ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

詩についてコミュの象徴、の現状

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
図書館にて、『現代詩手帳』をいくつか見てきました。
自分の知識のなさをがつーーーん、と思い知ったわけです(詩人三の名前が全くわからない、ひぃ)。
いくつか詩のほうも読んできました。
19世紀末にフランスで生まれた象徴主義たちの書いていた詩や、ロシア象徴派たちのもっとわけのわからんもののような、こてっこての象徴詩、というのはさすがになかったですが、日本現代詩においても、やはり多少なり象徴の技法は使われているようですね。
読んだ、といっても、数人のものしか読んでいないのですが、あ、この人いいな、と僕が思った人を挙げておきます。

久谷雉
三角みづ紀
渋谷卓男

象徴主義者たちは19世紀末とともに消えてしまいましたが、彼らの確立したものは、現代まで残っている、ということを、今回は自分の目で確かめることができました。
現代詩においては、象徴、という言葉よりも、隠喩、と言ったほうがいいかもしれません。そういえばずっと前に、とてもすばらしい詩を書いていた先輩が「複数の隠喩から、偉大なる直喩を生み出す」というようなことを(かなり記憶が曖昧です、はぅ)言っていたのを思い出しました。

と、いうことで(前ぶりが長かったですが)、このトピは、現代における象徴・隠喩は、詩においてどう有効であるか、なぜそれを使う意味があるのか、についての議論トピにしたいと思います。みなさま、ふるってご意見ください

コメント(12)

ぼくは,表現というものはおしなべて「伝えること」が第一義だと思っており,このことを突き詰めると,
形態は何でもよく,これが詩だと言えば詩になる,
という世俗主義を揚げておりましたが,
洗練や爛熟というものを目指す限りにおいては,
先人たちが具象物(月や太陽や花や海)に込められた象徴的な意味に依存しながらこれを発展せしめんという一つの試みが,
詩においては象徴・隠喩となって結実するものなのではないでしょうか。

ただ,ぼくが一つ問題として気になるのは,
こうした洗練さへの志向が,
一般には分かりにくく,伝わる対象を限定してしまうのではないかということです。
こうした閉鎖性に自ずと満足してしまうのか,
あるいは,より多くの人に伝わる創作を志向するのか。

現代における有効性というものを考える際,
現代を大衆性と捉えるのか,
多元的であるが,各々が交わることのない分裂した閉鎖性と捉えるのかによって,
見方は変わってくるような気がいたします。

もしくは,大衆性と閉鎖性とに囚われない,別な見方がありはしないか,ということも伺ってみたいところです。

> 「複数の隠喩から、偉大なる直喩を生み出す」
ということばにも,なにか,答えとなる要素が含まれているような気もいたします。

大衆性に媚びず,閉鎖的にもならない,
そういう風にも捉えられるような気がいたしました。
小説に比べて、詩が閉鎖的だということは、今のところの事実だと思います。その理由は、もりさんおっしゃられるとおりのことだと思うのです。
ここで、詩に大衆性をつけるために、象徴・隠喩の技法を捨てるべきだ、というのには、自分は反対意見です。というのも、小説に比べて圧倒的に文字数が少ない詩において、より正確に物事を伝えるためには、どうしても象徴・隠喩を使わざるをえないと思うからです。同時に、文学のなかで詩ほど象徴や隠喩を受け止めることのできるジャンルは、ほかにないと思います。このことから、あくまで自分の定義なのですが、象徴・隠喩をどれだけうまく使うことが出来るか、が、小説と詩の違いだと考えています。
しかしこれだけでは、もりさんいうように、詩は閉鎖的で終わってしまいます。
そこで僕が考えたのが、このコミュの説明書きでも書いている、『韻・音律・リーディング』です。実際、詩人たちによるポエトリーリーディングというものもあります。詩が象徴・隠喩を取り入れた状態で大衆性を獲得するひとつの手段として、読者に読んでもらう詩、ではなく、読者に聴かせる詩、というものがあるのではないか、と自分は思うのです。

