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グルジェフについてコミュのGについて最近の雑感

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 個人的に最近感じたことを書いてみます。

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 私がグルジェフのことを知ったのは20代の初め頃のことでP.D.ウスペンスキーの「奇跡を求めて」からになる。その後、グルジェフに関して日本語に翻訳されたものはほとんど購入して読んでいる。しかし「ベルゼバブの孫に語る話」だけはなかなか読み通すことができず、昨年購入後6年目にして読み通した。

 その間、だれかに師事するとかセミナーなどに参加するとかは一切なく、完全に本のみでグルジェフの思想(というべきか迷うが適切な言葉が浮ばない。)を学んでいる訳である。

 刺激的というか、いままで出会ったことのないような新しい思考というものが数多くグルジェフの言葉の中にあるのだが・・・出合った当初から私の関心は大きく二つの概念にひきつけられた。それは「内的考慮」と「自己想起」である。

 このうち「自己想起」については「奇跡を求めて」を読んで以来、自分なりに色々と何度も試みている。
 もちろんボンクラの自習であるから、なにか成果があるわけでもないのだが、当初からウスペンスキーの説明やあるいは「弟子たちに語る」での説明についても何か大事なことが抜け落ちている。あるいは私が理解しそこねている何かがあると感じていた。

 最近、例の郷さんのサイト「グルジェフ・ムーヴメンツ 創造と進化の図絵 」での論文「矢印のワーク」http://homepage3.nifty.com/MRG/essay_arrows.htmを読んで少し閃くものがあった。

 このサイトについては和尚(というかバグワン・シュリ・ラジニーシね)と関係がありそうなで少し引いて見ていた面が私にあるのだが・・・

 それは、おいておいて

 たしかに私が試している「奇跡を求めて」的な手法での「自己想起」モドキあるいは「自己観察」モドキでは、ある低いレベルから先には進めないのである。
 「自己想起」モドキにおいては・・・その時に感じる「私」の身体上での位置は頭部にあって・・・肝心の日常生活において自己を想起することは難しく、また可能であっても極めてゆっくりでしか行えない。また内的な思考について行おうとしても、こころみるほど「形による思考」から離れ行くことが解る。

 「矢印のワーク」にすべて同意するわけではないが長年、不明だったことの一つの手がかりを得たことは確かなようである。

 もっとも本来なら「ベルゼバブ・・」を読みなおしてそこから理解を得られればいいのだが・・現況では私の力では「ベルゼバブ・・」を再度読み、そしてそこから新たな理解を得るなんて・・・ことはちと無理です。w

 「矢印のワーク」を読んだからなのかどうか合理的な説明はつかないのだが、読み始めて中ごろで、「私」を感じる身体上の位置が頭部から移動した。胸の上あたりにしばらく「私」を感じるというようなもので、その間は非常に心地良いものであった。もっともその後はまた頭部に移ってしまっている。これが感情センターの働きをいうのかも定かでなく錯覚かもしれないし、感情センターであったとしても、そのような状態になった場合全ての時間が心地良いものともかぎらないだろうけど・・・自分にとって一歩進展があったかもと思っている。


 多分、こういうことの学習に関してグルジェフが去ったやがて60年もたつ現在、信頼できる人との出会いとかは期待できないし、あるいは特定の集団に参加する気などさらさらないので、今後もこんな独習を続けることになると思う。ひとりよがりな思い込みに陥らないよう少しは自分の状態をさらして、グルジェフについて感心のある人の意見を聞いてみたいということで、とりとめも無く書いてみました。

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コメント(19)

自己想起にはある「秘密」があります。もったいつけるほどのことではないかもしれませんが、グルジェフが書物に書くことを禁じた知識に類することなので、いずれ別な場でお伝えできればと思います。
自己想起についてはグルジェフでなくとも仏教(もちろん真面目な仏教)においても詳細に解説されています

むしろそちらのほうが近づきやすいのではないでしょうか?
アニマンジェルさん 78910さん

それらの内容、または、内容を知る方法を教えていただけませんか?
グルジェフ氏が厄介な理論や物語でもって一見、人々を近づき難くしているのは、おそらく準備のできていない人間が言葉を通して学んだところで

