら、モナドの複数性というところで、社会性という視覚をもちうるようにもおもうんですね。その概念や観念の社会性を保証しているのがコトバということになるのでしょうか…。」(如月さん投稿、?20008より)

 「いや、わたしが死んでも、わたしが見ているあの山は存在するはずだ。これまでと同じように…。と考えるのは実はある手続き上の間違いをしています。「わたしが見ているあの山」はわたしの経験です。これまでと同じようにという歴史性は、誰の経験でしょう?…これは社会(ことば=言説)の経験です。実は外部世界=宇宙の普遍を語ろうとして、ことばの普遍をこの文章は語っているだけなのです。」(くまげん7くん投稿、 ?19989より)

 くまげん7くんの述べた、この部分は、結構、重要なことだと思いますね(何か一皮剥けたように思える)。私の場合、普遍は、言葉あるいは論理の規約である、同一律および矛盾律が保証するものだと考えています。そして、それは規約ですから、当然、社会性も備えています。また、同一律や矛盾律というのは、共有概念あるいは共通概念だとも言えると思います。
 
 追記:知らない間に、ここで議論が続いていたんですね。見逃していました。

Re: 道徳について…(一つ、忘れていましたね)。 佐々木 寛 - 2009/12/06(Sun) 11:19 No.20571

 道徳が、生得的か、後天的かという問題ですが、これは、後天的でしょう。子供の頃に、両親などから、嘘を付くな、人のものを盗むな、人を傷つけるな、などと躾られて、その後、自律的に自身の行動を律するようになる場合が多いのではないでしょうか。幾度も例に出しましたが、たとえば野生児に、人間的な道徳意識が有れば、生得的だと言えますが、そうではないでしょう。

Re: 経験こそが概念から生み出されるものです。 くまげん7 - 2009/12/06(Sun) 18:30 No.20590

 モナド(単子)というものが一つの精神であること、精神作用の根源として見出されるものとして規定したこと。

 これにつきるのだと思います。

 ただ、これはキリスト教的一神論を前提としているために予定調和(均衡ではない。)という世界概念に直結しました。

 生得概念というアイデアは実は人間は神の育てた智慧の実を食べたものということが前提で言っているのです。だから、一人一人の内に神の智慧がある。ということです。

 カントのアプリオリとは違います。カントは人間という存在が限界づけられたものであるという神を必要としないアイデアから出発しています。(それでも、カント自身は神を持ち出して存在証明してますが、結論はいてもいなくても人間にそれを知ることはできない。です。そして、神とは論理上の必要からその存在が 証明されるものという話にすりかえてしまいます。要請論。)

 ライプニッツが注意深く、真理=原理としているのは科学的精神である現象は法則の現れという世界観の萌芽です。実体は見ることのできない法則の方であり、現象はその現れだ。というのは<説明の方法>の一大革命でした。

 なぜなら、今まで神の計画や神の意志、神の王国を作る過程として世の中というもの、世界というものの動きがあると考えていたのです。それが、神とは無関係に、元々、決まりがあって、その通りに動いているだけだ。(物理学的決定論)は神の計画があったとしても、それが失敗なら、もうすでに失敗していて、何をしても失敗するのだし、成功しているなら、何もしなくても成功するということになるからです。(話が横道ですみません)

『人格知識論の生成』 如月 - 2009/12/08(Tue) 00:06 No.20646

 上方のスレッドの○○さんの投稿におこたえしようとおもって小サイト内のページをあちこち開いているうちに、一ノ瀬正樹さんの『人格知識論の生成――ジョン・ロックの瞬間』(東京大学出版会、1997年)を要約紹介したページにいきついて、久しぶりに読み返してみたらけっこうおもしろかったです ↓。

http://www.furugosho.com/nomadologie/ichinose1.htm

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