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学は光コミュのわが忘れ得ぬ同志【第7回】 柯 廷龍(コーテンロン)さん ── マレーシア初代本部長

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  アジアに平和の光彩を!
  黄金の広布の兄弟、万歳!

 その身は
 大地の土に帰るとも
 良き行いは
 永遠に人びとの心に宿る

 マレーの伝統詩・パントゥンの一節である。

 マレーシア全国作家協会連盟のタン・スリ・イスマイル・フセイン会長が、美しきリズムで朗詠してくださった。
 この春三月、「現代マレー文学の父」と謳われるイスマイル会長はじめ同連盟の先生方が、創価大学の卒業式に出席し、私に「最高文化賞」を授与してくださった折のことである。
 式典では、ご一行が持参された民族楽器で、祝福の曲まで奏でてくださった。そのお心が有り難く、私も演奏に加わり、舞った。
 笑顔が弾(はじ)けた。
 最愛の卒業生たちも皆、大喜びであった。
 文化は人間を結ぶ。教育もまた、心と心を結び、平和と共存の土台となる。
 戸田城聖先生は、常々、私たち青年に、「戦争で日本はアジアに地獄の使いを送った。今度は、君たちが、アジアに平和の使いとして行くんだよ」と教えられた。
 「アジアの平和と繁栄」 ── それは、恩師の悲願であり、直弟子の私の祈りだ。
 イスマイル会長は語ってくださった。
 「人間の可能性を開く戦い、なかでも打ちひしがれた民衆に希望を与えてきた創価の精神に、心から感謝しています」と。


 多民族国家であるマレーシアは、イスラム教が国教であり、マレー系、中国系、インド系などの人びとから構成されている。
 マレーシアの諺(ことわざ)に、「海は川を拒まない。森は落ち葉を拒まない」とある。
 仏法でも、それぞれの文化や伝統を尊重しながら、理解と共感を広げていく方途が、「随方毘尼(ずいほうびに)」として明快に示されている。
 アメリカの思想家エマソンは言った。
 「語ることは大きな楽しみであり、行動も大きな楽しみである。これをおしとどめることはできない」
 マレーシア創価学会(SGM)の友は、この通りに進んでこられた。
 そして、地道な対話と誠実な振る舞いを通し、イスラム社会とも深い信頼関係を築いてこられた。
 その長い道のりの開拓者の一人こそ、マレーシアの初代本部長、柯廷龍(コーテンロン)さんである。

◆家族に仕送りを

 柯廷龍(コーテンロン)さんは、長年、理事長として活躍されてきた柯騰芳さん(コーテンホン=現・最高参与)の実兄にあたる。
 兄の廷龍(テンロン)さんは恰幅がよく、偉丈夫を思わせる体躯。
 弟の騰芳(テンホン)さんは、細身で精悍(せいかん)な紳士。
 共通するのは、いつも気力に満ち、強い意志を温和な笑みで包み込んでいるところであろうか。
 弟の騰芳(テンホン)さんは、私が最も信頼する「知勇の将」の一人である。
 関西で入会し、常勝の魂も熱き朱光輝(チュコンフェ)・現理事長と名コンビを組んで、新しいマレーシアの大発展をリードしてくれている。


 柯廷龍(コーテンロン)さんの出身は、中国大陸南部の潮州(ちょうしゅう)である。亡くなった父に代わって、若き日から一家の生計を担った。
 十七歳で、マレーシアのペナンに渡ったのも、家族に楽をさせたいとの思いからであった。
 稼いだ分だけ、家族に送金した。情けに厚く、慈愛が深い。
 弟が学校に通うことができたのも、この兄の支えがあったからだ。
 騰芳(テンホン)さんは、異国で懸命に働く兄の姿を心に浮かべながら、故郷で真剣に勉強に打ち込んだ。全校一の成績を収めたこともある。
 優しき母の仕事は、学校の教師の服を洗うことであった。きれいに洗濯された服を先生に届けるのが、騰芳(テンホン)さんの役目であった。
 しかし、生活はさらに苦しくなり、騰芳(テンホン)さんも進学を断念して、兄の待つマレーシアへ向かった。十六歳の時である。

◆この道こそ!