ここで、僕の考える詩の醍醐味を挙げておきます。

?象徴・隠喩が巧みに使われている
?韻やリズムがあり、声に出して読むと、内容の真意が理解できなくても、『音』の美しさを楽しむことができる。

?のほうだけでは閉鎖的ですが、?も加わることで、もっと詩に興味をもつ人が増えるのではないか、というのが、今のところの僕の考えです。ちょうど、文学と音楽の中間にいて、そのどちらの長所も持っているもの、それが詩の本来的な姿だと思っています。
>文学と音楽の中間

産道です。あ,じゃない,賛同です。
(妻が近々出産予定なもので,妙な変換が先行してしまいます)

今まで詩を声に出して読むことを意識したことはなかったのですが,自然と,リズムや音感(語呂)を強く意識していたようにも思えます。

ただ,それが大衆性の獲得へと繋がるのかどうか,
まだ心許なく思えるところもあります。
あるいは,そこまで大衆性に拘る必要もないのか。
あくまで芸術とは己の道を突き進むところにあるのか。

あとは隠喩ですね。
どこから詩における隠喩の必然性を導き出すか,なのですが,
さわゆーさんにとっては,小説との比較から導き出されたと考えてよろしいのでしょうか。
もっと詩における本来性と関わる次元で隠喩の必然性を説くことはできないものでしょうか。
自分としては、芸術性なるものを追求したい、というのがまず第一なんですがねw しかしやはり、自分以外の誰かに自分の作品を興味もってもらう、ということも、どんな立場であれ大切なことだと思います。

ここでは、象徴と隠喩を一緒にして、隠喩という言葉を使っていきましょう。
詩における本来生と関わる次元で、というのは、なかなか難しいですねぇ。
少し自分の話をします。もともと僕は小説を書いていたのですが、あるときふと思ったんです。映画のほうが面白いじゃないか、と。小説は言葉による面白さがありますが、しかし伝わる情報量で、小説が映画に勝つことはできませんよね。そこをなんとか克服することはできないだろうか、と考えていた矢先に、象徴というものに出会いました。詩人イェーツは、象徴の技法こそが物事を一番正確に伝えられる、という考えのもと、詩を書いていたそうです。ここから僕は、象徴を使えば、読者に与えられる情報量は飛躍的に多くなる、と考えたんです。そこで、象徴の勉強をするために詩に入りました。
つまり、僕は小説で象徴を使おうと考えているわけです。実際、フランスの象徴派詩人リラダンや、ベルギーのロデンバックなどは、詩人でありながらすばらしい小説作品(象徴を取り入れた)も残しています。
ここからいえるのは、象徴・隠喩を使うことは、決して作品を詩と呼べるようにするための特異的な条件ではない、ということです。このため、僕は前のレスで、「象徴・隠喩を『どれだけうまく使うことが出来るか』、が、小説と詩の違いだと考えています」と書きました。

と、まぁ、僕の昔話はこれくらいにしまして。
やはり僕は、詩というとても少ない文字数で正確に物事を伝えるための、最低限のツールとして、隠喩は詩において必要だ、という意見です。小説と比較するかどうかは、あまり関係ないと思います。ただ、小説でも隠喩が使える以上、比較ということもできる、というそれくらいです。

うーん、しかし詩における本来性と関わる次元、がどんなものか、というのを考えていくほうが先かもしれませんねぇ。もりさんはここらへん、どうお考えでしょう。
> 伝わる情報量で、小説が映画に勝つことはできませんよね。

ん〜,それについては,別な考え方もできそうです。
映画と小説では表現方法が異なるので,
伝える情報そのものが違うのではないかとも思えます。
 例えば,心理描写などは小説の方が直接的で分かりやすいのでは。

