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詩人 山本陽子コミュの神の孔は深淵の穴

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山本陽子 「神の孔は深淵の穴」

第1行ー156行


 自由の神の開拓者 そうわたしは彼らを呼ぼう。精神の地下革命
の予言者たち、自由な人間は いつも世界の放浪者であった。しか
し、彼らはひとつのきずなに結ばれている。たとえ遠く離れていて
も たがいに相手を見出して、しかも彼らは つねにひとりである。
ひとつの精神の多様な風土、自由の霊的な世界をひらく 彼らは人
間という種族であった。人間と神の解放をかたり、生の創造行為を
たからかにうたい、そして彼らが死した後 自由は不滅の実在とな
って人間の新たなる魂にうけつがれる。すべての人間たちよ、なぜ
君は生きることをはじめないのか。絶望と死の深淵からそう復活の
歌をひびかせるのも彼らである。わたしはいつも考える。彼らこそ
 あのオーデンの 神の種族ではないかと。彼らはほろびさること
はない。燃えつきた彼らの生命のほのおから 不滅の自由がうかび
でてそれは永遠に生きるだろう。人間はそれをひきづいで あらた
な生命を発見する。もしそれを、深淵よりかがやきいでる光にみい
だせないとすれば、人間という種族もいなくなって 世界は消え去
るにちがいないのだ。終末が近づいていて 今はその時であるにち
がいない、二つの道がひらけていて、それは孤独な彼らの生命、そ
の光をすいとってより以上の人間になるか、新種のむしになりかわ
るかのどちらかなので、もうそれしか出口はない。彼らの放浪する  20
魂とわたしたちの魂が たがいに手をさしのべあい この歴史的な
時を空間をこえて おなじ世界に神の愛を 生命の創造行為をうた
うことが はたしてやってくるだろうか。勇気はいつも孤独であり、
自由の道をきりひらく、今こそ その勇気の時なのに、人々は が
っしりとからみあって動かない。レヴィアタンは その上に君臨し、
人々は恐怖におびえながら ひっそりと黙りこんだままなのだ。も
し人間が 死にものぐるいのエネルギーで、旅をはじめていかなけ
れば、夜もまた はてることはないだろう。
 1000年ののち おそらく最後の審判がやってきて 人類はた
だひとつの 判決をにない 人類がかつて人間たりえなかったこと
を 人々はおののきつぶやくだろう。その時神は沈黙して みずか
らもまたになうだろう。神もまた 神たりえなかったという最大の
罪、唯一無比の人類の苦悩を。そのとき、すべてがうしなわれると
き、はじめて神と人間はたがいに手をさしだして いだきあうこと
ができるだろう。人間は神なくして生きられず、神もまた人間なく
して生きられないことを すべてがはじめてさとりあう、審判は
人間と神との和解によって そのときはじめて救いとなり、人類の
滅亡と神の死は 意味をもつにいたるだろう。
 解放のらっぱはひびきあい 人間は人間にめぐりあう、すべての
時空の放浪者、自由の人間の放浪者、彼らも ここにつどいあう。
彼らの生涯の十字架は 自由という名の深淵は ひとつに流れる光  40
の河 生命のいずみのほとばしりとなって 人々はその水をむさぼ
りのむ。そして世界は 没落し 人間は神は 滅亡する。

