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軍事遺物研究会コミュのあなたの身近にある軍事遺物

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情報お待ちしております♪(゚∀゚)ノ
ちょっと古いですが、ほっけはこんなものを発見しましたよん↓
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=17959459&owner_id=53429

コメント(42)

こんにちは、千葉県在住ぐりふぉんと申します。
私の身近な軍事遺物を書かせていただきます。
あまりに有名すぎて、すでに出てたらごめんなさい。

千葉県船橋市、中山競馬場近くの行田団地です。ここは例の「ニイタカヤマノボレ」が発信された旧軍の通信所跡地に建設された集合住宅です。地図や航空写真でみると、円形の整地跡と道路を確認できます。
現代の沖縄でもよく取り上げられる「像の檻」と呼ばれている米軍の通信施設の特徴と一致します。

もうひとつは、同じく千葉県習志野市を通っている新京成鉄道
新津田沼から京成津田沼間の線路です。
ここは帝国陸軍鉄道連隊の訓練所のために敷設された鉄道で非常にキツイカーブの単線路線です。ここで訓練された操縦士が満州を走っていたなどと。と聞いております。総武線JR津田沼駅から近くの千葉工業大学近くに石碑が残っています。身近に鉄ちゃんの友人が居る人は、聞くともっと情報が聞けるかも知れませんよ…多分。途中にある赤レンガで出来た補強壁などを見つけるとその人工物がかなりの年代ものであることが伺えます。

あとは蛇足ですが、富津公園から見える第一、第二海ほう?ぼう?の海岸砲跡地でしょうか…。
ほっけ = うるふ 様
情報の補足ありがとうございます。
ご紹介いただいた本、興味惹かれました。
今度読んで見ます。
今後ともよろしくお願いいたします。
>皆さんはじめまして!
このコミュに参加させていただきます!

僕の実家の長野県下伊那郡には防空壕や
疎開?してきた某軍用機製造メーカーの
洞窟工場?があり子供の頃、よく忍び込んで
遊びますた。発動機?機体?どこに貼るのか
不明ですが薄い金属製のプレートで・・・・

「○○式 ○○型 製造番号・・・・・」
(あと細かくゴチャゴチャ印字してありますが
腐食のため読めません)など持って帰っちゃいますた(笑)

あとは・・・・また後日、書き込みさせていただきまふ。
(あまりネタが豊富ではないので・・・)
皇居のすぐそばにある「旧 近衛師団司令部」(左)と、その近くの遊歩道に残っている「高射機関砲 砲座跡」(右)です。

近衛師団司令部は、現在では「東京国立近代美術館 工芸館」となっています。
サンフランシスコ湾口、Point Bonitaにある16インチ砲台跡です。この砲台跡に登っていく途中には、冷戦時代のナイキの基地跡もあります。こちらは月に一度公開され、ミサイルが地下からせりあがってくるところが見られるそうです。
身近というには少し距離がありますが

千歳にある第2航空団司令部は
改装されていますが海軍時代の建物で
現役で使用されています

画像は基地祭で撮影したもので

下の建物が司令部
上空でスモークをひいているのはブルーインパルス
はじめまして。 
ご挨拶がわりに、以前、沖縄で撮影した写真をアップします。

嘉手納にある、栄橋です。
日本軍の工兵隊が撤退時に爆破したままの状態で今日まで残っています。
3、4年くらい前に撮影した写真で、記憶に間違いが無ければ沖縄県の読谷村の役場正面ぐらいにあったと思われる、「義烈空挺隊玉砕の地」の祈念碑です。