その言葉をていねいに実践する気持ちを起こせないことを見抜いていたからなのでしょう

真意を追求する過程、隠されている奥義を探し求める過程で段々と心が成長して来ることを知っていたからでしょう

仏教についても、これと同じことが言えると思います

「仏教なんてくだらない呪術か観念論みたいなもんだ」と思っているレベルから

「仏教は人生訓か道徳みたいなもんだ」というレベルに進み

「仏教とは優れた知性だ」と知るレベルを経て

さらにその先へ進むかどうかは、

すべて一人一人の追求とその過程でいかに自分の心を整えたかにかかっているのだと思います
> ALAGONさん
「内的考慮」と「自己想起」について

Gの「内的考慮」という概念は、例えば「他人にこう思われたらいやだ」などと、他者の視線を起点に自らのあり方を憂慮する自我の営み、受動的な思考の働きではないですか。

この言葉は、目的の為に意識的に周囲に気を配る、配慮するという意味の「外的考慮」と対になって説明されていたと記憶していますが。

「自己想起」は「内的考慮」から抜け出すことでもあります。
忘れっぽい私たち、落ち着きのない精神にとっては、気づきの持続は困難ですよね。
瞑想経験がないと、何が自己想起の状態なのかを、理解できない可能性もあります。

そこで呼吸を意識する事によって自分に気づくヴィパサナという方法もあります。これはGの教えとは異なるかもしれませんが、自分の試した物の中では最も有効だと感じています。単に呼吸の出入りを注視するだけなのですが、いつでもどこでもでき、最もシンプルで強力な瞑想法だと思います。呼吸を自覚した瞬間、自己を想起することにもなります。我に還るといったらいいでしょうか。
グルジェフ氏の言う自己想起は呼吸や漠然とした自己について言っているのではなく、

自分の内部と全体のあらゆることに明晰に気づいているべきことを言っています

単に身体運動としての呼吸に気づくことや、漠然と我に帰ることだけで良しとするものではありません
>78910さん

「自分の内部と全体のあらゆることに明晰に気づいているべきこと」って、<自己観察>じゃないんですか?
<自己想起>と、どう違うのでしょうか?

また、仏教のどの考え方が、<自己想起>に匹敵するのでしょうか?
michaelさん

それを自己観察と呼ぶか自己想起と呼ぶかは、単なるレッテルの問題にしか過ぎないようにぼくには思われます

グルジェフ氏が求めていること、推奨していることの実質は、いかなる時、いかなる状況で、何をしている時であろうと

その時の自分の行為の在りよう、自分の表情、自分の呼吸の様子、自分の体調、頭を巡っている考え、心の中の感情、目撃しているもの、かいでいる臭い、聞こえているもの、輝き出す啓示……

すべてのことに意識的に気づいていよ、ということであると受け取っていますが

もし「そうではない!」ということでしたら、よろしくご教授下さい
m(_ _)m

また、上のことは仏教でも同様に指導されていることだとぼくは学んでおりますが、

仏教におけるそれの呼び名もレッテルの問題として、いくつかの呼ばれ方をしていると思います
78910さん

ご丁寧に答えてくれて、ありがとうございます。

確かにペントランド卿のようにグルジェフから直接指導を受けた人には、「自己想起と自己観察はある地点で一緒になる」と言っているようですね。
http://homepage1.nifty.com/pdo/WordsofJohnPentland.htm

とは言え、グルジェフは自己観察と自己想起を別物として扱っていると思います。
また、自己想起とは自己意識とも呼び、人間5番(覚醒の最初の段階)の意識状態であると言うことも「奇跡を求めて」に記述されています。
したがって、「自己想起」を明確に理解することが、グルジェフ・ワークの本質を理解することになると思っています。

