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プッタタートを語ろうコミュの「巨人・プッタタート比丘の普通の人生」

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 1906年5月27日、日曜日、暑気の終わりに近い雨の日、チャイヤー県(後にスラータニー県となり、その後バーンドーン県チャイヤー郡となる)プムリエン村の商業区域にある商家で、夫チエン パーニットと妻クルァンは家の跡取りである長男を授かった。そのときの赤子はまだ正式な名前はなく、たぶんヌイかヒートと愛称で呼んでいたと思われる。(その地方の言葉で、ヌイは豊穣、つまり丸々している、ヒートはチビという意味である) 。
 4歳のときサムニミット寺のサムコン和尚が総領息子という意味の「グァム」と命名し、「この子が無病息災で、親戚や友人に囲まれ、末永く宗教の方面に発展するように」と祝福した。

                               総領息子
 生家は普通の家で、父の職業は商人と言っても、暮らし向きはかなり良かった。しかし田舎での良いレベルだったが。
 子供のころは悪戯で遊び好きで、蟹や魚を獲ったり、海へ行ったり、闘魚を飼って繁殖させたりするのが好きだった。兄弟喧嘩をすると母親に鞭で打たれることもあった。当時としては当たり前のことである。(弟はジークーイ パーニット、あるいはタンマタート氏、そして妹はキムソーイ メクン)

 母親は家事が巧みで、家計の切り盛りに長けていた。少年は幼い頃から母の傍で家事の手伝いをしたので、緻密で、周到で、観察好きで、そして非常に始末な母親の性格を受け継いだ。「たとえば節約では、ココナツミルクを絞るとき、普通の人は2回搾るが、私の家では必ず3回は搾った。2回目の滓を細かく搗いてもう一度搾ると、ココナツミルクがまだいっぱい取れた。ほとんどの人は面倒だから2回搾って捨ててしまうが、家ではそれを搗いて搗いて搾ると、水はまだ真っ白になる。それから4回目を搾る。それくらい節約していた」とプッタタート師は語っている。
 父親は商才があっただけでなく、大工仕事も得意で、ボランティアの船大工に名を連ねている。また語学や詩歌などに興味があった。父親からの影響も受けている。
 
                           寺の子としての少年時代    
 8歳になると、両親は昔風の初等教育を受けさせるためにプムリエン寺に預けた。つまりグアム少年は寺で生活しながら3年間、読み書きの勉強をした。11歳でポーティピッタヤコン学校(ヌア寺、またはポータラーム寺)の中等部に入った。中学校の教諭と校長の手帳には、グアム少年に関して次のような記述が残っている。
1.仕事が早く、非常に努力家である。
2.友達をいじめたことがない。補修授業を受けさせられたことがない。
3.記憶力が良く、現実的な事を好む。
4.智慧は通常の人並み。
 当初の性格や学習態度に関して「常に勤勉で無為にすごすことなく、態度は堂々としている。何かをするときには友達に声をかける。行儀はよい。仕事はきれいにする」とある。

                              中学生時代
 中学2年の時、チャイヤーに2軒目の店を出した父親の仕事を手伝うために、サーラピーウティット学校に転校した。店が2軒になってから、チャイヤーとプムリエンの間を、荷物を積んだ荷車で「愉しく」往復するのが少年の仕事になった。しかし勉強については「勉強ができると思ったことはないが、いつも試験はパスして、一度も落第したことはない。しかし勉強はあまり愉しくなかった。行ったばかりの頃は家のことばかり考えて、昼休みにもならないうちに家のことを考え、まるで両親と遠く離れてしまったように寂しかった。勉強は愉しくはなかった。何とか試験を通ったという程度だった」と述懐している。

                                店の支配人に
 中学を卒業すると、父親が卒中で死亡し(1922年)たので、チャイヤーの店を畳んで、プムリエン一つにした。家の大黒柱を失い、母親はすでに高齢であり、弟妹はまだ学業の途中なので、当時のグアム少年は、自分は店のことをすべて取り仕切る支配人も同然だと考えた。

