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学は光コミュの創立者 永遠に学び勝ちゆく女性 キュリー夫人を語る−3

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わが母校 見つめて勝ちゆけ 我が友と

人間の本当の美しさ──それは生命が放つ光彩
 理想をめざして打ち込む生命こそ、最も尊い

 一、私が家族ぐるみで親しく交流させていただいた方に、「現代化学の父」ライナス・ポーリング博士がおられます。博士はキュリー夫人に続き、二つのノーベル賞を受賞した知の巨人です。
 1990年、創価大学のロサンゼルス分校(当時)で、研修中だった短大生と一緒にポーリング博士を歓迎しました。
 「笑顔で迎えてくださり、うれしい。こちらまで笑顔になります」と、博士は喜色満面であられた。
 ポーリング博士は若き日、夫妻でヨーロッパに行き、マリー・キュリーのもとを訪問することを考えていたようですが、実現はしませんでした。
 ポーリング博士も、マリーと同じく、幼き日に親を亡くしています。〈9歳で父が急死〉
 病弱なお母さんや、妹たちを抱え、経済的にも苦しい」若き博士は、道路舗装の検査員など、さまざまな仕事をして家族を支えながら、忍耐強く努力を貫き通し、自分自身を鍛え上げた。そして、苦学に苦学を重ねて、世界的な業績を残していかれたのです。
 心強き人にとって、苦労は、ただの苦労で終わらない。苦労は「宝」である。
 学生時代の労苦を振り返って、博士は「どうしても一生懸命に長時間働く必要があったので、懸命に長時間働く習慣が身についたことはプラスだと思います」と、さわやかに語っておられました。
 ポーリング博士が受けた二つのノーベル賞は、「化学賞」と「平和賞」です。博士の核廃絶と平和への貢献は、最愛のエバ夫人と一体不二の戦いでした。
 「私が平和運動を続けてきたのは──『妻から変わらぬ尊敬を得たい』と思ったからでした」
 そう率直に語っておられた博士の声が蘇ります。
 崇高な理想に結ばれた夫婦──ポーリング夫妻も、そしてキュリー夫妻も、まさしくそうでした。

 正義の人を正しく評価
 一、マリーがピエール・キュリーと初めて出会ったのは、1894年の春のことです。マリーは26歳、ピエールは35歳でした。
 このときすでにピエールは、物理学の世界で、いくつかの重要な業績をあげていました。しかし、いわゆる有名校を出ていなかったため、国内ではあまり評価されていなかった。
 ピエールは生涯を通じて、名声を得ようとか、自分を売り込もうとか、少しも考えなかった人です。"評価されるのは誰であれ、人類のために科学が発展しさえすればいい"という高潔な信念の持ち主でした。
 しかし、心ある人は、ピエールの力と功績を知っていました。英国の大物理学者ケルビン卿など、具眼の士から、特に国外で高く賞讃されていたようです。
 ケルビン卿は、あのグラスゴー大学の教授でありました。
 グラスゴー大学は、名もなき職人ワットを擁護し、ワットは「蒸気機関」を開発。産業革命の新時代を開く原動力となりました。
 グラスゴー大学には、いかなる偏見や風評にも左右されず、正義の人を正しく評価せずにはおかないという信念の気風が脈打っています。
 マリー・キュリーは、このグラスゴー大学をはじめとする世界の大学・学術機関から、21の名誉博士号・名誉教授称号を受けています。〈創立者には1994年6月、グラスゴー大学から名誉博士号が贈られている〉
 ピエールは、自然を深く愛する人物でした。文化の国・フランスへの感謝を込めて私が創立したヴィクトル・ユゴー文学記念館はビエーブルにありますが、ビエーブル川周辺の森も、よく散策していたようです。
 ピエールもマリーも、過去に恋愛で苦い経験をしており、二人とも、そうしたことには重きを置いていませんでした。学問こそが、二人の恋人でした。しかし、出会ったときから、お互いの中にある、崇高な、その魂に気づいたのです。
 二人は、科学に関する語らいや、手紙のやりとりなどを通じて、お互いへの尊敬の念を深めていきました。
 しかし、生まれた国が違うなど、いくつかの障害もありました。特にマリーには、祖国ポーランドに帰って、同胞のために尽くしたいという願いがありました。
 結婚に際しては、ピエールのほうが強い熱意を持っていたようです。
 二女のエーヴは、母の美しさについて、「ほとんどなにもないような小部屋で、着古した服に身をつつみ、情熱に輝く意志の強い面差しのマリーほど、美しく見えたものはなかった」(河野万里子訳『キュリー夫人伝』白水社)と綴っております。それは「内面の精神性」の輝きであり、自らの力で勝ち取った深き人格の美しさでもありました。
 人間の本当の美しさ、それは「生命」それ自体の光彩でありましょう。大いなる理想を目指して真剣に打ち込む生命こそ、この世で最も美しい光を放つのです。