私自身は、「自己想起とは観察者自体を想起すること」という理解なのですが、実のところ、いまひとつ自信が持てていません。

どなたか明確にわかる方いらっしゃいませんか?
是非とも自信の持てる理解を得たいと思っています。

よろしくお願いします。
自分というもの、自分という経験を見落とすことなく見つめることができるなら

漠然と自分というレッテルの下にくくっていた一つ一つの要素に対する無自覚な同一化がほどけ

「これでもない、あれでもない」
と、真実の自分の核を求める洞察が、純粋な目撃者たる自分にまで行き着きますね

そしてこの先の、この目撃者自身を探る瞑想こそ

グルジェフ・ワークにしろ、仏教にしろ、キリスト教神秘主義にしろ、辿り着く核心だろうとぼくは理解していますが、

他の方がどう理解されているかはわかりません
「純粋な目撃者たる自分=最終的な観察者」でしょうね。
一応、理解の一致が見られたとして、どのように想起すればいいのでしょう?
いくつかの瞑想を試したけど、まだ、ピンと来てないな〜。
自分の心の中の動きを一つ一つ明確に見ることだと思います

生活、行動の中で見ることも欠かすことのできない大切なことですが

静かに座って心の中の観念を見つめることは大変重要です

始めはいくつもの粗大な観念や思考を、一つ一つ壊れやすい卵を扱うように色んな角度から観察し

粗大なものを扱うのに慣れたら、次は微細な観念や思考に目をこらし、それらの一つ一つを同じように色々な角度から観察し

さらに超微細な観念や思考を同じように観察します

そうするとついには観察すべき粗大な観念も思考も、微細な観念も思考も、超微細な観念も思考も観察し終えて見当たらない魂の明け開けのみがあることに静かに行き当たります

(簡単に記述しましたが、この間さまざまな危機や障害が横たわります。また、学ぶべきことも数多くあります。)
ぼくは
「初期のワークは体の動きに気づくこと。心の中はその後にすべきこと。」
と、厳格に順番づけるのは疑問です

体の動きに気づくことと心の動きに気づくこととは常にダイナミックに循環しながらなされるだろうと思います

呼吸のあり方によって思いや感情に変化があることに気づいたり、

顔の表情を意識的に明るい笑顔に変えることで心や感情までも明るい方向に変わって行ったり

行動をきびきびさせることで、より頭脳が明晰になり、思考が意志的になったり。

実はある程度のことは、体に気づくことも心に気づくことも誰もが知らず知らずに行っており

それをより意識的に深く行うためにこそ「自己想起」と呼ばれるワーク(瞑想、ヨーガ)があるのだと思います

グルジェフにおいてはそれは大変秘密めいて今なおその詳細は一部の人たちだけが受け継いでいるんじゃないか、と見られるものですが

これは教えの継承に常に見られることで、100年とか500年過ぎてゆく中で、学習者の間で議論が進み、またその学習者の中から優れた論理学者や哲学者が幾人も現れることによって、閉じたサークル以外のより多くの人たちも学ぶ機会が格段に広がるのではないでしょうか?

自己想起に関する仏教側からの優れた定式化である「法相学」もそのようにして形成されたのだから。
「日常生活における自覚、自己想起」について仏教の側からはっきりと主軸化して(!)打ち出しているものもあります

そういう修行者に現実に出会ったことがないというのは、ほとんどの人がそうでしょう
>>[018] さん  

14での質問とは
「ここでいう心とはなんでしょうか? 頭の中の文字(言語)による思考ですか? それとも何か別のものですか? 自己想起の初期の段階で頭の中の文字思考を見るのはかなり難しいです。最初は肉体のセンター、体の動きから見るのが良いと思いますよ」
の部分でしょうか?
自分の体の動きについて常に自覚的な気づきを持つようにする、というのは確かに自分の一瞬一瞬の心の動きに自覚的に気づくようにすることより取っつきやすいでしょうね。
心というのはおっしゃるように、自分の中で言語化されずにうごめいている感情だったり、言語的把握・振り返りをなされていない漠然とした思考だったり、はっきりと言葉で頭の中で語られているものだったりしますが、
それらの一瞬一瞬の姿に気づくというのはまさに言語的・概念的に把握されることに他ならないと思います。

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