 二〇世紀後半は、おそらくひとつの終末に近づいている。わたく
したちは 精神の旧石器時代人、ネアンデルタール人なのだ。精神
の新石器時代人、クロマニヨン人は、歴史的人類の死滅のあと、は
じめて新しい人類として、この世界へやってくるだろう。彼らはこ
の世界のなか 新たな生命をはぐくんで、しかしわたくしたちはそ
れに答えるすべてをもたない。飛ぶべきすべをしらないのだ。人は
すりかえを続けてきて 今世界は幻影と化し 虚偽の契約期限をせ
まってきて 人間の自由はかつて生きつづけられたことはなく 胎
内ですでに死んでいて 善の衣をかぶった強制が くまなく歴史を
おおいつくし 瞬間ごとに破産宣告をおこなっている。人間は逃走
しつづける世界に生をうけるので、彼もまた世界のただなか、逃走
者であって それが第二の属性であることに気づかない。もしそれ
を知ったなら 人は第一の属性、失った魂の探索に 不毛の荒野に
でかけなければならず、その荒野は都会なのだ。人々は もう生ま
れてはこず おしだされてやってきて、もし生きようとするならば
 頭のなかにそなえてあるすべてのネジをはずしてから、苦悩する
ことからはじめねばならない。瞬間ごとが落下なので体はいつにも
逆ざまにぐるぐるまわりつづけるだろう。しかし生のなかの水平の  60
死をとびこえて 垂直の次元にはいっていき 無底に限りなく近づ
いていく。そして 落下は まさに上昇運動があるからおこるのだ、
そう彼が考えるなら らせん状の回転のなか 限りない高みへのぼ
っていくことが、一瞬のあいだにおこりえる。
人間は 国家とか 政治組織がなくても生きることができて し
かも新しい人間に なり続けていなければ 人間はもう生きること
ができない。人間は消費し続けてきたので、いま最後の偉大なる消
費、人間の消滅へと向っているのだ。そして人類の絶滅・殺りくは
悲劇ではなく 尾を引いたすい星で 宇宙のちっぽけな排泄にすぎ
ず 静かに闇がおしよせてきて その死は無意味なものであり 人
間の不滅の死はもうそこから失われている。
 このあらゆる神なき宗教が偶像崇拝をまきおこしている終末、悪
魔ほど生き生きしているものは もう他にない。死んだ人間の名に
よって世界をつなぎとめようとしても だからむだなことなのだ。
わたくしたちは死んでいて だがすばらしいことにやってくるかも
しれない新しい人間たちの豊饒なこやしとなることができる。いま
必要なのは真の狂気だ、天才の狂気ではなく えせの狂気をかなぐ
りすてて 人々が自らのうちに探りつづけるーー人間はなんであり
えるかの、その未知の実存への限りない旅ーーらせん状の回転であ
る。それは神への発見の旅であり 意識的に生きることなのだ。    80
 日本にいて ロシアのそりをかけりながら アイスランドへ向っ
ていき オーデンと巨人族のたたかいのなか 天使のラッパをふき
ならす。名もなければ 兄弟もない 国家も民族も同志もない。な
もたよるべきものもない。十字架すら背にしょわされず、ただひた
すら精神の自由なる第五次元、夜の果てへと旅していて 光と闇の
両極を最大にゆれ動く。次の瞬間はより大きなひろがりで、彼は神
を殺しては神を蘇生させつづける。それが生きることのすべてなの
で そこから創造のエネルギーがぎりぎりとわきあがる。そのとき
夜が果てるかはもう問題ではなくなって それが二〇世紀後半を生
きることであり、それは彼の生そのものが、無残な汚ならしい死骸
や 記号としての無機体の死ではなく ひとつの十字架になること
ができるかもしれないということを意味するのだ。冒険に役立つも
のは ただ勇気だけで 彼はひとりでいかなくてはならない。
 自由の神を告知したのは あの現代の要約者、予言者たるドスト
エフスキイだ。芸術の歴史は歴史の原型、生命の創造行為の伝達と
するならば、彼の創造は人間の原型、歴史の時と空間をとびこえて
いく。無神論者にしてキリスト者、悪魔の誘惑にして神の深淵から
の光、人神にして神人であり、精神の急進主義者である世界での反
動主義者、ロシア人でヨーロッパ人である彼、その彼ほど 創造の
エネルギーは 実存の両極をゆれうごく動的な把握から発すること、 100
それは破滅にも生にもつながっているものであることを まざまざ
と啓示する人間は ほかにはいない。
 大審問官の章は 自由の運命の予言であり自由の神の告知であっ
た。人間は根源的な自由をもち それは善でも悪でもない 創造さ
れざる自由(〜自由、精神の息吹き)なのだ。 自由の冒険 実存
の幅広い領域の未知の探索こそ人間の生の行為であり、彼が自由を
創造し 善と悪の認識をみずからなしえたときに はじめて解放が
生まれくる。そして人間の生の創造行為こそ、善の選択による善に
おける自由の動的行為なので、それは自由の神への自由な愛、人間
の真理への愛なのだ。 
 神もまた力をもたない。神はほとんど精神のアナキストである。
それは歴史的教会の必然性の権威神にたいする黙示録の神なのだ。
 神は 人間が愛と善の自由を通して 自由に神を信じなければ、
人間を必要としないだろう。そして神もまた神たりえず それは人
間がいなくなったからなのだ。神性は人間によって神のすがたとな
り人は神において人間のすがたとなる。自由の真理の創造をなし
自由の人格をうることができる。神の運命は 人間の運命であり
人間の運命は 人間の自由の運命であり、人間の自由とはーー言葉
をあてはめてみるならばーーおそらく霊的なものから発する精神の  120
時間への突入なのだ。
 悪の自由の選択は、悪しき必然性に転化する。すべてが許されて
あるならば 人は他者の自由を滅ぼし、人間そのものを滅ぼしてい
く。それによって、自己の自由そのものもほろび去る。
 だが人が本源的な自由にたよらずして 善の自由の名のみによれ
ば それも善き必然性に転化する。世界は強制的に”善く”なるだ
ろう、幸福となるだろう。しかし世界は神性を失い 神も人間(…
…人間)人の間(も)も消え去るだろう。”善き必然”の名のもと
にひとつの偶像をまつりながら 経営者と労働者という他者が発生
する。人はただひたすらこころのうちに避逃して白鳥の歌をうたう
だろう。人間は不滅を失って 反逆者は反逆を生涯つづけ それは
死の無意味におわる。革命は善の必然性の名のもとに専制者を倒し
つつ 反革命に転化する。すりかえの子供たち 彼らはそれに反逆
して その潔白な良心は、又すりかえにおちいっていく。
 自由となりえない救い 自由な人間となりえない救い、自由な人
からきたのではない救いは もはやわたしたちになにも語りはしな
いだろう。
 神のこの世界への沈黙は 自由の理念を通じてのみ おのずと啓
示するだろう。神の沈黙こそ 人間への愛、人が自由にたいするこ
とへの、人間の尊厳への愛なのだと。それ深淵の自由の可能性をも
つ人みなすべてへの愛である。                          140
 だから神は奇蹟をもたない。奇蹟はただひとつおこりうるだろう。
人間が自由であり、神もまた自由であって、彼が自己の自由を通じ
て能動的に神の自由、究極の自由の真に近づいて、神に手をさしの
べて 神が人間の自由な愛によって神となり、人間もまた神におい
て人間のすがたとなったとき、そのより高い本性において満ち流れ
る 自由なるすべての人々への愛において。そこではすべてが動き、
交錯している。愛は流れ渡ってゆき、とどまることはなしえない。
消え去った愛は なにもしるしをとどめず 人間は生命の創造をな
すために、瞬間を必死で生きるほかはない。上昇していなければ、
転落していきつつあるのだから。
 神は、すべての教義、戒律・主義とは無縁であって 自らこの世
を変えることはなしえない。神は永遠のなんじとして自由のうちに
現存し 自由を通じてのみ 働きかける。人間は 精神の自由のた
たかいをへて はじめて人間が世界を変えうる。社会主義は この
唯一にして多様な生命の真実、その根源にたってこそ 人間の真の
解放に役立つ必要欠くべからざる手段と なりえるだろう。