 理想主義から精神的な力が
 一、牧口先生は、「遠大な理想をいだき、目的観を明確にしながら、身近な足もとから実践するのが正視眼的生活である」と訴えておられます。マリーは、この「正視眼」を持った女性でした。
 のちに長女のイレーヌは、母マリーの結婚観は「生活のよき伴侶となれる夫が見つかったときにだけ、結婚すべきであるという考えでした」(内山敏訳『わが母マリー・キュリーの思い出』筑摩書房)と書いています。
 さらにまた、マリーは、二女のエーヴに、このように書き送りました。
 「わたしたちは理想主義のなかで、精神的な力を求めていくべきだと思います。
 理想主義によって、わたしたちは思いあがることなく、自分のあこがれや夢の高みに達することもできるのです。
 人生の関心のすべてを、恋愛のような激しい感情にゆだねるのは、期待はずれに終わると、わたしは思っています」(前掲、河野万里子訳)
 真摯に人生を生き抜くなかで深めてきた恋愛観であり、結婚観であるといってよいでしょう。
 この点、私の恩師の基準は明快でした。
 「恋愛をしたことによって両方がよくなれば、それはいい恋愛だ」「両方が駄目になってゆくようであれば、それは悪い恋愛だ」と。

 信念を深く共有した結婚
 一、マリーは自ら書いたピエールの伝記の中で、科学の発展に生涯を捧げた大学者パスツールの次の言葉を引いています。
 「科学と平和とが無知と戦争とにうち勝つであろう」(渡辺慧訳『ピエル・キュリー伝』白水社)
 この言葉は、二人の共通の信条とも言えるものでした。
 信念を深く共有できたからこそ、ピエールとマリーは結婚を決めたのでありましょう。
 結婚のため、マリーはずっとフランスで暮らすことになりましたが、ポーランドの実家の家族は、皆、心から祝福してくれました。
 結婚という、人生の大きな決断をする際には、お父さんやお母さん、そして、よき先輩や友人と、よく相談して、皆から祝福される、賢明な新出発を心がけることが大切です。
 ピエールとマリーの結婚は、1895年の7月26日でした。
 結婚式は、親しい家族や友人だけで祝う清々しい集いでした。
 豪華な衣装も、ごちそうも、結婚指輪もありませんでした。
 二人とも、財産といえるようなものは何も持っていなかった。しかし、そこには誠実な心が光り、聡明な知恵が冴えわたっていました。
 "新婚旅行"は、自転車に乗って、フランスの田園地帯を駆け回ることでした。
 そして、多くはない収入でやりくりするための家計簿を買ったのです。
 私と妻の結婚に際しても、恩師からアドバイスをいただいたことの一つは、「家計簿をつけること」でした。現実の生活を、一歩一歩、賢明に、堅実に固めていった人が、勝利者です。
 マリーとピエールの二人の新生活は、めぼしい家具など何一つない、質素なアパートで始まりました。
 「わたくしたちは、そこで生活し、そして仕事をすることのできる小さな一隅以上のものは望んでいませんでした」(木村彰一訳「キュリー自伝」、『人生の名著8』所収、大和書房)と、マリーは綴っています。


 科学の世界の新しい扉を開く
 一、結婚から2年が経ち、マリーは長女イレーヌを出産して母となりました。博士号を取得する研究の取り組みも始まりました。
 当時、フランスの物理学者アンリ・ベックレルは、「ウラン化合物が不思議な放射線を発すること」を報告していました。
 この現象の正体は何か? なぜ、このような現象が起きるのか?
 まだ、ほとんど誰も手をつけていなかったこの現象の究明が、マリー・キュリーの挑戦となりました。
 さまざまな実験を重ねた末に、キュリー夫妻は放射線を発する性質を「放射能」と名づけました。
 さらに、調べている物質のなかに、まだ人類に知られていない元素があることを突き止めていったのです。
 この解明によって、マリーは、物理学における「新しい世界」の扉を大きく開く一人となりました。
 すなわち、マリーをはじめ、優れた科学者たちの心血を注いだ研究の積み重ねによって、それまで物質の最も小さい単位と考えられていた「原子」は、さらに小さい「素粒子」で構成されており、そこには限りない可能性が広がっていることが明らかになっていったのです。

 故郷を忘れない
 一、ピエールとマリーは、初めて発見した元素を「ポロニウム」と名づけました。
 マリーの祖国ポーランドへの、万感の思いを込めた命名です。
 彼女は、その研究論文を、かつてお世話になったポーランドの恩人に送りました。
 今なお圧制のもとで苦しんでいる故郷の人々の存在は、彼女の胸から片時も離れることはなかったのです。
 現在、うれしいことにこのポーランドでも、またフランスでも、さらにヨーロッパ各地をはじゆ世界中で、短大白鳥会のメンバーが生き生きと活躍されています。

 ヤング・ミセスの溌刺(はつらつ)たる活躍
 一、さらにマリーは、第2の未知の元素を発見しました。
 二人はその元素を「ラジウム」と名づけました。ラジウムとは「放射」を意味するラテン語に由来します。
 これらは、若き妻として家庭を支え、母として幼子を育みながら積み重ねていった業績です。
 いわゆる「ヤング・ミセス」と呼ばれる年代に、マリーは、現実と悪戦苦闘しながら、その持てる生命の智慧と力を、遺憾なく発揮していったのであります。
 皆さんの多くの先輩方も、全国各地で、「ヤング・ミセス」のリーダーとして溌剌と前進されています。
 短大出身者の弾けるような生命の息吹と、同窓の麗しき励まし合いの絆は、新時代の希望と光っており、私と妻は、いつも喜んでいます。