 法華経の妙荘厳王品(みょうしょうごんのうほん)には、浄蔵(じょうぞう)菩薩と浄眼(じょうげん)菩薩という兄弟が登場する。
 「我れ等は宿福深厚(しゅくふくじんこう)にして、仏法に生まれ値(あ)えり」(創価学会版法華経六五七ページ)とは、この兄弟が、父母を仏のもとに導いていく際の言葉であった。
 日蓮大聖人の強盛の門下には、池上宗仲(むねなか)と宗長(むねなが)の兄弟がいた。二人に贈られた「兄弟抄」に仰せである。
 「石はやけばはい(灰)となる金(こがね)は・やけば真金(しんきん)となる」(御書一〇八三ページ)
 人生の悪戦苦闘を続けていた柯(コー)何兄弟に、大きな転機がやってきた。
 時に一九六五年 ── 。
 ペナンで雑貨商を営んでいた廷龍(テンロン)さんは、出入りしていた船会社で、シンガポールの理事長を務めた故・高健文(こうけんぶん)さんを知り、妙法に巡りあった。
 「この信心には、おまけも、おつりもない」との言葉が気に入った。
 実直に信仰と向き合った。商売が軌道に乗る。功徳が重なり、確信が深まった。最高の充実と生き甲斐の道を、ついに見つけた。
 一方、弟の騰芳(テンホン)さんも、兄の仕事を手伝いながら、使命の道を模索していた。
 折しも民族間の対立で、各地に暴動が発生。社会の安穏を願い、兄の勧めで、一九六九年、弟も入会の時を迎えた。兄に遅れること四年。ここから、マレーシアの「兄弟抄」の物語が綴られていったのである。
 間口は狭いが、奥行のある独特の家屋。柯家(コーけ)の一階が店で、二階が会場となった。「いい話が聞ける」という噂が広がって、毎晩、座談会が開かれた。
 百数十世帯に御本尊を授与された時には、廷龍(テンロン)さんは、「最初が大事だから」と二週間かけて、すべての新入会者のお宅を家庭訪問し、激励された。真剣勝負で、一人ひとりを育てた。


 一九七二年の秋、正本堂の落慶の式典には、兄弟そろって来日された。
 世界各国の妙法を持った創価の友が、民族や言葉の違いを超えて、和気あいあいと集い合う。その光景に、二人は心底、驚き、肩を抱き合って小躍りした。
 「これこそ、世界平和の縮図だ! 私たちが、ずっと憧れ、求めていた人間の共和が、ここにある!」
 私は、柯(コー)兄弟をはじめ、アジアの宝友(ほうゆう)を歓迎し、一緒に記念撮影に納まった。
 後年、狂いに狂った嫉妬の邪宗門が、正本堂を破壊する暴挙に出た時のことである。あの温厚な柯騰芳(コーテンホン)さんが激怒した。
 「冷酷無情にも、世界の民衆の平和への願望を踏みにじった。しかし、この残虐な蛮行は、ますます創価の崇高な平和の思想と、尊い人間主義の行動を、浮かび上がらせた」と。

◆遠慮なく相談を

 忘れ得ぬ一コマがある。
 一九七四年の夏七月、信濃町の学会本部で、学生部の会合に出席していた私のもとへ、報告が入った。
 来日中のマレーシアとシンガポールの友が別会場での研修を終え、宿舎に戻るという。私は即座に、お招きした。
 「よく、お越しくださいましたね、お待ちしておりました」
 入り口で最敬礼して出迎え、歩み寄って一人ひとりと固く握手を交わした。
 「当(まさ)に起って遠く迎うべきこと、当に仏を敬うが如くすべし」(法華経六七七ページ) ── これが法華経に示された、尊き仏子であられる同志をお迎えする姿勢であるからだ。
 急遽(きゅうきょ)、学生部の英才と共に交流会となった。式次第などない。ならばと、私がマイクをとって、司会進行を務めた。質問にも応えた。ピアノも演奏した。
 少しでも思い出を作って差し上げたかった。
 この時、お会いしたメンバーのなかに、柯廷龍(コーテンロン)さんもおられた。
 廷龍(テンロン)さんは、何よりも「困っている問題があれば、遠慮なく相談してください。できる限りのことをします」との私の一言に、勇気百倍であったという。
 帰国すると、廷龍(テンロン)さんは、婦人部リーダーの楊如雪さん(ヨウジョクセツ=現・マレーシア総合婦人部長)に、熱っぽく語りかけた。
 「創価精神でいこう! 学会ほど麗しい世界は、どこにもない。真の師弟の道を生き抜くのだ!」
 私が対談したブラジル文学アカデミーのアタイデ総裁は言われた。
 「幸福な人生への方程式は、すべて、高邁(こうまい)な理想に基礎を置く」