コメント(12)

この詩にも「死後の生」が書き記されていますね。
狐穴の孤児さん、

死後の生とは、彼ら詩人が死んだ後でも、
作品として、自由にいきた詩人の魂が残っているということですね。
実際に山本陽子のこの作品に、僕ははまってしまって
振り回されています
 歴史は必然性の名をかたる。世界であり、あらゆる国家、権威制
度ーー歴史的教権的キリスト教から全体主義的共産主義に至る神な
き神の宗教は 大審問官の誘惑に身をゆだねて来た。それは人間の
名における神のすりかえであった。生存のための必要不可欠な手段   160
が目的へと転化する。国家というデーモンなしに歴史を生きた民族
がはたして歴史にあっただろうか? ユダヤ民族、イスラエルの民
も ひとつの国家に滅ぼされかけた。彼らはメシア的理念によって
イスラエルという国をうちたてて それは現在国家である。歴史の
必然性の動力は 人間の生存闘争なので 経済的平等化は必須であ
り それと共にいかなければ 精神の真の解放もおこりえない。同
時にこれも明らかなのだ 経済的社会化が、どんなに望ましく ま
た正当なものであっても 全歴史過程において遂行されたような
人間そのものの社会化は すべての奴隷状態とすべての精神的遅滞
の根源であることが。社会主義は人間の真の解放の契機にであって、
同時に部分の全体化、自由の破壊、圧政・大審問官の体制にも通じ
る、さまざまな変化をとげうる可能性をもっている。しかしそれが
無神論にたっておこなわれるなら、それがいかに潔白な苦悩からは
じめられたものであろうとも 自由の弁証法によって 必然性へ転
化していくだろう。歴史的社会主義、共産主義はこの過程をありあ
りと証明する。
 ”社会主義はなによりもまず無神論の問題である”というドスト
エフスキイの言葉はこの二つの意味を含んでいる。それは神への反
逆の名における人間の解放の運動であって、しかしそれはそのまま
では自由の神の否定 神なき宗教の必然性におちいっていく。 真 180
の無神論は なかんずく道徳的反抗は 神の実存を前提とする、そ
れが 真の自由の苦悩をへた 深い感情によって生みだされたとき
 それは神の確実性をのべている。苦悩のひとのこころのなか 人
間の名によっておこったことは 真の神自身の神にたいする反抗に
ほかならない。それは 歴史的キリスト教のおちいってきたカエサ
ルの国の精神性、精神がこの世の支配的利益に奉仕するに演じた役
割に対する報復であり 神概念を根源化する実存的弁証法的契機で
ある。しかしそれは、純化された理念を基底としてすすまないかぎ
り またも一元的な国へ転化していくだろう。社会主義は人間の精
神の解放からはっしたときに 人間の共同体のありかたとして生命
の創造行為、自由への道を探索する足となり続けることだろう。
 アナーキズムは、精神に根ざした運動である。歴史的なユートピ
ア神話や暴力革命にむすびついたアナーキズムすら 精神の自由の
解放運動を根源としておこり、逆転した動力となったのである。ア
ナーキズムの真の理念は いまだ十分に把握されておらず、熟して
はない。だがそれは 今日の世界に 積極的なパトスをもたらすこ
とができるだろう。アナーキズムは 精神の根源的自由に根ざした
共同体の運動であり 哲学と政治、形而上学と歴史との有機的結合
の 可能性をさし示す。これは予言、ユートピア神話としてではな
く、一九六六年 この世界のなか そのような可能性にかけ、追求   200
していかなければ 人間は人間を”おのれの生をはじめる”ことが
できなくなってきているのだ。それは一つの終末であり 人類が人
間という名による国民 人種の集合体ではなくして 人間としての
結合であろうとするならば、このただひとつの共同体 精神の解放
の行為をはじめていくほかはない。そして人間は根源的な自由から
発しその実存の旅において自由なる単独者ー人間と「出会う」ことによ   「」は傍点
って、われとなんじの関係を結びつつ、真のわれとなることができ
る。われはわれらとなり、われとなってわれらのあいだに死んでい
た。共同体は人間の自由から発し この関係によって存在する、す
べての組織はそこにおいて限定づけられて、ある。だが人間の内な
る革命が ひとびとをゆりうごかし みずからの魂を呼びもどさな
ければ 人類は共同体となることはない。これは多分 人類がひと
つの天底極を通過したときはじめて おこりうることなので、それ
が理想の名において たとえ築きはじまるとも 人類全体の幸福の
追求にのみ走るなら、第二のバベルの塔が築かれて カエサルの国
が世界をおおいつくすだろう。ヒューマニズムの安易さもまた 良
心の無力な運動、ひとつの試みにおわる。人間となることは、決し
てそのまま幸福になることを意味してはいないのだから。
 精神の静かな地下の胎動が、世界をひたしてゆかないなら 世界
は人間であったことはなく 二四世紀の人類が、人間の歴史の試み   220
はここに終ったと、そう書きしるすかもしれないのだ。政治の側か
らの人間の究極的な解放はなしとげられることは決してない。国家
は必要悪ではなく人間が神にひるがえした自由の影の反旗であり
人類はまた神をすりかえつづけたのだ。人間が自ら内在に問いかけ
て、精神の共同体において、生命の創造行為を追求していかなけれ