                                若いタンマヤクザ
 バンコクにいる伯父バイティカーシエン パーニットが仏教の本や、良い本を送ってくれた影響と、店にも売り物の本があったことで、その後の少年は仏教の本の読書に熱中し、修行僧試験三級、二級、一級の勉強までしていた。若さゆえ、少年は商人であると同時に、非常に弁の立つタンマヤクザ(論客という意味であろう)になり、タンマヤクザの先輩や大先輩と遣り合えるほどであった。店の前を公務員が通ると、いつでもグアム少年とタンマの応酬が始まり、職場に戻るまで一時間はかかると言われていた。

                               三月のはずの出家
 昔からの習慣に従い、母親と親戚たちは息子が出家することを望んだ。「出家しなさい、出家するべきだというのが全員一致の意見だった。しかしその強い期待を良く知ってはいたが、一度も指示されたことも、頼まれたこともなかった。自分自身の考えとしては、出家してもいいし、しなくてもいいという気持だった。約束では三ヶ月間出家させるというはずだった。当時の若者は、出家できる年齢になるとほとんどの人が出家した」。
 1926年7月29日、雨安宕の前に、グアム氏はソーポーナジャーシカーラームを導師とし、ウボン寺あるいはノーク寺の本堂で出家式を滞り無く済ませ、それからプムリエン村のマイ寺に移った。祖母の弟がそこの住職であったことから、偉大な智慧者という意味の「インタパンヨー」という戒名を授かった。

                            愉しくて還俗するのを忘れる
 出家して何日も経たないうちに、故郷プムリエンでは、プラ・グアムは説教が上手で、他の寺の人々も聞きに押し寄せて来て、集会所が満員になることもある、という噂が広まった。それまでの説教は経典を読むような話しだったが、現代的に改革し、仏教学校で教わった本生経や他の良い題材をアレンジしたり解釈して、聞いて楽しく役に立つように話したので、話す本人も在家の人々の役に立っていると感じて気分が良かった。在家によって献じられる食事によって支えられている、僧としての学習生活が無駄ではないからだ。
 もう一つ愉しいことがあった。それは人生で初めて新聞のような形態の読み物を書いたことだ。グアム僧は夕方の読経の前にフールスキャップ判(タブロイド紙くらい)の紙3枚6面の読み物を作った。当初の内容は、ただ友達が楽しく読んでリラックスしてもらいたいために書いただけで、他には何も考えてはいなかった。読経が済むと友達に渡して、みんなで読み、それから友達が笑うのを聞きながら眠った。
 毎日気楽に書いていたユーモア新聞は、プムリエンの田舎の寺で生まれた、師のはじめての新聞といえよう。書くことがなくなると、たとえば効率的な僧衣の洗い方や金箔細工の仕方などを、他の新聞から書き写したりしたと、師は語っている。2年間そのようにして、3年目には仕事が忙しくなったので止めている。その当時の僧生活は他にも愉しいことがたくさんあり、還俗するのを忘れるほど愉しかったと述懐している。
 
                              バンコクへ
「人生で何をしたいと考えているか」と教師に問われて、「人々のために最も役立つ生き方をしたいと思います」とプラ・グアムが答えると、質問者である僧学校の教師は、それなら還俗するべきではないとアドバイスをした。俗人の生活は家庭生活に忙殺されて十分奉仕することができないからだ。そのとき弟が学業を中退して家に戻り、稼業を担っていたので、家の心配はなかった。
 2年目に入って僧試験2級に合格したあと、1928年、パーリー語を勉強するためにバンコクへ行く決心をした。パトムコンカー寺に宿泊して2ヶ月、寺の僧たちの規律の乱れをみて嫌気が差し、還俗するのでプムリエンに帰らせてくださいと申し出た。そのとき雨季に入る数日前だったので、雨季が終わるまで待つよう忠告する人があった。しかしプラ・グアムは雨季が終わっても、還俗しなかった。チャイヤーのマハータート寺の仏教学校に教師の仕事があり、再び僧生活が愉しくなった。

