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グルジェフについてコミュのグルジェフ本の邦訳の巧拙

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こんにちは。こちらのコミュニティには初書き込みです。

『覚醒の舞踏』の著者、郷尚文氏のサイト(ですよね?)、≪グルジェフ・ムーヴメンツ 創造と進化の図絵≫を興味深く読ませて頂いているのですが、その中の「関連書籍」のコーナーで指摘されている「翻訳上の問題について」が、気になっています。
http://homepage3.nifty.com/MRG/introduction.htm
僕自身は英語が得意なわけではなく、グルジェフの思想についてもまだ学び始めたばかりなので、郷さんの批評が完全に的確なのかどうかは判断できないのですが、かなり痛烈な筆致での批判でもあり、『ベルゼバブ』に至っては、郷さん自ら翻訳し直しているほどなので、上記URLで言及されていないグルジェフ関連の邦訳に関しても、より正確に訳されているのはどれなんだろう、と、初学者としては当惑してしまいます。原書と邦訳、両方を読まれた方に、何かアドバイスを頂ければ幸いです。

まず、グルジェフの三大著書の内の、未完の最終巻『生は《私が存在し》て初めて真実となる』、これの邦訳が気になります。翻訳者は浅井雅志氏ですが、郷氏のレビューでは、浅井氏が訳された『奇蹟を求めて』は評価が高く、『ベルゼバブ』は批判され、『グルジェフ伝』は微妙な感触、といった形になっていて、『生は(…)』はどうなのか、全く予測不能です。グルジェフの著書の中では唯一、具体的な実践法が書かれているようなので、かなり気になる本なのですが..。実際に原書と邦訳を読まれた方の、率直な感想をお聞きしたいです。

それと、グルジェフ関連の本の中で、邦訳に関して、特に優れている、或いは逆に疑問を感じた、といった本があれば、教えて頂けると参考になります。よろしくお願いします。

コメント(18)

大変興味あるトピックです。
私は書籍は日本語で読んですべてに感動しています。その英語版も全部手元にあります。原書は実際にはロシア語やアルメニア語であったりもするので、この場合の「原書」は英語のことを指しているのだろうと解釈し、話を続けて行きます。

アメリカで、長年グルジェフワークをされている人々と交流を持ちました。いろいろと見解を語り合ったり、意見を交換したりしました。私は英語版を読破しているわけではありません。でも共通の立場で、ワークに関する事柄を話し合って行くことが出来ました。また、読書会もあり、『ベルゼバブ』も英語で聞くことになりました。が聞いていて、ちゃんとどこの部分が読まれているかがわかりました。つまりその立場からみて、そういった経験からして、あれ?日本語訳のどこに問題があるのだろうかと思われたのです。少なくともそれだけで充分ではないかと。

現在翻訳されているものをぜひ一読ください。素晴らしいものです。

郷氏の本はこれから読んでみたいと思います。ご紹介ありがとうございました。
早速のレス、有難うございます。

>umi chan さん
実体験に基づいたアドバイス、参考になります。
『ベルゼバブ』に関しては、近所の図書館にも置いていないものですから、読むとすれば古本ででも購入する必要があるので、多少、高価な本でもあり、ちょっと慎重になってしまっています…。ですが、アドバイスを頂き、何も「使えない」本であるわけではない、という感触を得ました。参考にします。
因みに現在、『注目すべき人々』のみ購入して手元にあるのですが、その訳者解説によると、最初にロシア語で書かれた草稿は未刊となり、英語版が最初に世に出たという話でした。この英語版がグルジェフ自身の手によるものなのかどうかは分からないのですが、郷氏のサイトでも、『ベルゼバブ』も含め、英語がどう訳されているかについて言及されているので、刊行されたグルジェフの著書の原書は、英語ということで良いのかな、という解釈です。詳しい所は知らないのですが…。