ば 全人類の経済的平等化も決してなしとげられることはない。そ
してこの平等化がなしとげられたときに 真の革命が姿をあらわし、
人間の根源的な悲劇性ーー自由の二律背反性と 有限なる時空にお
ける永遠性の問題 がすべての人々の問題としてあらわにされてく
るのである。それは人間の全人類的な規模の人間の死と復活の壮大
な試みとなるだろう。それはもう、地下の胎動をはじめている。そ
れは、つねにあった。
 芸術の創造は 根源において 人間的なものと神的なもの 人間
のうちなる融合へ向う 人間のより高いすがたの探索であり、作品
は 世界との関係をむすぶ ひとびとへのヴィジョンの伝達行為
客体化された核による人間の人間へのひらめきの啓示、作家のなし
うる最大の行為は人間の新たなる創造 神への愛における人間の人
間への愛の実存 世界との関係なのだ。それが神への反逆ならば、
人間を求める 彼のうずきがたちのぼり、絶望的な、神への逆理の
讃歌が、こだまする、                        240
 人間は 根源的な自由からの自由の冒険のすべてにおいて、われ
となんじの関係によって はじめて真のわれとなり 実存の二つの
出会いをバネとして 新たな回転にむかっていく。作家が”作品”
を通じ 彼のヴィジョンをはたらきかけ ひとがまた能動的に応答
するとき 客体である作品は 単なるもの以上のもの、人間の人間
との直接的な出会い なんじとわれの核となるだろう。 それがな
ければ 出会うこともなかっただろう 真のわれと真のわれとの精
神の 共同体が現存し 神的なるものへ向って、それは能動によっ
て結びあう。関係が、われーそれの、ひとと客体の経験関係に変質
し、”〜ということだ”とひとが言うその時でも、かつての出会い
のきらめきは 永遠に流れている瞬間の結晶となり、ひとのほのお
をもえあがらせて 人間はひとつの飛翔をなしおえて、より高く、
広い自由がやってくる。
 神は個人的な深遠のヴィジョンを通じてのみ、あらわれいで、神
は客体化されえない、規則・形式もありえない。けれど 人間がこ
の根源的な自由において自由の実存的冒険を生きていくなら、そし
て彼が先入感としての神概念を持たないなら、人間は 神としか呼
びえない 実存に出会うだろう。私はそれを確信する、超越的存在
でなく、瞬間にひらめく永遠の実在、自由の数限りない真理を包含    260
する ひとつの真理、それゆえに生の意味がせまりくる、言葉にな
らぬ言葉、それが奥底からわきのぼる。
 人間は神のヴィジョンをさまざまな言葉をもって表現する。芸術
の創造行為は、この神秘的な実存の精神のヴィジョンをーー直接的
に伝達し、それは最高の意味の芸術がなすことのできるもの 作品
を核として われとなんじまたわれらの時空をこえた、永遠の流れ
る瞬間の、自由なる人間の出合いがここにあり、ふたりに目に見え
ぬきずなに結ばれて それは彼がみずからなすやむにやまれぬ選択
の行為、はたらきかけ、はたらきかけられる全身全霊の受諾である。
 芸術のこの伝達行為、なかんずく感覚における実存のヴィジョン、
音より以上の音について メイラーは簡潔な言葉で表現する。”ジ
ャズはある即時的な実存状態についてかたった。それはじっさい芸
術による伝達であった。ジャズは「ぼくはこれを感じる、そしてき
みだっていまそれを感じている」といったからである”(N・メイ
ラー・「ホワイトニグロ」)
 ぼくはトランペットの金色のひびき、ドラムの黒いリズムをきく
ぼくはすべてのリズム すべての旋律のあいだにあって 時の時に
生きている いまそれは永遠にある そしてきみ、ぼくのとなりに
いるきみも ただトランペットにききほれているのではない ぼく
ときみとは互に顔をみあわせて しかも言葉は交しえない かがや   280
きは すべての音からきらめきいでて ぼくときみは いま一瞬こ
こにある。
 メイラーの言葉を用いるなら彼はもうひとりの彼 もうひとりの
彼はもうひとりの彼と with it し、swing できたのであって そ
れが彼と彼の関係、生きることにほかならないのだ。ジャズの演奏
者と 聴衆のかれ、そのかれともうひとりのかれ ピアニストと
ドラマーが直接的な関係に 全身をもって応えて、そこに世界が現
存する。かがやきは、ひとつの真理から流れてきて、それが共通の
ヴィジョンとなる。ジャズは怒りと苦悩のなかの人間の根源の自由
の解放のひびき、あるときには荒々しく あるときには静ひつに瞬
間を躍動し、音より以上の音のなか、ことばにならぬことばがひと
びとのこころに流れわたる。それは感覚の本能的な実存の告知、”永
遠”に流れていく、深淵からわきあがる時の時のひかりなのだ。
 精神の実存的冒険は、ここに発し、意識的な生の把握をもってそ
の旅をつづける。意識的な精神のヴィジョンのらせん状の回転、時
空のなかの無限への行為、どこにいくかが目的ではなく、どこにい
まありえてあるか、すなわち いまあるという実在の把握が手段で
あり、目的となるだろう。真の芸術はこの冒険のただなか、生と死
の両極をゆれ動いてきて、そしてなおも動きつづける、実存の深淵
からの光、自由の真理への限りない接近、人間の創造的発見、神に   300
おける人間の愛、人間の解放ーーそのものである。