「教師の仕事は愉しかった。一人で二クラスを教えたが、全員僧試験に合格したといっても良い。一人試験に落ちた僧がいたが、原因が受験票の紛失だったことが分かった途端、教師としての評判が急に上がった。新しいことなので面白かった。そして何とかなるという自信もでてきた。それまでのような教え方でなく、愉しく勉強できるよう工夫した。興味深い話し方を工夫したり、問題をクイズのように競って賞を設けたりしたので、学生たちも愉しく勉強でき、全員試験に合格した」

                               再びバンコクへ
 沙弥たちの振る舞いがどうあろうと気にせず、パーリー語の勉強に専念しようと決意して、再びバンコクへ上京した。しかし何日も勉強しないうちに、授業の進度が遅いのと、考える自由がないのとで嫌になり、パトムコンカー寺のマハークラン ピヤタッシー師に直接習い、1930年末、期待どおりパーリー語試験文章三に合格した。

                               試験に落ちる
 何でも知りたがりの性格のため、習っている教科書、つまり翻訳された三蔵経を広く調べ、直接三蔵経を学び始めた。すると今している勉強は、研究、検討、分析して考えることなく、教科書にこだわりすぎていることが分かった。自分のやり方で勉強しても受け入れられないので、仕方なく勉強をしたが、その結果プラ・マハー・グアムは、パーリー語試験文章四の試験に落ちてしまった。
 阿羅漢の足跡を追う道を歩むために、プムリエンに帰郷するに先立ち、弟のタンマタート氏に書いた手紙の一文である。
「結局バンコクは、純潔を求めるところではないと確信した。名誉や出世のために三蔵経を学ぶ道に踏み込み、間違った方向へ足を踏み入れたと感じた。もし気がつかなかったら、もっと深入りしていたことだろう。そして他の人のように抜け出せなくなったかもしれない。間違った方向へ足を踏み入れたことに気がついたら、どうしたら正しい方向へ進めるかという糸口が見えてきた。
 生まれてからたった今のこの一秒まで、ずっと世俗を歩き続けてきた。これからは世俗の道は歩くまい。純潔を求めて到達した聖人たちの跡を追い、世俗と離れ、純潔を求めていこう。もし意に反して世俗の道を歩めば、世俗の後を追うことであり、何十万回生まれ変わっても追いつく日はない。もう二度と世俗の後を追うことはしない。世俗に頼るのは体だけにして、心はその時の純潔に出合うために、世俗から完全に開放して自由にしよう。」

                              阿羅漢の跡を追って
 プラ・マハー・グアム インタパンヨーは、僧衣三枚と鉢、三蔵経の本と手提げランプをもって、寂しい密林の中に、在家の人たちが雨風を防ぐために建ててくれた、トタンで囲んで片流しの屋根をつけただけの小屋に滞在した。それがトラパンチック寺という名の荒れ寺である。あたり一面はモークの木(夾竹桃科の木)とプラーの木が密生していた。スワンモーク プラーラームという名の由来である。仏教的な意味では、解脱する力になる森という意味である。
 まるでブッダの時代のそのもののような生活だったことが、師が話していたような誤解を招くことになった。
「托鉢に出ると、『気違い坊主が来た、気違い坊主が来た』と言いながら子供が後からついて来て、恐ろしい中にも危険を冒したいのか、みんなで横へ走り出てきた。一人で住んで、一人で托鉢していたので、子供たちは変に思ったのだろう。ある時期、入り口のドアに鍵をかけておいて、人が来ると大声で呼ぶという時もあったし、悪戯に『来訪お断り。どうぞお帰りください』というようなことを書いたこともあったからかも知れない」
 たった二ヶ月あまりブッダに倣った生活をしただけで、自分の進む道に確信が得られたので、その時から経文の一部から取った、プッタタートという名前を使い始めた。「私はブッダの僕であり、ブッダは私の主人。だから私の名前はプッタタートです」
 