>パガテノラル さん
>内容的にベルゼバブを補足するという感じ
なるほど。分量的にも『ベルゼバブ』が最も厚い本だし、また、現にグルジェフ自身、ちゃんと順番通りに読むようにと指示しているようなので、僕も正直、それが気にかかっています。
どうも、総合的に見ると、『奇蹟を求めて』が一番安全パイ(?)なんでしょうか。僕は元々ウスペンスキーから入った人間なので、彼から再び呼び出しをもらった感じです(笑)。この本は以前、図書館で借りて拾い読みしたのですが、覚束ない理解の中にも、知的興奮を味わいました。もう一度、ちゃんと読んでみることにします。


僕は元々、ウスペンスキーを通じてグルジェフを知ったのですが、彼によるグルジェフの紹介『奇蹟を求めて』を読む以前に、松岡正剛氏の『ベルゼバブ』書評を読んだもので、この本は、なんだかよく分からぬ空想的な本であるらしい…、という印象をまず、刷り込まれてしまったんです。
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0617.html
そしてその後、郷氏のサイトでそうした誤解が氷解した、という経験を経ているものですから、僕の中では、郷氏が師(マスター)的な存在となっている部分があるんです。そうしたわけで、郷氏のOKサインが出ていないと、どうも二の足を踏んでしまう傾向があるようです。それが良いのか悪いのか、も分かりませんが…。
http://www.sufism.ru/4thway/books/all.htm

露西亜語版オンラインテキスト「ВСЁ И ВСЯ」。(これつて合法的なのかしら?)
>パガテノラル さん
>amazon
はい。これは知っていたのですが、古本云々と書いたのは、単に購入価格の問題で…。古本だと半額近い価格なので。
みみっちい話ですが。

>英訳
>手元にある浅井氏の訳と少し見比べてみたんですが、
言葉の問題で言うと、グルジェフは、スターリンと同じ小学校に通っていたと聞いています。そしてスターリンにとってロシア語は、異国語だったという話も。と、すると、子どもの頃に彼と同じ地方に住んでいたグルジェフにとっても、ロシア語は母語ではなかったんでしょうか…。『ベルゼバブ』には特殊な造語が頻出するようですが、そもそも言葉というもの自体に対して、グルジェフは独特のスタンスを取っていたのかな、と感じています。僕のような初学者は、どちらの訳が「正しい」かというよりは、同じ原文が違った訳語に訳されうる、という事実をまずは見つめ、人間の言葉の不完全性について意識的になった方が良いのかもしれません。グルジェフにとって、地球上の言語による「原書」というのは、存在しなかったのでは…なんて、ちょっと感じています。

>浅井氏訳の「ベルセバブ」と「奇跡を求めて」は、
>訳語がおおむね統一されている
あ、なるほど。これは大きなチェックポイントです。
そういえばグルジェフは、『奇蹟を求めて』を読んで「素晴らしい記憶力だ」と評価しつつも「しかし何かが欠けている」とも言い、『ベルゼバブ』の後に出版するようにと指示したそうですね。その「欠けた何か」が何なのかに注意しながら読む上でも、訳語が統一されていた方が便利かもしれません。

>何事も自分で判断
こちらで色々とアドバイスを頂き、個々の意見を、或る程度相対化して見られるようになった気がします。以前から、郷氏のサイトのテキストは非常に参考になるなと感じつつも、セカンドオピニオンが得られないまま、郷氏の意見だけを窓口にしてグルジェフ入門をすることには、少し危惧がありました。グルジェフは、グループで行なうワークをとても重要視していたようですが、それは、相互の関わりの中で、個人個人の心と体の癖に気付き、そこから徐々に自由になっていく効果があると考えていたのかな、なんて思いました。もし僕のその思いが正しいとすれば、僕は既に、ワークに足の指先くらいは入っているのかもしれません。