ただ,伝える力(これも,いろいろな解釈が可能ですが)においては,
受け手側からみれば,
映像の持つ分かりやすさというか手頃さは,文字では太刀打ち出来ないものがあるかもしれません。
一方で,作り手側からすると,映像は文字に比べて,途方もなく人,物,金などを消費するという面があり,文字ほど容易に作れるものではないですね。

それと,映画が出たついでにもう少し触れさせていただくと,
映画は総合芸術の一つに位置づけられており,
こと,詩などは,すっぽりと映画の中に呑み込まれてしまいかねない存在でもあるような気がします。
登場人物に詩を語らせれば,詩の音読さえもやられてしまう。

こうした方面から考えると,
ぼくの場合,文字文化の優れているのは,作り手の手軽さにある,
という風に考えたくなってしまいます。
また,文字⊂言葉と考えると,
詩とは,世界中の人がほぼ毎日使用する表現手段を用いて創作をするという面もありますよね。
そして,道具を必要としない。
紙と鉛筆さえあれば足りる。あるいは,心に言葉を焼き付けるだけでもいい。
心に焼き付けた言葉を,直接口から語ることもできる。
ここから,詩とは,本来,門戸の広い創作である,という考え方も出てきます。

ただし,ですよね。
これは詩だ,と言えば詩になるのか,そこが詩に対する考え方の分かれ目になってくるわけですよね。
いちおう,ここでは,ぼくも,これが詩だと言えば詩になる,という考え方は採らないことにします。
自分自身が創作に向ける要求を,一般的な詩の定義に当てはめるように考えて行きたいと思います。
つまり,芸術性を意識しつつ,芸術としての詩とは何か,ということを突き詰めて考えて行きたいと思います。

と,なんだかただの決意表明になってしまいましたね。

> 詩における本来性と関わる次元、がどんなものか、というのを考えていくほうが先かもしれませんねぇ。もりさんはここらへん、どうお考えでしょう。

これに答えるつもりでしたが,別な感想になってしまいました。
すみません。今日はやや疲れており,また明日にでも,考えてみたいと思います。
> 僕は、詩というとても少ない文字数で正確に物事を伝えるための、最低限のツールとして、隠喩は詩において必要だ、という意見です。

言葉尻を捉えるようで,やや気が引けながらのレスなのですが,
「正確に物事を伝える」ことは,そもそも必要ななのか,ということも,一考できはしませんでしょうか。
おそらく,勢いで書かれてしまったことなのでは,と憶測するのですが。

正確に伝えることを目的とするのは,おおよそ科学で,
芸術においては曖昧さを旨とするもののようにも思えます。


ぼくが思う詩のあり方は,言葉を極める行為なのかな,と漠然と思っております。
言葉の性質を見極めれば,自ずと目指す方向性は見えてくるような気もいたします。

・恣意的な意味の集まり
・音の集まり
・(書き言葉では)文字の集まり

音の面を極める過程で,韻律やリズムが求められる。
意味の面を極めると,隠喩が必然的に導き出されはしないでしょうか。
文字の面では,漢詩の文字数を揃えるところなんかに,端的に現れているような。

ただ,型にはめすぎると,今度は,言葉の持つ自由さを損なうような気もします。
あとは,これらを意識しながら,どうまとめていくのか,
いわばセンスの問題になってきますが。


とりあえず,現時点で思っているところを書き殴ってみました。
ご意見ありがとうございます。僕も勉強になります。

>ぼくが思う詩のあり方は,言葉を極める行為なのかな,と漠然と思っております。

そうですね、文学のひとつである以上、言葉を極める、というところから外れることは、やはりできないと、僕も思います。

>「正確に物事を伝える」ことは,そもそも必要ななのか,ということも,一考できはしませんでしょうか。

勢い、で書いたわけではないのですが、説明不足でした。芸術においては曖昧さを旨とする、ともりさんがおっしゃられているように、確かにその面はあると思います。曖昧さ、意味の多様性こそがいいんだ、という考えもあるでしょう。
ここで書いた正確さ、とは、読者が、頭のなかでどれだけ言葉を映像化できるか、という感じでしょうか。
たとえば、象徴を使う場合と使わない場合で見てみると、