 明確な実証を
 一、マリーにとって、果てしなく困難な作業が待っていました。
 ラジウムの存在を完全に証明するために、"実際に手に取れる形"で取り出すことに挑み始めたのです。
 理諭だけでは、まだ不十分だ。目に見える形で、決定的な証拠で万人を納得させる必要がある──これがマリーの固い決意でした。
 理論や説明で納得してくれる人もいるかもしれない。しかし、そうでない人もいます。そうした人に対しては、反論の余地のない、明確な実証を示していく。目に見える結果があってこそ、その正しさを完全に立証できるのです。
 ピエールとマリーは、懸命に働きました。当時のノートには、マリーの筆跡と、ピエールの筆跡が、交互に記されています。まさしく、夫婦一体の協同作業でした。

 不遇な環境で地道な労作業
 一、ラジウムを取り出すためには、本来、大きな実験室が必要でした。しかし、キュリー夫妻に、満足な設備はありません。パリ大学にある多くの建物の一つを貸してもらおうと奔走しましたが、結局、認められませんでした。
 やむなく二人は、物理化学学校の医学生の解剖室だったという、物置小屋のような建物を借りることにしたのです。部屋には何の装置もなく、使い古したテーブルと、あまり役に立たないストーブ、そして黒板があるだけでした。
 雨が降れば雨漏りした。冬は身を切るような寒さに悩まされた。夏は焼けるような暑さ。化学処理で生じた有毒ガスを排気する換気装置もありませんでした。
 「馬小屋ともジャガイモ貯蔵庫ともつかないもの」と形容される倉庫です。
 ラジウムが含まれていると思われる鉱物の調達にも苦労しました。さまざまに手を尽くして、やっとのことで、オーストリアの政府が、工業で使った残りかす1トンを無償で提供してくれることになりました。
 科学の歴史を劇的に変えた大発見も、その過程は、あまりにも地道な、単調な作業の繰り返しでした。
 大量の鉱物を大きな容器に入れて、ぐつぐつと煮る。化学処理を行う。それを何度も何度も、繰り返すのです。重い容器を運んだり、何時間も大きな鉄の棒でかき混ぜ続けたり、大変な肉体労働の連続です。一日の終わりには疲労のあまり倒れそうになりました。

ラジウム発見の苦闘
私はあきらめない! どんな場所でも立派な仕事ができる

 自分との戦い
 一、マリーは、こう書いています。
 「実験室における偉大な科学者の生活というものは、多くの人が想像しているような、なまやさしい牧歌的なものではありません。それは物にたいする、周囲にたいする、とくに自己にたいするねばりづよいたたかいであります」(前掲、渡辺慧訳)
 "闘い続ける人"の叫びです。さらにまた、マリーは語っております。
 「みのりの多い多忙の日々の間に、なにをやってもうまくいかない不安な日々がはいりこんできます。そういう日には研究対象そのものが敵対心をいだいているかとさえ思われてきます。こういうときこそ、じぶんの気の弱さや落胆とたたかわなければならないのです」(同)
 この言葉は、科学研究だけでなく、人生の万般に通ずる大切な哲学といってもよいでしょう。
 「なにをやってもうまくいかない」──ラジウムの抽出に挑戦する作業は、ときとして絶望的に思えました。そもそも、こうした作業は化学者の領域であり、ピエールやマリーのような物理学者が得意とすることではなかったのです。
 強い信念を持ったピエールですら、果てしない戦いに疲れ果てて、あきらめかけました。
 この障害を乗り越えるのは難しい。もっと、将来、条件がよくなってから再挑戦したほうがいいのでは?
 ぼろぼろになって研究を続ける妻のことを気遣い、ピエールは、ひとたびの「休戦」を勧告しました。

 志ある人は強い
 一、しかし、マリーはあきらめませんでした。彼女は、「あきらめる」ということを知らなかったのです。
 「ラジウムは必ずある! どんな苦労を払ってでも、必ず取り出してみせる!」
 いざというとき、志の定まった女性というのは本当に強い。
 マリーは、「どんなに不適当な場所にいても、やり方しだいで、いくらでもりっばな仕事ができるものだ」(前掲、木村彰一訳)と自伝に綴っています。
 今、短大に学ぶ皆さんは、自分を鍛える「青春という闘い」の真っ只中にいます。
 また、卒業した皆さんのなかには、描いていた理想と違う、不本意な環境で働いたり、厳しい現実の中で生きている人がいるかもしれない。
 大事なことは、強い自分になることです。「自分しだい」で、新たな道を開くこともできる。必ず立派に成長できる。
 「大変だった。でも、私は勝った!」と、笑顔で後輩に語れる、強い朗らかな皆さん方になってほしいと、私は願っています。

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