とにかく、まずは虚心にグルジェフの著書に向かっていこうと思います。


>XiE さん
>露西亜語版オンラインテキスト「ВСЁ И ВСЯ」
グルジェフは、ロシア革命に伴って亡命したと聞いていたので、彼の著書は英語なりフランス語なりに訳されたものしか公にされていないのかと思っていましたが、ロシア語も存在するんですね。僕は一語も読めませんが、これはグルジェフが直接書いたものと考えて良いんでしょうか…。そうだとしたら、取り敢えず公開されてあるだけでも嬉しいですが。
私もまるで読めぬくちで、この膨大なオンラインテクストも驢馬の耳にベルゼバブといふ体たらくですが、おそらく英語版からのロシア語訳と思はれます。「Перевод с английского」として三人の人名が並んでゐるのが(多分)訳者ではないでせうか。英語版に先んじたロシア語版?といふ期待を持たせてしまつたとしたら謝ります。なほ、このサイトのКниги(書籍)の項目にはГюрджиев(グルジェフ)の名で四つ、Успенский(ウスペンスキー)の名で六つのテクストがアップされてゐます。ウスペンスキーの著作などは(多分)原著とみなしてよいのではないでせうか。どなたか解る方にチェックしていただきたいものです。蛇足ながらウスペンスキーの項目の最後の「В поисках чудесного」が「奇跡を求めて」です。失礼いたしました。
このコミュニティのメンバー諸氏には周知のことでもありませうが、話題提供の意味をこめて、不肖私の知る範囲で、「グルジェフ翻訳前史」のやうなものを書いてみます。非常に杜撰なものであることは重々承知してをります。誤りの訂正、補足、思ひ出話等よろしくお願ひ申し上げます。

私の知るかぎり、日本へのいちばん古いグルジェフ紹介はこれかな?

コリン・ウィルソン『アウトサイダー』福田恆存・中村保男訳(紀伊国屋書店1957年)

この最終章「回路からの脱出」に「グールドジエフ」といふ読み方で言及されてをります。処女作の最終章で取り上げるといふことに、のちに大著『オカルト』をものするウィルソンのなみなみならぬグルジェフへの関心が窺へますね。

そしておそらくウィルソン経由でグルジェフに興味をもつて(?)書いたらしいのが、

澁澤龍彦『異端の肖像』「二十世紀の魔術師」

でせうか。さらに友人である澁澤氏の影響下に(?)、グルジェフのオクターブの法則等を「換骨奪胎」して書いたのが、

笠井叡『天使論』(現代思潮社)

でせうか。そしてこの後に、

コリン・ウィルソン『オカルト』中村保男訳(新潮社)

といふ順序であつたかと思はれます。

ちやうどそのころでしたか、

武田洋一(のちの武田崇元)編集『地球ロマン』

誌に、武田の盟友(?)武邑光裕による「注目すべき人々との出会ひ」の訳が掲載され始めましたが、この武邑といふひと、もともと日本語の文章自体がなにを言つてゐるやらさつぱりわからない意味不明なかたなので(苦笑)、いたづらに「グルジェフは晦渋である」といふ印象を読者に与へてしまつたやうに思ひます。

ただし、武邑氏が、

雑誌『DECODE』

等で、

ピーターブルック監督「注目すべき人々との出会ひ」

や、ルネ・ドーマルの小説を映画化した

アレハンドロ・ホドロフスキー「ホーリィマウンテン」

などをかなり早い段階で紹介したのは貴重な貢献であつたと思ひます。(おしまひ)
私事ですが、初めてグルジェフの名前をみつけたのは「アウトサイダー」や「オカルト」でした。ちょうど美術学生から社会にでるころで、当時ヒッピー文化が全盛のころで、学生運動などもありました。わたしの場合は、遊び過ぎたせいか、社会に直面して、一生退屈なこの厳しさの中で生きていくのかとショックを受けていました。グルジェフの中になにか、救われるヒントがあるのではと直感したのですが、その後仕事に追われながらも時折、ウィルソンの著作を通して知ったグルジェフの本を読んできました。また、読書会などにも顔を出しましたが、ほとんど著作を通じてのいろいろな概念や考え方にふれ、もう30数年になりました。その時の思いに対する、答らしきものを、自分なりに見つけたように思います。近道などはなく直面した現実を自分の方法で精一杯やる。というごく単純な事でした。まったく筋違いの解釈をしているかも知れませんが、また全てではありませんが、一面では、わたしにとって非常に有益でした。
>ima様