 一九七六年、マレーシア本部が結成され、廷龍(テンロン)さんが初代本部長、楊(ヨウ)さんが初代婦人部長に就任した。それと同時に、マレーシア初の会館が、美しい港町・ペナンに誕生した。
 風情のある洋館。廷龍(テンロン)さんは何度も私に、会館誕生の喜びを語ってくれた。真心の整備が施されていることもあって、市の歴史的保存物に指定されている。
 これまでに、マレーシアの全地域に二十七の会館が生まれた。
 その一つ一つが友の社会貢献の結実であり、友好と信頼の大城となっている。

 廷龍(テンロン)さんが口癖のように同志に語り続けていたのは「心を一つに」であった。
 仲良きことは力なり。
 「文明の十字路」と言われる地だけあって、妙法に縁する人も、タイやシンガポール、香港、台湾からの紹介など様々である。同じ華僑(かきょう)でも、出身地別に系列ができたりもした。
 だからこそ、「創価の旗のもとに異体同心の前進」 ── ここに、廷龍(テンロン)さんの深き祈りと行動が集約されていた。
 特に、私が会長職を辞任して以降、私利私欲にかられた背信の幹部による、広布の和合をかき乱す陰謀と、廷龍(テンロン)さんは戦い続けた。
 大聖人は、「悪知識を捨てて善友に親近(しんごん)せよ」(御書一二四四ページ)と仰せである。
 「団結こそ勝利である。派閥など、断じてつくるな。つくらせるな」とは、戸田先生の峻厳な遺訓であった。
 さらにまた、廷龍さんは独善と権威主義の坊主になじられようとも、いささかの迷いもなく、地域社会と協調する組織を築き上げていった。
 「智者とは世間の法より外に仏法を行(おこなわ)ず」(同一四六六ページ)との御聖訓を実践する学会の道こそが、釈尊、そして、大聖人の御心に適っているからだ。