誰が供えたかわかりませんが、お花とお酒が供えてありました。
ぐりふぉんさんのお話に補足です。

新京成線でもディープなのは、習志野駅から陸自の
習志野駐屯地を経由して、京成大久保駅にいたる一帯、
即ち、「軍都習志野」と言われた一帯です。

まず、新京成の習志野駅前商店街にある
和菓子「ふなよし」の脇には、東部軍教育隊の裏門の
門柱が残っています。

次に、今は、船橋市立習志野台第2保育園周辺の
地下には、旅順要塞を模した永久堡塁が公団の
団地造成の時に、埋められています。

大久保方面に向かうと、習志野市泉町2丁目付近は
所謂毒ガス学校「陸軍習志野学校」の跡地であり、
実験動物供養碑や施設の基礎などが周辺に散在しています。

【Wikipedia 習志野の解説】
下記から、習志野周辺の様々な軍事遺物
(一部写真あり)を追えます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BF%92%E5%BF%97%E9%87%8E#.E7.BF.92.E5.BF.97.E9.87.8E.E3.81.AE.E5.90.8D.E6.89.80.EF.BC.88.E5.86.99.E7.9C.9F.E3.81.AB.E6.AE.8B.E3.82.8B.EF.BC.89
ワタシからも御挨拶がわりに・・・

ブルーインパルスのホームべース「航空自衛隊松島基地」
敷地外に残っている小型の掩退壕です。
前身の「海軍松島航空隊基地」時代の物と思われ弾薬等を
収めていたのでは?と思います。現在は地元土建業者の資材
置き場になっております。

基地内に当時を偲ばせる軍事遺跡は殆んど残っていないので
全国的には珍しくない物件でも地元には貴重です。
はじめまして
JR池袋&西武線交差部の陸橋にグラマンの機銃跡がありますね…
習志野、千葉は遺構の宝庫ですね!
↑丁度今、JRと交差している工事橋脚部です。
現在在住して、よく通る道路が東上線とグランドハイツ(光が丘)を結ぶ鉄道線跡みたいですね。
はじめまして
神奈川県大磯町在住のユーゼットと申します。

町内の丘陵部には、本土決戦を想定して作られたといわれる壕跡が所々にあります。
この丘陵の頂上部には海軍の高射砲陣地の跡(砲座とか)が残っているらしいので、今度探索してみようと思っています。
こんなのを発見しました〜。田舎の要塞?ですけど。

http://homepage2.nifty.com/nanbu_hachinohe/kojo_hachinohe/hachinohe_yousai.html
はじめまして
茨城在住の走り坊主と申します。

茨城県水戸市の市街地に空襲で残った壁を見つけました。
高校時代の社会の先生に、水戸市の空襲の様子を何度も聞きましたよ。
故深作欣二監督が、学徒動員で水戸市の工場で働いていた時、艦砲射撃も受けたとインタビューで語ってましたね。

あと、常磐線に乗っていると日本三大庭園の1つ偕楽園の下にも、いくつか防空壕に使われていた穴が見えます。
始めまして。

身近と言うには少々遠いのですが、和歌山の砲台跡です。
28サンチ榴弾砲で、大阪湾を守っていたそうです。
先日の新聞記事
載っていたので、行って来ますね、
また後日報告させていただきます、
楽しみです、
どうもこんばんは。