愛している

この言葉だけでは(象徴がない場合)、読者は、ここにどれだけの愛があるのかが分かりません。
ところがここに、まぁ、雑で粗悪な例で申し訳ないんですが、オルフェウスという言葉なり、それ関連の言葉を入れると、読者は彼が妻に注いだ愛情を思い浮かべることができます。すると、愛情の深さが、短い言葉で、ある程度伝わるようになるわけです。
うーん、なんだか悪い例です、すみませんw
小説ならば、愛情の深さもちまちまと説明を加えることで、読者に伝えることができます。ところが、このちまちまとした説明、ができない詩では、象徴・隠喩を使わないと、作者の想定していた愛情の深さが、『正確に』伝わらない、ということです。

>ただ,型にはめすぎると,今度は,言葉の持つ自由さを損なうような気もします。

うーん、痛いところです。この『型』にはまってしまって、身動きとれなくなっている僕だったりするのでw
言葉の性質を見極める、というのは、この型を取り入れながら、自由さは失わない、ということなのかな、と思いました。

>・恣意的な意味の集まり
・音の集まり
・(書き言葉では)文字の集まり

詩についての、巧いまとめ方だと思いました。ふと思ったのは、詩の起源と、発展の歴史です。最初は、詩が書き言葉になることはまれだったと思うんです。つまり、意味と音だけだったかと。物語の伝達を目的としていたというのもあり、韻が重視されていたのじゃなかったかと、うる覚えですが……。神話などが詩の形になったことを考えると、昔から詩は何らかの現象の象徴だったと捉えることができるかと思います。それに言葉の洗練性が加わったのはもっと後で、そのころになると象徴性というものが薄くなってき、今度象徴が日の目を見たのは、18世紀末。その後すぐに廃れて、技法として現代詩に取り入れられている、という感じでしょうか。
どんな形式の詩が一番よい、とは言えないかもしれませんが、発展段階のひとつとして象徴・隠喩があるのは間違いないようように思います。

うーん、いまいち、全体としてまとまりのない文章になってしまいましたが……。
> ここで書いた正確さ、とは、読者が、頭のなかでどれだけ言葉を映像化できるか、という感じでしょうか。
> (中略)
> すると、愛情の深さが、短い言葉で、ある程度伝わるようになるわけです。

よく分かりました。
「愛している」でも表現としては完結してますが,
詩として鑑賞するには物足りなく感じるでしょうね。
もちろん,詩にも文脈はあるでしょうから,
全体から判断しなければ分からないことでもありますが。


型にはめることの良し悪しは,追々考えていきましょう。
言葉とは,本当に自由なものなのか,という問題設定もできそうですし。


神話と象徴の関係。そうですね。
象徴詩の歴史的な位置づけみたいなことは,ぼくはあまりにも無知なので,
いろいろとお教えいただきたいのですが,
現代にも受け継がれているという面は,さわゆーさんから指摘されて,
理解できました。


ぼくの場合は,どうも隠喩が苦手なんですよね。
どうもありきたりな言葉しか思い浮かばなくて。
先達の作品から読み取ろうと思っても,
もひとつピンと来なかったり。教養レベルの低さを物語っているのかもしれませんが。
もっとも,真似をしてもしょうがないですけどね。
いやぁ、僕も、まだまだ詩における『自分の言葉』を発見できず、自己嫌悪ぎみです。

ところで、今日は偶然、面白い本を見つけました。小説における繰返し技法について書かれた本で、まだほんのさわりしか読んでいないのですが、少し象徴と関わるところもあり、ここに書いておこうかと。