                            タイで初めての仏教新聞
 師の仕事の重要なことの一つは、仏教の正しい理解と実践を振興するために、それを広めたことである。母親が寄進した父の遺産である6378バーツを資本とし、弟タンマタート氏を編集長として、季刊の仏教新聞を発行した。「パーニット家」の資金と花と実は、スアンモークのタンマの振興のために使われた。
 1933年5月、仏教新聞の第1号が発行された。記事のすべてはプッタタート師が書いたもので、インタパンヨー、プッタタート、サンカセーナー、シリワヤート、など、様々なペンネームが使い分けられた。この第1号は評判が良く、その後ニ回重版されている。
 内容は、三蔵経のタイ語訳、修行の振興、タイと世界の仏教ニュースと批評などその他一般と三部に分かれていた。 
 「仏教」新聞の発行によって、スアンモーク寺とプッタタートの名は次第に知られていった。 
 
                                 実験
 翌1934年の雨季は、自分を非常に厳しく鍛える時となった。実験的修行の結果を省みて詳細に研究するために「ブッダに倣って毎日修行する」記録を記している。不撓不屈の精神が無ければ無し得ない、いろんな修行を試みた。たとえばうっかり蚊を打ったり殺したりしてしまった時には、藪の中で20分以上、数百匹の蚊に己の体を刺させた。怠慢は明け方まで座ることで解消した。空腹を感じたら、空腹感が消えるまで庭を掃いた。不味いと感じたら、感じなくなるまで、あるいはそれに満足するまで食べた。
 プムリエンのスアンモークの日夜は、真実ブッダの足跡を追って解脱を追及する生活であり、自然に還えることだった。この確かな実験的修行により、次のような確信を得るに至った。
「今後は心の方針を、本当の幸福だけに向きを変えようと思う。つまりすべてを捨て開放し、常により爽やかで瑞々しい心であるようにすること。語るのはこの幸福だけ。二度と何かが心を覆うことを許すまい。私の人生のすべてを賭けてこの幸福を目指す。そしてこの幸福だけを広めて行く。仏教の中にこれ以上のものはない」

                   ターンナムラーイの寺、スワンモークプラーラーム
「スアンモーク プラーラームという名の地元の店がある。買い物にお金はいらない。商品は「タンマコート(タンマの啓蒙)」。あらゆる人、すべての老若男女を対象に。種類は百貨店よりも多い」
 1944年、スアンモーク寺はプッタトーン山のターンナムラーイの辺りに移転した。面積は49万6千平方メートル(約15万坪)。ブッダの時代のサンガの原則にしたがって、快適な緑陰の寺にした。僧たちの暮し方から宗教的な仕事まで、すべて出きる限り自然で簡素であることを旨としている。
 プッタタート師は常々、ブッダは大地の中で生まれ、大地の上で大悟し、大地の中で涅槃に入ったので、大地は神聖であると言っている。スアンモーク寺は次第に大きく育っていった。プッタタート師がサンドート(今ある物で満足すること。人と群れないこと)で生きようと考えた時も、その方が利益が〈スクナイ〉、俗人一般市民の利益は、群れになることより〈スクナイ〉と考えた。〈訳者註:カタカナ部分は誤植ではないかと思われるが、未確認〉

                         タンマを用いて時代をリードする
 本を書くこと、説教をすることのほかに、師はスアンモークを仏教の学習と実践の場とした。寺には数々の石、数々の樹木、鶏、魚、犬、猫、あるいは芋虫のような小さな生き物などが、自然の教師であり、スアンモークの様々なものを構成し、タンマの問題を提示している。
 
