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選挙制度を改革しよう!コミュのくじ引き制について

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柄谷行人さんが「日本精神分析」とか言う本で、くじ引き制のことを言ってるのですが、たまたま知るに及んだこれは面白かったのでご紹介します。(ひょっとしてもう出てるかな?)

アテナイの民主制は民会にその特徴がある、と人口に膾炙されている。したがって弁に長けた議論のレトリシャン、ソフィストが力を持ってきたので、プラトンなんかが憂いだ、と言われるが、実情は少し違うらしい、ということを柄谷さんがなんかの研究で知った、という所から話が始まります。
アテナイの民主制の特徴は、そういう所に求められるのではなく、むしろその投票制度にある、と。なんと彼らは、くじ引きで議員を選んでいたのです。これこそ、人民が己の責任のもとで等しく国政に参加するということではないのか。(変な利権に群がる議員もグッとへるでしょうし、党派政治も一発で終わります。)

実際に裁判員制度みたいに、誰にでも機会が回ってくるというのは、さすがにこの高度に分業化した社会に於いては、政治家といえども特殊な能力や適性が(言わば詐欺師のような)が要求されるので、一寸まずい。そこで、柄谷さんは、まず一次選挙で候補者を定員の半分くらいに絞り込む。その後、その連中でくじ引きをする、というもの。

一長一短だと思いますし、いくら何でも絵に描いた餅のような気もします。しかし、(1)このくらい荒唐無稽な話を、なんとか具体的な政策提言にまで鍛えられないものか、(2)何か気づかない穴、まずいことがあるか、(たとえば、ゲーム理論的な観点では、なんか不都合な事がおこる、とか)、皆さんの知恵を拝借したいものです。

コメント(10)

あ、私は一門外漢で、数学教師です。初めまして。それと、まあ大丈夫だとは思いますが、柄谷さんの個人的信条などとは分離して、議論をおねがいします。(私個人も、あまりカレの事を良くは知りません。それとこれとは別、という事で。)
すみません、間違いです。

定員の半分 ー> 定員の倍

です。

あまりに混乱した文章ですね、すみません。疑問を整理すると、

 くじ引き制は現実的な選挙制度であるか?
 その良さは?あるいは悪さは?
 現状の選挙制度と比べて、どうか?(著しく悪い、あるいはいい、と言えるか?)

こんな所です。
立続けにすいません。言い出しっぺですし、私が問題だと思う所だけ書いておきます。

先に、民会がアテナイ民主制の特徴だというのではなく、むしろくじ引き制をとったその選挙制度にある、と書きましたが、どちらにしてもソフィストの跋扈する余地をつくり、アテナイは衆愚制に陥って遠からず没落の憂き目をみる訳です。

すなわち、現在のように劇場型民主制、スペクタクルの政治が支配的ななかで、くじ引き制を採用した所で政治に劇的な変化が望めるのか、という点です。
面白い指摘ですよね。
古代ローマでは政治制度を

君主制(裏を返せば独裁制)
貴族制(裏を返せば寡頭制)
民主制(裏を返せば衆愚制)

…と3分類していましたね(ポリビオスの循環政体論など)。

そのなかで、選挙というモノは「市民に差をつける」ので、
民主制ではなく貴族制に類するものと考えられていたようです。
市民がみな同じ能力を持つのなら、くじ引きでいいではないかと。

いまも検察審査会なんかはくじ引きですし、
こんどは裁判員制度も始まるので、そうやって日本でも近い将来、
生活のなかに入ってくるのだろうなと思います。

あるいは「市民がみな同じ能力を持つのなら」というところに、
現代民主主義の「貴族制」的な特質を見たり、
あるいは統治に責任を負おうとしない
現代の「市民」の無責任さをみたり、いろいろと示唆して
考えられるなと思います。

個人的にはまず自治体で試行してはどうかなとも思ったり。
検察審査会!そうですね、やはりこういう所で聞いてみると新たな知見が広がります。(忘れてました。)

結構今もいろんな形でくじ引き制はしみ込んできているのですよね。どういう所に、なぜ、それが採用されているのか、気になる所です。なぜ、全面的に採用しないのか?(諸外国ではどうなっているのか?)