自分の住んでいる街の対岸には海軍の街呉がありますし
あと隣街に敷島隊 関行男大尉の記念館がありますので
来月の慰霊祭には参加してみたいと思っています。
姫路空の概要
●姫路空(ヒメ): 練習航空隊(艦攻実用教程担当)
●航空隊開設: 昭和18年10月1日
●航空隊廃止: 昭和20年5月5日(昭和20年5月4日、白鷺揚武隊特攻)
●使用機種: 天山、97式艦攻(定数:43機)
●戦歴: 第1〜3護皇白鷺隊、白鷺赤心隊、白鷺揚武隊として沖縄戦に特攻隊として参加
      (97式艦攻全機消耗、天山のその後については不明)
鶉野飛行場
●第31・32空(陸上機操縦教育担当)の原隊(昭和19年3月開隊)で南方に配備
●昭和20年3月:第1001海軍航空隊: 紫電改テスト飛行及び輸送業務を実施する。 (その他零輸・96式輸・紫電改装備)
●昭和20年3月:第11航空工廠姫路分遣隊が来る。
●昭和20年6月28日:筑波空の紫電隊が鶉野に派遣される。: 本土決戦用に分散温存
 (昭和20年5月5日付で谷田部空・筑波空・大村空・元山空・210空の紫電が集まって戦闘403飛行隊を編成、戦闘402と共に筑波空の
  所属となる。)、鶉野には1個飛行隊(定数48機)が派遣されたものと思われる。
●昭和20年8月24日:戦時中、飛ぶことの無かった紫電隊が最後の飛行を実施、その後武装解除(プロペラ等外す。)
姫路海軍航空隊基地施設概要
●基地名<姫路海軍航空隊>
●所在地<兵庫県加西郡九会村・下里村>
●航空隊開設<昭和18年10月1日>
●基地完成年月<昭和19年5月>
●主要機種<中・小型練習機(天山、97式艦攻、93式中練)>
●基地敷地面積<2531040平方メートル>
●飛行場滑走路1200m×60m 1本(当初550m、後に拡張した。)
 (転圧1500m×60m 2本、土質粘土)
 運搬路(誘導路)8000m×30m、終戦時15000m
●掩体壕<中型10ケ個>、<小型45ケ所>
●主要施設<格納庫>、<兵舎>、<庁舎>、<送信所>、<講堂>、<倉庫>
●防空施設<対空機関銃25mm連装4ケ所>、<単装2ケ所>
●電波探信儀 桑原田
川西航空機株式会社姫路製作所
● 姫路市から少し東に行った所、市川との中間に京口駅がある。その駅近くに川西航空機製作所があった。
●紫電及び紫電改の製造を担当し、鳴尾工場での生産する紫電及び紫電改には製造番号の頭に5が、姫路工場のには7が付けられていた。
  現在は宅地となり当時を思い起こすものは何も無い。
 そこは何度か訪れたことがある。その時の疑問として完成した飛行機をどこから飛ばしていたのかだった。
  その時までは市川の河川敷に滑走路を造りそこから飛ばしていたものとばかり思っていた。
 (航空機製作所近傍には社用の飛行場、または陸海軍の基地がある。:この飛行場とは鶉野飛行場のことである。)
※ 後で判ったことだが、最終組立を残すのみとなった機体は、3頭立ての牛車に引かれ、一路鶉野へと向かい、そこで最終組立が実施された。 
●工場名 鶉野組立工場
●所在地 兵庫県加西郡九会村・下里村
●工場創設 昭和17年7月1日 日本毛織より川西航空機へ
●昭和19年8月 鶉野組立工場落成式
●昭和20年3月 工場秘匿名「神武萩津工場」を使用
●昭和20年6月 姫路製作所空襲被爆
●昭和20年7月 第2軍需工廠設立、海軍管轄となる。
●工場施設面積 約93500平方メートル
●生産機種 局地戦闘機「紫電」、「紫電改」 
        19年12月より「紫電」生産開始 446機製造
        20年3月より「紫電改」生産開始 44機製造
●工場施設 第1期組立工場・第2期組立工場×2ケ所、格納庫×2、飛行指揮所、兵器庫、プロペラ調整室、点火栓室、管制器室
終戦時に残存した航空機
●紫電57機(筑波空所属機、谷田部空のマークのままの機体も存在した。)、●紫電改13機(他に未完成6機)
●零式練戦3機、93式中練2機、白菊・彗星・銀河・90式陸練・陸軍高連各1機
※本来筑波空に保有しない機体があるが、それはおそらく、終戦後に他部隊から復員の足がわり飛来・着陸したものと思われる。)
●昭和20年10月頃、紫電57機中3機を飛行可能状態に復元し、アメリカ本土への輸送のため追浜に向け飛行する。
※米空母「バーンズ」に積載された日本陸海軍航空機の中に紫電7287・7317号機の2機があった。後の1機は積載されていない。
 その後の紫電については不明だが、後世にその姿を見せることなく消えていった。
その後
●戦後川西航空機?は新明和工業?として、飛行艇を製造している。
 この基地跡は主滑走路を残すのみとなり、航空隊跡地は神戸大学農学部に、組立工場は農地・宅地・工場となっている。<video src="1324766:fcbcdcc4d50dba80c418a9736559e253">
追加です、<video src="1324805:5a93a849cbc3058218098114ebbdd7e8">
広島県大久野島の毒ガス製造工場跡地です

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