【石の広場】 いろんな儀式を行うために設けられた。石で作られ、戒という言葉は石という語句に由来していることを人々が見て思い出すよう、仏教的な意味のある形なっている。持戒は修行の根本として重要でありという意味、あるいは仏教を実践することへの信仰、確信は、石のように固いと意味もあるだろう。

【精神の娯楽館】 タンマのなぞを意味する各国からの絵を展示している、スアンモーク独特の建物。建物の外壁には「タンマの目を配る」という題の大きな絵があり、内部の壁や柱には、タイや禅のタンマを伝える絵や、チベットの縁起、つまり人の苦の発生から消滅までを描いた絵などがある。

【プッタトーン山の本堂】 スアンモーク寺の本堂は自然の本堂である。木の枝の先端が本堂の竜頭であり、木々の幹が壁であり、空を屋根に見たてている。しかしこの本堂も、伝統に則り国王から寺院として下賜された区域である。

【ナリケー椰子の池】 次のような歌詞の、南部地方の子守唄。

   幼子よ ナリケー椰子は 
   蜜蝋の海に たった一本だけ
   雨が降っても濡れず 雷も届かぬ
   蜜蝋の海の中 行くことが出きるのは 
   徳から抜け出た人だけ

 蜜蝋の海、あるいは輪廻の海に一本だけ立っているナリケー椰子が涅槃に譬えられている。蜜蝋は、固くてそして液体にもなるので、徳と罪、善と悪のある輪廻に譬えられる。波のように脆いものである。涅槃は徳や罪を超えているが、それらと共にあり、別々に離れているのではない。
 雨も当たらず雷も届かないというのは、そこをアレコレできるものは何もないということ。罪や徳から脱した人だけが涅槃、つまり執着を捨てるところへ至る。

                                 終章
「死期が近づいてから学んだことは、智慧をより完璧にしてくれた。病と死と苦について明確に学んだ。病気になるたびに、賢くなる」
 1973年、石の広場で説教中に倒れ、シリラート病院に入院治療。(12月)
 1984年、心筋梗塞で倒れ、スアンモーク寺で療養。(10月)
 1991年、心臓不全と肺浸潤で倒れ、スアンモーク寺で療養。(10月)
 1992年、脳血栓で倒れスアンモーク寺で治療。(2月)
 1993年、最後の病、脳内出血で倒れスラータニーで治療し、5月27日に一旦スアンモーク寺に戻り、5月28日にスアンモーク寺を出て29日11時15分にシリラート病院へ到着、7月7日まで治療を続けたが、7月8日、スアンモーク寺へ戻り、11時20分静かに息を引き取った。

                      プッタタート流の葬儀でタンマを伝える

 プッタタート比丘は葬儀に関して、遺書を残していた。「ごく自然にすること。三ヶ月以内に火葬にすること。もし仕方ない場合も、一年を超えないこと。簡素にすること。プッタトーン山の辺りで火葬式を行わないこと。柱を四本立て、白い布を天上に張るだけで、それ以上のものを設置しないこと。」
 簡素な火葬式は、チャイヤーの市場で買ってきた白い布をちょうどよい四角形に縫い上げ、スアンモーク寺内の竹を柱に立てて、質素に、簡略に執り行われた。
 僧となってからの67年の生涯は、偉大なる人「プッタタート比丘」の最後の言葉にある。

「私の柩は、タンマを広めることで社会にしてしてきた善。
 私の墓は、人類の利益のためにしてきたいろんなこと。
 そしてみなさんに、私の柩は社会にして来た善、私の墓は人類の利益ために協力して来たたくさんの役に立つこと、という原則を信条とするよう、お勧めします」

 2005年10月20日、ユネスコはプッタタート比丘を世界の偉人として顕彰した。
  
                        《スッカパーブチャイ社編・タンマダー訳》                                     

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