 二〇世紀後半の それはすべての人間の運命であり そういうひ
とりであることができる私という人間、いまだ単独者でありつづけ
てあるこの実在について考えていると芸術とは私にとってそれであ
り、芸術の歴史は人間の歴史の核心として迫りきて、決してその他
の意味を持ちえない。目的とか効用とかいうものでなく、無限なる
もの、はるかなるものへ踏みこえて、それがために人間となった人
間、内在の深淵から限りなく回転していく動的なる精神、そこにあ
るのは現実的神話、かつてであり いまであり これからのすべて
でもある人間についての真実の神話である。
 神は一瞬よみがえり、われとともにすべてがあるとき、”永遠”
へ流れるひとつの真理が啓示して、世界はひとつの逆転をなし、よ
り高くおり深い自由がやってくる。動いていること 流れてあるこ
と、実存の両極を限りなくゆれめぐる求心と遠心の運動、生きると
いうことの真の”意味の創造の旅”がここにある。それは”生きた”
ということなのだ。
 真の人間は すべてのカテゴリーをこえる芸術家、真の芸術家は
すべてのカテゴリーをつきぬけた人間、人間は歴史をこえて存在し、
現実の世界を発見して 私たちのなかに生きる。死も彼らをむしば
んで、無に帰することはない。ひとりの人間が生きたとき、言葉に  320
ならぬ言葉、言葉以上の言葉が深淵からひらめき、それは不滅の存
在となって 全人類が死に帰した後も 宇宙のあいだにかがやきつ
づける。
 二〇世紀のこの運命を生きた人間、混沌から出発し、あらゆる傷
を身にうがち、絶望と虚無の深淵、夜の果てへの旅のただなか、ひ
とつの現実的神話をうちたてた人間、私は彼に出会って ある瞬間
私のヘンリ・ミラーを発見するーー未知の冒険をつきぬけて神の愛
に応答した幸運なる殉教者、それゆえに人間の存在を獲得し、歴史
のまぼろしをつきぬけて現実の世界のただなかに生命のほとばしり
を彼はつたえる。
 彼の創造の言葉は、私の創造の言葉とは 決してなることがない
けれども、しかし私と彼は読者と作者をこえて関係する、自由なる
運命のあいだ 精神の共同体が創造される。
 ただ一回の、永遠へ流れる出会いがあって、無数のわれとなんじ
がそこに実在する、あなたは人間に あなたのヘンリー・ミラーの
なかで出会い、わたしは、わたしのヘンリー・ミラーのなかに人間
と出会い、そのために、ヘンリー・ミラーは作家なる無数のヘンリ
ー・ミラーをこえて、ただひとつのかがやく存在、ヘンリー・ミラ
ーという人間となる。
 彼の書き続けて終らぬ大きな書物、ひとつの有機的世界の こな   340
ごなになったカケラでも、香りのすべてを失わないのだから、あえ
てここに部分の部分を引用するーー彼の神のヴィジョンについての
言葉を、手を首にすげかえたとしても 彼はからからと笑って 転
載料を請求してくるにちがいない。彼の現実の世界は それほど広
く 包含しうるものだからではある。
 『ぼくは、もっと多くの災厄を、もっと大きな災難を、もっと壮
然な失敗を 大声あげて求めている。ぼくは全世界が狂ってしまえ
ばいいと願う、すべての人々がからだを引掻いて死んでしまえばい
いと願う。あらゆることの絶対の絶対の絶望に目ざめて ぼくはほ
っと救われた思いがした、いまこの瞬間ほど ぼくが本当に孤独だ
ということはありえないだろう。もうなにものにもすがるまい。そ
こここの修繕をしたところで何もなりはしないのだ。新しい生命は
問題の根源から出発しなければならないのだ、ぼくは飢餓と寒気の
ために 生命をうしなうあの高い乾燥した山脈を迂回していきたい。
人間も動物も植物も存在しない。時間と空間の絶対、あの「超時間
的」歴史というやつを/いまや新しい世界の夜明け、鋭い精神が徘
徊しているジャングルの世界/ぼくはこのぼくこそ地上で最後の一
人になるだろう、そういう確信のようなものをもって/ぼくを肥ら
せるために前進する/これらの男女 あるいは亡霊 人形の亡霊、
彼らはただ一つの王国のなかでのみ自由であり 意のままにうろつ   360
きまわりーーしかしいまだに飛びたつすべをしらない。幻覚のかな
たに生きるか、それとも幻覚とともに生きるかが問題なのだ。すべ
てを失ったとき、魂は歩みだすーー午後おそくなってから、ぼくは
リュ・ド・セェズにある画廊のなかで、ぼくはマチスの男や女たち
にとりかこまれている自分を見出した。人生の色彩が歌や詩となっ
てこぼれ自分自身をみうしなうほど自然で完璧な世界、どんな場所、
どんな位置どんな姿勢からでも焦点のある生命の中枢部にあるとい
う愛で、みずからの存在を示す、それらの内奥の静けさの深い意味、
世界が崩壊に向いつつあるこのときすら その核心にとどまるもの
がひとりいる、そしてまた私はここにいる。生命は圧縮されて、ひ
とつの種子、それはひとつの魂にほかならず、あらゆるものが魂を
もっているーーたとえそれが意識の最低段階であるにしても/ぼく
が心にひかれるのは死んで葬りさられたものが 数限りなく復活す
ること 死ぬたびにより深く虚空のなかに埋められてよみがえるた
び奇跡はおおきくなる/そして本の意味を理解するとは その本が
視界から消えてしまうこと、生きながらかまれ消化されて血肉とな
り、その血肉がさらに新しい精神を生み、世界を再構成することに
ほかならない/ぼくは 神がまた生まれて 人間が神のために戦い
 神のために互に殺しあう やがて来るべき時代のことを考えてい
る、現代では まだこれからも当分の間 人間は食物を手に入れる   380
ために 戦うのをつづけるだろう/人間がつねに内部にもっている
不滅の世界、ただ刻々に変化する 永遠に真実な世界、生の究極の
意味はごく簡単な身ぶりひとつ 全存在で語るなら ただ一語で生
命を与えることができる/善をひろめるのはすばらしい、しかもた
だ単に「ある」ことはなおすばらしい 無限でなんの実証も要しないか  「」は傍点
ら、善と悪とを超越する/神はただ神であること、よりいっそう神
であることを欲するのだ/ぼくは仕事をするということが忘れられ、
本が人間の生活でその正当な位置をしめ、そしてあるいは一冊の大
きな本ーー一冊の聖書のほかには、本というものがなくなるかもし
れない時代のことを考えている。そしてその時代ぼくは歴史のうえ
で重要な存在になり世界がぼくから受けた傷のあとは意味を持って
くるにちがいない。ぼくは自分のすることが歴史となりつつあって、
それは片方に押しやられた歴史でも、下疳のようにもうひとつの、
無意味な歴史にくいいって行くのだということを、忘れることが
できないので、ぼくは自分というものを 一冊の本、ひとつの記録、
ひとつの資料とかいうものではなしに、われわれの時代の歴史、す
べての時代の歴史としてーー考えている/生命は刻一刻、広大な無
限へのびていって ぼくたちが想像するもの以上に現実的なものは
どこにもない、宇宙をどんなふうに考えるにしろ、ぼくがぼくであ
りきみがきみであるかぎり、それは他のものではありえない。完全   400
な意識はさながら、太陽や月に没入して、太陽や月を包容する 無  401
尽蔵の大海、あらゆるものは無限の光の海から生まれくるーー夜す
らも/キリストよりももっといいもの、心よりももっと大きなもの、
可能の神のかなたにあるもの、ぼく自身、ぼくという人間ーーぼく
には神が必要だ、だが神もぼくを欲する/音もなく進んでいく群像、
どんな恐怖よりも凄まじい騒ぎのなかにも 神はいる。神は人間の
意識の空に星のようにもえ、それは野牛の神であり、トナカイの神
であり、人間の神ーー神なのだ。/すべてが死んでしまったという
ことに、みんなの意見が一致した集まりからの帰りに、神とともに
神となって街を歩いてゆけば、そんな意見は嘘であることに気がつ
く/ぼくはなんども生れかわり、ぼくは自分で自分のうちから創り
だした仲間たちにはなしかける/二十世紀がその隆盛の絶頂に達し
て、太陽が 腐りかけ、小さな橇にのっている男が、「愛の歌」を
ピッコロで吹いているこの今日ほど、ぼくは美しい日をしらない。
ぼくはもうひとりでいることはなく、どんなことがあっても、すく
なくとも神とともにいる。
 ーー別の日に、外国で ぼくの前に ひとりの若い男があらわれ
る。彼は ぼくの身に起った変化に気がつき、ぼくに「幸福な岩」
という異名をあたえるであろう。それこそは、偉大な宇宙の神が
”汝なにものぞ?”と問うたとき、ぼくが答える 名となるだろう   420
/ ぼくは その傷、ぼく自身の傷を開くことによって、ほかの傷、
他人の傷を閉じたのだ。 なにものかが死に、なにものかが開花す
る。無知のうちに苦しむのは恐しいことだーー意識しながら苦しむ、
苦悩の本性を知り、それを永遠に絶滅させるために苦しむことは、
まったく別の意味をもってくる。/苦悩は明らかに不必要なもので、
しかし人は苦しまなければそれを悟りえない、そして人は苦しんで
こそ、人間苦の真意を明らかにすることができる/最後のーー人が
もはや苦しむことができぬ最後のーーどたん場になって、奇蹟のご
とき性格をもつ なにものかが 起る。/生命の血を たらたらと
流していた 大きな傷口が閉じ 有機体が 薔薇のように開花する
 人はついに 「自由」になる/「ロシアへのあこがれ」よりも
はるかに大きな自由はるかに大きな幸福へのあこがれをもちえなが
ら/生命の樹はーー涙によってではなく、自由こそ真実で永続的だ
という知識によってのみ、生気をば 保つことができるのだ。』(北
回帰線、南回帰線、性の世界、黒い春、ネクサスーー順不同の引用、
ぼくという名称で統一し、ごくわずかな接続詞の省略、または付加
(文をつなげていくために、−−意味の変化はないと考える)による
新潮社ヘンリー・ミラー全集からの)
 ヘンリー・ミラーの文学と出会って 勇気づけられることはでき
る、自由の未知なる冒険を旅してきた放浪者の、その歓喜の歌に耳  440
を傾けることはできる、さらにとびこえて ミラーのなんじによっ
てわれを獲得することもできる。けれど彼の神のヴィジョンによっ
て 彼の神を信奉しても、それはむだなことなのだ。 人は、おの
れの神を自己の深淵からのみ 発見する。みずから運命のただなか、
あることによって。無数の、おのれの神があるーーそして それは
ただひとつ 永遠のなんじから発する、無限なるかがやきである。
人間はかがやきの間にあって、真実に出会う。
 終末に近づいていて、人々の絶望のなかから、死にもの狂いのエ
ネルギーがとびだしてくるーーそれなくしては変えることも、変わ
ることも、したがって、”現実”が世界となって やってくること
もないだろう。この偶像崇拝の狂乱の花がさきみだれる歴史的世界
は金銭という貢ぎものをささげながら、キリスト教世紀二四〇〇年
までも、生きのびるにちがいない。変容は、それからはじまるのだ。
わたしたちは、非常なる死者のもとにあって
        よみがえってはいない
だから死者の底からの深い静かなつぶやきに
        耳をかたむけずには
        いられない
        言葉いじょうの言葉
        沈黙のなかの沈黙                 460
深淵にこだまするつぶやきの暗烈なる響きに
        目をとどろかせずには
        いられない
    そしてわたしたちも だまっている