言及した手前、紀伊国屋版『アウトサイダー』の該当箇所を読み返してみました。

《グールドジェフの方式を彼自身が解説した主著『全体と全ての個体』のうち、現在までにイギリスで印刷されたのは一部のみであるが、これは一千二百頁を越える大冊であり、しかも非常に読みづらい。だがわたしがそれを読みづらいと評しても、著者に対して失礼ではあるまい。半可通のディレッタントがこれに眼をとほして、これで「グールドジェフを理解した」などといふことがないやうにするのが、かれの狙ひの一部であるやうに思はれるからだ。このやうな効果をださうと意識的に努めた結果、この第一巻はジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』に劣らぬほど難解になつたのである。(Of Gurdjief's major exposition of his system, All and Everything, only the first part has to date been printed in England; this is over twelve hundred pages long, and it is hardly unfair to its auther to say that it is almost unreadable - hardly unfair since it seems to have been a part of his aim to make sure that no dilettante could dip into it and then claim to 'understand Gurdjieff'; his efforts to achieve this effect have made the first volume rather less comprehensible than Finnegans Wake.)》

読み返してみて思ひ出したのだけれど、我々はウィルソンのこの文章を先に読んでゐたので、『地球ロマン』誌の武邑光裕訳を読んでも、その晦渋さが訳者のせゐだとは少しも考へなかつたものです。逆に、プラサード書店から『注目すべき人々との出会ひ』の訳が出たときに、その平明さに驚いたといふのが真相に近いと思ひます。まあ今更未完の訳業の巧拙を云々する人は誰もゐないのでせうが、この点について、先のコメントを訂正しておきます。(これはスレッドのテーマにもかなふのではないでせうか?)

コリン・ウィルソンを読まなくなつてから久しい私ですが、自分のなかでは、大雑把に言へば、《誰も取り上げやうとしなかつた「退屈」といふものを「問題」として取り上げた》といふウィルソンの功績は無比のものだ、と考へてをります。

私事に渉りますが、私の場合は「知」がある種の博物学的幸福に包まれてもゐた小学校から、「受験の為の勉強」といふ退屈な労役に従事してゐるやうにしか見えぬ中学校へと進んだときに味はつた、ある種の「失楽園」と重ねあはせて『アウトサイダー』を読んだと記憶してをります。(初版刊行から十数年の頃でせうか)

「ひとは皆眠つてゐる」

いまだに眼に突き刺さつてくるこの言葉を再読して、「さて俺はあの頃と少しは変化したのだらうか」と今考へこんでをる処であります。

匆々
「弟子たちに語る」は廃版なのですか。それは惜しい。

この書には、実践的なことも語られて、博士さんの言うように、入門書としてもよいテキスト本になると思いました。新刷がでないのは残念におもいます。
Xie様

グルジェフ翻訳前史を懐かしく読みました。
ていうか、武邑氏とはじめて待ち合わせた時、江古田の日大芸術学部キャンパス前で、目印として彼に「天使論」を手に持ってもらった記憶があります。あの神秘学研究会も、今では30年前のこととなりました。
>野次馬の視線さま

はじめまして。武邑氏と待ち合はせとは、稀有な体験をなさいましたね。なにやら、丸善洋書部で、白いハンカチを手に待ち合はせたといふ、澁澤龍彦氏と松山俊太郎氏のエピソードが思ひだされました。あの、エネアグラムが大きく描かれた「天使論」を手に待ち合はせる武邑氏・・・クスッと笑つてしまひました。私自身は一度だけ、さるゴダールの映画の上映会のエレベーターで、武邑氏と接近遭遇したことがあります。
>>[015]

>昨年起こった出来事の大半が、恐れに基づくものであり、恐れの結果起こったといっても決して過言ではない。無意識の恐れは、『眠り』の最も典型的な特徴だ。人は、自分の身の回りとの自分の関係を十分客観的に見ることができないため、自分自身の周りのものに振り回されることになる。いったん自分のおかれている状況に距離を持って、その時点で、何に自分が引かれ、何を嫌っているかを自分との関係において捉えることができない。これができないため、全てのものにアイデンティファイしてしまう(とらわれる)ことになる。これも、また、『眠り』の特徴だ。


とても考えてみるべきことですね。
どうもありがとうございます。

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