私も、「まず自治体で試行してはどうかなとも思ったり」と思ってます。
「市民がみな同じ能力を持つのなら」という前提はどこからくるのでしょうか?あるいは、逆にそういう前提を疑問視した政治思想があれば、教えて頂ければ幸いです。(何しろ門外漢なもので、、。ここは肝のような気もします。)
>「市民がみな同じ能力を持つのなら」という前提

う〜ん古代ギリシャの頃から発想があったことを思うと、
けっこう古いようですね。正直、自分も起源を考えたことは
なかったかも(^^;
近代的な「権利」観とは、ちがう民主制観なのだろうと
思います。いまの発想でみると間違えるかもしれません。
むしろ、その「ちがい」が面白かったりして。たとえば、
この時代の民主制の発想には「個人」がないですよね。
そういう意味では「民主主義」ではあっても「自由主義」じゃ
ないのかもしれません。
個人の意思を重視する自由主義は、選挙に向かうのかも。

>そういう前提を疑問視した政治思想

主に保守思想系ですかねぇ。
あと大衆社会批判の思想ですとか。
オルテガ・イ・ガセットとか、シュンペーターとか。

こう考えると「保守」って「古い」から保守なのではなく、
人間の全能性への懐疑から出ているんだなと、いま
書いていて気がつきました(^^;

近代社会が「個人の意思」を重視する以上、
くじ引きは大きな政治よりも、選挙を補完するほうに
重きを置くべきなのかもしれませんね。
諸外国でくじ引き…政治とは違いますが、
選抜徴兵制の国だと、徴兵されるか否かは
くじ引きだったりしますねぇ。
面白いご指摘です。少なくとも自由と民主をこのような観点で分別できるとは思っていなかったです。そもそもギリシア時代に、今で言う(ピコデラミランドラとかスピノザとか、社会契約の議論とかを経た)自由の概念は無かったでしょうね。いま岩波哲学思想事典をみているのですが、自由は古典古代では第一義的には「奴隷でない」ことをさすようです。ポリスで得られる自由が奴隷制を基礎にした以上、むしろギリシアでの「自由」は奴隷をもつ事の権力にあったようです。

しかし、所謂「自由意志」と呼ばれるようなものがくじ引きを否定するとも思えないのですよ。まあ、参政が義務になってしまっているような社会を考えているのですが。(それがギリシア的という事か、、。)でもまあ、とにかく、にっし〜さんが言われるように、「選挙を補完するほうに重きを置くべきなのかもしれません」。(一時選挙で候補者を絞った後くじ引きをする、とか。)

>そういう前提を疑問視
オルテガはそうですね、大衆批判。あと、プラトンも。

>人間の全能性への懐疑
そうでした。バーグとかですよね。

確かに「個人」は「社会」が無いと成立し得ない単語でしょうから、個人の意思を重視すると言われる今の社会に関する批判が必要ですね。先の「事典」では、三島憲一さんが「自由の思考と政治的自由を結合する努力」をしたというアーレントを引き、ポリス的自由が「共通の世界を持ちうる条件」であるとしています。その上で、現代の資本主義的社会ではこうした自由は完全に喪失されている、と否定的な結論を下しています。ご参考まで。(部分部分納得がいかない。)


長くなりました。じつは安定性(不確定性の減少)の観点から、政党政治の方がくじ引き制による政治よりいい(かも)、という疑念を提示しようかと考えていましたが、(松原「社会を読み解く数理トレーニング」の15章「権力の計量社会科学」参照、後付けの理屈でこれほど見事なのも無かろう)結局はどのような権力は許容できるか、という話になるのかもしれません。

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