まず、繰返し、ですが、この技法は小説や詩にとどまらず、いろいろな芸術作品で見ることができます。たとえば歌など、AメロBメロCメロの繰返しからなっていますし、クラシックにおける主題部の繰返し、詩においては、連ごとにおける、同型の繰返しなどなど。
小説における繰返しは、大きくふたつに分けられるそうです。プラトン型とニーチェ型で、前者は、歴史上の人物、神話など、それらに見られるものを原型として、その複製(コピー)を繰り返す、というもの。後者は、物事は差異から成り立っている、という考えを仮定し、その差異を背景としてコピーではない類型を繰返すこと、らしいです。
前者に対しては、二次創作・パロディになりかねない、という批判があるそうです。
今まで自分が挙げてきた象徴の使い方が、このプラトン型のようなものだったので、もう少し、象徴・隠喩についても、奥を深めていかねばならないな、と反省しました。
そもそも、ここでは象徴と隠喩を同じような意味としてきましたが、どうやら、これらを一緒にするのは危険なようです。もう一度見直してみました。

象徴:サンボリズム、という原語から分かるように、象徴とはひとつの記号であり、シンボルのこと。たとえば、太陽、という言葉は、日本においては豊穣のシンボルであり、豊穣を表す記号である。文脈に依存せず、その単語ひとつだけで、普遍的な意味を備えている。

隠喩:文脈の流れから、ある特定のものを想起させること。ひとつの言葉が決まったシンボルになりえることはなく、その意味は、あくまで文脈によって決められる。

象徴を使えば二次創作に陥りやすいという面も、隠喩を使えば解決するかな、と。こういう面で、詩に限らず、現代では象徴というよりも、隠喩のほうが優位、といえるかもしれません。
それでも自分としては、二次創作に陥らないよう、どうやって象徴を巧く使うか、というところを考えてしまうのですが。
象徴はパロディや二次創作(模倣)になりかねない,ということなのですか?
というのはどういうことなのでしょう。
ありきたりな表現に陥りやすいと解釈しても良いのでしょうか?
いやぁ、自分のような未熟者がこういう場で議論なりなんなりをやることの利点は、考えた結果入り込んでしまったほそーい道からの脱出ができる、ということでしょうか。
今回も、象徴というものの意味合いをかなり小さく捉えてしまっていました。

たとえば、
?神話をモティーフにした象徴だと、その象徴のもとには神話があります。
?何らかの知識(ここでは神話です)を予めもっていないと理解することができない、また、何らかの知識を知っているものとして書かれるものは、二次創作である。

このふたつを合わせると、既存の物語体系となっている神話(もともとは物語でなかったとしても)をモティーフとした象徴を使うことは、二次創作的、パロディー的ではないかな、と考えたわけです。

しかし象徴というものは、何も神話だけを元にしているものではありませんし、神話を元にした象徴を使ったとしても、

作品中で象徴を使うというのは、普遍的なシンボルを『繰返す』ということ。

つまり、繰返しという技法だと捉えれば、問題回避することができるような気もします。


ところで、ここのコミュの名前なんですが、象徴に限っているとなんだかちっと狭くなりそうなので、もっと大きく(ゆださんなどを見習いつつ)、詩人原理主義同名、とか、そんな感じにしたほうがいいかなぁ、と考えたりしているんですが、どうでしょう。
> 繰返しという技法だと捉えれば、問題回避することができるような気もします。

ぼくもそのような気がします。
二次創作というと,もろパクリというニュアンスを感じてしまいますが,象徴とは,そう言うものではないのですよね。

> ここのコミュの名前なんですが、象徴に限っているとなんだかちっと狭くなりそうなので、もっと大きく(ゆださんなどを見習いつつ)、詩人原理主義同名、とか、そんな感じにしたほうがいいかなぁ、と考えたりしているんですが、どうでしょう。

ぼくは賛成です。
というか,まだ象徴についてもよく分かっていないのですが,
芸術志向という意味で,そうしていただけると,なんとなく,気持ちが大きくなれるような気がします。

う〜ん,ほかの方々はどうなのでしょう。
せっかく人数も少ないですし,ご意見を伺ってみたいです。

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

詩について 更新情報

詩についてのメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング