ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

ショート小説〜ホッと一息編〜コミュの『棺桶』

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
「カラオケいかがですか」
 そう言っているものとばかり、思っていました。ところが、よく聞いてみたら、そのおじさんが言っていたのは、そんな言葉じゃなかったのでした。
「棺桶いかがですか」
と、おじさんは道行く人に声をかけていたのでした。
「え? 棺桶、ですか?」
 思わず足を止めて聞き返した私の顔を、おじさんは外套のフードの下から細い目でじろりと見上げて、
「そうだよ。棺桶だよ」
と、無愛想な言い方で答えました。
 時計の針は、そろそろ深夜十二時を指そうとしていました。もう十一月の中旬ですから、夜ともなると手や顔など、皮膚が直接空気に触れる部分は、冷えて強張ってしまうほどの寒さでした。おじさんも、ですからそれなりの寒さ対策はしていたのでした。全体が銀色でもこもことしたフード付きの外套を、頭から膝の下まですっぽりと被っていました。外套を被る、なんて一見不自然な言い方なのですけれども、みなさんだってあのおじさんを直接ご覧になれば、私がそう言いたくなる気持ちも、きっとご理解頂けるのではないでしょうか。
 なにしろおじさんは背が低いのです。近頃は女性の身長が一昔前よりだいぶ伸びてきた事情もあるのでしょうが、おじさんは通り掛かる大抵の女性に比べても、やはり頭半分ほどは背が低いのです。ですからそのおじさんが大きな外套を身につけ、その上フードまで被ってしまうと、それはもはや外套を着ているのではなくて、外套全体をすっぽりと被っている、と言う方がぴったりとするのです。
そのおじさんが、銀色のコートから肌色の手を出して、道行く人に声をかけているのです。
場所は駅前です。都会の真ん中にある、東京でも指折りの大きな駅から、各駅停車の電車で三駅離れた場所にある、ですから、ものすごく栄えているという訳でもなければ、ものすごくうら寂れている、というわけでもない、そういう駅です。駅前には主にバスとタクシーが通るロータリーがあり、そのロータリーを挟んで駅の北改札からちょうど真向かいに大きな商店街があるのですけれども、おじさんはその商店街の入り口に立っていました。
もうすぐ終電の時間です。駅を出る人、入る人の中には、背広姿のサラリーマンの姿はほとんどみられません。多くは二十代前半と思われる、若者たちの姿です。
私は自宅から歩いて行くことのできる、深夜も営業をしている大型の雑貨店に行った帰りでして、ほとんどシャッターの閉まった商店街を、駅の方向に向かって歩いていたのでした。
そして商店街の出口のところまで来た時に、そのおじさんを見つけたのです。
私はおじさんから、ビラを一枚渡されました。おじさんの直筆なのでしょうか、筆ペンを使ったと思われる文字で、ぐしゃぐしゃと殴りつけるように書いたものを印刷したものでした。そのビラを見ると、確かに「棺桶」という言葉を発見することができました。ただし「棺」という字からは木偏が抜け、「桶」という字は分からなかったのでしょうか、「おけ」とひらがなで書いてありましたから、おじさんの言葉を聞かなければ、私は「官おけ」なるものがいったい何なのか、思い浮かばなかったかもしれません。
 おじさんはそんな手書きの、あまり見栄えのしないビラを、偶然にも駅前に二店あるカラオケ屋の、一軒のお店の前で配っていたのです。
 ロータリー中心の島には、もう一軒のライバル店のスタッフが、あまり熱心でもなくお店のビラを配っています。
 人通りのまばらになった、しかも稀に通り掛かる人たちでさえ、まだ棺桶とは縁がなさそうな若者たちばかりとなった時間帯に、駅前の薄暗い商店街の入り口、それもカラオケ屋さんの目の前で棺桶を売っているおじさんの姿は、やはりどう見ても不自然に見えるのでした。
 おじさんの声と、少しだけ見える表情に刻まれた皺の様子とから、恐らく私の倍くらいの年齢ではないかと想像しました。
「あのう――」
 おじさんは、私がすぐにその場からいなくなると思っていたのでしょうか、私が別の質問を続けようとすると、「おやっ?」と思ったような、少しうるさがるような目をして私のことを見ました。
 私は自分の疑問を解消したい一心で、そうと分かっていながらも、図々しく質問を続けました。
「どうして、こんな場所で棺桶なんて売っているのですか」
「――だろう」
 ちょうどその時、駅に電車が入って来ていたのでした。その電車が高架を通過する時ものすごい騒音をだしたせいで、私はおじさんの言葉をよく聞き取ることができませんでした。
 すぐに電車は減速し、騒音は会話の妨げになるほどではなくなりました。
「はい?」
 私はおじさんの方へ気持ち左耳を向けるようにしながら、おじさんにもう一度答えてほしいという素振りをしました。しかしおじさんは私のことなど無視し、数少ない通行人に「官おけ」のビラを差し出しながら、
「棺桶いかがですか」
と、低くくぐもった声で呼びかけているのでした。
「あの、すみません。ちょっと、聞き取れなくて」
 おじさんの後ろ姿に追い縋るように、私はもう一度声をかけました。通行人がいなくなってしまうと、おじさんは私の方に半分だけ振り向いて、
「人間、いつかは必要になるだろう」
と言ったのでした。
 私は、ますます訳が分からなくなりました。それと同時に、この珍しいおじさんに対する興味も、どんどんと増幅してくるのでした。
「それは、そうですね。一生で一度は、誰でも入るんですものね」
 いきりたつ私に、おじさんは「フン」と言った切り何も返してはくれません。
「でも、どうして今棺桶を売るのですか? 亡くなるちょっと前に用意をするんじゃ、遅いんでしょうか?」
「お前さんは自分がいつ死ぬか、知っているのか」
 そう言いながら、おじさんはくるりと体を反転させました。体がおじさんと正対した瞬間、ついさいぜんまでわくわく脈打っていた心臓が、すうっと冷えてゆくのを感じました。
 おじさんは何も答えない私のすぐ脇を、最初いた場所まで戻り、駅方面に体を向け変えました。私もすぐさま振り返り、おじさんと一メートルほどの間隔を置いた場所から、おじさんの横顔を見つめました。
 地肌が黒いせいか、おじさんの目は余計に白く光っているように見えます。えもいわれず不気味な雰囲気でした。
 商店街の奥の方からは、賑やかなアコースティックギターの音色と、若い男性の澄んだ歌声とが、ぼんやりと聞こえてきていました。「にゃあ、にゃあ」と、どこかで野良猫が大きな声で鳴いていました。
 人通りはありませんでした。ロータリーの島にいるカラオケ店員さんも、退屈そうに空ばかり見上げていました。
 おじさんは静かでした。少しも動きませんでした。もはや私の存在など忘れ去ってしまっているようでした。
「もう、何も聞いてくれるな」
と、まるでそう無言で語っているようでした。
 自分の死期を、知っているか。
 私の頭の中では、さっきおじさんに尋ねられた質問が、ぐるぐると高速で回転していました。
 忠告でしょうか。謎解きでしょうか。それともただの、冗談でしょうか。
 私にはおじさんの真意を汲み取ることができませんでした。
「最終電車が、終わったよ」
 不意にそう呟いたのは、おじさんでした。はっと気がついて駅の方を眺めてみますと、線路の上はすっかり静まり返っていて、物音ひとつ聞こえては来ませんでした。
 手に持っていたビラの束を乱暴に外套のポケットに押し込むと、おじさんは落ち着いた手つきで、ゆっくりと煙草を吸い始めました。赤い暖かそうな煙草の火が、おじさんの顔の前を、近づいたり、離れたりするのを、私はしばらく黙って見ていました。
 三、四服吸った後でしょうか。おじさんはまだたくさん残っていた煙草を地面へ捨てると、靴の先で火を踏み消しました。そして視線を地面へ見やったままの、そのままの恰好で、
「棺桶なんか、買うもんじゃねえ」
 確かにそう口にしたのでした。
 おじさんは一体、何を言おうとしているのでしょうか。たまらず私が問い返そうとした時には、おじさんは背中を向けて歩き出し、もう最初の角を曲ろうとしているのでした。
 追いかけたい衝動に駆られながら、私の足は、頑なに動くのを拒みました。たぶん追いかけて聞いても、答えてはくれないだろう。そう諦めている自分が、私を行かせなかったのでしょう。
 冷たい風が、私の懐を吹き過ぎて行きました。それでも私は、しばらくその場に佇んだままでした。
 道行く人に棺桶を勧めておきながら、おじさんは自分の口から、
「棺桶なんて、買うもんじゃねえ」
と言いました。私は、その相反する二つの事柄の間に介在するのであろう、おじさんの真意を突き止めたく、歩いて家に帰ることにまで意識が向きませんでした。
 自分の寿命を知っているか。
 人生でやり残したことはないか。
 いつ棺桶に入っても後悔しないか。
 自分は全力で生きて来たか。
 自分に対する様々な問いかけが、こだまのように心中に去来するのでした。
 そう言えば、その時まですっかり忘れてしまっていましたが、もう一週間もすれば、私もとうとう、還暦を迎えることになるのです。
 ――! 還暦!
 私は急いでおじさんの消えた角まで走って行きました。そしてそれこそ目を大皿のようにしておじさんの後ろ姿を探しました。けれどもどこまでもほの白い街灯がぽつんぽつんと続くばかりで、おじさんの影どころか、人の通りさえ見えません。
 どうして私は、自分の年齢を忘れていたのでしょう。どうしておじさんが、自分より倍も歳が行っているなどと、思いこんでいたのでしょう。
 すぐに帰るつもりでそれほど厚着をしていたわけではありませんが、私の額には、じんわりと熱い汗が浮かんで来ました。
 それからというもの、駅前で再びあのおじさんの姿を目にすることは、ありませんでした。

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

ショート小説〜ホッと一息編〜 更新情報

ショート小説〜ホッと一息編〜のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。