正常がかくも静かな非常であり
日常がかくも単調な正常であることの
   深いいかりからかなしみがたちのぼる
最大のしっぽが最小の口にくわえられている(最大のしっぽが・・・)
   一瞬の この時の時に
   峻烈なる風が かくも静かに
   秋が これほど冷たく
   むすぼれて
   沈黙のみが
   ただひとつの言葉を発し
   壁のみが
   ただひとつの向背骨となるがゆえに
   屹立する 外なる壁のあいだ
   内なる壁の逆理をひめて
わたしたちは、壁のみによってむすばれる

秋の白いかがやきが 蒼い空に凝固して、 480
熱をうしなったかがやきが、ひかりその
ものとなるときにあって
   この等質価の世界のあいだ
   互の顔をば 知ることなく
   虚空のなか ただ関係のみが ある
   ひとりひとり、ひとりはひとりと
   逆転は、ただそれがためにあって
わたしたちは、それによって むすばれて
              ある
 絶望によってむすばれて、しかもおのれはつねにひとりであるこ
とは、すばらしいことである。そこにはめくるまめく高みと、骨を
きしませる深淵があって、人間が、おのれ自身となることのできる
広大無辺な空間をやどしているからである。人間が飛ぶことができ
て、しかも飛ぶことを拒絶する、それもすばらしい試みでありーー
なぜなら水平から、垂直に落下していけるのだからである。無限の
落下は無限の上昇に限りなく接近する。
 ただ 飛ぶことを すべての人々が、おそるおそるではあっても、
いま はじめなくては、人間が飛んでいく彼方もない。人間が飛ぶ
ときにのみ、空間は創造されてそこにある。
これが23歳のときの処女詩であるというところが、
なんともスゴイと思います。
錫木輔さん、はじめまして、