  世界一勝利の都 マレーシア
  ── 〔青年〕〔信頼〕〔団結〕の金字塔

 人生の総仕上げの真価は、後継の人材をどれだけ育てたかで計れるといっても、過言ではあるまい。
 晩節(ばんせつ)を汚した人間に共通していることは、後輩を育てていないということだ。
 廷龍(テンロン)さんも、騰芳(テンホン)さんも、後継の青年を真剣に誠実に薫陶(くんとう)してくださった。
 マレーシアから創価大学へ留学したメンバーを、宝のように慈しみ、大切にしてくださったことも忘れ難い。
 一九八二年、マレーシアの「独立二十五周年」を祝賀する文化祭は、初の全国規模の催しとなった。
 廷龍(テンロン)さんが病に伏せたのは、その本番の三カ月前。急性の大腸がんであった。
 病床でも、文化祭のことばかりを気にかけて、その成功を祈り続けていた。
 文化祭を二週間後に控えた七月二十七日、廷龍(テンロン)さんは安詳(あんじょう)として永眠された。享年は五十八歳であった。
 特に遺言はなかったが、あえていえば「心を一つにして文化祭を!」であったと、ご家族が語られていた。
 私も訃報(ふほう)を受け、直ちに追善の勤行をさせていただいた。
 葬儀には、彼を慕い、全国から千人を超える同志が参列した。
 廷龍(テンロン)さんは、死してマレーシアを動かした。廷龍さんの「心」が皆に伝播(でんぱ)した。それまで、なかなか団結できず、ばらばらだったメンバーの心が、その遺志を中心に結合し、完壁に一つになることができた。
 二週間後の八月十三、十四の両日、首都クアラルンプールのネガラ・スタジアムで行われた文化祭は、異体同心の歓喜と感涙に包まれ、美事なる大成功を飾ったのだ。
 そして、その後のマレーシア社会での高い評価と、盤石なる団結への大いなる流れを創り上げていったのは、弟の騰芳(テンホン)さんである。
 文化祭から二年後の八四年六月、マレーシア創価学会は、念願だった全国法人を取得し、騰芳(テンホン)さんが初代の理事長に就任した。
 その年の夏、私は、緑光る長野文化会館に騰芳(テンホン)さんを迎えた。
 「偉大な弟さんが、偉大なお兄さんの使命を継承しておられる。不思議な尊きご兄弟です」
 私が語りかけると、剛毅(ごうき)な丈夫(ますらお)は、身じろぎ一つせずに男泣きをされた。
 大聖人は「池上兄弟」に「あなた方、兄弟二人の信心は、未来までの物語として、これ以上のものはないであろう」(同一〇八六ページ、通解)と、仰せである。
 マレーシアの「柯(コー)兄弟」の信心もまた、未来永遠にアジア広布の模範、世界広布の鑑(かがみ)として輝きわたっていくに違いない。

◆悲願の初訪問

 一九八八年、私は、悲願のマレーシア初訪問を果たすことができた。
 兄・廷龍(テンロン)さんの大功労を偲び、壮麗なマレーシア文化会館の庭に記念の植樹を、私は、夫人の鄭月裡(テイグイリー)さんと一緒にさせていただいた。
 無私(むし)の夫を支え、共に同志に尽くし抜かれた夫人は、「もう、何も悔いはない。先生が、すべてわかってくださっていますから」と語っておられたようだ。
 一九九〇年、日顕宗が極悪の本性を暴露した際も、マレーシアの異体同心の同志は微動だにしなかった。
 利害と打算と悪意でつながった者たちは、御聖訓に説かれた「自界叛逆(じかいほんぎゃく)」の姿そのままに四分五裂の無惨な末路をたどったのである。

 マレーシアは勝った!
 東南アジアは勝った!
              
 西暦二〇〇〇年、私は再び、マレーシアへ飛んだ。
 毎年の独立記念日の公式行事への参加をはじめ、慈善文化祭の開催など、マレーシアの同志の活躍は素晴」らしかった。特に青年が躍動している。
 私が二度お会いしたマハティール前首相も、大勢の市民を前に、「創価学会の皆さんの良き規律とスピリットを、どうか模範として学んでいただきたい」と呼びかけておられた。
 首都の一等地に屹立(きつりつ)する、十二階建てのマレーシア総合文化センターも、市民文化交流のプラザとして親しまれている。

 世界一  勝利の都 マレーシア

 マレーシアの創価幼稚園も、開園より十一年。
 すでに千六百名の卒園生を送り出した。理想の幼児教育と各界から絶讃されている。
 マレー語、中国語、英語の三言語で自由自在に語り合い、歌い合う、幼き“世界市民たち”の何とまばゆいことか。
 廷龍(テンロン)さんの記念植樹は、ヤシ科の棕櫚(しゅろ)である。
 憩いの木陰に人びとの談笑の輪ができる大樹と育ち、「勝利」と「歓喜」と「繁栄」を象徴する樹だ。
 気高き先人が開拓したマレーシアの黄金の大地に、仰ぎ見る“人材の大樹”の壮大なる林立をと、私は祈り続けている。


柯廷龍(コー・テンロン)

1924年、中国・潮州生まれ。17歳でマレーシアのペナンに渡り、1965年に入会。支部長などを歴任し、マレーシアの初代本部長に。草創のマレーシア広布の土台を築き、後継の人材の育成に尽力した。逝去は1982年7月。享年58歳。

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