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黒澤明監督「赤ひげ」コミュの『命』と『赤ひげ』

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ひとは生きていくものですから、多くの映画は生きていく「喜び」や「悲しみ」を描いていきます。疾病は本来主観的な視線だけで進んでいく人生に、招かれざる客観的な視線を生じさせます。

ボクは吹けば飛ぶよな町医者ではありますが、ひとの生命に携わる生業をしている身の上ならばこそのさまざまな思いが湧きあがってきます。

同時に自分が関わった、いまは鬼籍に入られている患者さんの顔が浮かんできます。その中には病気など知らぬかに元気で笑ってくれている父と母が混じっています。

篠原哲雄監督の『命』では、その「死」への対峙の姿勢が小泉尭史監督の『阿弥陀堂だより』とはまったく正反対です。

静かに死を受け容れて、穏やかに最後の日々を迎えようとする感覚は日本人には理解しやすいものだと思います。

例えとして正確かどうかはわかりませんが、女性が加齢により閉経を迎えたとき、いわゆる“更年期障害”の治療法として「女性ホルモン補充療法」があります。

アメリカでは、この治療が幅広く普及していて受療率は数年前にすでに30パーセント以上だったと思いますが、わが国ではわずかに3パーセントです。ここには「穏やかに老いを受け容れることに抵抗は少ない国民性」が見て取れます。

そういえばアメリカのお婆さんたちはツヤツヤして元気なイメージがありますが、反対に男たちのショボクレっぷりはどうでしょうか。

『コクーン』という老人たちの回春を描いた傑作SF映画を思い出します。医療識者のなかには、バイアグラの開発の背景にはこういう男女較差、簡単に言えば「悲しき働き蜂であるオス」の置かれている社会情勢を垣間見ることができると言うひともいるのです。

 『命』での主人公たちの姿勢は、静かに死を受け容れるどころか、一日でも永らえるならばなんでもする・・・、というものです。

友人が『命』への感想をこう書いたことがあります。

映画のモデルとなった柳美里も東由多加も、デリカシーより自己主張の強さを売りにして生きている人のようですから、声高に怒鳴り合う登場人物たちに、もうひとつ感情移入しにくかったし、篠原の繊細さが十分には発揮できていないように感じました。柳の母親を演じる樹木希林が、柳の妊娠を知ったあと、頻繁に人が往来する歩道橋の上で、「これであの娘は、二度と自殺未遂ができなくなっただろう。ああ、いい気味だ」などと大声を上げて大芝居する場面。柳の妹を演じる麻生久美子が、病院の玄関を出たばかりの場所で、「お姉ちゃんは、あたしたちの気持ちが判っていない」と大声を張り上げる場面。……こうした大芝居ほど、篠原らしくない場面もないはずです。本来の彼なら、人目につかぬ場所で、囁くように、呟くように、こうした科白を語らせたのではないでしょうか。こんな場面を書き上げてしまった脚本家の責任を追及したい思いに駆られます。“と。


この意見は本当に正しいと思います。
ただし、ぼくは仕事上日本語も覚束ない韓国・朝鮮のひとを数多く診ているのですが、びっくりするほど激情的な表現をされるところを幾度も経験しています。

この母の場面こそは、長い間言いたくても言えずに耐えるしかなかった親が、ようやく自己の責任において、いやというほど考えさせられることになるだろう我が子の境涯の変化に、ある種の安堵感を得て初めて噴出させた言動であったのではないでしょうか? 

恐らく『命』は、柳 美里の不倫の挙句生まれてきた我が子に、「実の親でも出来ないような愛情で、東由多加というひとがあなたを愛してくれたのだ。母は無責任かもしれないが、あなたはひとりで生まれてきたのではない」というメッセージがこめられているものだと思う。

そのため、あそこには基本的にウソはないだろうと思われてなりません。

あのなかで劇団の古参女優が柳 美里に向かって「(あんたの彼との闘病の姿勢に)感動したよ。感心はしないけどね。」という場面が象徴的ですが、この母(樹木希林)も妹(麻生久美子)も柳 美里がその出自に苦しみあえいで、その結果自らを痛めつけ、幾度も自殺未遂を繰り返す行為をどれほど耐え忍んで見てきたことか・・・、想像してみるだけでも胸に迫るものがあります。

おそらく東とても、初めて立ち至った、ひとのために生きようとする日々であったのではないでしょうか。

人間にはなりふり構わず声を上げて泣くことでケジメをつけるときがあるのでしょう。


しかし、ほとんどの映画は、本当なら無自覚ですむ人生へのこころならぬ対峙を描いているのに対し、『赤ひげ』では苛烈な現実の生活への救済のように「死」が存在します。

これは最もプリミティブな、しかし強大な壁でしょう。

「貧困」であることは罪でもなんでもない。
「無知」もまた同様です。

だが、「無知」と「貧困」をそのまま放置していいのだという、対岸の火事のような視線を『赤ひげ』は糾弾しているのです。既得権に安住するな、という発言があるのです。




コメント(5)