僕はこれを日曜日に朗読するために、このところ毎日練習しています。

詩は、目で読むものではなく、音で聞くものだと思うので。

で、力いっぱい公園で読んでいると、だんだん頭がクラクラしてくるのです。

たぶん途中で休みを3,4回いれないと、ぶっ倒れると思います。

もしお時間あるようでしたら、日曜日のお昼、三鷹天命反転住宅にいらしてください
坂井信夫さんの「さらば 夏の光よ」を読んで、この山本陽子の詩を思い出しました

      人間は消費し続けてきたので、いま最後の偉大なる消
費、人間の消滅へと向っているのだ。そして人類の絶滅・殺りくは
悲劇ではなく 尾を引いたすい星で 宇宙のちっぽけな排泄にすぎ
ず 静かに闇がおしよせてきて その死は無意味なものであり 人
間の不滅の死はもうそこから失われている。

このところの地震、津波、そして終わらない原発事故は、山本陽子がまさに実感して
いたことではないかと思います

坂井さんがショスタコーヴィッチの7番の第一楽章 タータータ タンタンのところを
「人間の旋律だった」というのは、人間への期待をかけたけどそれが裏切られたという
ことなのでしょう

チェルノブイリ原発事故から25年たって、いよいよ人類の滅びが佳境にはいったという
ことかなと思っています

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