今頃になっての書き込み、申し訳ないですが、よろしいかしら?
このトピックの文章には語り合えるテーマがものすごく多くて、一つずつお話してみたいような気分ですが、ここではまず以下。

> 「穏やかに老いを受け容れることに抵抗は少ない国民性」
は、「老い」の面だけではなく、「死」そのものにも当てはまるかもしれない…などと、私は、ある友人の死を境に数年前から真剣に考えるようになりました。
そのあたりの、私の身勝手な発想なのですが、自分の日記に書いたことがあるので、もしよかったらお読みください。

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=77338056&owner_id=657234

かなり身勝手です。
書き方が大雑把ではあります。
その辺はご容赦を。

村上春樹は『ノルウェイの森』(文庫版・上巻, p.48)の中で、
「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」
と表現してますが、私にはとてもスッと入ってくる表現です。
ひまわりさん、拝見しました。

大変に面白く思いました。

捕鯨問題については欧米人、とくに白人の有色人種に対する想像力の欠如。引き換えて言うなら、差別のヴァリアントである側面が否定できないのではないでしょうか。

「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」という言葉は、知りませんでした。
しかし、ボクが常に感じているのは「生をまっとうするからには、死を考える」ということです。

我々の生きている社会は理不尽な不平等ばかりですが、たった一つだけ平等なことがあります。

それは「生まれいづる生命には必ず死が訪れる」ということのみです。ここに葛藤があり、苦悩があります。

人間の生命が有限であるからこそ、「死」が意味を持ちます。

ひまわりさんのおっしゃるように、「老いを静かに受け容れる」ということは「死」についてもほぼ同様でしょう。

老いたくない、死にたくない、というのは誰もが逃れ得ないからこそ、拘泥し、すがってもみたくなる。

「死」は「生」を考えるからこそ、恐ろしくもあるのでしょう。

これと同じだなぁ、と思うのは、古い映画を観るのも、実は未来への強い関心があればこそだということ。
人間はノスタルジーだけで、古い映画を追い続けることはできませんよ。

そこに、いまはもう死に絶えたものや思想が映っているからこそ、観てしまう。そのことに、なんとか今に、未来に生かせる道はないのか?

そのことに思いを馳せる想像力が若い人には希薄です。
彼らには命はまだ有限だとは感じられないからです。

少し、論旨があやふやになってきたようです。
キャベタローさんとの繰り返しになりかねないので、いったん終わりにします。

どんなに遅くても、こういう問いかけは永劫の真理ですから、書いてくださいませね。

よろしいかしら?
大歓迎です。
いえ、いえ、論旨は明確だと思いますけど…。
ただ、「生命が有限である」にはある一定の条件的な説明も必要かな?と、チト思いました。

ある条件をつければ理解できるんです、その有限性は。
ただ、「生命」をどのように解釈するかで、考え方は変わってくるかもしれないなぁ…などと、私は感じます。
「生命」を「魂」だとか「遺伝子」だとか、そんな面から見ると、無限とも思えるんです、私には。

ちゃんと勉強したわけでもないし、これは、あくまでも感覚ですけれど…。

またまた押し売りでゴメンなさいなのですが、もう一件、そんなようなつぶやき日記がありますので、お時間があれば、覗いてみてください↓

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=83069267&owner_id=657234
いみじくも、ここに書かれていました「死」への思いは、われわれの「生」そのものも、ひとにぎりの死者を愛したひとの記憶のなかにのみ存在していることを思わせます。

その代わり、『小早川家の秋』で焼き場の煙突からたなびく煙を見た農夫が「かいぐりかいぐりやぁ」と呟いたように新しい生命が誕生してくる。
これは芭蕉が「不易流行」と名付けた季節が流れて常に新しい時間が巡り来ているのに季節は常に春夏秋冬の循環を繰り返すことに通じます。
人生は不慮の死や通り魔による死を除けば、いかに生きたかであり、その長短ではありません。

赤ひげが口に出したように医学といっても無力であることは多く、多少生命力の強い個体には手助けできることがある…と心のなかで認識しています。

そのひとらしい生がまっとうできるような手伝い…それが高齢者や疾病に倒れたひとへなすべき医療の姿であり、家族との強い思い出を大切につくる営みが重要です。

でも忘れないでください。その嘆き悲しむ残された家族も何十年後かには同じ道を歩むのだと。

逝ったひとの人柄やDNAはひとときは継承されていくではないですか。
毎日夜明けがきて太陽が照る以上、夜が終わることを悲しむばかりより、人生の昼間にいかに引き継いだものを新しい人生に生かしていくか…、これが一番の難事であり供養だろうと思うなぁ。

ゴーマンかましてすみません。
ええ、上記のことがら、まさしくそう思っているわけでして…。
それらをひっくるめて、「無限だな〜ぁ」と感じておりまして…。
で、そういうのを「ひとにぎりの死者を愛したひとの記憶のなかにのみ」というよりももう少し普遍的に感じます。
日記は、たまたまその日にあった一つの出来事で、きっかけとして引用したまでで〜す。

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